●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第13回/「霊界参入の三段階/開悟」(P57-77)その1

 


 悟りは非常に単純な行から生じる。この場合にも各人の中に微睡んでいる感情や思考を目覚ませ、発達させることが問題となる。忍耐力を結集させて、その単純な行を誠実にそして持続的に遂行する人だけに、内部に顕現する光を知覚する能力が与えられる。(P57)

滝に打たれたり、水に潜ったり、山を駆けめぐったり、断食をしたり・・・というような荒行をしなければ悟れないとかいう思いこみがよくありますが、むしろそれは、結果を得たいがための執着を強めることにしかならないのではないでしょうか。 

大切なのは、みずからの内に眠っている「種」を根気よく発芽させ、それをさらに気長に成長させていくことなのだと思います。それには、水と養分と光を適切なかたちで適切なときに与えてあげるということなわけです。

荒行は、そうした健全な発育をさせないような過剰な促成栽培的な危険が常に潜んでいるといえます。眠っている感情や思考の可能性を、ことさらな仕方ではなく、持続的な単純な行を通じて育んでいこうとすることだけが必要なのだというのですがその「持続的」な「忍耐力」があるかどうかだけがここでは最重要になります。つまり、結果主義に陥らずじっくりと待つということです。

 最初は一定の仕方で様々の自然存在を考察することから始める。たとえば見事に結晶した透明な石(水晶)との例を取り上げてみよう。先ず次のような仕方で注意力のすべてをこの石と動物との比較に集中しようと努める。(中略)以下の言葉に思考を集中させる。−−「石には形態があり、動物にも形態がある。石は静かにおのれの場所に留まり続ける。動物は場所を移動する。場所を移動するように、動物を促すのは衝動(欲望)である。動物の形態もこの衝動に従って形成されている。その諸器官はこの衝動にふさわしいあり方をしている。これに対して、石の形態は欲望に応じてはいない。欲望をもたぬ力によって形成されている。」われわれがこの思考内容に没頭しつつ、あらゆる注意力を石と動物の観察に集中するとき、われわれの魂の中に二つのまったく相違した感情が生じる。石から或る種の感情が、動物から別の種類の感情が魂に流れてくる。(P57-58)

 おそらく始めからそうなることはないであろう。しかし本当に忍耐強くこの行を続けていけば、必ずいつかはこれらの感情が表われてくる筈である。しかしそれには行をいつまでも続けていく忍耐力が必要である。これらの感情が現われても、はじめは観察している間だけしか存続しないかも知れない。しかし後になれば、外的対象をその都度観察しなくても、ただそれについて考えるだけで、この二つの感情は常に立ち現われてくる。−−この感情並びにこれと結びついた思考から、霊魂の知覚器官が作り出される。(P58)

自然存在には、鉱物、植物、動物というあり方があり、それらを観察、考察することによって生じてくる感情があり、そして、最初は外的対象を観察することで得られる感情、思考が、対象なくしても、現われてくるようになるというのです。

確かに、石などの鉱物と植物、そして動物には明かな相違があります。この世界においては、鉱物は物質体だけを有していますし、植物は物質体と生命体を有しています。そしてまた、さらに動物は感情をも有していて、自由に移動したりもします。そうした違いを観察、考察するなかから、そのなかで現われてくる感情と思考に没頭していくなで作り出されるのが「霊魂の知覚器官」だということです。

 こうして形成された器官は霊眼と呼ばれる。この霊眼によって魂と例の色が次第に見えるようになる。「準備段階」として述べた行を修めただけでは、霊界の線や形象が暗い状態に留まっている。「悟り」を通してその線や形象は明るくなる。(P58)  

 神秘学は見霊器官に対して石から流れてくる霊的色調を「青」もしくは「青味がかった赤」、動物から感知されるものを「赤」もしくは「赤みがかった黄」と呼ぶ。事実そのようにして霊眼に生じるものは「霊的な種類の」色なのである。植物から発する色は「緑」であるが、それは次第に明るいエーテル的な薔薇色に移行する。自然物の中で特に植物は高次の諸世界においても物質界での特定の性質をそのまま表わしている。石や動物にはそのような例がない。(P59) 

前章で扱ったのが「準備段階」で、この章で扱うのが「悟り」です。ま、ここらへんの違いは、ぼくにはあまりわからないところですので^^;、そうした「霊的色調」については、ふむふむ、そうか、ふむふむ、というように、受け取ってくださればと思います(けっこう無責任な言い方ですね^^;)。

 慎重な態度をとろうとせぬ限り、神秘学へ赴くべきではない。性急に進歩を求めて神秘学徒としての自覚を忘れ、高貴、善良、もしくは物質的な現実感覚の一片でも、神秘修行の過程で失うようなことがあってはならない。反対に自分の道徳的な力、内的誠実さ、観察能力を修行を通して高めねばならない。たとえば基本的な悟りの行の過程においては、隣人や動物に対する同情心、自然美に対する感受性を絶えず高めていくように努力しなければならない。この意識的な努力を怠ると、同情心も感受性も、行の過程で失われてしまう。心情は頑なになり、現実感覚は鈍くなる。そしてそれは危険な結果を招く。(P60)

これはとても大切なことです。神秘学を学ぶということを、超能力を得るための修行だとかいうふうに思うならばそれは大きな間違いだということです。霊的な修行を性急に行なう方の多くが、「現実感覚」を失い、「隣人や動物に対する同情心、自然美に対する感受性」を失って、人格を崩壊させていくというのはよくある話ですが、ここでシュタイナーは、「物質的な現実感覚の一片でも、神秘修行の過程で失うようなことがあってはならない」というのです。

現代の日本には、唯物論的傾向と無自覚に霊的なものを求める傾向がともに高まってきているように思います。それは一見方向が逆であるかのように見えますが、「現実」を見ようとしていないということにおいて、このふたつは同じ傾向性の別の表現形態であるといえます。 

ニューエイジや開発セミナー、そして安易なプラス発想の啓蒙などなどは、すべて、すでに過去における叡智の霊的顕現方法の安易な安売りだといえます。シュタイナーは「太古の叡智は一度失われる必要があった」といいますが、それは、過去において正しかったとされる霊的な修行の方法に関しても、もはや現代においてはほとんど無効になっているということであり、安易に過去の方法を現代に持ってきてありがたがるのは危険だということです。たとえば、現代では、思考ということを無視した安易な感情の耽溺は麻薬でしかないにもかかわわず、ヒーリングだとかセミナーだとかで、強調されるのはほとんど感情のマスターベーション以外の何者でもないのです。

 本書に示された道を行くときには、無理をしない限り、誰も有害な影響を受けない。無理をしない、という点について、ただひとつだけ注視しておけば、自分の生活環境や社会的義務が許す以上の時間と精力を修行に用いるべきではない。どんな人も、神秘修行のために、社会的な生活環境を一時的にせよ、変化させてはならない。真の成果を得ようとするなら、忍耐を持たねばならない。いつでも、始めてから数分後には行を中止して、静かに日々の仕事に赴くことができなくてはならない。そして行についての思考内容が日々の仕事の中に少しでも混入してはならない。最高の意味で待つことを学んだ人でなければ、神秘学徒となる資格はなく、神秘学徒を志しても、すぐれた成果に達することは決してないであろう。(P61) 

「修行するぞ!修行するぞ!修行するぞ!」とばかり一日中、いわゆる「修行」に耽溺することの危険性を認識する必要があります。現代では、「社会的な生活環境」からかけ離れた修行は、逃避でしかありません。毎日、坦々と特定の時間に極めて意識的な修行をしていきながら、日常生活はそのまま通常のまま送ることができることが重要なわけです。日常生活をなおざりにした修行の危険性について再認識しておく必要があります。もちろん、だからといって、日常生活に埋もれてしまってはならず、常に意識的な生活態度を心がけていかなければならないのは当然のことです。

日常生活から逃避することなく、日々、坦々と学びながら、この引用にあるように「最高の意味で待つことを学」ぶこと。それこそが、「神秘学徒」にとってもっとも重要なことであることを忘れないようにしたいものです。 

 

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第14回/「霊界参入の三段階/開悟の段階における思考と感情の制御」

                              (P57-77)その2

  


 前章に述べたような仕方で神秘学の道を歩もうとする人は、修行中の自己を強めるのに有効なひとつの考え方を忘れてはならない。すなわち、進歩が予期していたような仕方では現われなかったとしても、しばらくするとすでに非常に大きな前進を遂げていたというような場合がありうること、このことを常に念頭に置く必要があるのである。このことを忘れると、つい持続力を失いがちになり、やがては一切の試みを放棄する結果になる。(P62) 

結果主義に陥ってはいけない。結果が現われないからといって、努力を放棄することは、それまでの試みを棒に振ってしまうことになる。そういうことなのだと思います。 

こうしたことは、神秘行においてだけではなく、すべてのことにあてはまります。たとえば、仕事などでアイデアをだすために、あれこれ知恵をしぼっているとします。そして、考えても考えてもなかなかいいアイデアがでてこない。それでも、何かヒントはないかと探したり、また考えこんだりする。そうした試みを、「ああ、もうこんなことをしていても無駄だ!」とばかりにやめてしまっては、そうした努力は無駄になってしまいます。やはり、アイデアがでるまでじっとガマンして頑張ることこそが最短の道でもあるということを知る必要があります。

そうしたすべての努力の蓄積によって、あるときそうした蓄積が総合されて、泥のなかから見事な蓮の花が咲くのだということを忘れてはならないわけです。いきなり、なにもないところから、いきなり花が咲いたりはしないということを肝に銘じながら、日々努力を続けることを怠ってはならないということなのです。結果だけを欲しがるというのは、単なる御利益主義でしかありません。

 多くの人は、神秘学の小道を歩み始めたばかりで、すぐに離れていく。それはみずからの進歩の跡に気づけないからである。(中略)しかし勇気と自信こそは神秘学の途上で、決して消してはならなぬ二つの光である。何度繰り返しても失敗してしまうように思える修行を、更に進んで忍耐強く続けていかなければ、大きな進歩を遂げることはできない。(P63) 

信念は、忍耐力によって練り上げてはじめて形をとったものになります。「こうしたい」と願うことはだれにでもできますが、「そのために、自分はこうするのだ」とい実践を、決してあきらめずに続けることは思いの外難しいものです。ぼくもそうですが、三日坊主というのは、自己満足以外のなにものでもなくて、なにをするにもちょっとやってすぐあきらめるというのは、何の結果もでないどころか、飽きっぽさを助長してしまうだけです。 

真の勇気と自信というのは、続けていくという忍耐力なのではないでしょうか。それは、一気に結果をだすようなことと違って、派手さとは無縁ですが、真の「結果」というのは、そういう刹那的なものではないということを知る必要があるのではないでしょうか。

 進歩がはっきり認められるずっと以前に、自分が正しい道を歩いているという漠然とした感情が現われる。この感情が現われたら、それを大事に育てなければならない。なぜならこの感情こそ確かな導き手となってくれるからである。高次の認識へ導いてくれるものがまったく特殊で隠微な手続きであるという信仰は排除されねばならない。よく理解しておくべきなのは、感情と思考という自分に身近な働きから出発しなければならぬということである。(P64) 

続けていれば、その歩んでいる道が不毛なものか、そうでないのかがわかります。それはたとえ結果がでないからといって、無意味なことではありません。「たとえどんな結果が待ち受けていようと、自分は信念をもって歩もう」そういう意志的な感情こそが重要です。 

もちろん、危ない道を歩んでいることに気づかないことはカルトや宗教団体の例でもよくあることですが、やはり、そういう場合は、ちゃんとした思考力や感受性が育っていないがゆえにそうしたものにとらわれてわけがわからなくなっているにすぎません。そういう方向は、単なる怠惰なのであって、神秘行とは無縁のことです。神秘行は、何かを盲信するものではなく、思考や感情、感覚をスポイルすることなくむしろそれを総合的に育てる方向にあるものです。カルトなどでは、必ず、何かを無批判に信じなければならなかったり、ドラッグを使うなどのきわめて特殊な方法を安易に使ったりして、思考や感情、感覚をスポイルする方向にいきますから、ちゃんとそれらを見定める力さえあれば、その違いは比較的簡単にわかります。

引用にもあるように、「高次の認識へ導いてくれるものがまったく特殊で隠微な手続きであるという信仰は排除されねばならない」のです。それは、通常の我々の「感情と思考」の働きを発展させるものなのであって、苦行をしたり快楽にふけったりするような極端なものではないのだということをあらためて確認しておく必要があります。つまり、神秘行は、まさに「中道」的であるということです。カルト的な危険な行は、かならず、この中道的なあり方からの逸脱によって甘い結果への欲望をかき立てるものであることがわかるはずです。

 ただ通常の場合とは異なる方向に感情や思考を向ける必要がある。この意味で、感情と思考に関しては、誰でも先ず次のように考えるべきである。--「私自身の感情や思考には最高の秘密が隠されている。これまで私はそのことにまだ気づくことができなかった。」実際、結局のところすべての行法は次の事実に基づいている。----人間は常に体と魂と霊の存在として生きている。しかしこの三つのうちはっきり意識できるのは体だけであり、魂や霊ではない。神秘学徒は通常の人間が体を意識するのと同じくらい明瞭にその魂と霊を意識化しようと努める。

 それ故感情と思考を正しい方向へ向けることが問題なのである。そうすれば通常の生活においては見ることのできなかったもののために知覚能力が開発される。(P64)

もちろん、ただ通常のような仕方で、思考や感情を働かせていたのでは、その能力を発展させることができないのはもちろんです。この引用部分では、わかりやすくそこらへんのことが説明されています。つまり、人間は「霊魂体」という三重の存在であるのだけれども、通常は「体」という肉体部分しか意識できない。だから、霊と魂とをちゃんと意識できるようにする必要があるということです。

変な例ですが、たとえば音楽を聴くにしても、歌謡曲やポップスのような、連呼型のわかりやすい音楽しか聴いたことのない人がバッハやマーラーなんていうクラシック音楽を聴いたとしても、まずは、自分が何を聴いているのかさえわからないことが多いものです。やはり、ちゃんと聴くためには、それなりの経験を積むことも必要になります。また別の例でいえば、野球の試合をみる場合にも、まったくルールをしらないで試合をみているとプレイヤーが何をしているのか、どうしようとしているのか、おそらくほとんどわからないはずです。やはり、野球をきちんと見るためには、ルールや選手の個性などを理解しながら、さらに、「この試合には優勝がかかっている」とか「監督の采配は」とかを知った上で見ないと、理解することはむずかしいのは当然です。

ですから、霊魂体という三重の人間を神秘学的に理解するということも、そこらへんのことを根気よくわかるための、思考や感情の訓練を怠ってはならないということがいえます。

さて、次回は、その具体的な方法についての内容です。  

  

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第15回/「霊界参入の三段階/開悟の段階における思考と感情の制御」

                              (P57-77)その3

  


前回の終わりのところに、

 感情と思考を正しい方向へ向けることが問題なのである。そうすれば通常の生活においては見ることのできなかったもののために知覚能力が開発される。  

というところがありましたが、今回は、「どのようにしてそれが可能となるのか」について。

 植物の小さな種を眼の前に置く。その際大切なのは、この、目立たぬものを前にして、以下に述べる思考内容をできるだけ集中的に作り出し、それを通して一定の感情を呼び起こすことである。しかしその前に、先ず肉眼に見える限りの、種の形状、色、その他の特徴を熟視し、その後で以下の思考作業を行なうのである。この種が地に撒かれるなら、そこから次のように思考を続ける。今自分が想像の力によって作り出しているものを、将来大地と光の力が現実にこの種から招き出すであろう。もしこの種が見たところ本物そくりに造られた模造品だったとしたら、どんな大地や光の力も、そこから植物を招き出すことはできない。以上の思考内容をできるだけ明確に把握し、生き生きとそれを体験することができたとき、更に以下の思考内容をもふさわしい感情とともに体験することができるであろう。(P65)

ここでは、魂が一定の表象に没頭することによって、魂の隠れた能力を引き出すということが目指されています。「表象」というのは、目の前にあるものをとらえる、思い描くというような意味です。通常の生活においては、表象はめまぐるしいほどに変化しつづけ、それに応じて魂の力も容易に分散していきます。そのような分散しがちな力をひとつの表象に集中するということが重要です。

この修行では、植物の小さな種に対して、魂のいとなみのすべてを集中させていくという方法です。そうしてひとつの表象に沈潜していくことによって、魂はそれ自体の力を強め、内的沈潜へと向かうことが可能になります。

ここでは、植物の種の表象という方法がとられていますが、シュタイナーが別のところで紹介しているものを参考までに挙げると、植物の生長と枯死についての瞑想、水晶の結晶についての瞑想などもあります。

また、その他にも、もっと効果的な方法として、象徴的な表象を使う方法もあります。シュタイナーがよくとりあげる象徴には、黒い十字架が交差するところに、七つの赤く輝く薔薇が円環状に並んでいる、というのがありますし、ある言葉に沈潜するというようなやり方もあります。 

さて、植物の小さな種を表象する行についてさらに続けましょう。

 種の中には、眼に見えぬ仕方で、後にそこから生長してくる植物全体の力がそなわっている。人工的な模造品にはこの力が存在していない。しかしそれにもかかわらず私の眼には両方とも同じように見える。したがって本物の種の中には模造品の中には存在しない何かが眼に見えずに内包されている。さてここで修行者はこの不可視なものに感情と思考のすべててを集中しなければならない。種における不可視的なものは、眼に見える植物にまで変化する。後になれば、私もこの種から可視化されて生じたその植物の色や形態を見ることができるであろう。眼に見えぬものが見えるものになる。そしてもし私に考える能力がそなわっていなかったとすれば、後に可視化される植物の色や形態を。現在私がすでに心中に表象することもなかったでろう。----この思考内容に思考と感情を集中させなければならないのである。(P65-66)  

 その際に大切なのは、思考する内容を感情の内容にする、ということである。妨げになるような雑念を一切排除して、静かに上述したひとつの思考内容だけを集中的に体験する。そしてこの体験を通して、時とともに、思考と感情がいわば魂の奥底にまで貫通するように努める。(P66) 

植物の種を表象することを忍耐強く続けること。それをただおざなりの義務のようにするのではなく、できるだけみずみずしいまでの感受性で表象していくこと。その体験そのものに魂がとどまるということによって、内的な魂の力を育てていくことができるわけです。 

魂は、そうした修行によって、単なる外界の表象、物質的感覚に作用する印象を超え内にまどろんでいた魂の能力が開花していくことになります。単なる外的な印象によって生じたのではない感情が魂を支配する状態を続けることで内的な魂の能力が育っていくことになるということです。この能力を育てていくには、通常、長い時間がかかるといいます。そのために、忍耐と持続力を魂の基本的気分としなければならないということはこれまでにも何度も述べてきたことです。

 正しい仕方でこの思考と感情の行を積み重ねていくなら、おそらくは無数の試みの後で、ひとつの力を自分の内部に感知するようになるであろう。そしてこの力から新たらしい種類の直観が生じるでろう。その結果種が今や小さな光雲につつまれたように見えてくる。種がこの感覚的=霊的な直観によって、一種の焔として知覚される。焔の中心には、リラ(藤)色の印象にも似たものが感知され、その周辺部には薄紫色を見たときに感じるようなものが感知される。----そこにはそれまで見えなかったものが、自分の内に呼び起こした思考と感情の力によって現われている。感覚的には不可視のものが、すなわち後になってはじめて可視的となる植物が、霊的に可視的な仕方でそこに顕現している。 (P66-67) 

これは、いわゆるイマジネーション認識への道で、これは、通常のように外界を知覚、表象することによる「対象的認識」と呼ばれるものとは異なる認識方法です。

 以上の事柄はすべて、多くの人にとっては幻想にすぎないであろう。(中略)しかし正にこの困難な地点でこそ、幻想と霊的現実とを混同しないことが決定的に重要になるのである。更にまた、臆したり、無気力になったりせず、断固として前進する勇気をもつこと、これが大切である。そのためにも真偽を区別する健全な感覚を常に養う必要がある。修行中は常に、自分自身をまったく意識的に支配しつつ、日常の事柄に対するときと同じ確かさで、自分の体験に対しても思考力を行使できなければならない。(P67) 

ここでいう「イマジネーション」という言葉は、「空想」「幻想」「想像」というような意味ではなく、物質的、感覚的に知覚される表象や事物の世界よりも、むしろ「現実的」なものを意味しています。

もっとも、ここでは通常は見えない何かが見えるその内容が問題なのではなくて、そうしたプロセスにおいて育っていく魂の力こそが問題なのだということはしっかり確認しておきたいと思います。 

世の多くの人は、ほとんど目の前にあるものやそれに関連することしか認識しようとしていないわけで、少しでも抽象的な内容や概念などさえ認識できないのが普通です。けれど、そうしたあり方は、魂の力を枯渇させるだけで、その底に眠っている本来の力を育てていくものではないことは確かです。

もちろん、「対象的認識」にはそれなりの意味があって、それさえまともにできないというのは論外なのですが、魂の潜在能力の開発という意味では、「対象的認識」を離れた認識を得ることがまずは重要だということがいえます。そこにこそ、「自由」へ向かう道が開かれているのですから。

 

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第16回/「霊界参入の三段階/開悟の段階における思考と感情の制御」

                              (P57-77)その4

  


 以上に述べた部分は更に、咲き誇った花々を前にして、この植物にも枯れ死ぬ時が来るであろう、と考える別の思考と感情の行によって継続される。(P68)

 今美しい彩りを見せているこの植物はしばらく経つともはや存在しなくなるだろう。しかし種を作るという事実を通して、私はそれが無に帰してしまうのではないことを理解する。植物を無への消滅から護っているもの、それを私は今眼で見ることはできない。ちょうど私が種の中に、今あるこの植物の姿を見ることができなかったように、それ故植物の中には私がこの眼で見ることのできない何かが存在している。この思考内容を私の中でいわば活性化し、私の中のふさわしい感情をそれと結びつけるとき、しばらくしてからふたたび私の魂の中にひとつの力が育ってくる。そしてこの力が新しい直観となる。(P68-69) 

植物の小さな種を前に置いて、それが大地に撒かれ、生長していく姿を、生き生きと思い浮かべるという思考と感情の行に続いて、今度は、さらに、花の咲いている植物を前に置いて、今は咲き誇っているものも、やがて枯れてなくなってしまうのだけれども、それは決して無に帰してしまうのではなないとのだいう思考を活性化していきます。 

種のなかにも、咲き誇っている花のなかにも、今は直接目の前にあるという形では存在していないけれども、そうした表面的な姿を越えて確実に存在するものがあるという思考内容を感情の内容にしていくことが、ここでは重要な行として提示されています。それによって魂の中に育っていく力が、「新しい直観」になるというのです。

 ふたたび一種の霊的な焔が植物から生じてくる。勿論今度の焔は前に述べたものより当然大きな拡がりを示す。その焔の中央の部分には緑がかった青が、その周辺の部分には黄がかった赤が感知される。(P69) 

 ここで「色」と述べているものは、肉眼が見る色と同じものではない。肉眼によって受け取る色の印象に類似したものが霊的な知覚を通して感取できるので「色」と呼ぶにすぎない。霊界の「青色」を通して、肉眼が青い色を知覚するときに体験される質的内容に共通した何かが、霊的体験として感得される。真剣に霊的認識を目指して進んで行こうとする人は、このことに留意しなければならない。そうでないと、霊的なものの中で物質的な体験を繰り返すことしか期待できなくなる。このことをとんでもない方向に道を誤らせるであろう。(P69) 

種を前にした行を通じて、種は「一種の焔」として知覚され、その中心のあたりには、「藤色の印象に似たもの」が感知されるとありましたが継続的に行われる今回の行では、その植物から「一種の霊的な焔」が生じ、その中央部分に「緑がかった青」、その周辺に「黄がかった赤」が感知されるというふうに説明されています。

「神智学」(邦訳/イザラ書房)には、「思考形態と人間のオーラ」という章があり「霊魂体」に応じた三重の仕方でオーラは現れるというふうに述べられています。「神智学」で述べられているのは人間のオーラに関してですので、この行によって感知される「色」とまったく同じあり方だとはいえないでしょうが参考にはなると思われます。興味のある方は、「神智学」のP164-177あたりをご参照ください。長くなりますので、残念ながらここで詳細にご紹介するのは見合わせますが、上記の引用部分の補足になると思われるところだけご紹介させていただきます。

 ここで「色彩」として述べているものを、肉眼にとって物質的な色彩が存在するのと同じような意味で魂の前に存在しているように考えるかもしれない。しかしもしそうだとしたら、その「魂の色彩」は幻覚以外の何物でもない。霊学は「幻覚」的印象とは全然無関係なところにある。(「神智学」P167)

 「オーラを見ること」が物質界で知覚されうるものの限界を拡大し、それに新しい充実を加えることなのだということに主要価値をおかぬ者は、「オーラ」のこの表現の真意を正しく理解できない。このような知覚の拡大こそ、感覚的現実以外に霊的現実をももつ魂本来のあり方を認識させてくれるのである。

   (「神智学」P167) 

前にも述べたことですが、こうした行は、「オーラ」を見ることを目的としているのではなく、あくまでも魂の隠された未開発の力を育てていくものだということを忘れてはならないのだと思います。もし、それを目的としていて、それが見えることで、自分が悟ったとか偉くなったとかいう思いこみをしてしまうのだとしたら、その人は、「とんでもない方向に道を誤らせる」ことになりかねません。

「色」を霊的に見るところにまで来た人は大きな成功を収めたことになる。なぜなら事物がその人に現在の存在の相においてだけではなく、生成と消滅の相においても、自己を打ち明けるからである。彼はいたるところで、肉眼が何も 知覚できぬ霊の作用を見ることになる。そしてこのことと共に、出生と死の秘密を次々に看破していくための第一歩を踏み出したことになる。或る存在の出現が誕生とともにはじまり、死とともにその存在が消滅するというのは、外的感覚の観点であり、この感覚がその存在の隠された霊的実相を知覚できなかったからこそ、そのように見たのである。しかし霊的観点からいえば、出生と死は存在のひとつの変化の相であるにすぎない。(P69) 

ここで重要なことは、上記の引用にもあるように、「霊的観点からいえば、出生と死は存在のひとつの変化の相であるにすぎない」ということを深く認識することに他なりません。

仏教は、「苦集滅道」という「四諦」を重要視し、四苦八苦という苦しみがなぜ今現象しているのかを探求し、その原因に迫りながら、そこから自由になることを求めるというのが原点ですがそれは「生成と消滅の相」を越えた霊的な観点を得るということでもあるとぼくはとらえています。

実際、世界は一切が変化のもとにある「諸行無常」であり、今自分だと思っている存在も永遠のものではない「諸法無我」です。そうしたなかで、そうした相を越えたものを認識していく必要があるわけです。

 もし誰かがもっと楽に目標に達しようとして、上述した種子または植物をただ心に思い描き、想像の中に保持するだけですませようと考えるとすれば、大きな誤謬に陥ることになる。そうすることでも目標に達することができるが、その道は上述の道のようには確かではない。そこで手に入れた直観は大抵の場合想像力が生み出す主観的な幻影でしかない。それに客観的な内容を与えるためには、この直観をもう一度霊的直観に変化させなければならない。なぜなら単なる恣意によって主観的な直観を生み出すことではなく、客観的現実が私の中 に新しい直観を創造することが問題なのだから。私自身の魂の深みから真理が湧き上がってこなければならない。しかし真理を呼び出すその魔術師が私自身の日常的自我であってはならない。その存在の霊的実相を私が直観しようとしている当の客観的存在こそが、このような魔術師でなければならない。 (P70-71) 

霊的直観と単なる幻想を取り違えてはならないのは、基本中の基本です。幻想を霊的直観に取り違えがちな人の典型として、思考力が弱いということが挙げられます。ちゃんと思考できない人が、真の霊的直観に到ることはないといっていいのではないでしょうか。

先の「神智学」の中に収められている「認識の小道」という章には次のように述べられています。

 高次の認識のための思考作業を侮り、思考以外の力をそのために行使しようとする人は、思考こそ感覚的世界で行使しうる能力中最高の能力であるということを知ろうとしない人である。(「神智学」P180)

 高次の認識能力を獲得しようとするとき、真剣な思考作業を自分に課すことがいかに大切なことか。どれ程強調してもし過ぎることはない。今日「見者」になりたいと願う多くの人がまさにこの真剣で禁欲的な思考作業をいい加減にしているので、この点を強調することがますます必要になっている。「思考」はまったく私の役に立ってはくれない、とこのような人たちはいう。大切なのは「感覚」、「感情」等だという。これに対していわねばならぬことは、どんな人も、あらかじめ思考生活上の精進を続けていなかったら、高い(つまり真の)意味の「見者」になることはできない、ということである。(中略)思考を、無意味に抽象的思弁を重ねることと混同する人は、思考の本質を理解していない。確かにこのような「抽象的思考」なら、容易に超感覚的認識の息の根を止めてしまうであろうが、生きた思考は超感覚的認識の土台を築くことができるのである。(「神智学」P182) 

このことは、まさに「どれ程強調してもし過ぎることはない」ことです。現代には、安易すぎる「霊性開発」と称するものが多すぎます。それに陥ってしまう人の基本的な特性は、ちゃんとものを考える思考力に乏しくまた持続的に忍耐強く思考することができないということではないでしょうか。少なくとも、シュタイナーの思想を学ぶ者としては、そこらへんのことを忘れてはならないのだと思います。もっとも、シュタイナーの本を読むということは、必然的にそうした思考力を要求されるということですけど^^;.

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第17回/「霊界参入の三段階/開悟の段階における思考と感情の制御」

                              (P57-77)その5

  


 このような種類の行を通して、自分の中に見霊の最初の芽生えを体験した人だけに、人間自身の観察に向かうことが許される。人生の単純な相を先ず選ぶ必要がある。--しかしこの観察に向かう前に、自分自身の道徳的性格の純化に努力し、行によって得た認識を自分の個人的な利益のために利用しようなどと決して考えてはならない。その認識が周囲に対して権力となりうるにしても、決してそのような権力を濫用してはならない。換言すれば、人間存在の秘密を直観によって知ろうとする人は、真の神秘学の黄金律に従わねばならないのである。その黄金律は以下の言葉で表現される。「神秘学の真理に向かって汝の知識を一歩進めようとするなら、同時に善に向けて汝の性格を三歩進めねばならない。」(P71) 

「知識」は絶対に濫用してはならないということです。現代科学のように、対象的認識によって知識を無制限に応用していくようなそんな在り方がどんなに危険であるかということを深く認識する必要があります。本来、いかなる知識も、それを担うに足るだけの魂の器、道徳的特性、人格等々を備えていてはじめて、それを使い、応用することがゆるされるものです。現代の対象認識的知識は、そうした前提を無視することで、果てしない暴走をしてしまうことになりました。

神秘行においては、そうした暴走は決してゆるされてはならないことです。しかし、霊的指導者には、みずからの欲望の満足のために、人の前世を霊視するだとか、運命を見るだとか、オーラを見るだとかいったような手段を目的化したような在り方が多く見られるように思います。そうした人格しか有していない者、自己認識を正しい仕方で持ち得ない者は、他の人間を観察する資格を持ってはいないわけです。ニューエイジを含む現代の宗教シーンの混乱は、まさにそうした、「黄金律」に反することで生じているように思います。

 この規律に従う人だけに以下に記す行の実践が許される。自分の経験の中から、何事かを要求している人物の姿を取り上げ、それを心に思い浮かべる。この人物の要求に注意を向ける。(中略)この記憶像にまったく沈潜できるように、考えうる限りの内的平静を自分の魂の中に確保しなければならない。そして周囲からの刺激を一切排除しなければならない。そして集中した表象作用を通して、ひとつの感情を、ちょうど何も見えぬ地平線上に湧き起こる雲塊のように、魂の中に湧き上がらせねばならない。(中略)多くの試みの後に、観察した人間の魂の状態に相応する感情が自分の魂の中に体験できるようになる。更にその後しばらくして、自分の魂の中にこの感情を通してひとつの力が生まれる。そしてこの力が他人の魂の状態を霊的に直観する力であることに気づくようになる。(P71-72) 

みずからの魂を曇らせたままで、「観察した人間の魂」を体験しようとするとその体験は、みずからの欲望の器に載せた他の人間の魂とでもいった状態でそのことによっては、ただ投影した妄想の肥大にしかならないことになります。ですから、あくまでもみずからの魂をフラットな、そこに何も自分からは載せていないような器、そこに自分を映り込ませてはいないような鏡にしておく必要がある。そういうことを前提にして、そこに「観察した人間の魂」を器に載せ、鏡に映すということでなければならないということではないでしょうか。

 このような霊的直観がはじめて現われる場合、最新の注意を払ってこれと相対することが大切である。一番必要な態度ははじめ師--もしそのような人をもっているなら--以外の誰にもそのことを語らぬことである。(中略)「汝の霊的体験については沈黙することを学べ」が神秘学徒にとってのもうひとつの鉄則である。それどころか自分自身に対してもこの沈黙を守る必要がある。(中略)なぜならあなたの現在の思考力であなたの直観を消化することは全然できないのだから。(中略)内的経験の観察を十分積んだあとでのみ、それについて語り、周囲の人たちにもその語る言葉で呼びかけることができる。(P72-73) 

みずからの魂の器に載せられたもの、魂の鏡に映ったものについて、思考であれこれ判断することは避けなければならないということです。その直観は、通常の思考力をベースとした悟性的理解では把握できないものということができるようです。ですから、それをしっかりみずからの魂で受けとめ消化できる力がみずからのなかに育ってくるまでは、それを語るべきではない。

霊的体験があると、それを待ち望んでいるような人にとっては、そのこと自体に歓喜し、それを自分のうちで咀嚼することができないものだからすぐにそれを安易に吹聴してまわることになります。「私は精神世界を見た」という人は後を絶ちませんが^^;、そういう方は、早くもこの原則に反して堕落への道を歩んでいるわけです。「私は精神世界を見た」というのを聞くならば、それは「私は堕落と破滅への道を歩んでいる」ということを意味しているのだと思って差し支えないのではないでしょうか^^;。

 この行はもうひとつ別の行によって補足されうる。同じ仕方で、誰かが願望の充足、期待の実現をどのようにしてもつことができたかを観察する。この場合にも、前述した同じ規則と注意を守ることによって、霊的直観に到る。(P73) 

こうした観察においても、先ほどと同じように、みずからの魂の在り方に注意深くあることが前提になります。もし、みずからの魂の曇りをそのままにして他の人間の魂を受け入れるならばむしろその曇りがいわば執着になって、そこにさまざまなものが付着してきます。そうなってしまえば、常に魂は危険の淵に立たされているといえます。  

 周囲の人をこのような霊視を通して観察できるようになると、道徳的な過失を犯すことが心の負担にならなくなる。容易に薄情な人間にもなれる。したがってそうならぬために、正にあらゆる手段を尽くして努力しなければならない。この霊視力を身につけた人は、思考内容が現実的な力であることを、確信できなければならない。周囲の人について考えるとき、人間の尊厳や自由を妨げるような考え方をすることが許されなくなる。ひとりの人間を単なる観察の対象に過ぎないかのように考えることが、もはや一瞬たりともわれわれには許されなくなる。人間本性についてのいかなる霊視的観察にも必要なのは、自己を肯定しようとするすべての人間の意志を無制限に評価し、この意志を人間に内在する聖なるもの、われわれの冒すべからざるものと、--思考のみならず感情においても--見なせるように、自分を教育することである。一切の人間的なもの--それが記憶の中で考えられたときにも--に対する畏れと恥じらいの感情がわれわれを充たしていなければならない。(P73-74) 

魂が危険の淵に立たされるということは、内的自発による道徳的衝動がみずからの内に育っていないと、健全な人間の感情では考えられないような在り方でさえなんの抵抗もなくできるようになるというわけです。

黒魔術の修行では、そうした健全な人間的感情を殺して、いかなる残虐に対しても、むしろそれを喜びにできるような魂の在り方を 育てっていくような方向性がとられるといいますが、そうした黒魔術的な在り方に、用意に傾斜してしまうということです。オウム真理教の事件で、通常では考えられないようなことが行われたのもそうした修行におけるもっとも重要な前提が無化されてしまって、どんなことでも自己正当化できるような魂の在り方を育ててしまったということができるのではないかと思います。

神秘行において、人間観察を行う場合には、それそのものが他の人間の自由に干渉するような方向をみずからに禁じなければなりません。それをみずからに許すと、それがやがては堤防を決壊させるような魂の大災害になってしまうということを肝に銘じなかればなりません。

もちろん、それは、通常の場合、霊的観察とは異なり、他の人間に対して、その不正に対して見て見ぬふりをせよというのではなく、むしろ、その逆であるということを忘れてはならないということがいえます。他の人間をとらわれなく見るということができてこそ、その人間の自由を尊重することを前提として不正に対するとらわれのない態度がとりうるということでもあります。

ここらへんのことは、実践的観点に立って見ると、非常に難しく安易に語ることのできない部分を多く含んでいると思われますが、そうしたことを念頭に置きながら、あくまでも基本は、「自由の哲学」が語るように、内的自発による道徳的衝動をみずからの内に育てていくことであるということを確認しておきたいと思います。

 

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第18回/「霊界参入の三段階/開悟の段階における思考と感情の制御」

                              (P57-77)その6


「開悟の段階における思考と感情の制御」の最後の部分です。ここでは、「勇気と大胆さ」という非常に重要な観点について説明されています。

 このようにして人間は霊界参入への第一歩を踏み出す時点にますます近づく。しかし霊界へ参入する以前に、なおひとつの必要な事柄が遺されている。それは神秘学徒がはじめはおそらくその重要性に気づくことのもっとも少ないような事柄である。その重要性は後になってはじめて明らかになる。すなわちふさわしい勇気と大胆さが霊界参入には必要なのである。この二つの徳性を発達させる機会を、神秘学とはいたるところに探し求めねばならない。行を通しても、まったく組織的にこの二つを育成せねばならないが、人生そのものが特にこの点では優れた、おそらく最上の道場であるといえる。(P74-75)  

霊界参入に限らず、何事も依存心からではなく、自分の決然とした意志から取り組んでいくということが極めて重要なことであることはいうまでもありません。そうした「勇気と大胆さ」こそが、霊界参入においても重要であるということがここでは述べられています。そして、その徳性を発達させるためには、「人生そのもの」が「最上の道場」であるという重要な視点も提示されています。

 危険を平静な眼で直視し、進んで困難を克服しようとする態度を神秘学とは身につけなければならない。たとえば或る危険に直面したとき、すぐ次のように感じられるように努力しなければならない。--私が今不安を感じたとしても何の役にも立たない。不安を感じてはいけない。何を為すべきか、だけを考えればよい。--そのようにして神秘学徒は、これまでなら不安を感じたような場合にも、少なくとももっとも内なる感情においては「不安や無気力に陥ること」が不可能になるまでに到らねばならない。(P75) 

何かの困難に遭遇すると、不安や判断力のなさから、右往左往するだけで、結局それに対して何も行動できないということであってはならず、まさにそうしたとき、「何を為すべきか、だけ」が重要です。「だって」とか「でも〜」といった言い訳の類は百害あって一利なしです。

そうではなくて、今の自分の状況を鑑みて、とりうる行動として何が可能で、そのなかで何がもっとも有効な行動であるかということを即座に判断し、それを行動に移せるような態度を身につける必要があります。もちろん、それは軽率な行動であってもいいというわけではなく、あくまでも現状認識と判断という裏付けからの「勇気と大胆さ」でなければなりません。

 この方向に自己を教育することによって、高次の秘密に参入する上で必要とされる特定の力を開発することができる。肉体がその感覚を働かせるためには神経の働きが必要であるように、魂は勇気と大胆さによってのみ生み出される力を必要とする。(P75) 

「魂は勇気と大胆さによってのみ生み出される力を必要とする」ということはいくら強調してもしすぎることはありません。そしてそれは放っておいて身につくものではなく、絶えざる「自己教育」によって身につけていく必要があります。「魂の力を育てていく」必要性ということこそが、「いか超」のメインテーマでもあるわけですけど、そのための原動力が「勇気と大胆さ」なのだというわけです。

 宇宙の力は破壊的であり、建設的である。外界のすべての事物は生成し死滅する。事物のこの運命、宇宙のこの作用を認識しなければならない。通常の生活のために視界を遮っていたヴェールは取り払われねばならない。一方人間自身もまたこのような力や運命の中に織り込まれている。彼自身の本性の中に破壊と建設の力が共存している。霊視力を得た人間の前に、外なる事物があらわな本性を開示する一方で、彼自身の魂もその本性を隠さずに露呈する。このような自己認識に際して神秘学とは勇気を失わなわぬためには、予め勇気を、いわば過剰に、貯えておく必要がある。そのためにこそ、困難な生活状況で不動の内的平静を保持し続ける努力が必要なのである。そして善なる力を信頼すること、それを人生の中で学びとらねばならない。(P76)

人生におけるさまざまな困難こそが、大きな学びになります。霊的な関心はあるけれど、人生からは逃げているというのは、破滅を学びとろうとしているということでもあります。人生から逃避した状況での霊的修行の無意味さ、危険さということに意識的であるということはとても大切なことなのだと思います。

「困難な生活状況で不動の内的平静を保持し続ける努力」そして、「善なる力を信頼すること」。つまり、どんな困難に遭遇しても不動心を持ち、自分の信じる善なるものに向かって自らを高めていこうとする気概を日々の生活のなかから培っていくことが必要です。

 これまでの彼に指針を与えてきた様々の動機が彼を導いてくれることはもはやない、と覚悟を決める必要がある。これまでは無知にとらわれていたがために、そのように考えたり行ったりしてきたのだ、とあらためて気づかされるであろう。様々の根拠が一挙に失われる。彼が行ってきた多くのことは虚栄心から発していた。しかし虚栄心がどんなに無価値なものか、今彼はあらためて悟らされる。彼は多くのことを貪欲から行ってきた。貪欲がどんなに有害なものか、今彼は理解する。今後の思考と行為のために彼はまったく新しい動機を自分で作り出さねばならない。そのためにこそ勇気と大胆さが必要なのである。 (76-77) 

みずからのとる行動のすべての根拠を自分に求めざるをえない状況に対して、「〜さんがこう言ったから」とか「そんなことしても評価されない」とかはまったく何の関係もないどころか、それにとらわれていることが自分の弱さとして露呈してくるということを深く認識する必要があります。

まさに、それは「自由」ということです。「自らの由」を自らが創造するという「勇気と大胆さ」。「非難されようが、まったく無視されようが何の関係もない。自分は自分の決めた道を行く」そういう自由を獲得することがなければ、自分のなかからあらゆる根拠がなくなってしまう状況ではただただ途方に暮れてしまうだけになってしまいます。

おそらく、通常の生活においても、そうした「自由」によってしか何事もなしたことにはならないはずなのですが、日常生活では、外からなにかの理由づけをひっぱってきて、安心しているにすぎません。実は、それは主体性をみずから破壊している行為なのにもかかわらず。

 特に思想生活のもっとも深い部分にこの勇気と大胆さがなければならない。そして失敗をおそれてはならない。「また失敗してしまった。しかしそれを忘れてしまおう。そして何事もなかったように、新しい試みを始めよう」--神秘学徒はそう考えることが常にできなければならない。そのようにして、世界の中から汲み取ることのできる力の源泉が枯渇することは決してない、という確信に到達するようになる。彼の地上的な部分がどれ程力を失い、弱さを示すようなことになっても、彼は何度でも自分を支え、そして高めてくれる霊的な部分を求めて闘う。彼はどんな状況の中でも未来に向かって生きることができなければならない。過去のどのような経験も未来への努力を妨げてはいけないのだ。(P77) 

「失敗をおそれてはならない」ということ。おそれていては、何もできなくなってしまいます。そうした恐れは、過去を規準にするがゆえに起こってきます。もちろん、失敗から学ぶという反省的な観点は重要ですが、それを実践しないための言い訳にしてはいけません。

なにかを常に試み続けていることをみずからの存在理由にする必要があります。もちろん、それは手持ちぶさたゆえの暇つぶしとは無関係です。みずからだけを根拠として新しい試みに挑戦していくいことが重要です。

 以上述べた特性を或る程度まで身につけたとき、高次の認識の鍵である事物の真の名前を知る用意ができたことになる。世界の事物の名前をその神的創始者の精神に従って名づけることを学ぶことに、霊界参入の本質がある。名前の中に事物の秘密が隠されている。それ故参入者たちは特別の言葉で語る。彼らは万物創造の由来を表す名称を知っているのである。(P77)  

おそらく、ここらへんは「隠された文字の解読」といわれるようなインスピレーション認識の獲得に関わってくるものだと思われます。

日本で「言霊」ということがいわれてきたり、また「数霊」ということが 重要視されたりしているのや、またカバラなんかの数の視点などもここらへんのことと関係があるのかもしれませんが、ここらへんのことは、今後の課題としておくことにします。 


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