●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第5回/「内的平静」(P32-44)その1

 


 

 神秘学徒はその認識のはじめに、畏敬の小道と内的生活の開発という二つの行を与えられた。さて神秘学はこの小道を歩み、内的生活の開発に努める上で遵守する必要があると思われる諸規則についても語っている。以下に述べるそのような実践上の諸規則は思いつきの所産ではなく、太古の経験と知識に基づいており、高次の知識の道が示される場合には古来常に同一の仕方で与えられてきた。霊的生活上の真の師はすべて、たとえそれらの規則を同一の言葉で表現してはいなくても、その内容に関して常に一致した立場に立っている。内容上に相違があるとすれば、その相違は表面的なものにすぎず、本質的ではない。 (P32) 

最初の前提となるのは、世界への、真理への信頼感という意味での畏敬の念であり、また、外的なものから自由であることのできるような内的なあり方でしたが、この章から、「内的生活の開発」のために必要ないくつかが、決して恣意的にではなく、太古から培われてきたものとして説明されていきます。

シュタイナーの「いか超」に限らず、霊性の向上ということのための修行は、見かけの差があるとしても、基本的には同じ要素をもっているということですが、ぼくの知る限りでも、確かに多く、同じ要素を見出すことができます。ただ、この「いか超」で述べられているさまざまは、かなり近代的なあり方をとっているといえるようですので、現代人には、かなり近づきやすい表現をしているといえそうです。

 霊的生活上の師はすべてこの諸規則を通して他人を支配しようとは望んでいない。どんな人の独立性をも侵そうとはしない。なぜなら神秘学者は他の誰よりも人間の独立性を尊重し守護しようとするからである。すでに前章で述べたように、すべての導師を結ぶきづなは霊的なものであり、二つの当然の原則がこの結合帯の留め金となっていた。今もし導師が堅固に壁に守られたその霊域から出て、公衆の面前に立つとすれば、ただちに彼は第三の原則--「自分の行為や発言がどんな人の自由なる決意にも干渉しないように配慮せよ」、に従った態度を求められる。

 霊的生活上の真の師はまったくこの基本的精神に貫かれている。このことを洞察する人は、自分が師から要求された実践的規則に従っても、自分の独立した立場が侵されたりはしない、ということを理解するだろう。 (P32-33) 

こうしたことを逆にいえば、修行者は、自らの「独立性」や「自由なる決意」が基本条件として必要とされるということであって、そうした条件なくして、「師」に依存しようとか甘えようとかいうのであれば、その人は、修行者であるとはもはやいえないことになります。

さらにいえば、他を支配しようとしその自由を奪おうとする師には、依存し甘えようとする弟子が、需要-供給の関係で引き寄せられるといえるわけで、いわゆる「おかげ」を期待する宗教団体は、そうした需給関係によって成立しているがゆえに、霊性を高めるという方向性からは遠いといえます。

「奇跡」や「超常現象」によって、人を引きつけるようなあり方もまた同じです。たとえば、他の要素では、高みにあるかのようにみえるサイババにしても、そういうことを用いるが故に、ある種の魔境ととなりあわせであるといえます。サイババ自身はそうでなくても、いわゆる「サイババ詣で」をするメンタリティは「独立性」や「自由なる決意」を否定するものであることは確かです。

サイババの話がでたので、ついでに付加しておくと、サイババは、たとえば女性に対する保守的な観点を強調するところがありますが、ぼくの考えでは、それは過去の霊性に戻ろうとする指向を強く持っているがゆえに、むしろ、現代では、そこに大きな「魔境」があるといってもいいように思います。

 このような実践的規則の中の最初のひとつは次のような言葉で表現されうる。「内的平静の瞬間を確保し、その時間の中で本質的なものと非本質的なものとを区別することを学べ。」(中略)

 内的平静の瞬間の確保という上述の規則そのものは簡単である。それに従うこともまた簡単である。しかし簡単であればある程、それは真剣かつ厳格に修められなければ、目標にまで導いてくれない。(P33-34) 

確かに、「内的平静の瞬間の確保」ということはそう困難なことではないけれど、それを持続的に、忍耐強く保つということはそう簡単ではないように思います。いわゆる「三日坊主」の「内的平静」は、決してその「確保」ではないからです。

野球でのバッターの打率や投手の勝率、防御率ということにしても、一日や二日での好調だけではそう力になるものではありません。ある特定の期間において、ある一定以上の力が求められるわけです。「健康」ということでもそうで、一日だけ理想的な食事や運動をしたからといってそれだけで有効に働くということはまずないといっていいと思います。

むしろ、小さなことからでも、毎日坦々と続けていくこと。そのことによってのみ、真の成果が得られるということは、何においても鉄則であるということをここで確認しておきたいと思います。手前味噌になりますが、ぼくがもう4〜5年近く、風邪さえひかなくなっているのも、そうした持続的なものの積み重ねであるといえそうです。少なくとも、今になって思えば、ああ、こうして続けることで、バランスが保てているんだなあということがわかります。ちなみに、それまで、ぼくは年に2〜3回は風邪をひくのが常でした。

さて、次回からは、その「内的平静の瞬間の確保」について、その具体的な方法に入っていきます。

  

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第6回/「内的平静」(P32-44)その2

 


 神秘学徒は毎日、わずかな時間でもよいから、日々の仕事とはまったく異なる事柄のために費やす時間を確保しなければならない。とはいえ、時を費やす仕方もまた、日常の他の場合とはまったく異なっていなければならない。とはいえ、この特別の時間が対象とすべき事柄と日々の仕事の間にまったくなんの関係もないかのように考えるべきではない。反対である。正しい仕方でこの特別の時間を費やす人は、やがてこの時間の中から、日々の課題のための充実した力が受け取れることに気づくであろう。この規則を遵守しようとすれば義務を果たすべき時間が奪われるのではないか、と考える必要もない。もしこの規則のために費やすべき時間が本当にもてないというのなら、毎日五分間だけで十分である。むしろどのようにこの五分間を使用するかが大事なのである。(P34)

「修行」というと、滝に打たれるとか、只管打坐だとかいうすごく難しいことを想像しがちだし、また、どこかに隠らないとできないとか、かなりまとまった時間を確保しないとできないとか思いがちですが、そうではなく、「毎日五分間だけで十分」だというのですから、「やる気がない」か「やる気があるか」という意志の力が重要になります。しかも、特定の場所が必要ということでもないのですから、「できない」とかいう言い訳はできないのが辛いところです^^;。わずかな時間でもいいとはいっても、それを続けるのは、非常にむずかしいんですよね。ですから、とにかく、これはできるだけやってみる以外にありません。

しかし、五分間とはいっても、日常にすごす時間と同じ質の時間であってはならず別の時間の流れをつくらないといけないというのは非常に重要なところです。時間というのは、「意識」そのもののことでもありますから、その意識のあり方を、その間はまったく切り替える必要があります。

 この時間の中で、人は完全に自己を日常生活から隔離する。思考と感情のいとなみは日常の時間における場合とは異なる色合いをもたねばならない。喜び、悲しみ、心配ごと、更にはさまざまの経験、行動をも、人は自分の魂の舞台に登場させねばならない。そして自分が体験する一切をより客観的な視点から見るように、心がけねばならない。(中略)

 さて、日常生活から隔離された瞬間に人が努力すべき事柄は、自分の経験や行動を、自分のではなく他人の経験や行動であるかのように見なす、ということである。(P34-35) 

日常的な意識では、自分の思考・感情・意志はまさに自分のそれであって、さまざまなことを自分なりに考え、感じ、行動しています。そして、喜んだり苦しんだり悲しんだり怒ったりします。つまり、そうした意識のあり方について、日常生活の中では反省的であることが少ないというわけです。 

しかし、一日の特定の時間だけは、そうした自らの日常的な意識に対して、それをいわば客観視できるだけの意識を用意する必要があります。たとえば、その日一日の自らの思ったこと感じたこと行なったことを別の人のビデオテープを見ているかのように見なければならないということです。

もちろん、音声と映像だけではなく、その心の部分の記録をも、ただただ坦々と観察する立場に自らを置くわけです。よくあるやり方では、自分の一日を、逆行させたビデオテープのように短時間で辿るというのがあって、慣れてくれば比較的簡単ですので、まだされたことのない方はぜひ試してみてください。

もちろん、他人のそれではありませんから、他人のように見ようとしても、そこに喜怒哀楽が入り込んできて、それに溺れがちになるわけですが、そこを踏みとどまって、ただただそれを見る訓練を続けます。これはまさに「内的平静」を育てるための行ですから、ひとつの事柄ごとに「もし、あの人が私のことをこう思ってたらどうしよう」とか「ああ、あの仕事、ちゃんと進んでくれればいいが」とかいうように立ち止まっていては、平静でいられないのはもちろんです^^;。 

ですから、共感的なこと、またその反対に反感を催すことであっても、そうした共感−反感ということから意識を自由にさせなければ、いつまでたっても「内的平静」に近づくことはできません。

 神秘学徒は特定の時間の中だけでも、自分自身を他人であるかのように見なしうる能力を身につけなければならない。批評家の冷静さをもって、自分自身を観察しなければならない。これが可能になれば、自分の体験内容が新しい照明の下に現われてくる。体験内容にとらわれ、その中に留まっている限り、人は非本質的なものにも本質的なものと同じように係わり合っている。内的平静をもって達観するとき、本質的なものが非本質的なものから区別される。苦悩も悦楽も、どんな思考内容もどんな決断も、このような態度で自己に接する場合、別の現われ方をする。(P35) 

チェスや将棋をやっていても、自分がやっているときはわからなくても、人がやってると先がよく見えるという経験はないでしょうか。仕事でも、渦中にいるとわけわからなくなったりしますが、渦中にいる人を側でみてると、その人のことやその解決策などが見えることもよくあることだと思います。

ですから、そうした渦中にある自分を、自分の意識ではなく、外から平静に見ることのできるような意識で見ることで、自分自身の本質的な部分と非本質的な部分をちゃんと分けてみられるように方向づけることができるということです。

一日のうちのほんのわずかな時間でも、そうした訓練をしていくことで、日常的な状態にあっても、そうした意識でいることのできることは確実に増えてきます。

つまり、自分の感情に溺れたり、怒りのあまり我を忘れたりといった類のことが確実に減って、今自分がどういう状況にいるのか、また自分をどう方向づけるのが望ましいのかを、冷静に判断でき、そのうえでの行動が可能になります。それはまさに「自分を観る」ということに他なりません。

 事実、すべての人間はその(いわば)日常の人間の他に、高次の人間をもその内部に担っている。高次の人間は目覚まされるまではいくらでも隠れたままでいる。この高次の人間を目覚めさせるには、各人が自分の力に頼るしかない。超感覚的認識へ導くところの、各人の中に微睡んでいるあの高次の能力もまた、高次の人間が目覚めぬ限りは、隠れたままの状態を続ける。(P354-36) 

「高次の人間」というのは、放って置いても目覚めることはありません。自分の思考をきちんと訓練し、感情を矯めて制御できるようにし、必要なときにただしく行動できるようにみずからを導くこと。そのことによって、みずからの通常の思考・感情・意志に左右されている低次の人間から、そうしたものを使いこなすことのできる高次の人間へとみずからを高めていくこと、そのための入り口が「内的平静」を獲得するための日々の持続的な訓練だというわけです。

  

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第7回/「内的平静」(P32-44)その3

 


 神秘学徒がこの規則に従うとき、対外的な生活態度を変化させる必要はまったくない。以前と同様、それ以後もまた日々の稼業に従事する。どんな仕方にせよ、それによって「生活」から疎外されるようなことはありえない。一日の他の時間には安んじて、むしろますます完全に、この「生活」に没頭することができるようになる。なぜならあの隔離された瞬間に、「高次の生活」が修得されるのであるから。(P36) 

「修行」を理由にして日常生活をおろそかにすることは本末転倒です。従って、現代的な神秘行にとっては、隠遁とかは論外になります。それは、姿を変えた逃避以外の意味をもちえないわけです。

実際、ぼくなんかの衝動としても、どうしても日常生活の苦しさから逃れてどこかに隠遁したいという欲求がかなりあるのですが^^;、そうした自分の傾向は逃避でしかないと認めなければなりません。

現実社会はあまりに矛盾に満ちているからといって、それから自分一人だけ離れてみたところで、何の意味もないどころか、逃避することで、社会への責任を放棄しているだけなのだということをしっかりと認めなければならないということです。

社会性を失うことなく、そのうえで一定時間を、それとは離れた形で内的生活の流れを確保し、それを生長させていくのがこの「内的平静」の行です。

 次第にこの「高次の生活」が日常生活にまで影響を及ぼし始める。隔離された瞬間内での内的平静が日常生活に働きかける。人間全体に落ち着きが、個々の行動に確かさがより加わり、もはやどんな突発事項によっても取り乱したりしなくなる。新参の神秘学徒は徐々にではあるが自分で自分を統御できるようになり、外的事情や外的影響の支配を受けずにすむようになる。このような人はやがて、隔離された瞬間がどれ程自分の力の源泉となっているかに気づくであろう。これまで怒りをさそってきた事柄に出会っても、もはや怒らずにすむようになる。これまで不安を呼び起こした無数の事柄も不安の種であることをやめる。(中略)このようにして神秘学徒の生活態度の中に、人生を充実させ促進させるような考えがあとからあとから、これまでの衰弱と抑圧をもたらす考えの代わりに、現われてくる。人生の荒波の中を確実に進んでいけるように、彼は人生行路の舵をとり始める。これまでの彼はこの荒波にゆさぶられて、右往左往していたのである。(P36-37) 

日常生活とは別の所で、それをまるで他人のことのように見ることのできるようなそんな時間を毎日継続的に持ちながら、それによって自らの内に潜在していた「高次の人間」を成長させていくことで、その「高次の人間」が、今度は、日常生活における自分に深く影響してくることになります。つまり、隔離された時間における「内的平静」が、日常生活を「内的平静」へと導いていくわけです。 

その「内的平静」とは、自分の感情をコントロールできるということであって、そのことによって、「外的事情や外的影響」から自由になることができます。それまでの自分が、「外的事情や外的影響」によって触発された感情によって揺り動かされなすすべもなくなっていたのが、それがなくなり、それを正しく導けるようになるということです。船を操るたとえで言えば、それまでは荒波のなすがままになっていたのが、それを乗り切れるだけの操舵技術を身につけたということになります。 

ぼくじしんのことでいえば、ぼくは小さい頃、ある種の怒りに襲われたとき、それを押さえることができず、かなり荒れていました(^^;)。あげくのはてが、自分の頭を柱にぶつけてたりさえしていました。今思い出しても恥ずかしさの極みなのですが、やはり、それは自分のなかでの高次の自我があまりに未発達で、感情のなすがままになってしまっていたということなのだと思います。

ま、それは小学生頃の話なので、今と比べても仕方ないのですが(^^;)、今でも、自分の感情をまったく「まるで他人のことのように」見ることまではなかなかできませんけど、それに振り回されることだけはかなり少なくなったと思います。そういう状態をそれぞれが自分で比較してみると、その状態の違いが、かなりはっきりとつかめるのではないかと思います。

 さてここで以上すべての規則の有効範囲について、あらためて考えておこう。人間の内なる「高次の人間」は絶えず進化している。けれどもその進化が合法則的に生じるためには、上述した安らぎと落ちつきとが存在しなければならない。外的生活の波は、人間がそれを支配せず、それに支配されるときには、内なる人間にあらゆる側面から圧迫を加えてくる。そうなると、まるで岩の割れ目に生じた植物のような生き方しかできない。しかも植物が生長を続けるための空間なら外から人の手で作ってやることができる。しかし内なる人間のためには誰も外から必要な空間を作ってやることができない。自分の魂の中の内的平静だけがそうできるのである。(P38)

「自分に勝つ」という表現があります。その表現には、主語としての「高次の自分」とそれが制御すべき「自分」がともにふくまれています。その二つの自分を同じものとしてしかとらえられないとしたら、船は先導を失って逆巻く波のなかを木の葉のようにさまようだけになります。

日常生活とは隔離された時間をつかって「内的平静」の行をするということは、その「高次の自分」を目覚めさせるということであって、そのことで、まさに「高次の自分」が「自分に勝つ」ということができるわけです。

 目覚めた「高次の人間」は「内なる支配者」となる。彼は確かな手で外的人間の生活を導く。外的人間が主導権を持つ限り、「内なる」人間は外なる人間の奴隷でしかなく、それ故自分の力を発揮することができない。怒ったり怒らなかったりすることが自分以外の何かに依存しているとすれば、私は自分自身の主人ではない。(P39) 

「高次の人間」を自らの内において目覚めさせることができれば、それは「内なる支配者」として「低次の自分」を導き、それを変容させていくことができます。その 「低次の自分」を「表層的な自我」ということもできますが、それが常に「高次の人間」との関係を失わないようにすることで、まさにその「私」は「低次の感情」の支配を脱して、そこから自由であることができるようになります。「私」が自分自身の主人になること、それが「内的平静」のテーマなのです。

    

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第8回/「内的平静」(P32-44)その4

  


 自分の中の高次の人間の誕生だけでは、神秘学徒の一側面しか特徴づけられていない。別の事柄がこれにつけ加えられねばならない。人間は自分を異邦人と見なすことができたとしても、それによって彼はまだ自分自身だけしか考察していない。彼は自分の個人的な生活状況とからみ合った体験や行動しかみていない。それを超えることが必要になる。自分の個人的な状況に依存しない純人間的な領域にまで自己を高めねばならない。まったく別の環境、まったく別の状況の中で生きる場合にも、人間としての自分に係わって来るような事柄に考察の眼を向けねばならない。それによって自分の内部に、個人的な関係の枠を突き抜けた何かが生命をよみがえらせる。これと共に眼差しは日常生活を律している世界よりも高次の諸世界へ向けられる。そして人間は自分がこのような高次の諸世界の一員であることを感得、体験しはじめる。(P40) 

高次の人間の誕生は、あくまでも生まれた、ということであって、それが真に成長を始めているということにはなりません。高次の人間が生きる、日常世界とは異なった世界があるということです。それは、この地上世界に生まれてきた人間はこの地上世界の一員であり、そこで成長していかなければならず、生まれてくる前の世界にいるのではないということと同じ事なわけです。 

ですから、高次の人間がそうした高次の世界において、成長していけるようにそれなりの修行が必要になるということを意味します。

 高次の諸世界は人間の感覚や日常的営為の触れえぬ世界である。自分がこのような世界の一員であると感じられるようになったときはじめて、自分の存在の中心点が自分の内部に移される。彼は内的平静の瞬間に語る内部の声に耳を傾ける。内部で彼は霊界との交わりを育てる。彼は日常性から離れる。日常の騒音はしずまり、彼の周囲を沈黙が支配するようになる。外からの騒がしい印象を想起させるような想念は一切排除される。内部における静観、純粋霊界との対話が彼の魂に染み亘る。----神秘学徒の場合、このような静観が自然的欲求にならねばならない。(P40-41) 

人は、この地上世界に生きているのと同時に、高次の人間の誕生によって、霊界にも生きるようになります。 

高次の人間を目覚めさせない人間は、自分は地上世界だけに生きていると思いこんで、自分の本来の故郷を忘れてしまいます。唯物論的世界観はそれを押し進め、肉体人間だけしか認めなくなります。肉体をはなれたあり方というのは、逃避的な幻であり、それは阿片としての宗教の悪しき発想だというわけです。これは、大変なことです。

こうしたあり方というのは、「あなたは犬だ」という暗示によって、「自分は犬だ」と思いこんでしまった人間が、「あなたは本来は人間なのだ」といくらいわれても、「何を馬鹿なことを言ってるんだ、ぼくは犬以外のなにものでもない」と信じ込んでいるのとまったく同じ事なのですが、それがわからなくなってしまっているのです。 

高次の人間を育てていくためには、日常を離れた瞑想的なあり方が必要になります。「犬としての自分」という想念からまったくはなれて、本来人間である自分を見つめていく必要があるということです。そのことが、自然に身についていかなければなりません。そうでないと、いつまでも「犬である自分」から離れられないのですから^^;。

 彼ははじめひとつの思考世界の中に完全に没頭している。彼はこの静かな思考作業に、生き生きとした感情を結びつけねばならない。霊界がこの思考世界に注ぎ込むものを愛することを学ばねばならない。やがて彼は、この思考世界の方が周囲の日常的事物よりも現実性に乏しいなどとは感じなくなる。彼は物質空間の中の事物に対するのと同じような態度で。自分の思考内容に対しはじめる。やがて、内的な思考作業によって明らかになったものの方が物質空間の中の諸事物よりも、もっと偉大であり、もっと現実的であると感じられるようになる時が来る。生命がこの思考世界の中で自己を打ち明けるのを、彼は経験する。思考内容の中には影絵しか存在しないのではなく、隠れた本性たちもまた思考を内容を通して語りかけていることが、彼にも判ってくる。(P41) 

思考世界をたんなる概念の構築物だと思いこむこともできますが、その思考世界を生き生きとした感情をもって体験することで、その世界は本来生きているのだということが実感されてくるというわけです。

ぼくとしては、そこまで思考世界を実感するまでには至っていません^^;。けれど、「内的な思考作業」をけっこう長い間、日々積み重ねるようになって、生きている思考世界というのを、わずかながら実感するようになってきました(^^)。

たとえば、パソ通を始めるずっと前、満足に言葉での表現さえできなかったときぼくの思考世界はほんとうに影絵のようなものでしかなかったと、今になってふりかえってみればよくわかります。その頃は。思考それ自体が生きていなかったものだから、その思考が自ずと生きて動いているという状態には至らなかったわけです。それに比べて、こうしてコメントを書いていても、ぼくの思考は、おのずと特定の生きた運動を繰り広げてくれるようになってきています。

こうしてコメントを書きながら、何かがぼくの思考世界の中で生き生きと動いているように実感するときさえあります(^^)。もちろん、ぼくの表現力が足らないために、

こうして書いている文章が生きているようには思えないかもしれませんが^^;、かつての自分に比べれば、少しはそういう感じが強くなってきたかな、と少なくとも自分では感じています(自己満足の可能性は大ですが^^;)。

ま、そういう感じで、思考世界といっても、言ってみれば「死んだ思考世界」と「生きた思考世界」とがあるように思うわけです。

 沈黙の中での生命の語らいがはじまる。これまではただ耳を通してしか聞こえてこなかったのに、今は魂を通してそれが聞こえてくる。内的言語(内なる言葉)が彼に自己を開示する。この瞬間をはじめて体験する神秘学徒はこの上ない浄福を感じる。内なる光が彼を取り巻く外界すべての上に輝く。第二の人生が始まったのだ。神的な気が浄福の流れとなって彼の中にみなぎる。(P41) 

ここらへんのことは、ぼくにはなかなかわからないことですが^^;、そうなってくればいいだろうなとは思います。おそらくは、自分の中の高次の人間が、霊界で成長することで、その存在が、「沈黙の中で」霊界とチューニングしているということだと思います。霊界に周波数が合って、それがテレビに映っているような感じでしょうか。いや、そのテレビの画面そのものが本来の世界と化するというか。

 霊学(もしくはグノーシス)は、思考内容の中に魂の力を結集させることによって次第に魂が霊的本性の中を生きるようになっていくこの認識の行を、瞑想/メディテーション(静観的思索)と名づけている。瞑想こそが超感覚的認識の手段なのである。(P41) 

瞑想行は、先ほども言ったように、霊界にチューニングし、そこで生きるための行だといえるように思います。この地上世界にいながらにして、同時に自分の中の高次の人間は、霊界に生き、そこで成長を続けるということです。 

しかしここで注意が必要なのは、一日中瞑想していることが重要なのではなく、この地上世界に肉体を持ち、そこでアクティブに行動しながら、自分の中の高次の人間に目覚めそれを成長させるということだということです。そうでなければ、瞑想はただの逃避の手段になってしまいます。

こうして地上に生まれた人間は、この地上で行動する責任がありますし、またそのことによってこそ、内なる高次の人間を成長させられるわけです。そうしなければ、おそらくは高次の人間は根無し草になってしまって、それこそ影絵のような幻と化してしまいます。

    

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第9回/「内的平静」(P32-44)その5

  


 しかし神秘学徒は瞑想の過程で感情に溺れたり、漠然とした気分に左右されたりしてはならない。そのような態度は真の霊的認識にとって妨げとなるだけであろう。先ず思考内容をできるだけ明瞭、正確に、どこにも曖昧な部分が残らぬように形成しなければならない。それを可能にするためには、心中に立ち現われる思考内容を手当たり次第取り上げたりはしないことである。むしろ霊的認識上の先達が瞑想を通して獲得した高遠な思考内容の中に沈潜する必要がある。(P42) 

移り気、落ちつきのなさ、八方美人は禁物です。決めたテーマに対して、冷静にかつ集中的に思考しなければなりません。

とはいうものの、想念というのは、あれこれと、気にかかっているところにふらふらと吸い寄せられていくものなんですよね^^;。それを、「執着」のひとつのかたちだということもできますが、人はそれと知らずに、ふと気づくと、ある特定の事柄を、磁石に吸い寄せられていくようにあれこれと考えてしまうものですから、まずは、そうした自分の想念の傾向性がどういうところにあるのかをできるだけ意識的に見つめ直してみることが必要です。

くよくよしてそのことばかりを気にしていたり、その反対に、わくわくして、もうそればかりが楽しみで仕方なかったりすると、どうしても瞑想とはほどとおい状態ですから、まずは、それを意識化して、そのことはひとまず脇に置いておくことのできる状態を模索しなければならない、ということです。 

あとは、他の想念の浮かびにくいようなテーマの思考内容を選んで、瞑想しやすくするということが必要です。そのための「先達が瞑想を通して獲得した高遠な思考内容」なわけです。それはたとえば、極めて抽象的な概念であったほうが、むしろ、日常の想念から離れるためには適しているように思います。たとえば、「愛を貫く叡智の光」をイメージする、とか(^^)。

しかし、あくまでも、思考世界を日常のそれから独立させるための瞑想ですから、ここであまり、そのテーマが適切かどうかを思案する必要はありませんから、ひとそれぞれ趣味に応じて、好みのものを選ぶのがいいかなと思います。

 このような瞑想を通して徹底した変化が神秘学徒の中に生じる。彼は現実についてまったく新しい観念をもつようになる。すべての事物の中にこれまでとは違った価値が見出せるようになる。繰り返して強調しておかねばならぬことは、神秘学徒がこの変化によって世間離れした人間になったりはしない、ということである。彼はどんな場合にも日々の仕事を遂行する義務から疎遠になったりはしない。なぜなら自分の為すべき行為、もつべき体験のどんなわずかな部分といえども、広大無辺なる宇宙の諸事象と関連し合っていることを、彼は今、洞察するようになったのだから。静観の瞬間にこの関連が認識できたとき、彼は新たな、より充実した力をもって、日々の仕事に励むのである。彼の仕事、彼の苦労、それは壮大な霊的宇宙関連の下に為されるのだ。そのことを、今彼は知っている。だから瞑想から湧き出てくるもの、それは生きるための力であって、怠惰なのではない。(P42-43)

もちろん、瞑想は現実逃避のためにあるのではなく、日常的現実さえもが大いなる宇宙的連関のなかにあるということを実感するためでもあるということは、常に念頭に置いておく必要があります。 

つまり、瞑想は、日常的現実が世界を見ていた窓を閉じるということではなくて、新たな、もっと広範囲で多角的な窓を開発することを通じて、それまでの窓から見ていた世界がどういう世界なのかが、よりよく理解できるようになるとともに、それまで、まったくわからなかった世界のことが認識できるようになるためのものだといえるわけです。

もし、瞑想によって、「世間離れした人間になったり」するのだとしたら、その瞑想は、それまでの日常的な窓を閉ざしてしまうということと同じですから、そういう傾向が自分の中に見いだせるのだとしたら、自分が瞑想だと思っていることを、もう一度、原点から、とらえなおしてみることが必要だと思います。

 瞑想を通して霊界との結びつきを得た人は、生まれてから死ぬまでの間だけではなく、永遠に存在し続けるものを、自己の内部に体得しはじめる。このような永遠的存在に疑惑の眼を向けうるのは、それを自分で体験できぬ間だけである。瞑想は自分の永遠不滅の核心を認識し直観するための道である。そして瞑想によってしかこのような直観に到ることはできない。(P43-44)

ぼくの場合、まだそこまで瞑想行とかは進んでいませんけど^^;、かつて、「自分の永遠不滅の核心」がわからなかったときや、その可能性をある程度理解していたけれども、「疑惑の眼を向け」ていたときとは、現在は、まったく違った生を生きているという実感のようなものはあります。つまり、それまでの自分は、見えても見えず、聞こえても聞こえず・・・というようなまさに無明のうちで右往左往していたということなのだと思います。

つい昨日、もう15年以上も前に書いた自分の卒業論文を見つけたので、それを読み返してみたのですが、自分のかつての無明や知ったかぶりを、思い知らされたように思って、少し屈折した懐かしさを感じました^^;。内容的には、文学的テキストのコミュニケーション理論を機軸として、読書行為という体験を多層的・多元的にとらえていくというもので、かつて流行であった、ロラン・バルト、モーリス・ブランショ、ジャック・デリダ、ウンベルト・エーコなどなどをひけらかしながら^^;、ま、それなりに今読み返してみても、そう的を外しているとはいえないと思うんですがやはり、そこで描こうとしているのは、結局は、最近流行の「快楽論」でしかない^^;。自分で自分を見つめきれないまま、いきがっていたといいますか・・・^^;。

で、その後の15年間というのは、その頃、無粋だと思って遠ざけていたような「精神」の在処をずっと探す修行の道という感じで、ここ数年でようやく、少しずつ、いわゆる「心の目」が開いてきたかなと実感することができてきているようです。もちろん、まだまだ、薄目でしかないですけど^^;。

 真の神秘主義、霊学、神智学、グノーシスが教えているように、どんな人の中にも自己を認識し、自己を直観する能力が具わっている。必要なのは正しい手段を選ぶというだけである。耳と眼をもつ人だけが音と色を知覚する。一方事物を照らす光がなければ、眼は何も知覚することができない。神秘学は霊耳と霊眼を発達させ、霊光を点じるための手段を教えている。霊的認識のこの手段は三段階に分かれる。一 準備。ここで霊的感覚が開発される。二 開悟。ここで霊光が点じられる。三 霊界参入。ここで高次の霊的存在との交わりが可能になる。(P44) 

さて、そういうことで、最初の「内的平静」の章がこれで終わって、次の章からは、三段階にわたる霊的認識についての話が始まってきます。 

上記の引用にもあるように、「どんな人の中にも自己を認識し、自己を直観する能力が具わっている」ということを再度確認しながら、だからといって、決して性急な結果を求めるのではなく、こうした修行は、一生を通じての、いや何回にもわたる生を通じて実践していくものだということを心に刻んでおきたいと思います。


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