●R.シュタイナー

 「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」を読む

 第1回/「条件」(P19-31)その1
 

では、シュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」をテキストとした読書会をはじめます。

進め方は、単純に、このテキストの随所を引用紹介しながら、それについてのあれこれを余談も含めてぼくなりにコメントしていく形にします。

 どんな人間の中にも、感覚的世界を超えて、より高次の諸世界にまで認識を拡げることのできる能力が微睡んでいる。(P.19) 

これは、すべての前提になります。だれか特別の能力をもっている人だけが超能力を持つとかいう発想はここではまったく問題になりません。すべての人のなかに、通常の常識的に考えられている五感の能力以外に高次の諸世界について認識を得るための能力が種のように芽吹くのを待っている。そういうことです。

ちなみに、シュタイナーは、人間の通常の感覚を「五感」としてではなく、「十二感覚」としてとらえています。通常の、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚という五つの感覚のほかに、熱感覚、均衡感覚、運動感覚、生命感覚、言語感覚、概念感覚、個体感覚という七つの感覚を加えて、十二の感覚を人間はもっているというのです。この考え方は、教育に関しても非常に重要な考え方で、ほんとうはひとつひとつ検討していったほうがいいのですが、ここでは、手軽に参照できる以下のものをご紹介するにとどめます。

・高橋厳「神秘学講義」(角川選書)

・高橋厳「シュタイナー教育の方法/子どもに則した教育」(角川選書)

さて、こうした通常の感覚は通常の場合、だれにでも備わっているのですが、そうした感覚だけがすべてではないということが最初に提示されているのです。そして、そういう感覚世界を超えた世界を認識できる能力はだれにでも可能性として備わってはいるけれども、それを発現させるためには、それなりの修行が必要だということを言っているわけです。

 ただそのような能力を自分の中に目覚めさせるには、何からはじめたらいいのか知らねばならない。そしてそのための指針を与えることができるのは、すでにその能力を身につけた人だけに限られる。修行の道は、人類がはじまって以来、常に存在し続けてきた。そして高次の認識能力を持った人がそれを求める人のために、指針を与えてきた。この修行の道は秘密の行と呼ばれ、そこで授けられる教えは秘伝と呼ばれた。(P.19) 

秘密の行だとか秘伝だとかいうのは、基本的に、真言宗なんかの密教という考え方と近いものがあります。密教というのは、顕教というものに対して言われるもので、その秘伝はずっとあるのだけれども、一般には公開されていないというわけです。

日本には、一子相伝だとか、免許皆伝だとか、秘伝だとかいうあり方はけっこうポピュラーなものだといえますが、ま、それよりももっと、秘するには秘さなければならないだけの理由があるわけです。つまり、そうした秘伝の伝える能力というのは、それを使いこなせるだけの器がなければ、子どもに刃物を持たせたりするのと同じようになってしまいますから、その秘密が漏れないようにされていたのだそうです。そうそう、モーツァルトの魔笛という歌劇には、フリーメーソンの秘儀参入の儀式を模したといわれるシーンがありますが、一節によると、モーツァルトはそれをばらした罪で殺されたともいわれます^^;。もちろん、そうしたフリーメーソンは、とっくの昔に形骸化したものでしかないのですけど。現在のフリーメーソンというのもほとんど形だけのお粗末なもので、シュタイナーも、それについては、自分たちが何をしているのかまったくわかていないということを言っていたりします。

ちなみに、シュタイナーがフリーメーソンと関わっていたという話もありますが、そこらへんのことについては、シュタイナーもいろいろ話してたりします。つまり、関わることは関わったが、自分はそこからの影響を受けていない、と。シュタイナーの自伝なんかにも、そこらへんのことは書かれてあります。でもって、そういうことをよく知らない方が、「実はシュタイナーは密かにフリーメーソンに関わっていた」とかいうふうにまるで秘密を暴いてやる的な書き方をしていることもあったりしますが、そういうのは、その内容を超えるものではなく、ほとんど大ボケです^^;。

余談になりますが、参考までに、フリーメーソンについて、シュタイナーが次のように語っているのをご紹介しておくことにします。

 「メーソン(石工)」という言葉はそのまま受け取る必要があることが分かります。ギリシア・ローマ時代において、石工は美を表現するものを建設する者でした。聖堂、神殿などの重要な建築作品が石工によって建てられました。

 フリーメーソンによって成し遂げられたことの一部が、古い司祭の叡智に受け取られなければなりませんでした。女性の叡智と男性の努力が混じり合うのです。フリーメーソンの秘密はまだ解明されていません。ですから、秘密を公開するということもありえません。言葉に生産力が内在するようになったとき、フリーメーソンの秘密は語られることになります。神秘学者にはフリーメーソンについて次のようなことが明らかになっています。十八世紀まではこの通りだったのです。人間が高次の世界との関係を失ったとき、失われた言葉についての意識がフリーメーソンから失われました。フリーメーソンは水増しされたものになり、フリーメーソンの本来の意味はもはや理解されなくなりました。象徴はすべて司祭の叡智に由来するものであり、象徴の中に存在するものはこれから現われてこなければならないということを知っておく必要があります。本来の女性的な叡智は次第に失われてゆきます。そのために、女性的な叡智を守護する高次位階はフリーメーソンからなくなってしまったのです。ただ、ヨハネメーソンだけが、宇宙的なことに関与し、女性的な叡智についていくらか理解しています。(P.126-127)

  <シュタイナー「神殿伝説」(「フリーメーソンと人類の進化」より)

  アランハワード+ルドルフシュタイナー「性愛の神秘哲学」(創林社)所収> 

内容的には難しいところがありますが、ま、あくまでも余談ということで。 

さて、話を秘教を秘するということに戻しますと、古代においては、秘儀を洩らすということは、大きな罪でしたが、このことについては、シュタイナーの「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」(人智学出版社)のなかにかなりさまざまにふれられていますので、それをご紹介しておきます。これは、基本的に、古代ギリシアでの話です。

 相応しからぬ身で、奥義の伝授を希求する者に禍あれ。−−部外者に奥義を「洩らすこと」以上に大きな犯罪は存在しなかった。「奥義を洩らした者」は、死罪に加えて財産没収の罰を受けた。詩人アイスキュロスが、奥義の若干を舞台にのせたため、弾劾されたことも知られている。かれは、ディオニュソスの祭壇に逃れ、自分が決して秘儀伝授者でないことを、裁判で証明し辛うじて死をまぬかれることができたのである。

    (シュタイナー「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」P.17-18) 

こうしてまで秘されてきた秘儀の内容の一部が、こうして、シュタイナーによって公開されたのが、この「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」であって、それまで秘されていた高次の諸世界の認識のための方法論が近代にふさわしい精神科学(霊学)ということで解説されているわけです。

さて、テキストに沿って続けましょう。

 このような呼び方は当然誤解を招くであろう。修行する人たちは自分たちを特別高級な人間にしておくために、わざと自分たちの知っていることを周囲の人たちに隠している、と思う人も出てくるであろう。それどころか、そんな隠された知識などに優れた内容が含まれている筈はない、とさえ考えるであろう。なぜなら、もし本当に真理を伝えているなら、どうして秘密にしておく必要があるのか、世間一般にそれを公開して、すべての人がその恩恵に浴せるようにすべきではないのか、という疑問が当然生じるであろうから。

                               (P.19-20) 

こういう疑問は、非常に近代的な民主主義的な発想なのですが、やはり、人間には、その魂の成長段階に応じた適切な方法論が必要で、それが誤って適用されてしまうと、危険だということは理解することが必要です。もちろん、そうした秘儀の内容は、現代の科学に通ずる部分も含まれていてそうした知識を一般に公開しないで独占していたという部分もありますし、秘儀を公開しないことで、世界に対する霊的な力の発言力を強めるというようなあり方も存在していたそうなのですが、基本的には、人間一般に公開するには余りに危険が多かったというのが秘儀が公開されていなかった大きな理由であると思われます。こうしたことに関しては、話し始めると際限がなくなりますからこのくらいに留めておくことにしたいと思います。

 

●R.シュタイナー

 「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」を読む

 第2回/「条件」(P19-31)その2

最初は、補足事項が多くなりましたが、そろそろテキストにそって話を進めていきたいと思います。

 実際、神秘知識といえども人間が問題にするその他の知識、能力と異なるところはない、それが秘密の内容を含んでいるというのは、文字を習わなかった人にとって読み書きに秘密が含まれているのと同じ意味においてである。正しい仕方で習えば、誰でも書くことをおぼえる。そのように正しい道を求めるなら、誰でも秘伝を受ける者(神秘学徒)に、否、秘伝を授ける導師(神秘学者)にさえなることができる。他の外的な知識や能力と異なるのは次の事情に限られる。生まれたときの生活環境や文化環境によって、文字の知識を身につける機会に恵まれない場合があるかもしれない。しかし高次の世界における知識や能力を真剣に求める者には、どのような障害も存在しない。(P20-21)  

自分の横で、数学の問題を軽々と解いている人がいると想像してみてください。そして、それを見ても、自分には皆目わけがわからない。または、自分にはまったくわからない文字を当然のように読んでいる人がいる。その数学の問題や文字は、それを解読できない人にとっては、「秘密」であるということができます。その「秘密」に迫るためには、数学を学ばなければなりませんし、また見知らぬ言葉を学ばなければなりません。秘密が秘密のままであるということは、まだそれを学んでないということなわけです。

「自分にはそれを学ぶ環境が与えられてなかった」という言い訳は、神秘知識を学ぶ上ではなんら障害にはなりえないと書いてありますが、よくよく世の中を見回してみれば、いかに苦難のなかに置かれても、自らの魂を成長させながらがんばっている方もいる一方で、いかに恵まれた環境にあっても、単に堕落しているだけという方もいますし、それはたとえ環境的には似通った条件にある兄弟であっても、魂の力にはおのずと差ができていくように、神秘知識を学ぶことにおいて、最重要なのは、それを学ぶに値するかどうかということなのだということです。

秘密はその秘密にふさわしい準備のできた人にこそ開示されます。そういう意味で、秘密を秘密にしているのは、外的要因ではなく、内的要因にすぎないともいえるわけです。

 大切なのは次の二点である。第一に、真剣になって超感覚的認識を求める人なら、自分を高次の秘密へ導いてくれる導師を見出すまで、どんな努力も、どんな障害もおそれてはいけないということ。第二には、認識への正しい、まじめな努力が存在するときには、どんな状況下にあっても、伝授する側がその人を必ず見つけ出してくれるということである。(P21) 

「どんな努力も、どんな障害もおそれてはいけない」ということは、ある意味では、仏教なので、発心だとか回心だとかいわれているようなもので、それを学ぶのだという魂の底からの希求があってこそ、道を歩むことができるということでしょう。そして、その道を不退転で歩み始めた人にとって、「誰も教えてくれない」ということはありえないことだということです。もし道を歩もうとしながら、「誰も教えてくれない」「どうしていいかわからない」そう思う者があったとしたら、その人はそれに気づかないだけか、その準備ができていないかなわけです。

たとえば、大きな病に罹ってしまったとしましょう。または、人生で克服できないほどの大きな問題が持ち上がったとします。そうしたことこそが、その導き手であることもあるはずですが、それに気づくも気づかないも、その人次第だということがいえます。

ある人にはそれが見え、ある人にはそれが見えない。見えない人には、その秘密への認識が生まれないというわけです。

一冊の本との出会いというのも、それに似ています。運命のように本と出会うということは確実にあります。「あなたは、この本から学ばねばならない」まるでそう語りかけているような本があるのです。その本は、なにがなんでも私のところに届けられねばならなかったし、それは幾度拒んでも拒みきれないようなものでもあります。しかし、それをほとんど気にとめず、うっちゃっておくのも、確実にそこから鍵をもらうのも、その人の内的な準備ができているかどうか。それに尽きるのではないかと思います。

気づき始めると、なにかが自分に語りかけている。知らなければならないことを知らせようとしている。そうしたことは、本に限らず、あらゆるところに存在するのがわかります。

世に、「偶然」という言葉がありますが、誰かが言っていたように、それは偶然を偶然としか思えないのは、単なる「認識力の不足」以外の何者でもないのです。まさに、気づきは、シンクロニシティに満ちています。それを偶然とみるかシンクロニシティとみるか。それもどれだけ内的な準備ができているかに関わっています。

 人間は自分の魂の変革以外に導師の固い口をひらかせる手段を見出すことはできない。魂の質を或る高さにまで発達させることができたときはじめて、最高の霊的な宝が彼に与えられる。(P22) 

幼い子や常軌を逸している人に刃物を持たせられないように、秘密は、それを使いこなせるかどうかによって、与えられるかどうかが決まってくるといいます。

算数の加減を学んでいる人に計算機を与えるのは適切でないように、魂の高度な能力を身につけるためには、その基礎から学ぶ必要があります。何事にも感情的になり、ちゃんと思考力を働かせることができない人や物事を論理的に考えられなかったり、責任感が欠如していたり、理屈ばかりが先にたって、何も自分ではしようとしなかったり、そういう人が、魂の高度な能力を身につけることは不可能なわけです。

そういう意味で、魂の基礎力を身につけるための、修行が必要となってきます。この「いか超」では、そのためのさまざまな方法論についても述べられていますので、テキストに添って、今後説明していくことになります。

    

 

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第3回/「条件」(P19-31)その3

  


 道の発端をなすのは魂の或る基調でなければならない。この基調は神秘学者にとって、真理と認識への畏敬、礼讃の小道と呼ばれている。この基調をもつ人だけが神秘学徒となることができる。(P22) 

ぼくなどはいきなり「道の発端」からつまづいてしまうのですが^^;、ここでひるんでいては読書会が続きませんので、転びながらも頑張ります。

魂の基調となるのが「畏敬」ということでなければならないというわけですが、最初、この「いか超」を読んだときに、「こらあかんわ、失格や」と感じました。というのも、ぼくは、自分でいうのもなんですが、物心ついてから、誰かを尊敬するとかいうことからは遠い生活を送ってきたからです。

しかし、振り返ってみると、ぼくは人を尊敬することはなかったものの、「真理と認識への畏敬」ということでみると、小さい頃からかなり強くあったのではないかとも思えます。けれど、やはりぼくの最初の障害がそうした「畏敬」ということにあったことは確かで、そこの部分をなんとかすることろからはじめる必要がありました。

シュタイナーの教育についての考え方でも、子供は、最初は外界を受け容れることで成長し、尊敬すべき人から多くを学ぶことで魂の素地を形成していくといいます。日本の陽明学者でもある安岡正篤氏なども、子供の教育にあたっては、「愛」と同時に「敬」ということが大事だということをいいますが、同じ事なのだと思います。

そういう意味で、この「畏敬」という観点は、「高次世界の認識」云々に関わらず、魂の成長にとっては欠かすことのできない重要なことなのだと思われます。

 はじめは他人に対する子供っぽい畏敬であったとしても、それが後には真理と認識に対する畏敬にまで発展する。尊敬するに値する相手に対しては、それにふさわしい仕方で尊敬するという態度を学んだ人間は、精神を自由に保つすべをもよく心得ているものだ。そして心の奥底から畏敬が沸き起こる場合、常にその畏敬の存在は正当なのである。(P23) 

日本の武道の考え方に、「守破離」というものがあります。最初の段階は、まずなによりも「型」を修得しなければならない。その「型」を修得すると、今度はその枠にとらわれないようにそれを「破」っていかなければ成長できない。それから、その「破」というアンチの世界もまたひとつの「反−型」だから、そうした「正−反」という二項的な在り方を越えて、「離」ということが必要になるわけです。 

最初は「ソンケー」って感じでだれかを畏敬の眼差しで見上げる単純なことがその後の「真理と認識に対する畏敬」への、いわば「種」となって、「精神の自由」という花を咲かせるのではないでしょうか。それがいわば、「離」なわけです。つまり、とらわれのない在り方、自由を獲得するということです。

ちょっと考えると、「ソンケー」っていうのは一種の依存でもありそれが「自由」につながっていくというのは矛盾しているようにも思えますが、それは、「ナショナル」という民族愛が、「インターナショナル」という人類愛的な在り方の基盤にあるということと似通っているのだと思います。つまり、身近な人を愛することのできない人の語る人類愛は、ある意味で詭弁にすぎないということです。

 われわれよりももっと高次の存在があるという深い感情を自分の中に生み出すのでなければ、われわれ自身が高次の存在へ高まる力を内部に見出すことはできないであろう。導師は自分の心を畏敬の深みに誘うことによってのみ、自分の精神を認識の高みに引き上げる力を獲得することができた。恭順の門を通ることによってのみ、霊の高みへの登坂が可能となる。正しい知識は、それを敬うことを学んだときにのみ、自分のものにすることができる。人間は確かに眼を光の方へ向ける権利がある。けれどもこの権利は他人が与えてくれるのではなく、自分が自力でそれを獲得しなければならない。(P23-24) 

つまりは、「虚心坦懐」ということなのだと思います。なにごとにもとらわれなく接することができなくて、いつも色眼鏡で見たり、疑いのための疑いという感じで接している姿勢では、そこから何も得ることはできないということなのです。

ここで注意しなければならないのは、何事も鰯の頭を信心するように信じ込まなければならないということではなく、むしろその反対で、「信じず、疑わず」こそ、「とらわれない」ということだということです(^^)。 

とらわれなく受け入れる魂の傾向性がないと、それを学んだとはいえない。学ぼうという以上は、そこに学ぶ内容、対象がなければならないわけで、それを認めなければなにも始まらないということです。

そこに光はないと思っている人に、光を教えようと思ってもダメなように、そこに高次の認識があるということを虚心坦懐に受け取ることがなければその高次の認識を得るということは永遠にありえないことです。それは高次の認識がないということではなく、ただただそれを見ないというだけのことなのにね。

そういう意味で、「自分が自力でそれを獲得しなければならない」ということは非常に重要なことだということを忘れないようにしたいものです。だれかが、してくれない、与えてくれない、愛してくれない・・・という乞食のような「くれない」を繰り返してみたところで、それは与えられることなどないのだということです。

 われわれの文明生活は尊敬したり、献身的に崇拝したりするよりも、批判したり、裁いたり、酷評したりする方に傾きがちである。しかしどんな批判も、どんな裁きも魂の中の高次の認識力を失わせる。それに対してどんな献身や畏敬もこの力を育てる。(P24)

このことは、とてっも重要な観点だと思います。現代においては、、人を尊敬させないような冷たい知性教育の影響を受けすぎる傾向にあります。そうした冷たい知性教育は、魂の力の基になる「種」を否定しかねません。生まれたときから人を疑う利己的な魂の傾向性を植えつけられたとき、人はそこから何も生み出すことをしなくなっていくと思うのです。つまり、魂的な乞食の集団がこの地上を徘徊することになります。

 われわれの文化は、自分に対して意識的である人間の判断、「すべてを吟味して、最善を手に入れる」態度、つまり正に批判の精神によって、その偉大さを獲得してきた。(中略)しかいこのことの結果、われわれは外面的な文明生活の上で得たもののために、それに相当する犠牲を高次の認識活動や霊的生活の上で支払わなければならなかった。とはいえ、高次の知識を得るために必要なのは人間崇拝ではなく、真理と認識とに対する畏敬である、ということが強調されねばならない。(P24-25) 

もちろん、現代の文明や文化が悪いというのではあまりに短絡的で、それにはそれなりの意味があるということは忘れてはいけないのだと思います。人は、外的世界に積極的に関わらなければならなかったし、そこから多くを学ばなければならないのですから。

けれども、そうした外的世界に埋もれてしまってはならず、また、畏敬の念が大事だからといって、だれかを教祖のように崇めるのもそうした外的世界に埋もれてしまうことと大差はないように思います。あくまでも重要なのは、「真理と認識とに対する畏敬」なのだから、それを忘れてしまって、だれかを偶像視するのは本末転倒です。臨済の「仏陀に遭ったら仏陀を殺せ」という物騒な言葉も、仏陀をあがめるのではなく、その「真理と認識」への「畏敬」が大事なのだということをいわんとしていたのではないでしょうか。

 先ず第一に畏敬の念を思想生活の中に受け容れること、それが神秘学徒の出発点である。自分の意識の中にある不遜な、破廉恥な思考内容や軽蔑的な批判の傾向によく留意し、正に畏敬という思考内容を育てることから始めなければならない。(P26) 

ぼくも、この「いか超」に書かれてある「畏敬」ということについてそれまでの自分を深く反省しながら、すべてのものに積極的な面をみつけ、それを敬うこということを心がけるようになりました。まだまだ十分ではないものの、それを育てなければ何も始まらないのですから。

キリストの逸話のなかに、キリストとその弟子たちが犬の腐敗した死体の側を通りかかったときのものがあります。弟子たちがそれを避けて通ろうとしていたのに対し、キリストは「なんときれいな歯をしているのだろう」と言ったという話しです。

われわれは、意識的になって自分の思いを見つめてみるならば、なんと「不遜な、破廉恥な思考内容や軽蔑的な批判」がそこには満ち満ちていることでしょうか。不遜のための不遜、破廉恥のための破廉恥・・・。そういう意味での「自分を観る」ということもまた虚心坦懐な姿勢で、そこに「真理と認識とに対する畏敬」があるかどうかを常に自問することでもあるように思います。      

 

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第4回/「条件」(P19-31)その4

 


「条件」の項目を続けます。

 世界と人生について判断する際に、軽蔑したり裁いたり批判したりしようとする自分の態度の中に何がひそんでいるのか。それに注目しようとする瞬間は常にわれわれを高次の認識へ近づけてくれる。そしてこのような瞬間に、われわれが意識の中の世界と人生についての思考内容を賛美、敬意、尊敬で満たすような場合、われわれは特に急速な進歩を遂げる。このような瞬間に、今まで微睡み続けてきた能力が目覚める。このことは修行を積んだ者によって常に経験されてきた。霊眼はこのことを通して開かれるのである。(P26-27) 

「なんと自分の人生は不幸なんだろう」「自分はいつも幸運から見放されている」「人生なんてこんなもんさ」「だれもかれも自分を陥れようとしている」「自分をこんな目にあわせる世界なんてくだらない」こうしたことばかりを考える態度は、人を堕落させるものでしかありません。

その逆に、「私は世界に抱かれている」「私は世界に必要とされている」「苦しいこともあるけど、こうしたすべては自分を成長させてくれる」「人生は宿命ではなく、自由意志によって立命できるような素晴らしいものだ」このような姿勢でいることで、人は確実に成長することができます。

だれでも泣き言をいいたくなることもありますが、もし、「なんと自分の人生は不幸なんだろう」という思いが心を過ぎったら、そのときは、こういうふうにそれを転換させてしまうことが必要です。「なんと自分の人生は不幸なんだろう・・・・というとらえ方もあるけれど、苦しみに見えるそうしたことには、すべて意味がある。そうしたことを通じて私を育ててくれようとしているのだ。」

 神秘学徒による「認識の小道」の歩みは世間の眼につかぬように、静かに進められる。誰も彼の変化に気づく必要はない。彼はそれまでと同じように義務を遂行し、以前と変わりなく稼業にはげむ。変化は外なる眼の及ばぬ魂の内側でのみ進行する。先ずはじめは人間の心情生活全体に、尊敬するに値するすべてのものへの畏敬、という基本的な気分が照り輝く。この唯ひとつの基礎感情が生活全体の中心点になる。太陽がその輝きを通して生あるすべてのものに生気を与えるように、畏敬の念が神秘学徒の魂のいとなみ全体に生気を与えるのである。(P27-28) 

魂の成長は、それを誰かに評価してもらうためのものではありませんし、それは社会生活を阻害してしまうようなものでは決してありません。派手な外的な変化がほしくてドラッグをやったりするのは論外です。その変化は、たとえば、それまでわけもなく激しやすかった性格が穏やかになり人の言葉によく耳を傾けるようになったり、責任感が強くなったり、あきっぽかったのが忍耐強くなったりすることにあらわれますが、そうしたことすべては、決して派手なものではなないのです。

「畏敬の念」とは、人生を意味深く感じることといってもいいかもしれません。それが、魂のエネルギー源になっていったとき、魂はそれと気づかぬうちにでも、確実に成長を遂げていくわけです。

 或る外的印象から他の外的印象へと絶えず駆り立てられているひと、常に「気ばらし」を求めている人は神秘学への道を見失う。神秘学徒は外界に対して鈍感になるべきだ、というのではない。常に豊かな内面生活が、外から印象を受け取る際に、主導権を持ち続けるべきだというのである。深い豊かな感情を内に秘めた人が美しい山岳地方を旅するとき、感情の貧困な人とは別の体験内容をもつ。内面の体験が外界の美を開く鍵をわれわれに与えてくれる。(P28-29) 

外的な刺激がないと落ちつかなくて、空虚になってしまう人は、魂をすり減らし続けているといってもいいかもしれません。テレビがついていないと寂しい、いつも音楽を聴いていないとつまらない、ゲームをしてないとつまらない、パチンコにいかないとすることがない、そんな人には、内面生活の「主導権」がなく、常に外から動かされています。内的な自発による魂体験こそが、魂を成長させてくれるにもかかわらず、そうした主体性をみずからスポイルする行為が世には満ち満ちています。

魂を成長させていくためには、外からくるものに対して、常に、内的な「主導権」をもって、それを養分にしていかなければなりません。内的な「主導権」なくして外的刺激を受け取るとしたら、それは逆に魂の養分を浪費していることになります。

 神秘学徒はひっそりと孤独に自己沈潜する時間を生活の中に確保する必要がある。しかしその時間が自分の自我の欲求に従うだけでおわるなら、意図したこととは反対の結果しか生じないであろう。このような瞬間にはむしろ、自己の体験した事柄、外界が開示してくれた事柄の余韻をまったくの孤独の静けさの中で思い出としてひびかせるべきなのである。どの花も、どの動物も、どの行為もこのような沈黙の瞬間には、予期せざる秘密を打ち明ける。神秘学徒は以前とはまったく違った眼で外界の新しい印象を見るようになる。次々に移り変わる印象を楽しもうとする人は自己の認識能力を鈍らせる。何かを享受したあとで、この楽しみから何かを明らかにさせる人は自分の認識能力を育成し、向上させる。ただその際必要なのは、楽しみの余韻だけをひびかせるのではなく、そこからうけとれる楽しみをあきらめて、内的作業を通して享受したものを消化しようとする態度である。(P29) 

外的刺激をあまり受けずに、内省の時を確保することは非常に重要です。その時間は、みずからの体験を振り返り、それを養分に変える大切な時間です。早朝の静かな時間に、じっと心を鏡のようになった湖面にして、そこに映し出されるものをじっと見てみる。そうした時間は、外的印象に翻弄されがちな自分の魂の活力を甦らせるにも欠かせないものではないでしょうか。それは、ひとつの魂の変容のための時間だともいえます。 

しかし、一人でいる時間が大事だとばかりに、それを逃避の時間にしてしまうことを避けなければならないことはいうまでもありません。その時間は、あくまでも内省の時間であって、趣味にふける時間では決してないのですから。

 神秘学徒は楽しみをもっぱら、世界のために自己を高貴な存在にしようとする彼の意図の手段と見なすべきである。楽しみは彼にとって、世界についての報告をもたらす斥候である。彼はその報告を受けたあと、楽しみを通して作業へ向かう。彼が学ぶのは、学んだものを自分の知識財産として蓄えるためではなく、学んだものを世界の用に役立たせるためである。(P30) 

知識のための知識であることは、魂を硬化させるだけです。知識は体験を通じて叡智に変容させなければなりません。知識は、そのままでは魂を成長させることはできないのです。それは、食材を食べられるようにするためには、加工し、料理しなければならないようなものです。小麦は発酵させこんがりとパンにやきあげなければならないわけです。

世には、知識をため込むばかりの学者たちに満ちていますが、それらの知識のなかのほんとうに多くは、蔵に眠ったまま腐るのを待つのみです。そういうことになってはまったく残念です。知識は実践智である必要があるということを忘れないようにしたいものです。


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