ルドルフ・シュタイナー

バガヴァッド・ギータとパウロ書簡 GA142

Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe


第4講

翻訳者:yucca

(2000.9.29登録/2000.11.26一部改訳)

1912年12月31日、ケルン


 すでに昨日講義の初めに指摘されたことですが、私たちの魂が一方で、釣り合いがとれ、平静な、熱狂と情動を離れた真に智慧あるバガヴァッド・ギーターの本質を自らに作用させ、他方でパウロ書簡、つまり多くの点で、これは個人的な(パーソナルな[persoenlich])情熱、個人的な(パーソナルな)意図と見解に貫かれている、ある種のアジテーション的、プロパガンダ的意味に貫かれていて、時おり騒々しく怒りっぽくさえある、という印象を与えるパウロ書簡において支配的なものを作用させるとき、私たちの魂が受け取る印象は非常に異なります。そして、精神内容の表出のされかたをも作用させるとき、ギーターにおいては驚くほど芸術的に完成された形式のなかに完全なものが得られます、ここで詩的に啓示され、しかも哲学的でもあるものを表現するこの完全さはこれ以上はほとんど想定できないほど完全なものです。これに対してパウロ書簡においてはしばしば、表現のぎごちなさ、とでも言えそうなものがあり、時おり不器用さとも思えるこのぎごちなさに直面しては、深い意味を引き出してくるのはきわめて困難となっているのです。

 これらすべてにもかかわらず、ちょうどギーターにおいて東洋の世界(宇宙)観の調和が主音となって私たちに響いてくるように、パウロ書簡においては、キリスト教(クリステントゥム)において重要なものが、キリスト教の発展にとっての音頭取りの位置を占めているのが見出せる、というのはやはり正しいのです。私たちがパウロ書簡のなかに見出すのは、復活[Auferstehung]についての、掟に対する信仰と呼ばれるものの意味についての、恩寵の作用についての、魂あるいは人間の意識のなかのキリストの生その他多くについての、キリスト教の根本的に重要な真理です。これらすべてが、キリスト教の叙述において繰り返し繰り返しこのパウロ書簡から発してこざるを得ないように置かれているのがわかります。

 パウロ書簡の場合、すべてはキリスト教に関わっています、ちょうどバガヴァッド・ギーターにおいてはすべてが、営みから自由になることについて、直接行為する生から自らを解き放ち、事物の観察へ、魂の沈潜へ、霊的高みへの魂の上昇へ、魂の浄化へ、要するにこのギーターの意味で語るなら、クリシュナとの一体化に至ることについての偉大な真理と関わっているように。

 まさにここで特徴づけられたすべてが、これら二つの霊(精神)の啓示の比較をきわめて困難にしているのです、そして単に外面的な比較をするひとが、純粋さと平静と叡智の点でバガヴァッド・ギーターをパウロ書簡よりも高く評価せざるを得ないのは疑いのないことでしょう。けれどもこのように外面的な比較をするひとはいったい何をしているのでしょう。そういう比較をするひとは、誰かが目の前に、美しい、すばらしい花を咲かせた完全に成長した植物を見、そのかたわらに植物の種があるのを見て、私の前に完全に開花したすばらしい花を咲かせた植物がある、何と言ってもこれは目立たない物言わぬ種よりずっと美しい、と言うのに似たことをしているのです。ーーとは言っても、すばらしく美しい花を咲かせた植物のかたわらに置かれたこの種から、いつかもっと美しい花を咲かせるもっと美しい植物が成長してくる、という事態もあり得るでしょう。ですから、成長しきった植物とまったく成長していない種のように並置されているものをこのように直接比較するなら、正しい比較をしているとは言えないわけです。バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡を比較するときにもそうなのです。

 バガヴァッド・ギーターにおいて眼前に現れるのは、熟し切った果実のような何か、何千年にもわたって成長し、ついに壮大なギーターのなかに智慧ある成熟した芸術的表現を見出した長い人類進化の見事に美しい仕上がりのような何かです。そしてパウロ書簡においては、まったく新しい何かの種子、さらにどんどん成長していくにちがいない種子が眼前にあります、そしてこれをまさに種子のようなものと見なし、未来へ向かって進化が何千年も流れ去り、パウロ書簡のなかに種子のように置かれているものがますますいっそう成熟したときそこから生成するはずのものに預言的に目を向けるときにのみ、その完全な意味でこれを自らに作用させることができるのです。

 このことを考慮するときにのみ、正しい比較ができるのです。そうすると、将来偉大になるべきものが、最初目立たない姿でキリスト教の深みからパウロ書簡のなかに、人類の魂から混沌と湧き出してくるように一度現れねばならなかったことについてもはっきり理解できます。このように、一方でバガヴァッド・ギーターの、他方でパウロ書簡の、地球の全人類の進化にとっての意味に目を向けるひとは、別の描写をしなければならないでしょう、そして、美と叡智と内的な形式の完成に関して完全な作品という点で評価せざるを得ないひとも別の描写をしなければならないでしょう。

 けれども、ここでバガヴァッド・ギーターとパウロ書簡において明らかになるような二つの世界観を比較したいなら、まずこう問わなければなりません、ここではいったい何が問題なのか、と。それは、私たちがまず問題となる世界観について歴史的に見晴るかすことのできるすべてを扱っているということ、つまり人類進化への自我[Ich]の育成[Heranziehung]ということです。人類進化においてこの自我を追求してみますと、こう言うことができます、キリスト教以前の時代においては、この自我は独立していなかった、まだ隠された魂の底に根ざしているようなもので、自分自身で進化していく可能性にはまだ達していなかった、と。

 自分自身の性格を持って進化していくこと、これは、私たちがまさにキリスト衝動[Christus-Impuls]という名で呼んでいる衝動がこの自我のなかに投げ込まれることによってのみ可能になったのです。ゴルゴタの秘蹟以来人間の自我のなかに在ることができ、パウロの「私でなく私のなかのキリスト」という言葉のなかに表現されるもの、これはそれまではこの自我のなかに在ることはできませんでした。けれども、ゴルゴタの秘蹟より何千年も前、すでに人々は省察しつつキリスト衝動に近づいたのですが、その時代に、その後キリスト衝動が人間の魂のなかに組み込まれることによって起こるべきことがゆっくりと準備されました。とくにそれは、クリシュナの行いにおいて私たちに表明されるようなしかたで準備されたのです。

 ゴルゴタの秘蹟以後、人間がキリスト衝動として自分自身のなかに探し求めなければならなかったもの、「私ではなく、私のなかのキリスト」というパウロ的形式の意味のなかに見出さねばならなかったもの、これを人間は、ゴルゴタの秘蹟以前には外に向かって探し求めなければなりませんでした、あたかも宇宙のかなたから啓示のように到来するもののように探し求めねばなりませんでした。そして私たちが時代を遡れば遡るほど、この外的啓示はいっそう輝きに満ち、鼓舞するものとなります。つまり、ゴルゴタの秘蹟以前の時代においては、人類へのある種の啓示があった、太陽の輝きが外から対象を照らすときに起こるような人類への啓示があった、と言うことができます。光が外から対象に当たるときのように、霊的太陽の光は外から人間の魂に当たり、それを照らしていました。

 ゴルゴタの秘蹟以後、私たちは魂のなかにキリスト衝動として、つまり霊的な太陽光として作用しているものを、次のように言うことで比較できます、これは私たちが、内部から光を放つ自ら輝く天体を前にしているときのようだ、と。私たちが事態をこのように観るとき、ゴルゴタの秘蹟という事実は私たちにとって人類進化の重要な境目となります、私たちにとってこのゴルゴタの秘蹟はひとつの境目となるのです。この関係全体を象徴的に描くことができます(図)。

 この円(左)が人間の魂を示すとしますと、私たちはこう言うことができます、霊の光が外部のあらゆる方向から人間の魂へと発してくる、と。それからゴルゴタの秘蹟が起こり、その後魂は自らのうちにキリスト衝動を有し、キリスト衝動のなかに含まれるものを自分から発します(右)。

 あらゆる方向から照らされ、こうして照らされることによって輝く滴のように、キリスト衝動以前の魂は私たちに現れます。内的に輝き、自らの光を放射する炎、ゴルゴタの秘蹟以後の魂は、キリスト衝動を受け入れる状態となったとき、この炎のように私たちに現れるのです。

 このことに注目するなら、私たちはこの関係全体をサーンキヤ哲学でおなじみの名称で表すことができるでしょう。私たちはこう言うことができます、私たちが、ゴルゴタの秘蹟以前のあらゆる方向から霊の光に照らされている魂に霊眼を向けるなら、このあらゆる方向から魂を照らす霊、つまり私たちがこの関係全体に注目することでその霊性が私たちに輝き出すような霊の関係全体は、サーンキヤ哲学の名称に従えばサットヴァ状態にあるように見えます。これに対して、ゴルゴタの秘蹟以後実現された魂は、私たちがいわばこれを外から霊眼で観ると、あたかもその内部深くに霊の光が隠されているかのように、魂的なものが霊の光を隠しているかのように見えます。ゴルゴタの秘蹟以後キリスト衝動のなかに内包されている霊の光は、魂実質に覆われているように見えるのです。

 そしてこの現代に至っても、とくにこの現代、人間が外的に体験し、知覚するすべてに関して、私たちはこの関係を見ないでしょうか。今日人間を、外的な知、外的な活動において人間が携わっていかねばならないものを、ひとつ観察してみるとよいでしょう、そして内部深くに隠され、まだまったく輝きの弱々しい小さな炎さながら、キリスト衝動が人間のなかで他の魂内容に覆われているさまを、これに対置してみればよいのです。これは、霊の魂への関係においてサットヴァ状態である前キリスト的状態に対して、タマス状態なのです。

 つまりこの意味において観察するなら、ゴルゴタの秘蹟は人類の進化において何をするのでしょうか。霊の啓示ということに関しては、これはサットヴァ状態をタマス状態へと変化させます。人類はこのとき前進します、しかし、人類はいわば、深く転落すると言えるかもしれません、ゴルゴタの秘蹟を通じてではなく、自らを通じてです。ゴルゴタの秘蹟はますますいっそう炎を燃え立たせます。けれども、以前は力強い光があらゆる方向から魂を照らしていたけれども、その後その炎は小さな炎としてのみ魂のなかに現れるということ、このことが、前進していく、とは言えますますいっそう闇のなかに沈み込んでいく人間性質を作り出すのです。けれども、人間の魂の霊への関係におけるタマス状態が、ゴルゴタの秘蹟のせいだというのではありません、ゴルゴタの秘蹟が起こることによって、はるかな未来、今度は内から吹き起こされたサットヴァ状態がタマス状態から実現されるのですから。

 サーンキヤ哲学の意味において、サットヴァ状態とタマス状態の間にはラジャス状態がありますが、このラジャス状態は人類進化に関して、ちょうどゴルゴタの秘蹟に当たる時期によって特徴づけられます。人類自らが霊の啓示に関して、ほかならぬゴルゴタの秘蹟をめぐる数千年に、光から闇へ、サットヴァ状態からタマス状態への道を通っていくのです。私たちがこの進化をもっと厳密に観ていきたいなら、こう言うことができます、私たちが人類の進化の時間を線a-b で示すなら、ゴルゴタの秘蹟以前およそ七ないし八世紀頃までは、人間の文化におけるすべてはまだサットヴァ状態にあった、と。

7世紀

15,16世紀

カルデアーエジプト

ギリシアーラテン

私たちの時代

 次いで、ゴルゴタの秘蹟が起こる時代が始まり、そしてさらに次の時代−−ゴルゴタの秘蹟後およそ15、16世紀頃について語ることができるでしょうーーが始まります、こうして明らかにタマスの時代が始まるのです。けれどもこれは推移してゆくものです。そして私たちのよく知っている名称を用いたいなら、ある種の霊の啓示のためにいわばまだサットヴァ状態に入りこんでいた時代は、私たちがカルデアーエジプト時代と呼ぶ時代と一致します。ラジャス状態にあるものがギリシアーラテン時代、タマス状態にあるのがこの現代です。私たちも知っている通り、後アトランティス状態のうち、ここで特徴付けされたカルデアーエジプト時代が第三のものであり、ギリシアーラテン時代が第四、現代が第五のものです。人類進化のプランとでも言いたいものに従って、後アトランティス第三期から第四期にいわば外的な啓示の死滅が、キリスト衝動を燃え立たせるための人類の準備が起こらなければなりませんでした。けれどもこのことは現実にどのように起こったのでしょうか。

 さて、人間の霊(精神)の関係が、第三の人類期であるカルデアーエジプト時代において後続する時代にとってどのように異なっていたかを明らかにしようとするなら、こう言わなければなりません、この第三の時代においては、エジプトにせよカルデアにせよインドにせよこれらすべての国々、人類進化のこれらすべての地域にとって、人類はまだなお古い霊視的力の名残を有している、という状況であった、と。すなわち、人間は諸感覚と脳に結びついた知性の助けによってのみ外界を見ていたのではなく、人間は少なくとも眠りと目覚めの間のある状態においては、まだエーテル体の器官を用いて外界を見ていた、と。

 私たちがあの時代の人間を思い描こうとするなら、まったくもってこう言う以外許されないでしょう、あの時代の人間にとって、私たちが知っているような、諸感覚と脳に結びついた知性によって自然と世界とを観るということは、彼らが体験していた状態のうちのひとつにすぎない、と。けれども、これらの状態において、彼らはまだ知[Wissen]というものを形成しておらず、いわば事物をただ観ていただけでした、事物を空間においては並列的に、時間においては順を追って作用させていたのです。これらの人間が知に至りたいと思ったときは、彼らはこの現代の場合のように人工的にではなく自然に、おのずと現れてくるように、彼らの奥深くにある力を、彼らのエーテル体の諸力を認識のために働かせるという状態にならなければなりませんでした。そして私たちにサーンキヤ哲学の驚くべき知として現れてくるすべてのものも、このような認識から生じてきました、このような観察から、ヴェーダの知において私たちに継承されてきたものすべてーーただこれはさらに古い時代のものですがーーが生じたのです。

 つまりこうして人間は、異なった状態に至ることあるいはそのような状態に移ったと感じることによって認識を獲得していたのです。人間には、目で見、耳で聞き、通常の知性で物事を追求するいわば日常的状態がありました。けれども、この見ること、聞くこと、知性は、外的実際的な要件を考慮するためにのみ用いられました。この能力が学問、認識のために用いられるなどということはまったくなかったでしょう。学問、認識のためには、人間がその本質のもっと深い諸力を活動させる別の状態において現れてくるものが用いられたのです。

 つまり私たちはこのいにしえの時代の人間について、こういう対比を用いてよろしければ、いわば彼は平日の体(日常体[Alltagsleib])を有していて、この平日体の内部にもっと精妙で霊的な日曜の体[Sonntagsleib]を有している、というふうに思い描くことができるのです。平日体を用いて人間は日常的なことを処理し、エーテル体のみから編まれている日曜体を用いて、彼は認識をし、学問を養いました。そして、現代において私たちが平日体を用いて学問を作り上げ、宇宙から何かを知るというようなときにもまったく日曜体をまとわない、などということは当時の人間をびっくりさせる、と言えばこの対比の正しさが確認されるような時代、人間にとってこのいにしえの時代はそういう時代なのです。そう、この全状態での体験をしているこのような人間にとって、いったいそれはどういうものだったのでしょう。この全状態の体験において、人間がより深い諸力による認識のなかにあったとき、つまりたとえばサーンキヤ哲学を完成させた認識のなかにあったとき、彼は今日の人間のようには感じていたのではありません、つまり学問を身につけようとするとき、知性を振り絞り頭で思考しなければならない今日の人間のように感じていたわけではないのです。知を獲得したとき人間は、自分がエーテル体のなかにいるように感じました、と言っても今日の物質的な頭である部分にはほとんど刻印されておらず、むしろほかの部分に多く刻印されているエーテル体ですが。人間はそのエーテル体のほかの部分でずっと多く思考していました。頭部のエーテル体はもっとも劣った部分なのです。人間はいわば、自分はエーテル体で思考している、思考の際物質体から上へ抜け出す、と感じていました。知の形成、認識形成のこのような瞬間に彼はさらにまたあることを感じました、彼は、自分が本来地球とともにひとつの全体であると感じたのです。平日体を脱いで日曜体をまとうとき、彼はあたかも、諸力が彼の本質全体を貫いていくような感情を持ちました、諸力が私たちの両脚と両足を貫き、これらの力が、ちょうど私たちの両手と両腕を貫く力が私たちの体と結びつくように、私たちを地球に結びつけるときのような感情です。人間は、自らを地球の一部と感じ始めたのです。一方で彼は自分はエーテル体のなかで思考し知る、と感じ、他方において自分はもはや切り離された人間ではなく、地球の一部である、と感じました。人間は自分の本質が地球の中に食い込んでいくのを感じました。つまり人間が日曜体をまとっていざ認識、ということになったとき、体験の内的なあり方全体がまったく変化したのです。

 まさにこの古い時代、第三の時代が途絶え、そして新たな、第四の時代が始まったとき、このとき何が起こらなければならなかったのでしょうか。このとき何が起こらねばならなかったかを理解したいなら、私たちは古い命名法に少し感情移入してみるのが良いでしょう。

 あの古い時代において、たった今私が特徴づけましたことを体験した人間は、私のなかで蛇が活動し始めた、と言いました。ーー彼の本質は地中へと伸びていったのです。

 人間は自分の物質体を本来的に活動するものと感じてはおりませんでした。彼は、自分が蛇のような突起を地中へと伸ばしていくように感じたのです、そして頭は地中から突出したものであるかのように。そしてこの蛇存在、これを彼は思考する者と感じました。ですから彼のありようをこう描くことができるでしょう、そのエーテル体は蛇の体のように地中に伸びていた、そして物質的人間としては地面の外にある一方、認識し知るときには地中に入り込んでいき、エーテル体で思考していた、というように。私のなかで蛇が活動している、と彼は言いました。つまり古い時代において認識とはいわば、私は私のなかの蛇を活動させる、私は私の蛇存在を感じる、ということであったのです。

 新たな時代が始まるためには、新たな認識が到来するためには、何が起こらなければならなかったのでしょうか。人間が両足と両脚を通じてその本質を地中に伸ばしていくと感じた、そのような瞬間が存在することはもはや不可能とならなければなりませんでした。それに加え、エーテル体のなかでの感情は死に絶え、物質的な頭へと移動しなければなりませんでした。この古い認識から新たな認識への移行という感情を正しく思い描くなら、人は足に傷を負うけれども、人は自ら自分の体で蛇の頭を砕く、と言えばこの移行がよく表現されていることがおわかりになるでしょう、つまり頭を持つ蛇が思考器官であることをやめる、ということです。物質的な体、とりわけ物質的な脳が蛇を殺します、そして蛇は人から地球との一体感を奪い去る、つまり人のかかとに噛みつくことでそれに復讐するのです。

 人類の体験の形態が別のものへと変わるこのような移行期においては、古い時代から入り込んできているものは、新たな時代に到来するものといわば戦闘状態にあります、と申しますのも、ものごとはまだ共存してあるからです。息子が長生きして父親も存命であるようなものです。とは言え息子は父に由来するものです。第四の時代、ギリシアーラテン時代の特性が現にあるのですが、まだ人間と民族のなかには第三のエジプトーカルデア時代の特性が入り込んできていました。進化が入り混じって経過していくのは当然のことです。けれども、このように新たに上昇してくるものであると同時に古きに由来するものとして共存して生きているものは、もはやよく理解されません。古いものは新しいものを理解しないのです。新しいものは古いものに対して抗い、古いものに対してその生命を主張しなければなりません。すなわち、新しいものがそこにあるのですが、先祖がなおもその特性を持って古い時代から子孫のなかに入り込んでいます、新しいものをともに作らなかった先祖がです。私たちは第三の人類時代から第四の時代への移行をこのように特徴づけることができます。

 ですからひとりの英雄がそこにいなければなりませんでした、蛇を殺し、蛇によって傷つけられるこのプロセスをまず意味深く示すと同時に、自分の近親者ではあるけれども、その特性とともに古い時代から新たな時代へとなおも輝き出てくるものに対抗しなければならなかったいわば人類の指導者が。人類は、全世代が体験することを、最初にひとりが非常に大きなスケールで体験しなければならない、というかたちで前進していかなければならないのです。

 このとき蛇の頭を殺し、第三の宇宙期において意味があったものに対抗した英雄は誰だったのでしょうか。人類を古いサットヴァ時代から新たなタマス時代へと導き出したのは誰だったのでしょう。それはクリシュナでした。そして、これがクリシュナであったということを、東洋の伝説(☆1)によって以上にはっきりと私たちに示すことがどうやって可能でしょうか。その伝説ではクリシュナは神々の息子とされ、マハーデーヴァとデーヴァキーの息子として、驚異のもとに登場します、つまり彼は何か新しいものをもたらすということです。彼はーー先ほどの対比を続けるならーー人間が平日体のなかに知を求めるようにさせます、そして彼は日曜体すなわち蛇を殺します、彼は自分の親族から新たな時代へと入り込んでくるものに抵抗しなければなりません。

 こういう人は何か新しいもの、何か驚くべきものです。ですから伝説は、幼子クリシュナの誕生のときにもう周囲は驚異に満ちていたこと、そしてクリシュナの母の弟カンサが幼子クリシュナの命をねらったことを語ります。ここで幼子クリシュナの叔父のなかに古いものの入り込んでいます、それで新しいものをもたらす者、第三の時代を殺し、外的な人類進化のために古い関係を滅ぼすものをもたらす者であるクリシュナは、抵抗し、抗わねばならないのです。彼は、古いサットヴァ時代の守護者であるカンサに抵抗しなければなりません。そしてクリシュナを取り巻くきわめて重要な驚異のもとで伝説は語ります、巨大な蛇カーリが彼に巻き付いたが、彼は蛇の頭を踏みつぶすことができた、しかし蛇は彼のかかとを傷つけた、と。ここには、伝説はオカルト的な事実を直接再現している、と私たちが言い表すことのできるような何かがあります。伝説は直接再現しているのです。ただし、外的な説明にかかずらわってはなりません、伝説を理解するためには、正しい場所で認識との正しい関連において伝説を捉えなければならないのです。

 クリシュナは、没落していくアトランティス後第三人類期の英雄です。伝説はまたも私たちに語ります、クリシュナは第三宇宙期の最後に登場した、と。理解されればすべてはそのとおりなのです。クリシュナは、古い認識を殺し、認識を曇らせる者です。クリシュナは外的に現れてこれを行います。以前はサットヴァ認識のように人間を取り巻いていたものを、彼は暗くするのです。けれどもこのとき彼はバガヴァッド・ギーターにおいてはどのように立っているでしょうか。彼はこのとき、彼が奪ったものへのいわば調停として、通常の人間性にとって失われたものへと、ヨーガによっていかに上昇していくことができるか、ひとりの人間に指針を与えます。

 このように、クリシュナは世界にとって古いサットヴァ認識を殺す者であると同時に、ギーターの結末において私たちに現れてくるように、放棄された認識に再び導いて行こうとするヨーガの主です、今や外的に平日の服のように身につけているものを克服し、打ち負かすときにのみ、つまり古い霊(精神)状態にもどるときにのみ獲得できる古い時代の認識へと再び導くのです。これはクリシュナの二重の行為[Doppeltat]でした。クリシュナは一方で世界史の英雄として振る舞い、古い認識である蛇の頭をうち砕いて、人類に物質体に宿ることを強います、この物質体のなかでのみ、自我[Ich]は自由な自発的な自我として獲得されうるのです、これに対して、以前は人間を自我たらしめていたすべてのものが外から放射されてきていました。これが世界史的な英雄としてのクリシュナでした。このときクリシュナはひとりの人間にとって、帰依、沈潜の時のために、内的な発見のために、かつて失われたものを再現してくれる者でした。そしてこれは、昨日最後に私たちの魂に作用させたギーターの場面において私たちに壮大に姿を現したもの、アルジュナに自身の本質として姿を現したものです、ただ、これは外から見られたもの、始まりも終わりもなくあらゆる空間に広がっていると見られたものですが。

そしてこの関係をさらに詳しく観察すると、私たちはギーターのある箇所に、そうでなくとももう私たちはギーターの偉大な力強い内容に驚嘆させられているのですが、この驚嘆がさらに再現のないものにまで大きくならざるを得ない箇所に至ります。ここで私たちが辿り着くのは、今日の人間にとってはしかしまさに説明しがたいものであらざるを得ないあの箇所、クリシュナがアルジュナに、アシュバッタ樹[Ashvatthabaum]つまりイチジクの樹[Feigenbaum]の性質であるものを、この樹は根を上に向け、枝を下に向けている、と言って明らかにする(☆2)あの箇所です、ここでさらにクリシュナはアルジュナに、この樹の葉の一枚一枚がヴェーダの書の頁であり、これらが一緒になってヴェーダの知をもたらす、と言うのです。ここは独特な箇所です。この箇所はいったいどういう意味なのでしょうか、根を上に、枝を下に向けて、葉はヴェーダの内容をもたらす生命の大樹へのこの示唆は。

 さて、ここで私たちはまさに古い認識へと入り込み、古い認識がどのように作用していたかはっきりと理解しなくてはなりません。ご存じのとおり現代の人間はいわば物質的器官を通じて伝達される今日の認識を知っているだけです。私たちがたった今示したような古い認識は、まだエーテル的な体のなかで獲得されました。人間がまるごとエーテル的であったというわけではありません、物質体のなかにあったエーテル体のなかで認識が獲得された、ということです。古い認識は、組織化、エーテル体の配分によって獲得されたのです。

 ひとつ生き生きと思い描いてみてください、皆さんがエーテル体のなかで、蛇によって認識するとき、今日の人間にとっては世界に存在しない何かが世界に存在するのです。今日の人間は、自然にふるまうとき、周囲の多くのものを知覚しますね。けれどもちょっと世界を観ているひとを思い浮かべて下さい、観察する人間が知覚しないものがあります、脳です。観察するとき、いかなる人間も自分自身の脳を見ることができません。このことは、エーテル体のなかで観察するようになるやいなや不可能ではなくなります。ここでは通常見えない新たな対象が出現します、自分の神経組織を知覚するのです。と言っても、たとえば今日の解剖学者が神経組織を知覚するように知覚するわけではありません。神経組織は解剖学者が知覚するように見えるのではなく、そうだ、お前はまさにお前のエーテル性質のなかにいるのだ、という感情が得られるような見えかたなのです。ーー今や、上を見上げれば、あらゆる器官に通じる神経が上部の脳のなかに集まっていくのが見えます。それはこういう感情をもたらします、これは上へと伸びていく根を上部に持ち、枝をすべての四肢のなかに降ろしていく樹だ、という感情を。

 けれども実際のところ、その樹は皮膚の内部にいる私たちのように小さなものと感じられるのではなく、巨大な宇宙樹[Weltenbaum]のように感じられます、根ははるかに空間の彼方に伸び、枝は下に向かう宇宙樹です。つまりひとは自らを蛇と感じ、いわば自分の神経組織を対象として見て、それについて、これははるか空間のかなたまで根を伸ばし、枝を下に向かって生やしている樹だ、という感情を持つのです。私が以前の講義で、人間はある意味で反転させられた植物です、と申し上げた(☆3)ことを思い出してください。バガヴァッド・ギーターのこの奇妙な箇所のようなものを理解するためには、こういったすべてが考慮されなければなりません。このとき、今日オカルティズムの深みから新たな手段で再び呼び起こされねばならないあのいにしえの叡智のゆえにひとは驚きを感じます。そしてこのとき、この樹が明るみに出すものが体験されます、その樹の、葉のなかに成長するものが体験されるのです、それは外から放射してくるヴェーダの知です。

 ギーターの驚くべき像[Bild]が私たちの前に置かれます、それは、根を上に、枝を下に伸ばし、知識を含んだ葉を持つ樹、そして樹に巻き付いた蛇としての人間そのものです。皆さんはもしかしたらすでにこの像をごらんになったことがあるかもしれません、あるいは蛇の巻き付いたこの生命の樹の像が皆さんの前に姿を現します。こういう古い事柄に目を向けると、すべてが意味深いのです。ここで根を上に、枝を下に向けた樹が私たちの前に姿を現します。この樹はパラダイスの樹とは逆の方向を向いている、と感じられます。これには深い意味があります、と申しますのも、パラダイスの樹は、別の進化の出発点、その後古代ヘブライを経てキリスト教へと入っていく進化の出発点に立っているからです。このようにこの箇所では、私たちに、あのいにしえの知の特性全体への示唆も与えられているのです。クリシュナによって弟子のアルジュナに「この宇宙樹を人の眼に見えるようにする力は断念だ」(☆4)と明言されることで、私たちにこう示唆されます、人間は、人類進化のはるかな経過のなかで獲得したもの、私たちが昨日特徴づけたものすべてを諦めることで、あのえの知へと帰還する、という示唆です。これは何か栄光に満ちたもの、何か偉大なものとしてクリシュナがいわば分割払いとして、ひとりの[einzeln]特別な(個別の[individuell])弟子アルジュナに与えるものです、他方においてクリシュナは文化の平日使用[Alltagsgebrauch]のために全人類からはこれを取り上げざるを得ませんでした。これがクリシュナの本質です。

 それではクリシュナがひとりの特別な弟子クリシュナに与えるものは、どのようなものとならねばならないでしょうか。それはサットヴァ認識とならねばなりません。そしてクリシュナが弟子にこのサットヴァ認識を与えれば与えるほど、その認識は叡智に満ち、澄み切った、平安な、熱狂を離れたものとなるでしょう。けれどもそれはいにしえの啓示された認識でしょう、崇高な者、すなわちクリシュナそのひとが語り、それからひとりの特別な弟子が答える言葉において、かくも驚くばかりに外から人間に迫ってくるものでしょう。このようにクリシュナはヨーガの主となります、クリシュナは人類の太古の叡智へと立ち返らせ、サットヴァ状態においてなお霊を魂的に覆っているものをも、ますますいっそう克服しようとします、まだ物質[Materie]のなかに下降していない太古の清浄な状態での霊を弟子の目の前に導き出そうとするのです。昨日披露されましたあのクリシュナとアルジュナとのやりとりにおいて、このようにクリシュナはただ霊においてのみ私たちの前に立っているのです。

 これとともに私たちの魂の前で、古い霊性の時代の最後のものであったあの時代が終焉を迎えます、古い霊性の出発点においては完全な霊の光を見え、その後、人間がその自我を、自立[Selbstaendigkait]を見出せるための、物質への下降が見えるのですが、このように私たちが追っていくことのできるあの霊性の時代の終焉です。霊の光が後アトランティス第四時代が到来するまで下降したとき、一種の相互関係、霊と外的に魂的なものとの間のラジャス状態となりました。ちょうどこの時期にゴルゴタの秘蹟が起こりました。この時代においてサットヴァ状態から描写することができたでしょうか。いいえ、それではこの時代に属するものは描写することができなかったでしょう。ラジャス時代からーーサーンキヤ哲学の用語を用いようとすればーー正しい意味で描写する者は、ラジャスから描写しなければなりませんでした。清澄さからではなく、パーソナルなもの[das Persoenliche]から、あれやこれやについての憤慨から、彼は描写せざるを得なかったのです。このようにパウロはラジャス状態から語ったわけです。テサロニケ書の、コリント書の、ローマ書の、言葉の数々が脈打っているのが感じられるでしょうーー怒りの気分のように、しばしばパーソナリティの特徴をおびたもの[Persoenlichkeitscharakteristik]のようにパウロ書簡から脈打ってくるものが、人間のラジャス状態から身をよじりつつ発してくるのをみなさんは感じられるでしょう。これがパウロ書簡の様式(スタイル[Stil])と性格です。パウロ書簡はこのように登場してこなければなりませんでした、一方、バガヴァッド・ギーターは清澄に、個人(パーソナリティ)を離れて[persoenlichkeitsfrei]現れてこなければなりません、没落しゆく時代の最高の精華だからです、バガヴァッド・ギーターはしかし没落したものの代償をひとりの人間に与え、霊生活の高みへと彼を導きます。クリシュナは最高の霊の精華を自分の弟子に与えなければなりませんでした、なぜならクリシュナは人類に対しては古い認識を殺さなければならなかったからです、蛇の頭を踏み砕かなければならなかったからです。

 このサットヴァ状態はおのずと没落しました。それはもはや存在しなくなり、そのときサットヴァ状態で語ったであろう者も、ラジャス時代にはいにしえの物事についてしか語ることはできなかったでしょう。新たな時代の出発点に身を置く者は、今や標準となったものから語らなければなりませんでした。人間の本性が器官及び物質体を道具として用いる認識欲求を見出したことで、パーソナリティ[Persoenlichkeit]が人間本性のなかに引き入れられました。これがパウロ書簡から語りかけています、これはパウロ書簡におけるパーソナルな要素です。こうして、かつてあるパーソナリティが、物質的なものの闇として入り込んでくるものすべてに対して怒りの言葉を轟(とどろ)かせることになったのです。しばしばパウロ書簡においては怒りの言葉が轟いているからです。

 こうしてさらに、パウロ書簡においては、バガヴァッド・ギーターにおけるように、厳格に閉じられた線で、叡智に満ちた鋭い輪郭を持つ明晰さをもって語られることはできないということにもなります。バガヴァッド・ギーターにおけるように叡智に満ちて語られうるのは、人間が外的な営みからいかに自由になり、クリシュナと合一する霊のなかへといかに勝ち誇りつつ上昇するかが特徴付られるときです。このように、最高の魂の高みへのヨーガの歩みであるものが叡智に満ちて語られることができたのです。

 新しいものとして世界に登場したもの、内部における、単に魂的なものへの霊の勝利、これはまずラジャス状態からのみ叙述されうるものでした。そして、人類史にとって意味深くこれを最初に叙述する者は、その全情熱をもって叙述します、私はそれに関わったのだ、キリスト衝動の啓示に対峙したとき、この私自身が震えおののいたのだ、と人にわかるように。このときそれはパーソナルに[persoenlich]彼のところに近づいてきました、そのとき彼ははじめて、以来数千年を通じて作用することになるものを前にしたのです。そのとき彼はこれを前にして、彼の魂のあらゆる力がパーソナルに関わらずにはいられないというほどでした。ですから彼は、バガヴァッド・ギーターにおいて見られるような哲学的で叡智に満ちた輪郭を持った概念で叙述することをせず、彼がキリストの復活として叙述すべきものを、ひとが直接パーソナルに関わり合う何かとして叙述するのです。

 これはパーソナルな体験であるべきではなかったのでしょうか。キリスト教がきわめてパーソナルなものに浸透し、貫き灼熱させ、貫き活かす、こういうことがあるべきではなかったとでもいうのでしょうか。まことに、キリスト事件を最初に叙述する者はパーソナルにのみこれをすることができたのです。

 私たちは、ギーターにおいて、ヨーガによる霊的高みへの上昇に主音が置かれているのを見ます、そのほかのことは、単に付け足しとして触れられるのみです。なぜでしょう。クリシュナは指導に際して彼の特別な弟子に関わらなければならないからです、クリシュナが関わるべきはまさにこの特別な弟子であり、他の人間が霊的なものへの関係として外部に感じるものではないからです。ここでクリシュナは、弟子がそうなるべきものを描写します、そして弟子をますます高次のもの、ますます霊的なものにならせようとします。これは、ますますいっそう円熟した魂状態へと、したがってますますいっそう印象深い美の像へと通じていく叙述です。ですから、これはまた、結末になってはじめて、デーモン的なものと霊的なものとの対立が私たちに向かってくる、魂生活を美へと上昇させて生きることへのこのような対立にあって、何かが硬化する、ということでもあります、結末においてはじめて、私たちはデーモン的であるすべてのものの対立が、霊的であるすべてのものへの対立のなかに置かれるのを見出すのです。物質的なものが単にそこから語るもの、物質のなかに生き、死とともにすべては滅びると物質のなかにあって信じるもの、これらはすべてデーモン的です。とは言え、これは説明のためにのみそこにあるのであって、偉大な師が真に関わるべきものではありません、師は何にもまして、人間の魂の霊化に関わらなければならないのです。ヨーガに対立するものについてヨーガは付け足しとしてのみ語ることが許されているのです。

 パウロはまず第一に、全人類と、まさに暗黒の時代の幕開けにいる人類全体と関わらなければなりません。パウロは、この暗黒時代が人間生活に引き起こすものすべてに眼差しを向けなければなりません、彼はこの普遍的な闇の時代を、キリスト衝動として人間の魂のなかに小さな植物のように甦らそうとするものに対比させなければなりません。これもパウロの場合、あらゆる可能な悪徳、パウロが与えうるものによって打ち負かされるべきあらゆる可能な唯物主義が繰り返し指摘されるところに、明白に現れているのがわかります。パウロが与えうるものとは、小さな炎のように人間の魂のなかでようやく燃え始め、彼の言葉の背後に熱狂が、パーソナリティに担われた感情の啓示として意気揚々と言葉のなかに表出してくる熱狂があるときにのみ力を得ることができるものなのです。

 ギーターとパウロ書簡の叙述はこれほどかけ離れています。ギーターにおける清澄さ、無私の[unpersoenlich]叙述、しかしパウロ書簡においてはパーソナルなもの[Persoenliches]が言葉のなかに入り込まざるを得ないのです。このことが一方ではギーターに、他方ではパウロ書簡に、基調(トーン)を、様式を与えています。これはいずれの作品においてもそこここで、いわばどの行においても私たちの前に現れます。芸術的な完成はそれが成熟したときにはじめて何かを達成することができますが、発展の始まりにあるとき、それは何か混沌としたものとして現れてくるのです。

 これらすべてはなぜこうなのでしょうか。私たちがギーターの力強い冒頭に注目するとき、この問いは私たちに答えてくれます。この冒頭の特徴はもうお話ししましたね、私たちは、親族たちの軍が戦いで対峙しているさまを見ました、戦士が戦士に対峙するけれども、勝者と敗者は血縁であらねばならないことを見ました。私たちの前にあるのは、霊視性が結びついていた古い血の親和性から、まさに近代を特徴づける血の分化と混合への移行の時です。私たちは、人間の外的な身体性の変化とその結果生み出される認識の変遷と変化に関わらなければなりません。人類進化のなかに別種の混血が、血の別の意味が登場してくるのです。私たちがあの古い時代から新たな時代への移行を研究しようと思うならーー私の小著『血はまったく特別の液汁(ジュース)だ』をまたもや思い出しますがーー私たちはこう言わなくてはなりません、古い時代の霊視は、血がいわば種族の内部にとどまっていたことに結びついていた、他方、新たな時代は種族の混合、混血に由来する、それによって古い霊視は滅ぼされ、物質体に結びついた新たな認識が到来した、と。

 ギーターの冒頭で私たちに、外的なもの、人間の姿に結びついたものが示されます。サーンキヤ哲学はこのような外的な形態変化を好んで観察します、サーンキヤ哲学は、魂的なものーーこれも特徴をお話ししましたねーーをいわば背景にとどめておきます、魂は多数のまま単に形態の背後にあるのです。私たちはサーンキヤ哲学に一種の多元論を見ました。近代のライプニッツ哲学にこれを比較することができます。つまり私たちがサーンキヤ哲学者の魂の身になって考えてみますと、彼のことをこう想像できます、つまり彼は、ここに私の魂がある、これはその外的な体の形態への関係において、サットヴァ状態か、ラジャス状態、あるいはタマス状態のなかに現れる、と言うだろう、と。ーーともあれこれらの形態をこの哲学者は観察します。この形態は変化します、もっとも重要な変化のひとつは、エーテル体の別の使用のなかに現れる、あるいは私たちが特徴づけたような血縁に関する移行によって現れる変化です。このとき外的な形態変化があります。魂がサーンキヤ哲学の観察するものによって触れられることはまったくありません。私たちが、古いサットヴァ時代から新たなラジャス時代への移行、その境目にクリシュナが立っているのですが、この移行の際に考慮されるものに注目したいなら、外的な形態変化でまったくじゅうぶんなのです。このとき考慮されるのは外的な形態変化です。

 時代が移り変わるとき、外的な形態変化が常に考慮されました。ペルシア時代からエジプト時代への移行の際、外的な形態変化はエジプト時代からギリシアーラテン時代への移行のときとは異なっていましたが、それはやはりひとつの形態変化には違いありませんでした。原インド時代からペルシア時代への移行もまた異なるものでしたが、やはりこれもひとつの形態変化でした。そうです、古アトランティスそのものからアトランティス後の時代へと移行が完了したとき、これもひとつの形態変化にすぎなかったのです。それは形態変化でした。そしてサーンキヤ哲学の規定のみを拠り所としてこの形態変化を追求することもできるでしょう、つまり単に、これらの形態のなかに魂はじゅうぶんに具現する、しかし形態変化はこの魂そのものには近づかない、プルシャは手つかずのままである、と言うことで形態変化を追求することもできるでしょう。ーーこうして、サーンキヤ哲学の概念とともに、サーンキヤ哲学を通して特徴づけられうる独特の種類の変化が得られます。けれどもこの変化の背後にはプルシャが立っています、人間ひとりひとりの個別の(個的な[individuell])魂的なものが立っています。これについてサーンキヤ哲学では単にこう言われるのみです、個別の魂的なものとしてプルシャはまさに、外的な形態に対してサットヴァ、ラジャス、タマスという三つのグナの関係にある、と。けれどもこの魂的なものは外的な諸形態に触れられることはありません。プルシャは諸形態の背後にあって私たちは魂的なものに注意を喚起させられます、そして、クリシュナがヨーガの主として教授するものにおいてその教えが私たちの魂の前に登場するとき、それはこの魂的なものへの絶えざる示唆なのです。たしかにそうなのですが、この魂はその性質によってどのようであるか、ということがここで認識として私たちの眼前に現れるのではありません。魂をいかに進化させるか、という導きが最高のものなのです、外的な形態の変化は魂的なもの自体の変化ではなく、余韻[Anklang]にすぎません。そして私たちはこの余韻を次のように発見するのです。

 人間がヨーガを通じて通常の魂段階から高次の魂段階へと上昇しようとするとき、人間は外的な営みから自由にならなければなりません、外的に行為し認識するものからますますいっそう解放されなければならず、人間は自分自身の観察者とならなければなりません。そのとき、外的なものに打ち勝って高まった彼の魂は内的に自由な状態となります。通常の人間の場合はこうなのです。けれども、秘儀参入して霊視的になった(見者となったhellsichtig wird)ひと、そういう人間の場合は、そういう状態にとどまりません、外的な物質は彼に対峙しないのです。外的物質はそれ自体としてはマーヤー(幻影[Maya])です。外的物質が現実(リアリティ)であるのは、まさに自分の内的な道具(器官)を用いる人にとってのみです。物質の代わりに何が現れるでしょうか。それは、私たちがいにしえの秘儀参入を目の前に導き出すときに私たちを迎えます。日常においては物質[Materie]、プラクリティが人間に対峙しますが、一方、ヨーガを通じて秘儀参入へと進化してゆく魂に対峙するのは、アシュラたち[Asuras]の世界、デーモン的なものの世界です、人間が闘わねばならないアシュラ界です。物質は抵抗し、アシュラは、闇の勢力は敵となります。しかしこれらすべては本来余韻のなかにのみあり、いわばこのとき何かが魂的なもののなかからかすかに見え、私たちは魂的なものを感受し始めるのです。魂的なものがデーモンたちとの、アシュラたちとの闘いに入るとき、このときはじめてこの魂的なものは自分自身を霊的に(スピリチュアルに)知覚するのです。

 小さな規模では私たちにも向かってくるこの闘いを、私たちの言葉では、物質がその霊性において現れるときに霊[Geister]として見えるようになる何かとして表します。魂が秘儀参入する際、私たちが魂のアーリマンとの闘いとして知っているものが、まさに小さな規模で私たちに向かってくるのです。けれどもこれをこのような闘いとして把握することで、私たちはまさに魂的なもののただなかに立ちます。すると以前は単に物質的な霊にすぎなかったものが巨大なものに成長し、魂は強大な敵に直面します。ここで魂的なものが魂的なものに対峙し、個別の[]individuell]魂は広大な宇宙においてアーリマンの王国に対峙するのです。ヨーガにおいて闘う相手は、アーリマンの王国の最低の段階です。しかし今や、私たちの意味において観察することで、アーリマン勢力との、アーリマンの王国との魂の闘いにおいて、アーリマンそのものが私たちに対峙します。サーンキヤ哲学は、外的な物質が優勢になるときの、魂のこの外的物質への関係をタマス状態として知っています。ヨーガを通じて秘儀参入する者は、単にこのタマス状態のなかにいるのみならず、ある種のデーモン的な力、参入者には物質がデーモン的な力に変わっていくのが観えるのですが、このデーモン的な力に対する闘いのなかにもいるのです。私たちの意味においては、魂の関係が、単に物質のなかの霊的なものに対峙しているときのみならず、純粋に霊的なもの、アーリマン的なものに対峙するときにも、私たちは魂を見ます。

 サーンキヤ哲学に従えば、ラジャス状態において物質と精神は均衡を保っています、ここでは一方から他方へと揺れ動きます、あるときは物質、あるときは霊が上になり、あるときは物質、あるときは霊が下になるといった具合に。こうした関係を秘儀参入へと導こうとするなら、古いヨーガの意味では、それは直接ラジャスの克服へと、サットヴァへと通じていくでしょう。私たちにとっては、それはまだサットヴァに通じていかず、そこで別の闘いが、ルツィファー的なものとの闘いが始まります。そして今や、私たちの考察にとっては、プルシャが私たちの前に立ちはだかるのです、サーンキヤ哲学では暗示されるのみのプルシャが。単に私たちがプルシャを暗示するというだけではなく、プルシャはアーリマンとルツィファーに対する戦闘地域のただなかに立っています。魂的なものが魂的なものに対峙しているのです。はるかな太古への展望のなかでプルシャはサーンキヤ哲学に現れます。私たちが深奥へと、まだアーリマン的なものとルツィファー的なものから区別されない、魂の本質のなかに入り込んでくるものへと入っていくとき、物質的ー実体的なものへの魂的なものの関係がサットヴァ、ラジャス、タマスのなかに得られるのみです。私たちが私たちの意味において事物を観察するとき、今や魂はアーリマンとルツィファーとの間で格闘しつつ激しく活動しています。これは、その完全な大きさにおいてはキリスト教によってはじめて観察されることができたものです。サーンキヤの古い教説にとっては、プルシャはいわばまだ手つかずのままにとどまっています。ここでプルシャがプラクリティをまとうときに生じる関係が描写されるのです。私たちはキリスト教的な時代へ、秘教的キリスト教の根底にあるものへと歩み入ります、そしてプルシャそのものに進入し、魂的なもの、アーリマン的なもの、ルツィファー的なもの、という三重のものに注目することで私たちはこれを特徴付けます。私たちは今や、その格闘に従って魂そのものの内的な関係に注目します。到来せねばならなかったものは、第四期の内部に与えられた移行期に置かれました、ゴルゴタの秘蹟によって刻印される移行期です。

 いったい当時何が起こったのでしょうか。第三期から第四期への移行の際に起こったことは、単なる形態変化によって特徴づけられうる何かでした。ところが今や、これ[ゴルゴタの秘蹟によって刻印される移行期に起こったこと]は、プラクリティからプルシャそのものへの移行によってのみ特徴づけられうる何か、次のように言うことで特徴づけられなければならない何かです、つまり、プルシャがいかにプラクリティから完全に解放されるかをひとは感じる、それをその内面性において感じる、と言うことで。人間は単に血の絆(きずな)からもぎ離されるばかりでなく、プラクリティから、あらゆる外面性から解き離たれ、内部においてそれを仕上げなくてはなりません。ここでキリスト衝動が入ってきます。これは全地球進化のなかに登場し得た最大の移行でもあります。このとき、魂の物質的なものへの関係において、つまりサットヴァ、ラジャス、タマスにおいていかなる状況であるのか、という問いがもはや単に生じるだけではありません。ーーこのとき魂はヨーガを通じてタマスとラジャスを超えて高まるために単にタマスとラジャスを克服しなければならないだけではなく、魂はここでアーリマンとルツィファーに対して闘わなければなりません、魂はここで自らに身をゆだねます。このとき、一方で崇高な歌、バガヴァッド・ギーターにおいていにしえの時代のために私たちに示されるものと、他方で新時代のために欠くことのできないものとを、どうしても互いに対決させる必要が生じてくるのです。

 崇高な歌、バガヴァッド・ギーターにおいて私たちはこのことに直面させられます。ここでは人間の魂が私たちに示されます。魂はその肉体性、覆いのうちに宿っています。これらの覆いを特徴付けることができます。これらは絶えざる形態変化のなかにあるものです。魂のそこに生きるありようそのままに、魂は通常のありようにおいてはプラクリティのなかに編み込まれ、プラクリティの内部に生きています。そしてヨーガにおいてこの魂は、覆われているものから自らを自由にし、覆われているものを克服します、そして霊の圏内に至り、これらの覆いから自らを完全に自由にするのです。

 キリスト教が、ゴルゴタの秘蹟がはじめてもたらしたものを、私たちはこれに対置します。ここでは魂が単に自らを自由にするということだけでは十分ではありません。と申しますのも、魂がヨーガを通じて自由になれば、魂はクリシュナの姿を目にすることができ、クリシュナはその威力のすべてをもって魂の前に立つでしょうが、そのクリシュナというのは、アーリマンとルツィファーがその猛威のすべてを獲得する前のクリシュナであったのですから。このときはまだ、私たちが昨日描き出しましたように崇高なに姿を見せたクリシュナのかたわらに、クリシュナの左右にアーリマンとルツィファーが立っているということを、善き神性が覆っているのです。人間がまだ物質のなかに下降していなかったので、古い霊視にはこれが可能でした。もはや覆うことはできません。魂が単にヨーガを遂行するなら、魂はアーリマンとルツィファーに直面し、これらとの闘いを受け入れなければならないでしょう。そして魂は、単にタマスとラジャスのみならずアーリマンとルツィファーを打ち負かしてくれる盟友[Bundesgenosse]を持つときにはじめて、クリシュナのかたわらに身を置くことができるでしょう。これがキリストなのです。このように私たちは、英雄クリシュナが登場した当時、体的なもの[Leibliches]がいかに体的なものから自らを解き放ったか、あるいはこうも言えるかもしれません、いかに体的なものが体的なもののなかで暗くなっていたかを見ます。しかし他方において私たちは、魂が自らに身をゆだね、闘いにさらされるもっと圧倒的なありさまも見ます、ゴルゴタの秘蹟が起こった時代に魂の領域でのみ見えるようになる何かを見るのです。

 誰かが次のように言うであろうことも私はじゅうぶん想像できます、メンシェントゥム(人間存在、人間性、人間の本質[Menschentum])の最高の理念、メンシェントゥムの最高の完成がクリシュナにおいて我々に見せられるときより以上に圧倒的ものなどあり得るだろうか、と。もっと高次のものが存在しうるのです。そしてそれは、私たちが単にタマスとラジャスに対抗するだけでなく、霊のなかの勢力にもはじめて対抗してこのメンシェントゥムを獲得せねばならないとき、私たちの側につき私たちに浸透しなければならないものです。それがキリストなのです。そして、誰かがクリシュナ表現にのみ最高のものを見たいと思うなら、もっと偉大な何かを見ないのはその人自身がそうできないからです。

 さらに、キリスト衝動がクリシュナ衝動に優ることは、クリシュナ衝動の場合、クリシュナに受肉した存在がクリシュナの人間性[Menschheit]全体に受肉したという点にも現れています。このときクリシュナはヴィスヴェーダの息子として生まれ、成長します。けれども彼の人間性全体にあの最高の人間的衝動が体現されます、私たちがまさにクリシュナとして知っている衝動が受肉するのです。私たちがルツィファーとアーリマンに対峙するときにーーこのように対峙することはようやく始まったばかりです、例えば私たちの神秘劇に描写されているすべてのことは、未来の人間にとって魂的に把握できるものでしょうからーー私たちの側に立つ衝動、これは人間性自体がその衝動にとってはあまりに小さいものでなくてはなりません、ツァラトゥストラ(ゾロアスター)が宿りうるような肉体にさえも直接宿ることはできず、このような肉体でもその進化の高みに達したときにのみ、つまりこの肉体が三十歳に達したときにのみ宿ることができたようなそういう衝動なのです。ですから、キリスト衝動は生涯全体を満たすことはなく、人間の生のもっとも成熟した期間のみを満たすのです。ですからキリスト衝動はイエスの肉体に三年しかとどまりませんでした。キリスト衝動がより高次のものであることはさらに、キリスト衝動は、クリシュナ存在が誕生のときからそうであったようには人間の体のなかに直接生きることができないと言う点にも現れています。このクリシュナ衝動に対するキリスト衝動の卓越がさらにいかに示されるか、これについてはさらにお話ししていかなければならないでしょう。けれども今までに特徴づけられたことから理解し感じ取っていただけるでしょうが、それは事実、私たちの前に現れてくる偉大なギーターとパウロ書簡との関係のようなものであらざるを得ないのです。つまり、ギーターの描写全体は、それが過ぎ去った多くの時代の成果であるために、それ自体完全でありうること、そしてパウロ書簡は、それが次の、とは言えもっと完全なもっと包括的な時代への最初の萌芽であるために、ずっと不完全なものであらざるを得なかった、ということです。このように、宇宙の経過を呈示するひとは、なるほどギーターに対してパウロ書簡の不完全なところ、これは非常に重要な不完全さで、もみ消されることがあってはならないのですが、この不完全さを認めなくてはなりません、ただ、なぜこのような不完全さがそこになければならないのかも理解しなくてはならないのです。

 

□編註

☆1 東洋の伝説:太古のインドの神々と英雄たちの伝説は紀元前500年から紀元後500年の間にいわゆるプラーナ[puranas]に書き留められた。膨大な18篇のプラーナは全インド神話を含む。プラーナの多くはヴィシュヌ神とそのさまざまな化身に捧げられている。ヴィシュヌークリシュナ伝説はバガヴァッタ・プラーナで語られる。

☆2 クリシュナがアルジュナに、アシュヴァッタ樹[…]の性質であるものを[…]明らかにする:第10の歌の冒頭。

*アシュヴァッタ樹は通常菩提樹とされる(yucca)。

☆3 以前の講義で、人間はある意味で反転させられた植物です、と申し上げた:シュタイナーの連続講義『神殿伝説と黄金伝説』(1905年5月29日ベルリン GA93)、『キリスト教の秘儀』(1907年2月16日ライプツィヒ GA97)その他を参照のこと。

☆4 […]力は断念だ:第15歌ー3参照(字義通りではない)。


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