ルドルフ・シュタイナー

バガヴァッド・ギータとパウロ書簡 GA142

Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe


第2講

翻訳者:yucca

(2000.5.24登録/2000.11.26一部改訳)

1912年12月29日、ケルン


■概要

・バガヴァッド・ギーターの認識の基礎:

  太古の霊視の名残に浸透されていた前仏教的なインド文化の認識段階 

 ・サーンキヤ哲学と初期神智学運動の用語

 ・サーンキヤ体系におけるプラクリティ原理:

  形態(=霊的ー魂的なものがまとう覆い)の原理の展開 

 ・アハムカーラとマナス:統一的内感覚としてのマナスから個々の感覚の基礎が生じる 

 ・プルシャ(=個々の魂モナド)は個々の形態(=プラクリティ、覆い)のなかに下降展開していき、それを克服しつつまた上昇し、純粋なプルシャとなるためにプラクリティから解き放たれる 

 ・魂的なもの(プルシャ)と覆い原理(プラクリティ)との関係:三つのグナ、サットヴァ、ラジャス、タマス

 ・アリストテレスにおけるサーンキヤ体系の名残り

 ・ゲーテによるサーンキヤーアリストテレス的色彩論の新たな復興

 ・外的形態の原理と形態と魂の関係のみに向かう科学としてのサーンキヤ哲学、

  霊的高みへの魂の進化のための指針としてのヨーガ

 ・ヨーガの帰依の行は外的形態の根底にある霊的なものへと導く

 ・血によって人間の本性に霊視的な力が結びついていた時代から

  血縁に支配されない時代への移行、この移行期における指針としてのバガヴァッド・ギーター

 ・バガヴァッド・ギーターにおけるクリシュナのアルジュナへ教示:

  血縁を抜け出した時代への新たな教示が単に理念的にではなく

  直接心情のなかに働きかけるように語られる


 インド人の崇高な歌であるバガヴァッド・ギーター、これはーーすでに昨日申し上げましたようにーーしかるべき人物たちに、人類の最も重要な哲学的詩篇と呼ばれました。崇高なギーターに沈潜するひとは、この呼びかたにまったく異存はないでしょう。この連続講義にあたって私たちは、ギーターの高度に芸術的な美点についてさらに指摘することができるでしょう、けれどもまずさしあたっては、その根底にあるもの、力強い思考、この詩篇を育てた力強い宇宙認識、まさにこれを讃え、広めるためにこの詩篇は生み出されたのですが、この宇宙認識に注目することによって、この詩篇の意義が私たちの眼前に見えてくるようにしなければなりません。

 ギーターの認識の基礎となっているものにこのように眼差しを向けることがとくに重要なのは、実際この歌の本質のすべて、とりわけ思考内容、認識内容に関するすべてが、前仏教的[vorbuddhistisch]な認識段階を私たちに伝えるからです、すなわち、私たちはこう言うことができます、偉大なブッダを取り巻きブッダを育てた霊的地平、この霊的地平の特性がギーターの内容を通して私たちに示される、と。ーーつまりギーターの内容を私たちに作用させるとき、私たちは前仏教的な時代の古代インド文化の霊的組成を覗きこむのです。

 すでに強調したことですが、この思考内容は三つの精神(霊)潮流の合流であり、有機的なもの、生きたものとして、これら三つの精神潮流を単に互いに溶け合わせただけではなく、生き生きと互いのうちに織り込まれたもので、したがってこれら三つの精神潮流はギーターからひとつの全体として私たちに現れてきます。ここでひとつの全体として、太古のインドの思考と認識の霊的流出として現れてくるもの、これは、偉大なすばらしい智の立場であり、スピリチュアルな智の巨大な総和です、まだ精神科学(霊学)に近づいていない現代の人間は、こういう智の深み、認識の深みに対する何らかの観点を獲得する可能性がないゆえに、こういう智の深み、認識の深みに疑いの目を向けるしかないのですが。と申しますのも、通常の現代の手段をもってしては、ここで伝えられているあの智の深みのなかに入り込んで行けないからです。せいぜいのところ、ここで語られていることすべてを、かつて人類が夢見た美しい夢とみなすことができるくらいです。単なる現代的見地からこの夢を賛美することはできるかもしれませんが、この夢にとりたてて認識価値が置かれることはないでしょう。けれども精神科学を自らのうちに取り入れたなら、ギーターの深みを前に驚きつつたたずみ、こう言わざるをえないでしょう、太古の時代、人間の精神(霊)は、私たちがスピリチュアルな認識方法を徐々に制覇していってやっとまた獲得できる認識に浸透されていたのだ、と。こうして、過ぎ去った時代に現にあったこの太古の洞察への賛嘆の念が生じます。この洞察を宇宙内容そのものから再び見出すことができ、そうしてその真実さを確認することができるがゆえに、私たちはそれを賛美することができるのです。私たちはこれを再び見出し、その真実を認識しつつ、こう言うのです、いやはや驚くべきことだ、あのような太古の時代に人間がこれほどの霊の高みに飛躍することができたとは!

 さて、とはいえ私たちは、あのいにしえの時代において人類はとりわけ、太古の霊視の名残がまだ人間の魂のなかに生きていたことによって恩恵を受けていたことを知っています、しかも特別な、修行によって達成されたスピリチュアルな沈潜のみが霊界へと通じていたのではなく、あの古い時代の科学そのものも、古い霊視の名残が理念、認識のかたちで生み出したものになおもある種のしかたで浸透され得た、という恩恵を受けていたのです。

 私たちは自らにこう言い聞かせなければなりません、私たちが今日、私たちに伝えられることの正しさを知るのは、まったく別の理由からだ、と。私たちは、あのいにしえの時代においては人間の本質に関する精緻な区分が、別の手段で獲得されたことを理解しなければなりません、人間が知ることができるものから、精緻で鋭い概念が取り出されたのです、鋭い輪郭を持ち、霊的現実にも外的感覚的現実にも精確に適用できる概念がです。こうして、場合によっては、今日私たちが変化した立場に対して用いている表現を変化させるだけで、あのいにしえの時代の立場をも理解できる可能性が出てきます。

 私たちは、神智学的智の営みにおいて、次のように物事を示そうと試みてきました、現代の霊視的認識に明らかになるように、すなわち、霊人[Geistesmensch]がまさに今日、霊人自身の、霊人によって獲得されるべき手段で達成することができるものを、この精神科学の方法が示すようにです。神智学の告知の初期においては、このように隠された学から直接取り出された手段をもって行われることは稀であり、東洋において通常用いられている名称、概念ニュアンス、とりわけ東洋においてギーター時代からこの現代まで長い伝統を経て植え付けられてきた名称、概念ニュアンスが用いられました。したがって、神智学の展開のより古い形では、私たちはこれに現代の秘学的研究を付け加えなければならないのですが、この古い形においては、伝統として守られてきた古い概念、とりわけサーンキヤ哲学のそれの方がよく用いらていたわけです。ただ、東洋においてさえこのサーンキヤ哲学が次第に別種の東洋思想によって変形されていったように、神智学の告知の初期においても、人間の本質について、その他の秘密についてそのように語られました。物事はとりわけ、ヴェーダの智とその他のインドの智の八世紀における偉大な改革者、シャンカラチャルヤ(☆1)によって用いられた表現によって叙述されたのです。

 神智学運動の始まりにおいて、どのような表現が選ばれたかについてはあまりかまわず、ギーターの智および認識の基礎を得るために、きょうはむしろ太古のインドの叡智の宝とは何かということに注目してみることにいたしましょう。すると、いわばこのいにしえの時代の科学そのものを通じて得られるもの、とりわけサーンキヤ哲学を通じて獲得されるものがまず私たちに現れてきます。

 サーンキヤ哲学が人間の本性と性質をどのように観ていたかについて、最もよく理解できるのは、私たちがまず最初に次のような事実を目の前に置いてみるときでしょう、つまり、人間の全存在の根底には霊的な核心[Wesenskern]がある、という事実です、この核心を私たちはいつもこう言って魂の前に導き出しました、人間の魂のなかにはまどろんでいる力がある、未来の人類進化に伴ってますますはっきりと現れてくる力がある、と。

 私たちがまず最初に仰ぎ見ることができ、人間の魂が連れていかれるであろう最高のものは、私たちが霊人と名づけるものでしょう。いつか人間が存在として霊人の段階まで上昇したときも、人間は自分のなかに魂として生きているものを、霊人そのものからなおも常に区別することができるでしょう、ちょうど今日私たちが日常生活において、私たちの最奥部の魂的核心と、この核心を覆うもの、つまりアストラル体、エーテルあるいは生命体、及び物質体(☆2)とを区別することができるように。そして私たちが、この後の方の体を覆いとみなし、これらを本来の魂的なもの、私たちが今日の人類周期において、感受魂、悟性あるいは心情魂、意識魂という三つに分けているものから区別しているように、このように魂的なものを覆いのシステムから区別しているように、将来、本来の魂的なもの、これは未来の段階において現在の感受魂、悟性魂、意識魂に対応するふさわしい区分が与えられるでしょうが、この魂的なものと、私たちの言葉で霊人と呼ぶことのできる段階に達した覆いの性質とを考慮することができるでしょう。未来においていわば人間の霊的ー魂的核心を包む覆いとなるもの、つまり霊人は、なるほど将来はじめて人間にとっていわば有意義なものでしょう、けれども、広大な宇宙においては、ある存在がそれを目指して進化していくものは常にそこにあるのです。私たちがいつの日か自らを包むことになるであろう霊人の実質[Substanz]、これはいわば、大いなる宇宙のなかに常に在ったのであり、現に今も存るのです。私たちは、ほかの存在たちは、いつか私たちの霊人が形成するであろう覆いを今日すでに有している、と言うことができます。つまり宇宙には、いつの日か霊人が生じてくるであろう実質が現にあるのです。

 私たちの学説の意味で語りうることは、すでに古代のサーンキヤ説において語られています。このようにまだひとつひとつ分かたれず、いわばひとつの霊的水流のように分化されないままに時空を満たしつつ宇宙に存在するもの、かつてこのように存在し今このように存在しこれからもこのように存在するであろうもの、あらゆる形成を引き起こすもの、これをまさしくサーンキヤ哲学は実質の最高の形態(フォルム)と呼びました。これは、サーンキヤ哲学において永遠から永遠へとみなされるあの実質の形態です。そして私たちがたとえばこう語るようにーー私がかつてミュンヒェンで創世記の精神科学的根拠づけについて行いました連続講義(☆3)のことをここで考えてみてくださいーー、地球進化の出発点において、地球進化となったものはすべて、霊存在として霊のなかにまだ実質としてに存在していたということについて語るように、このようにサーンキヤ哲学はその原質[Ursubstanz]について、その源流[Urflut]について語ってきた、と言うことができるでしょう、他のあらゆる形態が、形而下的にも、形而上的にもそこから展開してきた源流についてです。今日の人間には、この最高の形態はまだ考慮されるに至っておりませんが、今議論いたしましたように、将来考慮されることでしょう。

 この実質の源流から展開してくる次の形態として、私たちが人間の上から二番目の構成部分として知っているものを見なくてはなりません、私たちが生命霊と呼んでいるもの、あるいは東洋的な言い方でブッディと呼ぶことができるものです。ご存じのように私たちの学説でも、人間は通常の生においては未来においてはじめてこのブッディを発達させるだろうとされています。しかしブッディは霊的な形態原理として、他の存在たちにおいては超人間的にいつも存在していたのであり、存在していたがゆえに、これは最初の形態として根源的な源流から分化されてきたのです。サーンキヤ哲学の意味において、実質的現存の、魂の外部にある現存の最初の形態から、ブッディが生じるのです。

 私たちがこの実質の原理のさらなる進化に注目するなら、第三の形態として、サーンキヤ哲学の意味でアハムカーラ[Ahamkara]と呼ばれるものが登場してきます。ブッディがいわば分化原理の境界に位置して、ある種の個別化を最初に暗示しているのに対し、アハムカーラという形態はすでに完全に個別化されて現れてくるので、私たちがアハムカーラについて語るなら、私たちはいわばこう想定しなければなりません、ブッディは独立した、本質的な実質的な形態、それゆえ世界のなかで個別的に存在する形態へと下降しつつ作り上げられる、と。この進化について私たちがイメージを得たいなら、実質的源流として均等に分散されていた水が、次いで沸き立ち、個々の、完全な水滴にまでは分離されない形態を形作る、共通の実質から小さな波頭(水の山)のように少し隆起しているけれども、その底の部分は源流の内部で共通しているような形態を形成する、というふうな想定をしなくてはならないでしょう。これがブッディと言えます。さらにこの波頭が水滴へと、独立した球体へと分かたれると、アハムカーラという形態となります。このアハムカーラ、つまりすでに個別化された形態、一つ一つの魂形態がある種の濃密化をすることで、マナスと呼ばれるものが生じます。

 ここで私たちは、私たちの名称に対してある種の、もしかしたら不均衡と呼ばれるべき問題が生じてくる、と言わなければなりません。私たちの学説に従って人間の進化を上から下へと辿りますと、私たちは生命霊あるいはブッディのあとに霊自己(ガイストゼルプスト[Geistselbst])を置きます。この命名は、今日の人類周期にとってはまったく当を得たもので、この連続講義を進めていくなかでなぜこれが正当なのかさらに見ていきましょう。私たちは、ブッディとマナスの間にアハムカーラを入れるのではなく、私たちの概念ではアハムカーラとマナスを一致させ、これを一緒に霊自己と呼びます。あのいにしえの時代にあってはこれらを分けるのはまったく当を得たことでした、その理由を今日は暗示するだけにしておきますが、後日さらにお話しいたします。[アハムカーラとマナスを]分けることが正しかったのは、今のこの時代に理解できるように語ろうとすれば、今日私たちが与えなければならないあの重要な特徴づけ、一方ではルツィファー原理の影響、他方ではアーリマン原理の影響から来る特徴づけを、当時はまだ与えることができなかったためです。この特徴づけがサーンキヤ哲学にはまったくもって欠けていました。この両原理を眺めることに至らなかった構成にとっては、ブッディとマナスの間に、この個別化する形態を加えることはまったく正しかったのです。つまり私たちがサーンキヤ哲学の意味でマナスについて語るなら、私たちは、シャンカラチャルヤの意味でマナスとして語られるものと厳密に同じものについて語っているわけではありません。シャンカラチャルヤの意味ではマナスとガイストゼルプストをまったく同一とすることができますが、厳密にサーンキヤ哲学の意味ではそうできないのです。けれども私たちは、サーンキヤ哲学の意味で本来マナスとは何なのかを厳密に特徴づけることができます。

 ここで私たちは初めて、人間がいかに感覚世界に、物質的生存に生きているかということを出発点とします。物質的生存において人間はまず、その感覚で環境を知覚し、その触覚器官、手足により、つかみ、歩き、さらには話すことを通して逆にこの物質的環境に働きかけます。人間はその感覚を通じて環境を知覚し、物質的な意味で触覚器官を通じて環境に働きかけるのです。サーンキヤ哲学の意味でこれもまったくそのように語られています。けれども人間はどのようにして感覚によって環境を知覚するのでしょうか。さて、私たちは眼で光と色を、明るさと闇を見、物の形も見ます。私たちは耳で音を知覚し、臭覚器官で匂いを、味覚器官で味の印象を感じ取ります。どの感覚もそれぞれ、外界のある特定の領域を知覚します、視覚は色彩と光を、聴覚は音を、などなど。私たちは、私たちが感覚と呼ぶこのこの存在の門を通して環境と関わり、私たちを環境へと開きます、けれども個々の感覚を通じて私たちが接近するのは環境のまったく特定の領域なのですが。

 さて、私たちの日常言語からしてもう、私たちが内部に、感覚が志向するこれらさまざまな領域を統合する何かを原理として持っていることを示してくれます。私たちはたとえば、暖色と寒色について語ります、これはさしあたり私たちの状況にとって単に比喩的なものにすぎない、私たちはやはり感情の感覚を通して冷たさと暖かさを、視覚を通して色彩を、明るさと闇を知覚するのだ、と感じるにしてもです。つまり私たちは、暖色と寒色について語り、私たちが感じるある種の内的な親和性から、ある感覚が知覚するものを、別のものに適用するのです。私たちがこのように表現するのは、私たちの内部で、ある種の視覚が、私たちの熱感覚によって知覚されるものと溶け合っているからです。繊細に感じ取る人々、鋭敏な人々は、ある種の音を聞いて、ある種の色彩を内的に思い浮かべさせられるように感じることができます、ですから、彼らのなかに赤の色彩表象を呼び起こすある音について、あるいは彼らのなかに青の色彩表象を呼び起こす別の音について語ることができるのです。つまりわたしたちの内部には、個々の感覚領域を統合する何か、魂にとってのひとつの全体を個々の感覚領域から形成する何かが生きているのです。

 鋭敏であればさらに進むこともできます。たとえば、ある町に行くと、この町は私には黄色い町という印象だ、と言い、また別の町に行くと、この町は赤い町という印象だ、また別の町は白、あるいは青、と言う、こういうふうに感じる人々がいるのです。私たちは、私たちに働きかけるものの総計を私たちの内部で色彩表象に置き変えます、私たちは個々の感覚印象を私たちの内部でひとつの全体感覚[Gesamtsinn]と統合します、感覚領域ひとつひとつに向けられるのではなく、私たちの内部に生き、私たちが感覚印象のひとつひとつを加工することにより、ひとつの統一的知覚で満たすように私たちを満たす、そういう全体感覚と統合するのです。私たちはこれを内感覚と呼ぶことができます。私たちが通常、苦しみと喜び、激情と情動において単に内的に体験するものすべてをも、この内感覚が与えてくれるものと一緒にすることができるので、私たちはそれだけいっそうこれを内感覚と呼ぶことができるのです。私たちはある激情を暗く冷たい激情と呼ぶことができ、また別のそれを暖かい、光に満ちた、明るい激情と呼ぶことができます。

 つまり私たちの内部は、内感覚を形成するものに作用を返している、私たちはこう言うこともできます。私たちが外界の個々の領域へと向ける多くの感覚に対して、私たちの魂を満たすこのようなひとつの感覚について語ることができます、これについて私たちは、この感覚は個々の感覚器官とは関係ない、私たちの人間存在全体がその道具として用いられるのだ、ということを知っています。この内感覚をマナスと呼ぶことはまったくサーンキヤ哲学の意味においてです。この内感覚を実質として形作るもの、これは、サーンキヤ哲学の意味において、後の形態所産としてアハムカーラから展開してくるものです。したがって私たちはこう言うことができます、最初に源流、次いでブッディ、次いでアハムカーラ、次いで、私たちの内部に内感覚として見出されるマナス、と。この内感覚を観察したいと思うとき、私たちは個々の感覚を取り上げ、個々の感覚による知覚が内感覚のなかで互いにつなぎ合わされているということによってどのような想定ができるかいわば確かめてみるということによって、この内感覚を今日私たちは明確に理解します。今日私たちがそうするのは、認識の方向が逆転しているからです。私たちの認識の展開を眺めるとき、それは個々の感覚の差異から出発し、共通感覚へと上昇することを目指す、と言わざるを得ません。けれども展開は逆なのです。宇宙生成においてまずアハムカーラからマナスが展開し、次いで原物質[Ursubstanzen]が、私たちの内部に感覚として備わっている個々の感覚を形成する力が分化しました、ただしこれは物質的感覚器官ーーこれは物質体の一部ですがーーのことではなく、まったくもって超感覚的な形成力[Bildekraefte]として根底にある力のことですが。つまり私たちが展開形態の階梯を降りていきますと、私たちはサーンキヤ哲学の意味で、アハムカーラからマナスへと至り、そしてマナスが個々の形態に分化して、私たちの個々の感覚を構成する超感覚的力を生み出すのです。

 このように、私たちが個々の感覚を見るとき、魂がこれらの諸感覚に参加するので、サーンキヤ哲学が今与えてくれるものを、私たちの学説の内容でもあるものに対比することが可能です。と申しますのも、サーンキヤ哲学は次のように語るからです、マナスが諸感覚の個々の宇宙力へと分化しうることで、魂はこれら個々の形態に沈潜するーー私たちが知っていますとおり、魂はこれらの形態から区別されますーー、けれども、魂がマナスのなかへと沈潜するように、魂がこれらの個々の形態のなかへと沈潜することで、魂的なものは、これらの感覚力を通じて作用し、これらの感覚力と編み合わされ織り合わされる。そうすることによって魂的なものは、その霊的ー魂的な本質から外界との結び付きを得、外界を好むことができるようになり、外界に喜び、共感を感じることができるようになる。

 つまりたとえば、眼を構成する力実質はマナスから分化したのです。以前の段階においては、つまり人間の物質体がまだ今日のような形態をとっていなかった頃ーーサーンキヤ哲学はこのように表象しますーーには、魂はまさに、眼を構成する単なる力のなかに沈潜していました。私たちが知っていますように、今日の人間の眼は、なるほど土星段階においてもうその素地を与えられてはおりましたが、今日松果腺のなかに萎縮して私たちの前に姿を見せている熱器官が後退したあとにようやく、つまり比較的後になってから発達しました。これを発達させた力は、超感覚的にはすでに存在していたのであり、魂はそのなかに生きていたのです。サーンキヤ哲学はさらに語りますーー魂がこれらの分化原理のなかに生きることにより、魂は外界の存在 [Dasein]に愛着し、この存在への渇きを生み出すのだ、と。感覚力を通じて魂は外界と関わりを持ちます。存在への愛着が、存在への欲求が生まれます。魂はいわば、感覚器官を通じてその触覚を送り出し、外的な存在と力的[kraftmaessig]に関わりを持つのです。諸力の総体として、諸力のリアルな総体として捉えられたまさにこの力的な関わりを、私たちは人間のアストラル体のなかで統合します。サーンキヤ哲学は、マナスから分化されてきた個々の感覚力のこの段階における共同作用について語っているのです。

 この感覚諸力からさらにまた精妙なエレメントが生じます、人間のエーテル体はこれらから作られていると私たちが考えているものです。これは比較的後になってからの産物です。私たちは人間のなかにこのエーテル体を見出します。

 つまり私たちはこのように思い描かなければなりません、展開[Entwickelung]にともなって、源流、ブッディ、アハムカーラ、マナス、感覚実質、精妙なエレメントが形成されてきた、と。外界、自然界にも、これら精妙なエレメントはエーテル体ないし生命体として存在していますね、たとえば植物の場合です。ここで私たちは、サーンキヤ哲学の意味で、この進化[Evolution]全体の根底にあるものは、植物の場合、上から下へと源流から下降してくる展開なのだ、というふうに思い描かなければなりません。ただ、植物の場合、このすべてが超感覚的なもののなかで起こり、植物のエーテルないし生命体のなかに生きている精妙なエレメントへと濃密化してはじめて物質界において現実(リアル)となるのですが、他方人間の場合は、現在の進化においてすでに、より高次の形態と原理がマナスから物質的に顕現しています。個々の感覚器官が外的に顕現させられているのですが、植物の場合、あの後になってからの産物が、感覚実質が精妙なエレメントへ、エーテル的なエレメントへと濃密化してはじめて生じます。そして、エーテル的なエレメントがさらに濃密化して、粗雑なエレメントが生じます、物質界で私たちが出会うすべての物質的なものはこのエレメントからできています。つまり私たちが下から上へと進むと、サーンキヤ哲学の意味で、人間を次のように分けることができます、粗雑な物質体、精妙なエーテル体、アストラル体ーーこの言い方はサーンキヤ哲学では使われず、代わりに諸感覚を構成する力体という表現がされますがーー、そして内的感覚つまりマナス、そしてアハムカーラ、つまり人間の個の根底にあり、単に人間が個々の感覚領域を知覚する内感覚を持つだけでなく、人間が自らを個別の存在そして、個として感じることができるようにする原理。アハムカーラはこういうことを引き起こすのです。さらに人間のなかに素質として備えられているさらに高次の原理が来ます、ブッディと、通常の東洋哲学でアートマンと呼び慣わされているもの、私たちが特徴づけたように、サーンキヤ哲学により霊的源流として宇宙的なものと考えられているものです。

 このようにサーンキヤ哲学においてはいわば、人間の構成が完全に描き出されているのがわかります、この人間が、過去、現在、未来において、魂として実質的な外的自然原理をいかに身にまとうか、その際、自然のもとでは単に外的なもの、可視的なもののみではなく、不可視のものに至るまで自然のあらゆる段階が理解されていたのですが、そのようすが描き出されているのがわかるのです。このようにサーンキヤ哲学は私たちが今述べました諸形態を区別します。

 そして、形態あるいはプラクリティのなかに、つまりあらゆる形態を粗雑な物質体から上は源流にいたるまで包括するこのプラクリティのなかに、プルシャ[Purusha]が、霊的ー魂的なものが生きています、ただしこの霊的ー魂的なものは個々の魂のなかにモナド的に表わされるので、個々の魂モナドは、この物質的(マテリアルな)原理であるプラクリティーー物質的というのは今日の唯物論的な意味ではありませんがーーが始めもなく終わりもないと考えられるのと同様に、いわば始めもなければ終わりもないものと考えられます。この哲学はつまり、魂の多元論[Pluralismus]を表象しています、魂がプラクリティ原理のなかへと沈んでいき、魂が包まれていた最高の、分割できない源流の形態から、粗雑な物質体への受肉へと下降展開していき、それからまた逆行を始め、粗雑な物質体を克服したのち再び上昇発展していって、再び源流へと帰還し、自由な魂として純粋なプルシャへと入っていくためにこの源流からも自らを解き放つ、そういう魂の多元論です。

 私たちがこのような認識を私たちに作用させますと、いわばこの太古の叡智の根底にあるものは、私たちの魂的な沈潜が与えてくれる手段によって私たちが今日ふたたび獲得するものだということがわかります。さらにサーンキヤ哲学の意味で、この形態原理のそれぞれと魂がいかに結び付けられうるか、そのしかたへの洞察も存在していることがわかります。魂はたとえば、魂がいわばその完全な独立性をブッディの内部でできるかぎり保つ、つまり、ブッディではなく、魂的なものが優勢に働く、というふうにブッディと結びつくことができます。逆の場合もあり得ます。魂がいわば眠りのようなしかたで、なげやりで怠惰にその独立性を覆うこともあります、すると、覆いの性質が全面に出てきます。これは、粗雑な物質から出来ている外部の物質的自然においても当てはまることです。私たちはここで人間を観察してみさえすればよいのです。もっぱら魂的ー霊的なものが表面に出ていて、そのため粗雑な物質体を通じて伝えられるあらゆる動き、あらゆる身振り、あらゆる眼差しが、霊的ー魂的なものがそこに現れているという事実に対して後退している、そういう人がいます。私たちの前にひとりの人間がいて、彼の粗雑な物質体が私たちの前に立っているのを見ます、その人の動き、身振り、眼差しのなかで何かが私たちに示され、私たちはこう言うのです、この人は、まったく霊的ー魂的であり、彼は物質的原理を、この霊的ー魂的なものがそこで生きるためにのみ用いる、と。物質的原理は彼をうち負かすことはなく、彼はいたるところで物質的原理に対する勝利者なのです。

 魂が外的な覆いの原理[Huellenprinzip]をうち負かしているこの状態はサットヴァ状態です。このサットヴァ状態については、魂のブッディ及びマナスに対する関係の場合にも、精妙なエレメントと粗雑なエレメントから成る体に対する魂の関係の場合にも、語ることができます。と申しますのも、魂がサットヴァのなかに生きている、と言うとき、これは魂の、魂を覆うものに対するある特定の関係、当の存在における霊的原理の自然原理に対する関係、プルシャ原理のプラクリティ原理に対する関係のことを意味しているに他ならないからです。

 けれども私たちはまた、粗雑な物質体にまったくうち負かされているひとーーと言っても今このことに道徳的な性質を付与する必要はありません、サーンキヤ哲学の意味における純粋な特徴づけであって、私たちの霊眼の前に現れるにしても、何らかの道徳的性格づけということではありませんーーを見ることもできます、いわば自分の物質体の重みの下に歩き、肉をたくさん付け、あらゆる身振りに物質体の物質的重みがかかっていて、魂的なものを外的物質体のなかに表現したくてもなすすべを知らない、そういう人が私たちの前に登場することもあるのです。

 魂が語るとおりに私たちが顔の筋肉を動かすとき、サットヴァ原理が支配します。顔の脂肪の塊が私たちに特定の相貌を刻むとき、魂的原理が外的物質的な覆い原理に圧倒され、このとき魂は、自然原理に対するタマスの関係のなかで生きます。そして両者の間で均衡が支配するとき、サットヴァ状態の場合のように魂的なものが優勢なのでもなく、タマス状態の場合のように外的に覆い的なものが優勢なのでもなく、両者が均衡を保っているとき、このときはラジャス状態について語られます。これらはとくに重要な三つのグナ[Guna]です。

 つまり私たちは、プラクリティの個々の形態、分けられない原質の最高の原理から、下は粗雑な物質体に至るまでの特徴づけを区別しなければなりません、これはひとつの特徴づけ、覆いの原理のみの特徴づけです。覆いの性質のなかのどんな形態であるかに関係なく、魂的なものの覆いに対する関係を特徴づけるべくサーンキヤ哲学が有しているものを、私たちはこの[覆いの原理の]特徴づけから区別しなければなりません。この特徴づけは、サットヴァ、ラジャス、タマス、という三つの状態によって与えられます。

 今、いわばこのような認識が深く入り込んでいくものを正しく目の前に導き出してみましょう、あらゆる存在するもののこのように包括的な特徴づけを与えることができた、あのいにしえの時代の認識、科学が、存在の秘密をいかに深くのぞき込んでいたか、ひとつ見ていこうではありませんか。ここでまさしくあの驚きが私たちの魂に近づいてきます、これについてはもう語られましたが、私たちはこう言うのです、人類の進化史においてもっとも驚嘆すべきことのひとつは、暗い霊の深みから今日精神科学のなかに再び現れてきたものが、すでにあのいにしえの時代に存在していたことだ、と。それは当時別の手段によって達成されたのですが。これらすべては、かつて存在していたひとつの智だったのです。私たちが霊の眼差しを特定の太古の時代に向けるとき、この智が目にとまります。さらに私たちはそれに続く時代に目を向けます。私たちは、古代ギリシア時代においてさまざまな時期の霊内容として通常私たちに紹介されるものを見ます、また、古代ギリシアに続く時代つまりローマ時代において、またキリスト教中世の時代において。私たちは、より古い文化が近代まで与えてきたもの、精神科学が人類の原初の智[Urwissen]に劣らない何かを再びうち立てた時代になるまで与えてきたものを見ます。私たちはこのすべてを見渡し、こう言うことができます、これらの時代にはしばしば、あの原初の智への単なる予感さえもが欠けていた、と。存在のあの壮大な領域の認識に代わって、超感覚的、包括的な古い認識に代わって、単なる外的物質的存在の認識が脚光を浴びるようになってきました。実際のところ、三千年にわたる進化の意味とは、古い原初の智の代わりに、物質的物理的な場の外的な智がますますいっそう場所を占めるようになったということだったのです。

 そして、物質的な領域にのみ残っていたということーー皆さんにこう述べることを差し控えたくないと思いますーーギリシアの哲人の時代にもまだ、古いサーンキヤの智の名残りのいくばくかが残っていたということを見るのは興味深いことです。本来の魂的なものに対しては、アリストテレスはなるほどまだいくらかの名残りを有していましたが、その名残りはもはや、完全な明晰さという点で古いサーンキヤの智と一緒に並べることができるものではありません。アリストテレスはそうしばしばこれに言及しませんが、彼においてもまだ、人間の本質の粗雑な物質体への区分(☆4)が見出されます、ただこの区分をする際、アリストテレスは自分は魂的なものを与える、と考えているのですが、サーンキヤ哲学は、これらが覆いにすぎないことを知っています。私たちには、植物の[vegetative]魂が、サーンキヤ哲学の意味での精妙なエレメント体と一致するであろうことがわかります。アリストテレスはこれで何か魂的なものを与えていると考えていますが、単に魂的なものと体的なものとの間の関係、つまりグナの特徴を述べているのであり、特徴づけとして与えられるもののなかに、彼はまさに覆いの形態のみを与えているのです。次いでアリストテレスは、感覚領域のなかにまで延びてくるもの、私たちがアストラル体と呼ぶものに対して、彼が魂的原理として区別する何かを与えます。つまり彼はもはや、魂的なものを、体的なものからはっきりと区別していないのです、彼にとって魂的なものが、すでに体的に形態をとったもののなかに沈み込んでいるからですが、彼はアイステティコン[Aisthetikon]を区別し、さらに魂的なもののなかで、オレクティコン[Orektikon]、キネティコン[Kinetikon]、ディアネティコン[Dianoetikon]を区別します。これらはアリストテレスの意味における魂的な諸段階ですが、アリストテレスにおいてはすでにもはや、魂的なものと覆い的なものとがはっきりと区別されているとは言えません。アリストテレスは、魂を区分すると信じていますが、他方サーンキヤ哲学は、魂をそれ自身の本質においてまったくモナド的に把握し、魂を細分化するものをすべて、覆い原理のなかへ、プラクリティ原理のなかへ、いわば外部へと移し替えたのです。

 つまり魂的なものにおいては、アリストテレスの場合でさえすでにもう、私たちがサーンキヤ哲学のなかに発見するあの太古の学への追想を語ることができるたような状況ではないのです。けれども、物質的(マテリアル)な領域とでもいうものにおいては、アリストテレスはまだ、三つの状態の原理が響いてくるような何かを語るすべを心得ています、彼が色彩における光と闇について語るとき(☆5)がそうです。彼は言います、自身のうちに闇をより多く持つ色彩と、より多く光を持つ色彩と、その中間に位置する色彩がある、と。ーーアリストテレスの意味では、次のように言うときがそうなのです、つまり、青と菫色に向かう色彩の場合、暗さが光を凌(しの)いでいる、そして闇が光を凌ぐということによって、色彩は青及び菫色になる、さらに、両者の間に均衡が保たれていることによって色彩は緑あるいは黄緑色になり、光原理が闇を凌ぐとき、色彩は赤みがかった色あるいはオレンジ色になる、と。

 サーンキヤ哲学においては、この三つの状態の原理は宇宙(世界)観を全体的に包括するためのものです、霊的なものが自然的なものより優勢であればサットヴァが得られます。アリストテレスは、色彩について語るときにはまだ、この同じ特徴づけを有しています。彼はこの言葉を用いてはいませんが、こう言うことができるでしょう、赤と黄赤は光のサットヴァ状態を示しーーアリストテレスの場合もはやこの表現法は用いられませんが、彼の場合にはまだ古いサーンキヤ原理が存在しているのですーー、緑は光と闇に関してラジャス状態を示し、闇が優勢である青と菫色は、光と闇に関してタマス状態を示している、と。アリストテレスがこういう表現を用いないとしても、サーンキヤ哲学において宇宙(世界)状態の霊的把握から私たちに姿をみせる思考方法が、まだ入り込んできているように見えます。

 つまり、アリストテレスの色彩論のなかに、古いサーンキヤ哲学の余韻がみとめられるのです。けれどもこの余韻は失われてしまいました。そして私たちが、色彩世界の外的領域における、サットヴァ、ラジャス、タマスというこの三つの状態の最初の輝きを体験するのは、ゲーテが行った厳しい闘いにおいてです。と申しますのも、色彩世界をサットヴァ、ラジャス、タマス状態へと区分する古いアリストテレス的分類がまったく埋葬されてしまった後、同じものがふたたびゲーテにおいて現れるからです。今日まだ現代の物理学者たちにはそしりを受けていますが、ゲーテ的色彩論は、まさに霊的叡智の原理から引き出されてくるのです。今日の物理学がこの問題においてゲーテを認めないとしても、その立場からすれば正しいのですが、これは、今日の物理学はこういう事柄においてまさしくすべての良き神々から見捨てられている、ということを示すにすぎません。今日の物理学にとっては当然のことですが、そういうわけで物理学はゲーテの色彩論を罵ることができるのです。

 しかし今日の真の科学を隠された(オカルトの)原理と結びつけようとするなら、今日ほかならぬゲーテ的色彩論を支持せざるを得ないでしょう。と申しますのも、ここでふたたび、私たちの科学文化のさなかから、かつてサーンキヤ哲学における霊的原理として優勢であった原理が浮かび上がってくるからです。愛する友人の皆さん、私がなぜたとえば何年も前に、ゲーテ的色彩論の物理学としての真価を、ただしオカルト的原理に基づいた物理学ですが、真価を再び発揮させることを課題としていたか(☆6)、ご理解いただけるでしょう。と申しますのも、ゲーテはサットヴァ、ラジャス、タマスという三つの状態にしたがって描くことで色彩現象を分類する、と、まったく事実に即して言うことができるからです。このように、新たな手段によって研究されて霊の闇から新たな精神史のなかへと出現してくるように、かつて人類にまったく別の手段を通じて獲得されていたものが現れてきます。

 このサーンキヤ哲学は、前仏教的なものであり、これは実際ブッダ伝説を手に取るようにありありと私たちの眼前に見せてくれるとでも申し上げたいものです。と申しますのも、インド的教義が、サーンキヤ哲学の祖はカピラだと語るのは正しいからです。ブッダはカピラヴァストゥ(☆7)のカピラの居住地で生まれました、このことはブッダがサーンキヤ学説から育ってくることを示唆しています。ブッダ自身がその誕生を通じて、この偉大なサーンキヤ哲学を初めて集大成した人がかつて影響を与えた場所に置かれたのです。

 このサーンキヤ説の、私たちが語ってきました他の精神潮流への関係を思い浮かべてみなければなりません、今日の西洋の東洋学者たちの多くが描いているようにでもなく、イエズス会士ヨーゼフ・ダールマン(☆8)が描いているようにでもなく、これら三つの精神潮流が形成された当時は人類進化の一番最初の原初状態はもはや存在していなかったために、古代インドのさまざまな分野に異なった人々が生きていたことをです。

 そうですね、インドの北東地域においては、人々の性質は、サーンキヤ哲学において与えられているように表現しようとする衝動を感ずる、というようなものでした。そこから西部に行くと、人間の性質は、世界をヴェーダ説の意味で表そうとする衝動を感じる、といったものでした。つまり個々のの霊的ニュアンスは、インドのさまざまな地域におけるさまざまな素質の人間性質から発し、ヴェーダンティストが手を加えることによって後になってはじめて挿入されたものもあり、その結果、今私たちの前に姿を現すヴェーダのなかには、サーンキヤ哲学から多くが挿入されていることがわかります。そして、第三の精神方向であるヨーガーーもうすでにお話ししましたがーーが登場します、なぜなら、原初の霊視は徐々に消え去り、霊の高みへの新たな道を探さなければならなかったからです。サーンキヤの考察が本来真正の科学であり、外的形態めがけてゆく科学であり、これは本来これらの形態と、さらには人間の魂のこれら形態への相互関係を把握するのみである、ということによって、ヨーガはサーンキヤの考察から区別されます。霊的高みに至るために魂はどのように進化してゆくべきか、ということに対しては、ヨーガが指針を与えるのです。

 そして私たちが次のように問うならば、つまり比較的後の時代に、あるインドの魂が、一面的に進化を欲したのではなく、単なる外的な形態の観察によって前進することを欲したのでもなく、恩寵に満ちた光明によって根源的にヴェーダに与えられていたようなものを再び展開させるために、魂的な存在そのものをも上昇させようとしたあるインドの魂が、どのようにふるまわなくてはならなかっただろうか、と問うならば、崇高な歌のなかでクリシュナが弟子のアルジュナに与えるもののなかに、私たちは答えを得ます。

 このような魂は、次のような言葉で表現できるように進化していかなければならなかったでしょう。そうだ、お前は外的形態のなかに世界を見る、そしてサーンキヤの智に浸透されるとき、お前は個々の形態がいかに源流から展開下降してくるかを見るのだ。けれどもお前は、いかに諸形態が入れ替わり立ち替わり移り変わっていくかも見る。お前の眼差しは形態の発生と消滅を追い、お前の眼差しは形態の誕生と死を辿る。けれどもお前が、いかに形態から形態へと移り変わっていくか、いかに形態が生じ滅するかを徹底的に考え抜くなら、お前の省察はこれらすべての形態のなかに自らを表すものを指し示すのだ、お前の徹底的な省察は霊的原理を指し示すのだ、これらの形態のなかに生き、これらの形態の内部で変転し、あるときはサットヴァに従って、あるときは他のグナに従って諸形態と結びつくけれども、これらの形態からまた自らを解き放つ霊的原理を。このような徹底的な省察は、諸形態に対して不変の、移ろわない何かをお前に指し示す。なるほど物質的原理も不変である、しかしお前が見ている諸形態は不変ではない、それらは生成し、生じまた滅し、誕生と死を通過していく。しかし魂的ー霊的エレメントは不変である。これにお前の眼差しを向けるのだ!けれどもお前がこの魂的ー霊的なものそのものを体験することができるためには、お前がこの魂的ー霊的なものを、お前のうちにもお前の周りにも、お前とひとつであると感じつつ体験することができるためには、お前は、お前の魂のなかにまどろんでいる力を発達させねばならない、お前はヨーガに帰依しなければならない、存在[Dasein]の魂的ー霊的エレメントへの敬虔な眼差しをもって始まり、特定の行を用いることによりまどろんでいる諸力の開発に導くヨーガに。こうして弟子はヨーガを通じて段階を追って上昇していくことになるのだ。霊的ー魂的なものへの敬虔な崇拝、これが魂そのものを前へと導く別の道である、変転する諸形態の背後に一なるものとして霊的なものとして生きているもの、かつてヴェーダが恩寵に満ちた光明によって告げ知らせたもの、魂がヨーガを通じて、形態のあらゆる変転の背後に探し求められるべきものとして再発見するであろうものに導く別の道である。

 このように進むがよいーー最高の師は弟子にこう語ることができたでしょうーー、このようにサーンキヤ哲学の、形態の、グナの智を通って進むがよい、サットヴァ、ラジャス、タマスについての観察を、最高の物質性[Stofflichkeit]から最も粗雑な物質性までの観察を通って進むがよい、このように理性にのっとって通過して行き、こう言うがよい、不変のもの、一なるものが存在するはずだ、と。そうすれば、お前は思考しつつ永遠に至る。けれどもお前は魂において帰依から出発することもできる、このときお前はヨーガを通じて段階を追って突き進み、あらゆる形態の根底にある霊的なものへとこうして突き進んで行く。二つの面からお前は永遠のものに近づくことができる、宇宙(世界)を思考しつつ観察することを通して、そしてヨーガを通じてである、両者はお前を、偉大なヴェーダの師たちが一なるアートマンーブラフマンと名づけたものへと導く、外部に生きるとともに魂の内部にも生きているもの、一なるものとして宇宙の根底にあるものへ。お前はこれに向かって突き進む、一方ではサーンキヤ哲学を通して思考しつつ、他方ではヨーガを通じて帰依しつつ歩むことによって。

 このように私たちは古い時代を振り返ります、当時はいわばまだ、『血はまったく特別の体液だ』という著作に示しましたように、血を通じて人間の本性に霊視的な力が結びついていました。けれども人類は、進化にともなって徐々に、血に結びついたあの霊視的原理からより魂的ー霊的原理へと前進して行ったのです。

 けれども、種族と民族の血縁関係のなかで素朴に獲得されていた魂的ー霊的なものとの関係が失われていないがゆえに、この関係が失われていないがゆえに、血縁関係からもはや血縁関係が支配しない時代への移行に際して、新たな方法が、新たな指針が与えられねばなりませんでした。新たな方法へのこの移行にあたって、私たちを導くのがこの崇高な歌、バガヴァッド・ギーターです。そしてギーターは、クル族とパーンドゥ族出身の王族の兄弟の後裔たちがいかに互いに闘うかを物語ります。私たちは一方で、ギーターの内容が始まる過ぎ去った時代を仰ぎ見ます、いにしえのインドの人間の智慧と行いがこの智慧の意味でまだ存在していた時代です。私たちはいわば、、クル族出身の盲目の王ドリタラーシュトラにおいて古い時代から新しい時代へと入り込んできたひとつの線を見ます。そして私たちはドリタラーシュトラを御者との対話において見ます。彼は闘う者たちの側に立ち、他方には、古い時代から新しい時代への過渡期にあるがゆえに、彼の血縁でありながら戦闘状態にある者たち、つまりパーンドゥの息子たちが立っています。そして御者は王に物語ります、王が盲目と叙述されているのは私たちにはじゅうぶん特徴的なことです、なぜなら霊的なものはこの種族のなかでは受け継がれていかず、物質的なものだけだからですが、この盲目の王に御者は物語ります、向こうのパーンドゥの息子たちのところで、より霊的ー魂的なものとして後世に伝わるべきものはここに移行していくべきなのですが、そこで何が起こっているかを。さらに、闘う者たちの代表であるアルジュナが、偉大なクリシュナから、人間の教師から、向こうで何を教わったかを御者は物語ります、御者は語ります、私たちが今お話ししましたすべてのことにおいていかにクリシュナが弟子アルジュナを教え導くかを、人間がサーンキヤとヨーガを用い、思考と帰依を発達させ、人類のかつての偉大な師たちがヴェーダのなかに書き留めたものへと上昇していくとき、人間はどこまで行くことができるかを。そして、哲学的であると同時に詩的な言葉のなかで壮大に、クリシュナを通じて、血縁関係から抜け出した新たな時代における人類の偉大な師を通じて、私たちに教えが語られるのです。

 このように私たちは、ここで何か別のものがなおも古い時代から輝きを発してくるのを見ます。『血はまったく特別の液体だ』という著作の根底にあるあの考察、そしていくつかの同様な考察において私たちは、人類進化がいかに血縁関係の時代から発して後の細分化に至ったか、そしてそれと共にいかに魂的な苦闘が変化したかを示唆しました。そして崇高な歌、バガヴァッド・ギーターにおいて、私たちは直接この移行に導かれます、クリシュナによるアルジュナへの教えのなかで、血に結びついた古い霊視をもはや身につけていない人間がいかに移ろわぬものへと上に突き進んでいかなければならないかが示される、というかたちで導かれるのです。私たちがしばしば人類進化の重要な移行として観察してきたものがこの教えのなかで私たちに姿を現します。このように私たちにとってこの崇高な歌は、私たちが事物そのものから観察してきたものを描き出す図[Illustration]となるのです。

 そしてこのバガヴァッド・ギーターにおいてとりわけ私たちを引きつけるのは、ここで人間の道について強く訴えかけるように語られるその語られかた、移ろうものに対する移ろわぬものへの人間の道についてありありと語られるしかたです。ここで最初アルジュナは深い懊悩に満ちて私たちの前に立っていますーーこのことを私たちは御者の語りから聞きます、なぜなら語られることは、盲目の王ドリタラーシュトラの御者の口から発しているからですーー、ここでアルジュナは懊悩を抱えて私たちの前に立っています。彼は、クル族と、彼の血縁の者たちと闘いつつ、自らを見つめます、そして今や彼はこう自問します、ここでわが血縁の者たちと闘う定めなのか、父たちの兄弟の息子たちと。近親者に対して武器をふるう定めにある英雄たちも我らのなかにいる、そしてまたあそこにも我らに対して武器をふるう定めにある賞賛すべき英雄たちがいる、と。ーーここで彼は重い魂の苦悶を感じます、この闘いで勝利することができるのか、この闘いで勝利することが許されるのか、兄弟に向かって剣を挙げることが許されるのだろうか、と。ここでクリシュナが、偉大な師が彼の前に進み出て、彼にこう語ります、まずは思考しつつ観察することによってお前の眼差しを人間の生に向けるがよい、そしてお前自身が今そうである状況を見るがよい。お前が制圧するであろうクル族出身の者たちのこの肉体のなかには、すなわち移ろう形態のなかには、これら形態のなかに自らを表現するのみの移ろわぬ魂的な本性が生きているのだ、お前の戦友たちのなかには、外界の諸形態のなかに自らを表現するのみの永遠の魂が生きているのだ。お前たちは闘わねばならないであろう、お前たちの法則がそのように望み、お前たちの宇宙法則が、人類の外的進化の法則がそのように望んでいるからだ。お前たちは闘わねばならないであろう、ある時代からまた別の時代へと移行を示す瞬間がそのように望んでいるのだ。けれども悲しむには及ばない、なぜなら形態が形態と、変転する形態が変転する形態と闘うだろうか。これらの形態のどれが他の形態を死へと導くだろうかーー死とは何か、生とは何か。形態の変転は死であり、生である。そして今勝者となるであろう魂も同様であり、今死へと赴くであろう魂も同様である。そして、サーンキヤの思考しながらの観察がお前を導いていくものに対して、対峙し合う永遠の魂に対して、この勝利とは何であろうか、この死とは何であろうか。

 アルジュナがその存在の最も内奥で魂の苦悶を堪え忍ぶことがあってはならない、今アルジュナを闘いへと招喚する義務にのみ仕えさせたい、なぜなら、闘いに巻き込まれている移ろうものから、彼が勝者であろうと敗者であろうと生き続けるであろう永遠のものへと、彼の眼差しを向けさせなければならないから、ということが、壮大なしかたで、状況そのものから描写されます。そしてこのように独特のしかたで、崇高な歌バガヴァッド・ギーターにおいて大きな音が打ち鳴らされます、重要な人類の進化上の事件に対する音、移ろうものと移ろわぬものの音が。そして、私たちが抽象的な思考を把握するのではなく、事柄の感情内容を私たちに作用させるとき、私たちは正しい道を歩んでいるのです。私たちがクリシュナの教示を次のように考察するとき、私たちは正しい道を歩んでいます、つまりクリシュナはアルジュナの魂を、そこにいれば移ろうものの網のなかに絡め取られてしまう段階から上昇させようとしている、たとえこの移ろうものが、勝利と敗北、死をもたらすことと死を被ることにおけるように、直接の人間の魂にとっては苦悩に満ちたしかたで目の前に現れるとしても、移ろうものすべてに対して魂が自らを崇高と感じるより高い段階へと上昇させようとしている、と。

 崇高な歌バガヴァッド・ギーターにおいて私たちに現れてくるようなこの東洋の哲学に関連して、かつて誰かがこう言ったことがほんとうであるとわかります、この東洋の哲学は、あのいにしえの時代にあって、同時に宗教である、そのひとりに、たとえ彼が高度の知者であったとしても、きわめて深い宗教的情熱が不足することなく、また単に感情宗教のなかにのみ生きていたきわめて素朴な人間であっても、一定量の叡智に欠けることはなかった、という意味で同時に宗教である、と。私たちはそう感じます、偉大な師クリシュナが単に弟子の理念を捉えるのみではなく、直接心情のなかに働きかけ、その結果弟子は移ろうものを眺め、移ろうものを苦悩しつつ私たちの前に立ち、そして彼の魂はこのような意味深い状況において、あらゆる移ろうものを超え、あらゆる苦悩を超え、移ろうもののあらゆる悩みと苦痛を超えて魂をそびえさせる高みへと上昇してゆく、その様子を見て私たちはそう感じるのです。

 

□編註

☆1 シャンカラチャルヤ(通常シャンカラ 紀元後788ー820):インドの重要な叡智の教師。ヒンドゥー教ではシヴァの化身として崇拝される。仏教の敵対者。バガヴァッド・ギーターを含むきわめて重要な宗教的文書の注釈者であり、古典となったヴェーダ体系の確立者。

☆2 アストラル体、エーテルあるいは生命体、及び物質体;感受魂、悟性あるいは心情魂、意識魂:ルドルフ・シュタイナー『神智学』(1904 、GA9)「人間の本質」の章参照。

☆3 創世記の精神科学的根拠づけについて行いました連続講義:「創世記の秘密。モーゼ第一書の第6日の仕事」(ミュンヘン1910)GA122。

☆4 人間の本質の区分:アリストテレス『デ・アニマ』、特にII冊1ー3章;アイステティコンは感覚によって刺激され感受する魂の部分;オレクティコンは魂の欲望する部分;キネティコンは魂の運動する部分;ディアネティコンは魂の思考する部分。

☆5 彼が色彩における光と闇について語るとき:アリストテレスにおける色彩論に関するさまざまな箇所(『魂について』II,7;「感覚的知覚について」第2章及び『自然科学小論集』)がゲーテによって『色彩論の歴史』にまとめられた。『ゲーテ自然科学論文集』5巻(ルドルフ・シュタイナーによる編集、注解、キュルシュナー『ドイツ国民文学』1884ー97に所収)、GA1a-e ドルナハの遺稿 1975:IV『色彩論についてII』28-37頁「アリストテレス」参照。それに続くペリパトス的論集も。

☆6 私がなぜ…ゲーテ的色彩論の…真価を再び発揮させることを課題としていたか:ルドルフ・シュタイナー『わが生涯』(1923ー1925 GA28 )V章及び索引参照。R・シュタイナーは1882年以来、キュルシュナー『ドイツ国民文学』の『ゲーテ自然科学論文集』の編集を委託されていた。1890年から1897年、彼はワイマールのゲーテーシラー文庫においてゾフィー版のためにこの論文集の編集を行った。

☆7 カピラヴァストゥ:インド北部、ヒマラヤの麓に位置する。この場所は19世紀に、ネパールのPadeire村付近で考古学者たちに再発見された。

☆8 ヨゼフ・ダールマン:1861ー1930 サーンキヤ説の他の精神潮流への関係については彼の著作『叙事詩にして法律書としてのマハーバーラタ』(ベルリン1895)225ー233頁参照。

 


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