ルドルフ・シュタイナー

バガヴァッド・ギータとパウロ書簡 GA142

Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe


第5講

翻訳者:yucca

(2000.11.26登録)

1913年1月1日、ケルン


 私たちはこのチクルス(連続講義)で、二つの重要な人類の記録に魂の前を通過させましたーー限られた講義日数のなかでできうる限りのとても短い特徴づけにすぎませんがーー、そして、この二つの重要な人類記録、崇高なギーターとパウロ書簡が成立しうるためには、どのような衝動が人類進化に流れ込まなければならなかったかを見ました。私たちの理解にとっておそらくもっと重要なのは、ギーターの全精神とパウロ書簡の精神の間に根本的な相違を示すことです。

 ギーターにおいては、クリシュナが弟子アルジュナに与えることのできる教えが私たちに向かって現れてくる、と私たちはすでに言いました。このような教えは、あるひとりの者に与えられます、あるひとりの者に与えられなければならないのです、と申しますのも、まさにギーターにおいて私たちに向かって現れてくるようなこういう教えは、根本的に言って、内密な教えだからです。とは言えこれに対して、これらの教えはギーターのなかに見られるのだから今日どんなひとにも近づきうるものだ、と反論できるように思えます。ギーターが記された時代においてはむろんそうではありませんでした。これらの教えはすべての耳に達していたわけではありません、当時こういう教えは口頭による伝授の対象だったからです。あのいにしえの時代にあっては、師はしかるべき教えを伝える弟子の成熟を見通すことに心をくだいていました。このような成熟に常に目が向けられていたのです。

 現代においては、いかなるしかたであれいったん光のもとに公開されたあらゆる教義教説について、もはやそういったことは不可能です。私たちは霊(精神)生活がある意味で一度公開される時代に生きています。現代にあってはもはやいかなる神秘学[Geheimwissenschaft]も存在しないかのように、というわけではないのですが、この神秘学は、たとえばこれを印刷させないとか普及させないといったことによって神秘学であることはできません。この現代においてもじゅうぶん神秘学は存在しうるのです。たとえばフィヒテ(☆1)の知識学[Wissenschaftlehre]は、誰もが印刷されたものを持つことができるのにも関わらず、まさに秘密教義です。結局のところヘーゲルの哲学も秘密教義です、これに精通するひとはきわめて少なく、秘密教義であり続けるための多くの手だてさえ内に有しているからです。今日の時代においては、多くのことにこれがあてはまります。フィヒテの知識学あるいはヘーゲル(☆2)の哲学、これらは秘密教義であり続けるための非常にシンプルな手だてを持っています、たいていの人は最初の数ページ読んで理解できず眠くなる、というように書かれているからです。それによってこういう事柄自体が秘密教義であり続けます。現代において、多くの人々が知っていると信じている非常に多くのことについても同様です。人々はそれを知りません、人々に知られないことによってものごとはまさに秘密教義であり続けるのです。そして結局のところ、ギーターのなかに見られるような事柄も、たとえそれが印刷によってきわめて広汎に知られることができるようになったとしても、秘密教義であり続けます。と申しますのも、今日ギーターを手にするあるひとは、そのなかに自分の人間としての内面の進化に関する偉大で圧倒的な啓示を見、また別のひとは、そのなかに単に興味深い文学作品のみを見る、するとギーターのなかに表出されるあらゆる概念、感情は、そのひとにとって単なる陳腐なものに変わるからです。なぜならやはり、誰かが、ギーターのなかにあるとは言っても自分からはかけ離れたものであるかもしれないものを、たとえばギーターの言葉を用いて自分で表現するすべを心得ているにしても、ギーターのなかにあるものをその人がほんとうにその人のなかで消化し理解し尽くした、と信じてよいわけではないからです。このように、多くの点で事柄自体がその高さにより、共有されることから守られています。

 このギーターのなかで詩的に仕上げられている教えは、あるひとりの者がそれを通じて魂のなかで上昇し、ついにはヨーガの主クリシュナとの出会いを体験したいと思うときに自ら実行し、体験しなければならないような教えです。つまり、それは個別的な(特別な[individuell])事柄、偉大な師がひとりの者に向ける何かなのです。ーー私たちがパウロ書簡の内容をこの観点から観察してみるとき、事情は異なります。ここでは、すべては教区(民)全体の問題[Gemeindesache]、すべては根本において多数に向けられた事柄だ、ということがわかります。と申しますのも、クリシュナの教えの本質であるきわめて内密な神髄に注目するとき、私たちはこう言わざるを得ないからです、クリシュナの教えを通じて体験するものを、個々の魂の厳しい孤独のなかでひとは自ら体験する、そして孤独な魂の巡礼としてクリシュナと出会うことができるのも、この道を原初の啓示と原体験へと立ち返って見出すときにのみである、と。クリシュナが与えることのできるものは、どのひとりひとりにも与えられねばなりません。

 キリスト衝動を通じて世界に与えられた啓示の場合はそうではありませんでした。キリスト衝動はそもそも最初から、全人類に向けられた衝動と考えられます、そしてゴルゴタの秘蹟は、ただひとつの魂にとってのみ価値を持つ行いとして成就されたのではありません、私たちが全人類を地球進化の起源から終わりまでよく考えてみるなら、ゴルゴタにおいて起こったことはあらゆる人間のために起こったのです。これは最大規模における共通事項です。ですからパウロ書簡の文体は、すでに特徴づけされたことすべてを度外視するにしても、崇高なギーターとはまったく異っているのです。

 ひとつクリシュナとアルジュナの関係を生き生きと思い描いてみましょう。クリシュナはアルジュナに、ヨーガの主として、クリシュナを見出すためにいかに魂において段階的に上昇していくことができるか、いわば明解な指示を与えるわけです。これに対して、パウロ書簡のとりわけ重要な箇所、ある教区民が、あれこれのことが真実であるかどうか、パウロが教えたことに対してこれらが正しい見方として有効であるかどうかをパウロに向かって問いかける箇所を思い浮かべてみましょう。すると私たちは、パウロが与える教示のなかに、その大きさにおいてはもちろん様式的、芸術的にも、崇高なギーターのなかに私たちが見出すものにまったく匹敵しうる箇所を発見します。けれども同時に私たちは、まったく異なる調子(トーン)をも見出します、まったく異なる種類の魂的な感情からすべてが語られているのがわかるのです。これは、人間の集団のなかに存在する人間のさまざまな天分(才能)がいかに共同して働かなければならないかをパウロがコリント人たちに向かって書いている箇所(☆3)にあります。

 クリシュナはアルジュナに言います、お前はかくかくしかじかであらねばならない、かくかくしかじかのことを為さねばならない、そうすれば魂のありようにおいてお前は一段一段上昇していくだろう、と。ーーパウロはコリント人たちにこう言います、あなたがたのうちのひとりはこういう天分を持ち、また別のひとりはああいう天分を持ち、第三のひとはこういう天分を持ちますが、これらがひとりの人間の身体の部分部分のように共同して働けば、これは霊的にもひとつの全体を生み出すでしょう、霊的にまったくキリストに浸透されうる全体を。ーーつまり、事柄そのものを通じてパウロは共同して働く人間たち、つまり人類に照準を定めています。そして重要な機会に、彼は多数に向かいます、つまり、いわゆる異言[Zungenreden]の天分が問題となるときです。

 私たちがパウロ書簡のなかに見出すこの異言とは何なのでしょうか。異言とは、新たなしかたで、しかも人間の意識全体をもってこの現代に再び私たちに現れてくる古い霊的な天分の名残にほかなりません。と申しますのも、私たちが私たちの秘儀参入方法のなかでインスピレーションについて語るところでは、現代においてインスピレーションにまで突き進むひとは、ちょうど明瞭な意識を日常的な知性と感覚知覚に結びつけるように、明瞭な意識をこのインスピレーションと一致させる、ということだからです。古い時代においては事情は異なっていました。当時、当の参入者は、高次の霊存在たちの道具のように語りました、高次存在たちは参入者の器官を用い、高次の事柄を参入者の舌を通じて言い表したのです。当時はひとりひとりが、その人自身にはまったく理解できないことを語ることができました。道具が直接理解する必要のない霊的世界からの報せがやってきました、そしてまさにコリント人たちのところでそのようなことが起こったのです。何人かの人々がこういう異言の天分を得る、という状況になったのです。こうしてその人々は霊的世界からあれこれのことを告げ報せることができました。

 さて、このような天分については、人間がこれを持つとき、このような天分を通じて啓示できるものがいかなる状況においても霊的世界からの啓示である、ということです。それでもやはり、ある者がこう言い、別の者がああ言う、という場合もありました、霊的な領域というのは多様なものだからです。ある者はこの領域から、別の者はまた別の領域からインスピレーションを与えられるという状況もあり、それで啓示がまったく一致しない、ということもあり得ます。全意識をもって当の世界のなかに赴くことができてはじめて、一致を見出すことができるのです。ですからパウロはこう警告しています、異言を語ることのできる人たちがいますし、異言を解釈することのできる別の人たちもいます。彼らは右手と左手のように協力して働かなくてはなりません、単に異言を語る人の言うことを聴くだけではいけません、異言の天分は持っていないかもしれないが、それぞれがあれこれの霊的領域から何を降ろしてくることができるか解釈し、認識できる人。そういう人の言うことにも耳を傾けなさい、と。ーーこのようにパウロはここでも、人々が共に働くことによって実現する教区の事柄を奨励しています。

 そしてまさにこの異言に結びつけて、パウロはあの説明を語ります、申し上げましたように、ある関連においてはすばらしい、その力強さにおいては昨日議論されましたのとはまた別の点でギーターの告知に匹敵しうるほどすばらしいあの説明です。

 パウロは言います。「霊感を授かった兄弟たちについては(☆4)、私はあなたがたにぜひ知っておいてほしいのです。あなたがたが異教徒であった頃のことを覚えていますね、もの言わぬ偶像があり、盲目的な衝動のままにその偶像へとあなたがたは引き寄せられたでしょう。ですからあなたがたにはっきりと言います、神の霊のなかで語る人は、イエスは呪われてあれ、と言うことは少なく、聖霊によるのでなければ、イエスを主と呼ぶことはできないのです。

 さて、恩寵の賜物(天分)[Gnadengabe]にはさまざまなものがありますが、それは《ひとつの》[原文は斜字]霊です。人間の仕事にはさまざまなものがありますが、それは《ひとりの》主です。ひとりひとりの人間の持つ力にはさまざまなものがありますが、これらすべての力のなかに働くのは《ひとりの》神なのです。けれどもひとりひとりに役立つ霊の告知はいかなるひとにも与えられます。このようにある人には預言を語る力が与えられ、別の人には学問の知識が与えられます。さらにまた、信仰のなかに生きる精神たちも見出せますし、別の人々は癒しの天分を持ち、また別の人々は預言の天分を持ち、別の人々は人間の特徴を見通す天分を持ち、別の人々は異言の天分を、さらにまた別の人々は異言を解釈する天分を持ちます。しかしこれらすべてのなかには《ひとつの》霊が働き、この霊が各人にふさわしいものをそれぞれに分け与えているのです。

 と言いますのも、体は《ひとつ》でも多くの部分から成り、これらの部分がすべて一緒になってひとつの体を形作りますが、キリストの場合もこれと同様だからです。と言いますのも、ユダヤ人であれギリシア人であれ、奴隷であれ自由民であれ、私たちは皆、ひとつの体のために霊によって洗礼を施され、私たちは皆、ひとつの霊を飲まされたからです、ちょうど体もひとつの部分からではなく多くの部分から成るように。たとえ足が、私は手ではないから私は体の一部ではない、と言っても、足はやはり体の一部でしょう。たとえ耳が、私は目ではないから私は体の一部ではない、と言っても、耳はやはり体の一部でしょう。全身が目だけであったら、聴覚はどこに宿るというのでしょう?全身が聴覚だけであったら、嗅覚はどこに宿るのでしょう?そこで神は、神が良しとされるままに、各部分をひとつひとつ特別なものとして体に置かれたのです。ひとつの部分しかないとしたら、体はどこに残るというのでしょう?けれども多くの部分があっても、やはり体は《ひとつ》だけです。目が手に、お前はいらない、ということは許されません。頭が足に、お前はいらない、ということも許されません。むしろ、体のなかで一見弱い部分のほうが不可欠であり、私たちがあまり注意を払わない部分がとくに重要であることが明らかになります。

 神は体を組み立てられ、取るに足らない部分に意味を与えられました、体に分裂が起こらず、あらゆる部分が調和的に共同し、互いに気づかうためです。それでひとつの部分が損なわれれば、すべての部分が共に損なわれ、ある部分が健康であれば全ての部分が共に歓呼の声を挙げるのです。けれどもあなたがたは」ーー

パウロはコリント人たちに向かってこう言います、「キリストの体であり、そしてあなたがた皆がその部分を形作るのです。そして神は教区のなかで、ある人々を使徒として置かれ、別の人々を預言者として置かれました。第三の人々を教師として、第四の人々を奇蹟による癒し手として、第五の人々を別の助力をする者として、第六の人々を教区に統制をもたらすために、第七の人々を異言のために神は置かれました。すべての人々が使徒とされるでしょうか?皆が預言者とされるでしょうか?皆が教師、皆が癒し手、皆が異言を語らされるでしょうか?あるいは皆が異言を解釈させられるでしょうか?ですから、さまざまな恩寵の賜物が共同して働くのが正しいのです、多ければ多いほどいっそう良いのです。」

 それからさらにパウロは、ひとりひとりのなかにあるけれども、教区全体においても働き、体の力が体の各部分を集め結びつけるように教区の個々の部分全部を集め結びつける力について語ります。パウロがさまざまな部分としてある人類に向かって語った以上に美しいことを、クリシュナといえどひとりの人間に語ってはおりません。さらにパウロは、体が個々の部分を統一しているようにさまざまな部分を統一するキリストの力について語ります。どの部分にもある生命力のようにひとりひとりのなかに生きることができるけれども、やはり全教区の全体のなかで再び生きる力、この力をパウロは力強い言葉で特徴づけます。

 「しかし私はあなたがたに他のどの道よりも高い道を示したいのです(☆5)。

 私が人間の舌であるいは天使の舌で霊から[異言を]語ることができても、愛が欠けていたら、私の話は音を立てる銅鑼(どら)、鳴り響く鈴です。

 そして私が預言をすることができ、あらゆる秘密を明かにし宇宙のあらゆる認識を伝えることができるとしても、そして私が信仰の全てを身につけ山をも動かすことができるとしても、愛が欠けていたら、すべては無に等しいでしょう。

 そして私が霊の賜物のすべてを分け与え、そうです、私自身の体を捧げて燃やし尽くそうとも、愛が欠けていたら、すべては無駄でしょう。

 愛はいつも在り続けます。愛は慈悲深く、愛は妬みを知りません、愛は驕らず、愛は自惚れを知りません、愛は礼儀を知るものを損なわず、愛は利益を求めず、愛はそそのかされず、愛は誰も恨まず、不正を喜ばず、真実のみを喜びます。

 愛はすべてを包み、あらゆる信仰に流れ込みます、すべてを望み、どんなところでも忍耐するのです。

 愛があるなら、愛はけっして滅びません。何かを預言しても、それが成就すれば預言は去ります、何かを異言として語っても、それがもはや人間の心に語りかけることができないなら、異言は止みます、何かを知っても、知られるものが尽きてしまえば、知ることも止みます。

 認識はすべて半端なもの、預言はすべて半端なものだからです。

 ですからやはり、完全なものがやってくると、半端なものは去るのです。

 私が子どもだった頃、私は子どものように話しました、私は自分が子どものように考えている、と感じていました。今私は成人し、子どもの世界は去りました。

 今、私たちは鏡のなかに暗い輪郭しか見ませんが、いつの日か私たちは顔と顔を突き合わせるように霊を観ることでしょう。今のところ私の認識は半端なものですが、いつの日か、私自身がどのようであるか、完全に知ることでしょう。

 さて、信仰は残り、希望は確実に残り、愛は残ります。けれどもこれらのうちでもっとも大きなものは愛です、ですから愛は上に置かれるのです。

 と言いますのも、あなたがた皆に霊の賜物がもたらされるにせよ、預言を知っている者も、愛を切に求めなくてはならないからです。

 と言いますのも、誰かが異言を語ろうとも、彼は人々のもとで語るのではなく、神々のもとで語るからです。彼が霊の秘密を語るので、誰も聴き取ることができないのです。」

 このように、パウロは異言の本性を知っています。パウロは、異言を語る者は霊的世界へと連れ去られている、と言うのです、異言を語る者は神々のもとで語る、と。

 「預言をするものは、教化するために、戒めるために、慰めるために、人々とともに語ります、異言を語るものは、ある意味で自己満足していますが、預言を語る者は教区民たちを教化します。

 あなたがた皆が異言を語るということになっても、あなたがたが預言をすることのほうがはるかに重要です。教区民に理解させるために、異言を語る者が自分の異言を自分でも認識できる、という状態でないなら、異言を語る者よりも預言をする者がまさっているのです。

 兄弟たちよ、私が異言を語る者としてあなたがたのところに来ても、私の異言が預言として、教えとして、啓示としてどういう意味であるかをあなたがたに言わないとしたら、私はあなたがたにとって何の役に立つでしょう!

 音が明瞭に分かれていないなら、私の異言は笛やツィターのようなものです。ツィターや笛が区別できる音を出さなかったら、ツィターの演奏か笛の演奏かどうやって区別せよと言うのでしょう。そして喇叭(らっぱ)が不明瞭な音を出すなら、誰が闘いの支度をする気になるでしょう。

 あなたがたも、異言に明瞭な語りを結びつけることができないなら、これと同じです、すべては空中に向かって語られることになるからです。」

 これらすべては、さまざまな霊の賜物が教区の成員たちに分け与えられるべきこと、教区の成員は個人[Individualitaeten]として共同して働かなければならないことを私たちに示します。同時に私たちは、パウロの啓示が、それが登場してくる人類進化の時点によって、クリシュナ啓示[Krishna-Offenbarung]とは根本的に区別されなければならない地点に立っているのです。

 クリシュナ啓示はひとりの[einzeln]人間に向けられますが、結局のところ、ヨーガの主が手本を示してくれるような魂の道を上へと辿ることができるまでに成熟した者には誰にでも向けられるのです。このとき私たちはますますいっそう人類の太古の時代へと遡っていくよう指示されます、クリシュナの教えの意味において、霊において、この太古の時代へとひとは再び立ち返ることを欲するのです。その頃ひとびとはまだあまり個別化されて[individualisiert]おらず、どのひとにも同じ教えと指導で良い、と前提することができました。

 パウロはひとりひとりの差異が現れた時点、特別の能力、特別の天分を備えたひとりひとりの違いが実際に出てこなければならなかった時点で人類に対峙していました。もはや、個々のどの魂のなかにも同じものを注ぎ込むことができると予想することはできなくなりました、不可視的にすべての上に君臨するものを示唆しなければならなかったのです。この、ひとり特別の人間としての人間のなかにはないけれどもどのひとりひとりのなかにも存在しうるもの、これがキリスト衝動なのです。キリスト衝動とは人類の新たな集合魂のような何かではありますが、この人類によって意識的に求められるような集合魂なのです。

 このことを明らかにするために、そうですね、霊的世界において、クリシュナの弟子の何名かがどう見えるか、そして自らの内奥でキリスト衝動に心動かされた数名の人々はどう見えるか、ちょっと思い描いてみましょう。クリシュナの弟子たちは、ヨーガの主から分け与えられた同じ衝動をそれぞれ自らのうちに燃え上がらせています。霊的生活においてある人は別の人によく似ています。ある人にも別の人にも同じ指導がなされたのです。キリスト衝動に心動かされた人たちは、肉体を去って霊的世界にあっても、ひとりひとりが特別の個性[Individualitaet]を、異なった霊の力を備えています。ですから霊界にあってもある人はこの仕事、また別の人はあの仕事、というふうに責任を負っているのです。そして、ひとりひとりがこれほど個性的であろうとも、ひとりひとりの魂のなかに自らを注ぎ込む指導者は、キリストです、ひとりひとりの魂のなかにあると同時にすべての上に浮かぶキリストなのです。ここでは魂が肉体を去ったときにもなおさまざまな教区があるのです、他方、クリシュナの弟子たちは、魂がヨーガの主から導きを得ると、ひとつの一元的なもの[ein Einheitliches]となります。しかしながら、人類進化の意味とは、魂がますます多様なものになっていくことなのです。

 ですから、クリシュナは別のしかたで語らざるを得ないなのです。クリシュナは、根本においてはーークリシュナがギーターで告げ知らせるようにーー弟子に語ります。パウロは異なった話し方をします。パウロは本来どの人間にも語りかけています、ですから、ひとりひとりがその成熟の度合いによって、あれこれの受肉段階において顕教的なものにとどまるか、あるいは秘教的なものに入っていくことができ、秘教的キリスト教にまで自らを高めていくかどうか、ということは個々人の進化の問題なのです。キリスト教(クリステントゥム)においてひとはさらなる進展を重ね、秘教的な高みにまで達することができます、けれども、クリシュナの教えとは別の何かを出発点とするのです。クリシュナの教えにおいては、自分のいる地点から人間として出発し、個として、ひとりある者として、魂を高めます。キリスト教においては、そもそもさらなる道を歩む前に、キリスト衝動と関係を得ること、この衝動がまず第一に他のすべてに先行することが出発点となるのです。

 クリシュナへの霊的な道を歩むことができるのは、クリシュナの指示を守る者だけです、キリストへの道は、どの人も歩むことができます。キリストは、およそ人間であって秘儀への関係を得ることができるすべてのひとのために秘儀をもたらしたからです。これはしかし外的な何か、物質界で成就された何かです。ですから、最初の第一歩は物質界で起こる一歩なのです。これが本質的なことです。

 キリスト衝動のこの世界史的な意味を見通すなら、あれこれのキリスト教的信仰告白から出発する必要はまったくありません、まさにこの現代においては、まったくキリストに敵対する立場から、あるいはキリストに対して無関心な立場を出発点とすることすら可能なのです。現代の精神的生活において真に与えられ得るもののなかに深く沈潜するとき、唯物論の矛盾と愚昧さを見抜くとき、最初から特に信仰告白を出発点にしなくても、現代においてはあるいはもっとも純粋にキリストに導かれるとも言えるのです。ですから、ここでは特別なキリスト信仰告白を出発点としている、と私たちのグループの外部のひとたちに言われるなら、それはとりわけまずい中傷とみなされてよいのです、と申しますのも、問題は何らかの信仰告白からの出発ということではなく、精神生活そのものの諸条件から出発すること、そして回教徒であれ仏教徒であれ、ユダヤ人であれヒンドゥー教徒であれ、あるいはまたキリスト教徒であれ、いかなる人も、キリスト衝動を、人類進化にとってそれが持つ意味全体において理解することができる、ということだからです。しかし同時にこれは、パウロの見解と叙述全体をもっとも深いところで貫いているものであり、この点においてパウロはまさしく、世界においてキリスト衝動を最初に告知するための音頭取りをするパーソナリティなのです。

 サーンキヤ哲学がいかに形態変化、プラクリティに関連するものと取り組むかを私たちが述べたとき、私たちはこう言ってよかったのです、パウロはその意味深い書簡の根底にあるすべてのものにおいて、まったくもってプルシャを、魂的なものを扱った、と。生成について、人類進化全体を通じてさまざまに展開していく魂的なものの運命について、パウロの場合私たちはまったく明確で深遠な説明を見出します。

 東洋的な思考がまだ成し遂げることができたものと、パウロにおいてすぐさまかくもすばらしく明瞭に私たちに向かって現れてくるものとの間には、根本的な違いがあります。すでに昨日指摘されたことですが、クリシュナにおいてはすべてが、人間が形態変化から抜け出していく道を見出すということにかかっています。けれどもプラクリティは魂とは疎遠な何かのように外部にとどまっています。こういう東洋的な進化の内部では、東洋的な秘儀参入の内部においてすら、あらゆる努力は、物質的な存在[Dasein]から自由になること、自然として外部に拡がっているものから自由になることを目指すのです。と申しますのも、自然としてそこに拡がっているものは、ヴェーダ哲学の意味ではマーヤー(幻影、仮象)として現れるからです。外部にあるものすべてはマーヤーであり、ヨーガはマーヤーから自由になることです。私たちも示したことですが、人間は、為し、行い、欲し、考えるものすべて、欲求や思考の対象となるすべてから自由となり、外面性であるものすべてに魂として勝利することがまさにギーターにおいては求められているのですから。人間の行う営みをいわば人間自身から落とし、人間は自ら自身のうちに安らい、自身のうちで自足せよ、というわけです。このように、誰であれクリシュナの教えの意味で進化したいと願うひとの念頭にもあることは、根本的に言って、いつかパラマハムサ[Paramahamsa]、すなわちあらゆる物質的存在を離れ去り、彼自身がこの感覚世界の内部で行為として行ったすべてに打ち勝つ高次の秘儀参入者のような何かになることです、純粋に霊的な存在のなかに生き、感覚的なものを克服してもはや再受肉への渇望がなくなり、営みとしてこの感覚存在に習熟したものすべてにもはや関わりを持たないまでになった秘儀参入者のような何かに。つまりそれはこのマーヤーから抜け出すこと、いたるところで私たちに向かってくるこのマーヤーに勝利することなのです。

 しかしパウロにおいてはそうではありません。パウロの場合はこうなのです、彼がこういう東洋的な教えに向き合ったとしたら、彼の魂の深い奥底において何かが次のような言葉を呼び起こすことでしょう、いかにも、お前は外でお前を取り巻いているすべて、お前がかつて外部で行ったすべてからも抜け出して進化したいと思っている。お前はすべてを置いていきたいのか?いったいすべては神のみわざ[Gotteswerk]ではないのか、お前が抜け出そうと欲するすべては神的に霊により創造されたものではないのか?お前がそれを軽蔑するなら、お前は神のみわざを軽蔑しているのではないか?いかなるところにも神の顕現が神の霊が生きているのではないか?まずお前自身の営みのなかに愛し信仰し帰依しつつ神を示そうとはしないのか、それでいて、神のみわざであるものに勝ち誇るつもりなのか?

 パウロによって語られてはいませんが彼の魂の底で働いているこの言葉を私たち自身が魂の奥深くに書き記すのが良いでしょう、と申しますのも、そこには私たちがまさしく西洋的な啓示として知っているものの重要な神髄が表現されているからです。パウロ的な意味においても私たちは私たちを取り巻いているマーヤーについて語ります。なるほど私たちも、いたるところでマーヤーが私たちを取り巻いている!と言うでしょう。けれども私たちはこう言うのです、いったいこのマーヤーのなかには神の顕現がないのか、すべては神的ー霊的なみわざではないのか、いたるところに神的ー霊的なみわざがあるということを理解しないのは冒涜ではないのか?と。今や新たな問いが加わります、なぜこれがマーヤーなのか、なぜ私たちは私たちの周りにマーヤーを見るのか、という問いが。ーー西洋はすべてがマーヤーであるかどうか、という問いにとどまりません、なぜマーヤーなのか、が問われるのです。ここで、私たちの魂的なもの、プルシャの中心にまで入り込んでゆく答えが生じます、魂がかつてルツィファーの威力に屈したので、魂はすべてをマーヤーのヴェールを通して見るのだ、魂は魂としてあらゆるものの上にマーヤーのヴェールを拡げるのだ、という答えが。ーー私たちがマーヤーを見るということは、いったい対象の罪なのか?否。私たちがルツィファーの威力に屈しなかったら、魂として対象は私たちにその真実の姿を現すだろう。対象が単にマーヤーとしてしか私たちに現れないのは、私たちがそこに拡がっているものの根底を見ることができないからだ。これは、魂がルツィファーの威力に屈したことが原因である、これは神々の罪ではなく、自分の魂の罪なのだ。お前魂はお前にとって世界をマーヤーにしてしまった、お前がルツィファーに屈服したことによってだ。

 このような定式化の最高の精神科学的理解から下降して「感覚は欺かないが、判断は欺く」(☆6)というゲーテの言葉までは一直線です。俗物や狂信者たちはゲーテを、ゲーテのキリスト教を思うさま論難するがよろしい、それでも、やはりゲーテが、自分はきわめてキリスト教的な人間のひとりであると言うことは許されるでしょう(☆7)、なぜなら、「感覚は欺かないが、判断は欺く」というこの定式に辿り着くほど、ゲーテはその本質の奥深くでキリスト教的に考えているからです。魂の見るものが真実でなく、マーヤーとして現れるのは、魂の罪です。ここでオリエンタリスム(東洋主義 Orientalismus)においては単純に神々自身の行為のようにそこにあるものが、ルツィファーとの大いなる闘いの起こる人間の魂の深みへと転じられます。

 私たちがオリエンタリスムを正しく観察してみると、このようにオリエンタリスムは、まさにこのことによってある意味で唯物論なのです、マーヤーの霊性を認識せず、物質的なものから抜け出そうとするがゆえにです。パウロ書簡を貫いて脈打ち、未来において全地球上に目に見えて拡がってゆくであろうものは、魂的な教えなのです、たとえまだ萌芽のかたちでしかなく、そのため現在のようなタマス時代には見誤られることがあるとしてもです。マーヤーの特殊な性質についてこのことが理解されなければなりません、そうしてはじめて、人類進化の歩みのなかで肝心なことは何かを深いところで理解できます。そうしてはじめて、パウロが最初のアダムについて語るとき、パウロが何のことを言っているのか理解できるのです、魂においてルツィファーに屈服し、そのためにますますいっそう物質のなかに巻き込まれてしまった、すなわち誤った物質体験に巻き込まれてしまったということにほかならないのですが、そういう最初のアダムについてです。神の創造として外部にある物質は良いものです。そこで起こっていること、それは良いことなのです。人類進化の経過のなかで魂がそこで体験するもの、これはどんどん貧しいものになっていきました、なぜなら魂は最初にルツィファーの威力に屈したからです。ですからパウロはキリストを第二のアダムと呼ぶのです(☆8)、なぜならキリストはルツィファーの誘惑を受けずに世界に登場し、人間の魂のあのような指導者にして友人であることができるからです、キリストは人間の魂を徐々にルツィファーから引き離し、つまりキリストとの正しい関係に導くということです。

 パウロは、秘儀参入者として知っていたことすべてを、彼の生きていた時代には人類に伝えることはできませんでした。けれども彼の書簡を自らに作用させるひとは、これらの書簡が、外的に表明しているものよりも多くを深いところで語っていることを洞察することでしょう。つまり、パウロは教区に対して話さなければならず、その教区の知性を顧慮しなければならなかったということです。そのため、彼の書簡のなかには明かな矛盾のように見えるものもあります。けれども深部へ入り込んでいくことのできるひとは、実際パウロにおいていたるところでキリストの本質についての衝動を見出すのです。

 私たちはここで、私たち自身がゴルゴタの秘跡の成立(生命を得ること[das Ins-Leben-Treten])をどのように叙述したか思い出してみましょう。私たちは時代の経過にそって、事実ふたりのイエス少年がいるために、マタイ福音書とルカ福音書における二つの異なったキリスト・イエスの若き日の物語(☆9)があることを知りました。そして私たちは、外的に、パウロの意味に沿って言うと肉によれば、すなわち物質的な血筋によれば、イエス少年はふたりともダヴィデの家系に由来すること、ひとりはナータン系、もうひとりはソロモン系から出ていること、つまりふたりのイエス少年はほぼ同じ時期に生まれたことを知りました。マタイ福音書における一方のイエス少年のなかに、私たちはツァラトゥストラ(ゾロアスター)が再び受肉しているのを見出しました、そしてルカ福音書が叙述しているもう一方のイエス少年のなかには、人間の自我、とりわけ、ツァラトゥストラの自我のように高度に進化した自我を宿したもうひとりのイエス少年のような人間のなかにあるような自我は本来入り込んでいないことを強調しました。ルカのイエス少年のなかには、本来、人間のうちで地上の人間進化には入っていかなかったものが生きているのです。

 この点において正しい表象に至るのは少々困難です。とは言え、いわばアダムのなかに受肉した魂、つまり私の「神秘学」(☆10)の意味でアダムと呼ばれるものに受肉した魂、この魂が、ルツィファーの誘惑に屈するようすをちょっと思い描いてみてください、聖書においては象徴的に楽園における堕罪によって叙述されているルツィファーの誘惑に。これに加えて、アダムの身体に受肉したあの人間の魂性のかたわらに、当時受肉せず、物質的体に入り込まず、魂的なままであるひとつの人間性(メンシェントゥム)、人間存在を思い描いてください。人類進化の内部に物質的人間が発生する前に、その後二つに分かれるひとつの魂がある、と想像してくださりさえすればよいのです。共通の魂の一部、一方の後裔がアダムのなかに肉化し、それによってこの魂は受肉へと入っていってルツィファーに屈服するなどします。もう一方の魂、いわば姉妹魂[Schwesterseele]については賢明な宇宙統治によって、この魂も受肉するとよくないということが予見されました。この魂は魂的世界にとどめ置かれます、つまり人類の受肉のなかに生きることはなく、そこに引き留められるのです。この魂とは秘儀に参入した者のみが交流します。ですからこの魂はゴルゴタの秘跡以前の進化の間には自らのうちに自我体験[Ich-Erlebnis]を受け入れていません、なぜならこの自我は人体のなかへ入って受肉することを通じてはじめて体験されるからです。それゆえしかしこの魂は、土星紀、太陽紀、月紀を通じて体験することのできたあらゆる叡智を有します、この魂は、およそ人間の魂に可能であろうあらゆる愛を有しているのです。つまりこの魂はいわば、人類が人類進化の受肉の経過において自らのなかにもたらし得る罪のすべてに対して無垢であるということです。この魂はつまり、外的に人として出会うことはできず、いにしえの霊視者(見者)たちによってのみ知覚されることのできた魂なのです。霊視者たちによってこの魂は知覚されました。この魂はいわば秘儀のなかで交流したのです。このように、人類進化の内部、しかも上部に、とも言えるでしょうか、そこに私たちは、最初は霊的にのみ知覚された魂を、ひとりの前人間[Vormensch]、超人間[Uebermensch]を有しているのです。

 この魂が、ルカ福音書のイエス少年のなかに自我の代わりに受肉した魂です。みなさんはバーゼル講義(☆11)のことを憶えておいでですね。そのときすでにこのことは述べました。つまり、これは単に自我に似た[Ich-aehnlich]魂であり、これはイエスの肉体のなかに入り込むときにはひとつの自我のように働きかけるのはもちろんなのですが、この魂が示すすべてはやはりほかの通常の自我とは異なっています。私はすでに、ルカ福音書のイエスが生まれてすぐに、彼の母にも理解できる言葉で話すことができた、ということを強調しました。彼の場合似たようなことはほかにもありました。さらに私たちは、ツァラトゥストラの自我が内に生きていたマタイのイエス少年が十二歳まで成長したことを知っています、ルカのイエス少年の方も成長したのですが、こちらはとりたてて人間的な認識や学問は持っておらず、神的な叡智と神的な供犠の力を自らのうちに担っていました。

 このようにルカのイエス少年は成長し、外的に人間的に学ぶことのできる能力はとくに示しませんでした。さらによくご存じのとおり、ツァラトゥストラの自我はマタイのイエス少年の肉体を去り、ルカのイエス少年が十二歳のときにこのツァラトゥストラ自我がルカのイエス少年の肉体を所有しました。この瞬間は、ルカ福音書の十二歳のイエス少年について、両親が彼を見失ったとき彼は神殿の賢者たちの前で教えていた、と語られることによって暗示されます。

 さらに私たちが知っていることは、このルカのイエス少年が今や自らのうちにツァラトゥストラ自我を担って三十歳にまで達し、このときツァラトゥストラ自我はルカーイエスの肉体を去ること、そして今や覆いの性質であるものすべてをキリストが所有することです、高次ヒエラルキアの超人的存在であり、そうですね、十二歳の年まで最初は前人間的な叡智の諸力、前人間的神的な愛の諸力に浸透されていて、次いでツァラトゥストラ自我により多くの受肉において秘儀参入を通じて獲得されたすべてのものに流入され浸透された体、そもそもそういう体が彼のために提供されたというような状況においてのみ人間の体に住まうことのできたキリストが所有するのです。このキリストの自我がそもそも人類のなかへと入ってくることができるためにはどんな肉体性が必要だったかを理解しようと試みるとき以外には、いかなるものによっても、キリスト存在に対する正しい注意、正しい畏敬、要するに正しい感情全般は得られないかもしれません。

 このキリスト存在について近代の聖なる秘儀から与えられるこういう叙述のなかに少なからぬ人たちが見出したことは、こういうキリスト存在は、さまざまに思い描かれて多くの人が敬うキリスト・イエス、家族のように親しく、人間の身近にいて、通常の人体に受肉し、ツァラトゥストラ自我のようなものを内に宿すことのない、そういうキリスト・イエスほどは、いわば親密にも人間的にも見えない、ということでした。私たちの教説は、キリスト・イエスが宇宙のあらゆる領域からの諸力から合成された、と言っているということで非難されました。こういう非難は単に人間の認識の怠惰、感受性と感情の真の高みへと上昇しようとしない人間的感情の怠惰に由来します。最も偉大なものは、最大のもの、最高のものをいくらかなりとも魂に近づけるために不可欠の、感情と感受性のあの内的な強度を得るべく、私たちの魂が大いに刻苦勉励して把握されなければなりません。このように最初の感情は、私たちがそれをこのような光のなかで観察するときにのみ高められるのです。

 さらにもうひとつ私たちは知っています。「神の力は高みにおいて開示され、善き意志の人々のもとに平和が広がる」(☆12)という福音書の言葉をどのように解釈しなければならないかを知っています。ご存じのように、この平和と愛の知らせは、ルカのイエス少年が現れるとき、ルカのイエス少年のアストラル体のなかに仏陀が、当時すでに、ゴータマ・ブッダとしてのその最後の受肉を成し遂げ完全な霊性にまで上昇した存在のなかにあった仏陀が介入することによって鳴り響きます、ルカのイエス少年のアストラル体のなかに、地上でのゴルゴタの秘跡の出現まで前進していた仏陀が自らを開示することによってです。

 このように私たちは、いわば今日はじめて神秘学の基礎から人類に与えられることのできるキリスト・イエスの本質を私たちの前に据えました。パウロは、秘儀参入者であったにも関わらず、その頃の時代にとっても理解しやすい概念で語らなくてはなりませんでした、彼は、私たちが今日心になじませることができるような概念をすでに理解できるような人類を前提とすることはできなかったでしょう。けれどもパウロのインスピレーションを完成させたものは、実際、恩寵によって引き起こされた彼の秘儀参入を通じて呼び起こされたのです。パウロは古代の秘儀における規則正しい行を通じてこれに到達したのではなく、復活したキリストが彼に現れたダマスクスへの途上で恩寵によって到達しました、それゆえ私はこの秘儀参入を恩寵により起こされた秘儀参入と呼びます。けれどもパウロはこのダマスクス現象(☆13)に直面し、それによって知ったのです、いかにも、ゴルゴタの秘跡において復活したもの、それはゴルゴタの秘蹟以来地球領域に結びついて生きている、と。パウロは復活したキリストを認識(識別)しました。このとき以来、彼はこの復活したキリストを告げ知らせました。なぜパウロは彼が見たようにキリストを見ることができたのでしょうか?

 ここで少しばかり、この種のヴィジョン、ダマスクスでのそれのような現前[Manifestation]に入り込んでみなくてはなりません。と申しますのも、何と言ってもそれはまったく特別な種類のヴィジョン、現前だったからです。オカルト的事実について実際にいささかなりとも学ぼうという気持ちがない人々だけが、ヴィジョン的なものすべてを単純に混同し、パウロのヴィジョンのような何かを、後の聖人たちに現れたようなほかのヴィジョンから区別しようとしないのです、例えば「平和の知らせ」の著者(☆14)がしているように。この著者はまさしくオカルト的事実について決して真に何かを学ぼうとはしない人たちのひとりです。

 これはほんとうに何だったのでしょうか、なぜパウロはあのようなしかたでキリストを知覚することができたのでしょうか、ダマスクスを前にして彼に現れたキリストを?なぜパウロはそれについてこれは復活したキリストである、という確信が持てたのでしょうか?この問いは私たちを別の問いへと引き戻します、キリストの本質全体が、ヨルダン河でのヨハネの洗礼として暗示されるあの出来事の際にナザレのイエスのなかに完全に入り込んでいくことができるためには、そのとき何が不可欠だったのか、という問いです。ーーさて、私たちはたった今こう言いました、キリストの本質が降っていくことになったあの肉体性を準備するためには何が不可欠だったのか、と。けれども、復活した者が、パウロに現れたほどに濃密に魂的に現れることができるためには何が必要だったのでしょう?ダマスクスを前にしたパウロに現れたキリストがそのなかにいたあの光輝[Lichtschein]とはいわばいったい何だったのでしょう?それは何だったのでしょう?それはどこから受け取られたのでしょう?

 私たちがこれらの問いに答えたいなら、私が以前に申し上げましたことにいくつか補足しながら付け加えなければなりません。私は皆さんに申しました、このとき人間の世代の系列のなかに入っていったアダムの魂のいわば姉妹魂というものがあった、と。この姉妹魂は魂的世界にとどまりました。この姉妹魂はルカのイエス少年のなかに受肉した魂でもありました。けれどもこの魂は、言葉の厳密な意味では、物質的人間のように受肉したのはこのとき初めてではありません、この魂は以前一度すでに預言的に受肉したことがありました。以前にももうこの魂は聖なる秘儀の使者のように用いられたのです。私は皆さんに、この魂は秘儀において交流を持たれ、いわば秘儀のなかで育み養われて、人類において重要なことがあるときに派遣された、と申し上げました。しかしこの魂は、エーテル体のなかへの出現としてのみ存在することができたのであり、厳密な意味では古い霊視が存在していた限りにおいてのみ知覚されることができました。実際以前の時代には霊視は存在していました。つまり当時このアダムの古い姉妹魂は、人々に見られるために物質体にまで降る必要はなかったのです。とはいえこの魂は、秘儀の衝動により派遣され、地球進化において重要な事柄が為されるべき時にはいつも、地球の人類進化の内部に繰り返し実際に現れました。けれどもこの魂は古い時代には受肉する必要はありませんでした、霊視というものがあったからです。

 この魂は、昨日お話ししましたアトランティス後第三期から第四期へと移行する際この霊視が克服されることになったときはじめて受肉する必要がありました。このときいわば補足としての受肉、もはや霊視がなくなった時代に対応できるための受肉を引き受けたのです。このアダムの姉妹魂は、クリシュナのなかにいわばただ一度だけ受肉しました、物質的にも目に見えるようになるために姿を現さなければならなかったのです、この魂は次いで今度はルカのイエス少年のなかに受肉しました。こうして今や私たちは理解します、クリシュナがなぜかくも超人間的に語るのか、なぜ人間の自我にとって最良の師であるのか、なぜクリシュナはいわば自我の克服を示すのか、なぜクリシュナはかくも魂として崇高に現れるのか、理解するのです。なぜなら、私たちが数日前に魂の前に出現させたあの崇高な瞬間に、クリシュナは人間として現れるからです、まだ人間の受肉のなかに下降していない人間として。

 その後彼は今度は、ルカのイエス少年のなかに受肉するために現れます。したがって、十二歳のイエス少年のなかでアジアのきわめて重要な[ふたつの]世界観(宇宙観)が、つまりツァラトゥストラ自我とクリシュナ霊が結びつくときに、あの完全さが実現するのです。今や神殿で導師たちに語りかけているのはツァラトゥストラのみではありませんーーツァラトゥストラは自我として語りますーー、ツァラトゥストラはかつてクリシュナがヨーガを告知した手段をもって語ります、彼はさらに一段階高められたヨーガについて語ります、彼は三十歳まで成長していくために、クリシュナの力と、クリシュナそのひととひとつになるのです。そしてここで初めてキリストによって所有されることのできたあの完璧な肉体性が得られます。このように人類の霊的な諸潮流は合流しています。こうして、ゴルゴタの秘跡が起こるとき、まことに人類のもっとも重要な師たちの共働、霊生活の統合がなされるのです。

 パウロがダマスクスを前にして出現に遇うとき、このとき彼に現れるのはキリストです。キリストがまとう光輝[Lichtschein]はクリシュナなのです。そしてキリストがさらに働きかけを続けるための自分の魂の覆いとしてクリシュナを受け入れたので、輝きを放つもののなかに、キリストのなかに、かつて崇高なギーターの内容であったものすべてもまた含まれているのです。

 新約聖書の啓示のなかに、ばらばらに散らばっているとは言え私たちはいにしえのクリシュナの教えに由来する多くを見出します。けれどもこの古いクリシュナ教義はこれによって全人類の要件となったのです、なぜならキリストそのものは人間の自我及び人類には属さず、高次ヒエラルキアに属するからです。しかし同時にまたキリストは、あの時代にも属します、今や物質的存在として人間を取り巻いているもの、人間自身のルツィファー的誘惑を通じて人間にとってはマーヤーのなかに覆われているものからまだ人間が切り離されていないあの時代に。進化全体を振り返って見てみましょう、すると、あのいにしえの時代にあっては、霊的なものと物質的なものの間のあの厳密な区分がなく、物質的なものがまだ霊的で霊的なものもーーこう申し上げてよろしいならーーまだ外的に顕現しているようすが見えます。サーンキヤ哲学において私たちに向かってくるプルシャとプラクリティの厳密な区別のようなものをまったく退けるような何かが、キリスト衝動のなかで人類に歩み寄ることによって、キリストは人間の指導者となります、自発的なしかも神の創造のための指導者に。さらに、私たちの罪によって私たちにはマーヤーが自明のもののように見えるということを認識したなら、私たちは絶対にマーヤーを去らねばならないなどと言うことが許されるでしょうか? 否です、と申しますのも、そんなことを言うのは宇宙(世界)における霊への冒涜(ぼうとく Laesterng)というものでしょう、それはつまり、私たち自身がマーヤーのヴェールを負わせてしまった物質の特性のせいにすることでしょうから。むしろ、私たちは望まなければなりません、私たちにとって物質をマーヤーとしているものを私たちが自らのうちで克服するとき、私たちは再び宇宙(世界)と和解していくであろうことを。私たちを取り巻くこの宇宙から私たちに向かって響いてはこないでしょうか、この宇宙はエロヒムの創造である、そして創造の最後の日に「そして見よ、すべては極めて良かった」(☆15)とこのエロヒムはみなした、と。

 これは、クリシュナ教義のみが存在するとしたら、成就するであろうカルマでしょう、カルマが成就することなしには宇宙には何も残らないからです。クリシュナ教義だけが永遠に存在するとしたら、地球進化の最初にエロヒムがそれについて「そして見よ、すべては極めて良かった」と言った神の顕現である周囲の世界の物質的存在に、つまりこの神の顕現(開示)[Gottesoffenbarung]に、「それは良くない、私はそれを去らねばならない!」という人間の判断が対立させられるでしょう。人間の判断が神の判断より上位に置かれることになってしまいます。これは、進化の出発点に秘密として書き留めてある言葉を理解することを学ばなければならない、ということです。これは、私たちが人間の判断を神の判断の上位に据えない、ということです。私たちに罪として付着するかもしれないすべてが、いつかいたるところで私たちから落ちていくこともあるでしょうが、私たちがエロヒムの創造を誹謗するという罪がひとつ残るとしたら、ーー地球のカルマは成就しなければならないでしょう、そして未来においてすべてが私たちに襲いかかってこざるを得ないでしょう。このようにカルマは成就せざるを得ないでしょう。

 これが起こらないようにするために、キリストは世界(宇宙)に現れたのです、私たちが世界(宇宙)と和解し、その結果私たちがルツィファーに対して誘惑の力を克服するすべを学び、そのヴェールを突き抜けていくすべを学び、神の顕現をその真の姿において見、私たちを神の顕現の真の姿へと導く調停者[Versoehner]として私たちがキリストを見出し、私たちがキリストを通じて「そして見よ、すべては極めて良かった」という太古の言葉を理解するすべを学ぶことができるように。決して宇宙のせいにすることを許されないものを私たち自身の責任とすることを学ぶために、そのために私たちはキリストを必要としています。すると、そのほかの罪もすべて私たちから取り去られ得るでしょうーーこの罪はキリストを通じて私たちから取り去られねばならないのです。

 これが道徳的な感情に変化すると、これがさらに新たな面からのキリスト衝動を与えます。同時にこれは私たちに、高次の魂のようなキリスト衝動がクリシュナ衝動で覆われることが不可欠であったのはなぜかを示します。

 愛する友人の皆さん、このチクルスで意図されたような議論が、単にひとつの理論として、私たちの受け入れる概念と理念の総計としてのみ受け取られることは望みません、こういう議論をぜひとも一種の新年の贈り物として受け取っていただきたいのです、この新たな年に入り込んでいき、この年から先さらに作用し続けるひとつの贈り物、この地球創造の太初の出発点において私たちに響いてくるエロヒムの言葉、私たちはこの言葉を理解しなければならないのですが、キリスト衝動がこのエロヒムの言葉を私たちに理解させる限り、キリスト衝動の理解を通して感じ取られ得るものとしてさらに作用し続ける贈り物として。そして、意図されたものを同時に私たちの人智学的な精神(霊)潮流の出発点とみなしてください。この精神(霊)潮流を通じて、人間が自らのうちでいかに完全な自己認識に至りうるかをますますいっそう認識してもらいたいという理由からも、この精神潮流を人智学的なものにしていただかなくてはなりません。人間が、自分の魂のなかで作り上げるべきものを、自分と外的な自然との間で演じられる問題[Angelegenheit]のように観察する限り、人間はまだ完全な自己意識に到達できません、アントロポス[Anthropos]はまだアントロポスの認識に、人間は人間についての認識に到達することができないのです。

 私たちが世界(宇宙)をマーヤーに没していると見ること、これは神々が私たちに準備した問題です、私たちの魂そのものの問題、高次の自己認識の問題です、これは人間がその人間であることのなかで自分で認識しなければならない問題なのです、これは人智学の問題です、人智学を通じて私たちははじめて神智学が人間にとってそうであり得るものを感じ取ることができるようになるのです。人智学の運動に参加しようと決心するとき、人間が衝動として感じ取るものは、最高の種類の慎ましさ[Bescheidenheit]でなくてはなりません、自らにこう言い聞かせるような慎しさです、私が人間の魂の問題であるものを飛び越え、神的なものの最高の歩みのなかに一挙に入り込みたいと思うなら、いともたやすく私から謙虚さは消え去るだろう、謙虚に代わっていともたやすく高慢が現れるだろう、虚栄心が容易に起こってくるだろう、と。ーー願わくば人智学協会がこの高次の道徳的領域における出発点でもありますように。最高の存在たちであるものを受け入れるときに、高慢、虚栄心、功名心、不誠実のかたちで神智学運動のなかにかくもたやすく忍び込んできたもの、とりわけこれを人智学協会が回避しますように、人智学協会がその出発点において、マーヤーとともに形成されねばならなかったものをこの人間の魂そのものの問題とみなすことによって、避けることができますように。

 人智学協会を人間のもっとも深い慎ましさの成果としよう、と感じなくてはなりません。と申しますのも、聖なる真実に対する最高の誠実さ、私たちが超感覚的なもの、スピリチュアルなもののこの領域に赴くとき聖なる真実のなかに入り込んでいくべきこの誠実さは、この慎ましさから湧き出してくるであろうからです。ですから私たちは、「人智学協会」という名称の受け入れを、真に慎みをもって、真に謙虚に理解し、自らにこう言い聞かせましょう、神智学という名称がなおも不遜さ、虚栄心、功名心において引き起こし得たものが消し去られますように、ーー慎ましさというしるしと標語のもとにーー神々と神々の叡智を慎ましく仰ぎ見ることを始めるとき、けれどもそのために人間と人間の叡智を責任を持ってとらえるとき、つまり敬虔さをもって神智学に近づき、責任をもって人智学に沈潜するときに、消し去られますように、と。この人智学というものは私たちを神的なものと神々のところに導くでしょう。そして私たちが人智学を通じて最高の意味で謙虚に真に私たち自身の内を見ることを学び、そしてとりわけ、厳しい自己教育と自己陶冶のなかであらゆるマーヤーとあらゆる錯誤に対して私たちがいかに格闘しなければならないかを私たち自身のなかに見るとき、青銅の銘板に書かれたように「人智学」が私たちの上方に掲げられますように。そしてとりわけ私たちが人智学を通じて自己認識を、自己に対する謙虚さを求めること、そして私たちがこのようにして、真実に基づいた建物を建てる試みを、なぜなら自己認識が最高の誠実さをもって人間の魂のなかに確立しているときにのみ真実は花開くからですが、そういう建物を建てる試みをすることができること、このことが私たちを強く促しますように。あらゆる虚栄心は何に由来するのでしょうか、あらゆる不誠実は何に由来するのでしょうか。これらは自己認識の欠如によるのです。真実は何から芽吹くことができるでしょうか、神々の宇宙(世界)と神々の叡智に対する混じりけのない敬虔さは何から芽吹くことができるでしょうか。これらは真の自己認識、自己教育、自己陶冶からのみ芽吹くことができるのです。人智学運動を通じて流れ出し、脈打ってくるべきものがこのために役立ちますように。この理由から、この人智学運動の出発点にほかならぬこのチクルス(連続講義)が置かれました、問題は何か偏狭なものではなく、私たちはまさにこの運動とともに私たちの地平を、東洋的な思考も把握しているあの彼方を越えてさらに拡げてゆくことができるのだ、ということを証し示そうとするこのチクルスが。これを謙虚に人智学的なしかたで把握しましょう、自己教育し、私たちのなかで自己教育と自己陶冶への意志を強めながら。愛する友人の皆さん、人智学が皆さんによってこのように手がけられるなら、人智学は有益な結果に至ることでしょう、どのひとりひとりにもどの人間社会にも癒しを与える目的に到達するでしょう。

 そのために、この言葉が語られますように。これをこのチクルスの最後の言葉としたいのですが、この言葉について、何かを魂のなかでこれからの時代に携えていくことができる人たちもいるかもしれません、そうすれば、愛する友人の皆さん、皆さんはこの運動のためにここ数日間にいわばはじめてお集まりになったわけですが、この人智学運動の内部でその何かは実りあるものになるでしょう。願わくば私たちがいつも人智学のしるしのもとに集い合い、そして今終わりに際して名づけたい言葉、私たちが今まさにこの瞬間における理念として魂の前に置くことが許されるであろう慎みという言葉、自己認識という言葉を私たちが正しく礎えとすることができますように。

 

 

□編註

☆1 フィヒテ:Johann Gottlieb Fichte 1762-1814

        『全知識学の基礎と輪郭』(Jena1794 )参照。

☆2 ヘーゲル:Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770-1840

☆3 …パウロがコリント人たちに向かって書いている箇所:『コリント人への手紙 1 』12章

☆4 「霊感を授かった兄弟たちについては…」:同上 12章 1-30 Carl Weizsaecker の翻訳に準拠。

☆5 「しかし私はあなたがたに…道を示したいのです」:同上 13章 シュタイナーによる自由な翻訳。

☆6 「感覚は欺かないが…」:第2講の註☆5参照。『ゲーテ自然科学論文集』第5巻349頁。

☆7 それでも、やはりゲーテが…:この言葉は、宰相フリードリヒ・フォン・ミュラー相手のゲーテの発言に関連している:「私がどんなにキリスト教を尊敬しているか、あなたはご存じでしょう、あるいはご存じないかもしれない。今日、いったい誰がキリスト自身が持ちたいと思ったようなキリスト教徒なのでしょう?もしかすると私だけかもしれませんよ、あなたは私を異教徒だと思っていらっしゃるでしょうけれども。」この発言は1830年4月7日の『宰相フリードリヒ・フォン・ミュラーとの対話』(C. A. H. Burkhardt 編 Stuttgart 1870)に見られる。

☆8 ですからパウロはキリストを…:『コリント人への手紙 一 』15章 45

☆9 二つの異なったキリスト・イエスの若き日の物語:これについては、シュタイナー『人間と人類の霊的な導き』(1911 GA15 第3講);『ルカ福音書』(Basel 1909 GA114);『マタイ福音書』(Bern1910 GA123);『イエスからキリストへ』(Karlsruhe 1911 GA131)参照。

☆10 私の『神秘学』の意味で:シュタイナー『神秘学概論』(1910 GA13)の「宇宙進化と人間」の章(259頁)参照。

☆11 バーゼル講義:『ルカ福音書』(GA114)

☆12 「神の力は高みにおいて…」:『ルカ』2,14 シュタイナーによる翻訳。

☆13 ダマスクス現象:『使徒行伝』9,1-6

☆14 「平和の知らせ」の著者:ヴィルヘルム・ヒュッベシュライデン博士 Dr. Wilhelm Huebbe- Schleiden 1846-1916 彼についてはシュタイナー『わが生涯』(1923-25 GA28 32章)及び連続講義『人智学協会との関係における人智学運動の歴史と諸条件』(Dornach 1923 GA258 第6講)、さらにシュタイナー『書簡集 第2巻』(Dornach 1953)参照。小冊子のタイトルは "Die Botschaft des Friedens" 1912年6月19日ハノーファーで神智学協会のために行われた講演。Leibzig 1912

☆15 そして見よ、すべては極めて良かった:モーゼ1. 1,31

 


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