●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第10回/「霊界参入の三段階」(P45-92)その1


 修行のこの三つの段階を通っていけば、すべての人の霊的生活は霊界への参入を或る程度まで許される。しかしこの章ではまだ正に公的に語りうる限りの内容だけしか論究されていない。それはもっとはるかに深く内密なる秘教から取り出された内容の素描に過ぎない。神秘修行は本来完全に定められた修行過程の厳守を求める。人間の魂が意識的に霊界と交流できるためには、そのような特定の実践教程が必要である。そして本章の記述内容とこの実践教程との関係は、予備学校で折りにふれて与えられる指導と上級学校の正規の授業で厳しく教えられる教課との関係に等しい。とはいえこの章の内容を真剣にかつ持続的に遵守すれば、その行為は本来の真の神秘修行へそのまま移行することになる。勿論、真剣さも持続力もなしに、性急な試みを繰り返してみたところで、なんの成果も得られない。先ずこれまでに述べてきたことが遵守され、それを基礎に更に先へ進んでいくときにのみ、神秘研究は成果をあげることができる。(P45-46)

「完全に定められた修行過程」については、ぼくにはよくわからないので、それについて云々することはできませんが、ここでは、魂を力を強めるために何をしていく必要があるか、ということについての具体的な方法論の示唆として、ここで解説される修行内容を受け取っていきたいと思います。

さて、ここで示唆されていることは、たとえば、数学を学んでいく際でいえば、いきなり微分、積分などを理解しようとしても無理ですから、あくまでも基礎的なことから始める必要があるということ。つまり、まずは加減乗除という計算のシステムを理解するというあたりから始めることを怠ってはならない、ということだと思います。

よく、数学のテストで、丸暗記でそれにのぞむ方がいるようですが、そんなことをして、もしたまたま解答ができたとしてもそんなのは無意味です。公式や定理などに関しても、そのひとつひとつについて理解し、自分でそれがなぜそうなのかを自分で導き出せるようにしておくことがどうしても必要になってくるわけです。そしてそのうえで、次第に高度な応用問題へ移っていく。

これは、どんなことについてもいえると思うんです。何かを修得しようと思うならば、それなりの準備期間が必要で、それを端折って先に行こうとしたところで、そんなことできはしないんです。特に、魂の力を高めるということなどは、そのプロセスが見えにくいですから、そのことを再三にわたり自分に言い聞かせる必要があると思います。魂の能力というのは、結果主義ではなく、あくまでもプロセスであるということも認識をもっておくことが必要でしょうね。

霊的なことに関しては、オーラが見えるとか云々といったことが人によっては現象として現われることも多いのでしょうが、そうしたことにとらわれないで、それで自分が偉くなったなどど錯誤せず、あくまでも大事なのは、自分の魂の足腰なんだということを肝に銘じておく必要は、いくら強調しても強調しすぎることはないくらいです。

よくいるんですよね、霊的現象にふりまわされて、自分が偉くなったような気になってそのことで破滅的になっていく人というのが^^;。とくに霊的現象に関係する人は、エゴが暴走しがちですから、「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」ということを常に自分に言い聞かせながら、謙虚さということをなくさないように気をつけたいものです。

 上に暗示した秘教の教える三段階とは次の三つである。一 準備、二 開悟、三 霊界参入。これらの三段階を、厳密に順を追って、第一、第二、第三と進んでいく必要は必ずしもない。特定の事柄に関しては、すでに開悟や霊界参入の段階にさえも、その他の事柄に関してはまだ準備段階にいる間に、達することができる。とはいえ或る時期に到るまでは、開悟に到ることなしに、ひたすら準備段階における努力を続けねばならない。そして霊界への参入が始まるとき、少なくとも若干の事柄に関する悟りが与えられていなければならない。 (P45-46)

さて、霊界参入の段階には「準備」「開悟」「霊界参入」という三段階があるということですが、そのことについて、この章で順を追って説明されていくことになります。 

さて、その最初の段階である「準備」について、はいっていくことにします。

 準備の段階では感情と思考とがまったく特定の仕方で育成される。この育成を通して、魂体と霊体とに高次の感覚機構や活動器官が与えられる。それは大自然の力が不特定の有機物質から成る肉体に特定の諸器官を付与してきたことの継続であるともいえる。(P47) 

最初のテーマは、「感情」と「思考」についてのもので、それを「特定の仕方」で育成することで、通常の五感や魂の働きなどではない、新たな「高次の感覚機構や活動器官」が形成されるというわけです。

見るためには、目という器官やそれに関する機構が必要なように、霊的な意味での感覚を発達させなければ、その霊視や霊聴などといった霊的感覚を得ることはできないということです。

しかし、ここでは、そうした霊的能力についてここで云々するのではなく、あくまでも、魂の力に応じた範囲でしか認識能力は得られないという原則を確認しておくことにしたいと思います。

たとえば、ただただ感情に溺れて我を忘れるという魂のあり方では、物事に対してきちんと認識していくことが非常に困難です。そういう意味で、魂の能力を高めるということは、感情と思考を適切な仕方で働かせ、認識能力を総合的な意味で高めていくことであるということがいえます。 

それは「霊的化学」であるともいえます。それは外的な方法で得られるのではなく、魂の中で行なわれるのです。ここでは、そのためにどうすべきかということが述べられています。

 先ずはじめに、われわれを取り巻く世界の中の特定の事象に注意力を集中させることが必要である。特定の事象とは生命の発生、生長、繁栄する相であり、衰微、凋落、死滅する相である。生命活動の存する限り、いたるところにこのような両様の事相が並存している。そしてそれらはあらゆる機会に人間の感情と思考をうながすきっかけを為している。しかし日常生活に囚われている限り、人は決して存分にこの感情と思考の動きに注意していない。そうするにはあまりにもあわただしく印象が次々に現われては消えていく。準備段階に必要なのは、人がまったく意識的にこの二つの事相に注意力を集中することなのである。 (P47) 

テキストでは、「或る植物」に関して、その「発生、生長、繁栄」、そして「衰微、凋落、死滅」なに注意を向けていく仕方が例として挙げられていますし、そのテーマというのは扱いやすいものですが、テーマをそれだけに限定しているのではないということはもちろんです。

この注意力は、「瞑想」、「集中」の行を行なうための前提になるものだから、その力を養成していくことが、魂の新たな能力をつくりだすための重要な段階となるということが意図されているように思います。

これについては、シュタイナーの講義集「死後の生活」(イザラ書房)のなかにいくつか示唆がありますので、それをご紹介することにします。

 日常生活において私たちがあれこれの対象に注意を向けるように、霊学研究者は内的要求から、はっきりと見通すことのできるイメージ、気分、意志衝動にすべての魂の力を集中します。その際の集中の仕方は、深い眠りにおけるように、すべての思考や意図や気配り、またはすべての生活感情をまったく平静にして、すべての魂の働きをその特定の内的対象に向けるのです。ただしその際、霊学研究者は意識を失わず、完全に目覚めていなかればなりません。いつもは外から来る刺激に応じて分散させている魂の諸力を、意識の中心に任意に置かれた表象、感覚、衝動に集中させるのです。それによって、魂の諸力がひとつに合わさり、いつもは人生の行間でまどろんでいた力が魂の内から姿を現わすのです。人間の魂のこの内的力づけによって、無限に高められた内的注意力が意識化されます。そして化学的方法によって水素が水から分離されるように、魂が意識的に肉体から引き離されるのです。もちろん、魂の集中を通して肉体から離脱できるようになるには、何年も何年もこの内的作業を行なわなければなりません。

(シュタイナー「死後の生活」(イザラ書房/P14-15)  

日常の生活では、魂は外的な対象にとらわれています。外的対象がないと、すぐに魂は、どうしていいかわからなくなって、眠りこんでしまいます。だから、通常、人は、テレビやビデオを延々と見続けたり、音楽を四六時中聞き続けたりしています。それが魂の高次の能力をスポイルしていることがわからないわけです。いつも何かをしていかなければ落ちつかないというのも、そういうことです。魂に力がなく、小判鮫のようになにかの外的対象に依存するのです。

それを、「内的対象」に向けることで、魂が肉体に即してしか働かないという怠惰なあり方を離れ、肉体とは離れて魂が働くようにすることが次第にできるようになります。そうする訓練をしていかなければ、魂の新たな力は発芽することはできません。その力は放置していては、決して育ちません。自らの内から創り出さなければ、存在しえない能力なのです。

 この場合外界に対する感受性が鈍ければ進歩が早いだろうなどと考えてはいけない。はじめはできるだけ熱心に外なる事物を観察すべきである。そしてそのあとではじめて、魂の中に立ち現われる感情と思考に没頭する。大切なのは完全なる内的平静を保ちながら、感情と思考の両方に注意力を集中することである。心を平静に保ちながら、内部に立ち現われてくるものに沈潜する行を続け、特定の地点に到るなら、これまで知ることのなかった種類の新しい感情と思索が内部に立ち現われてくるのを体験するであろう。(P48) 

こうした集中の行には、かぎりない忍耐力が求められます。そのきっかけとして、最初は、外的ななにかをひたすら観察し、それに集中するというのは有効な方法です。しかし、その集中は先に述べたようなテレビをじっくりみるとかいうような、そういうあり方とはまったく異なっているということを理解する必要があります。それは、あくまでも、外的対象に依存しないで、自らの思考と感情に集中するためのきっかけにすぎないわけです。

ひょっとしたら、こうして長い長いコメントを読み、それをもとに自分の思考と感情を見つめるきっかけにするというのも、この「集中」の行のひとつなのかもしれません^^;。

がんばってお付き合いくださいm(__)m。

   

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第11回/「霊界参入の三段階」(P45-92)その2

  


 このような仕方で生長し開花するものと、衰微し死滅するものとに対して、交互に注意力を向けるなら、回を重ねるにしたがってそのような感情が一層生き生きとしてくるであろう。こうして生じた感情と思考から、見霊器官が形成されてくる−−ちょうど自然力を通して有機的素材から眼や耳という感覚器官が形成されるように。まったく独自の感情形式が生長と生成に結びついており、それとは別のまったく独自の感情形式が衰微と死滅に結びついている。(P48)

ゲーテは「色彩論」のなかでこんなことを述べています。「もし眼が太陽のようでなかったら、どうしてわれわれは光を見ることができるだろう。もしわれわれの内部に神みずからの力が宿っていなければ、どうして神的なものがわれわれを歓喜させることができるだろうか。」 私たちは、通常、五感である視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のための器官として眼、耳、鼻、舌、身体(皮膚)を持っているわけですが、それらの感覚は私たちの内にその力が宿っていて、それが発現しているわけです。 

「見霊器官」もそれと同じで、私たちの内に、その力は宿っているのですが、それは、通常の感覚器官のように形成されるのではなく、それを形成するためには、その「種」を発芽させ、

成長させていかなければならないということです。そして、そのためには、「生成、繁栄、開花」及び「衰微、死滅」に注目し、それに結びついた「独自の感情形式」を養分のように作用させていくのがその「見霊器官」の形成に有効に働くというわけです。

 生成、繁栄、開花の過程に繰り返して注意力を向ける人は、日の出を仰ぐときの感情にやや似たような何かを感取するであろう。そして、衰微、死滅の過程からは、ゆっくりと月が視界に上がってくるときに感じるのにやや類似した体験が生じるであろう。この二つの体験が作り出す感情の作用は、それをふさわしい仕方で育成していくなら、この上なく重要な霊的作用にまで変化する。繰り返し計画通り、既定の方針に従って感情の作用に沈潜する人の前には、新しい世界がひらかれる。魂界(いわゆるアストラル界)が彼の眼前に次第にはっきりと姿を現わしてくる。生長と衰微とはもはやこれまでのように、漠然とした印象を生み出す事象に留まらない。むしろそれらはこれまでは予感もしなかったような種類の霊的な線や形象になる。そしてこの線や形象は現象のあり方に応じて異なった形姿を示す。(P49) 

生成、繁栄、開花の過程が、日の出、衰微、死滅の過程が月の出のときの感情体験と似ているというのは、おそらくシュタイナーの宇宙進化論において描かれる「太陽」と「月」の働きの違いにも似ているでしょうか。太陽は、進化を促進させる働きをし、月は進化を遅らせる働きをする。感情体験について、そうしたふたつのあり方のプロセスを体験することが、魂界(アストラル界)を「見る」ために重要だということがいえそうです。そしてそこで何を「見る」かといえば、「これまでは予感もしなかったような種類の霊的な線や形象」だというわけですがそこらへんについて、具体的には正直いってよくわからなかったりします^^;。

 同一の霊的段階に立つ二人の神秘学徒は同じ事象に対して常に同じ線や形象を見るであろう。正常な視力をもつ二人の人間が円いテーブルを丸いと見、一方が円を、他方が四角を見ることがないのとまったく同じ確かさで、咲き誇る花を見る二人の魂の前には、同一の霊的形姿が現われる。(P49) 

ともあれ、そうした「霊的な線や形象」は、でたらめに、恣意的なかたちで「見える」のではなくて、「霊的段階」に応じて、特定のものが見える、ということは重要なことだと思います。つまり、同じ窓からは、同じ景色が見えるというような感じでしょうか。ですから、違う窓だと、違った景色が見えるというわけでしょう。  

 ここで強調しておく必要があるのは、神秘学徒は特定の事象が何を意味しているかあれこれ考えることに終始してしまってはならない、ということであろう。このような知的作業は正しい道を見失わせるだけであろう。もっぱら生き生きと、健全な感覚と鋭敏な観察力を用いて、感覚世界に観入し、そして自分の感情に自己を委ねればよい。事物が何を意味するかを思弁的な悟性の力で決定しようとしてはならない。事物そのものに語らせねばならない。(P50) 

その窓からの景色のたとえでいうと、その景色をあれこれと解釈して、そこにいろんな意味を付加してはならないということなのだと思います。そうではなくて、そこから見える事物そのものをきちんと「見る」ということ。そのことによって、「事物そのものに語らせ」るということを忘れてはならないということです。

 神秘学が高次の諸世界での位置確認と呼ぶものもまた重要である。霊界で方位を正しく定めるには、感情や思考が感覚界での机や椅子とまったく同じ現実的な事実なのだという意識を身につけなければならない。魂や霊の世界での感情、思考は物質界での感覚的事物と同じように、相互に作用しあっている。(P50-51) 

つまり、自らの感情や思考そのものが、窓から見える景色そのものなのですから、それらによって形成され、それらが相互作用しあっているのだということ。だからこそ、感情や思考としての「事物そのものに語らせ」なければならない。そしてそのことによって、今自分がどこにいるのかを確認する必要がある。

ここらへんは、唯物論的なイメージの影響の強い現代だと、かなりイメージしがたいところですけど、ここで、そうした物質の固定的な観念についてもう一度考え直してみるということが大切なのではないでしょうか。

よく、「あの世に持って帰れるのは己の心だけ」ということがいわれたりもすることがありますが、今自分のいる外界がすべて失われて、自分の思っていること感じていることだけが、現象化しているような世界をイメージしてみる必要があるように思います。これもひとつのイメージトレーニングだといえそうです。

この世界では、心のなかでのあれこれが変わっても、それに応じてリアルタイムで外界が変化することは考えられませんが、心だけの世界があるとしたら、その心が少し変化しただけで、その変化したぶんだけ世界は変化してしまうことになります。

ここで、少し仏教の話になりますが、天台宗の祖でもある中国の天台大師は「摩訶止観」に「一念三千」の考え方を展開していますが、それは「心は是れ一切の法、一切の法は是れ心」といわれるように、極微の「一念」と「三千」の宇宙万有が関係しあっているというものです。その「一念三千」の考え方は、早い話、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応ということをテーマとしているわけですが、それを敷衍していうならば、その時の思いによってそれに応じた世界が現象するということでもあります。しかし、この世界では、その照応が即、目に見える形にはなりにくいだけで、実際は、心即世界だということがいえるわけです。地獄もその一念にあり、天国もその一念にあるということになります。

 神秘行においては、自分の思考と感情に対して、地上を歩むときと同じ注意深さをもとうとしないと、進歩することができない。石壁に直面したとき、誰もそこをまっすぐに通過しようなどとは思わない。物質界の法則に従って、迂回しようとする。−−感情界や思考界にもこのような法則が存在する。けれどもこの法則は人間に対して外から働きかけてはこない。これは自分の魂から流出しなければならない。どんなときにも間違った思考や感情を抱くことを自分に禁じるときに、そのような流出が可能になる。(P51) 

ですから、すべてを「我が唯心の所現」だということを霊的世界の現実として深く認識する必要があります。外界として現われることは、すべて自分の心の描いた絵画であるというふうにとらえそれを変えたいならば、自分の心を変えなければならないというふうにそれを霊界の法則として受け止めなければならない。「だれかのせいでそんな世界がある」とかいうふうに、責任を転嫁することなどできない世界なわけですから。

 すべての勝手気侭な思いつき、すべての不まじめな空想、気まぐれな気分や感情、それらは行の時間中、抑制されねばならない。そうすることで、感情が貧困になったりはしない。このような仕方で内なる世界が規制されるとき、むしろ豊かな情感と真に創造的なファンタジーが目覚めてくるのを、やがて人は悟るであろう。これまえ卑小な感情に耽溺したり、不まじめな議論を戦わせたりしてきた人物の内からも、含蓄ある感情、生産的な思考内容が現われてくる。そしてこのような感情と思考が霊界における自己の位置を確認させるきっかけを与えてくれるのである。(P51-52) 

感情を糞尿の垂れ流しのようにすることは、厳に慎まれなければなりません。そうではなくて、感情をしっかり矯めて、そのエネルギーを絵の具のようにとらえそれでいかに芸術的に描くかということが重要なことです。感情のコントロールを「不正直」だというふうにとらえる稚拙な考えがありますが水も、人の喉を潤す恵みとなることもできれば、すべてを飲み込む洪水のように働くこともできるように、感情もそれを豊かさとして作用させなければならないということです。

よく見境もなく感情をふりまく人がいますが、かーっとなったら、自分が何をしているのかわからくなるということは、自分が今どこにいるのかわからないということでもあります^^;。感情を正しく作用させるならば、それは良きナビゲーターとなって、自分の心のあり方を見定める重要なエネルギーになるわけです。

  

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第12回/「霊界参入の三段階/準備」(P45-92)その3

  


 音の世界もまた行の対象となる。その場合落下する物体、鐘、楽器のような、いわば無生物によって生じる音と、動物や人間の発する生物の音(声)とを区別しなければならない。鐘の響きを聞くとき、それと結びついて快さの感情も同時に生じる。けものの叫びを聞くときは響きから受けとるこのような快さの感情以外に、その動物の内なる快や苦の現われをも感知する。神秘学徒は後者の種類の音から始める必要がある。彼は音が自分自身の魂の外に存する何かを告知しているという点に、注意力のすべてを集中する。そしてこの自分とは異質なものの中に沈潜する。彼の感情はその音が告知する苦や快と密接に結びつかねばならない。彼は自分にとってその音が何であるか、自分にとってそれが好ましいか好ましくないか、気に入る音か気に入らぬ音かという観点を超えなければならない。音を発する存在自体の中でいとなまれるものだけが彼の魂を充たすにまでいたらねばならない。(P52) 

単なる無生物的な音には感情がふくまれていませんが、声を発する存在には、なんらかの感情が伴っています。通常は、その声を聞くときには、聞く側の好き、嫌い、快不快などのフィルターを通してその声を受け取ることが多いのですが、ここでは、そうしたフィルターを排して、感情を伴った声そのものを受け容れるということが「準備」のための「行」として提示されています。

ぼくが基本姿勢としていることのひとつに、「嫌いでも理解、好きならもっと理解」ということがありますが、そうしたあり方というのは、自分の感情のフィルターを排する試みでもあって、ここでシュタイナーが提示している「行」ほど徹底したものではないものの、基本的には、こうしたあり方の重要性を示唆するものでもあります。

「耳を開く」ということも、これまでに何度もお話したことがありますが、「開く」ということは、フィルターを排して、自らがその「声」の「器」になるということを意味しているともいえます。

 正しい計画に基づいて、このような行を続ける人は音を発する存在の内面といわば融合する能力を獲得するであろう。(中略)神秘学徒は全自然をこのような仕方で感得する術を学ばねばならない。--そしてこのことを通して感情と思考の世界の中にひとつの新しい可能性が開かれる。全自然がその響きを通して人間に秘密をささやく。これまで魂にとって不可解な響きでしかなかったものが、そのときからは自然の意味深い言語となる。いわゆる無生物の発する単なる雑音でしかなかった響きからも、今や魂の新しい言語の語らいが聞こえてくる。このように感情の育成をどこまでも進めていくなら、やがてこれまでは想像もしなかったことが聞ける自分に気づくであろう。彼は魂で聞きはじめるのである。(P52-53) 

通常、人は感覚器官としての「耳」で物理的にしか、「音」を、そして「声」を聞こうとはしません。けれど、音や声を発する存在の内面からの言葉として聞き取ろうとし、その姿勢を続けていくうちに、「魂で聞く」ようになるというわけです。 

とはいうものの、ぼくにそれができているかというと、もちろんできていないわけで、あまり説得力がないのですが^^;、そういうあり方というのは、自分の中の理想として確かにあります。

禅の「花は紅、柳は緑」というのも、視覚的な表現ではありますが、おそらくはそうした、対象と自分を切り離さないで、対象そのものに深く入り込んでその内面から見、そして聞くことをいわんとしているのではないかと思います。

また、日本人は、西欧人の「耳」とは異なって、自然の音までも、言語脳で処理するといいますし、「山川草木悉皆成仏」という日本的な大乗的表現にもあるように、そうした「魂で聞く」ことに比較的近しいのではないでしょうか。もっとも、最近では、そういう傾向性はかなり乏しくなってきているのかもしれませんが^^;。

 この分野で到達しうる頂点を極めるためには、なお別の事柄がこれにつけ加えられねばならない。----神秘学徒にとって特別の重要さをもつのは、他の人間の語る言葉に耳を傾ける仕方である。この修行のためには、自分自身の内なるものを完全に沈黙させる必要がある。誰かが意見を述べ、他の人がそれに耳を傾けるとき、通常は後者の心の中に賛成、反対のいずれかが反応として現われる。その場合多くの人はすぐさま、賛成、反対の意見を外に表わしたくなる。しかし神秘学徒は賛成、反対いずれの意見をも沈黙させねばならない。とはいえ、自分の生活態度を一変させて、このような徹底した内的沈黙を守り通すべきだというのではない。自分で立てた予定に従って、選ばれた個々の場合にこの行を実践すればよい。そうすれば時とともに、自然な仕方で、傾聴という新しい態度が習慣化されるようになる。(P53-54)

最初にもお話しした「嫌いでも理解、好きならもっと理解」が理想とするのがこうしたあり方です。もっとも、この引用にもあるように、何がなんでも、四六時中、賛成でも反対でもない「内的沈黙」をせよ、というのではなく、自分がこうと決めた事柄について、そうしたことが可能となるように実践していくのがよいということです。その実践を積み重ねることで、「傾聴」という態度が身に付くということです。

孔子の論語に「六十にして耳順」というのがありますが、それは、そういう意味での「傾聴」ということなのかもしれません。「六十にして」とあるように、なかなか困難だということのようですが^^;。

 特に細心の注意を払って観察せねばならないのは、意識の表面に現われて来ない、魂の奥底にひそむ感情の動きである。たとえば、なんらかの意味で自分より劣ると思われる人の発言に耳を傾けながら、あらゆる種類の優越感や知ったかぶりを抑制することが必要なのである。----このような態度で子供に接することは誰にとっても有益である。どんな賢者といえども子供から無限に多くのことを学ぶことができる。(P54)

これはほんとうに難しいことです。「知ったかぶり」というのは、意識しないうちにしてしまうものです。ぼくも、そこらへんについては、日々反省すべきところが多く、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということだけではなく、むしろ、自分が「実っている」ということをさえ特別視しなくてすむように、したいものだと思っています。

ここで、「子供から学ぶ」ということが示唆されていますが、多くの大人は、子供を子供としてみて、すぐに幼児言葉や子供言葉で接する傾向にあります。それは、早い話、子供を馬鹿にして、一個の人間として扱わない態度です。「〜ちゃん、それはこうでちょう・・」とか・・・^^;。

そうではなく、子供のなかにあらゆる可能性を見出して、それをむしろ畏敬の念で接するということが大事なのではないかと思います。一個の人格として対するからこそ、愛情だけではなく、厳しさも必要なわけです。適切な形で子供に厳しくできないというのは、やはり子供をある意味で貶めているということに他ならないのではないでしょうか。

 こうして人間は他人の言葉をまったく没我的に、自分の意見や感じ方を完全に排除して、聞くようになる。自分とは正反対の意見が述べられるときにも、「見当はずれな意見」がまかり通ときにも、没批判的に傾聴する修行を積み重ねていく人は、次第に相手の本質的部分と融合し、同化することができるようになる。相手の言葉を聴く行為を通して、相手の魂の中へ自己を移し入れる。このような修行を積んだ人にとって、音ははじめて魂と霊を知覚するための正しい手段となる。勿論のこのためにはこの上なく厳格な自己鍛錬が必要である。しかしこの鍛錬こそが高い目標へ導いてくれる。以上の行が自然音との関連で述べたもう一方の行と結びつくとき、新しい聴覚が魂の中から生じてくる。耳には聞こえず、物質音では表わせぬ霊界からの知らせが「聴ける」ようになる。「内なる言葉」のための知覚能力が目覚め、霊界が次々と真実を打ち明けはじめる(P54) 

世界は秘密にあふれているといいます。けれど、秘密とはいっても、それは隠されているのではなく、それを聞き取る力がないから、秘されているように見えるともいえます。すべての音は、言葉であり、それはかけがえのない宝物なわけです。そうした耳を、魂の力を、少しでも鍛えていきたいものです。 

自分のことをふりかえってみても、ここ数年で「聞く」ということそのものが、かつてとはかなり異なってきているのを感じます。物理的にいえば、同じ音を、同じ声を聞いていたとしても、同じ音、同じ声では決してないように思うのです。それは、聞く側の耳、受け取る器としての存在のあり方次第で、貧しくもなれば、また無限に豊かにもなるように思います。

 けれども以上によって、「内なる語りかけ」がまだ聞けなければ、神秘学の書物と取り組む必要がない、と言おうとしたのではない。反対である。このような書物を読むこと、神秘学の教えを聞くことは、そのことだけでもこのような高次の認識への参入のために、有効な手段となるのである。(P55)

真の神秘学の書物は、それを読むことそのものが、修行であるといえます。それは、一つの「内なる語りかけ」でもあります。実際、それは、読む側の準備次第で、その相貌をまったく変えていきます。この「いか超」にしても、最初に読んだときには、ただの文字に近かったものが、何度も読み返し、そして今回読んいる時には、まさに、「内なる語りかけ」であるかのように感じられるようになっています。おそらく、将来読み返すときにも、ぼくにとっては、さらに価値のある語りかけとして姿を現わしてくるのではないでしょうか。 


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