●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第19回/「霊界参入の三段階/霊界参入」(P78-92)その1


さて、「霊界参入の三段階」も、いよいよそのクライマックスの「霊界参入」に入ることになります。ここで紹介されているのは、たとえばモーツァルトの「魔笛」にあるような「火の試練」「水の試練」とかいうものですけど、ここで我々が学びたいと思うのは、そうした「試練」にあたるものは、まさに日々の生活のなかでこそ学びとられなければならないもでもあるということです。そうでなければ、「霊界参入」について見ていくのは、ただの興味本位のものになってしまいます。

 一般に理解可能な言葉で暗示することのできる神秘修行についていえば、霊界参入こそその最高の段階である、といえる。(中略)

 霊界参入に伝授される知識と能力は、この行なしでは、遠い未来に−−何度も輪廻転生を重ねた末に−−まったく異なる方法と形式を通して、はじめて獲得されるべき事柄である。今日参入を許された人は、したがって、そうでなかったらはるかな未来に、まったく異なる状況の下で経験するような事柄を、この世で経験できたのである。(P78) 

こうした「霊界参入」というのは、輪廻転生を通じて経験し学んでいくことを先取りするものであるということが述べられていますが、それだけに、その「覚悟」というのが求められるともいえます。つまり、通常の生活から逃避するようなあり方は、むしろ、その反対のあり方でしかないということです。ですから、通常の生活での試練を何倍にも重ねるだけの気概とそしてそれを実際に乗り越えていくだけの魂の力が必要になるわけです。  

 人はその成熟の度合いに応じた程度でしか、存在の秘密を本当に経験することはできない。そして知識と能力の段階へ到ろうとする人の前には、成熟を促す様々の障害が待ちかまえている。もし十分訓練を受けずに拳銃を発射したら、大変な惨事を惹き起こしかねないからである。(P78-79) 

実りを得るためにはそれにふさわしい成熟が必要だということ。「超能力を獲得する」「潜在能力を開発する」と称した危険な修行法はその成熟しないままに結果だけを先取りしようとする愚かな行為です。その人の前には、断崖が待ち受けているということで、自殺行為でもあります。

 もし今日、誰かに霊界参入が許されるとすれば、輪廻転生の中で、秘密の伝授を受けるにふさわしいところにまで進化するために積まねばならぬ諸経験をその人は通過しないで済ますことになる。それ故霊界参入の門前で、そのような未来の諸経験が何か特別の仕方で代償される必要がある。したがって霊界参入を志す者への最初の指導は、未来の諸経験をいかに代償しうるか、である。いわゆる「試練」がこれに当たる。志願者はこの試練を通過せねばならない。 (P79)

最初にも述べましたが、「未来の諸経験」を引き受けるということは、通常の生活での試練を何倍も何十倍も一気に引き受けるということ。ですから、その「試練」を安易に考えることは禁物だということです。

そういうことを前提にして、「第一の試練」である「火の試練」について。

 第一の「試練」は、無生物、植物、動物、人間の体的特質について、通常の人間の場合よりもはるかに真実なる直観を獲得することである。(中略)概してこの過程は次のように進行する。まず霊界参入の志願者には、自然物や生物が霊眼と霊耳にどのように自己を顕すかが認識できるようになる。次いで或る特定の仕方で、これらの事物は何にも覆われぬ裸の姿を観察者の前に晒す。その時に見聞きできる事物の特質は、身体的な眼や耳には、ヴェールで覆い隠されている。このベールが霊界参入者のために脱げ落ちるには「霊的燃焼過程」と呼ばれる手続きが必要である。したがってこの第一の試練は「火の試練」と呼ばれる。(P79-80) 

「霊的燃焼過程」によって、存在を覆い隠しているヴェールを焼き、その存在に直接向かい合うということが、「火の試練」というふうに象徴的に呼ばれているということですね。

次の引用部分は、我々がこの「火の試練」と呼ばれるものがあるということからどういうことを学ぶ必要があるかということが説明されていると思われます。

 或る人たちの場合、日常生活そのものが多かれ少なかれ無意識的な「火の試練」による霊界参入の過程を示している。その人たちは豊かな経験を通して、自己信頼、勇気、不撓不屈の精神を健全に育成する努力を重ね、苦悩、幻滅、失敗を魂の偉大さ、特に内的平静と忍耐力とをもって耐え抜く術を知っている。(中略)真の「火の試練」にとて本質的なことは、志願者の好奇心を満足させることではない。たしかに彼は他の人たちが予想もできぬような、常識を超えた事柄を知るようになる。しかしこの知識は目標ではなく、目標へ到る手段である。志願者が高次の世界の認識を通して、一般に低次の世界の中で獲得しうるものよりも、一層偉大にして真実なる自己信頼、一層高次の勇気と持久力、新しい種類の魂の偉大さを獲得すること、これこそが「火の試練」の目標でなければならない。(P80) 

「自己信頼、勇気、不撓不屈の精神を健全に育成する努力を重ね、苦悩、幻滅、失敗を魂の偉大さ、特に内的平静と忍耐力とをもって耐え抜く」こういうことを日常生活から深く学んでいくことそのものが「火の試練」でもあるということを思い、その反対のあり方をみずからに戒めていく必要があります。

その反対のあり方というのは、絶望、弱気、挫けによって努力を放棄し、苦悩、幻滅、失敗を通じてみずからをダメなやつだと思いこみ、内的にかき乱され、逃避していく・・・・というようなあり方ですけど、なんだか、自分のことを書いてるみたいで、少しつらいですね^^;。ま、最近は少しばかりは改善したかなと思いますけど、ここで掲げられている目標は、非常に困難で、困難であるがゆえに、その反対のあり方をみずからの誡めとせねばならぬということです。

さて、この引用の最後に重要なことが書かれてあります。「この知識は目標ではなく、目標へ到る手段である」ということです。こうした秘儀参入に関する知識をはじめとしたことは、あくまでも手段であって、目標ではないということは常に自覚が必要です。

獲得すべきは、「自己信頼」「勇気」「持久力」といった魂の偉大な力なのですから、そういう魂の力をどれだけ自分のものにできるかその課題を決して忘れてはならないということです。

 

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第20回/「霊界参入の三段階/霊界参入」(P78-92)その2

 


  

 火の試練を通過したあと、神秘修行を更に続けようとするなら、今度は通例、秘密文字の様々な体系が神秘修行と結びついている。そしてこの文字体系の秘密文字を解読しなければならない。この文字体系の中で、本来の神秘教義が開示される。(P81)  

 本当に「隠れた」(オカルト的な)ものは、直接通常の言語で語ることも、通常の文字で表記することもできない。(中略)霊的知覚を獲得したとき、常にオカルト文字は魂に直接語りかける。

  (中略)

 神秘文字の記号は勝手に作り出されたものではなく、宇宙に作用している諸力に対応している。この記号によって事物の言語が理解できるようになる。(中略)これまでに理解できなかったすべての事柄がまるでアルファベットを一音一音読み上げるようなものでしかなかった、と彼には思われる。今はじめて、高次の世界の中で読むことを学ぶ。それまでは単なる個々の形、音、色に過ぎなかったが、それらが、偉大な関連の下に現われてくる。(P82)

ぼくは、秘密文字についてはまったくの「文盲」ですから^^;,それについて説明することはいまのところまったくできないのですけど、「それまでは単なる個々の形、音、色に過ぎなかったが、それらが、偉大な関連の下に現われてくる」ということについてはなるほどと思うことがあります。

それはごくごく単純なことでもあるのですけど、あるときまでまったくそれについて理解できないと思っていたこと、それまではそこに存在するのはわかっているのだけれど、それが理解できるものではなかったというものが、理解されるようになるということがあります。

音楽を聴くということにしても、それまではただの外的な音として聞こえ、そんなもんかなあ、とか思いながら聞いていたものが、あるときを境に、それが強烈なものとして響いてくることがあります。絵画などでもよくあることですよね。

禅で「花は紅、柳は緑」というのがありますけど、花は最初から紅として、柳は最初から緑なのではありますけど、以前はそれが「偉大な関連の下に現われてくる」ことのなかったのが、そうした「偉大な関連の下」にあるということを覚ったということです。

もちろん、そうした「文字を学ぶ」ことに関することはただ漫然としていても身につくことはなくて、まさにそれを「学ぶ」ことが求められます。そして、テーマに応じて、その「学び方」があるのだと思います。

 神秘学徒はこの記号法を通して生活上の特定の基準をも学ぶ。これまで知らなかった或る種の義務に気づくようになる。そしてこの生活上の規準を知ったとき、未参入者の行為の中にはまったく含まれていないような意味を持つ事柄を遂行できるようになる。(P82) 

この部分はとても重要な部分です。それまでは、そんな「義務」など意識したことがなかったにも関わらず、実は「義務」であることがわかることというのは確実にあります。

わかりやすく言えば、権利に対しては義務が必ずセットになっているというか、権利はそのまま義務ということなのですけど、それが理解できない人がいます。そういう方は、当然そこにある義務に気づくことができていないわけです。

そのように、自分は今ここに生きているという権利に対しては、かならずそれなの義務が生じているはずなのに、それに気づけないでいるということは、まさに「無明」にほかなりません。おそらく、「悟り」というのは、みずからの義務に気づき、それを遂行するということを意味するといってもいいのではないかと思います。そして、「自由」を獲得するということは、その「義務」を使命とするということを自らが選びとるということでもあるのではないでしょうか。

さて、続いては「水の試練」について。

 秘密文字を学んだ神秘学徒のためには、更に新たな「試練」が始まる。今度は、高次の世界の中で彼が自由に確実な行動をとれるかどうかが証明されねばならない。通常、人は外からの刺激に応じた行動をとる。周囲の事情が命じる義務に応えて、彼は仕事に従事する。(中略)

 上述の段階に達した者には或る種の義務が課せられるが、その際にはなにも外的な誘因が存在しない。彼は外的な状況によってではなく、「隠れた」言語が教えてくれるあの規準によってのみ、それらの義務を遂行しなければならない。(中略)

 この試練のために、志願者は修行を通して特定の課題の前に立たされていると感じる。彼は準備と開悟の段階で得た能力が知覚する事柄に従って、或る行為を遂行しなけばならない。何を遂行すべきか、それは自分で手に入れた秘密文字の解読法によって認識されなけれなならない。正しく義務を認識し、正しく行為を遂行するなら、この試練に合格したことになる。その結果、霊眼、霊耳が知覚する形、色、音に変化が現われる。(P83-84) 

みずからのなすべきことは、みずからが学びとらなければなりません。それは、「教えてくれる」とかいうものではない。「あなたの義務はこうですよ」などと指示されなくても、みずからの義務を知り、それを理解し、実践しなければならないということです。

世の中には、「指示待ち族」とかいうのがのさばっていて、言われなければなにもしなくていいと思いこんでいる人がたくさんいますけど、そういう方にとっては、この「水の試練」は最初から落第しているといえます。

自分がいまここに存在していることそのものが、ある種の義務の遂行そのものを課題としているというのに、それに気づくことさえできないという愚かな生き方というのは、生きながら負債をしょいこんでいて気づかない生き方と同じです。サラ金地獄にいながら、自分はそれを地獄だと思っていないような在り方です^^;。

では、なぜこの試練が「水の試練」と呼ばれるのかという理由が

次に説明されています。

 この試練は「水の試練」と呼ばれる。なぜなら底に足が届かぬ水中では、どこにも足場がないように、この試練の場においても行為する人間を支えてくれるものがどこにもないからである。−−志願者が完全な確かさを得るまで、この試練は何度でも繰り返されねばならない。(P84-85) 

足の届かないところで泳いでいるというような感じですね。そういう場所で泳げるまで、この試練は続くということです。

 この試練を通して、自制心を育成する無数の機会に出会う。この点が重要なのである。したがってここでもまた、霊界参入以前の人生体験において、自制心を身につけることのできた人の方が一層容易にこの試練を通過することができる。気まぐれや恣意にではなく、崇高な理想や根源的な命題に従う能力を獲得した者、個人的な好みや性向が義務を忘れさせようとする場合にも、常にその義務を遂行できる人は、意識しなくても、すでに日常生活の中での霊界参入者である。(中略)この第二の試練を通過するためには、すでに意識せずに獲得された日常生活における霊界参入がどうしても必要なのだ、といわねばならない。(P85) 

「気まぐれや恣意にではなく、崇高な理想や根源的な命題に従う」「個人的な好みや性向が義務を忘れさせようとする場合にも、常にその義務を遂行できる」そういう在り方を日々の生活のなかで実践できるということが、そのままこの「水の試練」から学んでいるのだということがいえます。

ま、実際は、「気まぐれや恣意」で動いていることが多いものですし、「個人的な好みや性向が義務を忘れさせ」てしまうこともとても多いですけど、そういう在り方ではいけないんだと思うことだけでも重要なのではないでしょうか。

 霊界参入のこの段階において特別重要な人間の特質は、無条件に健全で確実な判断力である。すでにそれ以前のあらゆる段階において、このような判断力を育成しておく必要がある。そして、志願者が真の認識の小道を歩むに適わしい判断力を手に入れているかどうかは、この育成のあり方にかかっている。志願者は、実体のない幻影を、迷信を、さらにはあらゆる種類の幻惑物を、真の現実から区別できるときにのみ、更に進歩を続けることができる。(中略)空想や迷信に陥りやすい人は神秘修行の小道において進歩することができない。(P86-87)

「気まぐれや恣意」「個人的な好みや性向が義務を忘れさせ」るような在り方は空想や迷信に陥りやすいということを自ずと証明しているようなものです。そうした性向の方が、霊的現象を体験することになると、その体験がいかなる種類のものになるかはあきらかではないでしょうか。しかし、空想や迷信の好きな方はえてしてそれを真実だと思いこんで、それをもとに、自分が偉くなったような気になるものですから、始末に負えません。

ですから、なによりも大事なのは、やはり、自分は今なにをする義務があるのかを、自分の力で発見し、それを深く理解し、それを実践していこうという気概なのだと思います。それなくして、真実を理解するということは不可能なのですから。

 

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第21回/「霊界参入の三段階/霊界参入」(P78-92)その3


さて、「火の試練」「水の試練」に続いて、第三の試練としての「風の試練」が続きます。

 ここまで進んでいった志願者には、第三の「試練」が待っている。最後のこの試練にはどんな目標も感じられない。すべては彼自身の手に委ねられている。何ものも彼を行為に駆り立てようとはしない。そのような状況の中で、彼はまったく独りになって、自分で道を見出さねばならない。(中略)とはいえ、これまでの二つの試練を通過した者の中で、この力を見いだせないのはごくわずかな人たちだけだ、ということができる。(P87-88) 

外的な規準の一切を排除しなければならない。外から来る規準に身を委ねることでは何も生まれることがないことを徹底的に覚悟しなければならない。指示されたことをいかに勇敢にそして完璧にやりおおせるだけの気概があったとしても、それが外的な指示であるならば、その行為はみずからの全責任においてなした行為ではなくなる。そのように、自らが決めてそれを実践する行為こそが、ここでは重要なのだと思われます。  

 この第三の試練にとって必要なのは、速やかに自分自身を取り戻すことにある。言葉のもっとも真実の意味で自分の「高次の自我」をこの試練の間に取り戻さねばならない。すべての事柄において、霊の呼びかけに応じる決意を速やかに固める。もはやどのような意味でも躊躇、疑惑などに費やす時間はない。ただの一分間だけ逡巡しても、ここではまだ成熟していないことの証明になる。霊の声に従おうとするものは、直ちに克服されねばならない。大切なのはどんな状況の下でも霊の現存を証明することである。今この進化の段階で完成させねばならないのはこの能力である。これまで習慣的に持っていた態度や思考への誘惑はすべて力を失う。惰性的な態度をとり続けないためには、自分自身を見失ってはならない。なぜなら自分自身の中にこそ、自分を支えてくれる唯一確実な支点が見出されるのだから。(P88) 

外的規準から自由になるということは、真に主体的に自分を取り戻すということです。みずからが決したことをみずからが行うということにおいて、いかなる逡巡も許されないということ。それは、真の自己、高次の自己を信じきるということにほかなりません。

しかしながら、通常、自分を信じるとか、疑うとかいうときには、自分の感情的な執着の部分であることがほとんどではないでしょうか。ですから、そうした自分から自由でありながら、真の主体的な自己に気づきそこだけを根拠にして行動すべきなのだと思うのです。

感情的な執着としての自分かそうではないかという規準をどのように知るかですがそれはまさに、他からの評価をそこに介在させているかどうかをチェックすることでそれと知ることは容易なのではないでしょうか。もちろん、他へのそうした依存はかなり巧妙に入り込んでいますから、注意深くみずからを見つめることを怠らないようにしたいものです。

 他の場合にもまして、日常生活がこの場合多くの人にとって神秘修行の道場になっている。突然一生の大問題を迎えて、おそれることなく、あまりくよくよもせずに、すみやかな決断を下すことのできるようになった人物にとって、人生は修行の場であったに違いない。すぐに手を打たないと、取引を成 功させることができなくなってしまうような状況はすぐれた道場であるといえる。不幸が予想でき、少しでも躊躇したらその不幸が現実のものになってしまうようなとき、ただちに決断を下せる人、しかもそのような決断力を自分の変わらぬ性質としている人は意識せずとも、第三の「試練」を通過しうるところにまで達している。なぜならこの試練は無条件な霊の顕現を実現することを目的としているのだから。(P89) 

確かに、仕事の場面で、即決を求められる重要な場面というのは少なくありません。そうした場面で、すべてをみずからの責任において決していくということを修行の一貫として意識的に取り組むということは、神秘行を遊戯するという観点でも非常に有効なことかもしれません(^^)。通常は、かなり深刻に受けとめなければならないことでも、そうした視点をとることで、余裕をもって取り組むことも可能になります。

 この試練は神秘修行上「風の試練」と呼ばれる。なぜならそこでは外的誘因という確かな地盤や、準備と開悟の段階で認識した色、形などから生じる事柄を拠り所にすることができず、もっぱら自分自身以外に頼るものを持たないからである。(P89) 

水の試練は、足がつかないところで自分で泳がなければならないイメージですけどこの風の試練は、それをさらにすすめて、周囲に水さえなく、なにもふれることのできない空間を漂うようなイメージでとらえることができます。  

 この試練を通過した神秘修行者は、「高次の認識の神殿」に入ることが許される。(中略)この時点で更に何を為すべきかはしばしば次のように表現される。「神秘修行者は神秘教義の秘密を決して他人に漏らさぬという誓いを立てねばならない。」とはいえ、「誓い」と「秘密を漏らす」という表現は事実に即しておらず、したがって誤解を招きやすい。ここでいう「誓い」とは通常の意味での誓いではない。むしろこの進歩の段階に応じたひとつの経験をもつことを意味している。(P89-90) 

モーツァルトは、秘密を漏らしたので毒殺されたという話もありますが^^;、「秘密を漏らしてはならない」というのは、ことさらに神秘めかして語られることではあります。

ここで、「秘密を守る」ということが何を意味するのかということが説明されています。  

 人はどうしたら神秘教義を人類のために役立たせうるかを学ぶ。今はじめて世界を正当に理解し始める。高次の真理内容について「沈黙を守る」ことではなく、むしろその真理内容を主張する正しい仕方、適わしい態度を経験的に知ることが大切なのである。何について「沈黙」すべきかということはこれとはまったく別の事柄である。則ち沈黙すべきなのは人がこれまでの語り方で語ることをやめて沈黙するという素晴らしい特性を身につけることである。(中略)上述した段階まで進歩してきた人間にとって、言うことを「禁じられている」ような事柄は存在しない。どんな人間も、どんな存在も彼にそのような方向での「誓い」を命じることはできない。すべては彼自身の責任に任されている。彼が何を学び、何を行うべきかは、どんな状態の下でも自分自身によって決定されねばならない。だから「誓い」とは、このような責任を担うことができるまでに成熟した、ということ以外の何ものをも意味してはいない。(P90)

 

こで説明されているように、

》上述した段階まで進歩してきた人間にとって、

》言うことを「禁じられている」ような事柄は存在しない

わけで、ここで重要なのは、

》沈黙すべきなのは人がこれまでの語り方で語ることをやめて

》沈黙するという素晴らしい特性を身につけること

》「誓い」とは、このような責任を担うことができるまでに成熟した、

》ということ以外の何ものをも意味してはいない

 

ということなのです。つまり、どれだけ責任を担えるかということの指標として「沈黙」という象徴的なあり方があるということになります。「己の欲するところに従いて、その矩を越えず」というあり方で生きられるようになった状態であるともいえます。ですから、そこまで成熟しない人間、責任を担えない人間、そういう人間は、そうした特性を有していないということになりますし、己の欲するところに従ったら、めちゃくちゃをしてしまうというのはまさにそういうことになります。 

さて、続いては「忘却の飲み物」について。 

 今述べたところまで成熟した志願者は象徴的に「忘却の飲み物」といわれているものを受ける。即ち低次の記憶に邪魔されることなく、いつでも霊的な働きに集中できる方法を伝授される。これは導師となるには必要な事柄である。なぜなら導師は常に現在の状況に直接向かい合うことができなければならないからである。どんな時にも人間を取り巻いている思い出というヴェールを取り除くことができなければならない。勿論人生経験そのものを否定するのではない。人生経験は可能な限り、常に利用できなければならない。しかし導師であるためには、すべての新しい体験をその体験から評価できる能力を身につけなければならない。(P91) 

「忘却の飲み物」は、上記にあるように、過去の規準から現実に取り組むのではなく、そういう先入見から自由なままに、「常に現在の状況に直接向かい合う」というあり方の象徴です。もちろん、過去のさまざまなものを捨ててしまうというのではなくて、ただそれをネタとして利用可能なあり方以外で、現在の自分を左右させないようにするということです。

さらに、「記憶の飲み物」について。

 導師に与えられるもう一つの「飲み物」は、「記憶の飲み物」である。これを飲むと、高次の秘密を常に精神の中に生かし続けることができる。通常の記憶力はこの場合あまり役に立たないであろう。人は完全に高次の真理内容とひとつにならねばならない。単にそれを知るだけではなく、飲んだり、食べたりするのと同じ生きた行為の中で、まったく自然に血肉化しなければならない。真理内容そのものが行となり、習慣となり、性向とならねばならない。(P91-92)

高次の真理内容を血肉化するということ。ただ机上の空論、抽象化した理論にするのではなくて、それを生きることということを「記憶の飲み物」ということで象徴しています。その飲み物をからだのすみずみにまでゆきわたらせるというイメージでしょうか。

シュタイナーは言っています。「仏陀は愛の教えを説いた。しかし、キリストは愛を生きたのだ。」と。


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