●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第22回/「実践的観点」(P93-104)その1


前回で、「霊界参入の三段階」としての「準備」「開悟」「霊界参入」の話が終わり、今回から、「実践的観点」に入ります。 

 人間は、準備、開悟、参入の各章で述べた仕方で感情と思考と気分とを育成していくと、自然が肉体に与えたような分節化を、魂と霊とに与えることができる。(中略)人間は自然が肉体に与えたような秩序を、したがって、見たり、聞いたり、消化したり、呼吸したり、話したりするような機能を、自分の感情と思考と気分の中にもたらすなら、このような規則的な構造と共に、高次の認識をも獲得することができる。−−魂で呼吸したり、見たりすることや、霊で聞いたり、話したりすることを、神秘学徒は次第に学ぶようになる。(P93) 

「霊界参入の三段階」というのは、魂と霊を高次の認識にふさわしいものへと育てていくということにほかなりません。「魂で呼吸したり、見たりする」「霊で聞いたり、話したりする」というのはわかりにくい部分ではあるのですが、そのわかりにくさというのは、魂と霊我が、まだ「自然が肉体に与えたような分節化」を達成していないということなのだと思います。たとえば、目、耳、鼻、口などの感覚がまだ「分節化」していないとしたら、視覚や聴覚、嗅覚、味覚などが明確にでてこないというようなものでしょうか。

 ここで魂と霊とに対するこのような高次の育成を達成するための若干の実践的観点について、より一層立ち入った考察を行っておきたい。それは基本的にはすべての人が何らかの別の規則を顧慮しないでも実践することができ、そうすることによって神秘学の道を一層深めることのできる観点である。(P93-94) 

この章では、そうした「分節化」によって高次認識を得るための「実践的観点」について述べられていくことになります。

まず最初は、「忍耐すること」。  

 第一に忍耐することを特別に学ばねばならない。あらゆる種類の焦りは人間の中に微睡んでいる高次の能力を麻痺させ、時には死滅させる。今日か明日までに超感覚的能力への無限の展望がひらけるように、と要求することはできない。なぜならそのような性急さから展望が開けることはまったく有り得ないからである。どんなわずかなことでも、達成できたことに対しては感謝をもって応え、満足と平静な心とがますます魂を支配するようになるべきである。(P94) 

実りを得るためには、種を蒔いて、それが発芽するのを待ち、水や肥料などを適切に与えながら、育てていき、やがて花が咲き、受粉し・・・という息の長いプロセスが必要です。すぐに実りだけを得ようとして、待てずに、土をほじくり返しても、それはすべてを破壊していくだけなのです。美味しい料理を食べるためにも、オーダーしてからそれなりの時間はかかるはず。忍耐というのは、「待つこと」です。そして、その都度のわずかな成長に対しても感謝を忘れないこと。待てずに、すぐに結果だけをほしがる焦りから自由でなければなりません。

待てない人、忍耐できない人は、往々にして、みずからの意見を絶対化し自足しそれ以外のものを理解できないことが多いように思いますので、認識を深めるという意味でも、性急さを誡めねばなりません。もっとも、判断力がないがゆえに、決断できない、行動に移れないというのは、忍耐することでも、待つことでもないというのはもちろんです。  

 次のような思考内容に繰り返し心を沈潜させ、これと心をひとつにするとき、ある程度の成功がはじめて期待できるようになる。−−「魂と霊の育成のために、私はどんな努力も惜しまない。しかし高次の存在たちが私のことを悟りを得るにふさわしいと見なしてくれるまでは、まったく静かに待ち続けるつもりだ。」この思考内容が自分の性格の一部分になるまでに深くそれを心に作用させうる人は、正しい道の上に立っている。その時はすでに外見の上にもこの性格的な特徴が現れてくる。眼差しは落ちつき、身のこなしには確かさが加わり、決断力が増してくる。神経質な要素も次第になくなる。(P94-95)

いつも焦っているような方がいます。いつも何かをしていなければ気が済まない方がいます。そういう在り方は、ここでは厳禁です。努力を続けながら、その結果に対しては無頓着であること。また、人が自分に気に入るような結果をすぐにもたらさないからといって、すぐに批判的になったり、決めつけたりすることも慎まねばなりません。そういう姿勢であってこそ、真の確かさを身につけたといえますし、必要なときに必要なだけの「決断力」を持てる土壌をもち得ているといえます。  

 一見無関係に思われるような小さな規則を守ることがこの場合有効である。たとえば誰かが、われわれを侮辱したとしよう。神秘修行をする以前には、侮辱した相手に対して敵意を感じ、怒りがわれわれの内部に燃え上がった。しかしこのような場合、神秘道の修行者の心中には、直ちに次のような思考内容が立ち現れる。「このような侮辱によって私の価値が変わるわけではない。」そしてこの侮辱に対して、必要と思われる処置を彼はとる。(中略)静かに確信をもって、自分の人格に対して加えられた侮辱をとがめればよいのである。神秘道の修行は外からも見えるほど大雑把な事柄の中にではなく、感情と思考のいとなみの静かで繊細な課程の中で進められる、ということを常に顧慮する必要がある。(P95) 

馬鹿にされたり、批判されたりしたときに、すぐに憤ったりするのではなく、そうしたことによって「私の価値が変わるわけではない」ということを思い、そういうリアクション的な感情論ではなく、今何が必要なのか、ということをきちんと考えていくことが必要です。「あなたは、こうおっしゃるけれども、その根拠はどこにあるのでしょうか。私はこういう観点からこう言っているわけだけれど、それはご理解されてますか。」そういう「理解」のための作業に移るのが適切なのだと思います。もっとも、場合によれば、相手が聞く耳をもたなかったり、こちらのことを理解しようとする姿勢がなかったりもしますが、それはそれとして、その事実を受けとめ、可能なことを模索していくことです。 

 忍耐は高次の認識の高貴な内容に対して共感的に、苛立ちは逆に反感的に働きかける。存在の高次の領域においては、性急な態度によっては何事も達成されえない。したがって何をおいても要求と欲望を沈黙させねばならない。この二つは高次の認識を志すすべての者にとって、魂の恥ずべき特性であるといえる。(中略)自分自身のためのそれを欲しがるものは、決してそれを手に入れることができない。−−このことは自分自身に心底から誠実であろうとする態度を求めている。どんな場合にも自分自身に幻想を抱いてはならない。自分自身の欠点、弱点もしくは無能な点を誠実な眼で直視しなければならない。(P95-96)  

待てないが故に、相手はこうだと最初から決めつけたり、今自分にはできないからといって、自分の欠点を正当化したりするようなこと。そして、自分のエゴのための「要求と欲望」を正当化するようなことは、魂の成長にとっては大きな障害になります。

ともすれば相手の欠点、弱点、そして自分の長所などにばかり目がいくものですが同時に相手の長所や自分の欠点、弱点にも同じく直視していく必要があります。その折り、できるだけ感情の波立ちをおさえ、風のない湖面に月がその姿を映すように、そうしたことを心の湖面に映すよう努めることです。

相手の批判や侮辱などのなかにも、事実がふくまれていることもあり、そのことを謙虚に受けとめることも忘れてはなりません。常に、脚下照顧し、みずからの反省すべき点を可能な限り反省しながら、その反省にたって、みずからを変革していく勇気が必要なのです。

 

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第23回/「実践的観点」(P93-104)その2


「実践的観点」を続けます。まずは、「知ること」「知りたいと思う」ことについて。

現代のマスコミの垂れ流しているような好奇心の暴走しているような在り方は魂の栄養分になるどころか、むしろ魂を傷つけるものでしかありません。知りたいと思うこと、知ることそのものが問題なのではなく、何を知りたいと思うか、知るのかが問題なのです。

ゴシップばかりに好奇心を刺激されたりすることを慎むのはもちろんのこと、みずからの責任範囲を超えたことについて知をむさぼることにしても、真の知からほど遠いものであることを知らなければなりません。知ることは、みずからを理想に近づけるものでなければならず、そのための機会を得ることに決して怠惰であってはならないのです。  

 神秘学徒はあらゆる種類の好奇心を捨て去らねばならない。個人的な知識欲を満足させるためにのみ知ろうと思う事柄については、可能な限り問うことをあきらめねばならない。自分の存在を完成させ、人類の進化に寄与することができる限りにおいてのみ、問うことが許される。とはいえ知ることへの敬虔な喜びを決して麻痺させるべきではない。彼は自分の理想の実現に役立つすべてに敬虔な心で耳を傾け、そのようなすべての機会を探し求めねばならない。(P96) 

足ることを知ることは重要な特性であるが、みずからの現状に自足してみずからを高めようとしないとしたなら、その人の魂は、成長を止めるどころか、むしろ退化しはじめているともいえます。みずからの理想に近づくためのあらゆることを試みながら、その試みる方向性に関しては、あらゆることを学び、それが誤った方向性をとっていないかどうかに注意深くあらねばなりません。何事に対してもただ感じようとする態度ではなく、どこまでも認識を高めようとする態度によって、そのなかから、最善であると思われることを理想として持ち、その方向性に対して、限りなく歩みを進めようとすることこそが、真の力になるのでです。  

 神秘修行の完成には特に願望の在り方の教育が必要である。人は決して満ち足りてしまってはならない。なぜならわれわれが達成すべき事柄はすべてわれわれの願望の対象であるべきだからである。そしてもし願望の背後に或る特別の力が働いているなら、その願望は常に成就されるであろう。その特別の力とは次のような正しい認識から生じる。−−「何が正しいのかを認識する以前には、どのような願望ももち得ない」。これは神秘学徒にとっての鉄則のひとつである。賢者は先ず世の中のさまざまの法則を学ぶ。その上に立ってこそ、願望が実現の力になる。(P96-67) 

快−不快にとらわれることは、魂の成長を閉ざすものでしかありません。窓を閉ざして外界からみずからを遮断するようなものなのです。怒りにかられて目の前が真っ赤っかになったり、逆に喜びのあまりに我を忘れてしまったりすると、魂は盲目になります。  

 怒ったり、不機嫌になったりするときの私は魂の周囲に壁を巡らし、霊眼を育てる力が私の中へ入ってこられないようにしている。たとえば誰かが私を怒らせるとき、その人はアストラルな流れを魂の世界に送り込んでいる。怒っている最中の私にはこの流れが見えない。怒りがそれを隠している。(P98) 

とらわれぬ見方こそが、実践的観点として重要な特性だといえます。いわば、色眼鏡で物事を見てしまうと、魂は健全な栄養分を得られません。色眼鏡がいけないからと、目をつぶってしまう行為もまた要注意です。しかっかり、目をみひらいて物事を虚心坦懐に見据え、その上で、快−不快、憶断、我よし、褒められたいという欲望などなどから、自由でなければならないのです。  

 怒りや不機嫌と共に、恐怖、迷信、独断、虚栄心、功名心、好奇心、饒舌など、更には身分や性や人種のような外的特徴から人を区別する態度もまた克服されねばならない。(中略)すべての神秘学者は知性の拡大や不自然な修行の実践よりも、このような特性の克服の方がはるかに重要であることを知っている。とはいえ恐れてはならぬからといって、わざと大胆不敵な態度をとってみたり、身分上、人種上の偏見を克服すべきだからといって、人間の区別を一切立てなかったりするとすれば、事柄の本質を間違って捉えたことになる。偏見にとらわれぬときこそ、はじめて正しい認識が獲得できる。(P99) 

軽率な言動はもちろん慎まねばなりません。充分な検討を加えた言葉だけを口にするようにしなければならないのです。そのためには、相手をどれだけ理解できるかが鍵になります。相手のことが理解できないにも関わらず、その相手の語った内容を無視し、こちらの意見をおしつけるような態度をとってはならないのだといえます。  

 徹底的に考え抜いたのではない事柄を口に出すことも、神秘修行の道につまずきの石を置くことになる。この点で特に注意する必要があるのは、たとえば誰かが私に何かを語り、私がそれに返事をする場合である。そのような場合、私はその話題に対して自分が言おうとする事柄よりも、むしろ相手の意見や感情、更にはその偏見にさえもより以上の敬意を払わねばならない。(P99)  

もちろん、こちらの意見をださないというのではなく、その意見を、相手の理解の上に立って、その相手にとって、自分の言葉がどういう位置づけを示すか、どういう意味を持つかということに、注意深くなければらないといいわけです。  

 こう言うことによって、神秘学徒が細心の注意を払って努力すべき繊細な配慮が暗示されている。神秘学徒は他人の意見に対して自分の別の意見を出して見せるとき、それが当の相手にとってどんな意味があるのか、見通すことができなければならない。とはいえ自分の意見を差し控えろというのではない。決してそんなことを言うつもりはない。けれども人は可能な限り正確に他人の言うことを理解し、そこから得た事柄に則って自分の返事をまとめなければならない。(P99-100)

相手の見解に対して、「あなたの言っていることは間違っている、おかしい」というべきではなく、「あなたの意見はこうですね、私はこう理解しています。けれども、その観点はこういう点において、こういう問題が生じないでしょうか。私はそれに対してこういう意見をもっているのですが、どうでしょうか」という態度をとっていくことが重要なのです。  

 「私が他人と異なる意見をもっているかどかはどちらでもよい。大切なのは私の方から何をつけ加えたら、その人が自分で正しい事柄を見いだせるようになれるか、ということだ。」このような想念、思考を通して、神秘学徒の性格と行為とは、一切の神秘修行の主要手段のひとつである穏和さを獲得する。(P100) 

往々にして、自説の開陳というのは、相手の意見を包み込み、理解に基づいた相互理解をめざすのではなく、相手の意見のなかで気に入らないことを無視するか批判するだけになりがちです。ですから、常に「嫌いでも理解」ということがなによりも求められるのだといえます。

 

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第24回/「実践的観点」(P93-104)その3


みずからを沈黙のなかに置き、しっかりと魂の耳をひらくことを心がけることはなによりも大切なことです。そうした態度がなければ、さまざまな微妙で繊細なことを理解することはできないし自分の受け取りたいもの、主張したいものだけのフィルターをもって独善的な姿勢しか身につかないのです。

「私はこうしたいから、こうする。そうでないものは、私には関心がないから、そんなことは知ったことではないし、関心のないことを考えるのはイヤだ。」そういう姿勢からは、何も生まれないどころか、相手を決めつけることで、自分の可能性をも閉ざしてしまうのだということに注意する必要があります。  

 穏和な態度はもうひとつの特徴をもやがて魂の中に作り出してくれるであろう。それは自分の魂からの語りかけをすっかり沈黙させ、周囲の魂のいとなむあらゆる種類の微妙な動きだけに静かな注意を向ける態度である。この能力を自分のものとすることができた人は、周囲の魂のいとなみからの影響を受けながら、ちょうど植物が太陽の下に生長していくように、自分の魂を生長させ、分化発展させる。真の忍耐の中での穏和と寡黙とは魂のために魂界を、霊のために霊界を開示してくれる。(P100-101) 

日常生活のなかでのさまざまからこそ多くを学ばなければなりません。日常生活においては、性急で独善的なことは成り立ちがたいですから、そうした場において、みずからの魂を少しずつ無理なく高めていくことが何よりも大切なことなのです。

超能力開発だとか、開発セミナーだとか、ブレイクスルー体験だとかいうことで、すぐになんらかの結果として現れてくるようなものを急ぎ開発しようというそんな方向性には十分気をつけることが必要です。そうした在り方は、魂を致命的に傷つけてしまいかねないものですし、きちんとしたプロセスを踏みながら、地道に歩んでいくことこそが、この「いか超」で述べられている修行の道であるということを再確認しておきたいと思います。  

 或る意味ではこの小道のはじめの道程を通過することの方が、神秘修行なしに日常経験する困難を克服することよりも一層容易である。−−その上本書は肉体にとっても魂にとってもまったく危険のない事柄しか述べてはいない。別の仕方で、もっと速やかに目標へいたらしめる道もまた存在する。しかし本書が述べる修行は、そのような道とはまったく関係がない。なぜならそのような道は真の神秘学者なら決して望まぬ影響力を弟子に及ぼすからである。いつの世にもそのような道を説く人が公衆の面前に姿を現わしてくるから、その道へ向かうことに対してははっきり警告しておかねばならない。(P102)  

ひとそれぞれにさまざまな環境にあるわけですから、魂を高めていくための在り方は一律に考えていくことはできません。特に現代のように、激しい競争のなかなどで日々を送っていくなかでは、そうした環境からの影響を受けないでマイペースで行くことは非常に困難なものになっているのだといえます。

しかし、だからといって、出家するとばかりに、現代の環境から逃避することは問題外だといえます。そうした環境こそが大きな学びの場だといえるからです。

けれど、常に荒れた環境だけに身をおくならば、魂はそうした環境の影響を強く受けすぎて、安定を保つことは困難です。ですから、時には、自然環境に恵まれた場所で過ごせるような時間を過ごすことを忘れてはなりません。そうしたなかで、自然に対して魂をひらいていくことは、何よりの栄養になるのだということです。 

 神秘行を始める際の環境の問題についてもここで触れておこう。なぜならこの問題にいくつかの重要な点が含まれているからである。とはいえ、殆ど各人各様であるともいえる。基本的に自己中心的たらざるをえないような、たとえば生存競争が絶えず求められているような社会環境の中で修行する人は自分の魂の器官の形成がこの環境からの影響を受けざるをえないことを意識していなければならない。魂の器官の内的法則の働きが充分強く、この影響があまり有害なものにならずに済む場合もある。(中略)とはいえ、いずれにせよ時折は大自然の平和なやすらぎや優しさの中に、もしくはその崇高美の中に身を置くことが望ましい。特に神秘修行にとって好都合なのは、緑陰の下や日のあたる山中、もしくは愛すべき単調な自然のいとなみの中で行に没頭しうる環境をもつことである。(P102-103) 

日々の環境は厳しいものだとしても、一日のうちの一定の時間を、魂の栄養分としての読書などにあてることもまたとても大切なことだといえます。

こうした「いか超」にしても、日々読むためには格好の書だといえますし、そのほかにも聖書や論語などのほか、魂にとって糧になるような書物から多くを学ぶということを怠ってはならないのだと思います。一日読書を怠ると三日遅れる、三日読書を怠ると10日遅れる・・・というようなことをいう方もいますが、読書に限らず、日々、魂の糧になることに一定の時間を使うということは重要なことです。

時間があれば、テレビをぼんやりながめたり、テレビゲームをしたり、寂しくて電話をかけまくったり、カラオケに行ったり・・・というのでは、魂はどんどんひからびていくだけだということを自覚する必要があります。  

 都会生活を余儀なくされている人は、自分の育ち始めた霊魂の認識器官の養分として、霊的体験に基づく神秘学の教えを摂取することを怠ってはならない。春が来る度に、森の中の緑の変化を日々あとづけることができない人はその代わりにバガヴァッド=ギーター、ヨハネ福音書、トーマス・ア・ケンピスの崇高な教えや神秘学の著述を自分の魂の栄養とすべきであろう。(P103)

以上で、「実践的観点」を終わり、次回からは、「神秘修行の諸条件」に入ります。  


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