●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第25回/「神秘修行の諸条件」(P105-1118)その1

 


今回から、「神秘修行の諸条件」の章に入ります。神秘修行の条件は、自分勝手に決めるようなものではなく、神秘学の本質から必然的にでてくるものです。だから、「そういうのは納得できない」というのであれば、神秘修行は成立しないことになるのは当然です。

条件といっても、そう特殊なことをせよというのではなく、魂を健全に成長させるためのきわめて納得のいくものです。けれど、その条件を理解し、その条件を充たすべく努力するというのは、外的強制によるのではなく、自由意志によって選択するべき事柄であるということは最初に確認しておきたいことです。 

 神秘修行に入るための諸条件は、誰かが勝手にきめうるような事柄ではなく、神秘学の本質に根ざした事柄である。絵筆をとることがきらいな人が画家になれぬように、導師が必要な条件として課すことを実行しようとしない者は、決して神秘修行者になれない。(中略)神秘道の師は、伝授を願う者の自由意志が自分の忠告を受け容れる容易がないと見た場合、何も教示できない。(中略)自分の中に厳しい具体的な実践の条件を充たす能力も意志も見い出せぬ間は、しばらく神秘修行を断念せねばならぬ。条件は確かに厳しいが、過酷ではない。そしてその条件を充たすことは常にひとつの自由なる行為であるべきだし、そういう行為であらねばならない。(P105-106) 

神秘学を学ぶということは、みずからの魂を成長させるということであって、超能力を獲得しようとか、超常体験をしようとかいうことではないのですから、魂を成長させるための訓練を拒否しては、そのこと自体が成り立ちません。よく、オカルト的知識のみをこれみよがしにひからかすような人や書物がありますけど、それは何の意味ももたないことであるどころか、なんとかに刃物というような危険性さえでてくるものです。超能力開発とか称して行なわれる修行で人格が破壊されていくのもそうした危険性のひとつです。 

 この点が理解できぬ間は、ともすれば神秘修行の要求が魂と良心に対する強制のように思えてくる。なぜなら修行は内なる生活の育成であり、したがって師はこの内なる生活に係わる忠告を与えねばならぬからである。しかし自由なる決断の結果、自分が必要と認めた事柄は、決して強制ではない。−−あなたの知っている秘密の知識を伝授して下さい。しかし私の今までの感情と表象はそのままにさせておいて下さい。もし師に対してそのように要求するとすれば、その人はまったく不可能な要求をしていることになる。その人は単なる好奇心、単なる知識衝動だけを満足させたがっている。このような態度では神秘知識を獲得することは決してできない。(P106) 

さて、これからその神秘修行の条件が説明されていくことになりますが、この引用にもあるように、それを完全にそうせよ、というのではなく、常にそうしたことにむかって努力していくということが重要なことなのです。  

 それではここで順を追って神秘道を歩むための条件を述べてみよう。以下の諸条件のどの場合にも、それを完全に充たすことではなく、それを充たそうと努力することが求められている。この点ははじめに強調しておかねばならない。以下の諸条件を完全に充たすことは誰にもできない。しかしその実現に向かって努力することは誰にでもできる。ただこの道を歩み続けようとする意志と心構えだけが大切なのである。(P106) 

第一の条件は、肉体と精神の健康に関することです。健康であろうとする意志が必要であって、不摂生をなんとも思わず、ひらきなおってそれを改めようとしない人間は、この最初の条件からさえ外れているということができます。もちろん、これは、形ばかりのブームとしての健康主義というのではありません。 

 条件の第一は、肉体と精神の健康に留意することである。どれ程健康であるか、勿論当人の意志だけでは決まられない。しかし健康であろうと努力することは誰にでもできる。健康であろうとする人間からしか健全な意識は育ってこない。神秘修行が健康でない人間を退けることはあり得ないとはいえ、修行者が健全な生活への意志をもつことをかならず要求される。(中略)むしろ肉体に関して何よりも大切なことは有害な影響を受けないように努力することであろう。(P107) 

しかしながら、なにがなんでも健康によくない行動をするなというのではなく、あえてそうした行動を余儀なくされる場合があるのはもちろんのことです。しかし、それがどうしても健康に反する場合にそれがいえるのであって、ただそうしたいから、とかいう快楽だけが理由で、健康に害する要因にとらわれていることは、自分をごまかす行為だといえます。不摂生であることを言い訳にすること。みんなしているから、とか、もう子供ではないのだから、自分のやってることに責任はとっている、とかいう言い訳で、さまざまな不摂生を自己正当化するようなあまりに幼稚な状態への自覚が必要です。  

 義務を果たすためには、しばしば健康によくない行動をも敢えてする必要が生じる。しかし健康に注意するよりも、義務を果たす方が重要な場合でも、最低限の健康への配慮は可能であろう。時として義務は健康よりも、否生命よりも大切である。しかしその義務のところに享楽がとって代わることはどんな場合にも許されない。享楽は健康と生命のための手段でなければならない。そしてこのためには自分自身に対して正直であり真剣であることが非常に大切である。(P107) 

一見そうでないかにみえる、禁欲ということにしても、自分勝手なまたはある種の偏向ゆえに、それを一種の快楽としているのだとしたらそれは、放縦な生活をするのと、なんらかわらないことになります。「菜食主義者」というのも、主義によって、それを守ることを、自己満足の手段にしているのだとしたら、それは享楽以外のなにものでもないということは言うまでもありません。  

 禁欲生活といえども、それが諸々の享楽と同じような動機から発したものである限り、何の役にも立たない。或る人が飲酒に関して味わうのと共通した満足感を、他の人が禁欲生活の中で味わう場合もある。そのような禁欲生活が高次の認識のために役立つと考えることはできない。(P107)  

環境はひとそれぞれであって、一律にこうせよ!とかいうことはできませんが、それぞれの環境のなかで、できるだけ心身ともに健康であろうとする努力を怠ってはならず、そうした自分の努力を意味深く必要なこととしてとらえること。この一歩一歩がいかなるささいでつまらぬことのように思えようと、この一歩一歩こそが必要不可欠なことなのだという信念を持つことが必要です。 

 修行にとっては、まさに今の環境の中で、可能な限り肉体と健康のために努力することが大切なのである。どんな仕事も人類全体のためにそれを役立たせることができる。人間の魂の偉大さが発揮されるのは、「この仕事は私にはひどすぎる、私には別の仕事が向いている」、と信じるときよりも、人類全体のためにそおつまらぬ、おそらくはいやな仕事がどんなに必要なものか、と考えるときの方である。(P108)  

常に冷静であること。どんな状態であろうと、冷静な思考ができ、感情を平静に保つことができること。そうすることによって、確かな魂の成長が可能になります。その反対に、共感−反感、快−不快といったことにとらわれて、冷静さを失ってしまうような在り方はみずからに戒めなければなりません。 

 修行にとって特に重要なのは、完全な霊的健康のための努力である。不健全な心情生活と思考生活はどんな場合にせよ、人を高次の認識への道から遠ざける。明瞭で着実な思考、確かな感性や感情がこの場合の土台である。神秘修行者にとって、空想癖、激昂しやすい性質、神経質、興奮、狂信などの傾向程有害なものはない。(中略)神秘修行は、興奮したり空想力豊かであったりすることよりも、「冷静」であることによって、その客観性が保たれる。(P108-109) 

このように、心身ともに健全であろうとすることは、神秘修行のための最初の条件であって、そういう姿勢は義務であるともいえますし神秘修行に限らず、日々魂を成長させていこうとするながら、心がけていきたい重要な前提であるといえます。  

  

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第26回/「神秘修行の諸条件」(P105-118)その2

 


「神秘修行の諸条件」について、続けます。第二の条件は、「自分を全体生命の一部分と感じること」。つまり、自と他を別のものとととらえるのではなく、それを「全体生命」のひとつのあらわれだととらえることです。

ここで気をつけなければならないのは、これは自他未分ということではなく、あくまでも「個」であるという、いわば自己確立が前提にあったうえで、その自己責任の範囲というのを拡大していくということを意味していることです。自他未分は、「プレ」であり、ここでいっているのは「ポスト」だということなのです。

ですから、通常は、明確に自分の責任範囲と他の責任範囲を分けていますが、「他」の責任範囲についても、自分が関与していることを感じられるように、積極的に試みなければなりません。 

 条件の第二は自分を全体生命の一部分と感じることである。この条件には、多くのことが含まれている。しかし各人はそれを自分流に充たしていけばよい。たとえば私が教育者であったとしよう。或る生徒が私の要求に応じない場合、その生徒に自分の感情をぶつけるのではなく、先ず自分自身に向かい合う。そして生徒と自分とがひとつであるように感じながら、「この子の不十分な点は私自身の行為の結果ではないのか」、と問うべきである。そうなれば、自分の感情をすぐ生徒にぶつける代わりに、その生徒が私の要求にもっとよく応えてくれるようになるためには、今後私自身がどういう態度をとったらいいのか、熟考するようになるであろう(P109)

この考え方を敷衍していくと、すべての宇宙事象が自分に関係しているという「縁起」の発想になってくるといえそうです。そういう意味では、明確に自分と関わっているあらゆることだけではなく、地球の裏側で、飢えている子供に対しても責任があるといわざるをえません。そして、すべての宇宙的事象に責任を自覚している存在というのを「神」だということができるのではないでしょうか。たとえば、地獄というのがあるとしても、「神」は、その底をも抱きかかえている存在なのだと。  

 このような考え方を育てていくと、次第に人間の思考方法が全体的に変化する。そして些細なことにに対しても重要なことに対しても従来とは考え方異なってくる。たとえば一人の犯罪者に対しても、自分の判断をさし控えて、「私もこの人と同じ人間に過ぎない。ただ環境が与えてくれた教育だけがおそらく彼のような運命を辿ることから私を守ってくれたのだろう」、と考えるようになる。(中略)その時、自分が全人類の単なる一部分ではあるが、そのような部分として、生起する一切の出来事に対する責任をも分有しているのだ、という考え方がもはやそれほど無縁とは思われなくなるだろう。(P109-110)

ここでもうひとつ注意しておくことは、それを安易な社会運動のようなものだとしてとらえてはならないということです。「困っている人を救おう」「弱者を救済しよう」とかいう発想と、ここで言っていることを混同してはならないのです。あくまでも重要なのは自己改革であり、他の人に「〜せよ」というふうに社会運動として促すようなものではない。 

 このような考え方を直ちに扇動的な社会行動に転化すべきだというのではない。魂の内奥で、ひそかに、このような考え方を育むことが必要なのである。そうすれば次第にその考え方が人間の外的態度にも刻印づけられる。このようにして、自己改革は各人の内面の問題として、内面の問題としてのみ、始められねばならない。(P110) 

社会運動は、すぐに、「一般的な要求」をテーゼとしてだしてきます。「それは差別だ」「弱者を守れ」云々。そういうことは、一般化したとたんに、本来の意味が失われていくのだということを深く理解しなければなりません。

この引用にもあるように、そういう煽動家たちは、「自分自身に対する要求を問題にしようとはしない」ことに注意が必要です。たとえば、日本が謝罪するということは、賠償金とかいう発想になり、それは同時に自分がそれを税金で払わなければならないことなのに、そういう方が同時に消費税等のアップに反対したりするようなことや、原発反対なのに、夏には暑いからといって安易にエアコンをどんどんかけるようなそういう煽動家を見つけるのは簡単なことです。  

 このような考え方からすれば、すべての人間に対して一般的な要求を提出することには何の意味もない。人間はどうあるべきか、ということについて、あまりにも安易な判断が下されている。神秘修行者は社会の表面においてではなく、魂の内奥において判断しなければならない。したがって、もしこのような師の要求を何らかの外的な要求と、それどころか神秘修行とは何の関わりも持ちえぬ政治的な要求と結びつけようとするなら、それはまったく間違った態度と言わねばならない。一般に政治的な煽動家たちは他の人に対して何を「要求」したらいいか、よく「わきまえて」いる。しかし自分自身に対する要求を問題にしようとはしない。(P110) 

さて、「神秘修行の諸条件」の第二の条件は、「自分を全体生命の一部分と感じること」でしたが、第三の条件は、それに直接関係した、「自分の思考と感情は行為と同じ」ということ、

つまり、心のなかで感じたり、考えたりするだけで、行動したことになってしまうのだということを深く認識し、それを実践的な観点からとらえていくということです。

実際、感じたり、考えたりすることが現実的な力をもっているのだとすれば、それに対して無責任であることはできません。心のなかの毒はそのまま実際の毒になるのであれば、人を心の中で害するということは、実際に害したことと同じになってしまいます。この物質世界においては、それが目に見える形では現象してきませんが、アストラル界においては、それは現実の力として行使されているのです。

もちろん、感じたり、考えたりすることを完全にコントロールしていくことはまず不可能に近いわけですが、まずはその前提を深く認識することで、今の自分の感じたり、考えたりすることについて意識的になり、それが実際に現象としてあらわれたらどういうことになるかをおりにふれて思い描く習慣をつけるようにするのか可能なことではないでしょうか。 

 神秘修行の第三の条件はこのことと直接関係している。修行者は自分の思考と感情が世界に対して自分の行為と同じ意味を持つ、という立場に立てなければならない。誰かを憎むなら、すでにそれだけで、なぐるのと同じ被害をその人に与えている。このことが認識できるなら、私が自分自身を完成させようとする努力が、私ひとりのためではなく、世界のためでもある、という認識に到るであろう。(中略)個人の内面世界のこの世界的意味を信じることができぬ間は、神秘修行者となる視覚がない。自分の魂に対して、それが外界の事象と同じ現実的な力を持っているという前提のもとに、修行を続けるとき、私は自分の内なる魂が何を意味しているかを、はじめて真に確信できるのである。(P110-111)

  

●R.シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)

 読書会・第27回/「神秘修行の諸条件」(P105-1118)その3

 


「神秘修行の諸条件」について、続けます。 第四の条件は、人間の本質は内部に存するという観点の獲得です。 

 条件の第四は(中略)人間の本質が外観にではなく、内部に存するという観点を獲得することである。自分を外界(つまり物質界)の所産に過ぎない、と考える人は神秘修行上、進歩することが不可能である。自分を魂的=霊的な存在であると感じることは、神秘修行上の前提である。この前提に立つとき、内的な義務と外的な成功とを区別することがはじめてできるようになる。その一方を直ちに他方によって評価することはできない、ということが認識できるようになる。神秘道を修行する者は外的な諸条件が命じる事柄と、自分自身が正しいと考える事柄との間に立って、中庸の道を見出さねばならない。(P111) 

いわゆる唯物論的な観点しかなく、自分が自然の中から生み出されたというふうにしかとらえられない人は、魂を進歩させることが困難です。人間の本質は内部に存するという観点を獲得し、自分を魂的霊的な存在としてとらえることができてはじめて、進歩が可能になり、外的なあらわれだけにとらわれることが少なくなります。内的に達成しなければならないことと外的なあらわれとが区別できるようになるわけです。

しかし、外的な諸々のことを意味がないといっているのではなく、内的なものと外的なものが区別されながら、その上で、その両者の「中庸の道」が模索されねばならないということです。

それは非常に困難な道であるともいえますし、これでOKということでもありません。外的条件は厳然としてありますし、内的な要請は必須のことです。ですから、その「中庸の道」を歩むことそのものが、重要な行であるといえます。  

 自分が真実と考える事柄の承認は、認識を求めて戦う自分自身の誠実な魂の声の中にのみ求めねばならない。しかし周囲の世界にとっては何が有益なのかをできるだけ知ることができるために、この周囲の声にも傾聴することができなければならない。このようにして人は神秘学が「精神の秤」と名づけるものをみずからの内部に作り出す。この天秤の一方の皿には外界の要求に対する「開かれた心」が、もう一方の皿には「内的確信と不退転の持続力」が置かれているのである。(P111-112) 

この「天秤」の譬喩はとても重要です。外界に対しては「開かれた心」、内的には「内的確信と不退転の持続力」。人はみずからの信念に従うあまりに、人に耳を貸さなくなることもあり、その反対に、外的なことに従うあまりに、内的な信念や、そのための不断の努力を怠ってしまうものです。その両者の「中」を歩むことではじめて、真の進歩が可能になるのだといえます。

さて、続いて第五の条件は、「一旦決心した事柄は忠実にこれを実行する」こと。  

 こう述べることで、すでに第五の条件が暗示されている。即ち一旦決心した事柄は忠実にこれを実行する、ということである。みずから間違った決断を下したと認めるのでない限り、何事も修行者の決意をひるがえさせようとしてはならない。すべて決意はひとつの力である。もしこの力が直ちに成果をあげられなかったとしても、その力は生き続ける。成功する、しないは、欲望から行動するときにしか、意味をもたない。そして欲望から為された一切の行動は、高次の世界にとって価値を持たない。高次の世界にとっては、もっぱら行動に対する愛だけが決定的である。この愛の中にこそ、修行者を行動に駆り立てるすべてが生きていなければならない。(P112)  

自分で決めたことを、それが間違っていない限りにおいて、挫けずに持続的に実行していくことを怠らないということではじめて、それを通じて魂の栄養にすることができます。結果は問題ではなく、その持続的なプロセスそのものが重要であることも決して忘れてはならないことです。人は多く結果主義に陥って、結果がこうだから無意味だとか思いがちですが、そういう発想からはなにも生まれません。なにかを自分でやろうと決めて、それを内的な欲求として、持続的に取り組んでいくことそのものに意味があるのだといえます。

第六の条件は、「感謝の気持ちを養うこと」です。 

 第六の条件は、自分に向かってくるすべての事柄に対する感謝の気持ちを養うことである。自分の存在は全宇宙からの贈り物である。われわれ一人一人がこの世に生を受け、生きながらえることができるためには、どれ程多くの必要条件が充たされねばならないか、どれ程多くのことをわれわれは自然に負い、また他の人々に負っていることか、神秘道を修行する者はこのように考えることができなければならない。このような考え方に沈潜できない人は、高次の認識に到るに必要な慈悲心(博愛)を自分の中に育てることができない。どんな存在も、私が愛そうとしなければ、自分の秘密を私に打ち明けようとはしないであろう。(P113)

私という存在は生かされている存在であるといえます。たとえば、空気や光や水などがなければ生きていけません。ふだんとくに気にもとめないようなものであっても、すべては私という存在を生かしてくださっているのだということに感謝する気持ちを持たなければなりません。

自然だけであれば、感謝をするのはそれなりに容易ですし、またお世話になっている方に感謝することも容易です。しかし、そうした限定された感謝ではなく、あらゆる存在に、あらゆる方々に感謝をもって接することができるか、と自問したときに、それが非常に困難であることがわかります。けれど、あらゆる存在への感謝は、義務であるともいえます。義務というと外的に規制されているイメージがありますけど、そうではなく、内的な要請としてその感謝を持たなければならないのです。これは、あらゆる瞬間に、自分が感謝をもって接しているかどうかを反省することによって培っていかなければならないことです。感謝をし愛をもって接することではじめて、存在はその秘密を打ち明けてくれるのだといいます。そうしなければ、秘密は閉ざされてしまうのです。ですから、そうした魂の態度を身につけなければ、私という謎も、世界という謎も、決して明らかにはならないのだということを知る必要があります。

最後の第七の条件は、第一の条件から第六の条件のすべてをもって人生を形成していくということです。  

 以上に述べたすべての条件は、第七の条件の中で統一されねばならない。人生をこれらの条件にふさわしく形成すること、これが第七の条件である。このような人生態度を通して、修行者は自分の人生のために、ひとつの統一した刻印を与える可能性を作る。個々の言行は互いに矛盾することなく、統一される。神秘道を歩みはじめるに際して必要な内的平静のための用意がすでにできているといえる。(P113)  

こうしたことをみてくると、あまりの困難さに目も眩む思いがしますが^^;、最初にあったように、これらを完璧に可能にするというのではなく、この方向性へとみずからの魂を導いていこうとすることが重要です。

神秘修行は、みずからの人生を通じてひとつのトータルな人格を形成していくということでもあります。霊的な修行をしていると称しているにもかかわらず、どうみても、人格的にあまりにアンバランスな方がいますが^^;、やはり、トータルな意味で人格の形成ということをとらえない在り方はたとえ、一見派手な霊能力があったとしても、進歩ではなく、堕落なのだということを知らなければならないのだと思います。


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