ルドルフ・シュタイナー

バガヴァッド・ギータとパウロ書簡 GA142

Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe


第3講

翻訳者:yucca

(2000.7.29登録/2000.11.26一部改訳)

1912年12月30日、ケルン


■概要

・バガヴァッド・ギーターにおける二つの世界観ニュアンス

 (サーンキヤ哲学とヨーガ)と運命:

 一面的にサーンキヤ哲学に帰依するひとと一面的にヨーガに帰依するひと

・パウロ書簡の背後に見出せる世界観と運命:

 恩寵と正しい信仰に対する信頼

・バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡の外面的な違い:

 ギーターの詩的な言葉の崇高さと個人と日常を超越した静謐さ、

 パウロ書簡の熱狂的・プロパガンダ的、個人的な語調

・古代と現代における命名、名づけのしかたの持つ意味の違い:

 古代において人間はその本質にしたがって名づけられていた

 (マナスの担い手=マヌ、というように)

・人間の最高の本質を顕現させた存在がある時代に指導者として

 現れる可能性。

・人間一般、人類そのもの、ひとつの本質としてのクリシュナの教え:

 クリシュナは人間の最高の本質、最高の自己Selbstであるが、

 素質としてはどの人間にも見出される。

・クリシュナ:宇宙期に一度だけ、人類進化のなかに肉体をもって現れる

 神的ー人間的な最高の本質。

・ヨーガ、帰依の行により、自分の内面を高め、一切へと上昇する

 (サーンキヤとは別のもうひとつの)魂進化の面。

・賢者の理想:行為しつつ、行為に関与せず行為を超越し、

 知識・認識そのものからも自由であること。

・外的形態への関係=三つのグナ(タマス、ラジャス、サットヴァ)から

 順次自由になり、三つのグナそのものから脱することとき、

 ひとは自身の本質=クリシュナに対峙する。

・ギーターにおいて、恩寵により人類進化のなかでクリシュナがアルジュナに

 その本質を現す時点が語られる:人類に与えられた最も偉大な叙述のひとつ

 (バガヴァッド・ギーター第11歌)

・クリシュナを前にしたときの圧倒的感情の秘密。

・自身の高次の本質に対して、通常の日常的感覚で近づくことの危険性。

・宇宙の秘密:ギーターに語られることが、血に結びついた古い霊視が途絶え、

 人間が、永遠の移ろわぬものに至る新たな道を模索しなければならなかった

 重要な時点で語られたこと。

・宇宙の秘密に近づくためには、謙虚に敬いつつ近づく正しい感情が不可欠

 であること。


 バガヴァッド・ギーターにおいて私たちに与えられるこのような哲学的詩篇の意義全体を正しく評価できるのは、そのひとにとってバガヴァッド・ギーターあるいはそれに類する世界文学の作品に書き記されている事柄が、単に理論のみではなく運命であるような、そういうひとのみです、そして人類にとって世界(宇宙)観はひとつの運命であり得ます。

 先日来の議論において、第三のヴェーダの方向のほかに、二つの世界観ニュアンス[Weltanschauungsnuancen]、つまりサーンキヤ哲学とヨーガが私たちの前に姿を現しましたが、この二つの世界観ニュアンスは、私たちがこれに正しく目を向けるなら、世界観が人間の魂にとってまさに運命でありうることを、きわめて繊細な意味で私たちに示すことのできるものです。知識、理念における認識、魂的生が表れてくる世界の諸現象についての洞察というかたちで人間に与えられうるものすべてを、私たちはサーンキヤ哲学の概念に結びつけることができます。そして、そのような認識、科学的な形で理念のなかに表現できるそのような世界観のうち、標準的人間のためにいわばこの現代に残されてるものを、たとえそれがサーンキヤ哲学よりもはるかに霊的に低い位置にあるとしても、私たちがそれをこのような認識ニュアンスとみなすなら、私たちはこう言うことができるでしょう、サーンキヤ哲学に対して運命的に感じ取られうるものは、この現代においてすら、なおも運命的に感じ取られうるのだ、と。ーーとはいえ運命的に感じ取るのは、このような世界観ニュアンスに一面的に帰依するひと、私たちがそのひとについて、彼は一面的なしかたで学者あるいはサーンキヤ哲学者だ、とある意味で言えるようなひとのみでしょう。ーーこのようなひとはどのように世界に向き合うでしょうか。彼は魂においてどのように感じることができるでしょうか。これは結局のところ経験的にのみ答えられる問いかけです。ある魂がある世界観ニュアンスにこのように一面的に帰依するとき、いま特徴づけられた意味で保持されてきた世界観を持つことに全力を尽くすとき、このような魂に何が起こるこかを知らなければなりません。このときこういう魂は、世界(宇宙)の諸現象の形態のひとつひとつにまで入っていくことができ、宇宙のなかに力として姿を現し、宇宙のなかで形態として流転しているすべてに対して、いわばきわめて豊かな理解をすることができます。ある魂がこのようにのみ宇宙に帰依するとしたら、そうですね、ある受肉において自分の能力とカルマを通じて、霊視的な力がそれを貫き輝いているにせよいないにせよ、とりわけ理知[Vernunftwissen]をもって世界の諸現象に精通する機会のみを見出すとしたら、こういう魂の方向はどんな場合にも、魂生活全体のある種の冷たさに通じていくでしょう。さらに魂の気質の作られようによって、こういう魂は多かれ少なかれ世界の諸現象に対して満足されないイロニーの性格を帯びるか、あるいは、現象から現象へと歩んでいくこのような知に対する全般的な無関心、不満足といった性格を帯びるか、であることがわかります。単に学者的なしかたでのみ刻印づけられた知識が近づいてくるとき、このように現代でも多くの魂が感じることのできる冷たさ、このとき魂を襲う不毛さ、心情における不満足、これらすべてが、今示されたような魂方向に目を向けると私たちの魂の前に現れてくるのです。自分でもそれとわからず、このような魂は自らを荒廃したように感じるでしょう。全宇宙を手に入れても、自らの魂について何も知らず、何も感じず、何も感受せず、何も体験できないとしたら、そのなかがからっぽのままだとしたら、私は何を持っているのか!−−そのような魂はこう言うでしょう。宇宙の全き知識を詰め込みながら自分自身の中は空虚である、というのは辛い運命でしょう、これは宇宙の現象を失っているような、内部においてそれ自身価値あるものとなりうるものすべての喪失のようなものでしょう。

 ある種の博識さ、抽象的な哲学を携えて私たちの前に登場する多くの人たちのなかに、私たちはたった今描写されたことを見出します。これらの魂が、自足せず自らの空虚を感じつつ、自分の多くの知識に興味を失い、悲しげにやってくることによって私たちはこれを見出します、あるいは誰かが抽象的な哲学を携えてやってきて、神性や宇宙論(コスモロギー)、人間の魂の本質について抽象的な言葉で私たちに情報を提供することができるときに私たちはこれを見出し、そしてやはりこう感じるのです、頭でっかちだ、心が加わっていない、心情がからっぽだ!と。ーーこのような魂に向き合うと、うすら寒い風が吹いてきます。サーンキヤ哲学はこのように運命となり得ます、自分自身としては失われた存在、自らに関して何も持たず、その個について宇宙が何も持つことができないような存在であることに人間をなじませるような運命となることができるのです。

 今度は逆に、一面的にヨーガを通じて進化することを求め、いわば世を捨てていて、何かを外界から認識することを退ける魂を考えてみましょう。そういう魂は言います、宇宙がどのように成り立っているかを経験することなど私にとって何になろう。私はすべてを私自身から求めたいのだ、私の力を開発することで自分で前に進みたいのだ、と。ーーこういう魂はもしかすると自分の内部で暖かく感じるかもしれませんし、しばしば、何か自分のなかに閉じたもの、自足しきったものに思われるようすで私たちの前に登場するでしょう。そうかもしれません。長い間にはこういう魂にとってもそういう状態は続かず、結局こういう魂は孤立にさらされます。隠遁状態になったこのような魂が魂生活の高みを目指し、それから世界へと歩み出て行っていたるところで世界の現象に突き当たり、それでも、こういう世界の現象すべてが私に何の関わりがあろう、ともし言うとすれば、ーーそして顕現のすばらしさによそよそしく対峙し、それを理解しないがゆえに、やはり孤立を感じるとしたら、この一面性もまた悲惨な運命となるでしょう。何としばしばこういう魂にお目にかかることでしょう!あらゆる力を自分自身の存在の進化に用い、まるで一切共有するのはごめんだとばかりに冷淡に無関心に同胞の傍らを通り過ぎるような人たちと、何としばしば知り合うことでしょう。こういう魂は自分は世界を失なっていると感じますが、こういう魂は他の魂にとって極端にエゴイスティックに思えるでしょう。

 このような生の関連に注目してはじめて、世界観から運命的なものが感じられます。そして私たちがギーターのなかにもパウロ書簡のなかにも見出すこれほど偉大な表明、これほど偉大な世界観の背景に、この運命的なものが姿をみせるのです。ギーターの背後にも、パウロ書簡の背後にも、わずかに私たちがその背後を覗いて見さえすれば、私たちにとって直接運命的となるものが私たちを見つめている、と言えるかもしれません。パウロ書簡からはどのように運命が私たちを見つめているのでしょうか。

 パウロ書簡においてしばしば私たちは、魂がキリスト衝動との結び付きを見出し、正しく理解されたキリストの復活を魂が自らのうちに受け容れるとき魂にもたらされうるものによって、いわゆる信仰の正しさにおける魂進化の至福は、外的な営みの価値のなさに屈することはないのだ、と示唆されていることに気づきます。パウロ書簡において私たちがこれに向き合うとき、他方で私たちは、このとき人間の魂がいわば自分自身のなかに追い返されるのを感じます、このとき人間の魂は外的な営みから遠ざかり、信頼できるのはまさに恩寵と信仰の正しさのみだと感じます。次いで外的な営みが来ます。それは世界のなかに現にあるのであって、私たちがそれをないものと宣言することによってそれを遠ざけるわけにはいきません。私たちは世界においてこれにぶつかります。そして運命はまたもその途方もない大きさのすべてで私たちに向かって鳴り響きます。事態をこのように把握するときにのみ、このような人類への啓示の強大さが目の前に現れるのです。

 さて、この二つの人類への啓示、バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡は、外面的には互いにまったく異なっています。そしてこの外面的な違いが、これらの作品のどの部分においても魂に働きかけてくる、とでも申し上げたいのです。

 私たちが驚嘆しつつバガヴァッド・ギーターの前に立つのは、単に少し前に議論しました理由からだけではありません、バガヴァッド・ギーターが詩的にこれほど偉大に力強く私たちを引きつけ、人間の魂の気高さがどの詩節からも私たちに向かって輝きを放ち、ここでクリシュナあるいは彼の弟子アルジュナの口から発せられることすべてのなかに、人間の日常的な体験を越え、あらゆる熱狂的なものを越え、激情と関わるもの、魂を動揺させるものすべてを超越して在るもののような何かを感じるがゆえに、私たちは驚嘆しつつその前に立つのです。たとえギーターのほんの一部分でも私たちに作用させるなら、魂の平安、清澄、平静、冷静及び落ち着きの領域、叡智の雰囲気のなかに引き入れられます。そして私たちはいたるところで、ギーターを読むことでもう私たちの人間性がまるごと高い段階に引き上げられるように感じます。私たちはいたるところでこう感じます、ギーターのなかの崇高な神的なものを正しく私たちに作用させようと思うなら、私たちはあまりに人間的なもののいくつかから自らを自由にしていなければならない、と。

 パウロ書簡の場合はすべてが異なっています。詩的な言葉の崇高さが欠け、ギーターの冷静さすら欠けています。私たちはこのパウロ書簡を手に取り、これを私たちに作用させます、すると、パウロ書簡から、パウロの口から、起こったことについての熱狂的に憤激したありようが私たちにむかって吹きつけてくるのをさまざまに感じます。時折その語調はひどくやかましいと言えるほどです。パウロ書簡においては、あれこれのことがさまざまに非難され咎められ、罵られます。そして、キリスト教の偉大な概念について、恩寵、律法性、ユダヤ教(モザイスムスMosaismus)とキリスト教の違い、復活、これらについてここで述べられている事柄、これらはすべて、いわば哲学的であろうとし、哲学的定義であろうと欲しながら、どの文にもパウロの特性が入り込んで響いているためにそのようにならない語調で述べられているのです。私たちはどの文においても、興奮している人か、あるいはあれやこれやのことをしでかした他のひとびとについて義憤にかられてまくし立てる人が話しているということを忘れることはできません、あるいは、彼は個人的に参加(アンガージュ)している[engagieren]、彼はこの理念のプロパガンディストだという印象のもとにいる、と私たちが感じるようにキリスト教の最高の概念について話しているということを。

 パウロの書簡において彼があれこれの教区民に書いていることを私たちが読むとき、そのパウロによく似た個人の性格の心情が語っている、というようなことがギーターを読む場合どうやって私たちに起こりうるでしょうか、パウロは書いています、私たちはが何とキリスト・イエスを支持したことか! 思い出しなさい、私たちはいかに誰にも苦労をかけなかったか、誰にも苦労をかけないためにいかに私たちが日夜働いたか、と。これらはすべて何と個人的であることでしょう! 個人的なものの息吹がパウロ書簡を貫いています。ギーターにおいては、すばらしく純粋な領域、いたるところで超人間的なものと境を接していて、時おり超人間的なもののなかにも入り込んでゆくエーテル領域が見出されます。

 つまり外的に見て顕著な違いがあるのです、それで私たちはこう言うことができます、かつてヒンドゥー教に運命の力に満ちた世界観の合流を与えた偉大な歌を通じて、このギーターを通じて、気高く純粋な何か、個人的でない何か、平静な、熱狂と激情を離れたものがヒンドゥー教徒たちに与えられた、一方、キリスト教の原典、パウロ書簡が私たちに見せるものは、まったく個人的でしばしば激情にあふれ、あらゆる平静さを欠いた性格を持っている、このことを認めたくないとしたら、それはきわめて盲目的な偏見だろう、と。真理の前に心を閉ざしてこういう事柄を認めないことによってではなく、これを理解し、正しい意味でこれを把握することによってひとは認識に至るのです。したがって私たちはこの対比を青銅の板のように以下の考察の前にずっと立てておくことにいたしましょう。

 すでに昨日注意を向けましたように、ギーターにおいてはクリシュナによってアルジュナへの重要な教えが与えられます。さてそもそもクリシュナとはいったい誰なのでしょうか。この問いはとりわけ私たちの興味をひくに違いありません。すでに私がおりにふれてあちこちでお話ししましたこと、つまり、以前の時代においては命名や名づけのしかた全体が今とは異なっていた(☆1)、ということをよく知っていなければ、クリシュナが誰であるかということも理解できません。現在は根本的に、あるひとを名づけるやりかたは何かきわめて恣意的なものです。と申しますのも、あるひとがあれこれの市民的な名前であること、ミュラーあるいはシュルツェという名前であることを知っても、今日の時代ではそのひとについて結局多くを知ることはないでしょうから。また、あるひとが宮廷顧問官か枢密顧問官か、あるいはこの種の何かであることを知っても、結局そのひとについて多くを知っているわけではありませんーーこれも誰しも認めることでしょうけれども。つまりこのような社会的序列の名称を知ったところでこの人物について多くを知っているわけではないのです。さらにまた、あるひとを、「閣下」あるいは「猊下」を付けて呼びかけるべきか、あるいは単に「様」とのみ呼びかけるべきか知っているとしても、やはりそのひとについて多くを知っているのではありません、要するに、こういう呼びかけすべては、当の人物について多くを語っているわけではないのです。そして、私たちが今日選んでいる他の名称にしても、とりたてて多くを意味しているわけではないことは、皆さんにも容易に納得していただけるでしょう。古い時代においては違っていました。私たちがサーンキヤ哲学の名称を取るか、私たち独自の人智学的名称を取るか、私たちはこの両者を出発点として、以下の考察を試みることができます。

 サーンキヤ哲学の意味において、人間は粗雑な物質体、精妙なエレメント体ないしエーテル体、諸感覚の規則正しい力を含む体、マナスと呼ばれるもの、アハムカーラ等々から成り立っている、ということを私たちは聞きました。その他の高次の部分を考察する必要はありません、一般的にはそれらはまだ形成されていないからです。けれども今、いずれかの受肉において私たちに姿を見せる人間を考えてみますと、こう言うことができます、人間は互いに異なっている、そのためある人間の場合には、エーテル体のなかに現れてくるもののみが強く現れ、また別のひとの場合は諸感覚の規則正しさのなかにあるものがより多く現れ、第三のひとの場合は内感覚が、第四のひとの場合はアハムカーラが多く現れる、と。あるいは私たちの用語で言うならば、私たちは感受魂の力が優勢に働いている人間を見出す、悟性魂あるいは心情魂の力が優勢に働いている別の人間を見出す、意識魂の力が前面に出てきているまた別の人間を見出す、そして、マナスその他によってインスピレーションを与えられることにより何か別のものが働きかけているさらにまた別の人間を見出す、ということです。これらは、ひとりの人間が示すありよう全体によって与えられる差異です。この差異によって人間の本質そのものが示唆されます。

 現代にあっては、容易に理解できる理由から、人間の名づけがこのような意味で現される本質にしたがって選ばれるということはありません。と申しますのも、今日人類の広く行き渡った心情において、たとえば、現在の人類周期において人間が到達しうる最高のものは、アハムカーラのかすかな兆しである、と言われるとしたら、誰もが、自分はその本質においてきわめてはっきりとアハムカーラを表している、と信じて疑わないでしょう、そして、まだそうではない、そのひとの場合は低次の部分が優勢なのだ、と言葉で表現されるとしたら、そのひとの気持ちを傷つけることでしょう。古代においてはそうではありませんでした。当時、人間は本質的なものにおいて名づけられていました、とりわけそのひとを他の人類から引き上げ、もしかすると指導者の役割さえ与える、というときは、まさにその特徴を与えられた本質を考慮するというかたちでその人間の名づけが行われたのです。

 古代において、次のような人間が登場したとしましょう、包括的な、真に包括的な意味でマナスを発現させ、なるほど自らのうちでアハムカーラを体験したけれども、これを個的な要素としていっそう後退させ、外部への効果のために、内感覚を、マナスをよく働かせた、そういう人間がです。古代のより短い人類周期の法則にしたがって、こういう人間はーーこのような本質を示すことができた人間はめったにいなかったでしょうがーー偉大な立法者、大きな民族の指導者であらねばならなかったでしょう。それで人々は彼を他の人間と同じ名で呼ぶことに満足せず、その突出した特性にしたがって彼をマナスの担い手[Manas-Traeger]と呼び、他のひとを単に感覚の担い手[Sinnes-Traeger]と呼んだのです。人々はこう言ったでしょう、このひとはマナスの担い手、このひとはマヌ[Manu]だ、と。ですからあのいにしえの時代における名づけに向き合うとき、私たちはそのなかに、人間を成り立たせているもの[Organisation]のうちきわめて突出した部分、まさにそのひとにあってしかるべき受肉のなかに現れている部分にしたがってその人間を特徴づける何かを見なければなりません。

 ある人の場合、とりわけ次のようなことが現れていたとしましょう、そのひとは自らのうちに神的なインスピレーションを感じ、認識や行為をなすにあたって外界が感覚を通じて与えるものや脳に結びついた知性が語ることにしたがってのみ決定するのを拒み、いたるところで彼に語りかける神的な言葉に耳を傾け、彼から語りかける神的実質の預言者となった、ということが。こういう人間は神の子[Gotessohn]と呼ばれたでしょう。そしてヨハネ福音書においてはなお、その最初の章の冒頭でただちに、かつてそうであったひとたちが神の子らと呼ばれています(☆2)。

 けれども本質的なことは、こういう重要なことが表現されるとき、ほかのことはすべて無視されたということです。つまり、ふたりの人間に出会ったとしましょう、ひとりは感覚を通して世界を自分に作用させ、脳に結びついた知性で世界について熟考していたふつうのひとであり、もうひとりは神的な叡智の言葉が輝き入っているようなひとであったとしましょう。すると古代の心情の意味でこう語られたことでしょう、ひとはこう言った、こちらの人間は人間である、彼は父と母より生まれ、肉により生み出された、と。もうひとりの人間、神的な実質の告知者であった人間の場合は、感覚と脳に結びついた知性で世界を観察する最初の人の場合のように通常の伝記に入り込んでくるようなものは考慮されなかったでしょう。このような伝記を書くなどということは、後者の場合愚かしいことだったでしょう。と申しますのも、彼が肉の体をまとっている、ということはたまたまのことにすぎないのであって、人々が注目していた本質的なことではなく、いわば他のひとたちに姿を表すためのものにすぎなかったからです。ですからこう言われるのです、神の子は肉によりて生まれない、神の子は純潔に、霊より直接生まれた、と。ーーすなわち、神の子の場合重要なこと、人類にとって価値があることは、それが霊に由来する、ということです。古い時代にはこのことだけが強調されました。ある種の秘儀参入の弟子たちの場合には、人間の性質の高次の要素を有するために重要であると認められた人物に対して、通常の日常的状況ばかりに留意するような通俗的な意味での伝記を書くなどということは最大の罪であったことでしょう。まだわずかなりともあのいにしえの時代の心情のいくばくかを残しているひとは、今日たとえばゲーテ伝に書かれているようなことはきわめてばかげたことだと思うのです。

 さて、古代の人類がこのような感受性、このような感情を持って生きていたと想像してみますと、内部で主としてマナスが生きているマヌのようなひとはめったに現れない、そういうひとは登場することができるまで非常に長期間待ち続けなければならない、という感情にこの古代の人類が浸されていたであろうことも理解できます。

 今、私たちの人類周期において人間における最も深い本質として生きることができるものを眺めてみるとき、自らを魂の高みへと上昇させてゆくことのできる秘密の力についていかなる人間も予感しうるものを眺めてみるとき、ほかの人間の場合素質としてのみ存在するものが、非常にまれなケースにおいて、一度ある人間存在の本質的な部分となる、つまりその時々に登場し、他の人間たちの指導者となり、あらゆるマヌたちより高く、その本質にしたがってどの人間にも入り込んでいるけれども、現実の外的な人格としてはある宇宙期[Weltenalter]にただ一度だけ出現するような、そういう人間存在の本質的な部分になる、ということを見はるかし、思い描いてみるとき、そしてつまり私たちがこのような概念を作り出すとき、そのとき私たちはクリシュナの本質に近づいていくのです。

 クリシュナは人間一般です、彼は人類そのもの、ひとつの本質と解される、ほとんどこう言ってよいでしょう。けれども彼は抽象ではありません。今日、人々が人類一般について語るとき、彼らは抽象論者としてそれについて語ります。通常はまったく感覚世界に捕らわれている今日にあって、私たちにとって抽象的存在は普遍的な運命となっています。人間一般について語られるとき、まったく生きていないぼやけた概念が持たれます。クリシュナについて人間一般についてのこととして語るひとたちは、これは今日それについて語られるとき目につくあの抽象的な理念だ、とは言いません、そうではなく、そうだ、この存在はなるほどその素質にしたがってあらゆる人間のなかに生きているけれども、ひとりの人間としてもどの宇宙期にも一度出現し、人間の口を通して語るのだ、と言います。ただし、この存在において重要なのは、外的な肉的なものではなく、精妙なエレメント体でもなく、諸感覚器官の力でもなく、アハムカーラ及びマナスでもありません、この存在において重要なのは、ブッディとマナスのなかで、大いなる普遍の宇宙実質、宇宙を貫いて生き生きと活動する神的なものと直接関わり合っているものなのです。

 私たちがアルジュナの偉大な師クリシュナのなかに見出すことのできる存在たちは、人類の指導のためにその時々に出現しました。クリシュナは最高の人間的叡智を、最高の人間性(メンシェントゥム[Menschentum])を教えます、しかもそれを彼自身の本質として教え、逆にまた、それがどんな人間の性質のなかでも親和性をもって琴線に触れるように教えます、なぜならクリシュナの言葉のなかにあるすべては、素質においてはどんな人間の魂のなかにも見出されるからです。このように人間は、クリシュナを仰ぎ見ることで、同時に自分自身の最高の自己[Selbst]を見上げました、しかし同時に別のものも見上げます、別の人間のように彼の前に立つことができ、そのなかで彼が別のもののなかでのように、その素質においては彼もそうであるけれどもやはり彼とは別人であるものを同時に尊敬する、そういう別のもの、神が人間に関わるように彼と関わるものをも見上げるのです。私たちは、クリシュナとその弟子アルジュナとの関係をこのように思い描かねばなりません。すると、ギーターから私たちに向かって響いてくる基調音も発せられます、あたかもいかなる魂をもとらえ、いかなる魂のなかにも響き入ることができるかのように鳴り響き、まったく人間的な、親しく人間的な、いかなる魂も、偉大なクリシュナの教えに耳を傾けるという憧れに親しみを感じないなら自責の念にかられざるを得ないと感じるほど親しく人間的であるあの基調音が。

 他方では、かくも平静に、かくも激情も熱狂もなく、かくも気高く聡明に、すべてが私たちに現れてきます、なぜなら、どの人間の性質のなかにもある神的なものであるけれども、人類進化のなかに神的ー人間的な本質として一度肉体をもって現れる最高のものが語っているからです。

 そしてこれは、この教えは、何と崇高であることでしょう!この教えは実に崇高であって、このギーターはバガヴァッド・ギーターつまり崇高な歌という名を担うにふさわしいものです。まず最初に、昨日の講義ですでに話題にのぼりました偉大な教えが、崇高な言葉で、崇高な状況から私たちに向かって現れてきます、宇宙において流転するもの、そして生成と消滅、誕生と死、勝利あるいは敗北が外的に現れるような形態のなかで流転していくものすべて、このすべてのなかに、移ろわぬもの、永遠のもの、持続するもの、在り続けるものが顕われている、そして、宇宙を正しく観ようとする者は、移ろうものからこの移ろわぬものへと貫き通って行かなければならない、という教えが。これは、すでにサーンキヤを通じて、つまりすべての移ろうもののなかの不滅性についての思慮、背後で死の門が閉ざされるとき、敗北した魂も勝者の魂も、神の前にあっては同じである、ということについての理性的な思慮を通じても、私たちに姿を現します。

 けれどもクリシュナはさらに弟子アルジュナに、魂は別の道によっても日常の見かた[Schauen]から離れて導かれうる、と語ります、それはヨーガによるものです。魂が敬虔になることができれば、それは魂進化の別の面です。一方の面は、現象から現象へと進み、霊視的なものに照らされたあるいは照らされない理念能力をいたるところに適用する、という面です。もう一方の面は、外的世界からあらゆる注意をそらし、感覚の門を閉ざし、理性と知性が外界について語りうるすべてのものを閉ざし、通常の生活のなかで経験したものとして思い出すことのできるすべてに対してあらゆる門を閉ざし、自らの内部に入っていってしかるべき行により自分自身の魂のなかに休らっているものを取り出し、最高のものと予感できるものに魂を向け、帰依の力により自らを高めようと試みる、そういう面です。これが起こるとき、ひとはヨーガを通じてますます高く上昇します、まず肉体的な道具を用いるときに到達できる高次の段階に至り、あのさらに高次の段階に至ります、あらゆる肉体的な道具から自由になっていわば肉体の外部で人間を成り立たせている高次の部分のなかに生きるときにひとはその高次の段階で生きるのです。このように生のまったく異なる形態へと上昇して生きていきます。生の現象と生の活動は霊的に、スピリチュアルになります。ひとはますますいっそう自身の神的存在に近づいていき、自身の存在を宇宙存在へと拡大し、人間を神へと拡大します、自身の存在への個的な限定をなくし、ヨーガを通じて一切[All]へと上昇しながら。

 それから、偉大なクリシュナの弟子が何らかのしかたでこの霊的な高みに昇っていけるための手段が知らされます。ここでまず、人間が通常の世界でなすべきことの間が区別されます。それにしてもこれは偉大な状況です、この状況をもってまさにギーターがこの区別を論究してみせるのです。アルジュナは血縁の者たちと闘わねばなりません。これは彼の外的な運命です、これは彼の働き、彼のカルマ、これは彼がまずこの状況において直接行わねばならない行為の総計です。この行為において彼はまず外的人間として生きます。けれども偉大なクリシュナは彼に教えます、行為というものは自然の進化と人類の進化の外的な経過のなかで必然的なものとして生じるので、人間は行為してはじめて知恵あるものとなり、神的なもの移ろわぬものと結びつくのだ、しかし賢者はこれらの行為からも自らを解き放たねばならない、と。賢者は行為をなします、けれども彼のなかには、同時にこれらの行為に対して傍観者のようである何かがあるのです、これらの行為に関与しないもの、私はこの営みを為す、けれどもまったく同様に、私はこれを起こるがままにさせる、と言うこともできるだろう、とそのとき言うものが。

 ひとは、自らが行うことに対して、あたかも別人がそれを行っているかのように立つことによって、そして、その行為がもたらす喜びあるいはその行為が引き起こす悲しみにも心を動かされないことによって、賢者となります。いわば偉大なクリシュナは弟子アルジュナにこう言うのです、お前がこのパーンドゥの息子たちの戦列に立つにせよ、お前が向こうのクルの息子たちの戦列に立つにせよ、お前が何をするにせよ、お前は賢者としてパーンドゥ族からもクル族からも自らを解き放たなければならない。そのことがお前を動揺させないなら、お前があたかもひとりのパーンドゥであるかのようにパーンドゥの行いを為すことができるとしたら、あるいはあたかもお前がひとりのクルの息子であるかのようにクルの行いを為すことができるとしたら、つまりお前がこのすべてを超えて立つなら、お前がお前自身の行為によって動揺しないなら、お前がお前自身の行為において、風から護られた場所で静かに燃え、外部のものに触れられない炎が燃えるように生きるなら、魂が自身の行為によって動揺することがそれほど少なく、その行為の傍らに内的に静かに生きるなら、そのとき、魂は賢者となるのだ、そのとき魂は自らを行為から解放するのだ、そのとき魂はこれらの行為がどんな結果をもたらしうるか問うことはない。と申しますのも、行いがどのような結果になるか、ということは私たちの狭く限定された魂にとってのみ問題なのです。けれども私たちが、人類と宇宙の経過が行為を要求するがゆえにその行いを為すとき、その行為が怖ろしいものに通じるか祝福的なものに通じるか、あるいは私たちにとって苦しみに満ちたものに通じるか喜びに満ちたものに通じるかには一切関わりなく、私たちはそれを行うのです。

 このように行為から抜きん出ていること、私たちの手が何をしようと、私たちの剣がーーギーターの状況から語ろうとすればーー何をしようと、私たちがその口で何を話そうと、まっすぐ立っていること、このように、内的な自己が私たちがその口で話すこと、その手で行うことすべてに対してまっすぐ立っていること、偉大なクリシュナはこれを目指して弟子アルジュナを導いていきます。

 このように偉大なクリシュナは弟子アルジュナに人類の理想を示します、人間が次のように言うような理想です、私は私の行いを為す、けれども、行為するのが私であれほかの者であれーー私は私の行いを見つめる。私の手を通じて起こること、私の口を通じて話されること、私はそれを、岩が離れて山から谷底へところがり落ちるのを見るように客観的に見る。そのように私は私の行いに対して立つ。そして、私があれこれのことを知り、認識し、自分で宇宙についてあれこれの概念を形成することができるにしてもーー私はこれらの概念から区別される何かとして立ち、私のなかにはなるほど認識する何かが私と結びついて生きているが、私はそこで別のひとが認識しているように眺める、と言うことができる。このとき私は私の認識からさえ自由となる。私の行いから自由になることができ、私の知識、私の認識から自由になることができるーー。賢者の高い理想がこうして私たちの前に置かれます。

 そしてついに、それが霊的なもの[das Spirituelle]にまで上昇するとき、魔神(デーモン)たちが来ようとも、聖なる神々が来ようとも、すべては私が外部に見るものだ、私を取り巻く霊的な世界といえどもそこで起こるすべてのことから自由に、私はそこに立つ。私は眺め、私は私の道を行く、そして私が関与するもの、私は同時にまたそれに関与もしない、私は傍観者となったからだ。ーーこれがクリシュナの教えです。

 そして私たちが、クリシュナの教えがサーンキヤ哲学に基づいていたと聞いたなら、多くの箇所でクリシュナの教えに貫かれるべきこと、偉大なクリシュナが弟子に語ることがよく理解できるようになるでしょう、クリシュナはこう言います、お前のなかに生きている魂はさまざまなしかたで結びつけられている、粗雑な物質体に結びつけられ、諸感覚に結びつけられ、マナスに、アハムカーラに、ブッディに結びつけられている。しかしお前はこのすべてを外的なものとして、お前の周りを取り巻いている覆いとして観察する、そしてお前は、お前が魂存在としてあらゆるものから独立していることを意識する、そのときお前はクリシュナがお前に教えようとすることについていくらか理解する。そしてお前が、お前の外界への関係、宇宙への関係全般は、グナ、つまりタマス、ラジャス、サットヴァによってお前に与えられていることを意識するとき、通常の生活において人間はサットヴァを通じて叡智と善意に結びつけられ、通常の生活において人間はラジャスを通じて激情、情動及び存在への渇きに結びつけられ、人間は通常の生活においてタマスを通じて怠惰、不活発、眠気に結びつけられることを知りなさい、と。

 あるひとは日常生活でなぜ叡智と善意に情熱を注ぐことになるのでしょう。そのひとは、サットヴァによって示される基本性質に関係しているからです。あるひとはなぜ外的生活への歓びと渇望、生の外的現象による楽しみとともに日常生活を過ごしていくのでしょう。それはそのひとが生へのラジャスによって示される関係を有しているからです。なぜ人々は日常生活において眠たげに怠惰に無気力になるのでしょう。彼らはなぜ肉体性に圧迫されているように感じるのでしょう。彼らはなぜ、元気を奮い起こして瞬間ごとに肉体性を克服する可能性を見出さないのでしょう。なぜなら彼らは、サーンキヤ哲学においてタマスによって理解される外的形態の世界への関係を有しているからです。

 しかし賢者の魂はタマスから自由にならなければなりません、眠気と怠惰と無気力のなかに現れる外界への関係から自らを解き放たなければなりません。あらゆる無気力なもの、眠たげなもの、あらゆる怠惰が魂から退けられると、魂には外界へのラジャスとサットヴァの関係のみが残ります。そしてひとが激情と情動、存在への渇きを取り除き、善意、同情、認識に情熱を注ぎ続けるなら、今やそのひとはサーンキヤ哲学がサットヴァと呼ぶ外界への関係を有します。けれどもひとがいかなる善意と認識への愛着からも自由になるとき、なるほど善意のひとであり賢いひとであるけれども、外的に現れているそのひとのありよう、たとえその善意や認識に対しての現れであっても、そのありように内面において左右されないとき、そしてそのひとにとって善意は当然の義務であり、叡智は彼に注ぎ込まれるものであるとき、そのとき彼はサットヴァからさえ脱します。こうして三つのグナを脱したとき、彼はあらゆる外的形態への関係から解放され、その魂において勝利し、偉大なクリシュナが彼をならせたいと思うものについて、いくらか理解できたのです。

 そのとき、つまり偉大なクリシュナが理想として彼の前に置いたものになろうと努めるとき、人間は何を理解するのでしょうか。そのとき人間は外的な覆いをより厳密に理解するのでしょうか。いいえ、外的な覆いについては前にもう理解しました、けれども人間は覆いを超えて自らを高めます。そのとき人間は、この外的形態への魂の関係をより厳密に理解するのでしょうか。いいえ、そのことはもう以前に理解しました、けれども人間はこれを超えて自らを高めるのです。人間が三つのグナを脱したとき、彼が理解するのは、外界において多種多様な形態をとって彼に現れてくるものでもなく、これらの形態への関係でもありません。と申しますのも、これはすべて前の段階に属すものだからです。タマス、ラジャス及びサットヴァにとどまる限り、存在の自然の基盤に関わりを持ちます、社会的関係を得、認識を身に付け、善意と同情の能力を獲得します。けれどもこのすべてを超えていったとき、ひとは先行する段階においてこれらすべての関係を脱ぎ捨てたのです。そのときひとは何を認識し、何が眼前に現れるでしょうか。そのとき認識されるもの、そのとき目の前に現れるものは、これらすべてではないものです。それに至る途上にグナの内部で修得されるすべてのものから区別されるもの、これはどのようなものでありうるでしょうか。それは、つまるところひとが自身の本質として認識するものにほかなりません、と申しますのも、外界でありうる他のすべてのものは、前の段階で脱ぎ捨てられたからです。

 まさにここに与えられた考察の意味において、これは何なのでしょうか。それはクリシュナ自身です。と申しますのも、クリシュナ自身が自らの最高のものの現れだからです。すなわち、最高のものに向かって精進することで、ひとはクリシュナに対峙するのです、弟子は偉大な師に、アルジュナは、在りとあるすべてのなかに生きるクリシュナに対峙するのです。そしてまことにクリシュナはクリシュナ自からこう言うことができます(☆3)、私はひとつの山ではない、なべての山々のもとにあるとき、私はそれらのなかのもっとも巨大な山である、地上に現れるとき、私はひとりの人ではない、宇宙期に一度だけ人間の指導者として現れる最高の人間的顕現[die hoechste menschliche Erscheinung]、あらゆる形態における帰一なるもの、それが私、クリシュナである、と。

 このように、師そのひとがその本質を現に生かしつつ弟子の前に登場するのです。けれども同時にバガヴァッド・ギーターにおいて、それは何か圧倒的なもの、人間が到達しうる最高のものであることが理解させられます。このようにアルジュナとしてクリシュナに対峙するということは、段階を踏んだ秘儀参入を通じて起こり得るでしょう、そのとき、それはヨーガの行の深みにおいて起こるでしょう。けれどもそれが人類進化そのものからどのように流れ出てくるか、それがいわば恩寵によっていかに人間に与えられるか、ということも示されます。このようにそれはギーターのなかに示されているのです。このアルジュナがたちまち引き上げられ、その結果彼はクリシュナをありありと眼前にみるわけですが、この引き上げられるときのようにギーターは私たちをある特定の時点に導きます、クリシュナが彼に対峙する時点にです。今やクリシュナは血肉を備えた人間のように彼に対峙しているのではありません。ほかの人間と同じように見える人間なら、クリシュナにおける本質的でないものを現すでしょう。と申しますのも、本質的なのは、あらゆる人間のなかにあるものだからです。けれども他の世界圏はいわば分散された人間にすぎないので、他の世界にあるものはすべてクリシュナのなかにあります。他の世界は消え去り、クリシュナは一なるものとして存在します。ミクロコスモスに対するマクロコスモス、小さな日常的な人間に対する人間そのもの、クリシュナはこのようにひとりひとり人間に対峙するのです。

 このことが恩寵によって人間を圧倒するとき、人間の理解力は最初じゅうぶんではありません、なぜなら、クリシュナがその本質的なものを見せるときーーこのことは最高の霊視的力を通じてのみ可能なのですがーー、そのとき、クリシュナは人間が通常見慣れているあらゆるものとまったく異なって見えるからです。人間の観照力が他のすべての観照力から引き上げられるときの、最高の性質におけるクリシュナの観照力のように、クリシュナはギーターにおいてある瞬間、偉大な人間として私たちに姿を見せます、世界においてアルジュナの前にあったすべてがそのかたわらでは小さいものであるような偉大な人間として。このときアルジュナの理解力は尽きてしまいます。彼はなおもただ見つめ、自分が見るものをどもりながら話すことができるのみです。これももっともなことです、アルジュナは今までの手段をもってしてはこのすべてを見るすべも、言葉で表現するすべも身に付けていないからです。つまりクリシュナがアルジュナの前に立つこの瞬間にアルジュナが行う描写は彼にふさわしいものです。と申しますのも、これは、芸術的哲学的関連において、人類に当時与えられた最も偉大な叙述のひとつだからです、アルジュナが初めて語る言葉、語り慣れない言葉、このようなものは何も見たことがなかったために、以前には決して語ることのできなかった言葉、そういう言葉によってアルジュナが自らの深みから、偉大なクリシュナに見入るなかで明らかにされたことを取り出してくるさまは。「おお、神よ、私は御身のなかにあらゆる神々を見る(☆4)、あらゆる存在たちの群をも見る、ブラフマンを、蓮華の玉座についた主を、すべてのリシ(聖仙)たちと天の蛇たちを見る。多くの腕と胴体と口と眼を持ち、いたるところに、無限に形作られたあなたを私は見る、私はあなたに終わりも、半ばも、始まりも見ることはない、おお、すべての主よ。御身、あらゆる形態で私に現れる者、宝冠をつけ棍棒と剣を持って私に姿を見せる者、あらゆる方向に火炎を放って燃え上がる山、私はあなたをそのように見る。太陽の光輝が放つ火のように測り知れない偉大さに、まばゆくて見つめることができない。移ろわぬもの、最高を知るもの、もっとも大いなる善、遍(あまね)く万有のなかでこのようにあなたは私に顕現する。あなたは永遠の法の守護者である。久遠の、元なる霊[Urgeist]としてあなたは私の魂の前に立つ。あなたは私に、初めも、半ばも、終わりも示すことはない。あなたは遍く無限である、その力は無限であり、その広がりは無限である。月のように、そう、太陽そのもののようにあなたの眼は大きく、あなたの口からは供犠の火が放たれるようだ。私は灼熱するあなたを見る、あなたの熱がすべてを暖めるのを見る、私は大地と天空の間にそれを予感することができる、あなたの力はこのすべてにみなぎる。ただあなたひとりとともに私はここに立つ、そしてあなたの怖ろしい姿が私の眼に示されるとき、三界の生きるどの天界もまたあなたのうちにある。私は見る、あなたを讃えて歌う神々の全軍があなたに向かうさまを、そして私は合掌し畏怖しつつ立ち尽くす。すべての見者とすべての聖者の群があなたの前で歓呼の声を挙げる。彼らはあらゆる讃歌であなたを称える。ルドラ神たち[Rudras]、アーディティヤ神たち[Adityas]、ヴァス神たち[Vasus]、ならびにサーディヤ神たち[Sadhyas]、一切諸神、アシュヴィン双神[Ashvins]、マルト神たち[Maruts]、ならびに祖霊たち[Manen]、ガンダルヴァたち[Gandharvas]、ヤクシャたち[Yakshas]、アシュラたち[Asuras]たちおよびあらゆる聖者たちがあなたを称える。彼らは驚嘆してあなたを仰ぎ見る、多くの口、多くの腕、多くの脚、多くの脚、多くの胴体、歯の並んだ多くの口を持つかくも巨大な体を。このすべてを前ににて宇宙はおののき、わたしもまた震える。天を揺るがす者、輝きを放つ者、多くの腕を持つ者、口を持ち、大きな燃え上がる眼のように働きを及ぼす者よ、私はあなたを見る。このとき私の魂は震える。私は不動も安らぎも見いだせない、おお、私にはヴィシュヌそのものである偉大なクリシュナよ。私はあなたの恐るべき内部をのぞき込む、火にも似て、あらゆる時の終わりのように、存在が働きかけるごとく、働きを及ぼす内部を。何事についてか知ることができないようなしかたで私はあなたを見る。おお、私にお慈悲を、神々の主、宇宙の住処(すみか)よ。」アルジュナはクル族の息子たちの方を指し示しつつ向きなおります。「これらクル族の息子たちはすべて王の勇者たちの群とともに、ビーシュマとドローナとともに、私たちの最良の戦士たちとともに、彼らはすべてあなたの前にひれふす、祈り、あなたの栄光に驚嘆しつつ。あなたを、存在の原初を私は知りたい。私に顕現するもの、私に啓示されるものが何か、私にはわからない。」

 アルジュナ自身の本質であるものとともにただひとりあるとき、この自身の本質が彼に客観的に現れるとき、アルジュナはこのように語るのです。私たちは、ひとつの大いなる宇宙の秘密の前に立っています、秘密に満ちているのは、その理論的内容のゆえにではなく、私たちがこれを正しく把握することができるときに私たちのうちにわき起こるはずの圧倒的な感情のゆえにです。これは秘密に満ちています、あらゆる人間的感情に向かって、かつて宇宙における何かが人間的感情に向かって話したのとは別の話し方をしなければならないほどに、秘密に満ちているのです。

 今やクリシュナが語ることを、クリシュナ自身がアルジュナの耳に響かせるとき、こう響きます。「私はあらゆる世界を滅ぼす時[Zeit]である。私は人間たちを奪い去るために現れたのだ。たとえお前が闘って彼らを死に至らしめないとしてもーーお前がいなくても、向こうの戦列に立っている戦士たちはみな死を免れ得ない。だから、怖れず立ち上がるのだ。敵を打ち負かす栄誉を獲得せよ。待ち受ける勝利と支配を享受せよ。彼らが倒れ討ち死にするとき、彼らを殺したのはお前ではない、お前が彼らに死をもたらす前に、彼らはすべて私によってすでに死んでいたのだ。お前は単なる道具となれ、単に手をくだして闘う者となれ!ドローナ、ジャヤッドラタ、ビーシュマ、カルナおよびその他の者たち、これらの者を私は殺し、彼らはすでに死んでいるが、今、お前が彼らを殺すのだ、彼らが私によって殺され、マーヤにおいて死に倒れるとき、現象における私の働きが外へと発揮される。お前は彼らを殺しなさい。私が為したことは、一見お前により起こされるように見えるだろう。おののいてはならない!お前は、私が前もって為さなかったことは何も為すことはできないのだから。闘うがよい!彼らはお前の剣に倒れるだろう、私がすでに殺した彼らは。」

 私たちが知っているように、パーンドゥの息子たちのもとでクリシュナの側からアルジュナへの指導により起こることはすべて、あたかも御者がドリタラーシュトラに語っているかのように語られます。詩人は、クリシュナはアルジュナにこう語った、と直接語るのではなく、ドリタラーシュトラの御者サンジャヤは、盲目の英雄、クル族出身の王にこれを語った、というふうに語ります。サンジャヤはこれをすべて語ったあと、さらにこう言います。「そしてアルジュナはクリシュナのこの言葉を聞いたとき、合掌し震えつつ、敬いの言葉をクリシュナに返す、ただどもりながら、クリシュナの前に畏れきって深く敬礼しつつ、アルジュナはこう言った。世界があなたを称えて歓喜し、畏敬の念に満ちてあなたに心服するのももっともである。ラクシャスどもーーこれは霊たち[Geister]ですがーーは愕いて四方八方に逃げる。聖なる群はみなあなたの前に身をかがめる。ブラフマーよりも尊い最初の創造者にどうして彼らがひれふさないことがあろうか。」

 まことに私たちはひとつの宇宙の秘密の前に立っているのです。と申しますのも、アルジュナは彼自身の本質を生き生きと眼前に見て何を言うでしょうか。彼は言います、彼はこの自身の本質に、ブラフマーそのものよりも高次のものに思われる、と語りかけています。私たちはひとつの秘密の前に立っています。と申しますのも、このように人間が自分の本質に語りかけるとき、そのような言葉は、通常の生活で駆使されているいかなる感情、感受性、理念、思考も、理解のためにも用いられないような言葉であると解されなければならないからです。と申しますのも、生活のなかでどんなふうにであれふつう持つことができるであろう感情を、このアルジュナの言葉に近づけるなら、これほど人間を大きな危険に陥れることはないからです。人間が日常生活の何らかの感情を、このとき語りかけているものに近づけるとしたら、それがまったく奇妙なことでないとしたら、これを最大の宇宙の秘密と感じないとしたら、病へのささいな兆候が、狂気、誇大妄想となるでしょう、クリシュナすなわちそのひと自身の高次の本質に対して通常の感覚で近づくことにより、人間はこの病に陥ります。「御身神々の主よ、あなたは無限であり、あなたは永遠であり、あなたは最高の者である、あなたは存在であると同時に非在でもある、あなたは神々のうちもっとも上位の者であり、神々のうちもっとも古い者である、あなたはありとあらゆる宝のうち最高のものであり、あなたはここで知る者であり、あなたはここで意識されうる最高のものである、あなたはすべてを包み、あなたのうちにはありとあらゆる姿がすべてある、あなたは風、あなたは火、あなたは死、あなたは永遠にうねる宇宙の海、あなたは月、あなたは神々のうち最高の者、あなたは名そのものであり、始祖である、神々のうち最高の者であるあなたは。あなたはあがめられねばならない、千の、千回の崇拝。このすべてよりもさらに多くの崇拝があなたにはふさわしい。あらゆる方向からあなたは崇拝されなければならない。あなたはいつか人間がなりうるすべてである。あなたはいつかあらゆる力の総体のみがそうありうるほどに力に満ちている、あなたはすべてを成し遂げ、同時にあなた自身がすべてである。はやまってあなたを友人とみなし、あなたの驚くべき偉大さを知らず、私があなたをクリシュナと、ヤーダヴァと、友と、呼んだのなら、軽率に、親しげにあなたをそう呼んだのなら、そしてまた弱さのなかで私があなたを正しく敬わなかったなら、散策あるいは休息時に、きわめて神聖な時あるいはきわめて日常的なとき、あなたがひとりであろうとほかの存在たちとともにあろうと、私が正しくあなたを敬わなかったのなら、これらすべてにおいて私があなたを正しく敬わなかったのなら、私はあなたの計り知れなさにお詫び申し上げる。宇宙の父である方よ、宇宙を動かし、宇宙のなかで動く方よ、あなたはほかのどの師をもしのぐ、並ぶ者なき、誰よりも優れた師であり、この三界におけるすべてに比類がない、あなたの前に私はひれふし、あなたの恩寵を乞う、あらゆる世界に顕現する主よ。私はあなたに決して見たことがないものを見て、畏怖しつつ震えざるをえない。あなたの(本来の)姿を示して下さい、おお神よ!おお、お慈悲を、神々の主よ、あらゆる世界の原初の地である方よ。」

 人間の本質が人間の本質にこう語りかけるとき、まことに、私たちはひとつの秘密の前に立っています。そして今度はクリシュナが弟子に語りかけます。「私は恩寵をもってあなたに私の姿を現したのだ。私の最高の本質があなたの前に立っている、私の全能により、あなたの前に不可思議に出現するのだ、輝きつつ、測りがたく、捉えがたく。かつてほかの誰も、あなたが私を見るように私を見たことはない。今私の恩寵によりあなたのなかに与えられている力、これらの力をもってあなたが今私を見るようにはけっして、ヴェーダのなかに出ていることが私を告げることはなかった。供物として与えられたものも決してこのように私に届くことはなかった、神々への何らかの布施も、探究も、決して届くことはなかった、何らかの儀式も決してこのように私のところに届くことはなかった。何らかの烈しい懺悔も、今のような姿かたちの私を、今人間の形でお前が私を見ているようには見ることはできない、偉大な勇者よ。私の恐ろしい姿を見ても、怖れてはならない、心を乱してはならない。怖れを離れ、心楽しく、再びお前は私を見なさい、お前のよく知っているこの姿を。」

 さて、サンジャヤは盲目のドリタラーシュトラにさらに語ります。「クリシュナがアルジュナにこう言うと、測りがたいもの、初めも終わりもないもの、あらゆる力よりも高いものは消え去り、ふたたびクリシュナは人間のかたちで現れた、怯えていた者を、その親しみやすい姿で落ち着かせようとするかのように。

 アルジュナは言った、人間の姿のあなたをふたたび見て、私は落ち着きを取り戻し、ふたたびもとの私にもどりました、と。

 するとクリシュナは言った、今私があなたに見せた姿はこれほど見ることが困難なものなのだ、神々ですらこれを見たいと絶えず憧れている。ヴェーダもこの姿については告げず、懺悔によっても、布施によっても、供物によっても、何らかの儀式によってもこの姿に到達できない。このどれによっても、お前が今見たこの姿形での私を見ることはできない。あらゆるヴェーダから自由に、あらゆる懺悔から自由に、あらゆる布施、供物、あらゆる儀式から自由に彼方へと歩むことを知っている者のみが、ただ私のみに敬いつつ目を向けることができる者のみが、このような形姿での私を見ることができ、私をこのように認識することができ、私とまったくひとつになることもできるのだ。私が促すように行い、私を敬い愛し、世界を気にかけずあらゆる存在に愛情深い者、そういう者は私に至る、おお、パーンドゥ族出身の私の息子よ。」

 私たちは、ギーターが語ってくれる宇宙の秘密の前に立っています、これが人類の意味深い宇宙時刻[Weltenstunde]に告げられた、血に結びついた古い霊視[Hellsehen]が途絶え、人間の魂が、永遠のもの、移ろわぬものに至る新たな道を模索しなければならなかったあの意味深い宇宙時に告げられた、という秘密です。この秘密が私たちに見せられます、そして人間が観照しつつ自分自身から自らの本質を生み出したときに人間にとって危険になりうるすべてを、私たちはこの啓示のなかに同時に感じ取ります。真の自己認識により私たち自身の本質について語るこのもっとも奥深い人間のおよび宇宙の秘密を私たちが捉えるとき、私たちは自らの前に最大の宇宙の謎を置いたのです。けれどもこの謎を置くことが許されるのは、私たちがこれを謙虚に敬うことができるときのみです。そしてこの宇宙の謎に近づくためには、どんな理解力もじゅうぶんではありません。そのためには正しい感情が不可欠なのです。ギーターからこのように語りかける宇宙の秘密に近づくことは、敬いつつそれに近づくことのできない者には許されないのです。そのように感じ取ることができてはじめて、私たちはその秘密を完全に把握するのです。そして、人類進化のある段階において、この秘密がギーターのなかでこの出発点からいかに見られうるか、さらに、まさにギーターにおいて私たちに示されるものを通じて、いかにその秘密が別のしかた、つまり私たちがパウロ書簡のなかで出会うような別のしかたをもふたたび照らし出す働きをするか、このことを本連続講演を進めながら扱っていくつもりです。

 

□編註

☆1 以前の時代においては命名や名づけのしかた全体が今とは異なっていた:

   1908年5月22日、31日ハンブルクでのシュタイナーの講義参照

   『ヨハネ福音書』(GA103)所収

    *邦訳『ヨハネ福音書講義』高橋巌訳 春秋社

☆2 ヨハネ福音書においては[…]ひとたちが神の子らと呼ばれています:

   ヨハネ1ー12,13 参照。

☆3 まことにクリシュナはクリシュナ自からこう言うことができます:

   第10歌 20-39 節 参照。

☆4 「私は[…]あらゆる神々を見る…」:第11歌 15 節以下

   この部分とこれに続く引用は、レオポルド・フォン・シュレーダー

   Leopold von Schroeder の翻訳(Eugen Diederiches Verlag から

   新版1955年デュッセルドルフ/ケルン)に自由に拠っている。


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