ルドルフ・シュタイナー
『治療のための精神科学的観点』

GA313
Geisteswissenschaftliche Gesichtpunkte zur Therapie

*注)原本の段落分けに沿って、段落ごとに冒頭に数字を入れています。(原本には数字は入ってません)

第1講
ドルナハ 1921/4/11

1-1
 期待されますのはやはり、昨年の講義{『精神科学と医学』(GA312)}の補足である今回の講義が、真の意味で補足と理解されうるもの、そしてとりわけ、私たちが講義の終わりに近づくときいくつかの治療上の展望へと結晶するであろうものを、少しばかりもたらすことができたらということです。この講義では私は努めて、前の講義でも考察対象とされた事柄、病気で治療されるべき人間という事柄に、別の側面から注目していきたいと思います。けれども、別の側面からこれを観察することにより、実際には単に異なった観点に至るというだけでなく、私たちが観察した題材を拡張することにもなるでしょう。つまり今回は、アントロポゾーフ(人智学者)であるみなさんにはお馴染みの、物質体、エーテル体云々といった構成部分が、病気になる場合と治癒する場合に、いわばどのように作用するか、ということを示したいのです。前回はとりもなおさず、内的人間の外的な現われを述べることに限定せざるを得ませんでしたが、今回示してみようと思いますのは、人間の外部の物質であるもの、とりわけ薬として用いられうる物質であるもの、そしてその物質が薬として作用しうるのは、それが人間の生体組織にたいして単に物質的な影響とは異なる影響を及ぼすことによってなのですが、この物質によって、人間のこうしたさまざまな構成部分が、どういう影響を受けるかということです。ただここでただちに導入としてひとつ前提しておかなければならないことがあります。

1-2
 前回は同じ対象について、多くの点で物質的なもの、物的なもの一般について薬として語ることができましたが、今、人間本性の高次の構成部分、超感覚的な構成部分に移行しなければならないという時点ともなれば、もはや私たちは同じようなしかたで物質について語ることはできません。いわば簡略にするために、短縮して語るためにそうすることもできるかもしれませんが、こういう議論の際は全体を通じて原理的な事実を意識していなければならないでしょう。つまり私たちが意識しておかなければならないのは、健康な状態および病気の状態での人間の外界との関係、人間の状態を真に理解したいなら、今日流通している科学で慣例となっているようなしかたで物質的なものを出発点とすることはできない、ということです。出発点としなければならないものは、物質[Stoffe]ではなく、経過 [Vorgaenge] であり、完了したもの[Fertiges]ではなく、ひとつのできごと[Geschehen]なのです。そして物質について語るとき、実際のところ私たちはこう思い描かなければなりません、物質のなかには、外的な感覚の仮象のなかで私たちに物質として現象しているもののなかには、ひとつのプロセス[Prozess]、静止状態に至った経過以外のなにものも存在しない、というように。

1-3
 シリカ(珪土)[Kieselerde]を前にして、私たちはまず物質としてシリカについて語ります。しかし、一定の境界を持ったいわゆる物体を思い浮かべるのでは、本質的なものをとらえることはまったくできません。本質的なものをとらえることができるのは、全宇宙のなかにただ一度の経過として存在している非常に包括的な経過を魂の目で見つめるときのみです、いわば経過として結晶化してくる経過、静止状態に至る、一種のバランス状態に至りうる経過、つまり、それが静止状態になったときに私たちがシリカとして見るもののなかに現われてくる経過をです。本質的なことは、人間の内部にある経過と、外部の宇宙で起こっている経過、健康な人間も病気の人間もこれと相互作用しているのですが、この外部の経過との間にある相互作用に注目することです。

1-4
 明日はさらに本来の物質というもので始めることができるでしょうが、きょうは導入的に、この相互作用についての表象に実際に導いてくれるものを示したいと思います。そのためにはアントロポゾフィー(人智学)的精神科学から人間の本質を真にとらえることを試みなければなりません。いわばまず図式的に表わすことになるでしょうが、しばしば人間の三分化[Dreigliederung]としてお話ししてきたものが、空間的人間のなかに実際に凝集している状態に、きょうはここで注目していきたいと思います。ご存じのとおり、私たちが神経ー感覚人間を区別するとき、神経ー感覚人間は主に頭に集中していますが、ここで頭に集中しているものは、人間全体に広がっていて、人間全体のなかに存在しています。人間は頭において最も多く神経ー感覚存在であるだけで、他方では人間全体が頭であり、ただほかの二つの部分においては頭よりは少ない程度に頭なのだということです。ですから、私たちが神経ー感覚人間と呼ぶものは、頭{という場所}に局限されていると考えることができます。今回の目的のためにこのような人間の三分化を実り多いものにするためには、呼吸循環組織であるものすべてを包括することになるリズム人間を、また二つに分けて考えなければなりません、呼吸系への傾向性をより多く持つ部分と、循環系への傾向性をより多く持つもうひとつの部分にです。そしてこの循環系のなかに、代謝人間と四肢人間との関連を示すすべてのものがさらにはまりこんでいます。

1-5
 人間の頭を研究するときは、いわば人間の生体組織の、最も多く神経ー感覚人間である部分を研究しているということです。人間の頭の組織構造[Organisation]、これは、人間の本質の高次部分の形状という点でも、人間のその他の部分とはまったく本質的に区別されます。つまり私たちが精神科学的観察という観点から人間の頭に注目するなら、この頭とは、一種の刻印(複製)[Abdruck]であって、自我、アストラル体、およびエーテル体の一種の析出(排出) [Abscheidung]とさえ言えるようなものなのです。加えてさらに、頭のための物質体というものも問題になります。けれどもこの物質体は、自我、アストラル体、エーテル体の刻印である物質的なものとはいわば異なるしかたで、頭のなかにあるのです。ここで、次のようなことに注意を促すことによって、いわばこういう事柄の高次のものを強調することが許されるかもしれません、つまり人間の頭は、人間の胎児において最初にそういう性質が見られるのですが、例えば単に両親の生体組織の力からのみ形成されるのではなく、人間の頭のなかには、宇宙的な諸力が作用していて、宇宙的な諸力がもっぱら人間のなかへと作用を及ぼしているのです。私たちがエーテル的な諸力と呼ぶもののなかには、両親の生体組織からまだ多くが作用していますが、エーテル的なものにおいてすでに、誕生以前の、さらに言えば受胎以前の霊的ー魂的生からの宇宙的な諸力が作用しています。そしてアストラル的なものと自我に至っては、まさしく受胎以前に霊的世界で生きていたものが作用し続けているのです。それは作用し続け、人間の頭において形成するようになるのです。自我はその刻印を人間の頭に作り出し、アストラル体もその物質的な刻印を、エーテル体も物質的な刻印を作ります。まさにこの物質的地球上ではじめて受け取られる物質体のみが、いわば主として効力を発揮するもの[Primaer-Wirksames] なのです、この物質体は刻印ではなく、主として効力を発するものです。ですから、図式的に示せば、人間の頭形成は自我の刻印である、と言うことができます。この刻印はこの内部で組織されます--この組織構造についてはさらにたびたび語らなくてはならないでしょう--、ある特定のしかたで組織されるのです。それはまず主として、頭の熱状態[Waermeverhaeltnisse]を自らのうちで細分化させることによって組織されます。さらにこの内部でアストラル体が、つまり、主にガスのような、空気のようなプロセスとして頭を貫通する(図参照)もののなかで組織化しつつ含まれているアストラル体が分化されます。次いでエーテル体が刻印されます 、そしてさらに、頭にとっての物質体であるもの、これが、物質的プロセス、真の物質的なプロセスなのです(図参照、白で斜線)。例えばここに目があるとしますと、骨ばった後頭部である部分を図のなかでいわば図式的に示すことによって、このプロセスを暗示しておきましょう(描かれる)。 けれども、ここで物質的な諸力に濃縮されているものもまた、頭全体に拡がっています。人間の頭形成のこの物質的な部分に、真の主要な物質的プロセスがあるのです。これは何かほかのものを表現するものではありません、そこにあるのはそれ自身のプロセスを完遂する何かなのです。けれどもこの物質的な頭プロセスのなかにも、本来やはり二重性[Dualitaet]が、二つのプロセスの共働作用があります。ここで起こっていることは、二つのプロセスの共働作用なのですが、本来これは、外部の宇宙で起こっているある種の別のプロセスとともに霊探求的に概観することができてはじめて理解できます。

Ich:自我 Astr.L:アストラル体  Aeth.L.:エーテル体

1-6
 皆さんが森羅万象のなか、始原岩層 [Urgebirge]において、粘板岩(結晶片岩)形成 [Schieferbildung]、とりわけシリカから粘板岩形成に移っていくすべてのものなかに現われるプロセスをごらんになるなら、そのときこの内部には、つまりこのシリカから始まる粘板岩形成プロセスのなかで働く諸力のなかには、一方のこの物質的な頭形成のなかで起こっているプロセスの対極に置かれるプロセスが見られます。これは人間と人間の周りの環境との間の重要な関連です。外部の鉱物化のなかで起こっているこのプロセスが、人間の頭の内部にも見られるのです。今日、まだ完全にとは言えないまでも、地質学にもほぼ明確に理解されていると申し上げてよいと思いますが、粘板岩形成プロセスであるすべてのプロセス、つまりシリカ(珪土)[Kieselerde]、シリツィウム[Silizium]が関与するすべての鉱物化プロセスは、脱植物[Entvegetabilisierung]とでも呼ばれうるものと関連しています。私たちはいわば、粘板岩形成のなかに、鉱物的になった植物界を求めなければならず、そして地球の粘板岩形成と同じ意味を持つこの脱植物化を把握しようとすることで、私たちは、ここ人間の頭のなかでその対極をなす反対物として別のしかたで起こっているプロセスを把握します。けれどもこのプロセスにはまた別のプロセスが共に働きかけています。このプロセスに共働するもうひとつのプロセスも、私たちは外部の世界に探さなければなりません。私たちはこれを、例えば石灰岩山地 [Kalkgebirge] が形成される所に捜さなくてはなりません。そしてこれもまた今日外的な科学にとってほぼ地質学上の真理としてあることですが、石灰岩山地は本質的に、私たちが脱動物化プロセス[Entanimalisierungsprozess]と呼びうる土形成プロセスに基づいているのです。これは動物化[Tierwerden]に対置されるプロセスです。そしてこの内部でもまた対極に置かれるプロセスが働いています。つまり、静止に至ったプロセスであるシリツィウムとカルシウムに、人間の物質的な頭形成への関与を認めるとき、私たちがはっきりと理解しておかなくてはならないのは、そのことによって、人間のこの物質的な頭形成のなかに、外部で、少なくともこの地球の全自然のなかで非常に重要な役割を果たしている何かが入り込んでくるのだ、ということです。同時に今や私たちは、一方においてシリカを、シリツィウムを眺めるとき、これはまさに物質的な頭において起こっていることと本質的な親和性があるのだということについて、予め方向づけを得ることができます。私がシリカについて述べるとき、これはまさしく静止に至ったプロセスのことです。石灰形成プロセスであるもの、カルシウムにおいて静止に至るもの、これもまた、対極であるものすべてと、つまり人間の物質的な頭のなかで対極的に共に作用するするものすべてと関連しています。私たちがまさに今日なお私たちの周囲に探し出すことのできるこれらのプロセスは、人間の頭においては、私たちが地上に見出すことのできない別のプロセス、つまり頭がまさにエーテル体、アストラル体、自我の刻印であるために、刻印のなかにのみ存在する別のプロセスと関連しています。

1-7
 私たちは、人間本性のこれらの部分に関して、まさに直接的な地球プロセスではないプロセスを静止に至らせたのです。私が皆さんに本来の物質的な頭のためにお話ししたもののみが、人間においては本来の地球プロセスなのです。ほかのプロセスは本来の地球プロセスではありません、もっともこれから見ていきますように、私たちはこれらのプロセスも地球プロセスとの関連性で見出すのですが。

1-8
 見通しをつけるために、さっそくお話ししていきたいのですが、人間の生体組織の第二の部分に移りますと -- 場所を限定することでこれをおおざっぱに胸部と呼んでいますが -- 、これは人間の生体組織において、リズム的人間を包括する部分であり、これをさっそく図式的に、呼吸リズムを包括するすべてと、循環リズムを包括するすべてに、区分しましょう。今
、人間の本質のこの第二の部分に全体として注目したいなら、私たちは次のように言わなければなりません。私がここにもっとも広い意味における呼吸リズムの組織構造として図示しましたすべて(図参照)、これは、まずもって、自我とアストラル体の刻印であるということです。つまり、頭が、自我、アストラル体およびエーテル体の刻印であるように、ここで

Phys.L:物質体 Ich:自我 Astr.L:アストラル体  Aeth.L.:エーテル体
Atmungsrhythmus:呼吸リズム
Circylations-Rhythmus:循環リズム

呼吸リズムであるものは、自我とアストラル体の刻印であり、そして、主としてそれだけで効力を発揮するものものも有していて(図参照、斜線部分)、そこでは物質体とエーテル体が共に作用しています。人間の頭ににおいては、主としてそれだけで効力を発揮するのは物質体のみです。エーテル体も刻印だということですね。けれども呼吸リズム系においては、物質体とエーテル体の相互作用が主に効力を発揮していて、刻印であるのは自我とアストラル体だけなのです。これは本質的に循環リズムのための組織においても見られますが、代謝組織全体が循環系のなかに押し入っていくので、もっと弱い状態になります。けれどもすでにここで、四肢ー代謝人間にもあてはまるものが始まっています。ここで関わってくることは、本来の循環つまりそこにある運動は別として、代謝として入り込んでくるものすべてを伴う四肢は、本質的に、自我の刻印と、そして物質体、エーテル体、アストラル体の共働作用である、ということです(図参照)。ですから、こう言うことができます、私たちが胸部人間に注目すると、そのなかには本来、刻印組織構造のうちの、自我とアストラル体に関わるもののみがあり、そこで効力を発揮しているのは、単に物質的であるのみならず、物質的なものがエーテル的なものに細分化されて現れている主要な組織構造なのだ、と。これは呼吸リズムの場合により強くあてはまることであり、循環組織の場合は、代謝系によって別のものが入り込んできています。

Ich:自我 Astr.L:アストラル体  Aeth.L.:エーテル体 Phys.L:物質体 
Atmungsrhythmus:呼吸リズム
Circylations-Rhythmus:循環リズム

1-9
 みなさんはこれが人間のさまざまな部分のためにさまざまなしかたで共演しているのをごらんになるでしょう。私たちが頭部系、胸部系、四肢系、とみなすこれらのさまざまな物質体の部分のために、精神科学において通常私たちが物質体、エーテル体、アストラル体、自我と呼んでいる部分が、さまざまなしかたで互いに入り混じって作用しているのです。プロセスとして存在する人間の頭は本来、本質的な物質体のなかにあります。物質体でないものは、自我、アストラル体、及びエーテル体の刻印だからです。中部人間であるものは、物質体とエーテル体の本質的な共働作用のなかにあります。物質体とエーテル体でないものは、自我とアストラル体の刻印です。四肢ー代謝人間にいたっては -- ただし後のふたつ{中部人間と四肢ー代謝人間}は互いに入り混じっているのですが -- 、本来、物質体、エーテル体、アストラル体の混合作用-- みなさんに説明しましたように、これはほかの部分に移っていくのですが -- と、自我の刻印です(前の図参照)。

1-10
 さて、私たちがまず注目するのは、シリカにおいて静止に至ったとみなさなければならないあのプロセスの物質的なものへの関与、物質的な頭組織への関与に対して、私たちはたとえばここで、中部人間のなかに何を見出すことができるのか、ということです。ここでは奇妙なことが起こっていて、中部人間においてシリカ形成のプロセスは、より強く、より広範に作用しています。このプロセスは頭においてはもっと微細です。このプロセスは、ここ中部人間においては、より強く、より広く、いわばより区分されて作用しています。そしてこのプロセスは四肢ー代謝人間においてはもっとも強く作用します。つまり私たちがシリカに結びついたものとして捉えたあのプロセスに注目するなら、私たちはこう言わなければなりません、このプロセスは、このプロセスが自我を助けに駆けつけなければならない場所で、もっとも強く作用する -- 私たちはさらにほかのプロセスへの相互作用も見ていくでしょう -- 、独立した自我の作用ということに関しては、この自我は物質的な代謝人間のなかにその刻印を持つだけなのだから、と。シリカを生み出すこのプロセスは、自我の四肢ー代謝人間への作用のために自我を助けに駆けつけなければならないところで、もっとも強く働くのです。つまりシリカによって特徴づけられうるこのプロセスは、単にアストラル体だけを助けなければならないところでは、弱く作用し、エーテル体のみを助けなければならないところ、つまり頭においては、もっとも弱く作用します。

1-11
 これは逆の意味でもこう言うことができるかもしれません、私たちがシリカにおいて静止に至っているプロセスとみなしたものに関しては、人間の頭の組織構造においてこのプロセスはもっとも物質的に[stofflich]作用していると言わなければならない、と。力としてのダイナミックなもの[das Dynamische als Kraft]ということに関しては、このプロセスはもっとも弱く作用しているのです。けれどもこのプロセスが力としてもっとも弱く作用しているところでは、このプロセスはもっとも強く作用し、その状態に近づけば、このプロセスは物質のなかで静止に至るのです。つまり私たちが、シリカを私たちの前にある物質[Stoff]として捉えるなら、このシリカの効力[Wirksamkeit]は頭においてもっとも強い、と言わなければなりません。私たちがシリカを、ひとつのプロセスの外的な徴候と捉えるなら、シリカの作用は頭においてもっとも弱い、と言わなければならないのです。もっとも強い物質的な作用があるところでは、ダイナミックな作用は弱いのです。中部人間においては、ほかならぬシリカに関して、物質作用と力作用がほぼ均衡を保っています。そして、四肢ー代謝人間については、力作用が本質的に優勢です。ここでは物質作用は最も弱く、力作用はもっとも強いのです。したがって、シリカを生み出すプロセスであるものは、実際人間全体をくまなく組織化しているのです。今、物質的な頭組織構造であるものと、人間と相互作用している外的環境との間の相互関係とはどのようなものかと私たちが問いかけたのなら、呼吸リズムの組織構造を有する限りでの中部人間の、外部の環境に対する相互作用とはどのような性質のものなのか、と問いかけることもできるでしょう。

1-12
 人間の頭を精神科学的に研究し理解したいならば、地球形成における両方のプロセス、つまり石灰形成プロセスと、シリカ形成あるいは私の考えでは珪酸形成[kieselsaeurebildend]プロセスにも、目を向けなければなりません。私たちはこれにもっと深く入り込んでいくことができるでしょう。さて、より外向きではなく、より周辺的な位置にないもの、人間においてより内部に向かって位置するもの、リズミカルな呼吸系のための組織構造、これは共働作用、つまり、そのなかに自我とアストラル体の刻印が組み込まれた物質的なものとエーテル的なものの主要な共働作用なのですが、この組織構造は、直接プロセスとしてあるもの、私たちが出会う自然のなかに直接プロセスとしてすでにあるものを、さしあたっては環境世界のどこにも示してはくれません。少なくとも通常はそのようなことはないのです。私たちが、自我とアストラル体 -- これらは自らの刻印を生み出したために多かれ少なかれ自由なのですが-- の独特の共働作用、および物質的なものとエーテル的なものの主要な共働作用であるものを通じてそこで起こっているものに特有のプロセスを見出したいなら、この混合作用全体のためのプロセス、この作用のための何らかのプロセスを、私たちが外界に探したいなら、このプロセスを私たちがしかるべき状態で持つためには、私たちはそもそもこのプロセスをまずは自分で生み出さなければならないのです。私たちが植物実質を燃やして植物の灰を得るならば、そこでプロセスとして形成されるもの、燃焼と灰の生産のなかに、そしてさらに灰が静止に至るプロセス -- 個々の灰についてはいずれお話ししましょう-- のなかに現れた、火のプロセスと灰形成プロセスのにおいてそこで形成されるもの、これは、ちょうどシリカプロセスが頭において物質的に起こっているプロセスに似通っているのと同様に、呼吸プロセスに似ています。そして、この灰形成プロセスによって呼吸リズムプロセスのなかにその相関物を持つものに効力を発揮させたいなら、私たちはむろんそれを呼吸のなかに取り入れることはできず -- 人間の生体組織においては決してそうすることはできません -- 、それをいわば当のものの対極であるもののなかに取り入れなければなりません。これをこのように図示してみますと(次の図参照)、ここが呼吸リズムプロセス、循環リズムプロセスですが、呼吸リズムプロセスにおいて植物の灰は、効力あるプロセスの特徴を私たちに示すものです。しかし私たちは、植物の灰のプロセスに、別の極、つまり循環リズム組織において、代謝という迂回路を通して効力を発揮させなければなりません(次の図参照)。私たちは、この植物の灰を、この力を、それがさらに呼吸リズムプロセスのなかに対極的な反作用を生み出すように、循環リズムのなかに組み込まなければならないのです。

1-13
 人間の生体組織を理解するためには、こういう関連がきわめて意味深く重要であることが直観にはおそらく直ちに明かになるでしょう。と申しますのも、シリカを形成するプロセスにおいて私たちの前にあるものは、人間全体に何らかの関わりがある、と言わなければならないように、ちょうどそのように、私たちは、ここで今度はこれを植物の灰化に適用することで、この中部人間、呼吸と循環リズムを有するためにこれもまたいわば二分化されるのですが、この中部人間についてひとつの表象を獲得するからです。

Pflanzenaschen:植物の灰
Atmungsrhythmus:呼吸リズム
Circylations-Rhythmus:循環リズム

私たちはこう言うことによって、ひとつの表象を獲得します、まず上部に、呼吸リズムに注目するなら、この器官の構築は本質的に、植物的なものを燃やして灰を得るときに私たちに現れるプロセスの対極に置かれたプロセスによって引き起こされる、と。呼吸リズムプロセスのなかには、いわば闘いがあり、植物灰形成に対する絶え間ない闘いですが、しかしこれは、その反対であるものが、このプロセスを促進するために実際に生体組織のなかに入り込んでくることなしには起こらない闘いなのです。人間として私たちは、シリカプロセスが存在し、石灰プロセスが存在する地球に置かれています。これらのプロセスが私たちを満たさなければ、私たちは人間であることはないでしょう。私たちが人間であるのは、私たちが私たちのなかに対極に置かれたプロセスを担っていること、つまり私たちがシリカ形成プロセスに反作用することができ、反対の極を自らのなかに担っていること、私たちが反対の極を自らのなかに担うことで、石灰形成プロセスに反作用することによってなのです。私たちはこれらの極を、頭形成を通じて、さらには人間全体を通じて、さまざまな度合いで自らのうちに担っています。私たちの呼吸リズムということによって図示しましたように、私たちの中には植物灰化プロセスに対抗する闘いがあります。私たちの中には、この植物灰化プロセスの反対の極があるのです。こういう事柄に目を向けると、おおざっぱに表現すれば、いわば、打てば打ち返される(打撃が反撃を引き起こす[Stoss Gegenstoss hervorruft])、ということも不思議には思われないでしょう。まったく明かなのは、私が生体組織におけるシリカ形成プロセスをしかるべく強化すれば、反作用が修正される、ということであり、同様に明かなことは、私が燃焼プロセスの産物を生体組織に取り入れると、反作用が引き起こされ、そして、この作用と反作用をいかに私たちの支配下に置くか、という重大な問いが生ずるということです。これは、抽象的に表現すれば、プロセス -- 人間の生体組織における自我にまで至るプロセスですが -- はどのようなものか、そして、外部のプロセス、つまり人間の生体組織の外部のプロセスはどのようなものか、ということをまず認識することが大切だ、と申し上げることによって私が常に表明していることです。これらのプロセスは内部と外部では異なっています。けれども、内部と外部で、これらは互いに対極をなして対置されています。そして本来その性質からすれば私の皮膚の外部にあるべき何かが私の内部にある瞬間、あるいは、たとえ単に軽い圧迫によってであれ、本来外から内部への作用であってはならない何かが、外から内部へと作用する瞬間、内的な反作用が生じ、そしてこの瞬間に私は、何らかのものに対するこのような内的な反作用を生み出すという課題を持つわけです。たとえば私が、人間において、シリカに反作用する正常なプロセスの代わりに、このプロセスへの過大な強すぎる傾向が生じていることをつきとめるなら、当該の物質を供給して反作用を引き起こす -- これはおのずと起こるのですが -- ことによって、私はこれを外から調整しなければなりません。

1-14
 これは、人間とその外界との相互作用を徐々に見通すことができるように導いてくれるものです。シリカ形成プロセスのなかにあるものは、自我が四肢と新陳代謝を通じて作用しようとするときに、力として最高度に自我に対することを、みなさんが真に理解できるようになれば、さらに、シリカ形成プロセスにおいて物質作用であるものは、人間の頭においてもっとも強く作用することを知り、そして力作用であるものは、人間の頭においては自我を助けに駆けつけなければならない度合いは強くはない、と言えるようになれば、そのときみなさんは、この自我というものが人間においていかにさまざまな度合いで作用しているかを見通す可能性を獲得なさるでしょう。さて、人間の自我と四肢ー代謝系(システム)の関係に注目しますと、人間のエゴイズムの起源は本来この関係のなかにあるのです。性のシステム[Sexualsystem]というのも、この人間的エゴイズムのシステムに含まれます。そして、自我は、まさにこの性のシステムという迂回路を通して、最高度に人間の本性にエゴイズムを浸透させる作用もするのです。

1-15
 これを理解すれば、みなさんはこうおっしゃるでしょう、そうであるなら、自我が四肢システムから人間に作用するためにシリカを用いるしかた、これに対して、この自我が人間の頭からシリカを通じて作用するしかた、この間には一種の対立があるのだ、と。そこでは{後者では}自我はいわばエゴイズムから解放されて作用します。そしてこれを精神科学的によく研究すると、これが細分化させる作用をしていることがわかります。

1-16
 この奇妙な作用を図で表現しなければならないとしたら、こう申し上げねばならないでしょう、自我が -- つまり今や組織化要素としての自我ですが -- 人間においてシリカを通じて四肢システムから行うこと(図参照、赤[rot])、これは、本質的に、人間を統合する、いわば、人間のなかで液体によって区別のない統一へと結合させながら存在しているものすべてであり、したがってこれは区別のない一様な全体なのです、と。

rot:赤 gelb:黄

1-17
 同じプロセスであるけれども、力的なものに関しては可能な限り強くないシリカ形成をともなうもの、こういうものはすべて反対の意味で作用します(前の図参照、黄[gelb])、これは細分化させ、放射する作用をするのです。人間はシリカによって、下からは統合され、区別ないものとされ、上からは細分化され、互いに異なったものとされるのです。すなわち人間に関しては、頭において組織的に存在する力は、個別の器官に作用するために細分化されている、ということです。この力はいわば、頭組織における独特のシリカプロセスによって、諸器官のなかで秩序正しく作用するよう、心臓、肝臓その他に対してしかるべきふるまいをするよう刺激されるのです。

1-18
 ここで私たちが前にしているプロセスは、下から上へと作用すれば人間のなかですべてを混ぜ合わせ、上から下へと作用すれば、すべてを可塑的に区分し、いわば生体の組織化を支配して個々の器官すべてを順調にするプロセスです。他方、私たちが、人間の場合一方においてはこの混同によって起こり、他方においてはさまざまな器官へのこの追い立て-- つまり統合しつつ組織することとは反対に細分化させつつ組織すること -- によって起こること について、そしてひとりひとりの人間においていかにこれが不規則になりうるかについて、直観を身につけることができたら、私たちはその人に何らかの異常があるとき、この方向に従って徐々に人間を治療するすべを学んでいくでしょう。これは次回以降の講義で見ていきます。ただし私たちは、この方向に従った診察に関してはきわめて慎重であらねばなりません。と申しますのも、よろしいですか、外的な科学は、人間の生体組織を調べるとき、何をするでしょう。この外的な科学はたとえばこう言います、人間の生体組織の中にはシリカがある、人間の生体組織の中にはフッ素がある、人間の生体組織の中にはマグネシウムがある、人間の生体組織の中にはカルシウムがある、と。つまり外的な科学はシリカについて、シリカは毛髪の中にある、シリカは血液と尿の中にある、と言うのです。さて、このふたつ、シリカは毛髪中にあるというのと、シリカは尿中にある、というのを取り上げてみましょう。

1-19
 唯物論的な科学にとっては、この、毛髪を調べると毛髪中にシリカが見つかる、尿を調べると尿中にシリカが見つかる、ということ以外には何もありません。けれども、何らかの物質がどこかの内部に見つかる、ということはまったく本質的なことではありません。これはまったく本質的なことではない、と申しますのは、毛髪中のシリカは、そこから活動するために毛髪中にあるからです。つまり私たちはいわれなく毛髪を有しているのではなく、毛髪からもまた生体組織へと、力が、それもきわめて精妙な力が発しているのです。きわめて精妙な力が、毛髪から生体組織の中へともどっていくのです。尿の中にシリカがあるのは、シリカはふつう過剰なものとしてそこにあるからです。使用されないものがそこで除去されるのです。シリカが尿中にある、というのは重要なことではありません、そこではシリカは活動しておらず、活動的であるべきではない過剰なシリカが追い出されてているのです。尿中にあるのは、生体組織の内部にあってはならず、つまり生体組織にとってまったく意味のないシリカなのです。何らかの個別の物質、そうですね、マグネシウムを例にとってみても、そうなのです。歯のなかにマグネシウムがなかったら、歯は存在することができないでしょう、と申しますのも、歯にとって、マグネシウムプロセスのなかには、まさにきわめて重要な意味で歯の構築に関与する力が生きているからです。みなさんはこのことをレーマー教授の講演でお聞きになったと思います。さて唯物論的な科学は、しかしマグネシウムは乳汁のなかにもある、と言います。けれども乳汁の中ではマグネシウムは重要ではありません。乳汁が現にあるおかげで、乳汁はその内部にあるマグネシウムを排出するのに十分なほど強いのであり、乳汁の中にマグネシウムそのものを探すことはできません。むろん私たちはそれを分析することはできますが、乳汁形成プロセスにおいては事態はこうなのです、つまり、乳汁形成プロセスは、マグネシウム力[Magnesiumkraefte]を突き放すことができるということによって成立している、ということです。歯の形成プロセスと乳汁形成プロセスにおけるこの独特の対立について、私たちがいくらか経験できるのは、マグネシウムとは、歯形成プロセスにおいて本質的なもの、このプロセスの一部としてダイナミックにそこに入り込んでいくものである、と私たちが知ることによってのみです。乳汁形成プロセスにおいては、マグネシウムは車の五つ目の車輪として排出されるものです。そしてたとえばフッ素についても同様で、これは歯の琺瑯質(エナメル質)において本質的なもので、フッ素なしには私たちは歯の発達プロセス全体を理解できません。フッ素は尿の中にもありますが、まさに排泄プロセスとしてであり、尿中で意味があるわけではありません。尿中にあるフッ素は、生体組織がそれを使用できないので排泄するもの、生体組織はそれを排泄するに十分なほど強いわけですが、まさにそういうものなのです。

1-20
 何かがどこかにある、という単に物質的な検査は、そもそも本質的なものについてまったく決め手となりません。どこであれ知らなければならないことは、何らかのものが活動的なものとして当の場所に正しくあるのか、それともそれが排出されたのでそこにあるのか、ということです。これが決め手となるのです。そして本質的なこととは、人間とその他の有機的な存在についてもその健康な状態と病気の状態において理解するために、私たちがこのような概念を身につけるということです。とは言えもちろん、より一般的に語るとき、こういう助けすべてを要求することができないというのも、常にしかたのないことです、なぜなら今日私たちの時代においては、より精密な概念について一般的な教養があまりにも乏しいために、より抽象において語らざるを得ず、そうするとそもそも理解できなくなるからです。唯物論の闘いにおいて非常にしばしば理解できなくなるのです。今科学者にぜひ知っていただきたい分野、この分野のために調べることのできる事実は科学者の前にあるのですが、この分野に特徴的なもののなかに降りてくるなら -- さらにまったく別の領域へと降りてくることもできるでしょうが -- 、ほかならぬ精神科学を通じて、こう証明することのできる場所に至ります、物質として分析され、物理ー化学的科学で研究され、それについて、この中にはこれがある、と言える何らかのものについての観念(表象)、このような観念(表象)は、本来、錯誤以外の何ものにも導かない、ということを証明できる場所に。

1-21
 これがきょう導入としてお話ししたかったことです。明日はこれについてさらにお話しすることにしましょう。