シュタイナー

「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」

を読むためのいくつかの補足及び前提


いか超●一生懸命生きること

「いか超」を読む前提

秘伝公開という掟破りの現代的意味

 

 

いか超●一生懸命生きること


(92/03/25)

 

 日常的な営為そのものが限りなく大切な霊的体験そのものだし、そもそも「世界があるということそのものが神秘」で、「他を理解する可能性があるということそのものが素晴らしい神秘」でしょう?それに、自分を観ようと思ったり、観ることができるということそのままが限りなく素晴らしい神秘的な体験のように思えるんですね。それが、わざわざ特殊な技能を駆使してアクロバットしなくても、と思うんです。

 もちろん、シュタイナーもいってるように、そうしたヨガ風のあり方というのはそれはそれで意味あることだとは思って、それについてはどうこういうことはできないのは承知していますが、やはり僕のスタンスとしては、思考する、感じる、理解する、認識するということそのままのボルテージを限りなく上げていく方向性をとっていきたいと思っているわけです。

 最近、相棒とよく話す話題に、「多様性を決して犠牲にしない綜合」「有機的全体」「個物と全体が相即相入する」とかいう西田幾多郎やホワイトヘッドやひいてはライプニッツなどのテーマ化やシュタイナーの「自由の哲学」へと向かう認識のベースともなっているフィヒテやシェリングなんかの哲学的営為などのテーマがあるのですが、そうした一見「哲学」という堅めに見える考え方の中に、人間の「認識行為」の宇宙進化論的な情熱のようなものを感じています。

 彼らは決して霊を観たり、その声を聞いたりという方向性ではなく、人間の認識行為こそがそのまま行為であって、すべての宇宙進化の要、契機であるというように感じていたのではないでしょうか。(なんて、また大ボラかもしれませんが、僕はそういうふうに考えています)

 さて、こうした考え方のベースとして僕がいつも参考にしている本にご存知の「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」というのがあります。これには、もちろんチャクラやその開発法についての説明なども載ってるわけですが、それはあくまでも一生懸命生きることによって結果として得られる能力であって、その逆ではないと僕は思っています。それらの姿勢が欠けているとそれはまったくのナンセンスどころか、大変な危険性をもっているように思えます。

 簡単にそれらに関することを紹介しますが、シュタイナーは、人生を一生懸命生きる姿勢なしで、そうしたチャクラ開発を急ぐ方向性についてはきびしくそれを諌めていますので、特にそこらへんにご注目ください(^^)。

 「輪(チャクラ)」または「蓮華」と呼ばれているものについてシュタイナーは

以下の6つを挙げています。

●両眼の間にある第1の器官

●喉頭の近くにある第2の器官

●心臓の辺りにある第3の器官

●鳩尾(みぞおち)の近辺にある第4の器官

●更に下半身にある第5、第6の器官

 この中で、喉頭近くにある16の蓮弁は、他の魂的存在の思考内容のあり方を霊視する能力があり、この開発のためには、「日常、不注意に行っていた魂の特定の働きに対して注意深い態度でのぞむ」ことが求められますが、この魂の働きのためには次の8種類の態度が求められるそうです。

 これは仏教的にいう「八正道」に大まかに対応しているようです。

 この能力というのは、以下の8つの魂の態度が日常生活の中で習慣にまでなってはじめて現れるものであって、シュタイナーがいうように、「この16弁の蓮華を別の仕方で開発しようとする行法も存在する。しかしそのような行法はすべて、真の神秘学を否定している。なぜなら、それによって身体の健康が損なわれ、道徳の退廃が生じるからである。そのような行法はここに述べたものよりも実行しやすい。本書の行法は時間がかかり、努力を要する。しかしそれは確実に目標へ導き、道徳的な力を強めてくれる。」ということです。

 さらにシュタイナーの論をつづけると、「蓮華を不健全な仕方で開発すると、或る種の見霊能力が現れても、その能力は主観的な幻想や空想と客観的な霊体験との相違を区別できないばかりでなく、日常生活を迷いに陥れ、節操を失わせる。そのような場合、修行者は臆病で嫉妬心や虚栄心の強い人、或いは高慢で我侭な人物等々になりやすい。」ということで、修行の目的というのは、やはり「高次の人格の形成」であり「高次の精神をつくるための鍛錬」であると、僕は頑固に考えています。

 さて、8つの修行とは・・・

(1)表象(意識内容)/自分の所有する概念の働きをすべて自分で統御し、それが外界の忠実な鏡となるようにしなければならない。

(2)決断/人はどんな些細な問題に対しても、充分考え抜いた、根拠のある観点からの み、決定を下すべきである。

(3)発言/どんな人とも語り合う。しかしその時には、すべての点において熟慮した上で発言する。決して根拠なしに語ったりしない。

(4)外的行為/隣人の行動や周囲の仕事と調和するように行動する。

(5)生活全体/自然と精神の法則に従った生活を送る。

(6)自己認識/自分に可能な能力の範囲を確かめ、その上に立って行動する。

(7)人生から学ぶ/人生からできるだけ多くを学ぼうと努力すること。

(8)内面/折りにふれて自分の内面へ意識を向けなければならない。自己に沈潜し、自己と語り合い、自分にふさわしい生活信条を確立し、自分を吟味し、経験的な知識に思考の力を浸透させ、諸々の義務について思い巡らし、人生の意義と目的について反省する。

さらに、心臓付近にある12弁の蓮華は、魂の暖かさと冷たさという言葉で特徴づけられる近く内容を得るもので、この蓮華が開発させると、「自然のいとなみに対しても、深い理解が育ってくる」そうで、「成長と発育に係わる一切の事柄からは魂の暖かさが流れ出ており、衰微、破滅、没落に係わるすべての事柄は魂の冷たさを伴って現れる」そうです。この感覚を育成するためには以下の6つの修行が必要であるようです。

 しかし、これについても、安易な開発は厳しく諌められていて、「これらの原則を厳守しようとすることなしに、神秘修行を志す人は、不完全な認識眼をもって霊界に参入することになり、真実を認識する代わりに、幻想、幻覚にとらえられる。その場合にも或る種の見者であるといえるであろうが、しかし実際は以前よりもっとひどい盲目状態に陥っている。なぜなら、少なくとも以前の彼は感覚世界の中にしっかりと立ち、その中で確かな拠り所を見いだしてきた。しかし今の彼は中途半端に感覚世界そのもののこともわからなくなってしまっているからである。そうなってしまうと、そもそも何が真実で、何が虚偽であるかを区別することもできず、人生の方位感覚を一切失ってしまうことになる。」とうことで。

 さて、6つの修行とは・・・

(1)思考内容のコントロール/外からくる様々な想念に対して、静かに自分の心の内部において、論理的な、そして有意味な方向付けを与えるべきである。

(2)行動のコントロール/自分の行為に対しても、同じ論理的一貫性を与えること。

(3)持続力の強化/自分が正しいと考える目標から、あれこれの影響によって、自分を 遠ざけるべきではない。障害はそれを克服せよという要求ではあっても、不実行の原因になってはならない。

(4)人間、他の生物や事物に対する忍耐(寛容)/どんなものに対しても、等しくその 理解力を向けなければならない。もし、何か不快な事柄に出会ったなら、それに対して否定的な判断を下すのではなく、そこに含まれた必然的な部分を受け入れ、力 の及ぶ限り、事柄を良い方向に変えようと努める。異なる人の意見に対しては、自分の立場からそれを考察するだけではなく、相手の立場に立って考えようと努める。

(5)信用、信頼/生活上のすべての出来事に対してとらわれぬ態度をとること。どんな人間やどんな存在に対しても、信頼をもって向き合い、信頼に基づいて行動する。

(6)人生の均衡(平心)の獲得/どんな苦しみや喜びに際しても、平静な気分を維持し続けようと努める。

 結局、こうした人間としての人格、精神性を高次なものにしていくためには日常的な営為の中で一生懸命に生きていくことが求められるわけで、修行によって上記に挙げたような方向性に対してプラスの方向にいかなかればそれはどちらかというと悲しいものになるように思えます。上記に挙げた方向性は、別にチャクラのなんのといわなくても人間としての「道」であって、この人間としての「道」をはるかな宇宙進化論的なビジョンのなかで探求するのが神秘学であると僕は考えるものです。

 たとえば、儒教風にいうと、これらの修行目標は「仁」「義」「礼」「智」「信」とかいうテーマになってくるように世界に存在する行為の格率というのは、かなり共通した「道」ではないかと思います。で、この会議室では、今そのいろんな「道」の共通部分についてのビジョンを探しているのかもしれません。

 

 

 

「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」を読む前提


(96/05/21)

 

 「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」を読み進めるにあたって、少しコメントしておいたほうがいいなということが本文の後に加えられている「第八版のあとがき」に二点ほどありましたので、それを少し補足をしておきたいと思います。

まずは、「秘伝」の公開という現代的な神秘道の在り方について。

この書物は著者と読者との間に交わされる個人的な会話のようなものとして受け取られることを望んでいる。「神秘道の修行者は個人的な伝授を必要とする」、と書かれてはいるが、このことは書物そのものがこのような個人伝授なのだという意味に解釈されねばならない。かつてはこのような個人伝授が秘密の口伝であらねばならぬ理由があった。今日では時代そのものが霊学上の認識内容をかつてよりもはるかに普及させるべき意識段階にきている。以前とはまったく異なり、秘伝の内容はすべての人にとって、手のとどくものでなければならない。したがって書物がかつての個人的な伝授の代わりをしなければならない。(P222-223)

 かつては、この「いか超」で述べられているようなことは、門外不出で、口外した者は、罪に問われていたくらいなのですが、現代は、その内容をかなりなところまでオープンにする必要のある時代であり、そうしなければ、勝手で危険な行法があちこちで密かに伝えられてしまいむしろ、そのほうが危険だともいるようになってきたようです。

 そこで、極めて現代的な行法であり、ちゃんと実践すれば危険性のないものがきちんとまとめられた形でこうして公開されたわけです。

 こうした秘儀の公開ということに関しては、たとえば、西洋においては、輪廻転生の考え方の不在による霊的認識の不備などをきちんとした形で公の形で補う必要もあったのだとぼくは推測しています。

 昨年には、日本ではオウム真理教の事件があり、その行法について驚嘆していた学者や思想家などがなおも弁明していたりしますが、この「いか超」をひととおり読んだだけで、あのやり方がいかに危険で、まったくばかばかしいくらいに、基本を無視した行法であるかなど一目瞭然です。そういう意味でも、この本は、変な宗教にはまらないための有効な処方箋としても役立つように思います(^^)。

 さて、第二点目は、こうした神秘行を実践することは、人生の逃避ではなく、むしろ、人生をトータルな意味で豊かにしてくれるのだという視点です。

本書は人間全体を完全に変化させるための指導書であるかのように見える。しかし正しく読めば、超感覚的世界に係わろうとする人にとって、どのような魂の在り方が必要であるか、ということ以外の何も語ろうとしていないことに気づくであろう。この魂の在り方を、人は第二の本性として自分の中に育成する。一方これまでの健全な本性もまた従来通りの仕方で生活し続ける。修行者は二種類の本性を意識的に区別し、両者を相互に正しい仕方で作用させ合うことができる。そのようにして修行者はこの世の生活を無意味なものにしたり、人生に対する興味や能力を失ったり、「一日中神秘道の修行者」であったりする危険性から護られている。勿論超感覚的世界の体験によって得た認識の光は、その輝きをその人の全体存在に投げかけるであろう。しかしそれは人を人生行路からそらせるような仕方で為されるのではなく、もっと有能な、もっと生産的な存在にするような仕方で為される。(P224)

 例の「修行するぞ!修行するぞ!修行するぞ!」という出家主義がいかに人生を損なうものであるかという視点を忘れないようにしなければなりません。なんだかわけのわからない超能力を得るとかなんだかんだで修行することで、通常の人生を損なってしまっては何にもならないのは当然のことです。むしろ、行を行なうことが、人生の意味を再認識させ、人生に積極的に興味をもって取り組んでいけるようなものでなければなりません。

 この引用の後に、「超感覚的なものに対する認識行為のためには人間の全存在が要求される」ということも述べられているのですが、まさに、「人間の全存在が要求される」がゆえに、人生が豊かにならざるをえないわけですし、内発的な要求として、みずからの変革へと導かれていくわけです。

 ぼくは、とくに「超感覚」を開発しているわけではないですが^^;、この本のなかに述べられていることのなかで、とっても大事なことだと思われるいくつかのことを心がけるようにしながら毎日を送るようになってから、上記の引用にもあるように、自分でいうのもなんですが、かつての自分にくらべて、「有能な、もっと生産的な存在」になったと思っています。

 単純に言って、仕事の能率は何倍にもアップしましたし、くよくよしている時間も少なくなったように思いますし、かつては文章を書くなど苦手中の苦手だったぼくがこうしてパソ通で毎日のように、(雑ではありますが^^;)たくさん文章を書けるようにもなりました。落ちつきがなくて、気が散りやすく、すぐに鬱になる性格も、少しは改善できてきましたしね。

 

 

 

秘伝公開という掟破りの現代的意味


(96/05/26)

 

 「『秘伝』の公開」ということに関して、テキストからは少し外れますが、こうして現代の日本に生きているぼくらが、なぜ、過去に秘密にされていたことを限定的ではありながらも問題にするのか、する必要があるのかという視点を、少し、難解な部分も含めてさらに補足しておきたいと思います。今はあまり参考になることではないにしても、ずっと後には、こうしたことが重要であるということがご理解いただけるのではないかと思いますので。

 ぼくは、基本的にシュタイナーの神秘学をガイドとしているということをよく言っているわけですが、正確にいうと、シュタイナーに集約されている神秘学の考え方は、ある意味で太古の叡智の封印されている磁場だともいえるこの日本の現代的な課題を実践的に解いていくためのガイドとなるのではないか、ということです。

 また、日本にこれまで秘伝として伝わってきているもの、または秘伝とはいえないまでも、その意味のわからぬまま伝承されてきたさまざまは、シュタイナーが直接的にはふれていないような太古の叡智が封印されたような形で残っているものが数多くあるように思えるのですが、そうした封印された叡智は、封印されることで、その力を現代にまで伝えているといってもいいのかもしれません。

 そして、その封印されて叡智というのは、ある意味では、まさにその力を現代において甦らせることが求められているといえるようにも思います。

 そうしたことに関して興味深い例がありますのでご紹介しておきますと、昨年の二月に、聖徳太子以来の精神を守り続けてきたという大和古流廿一世当主である友常貴仁氏が「大和的」(三五館)という著書をこれまでの門外不出の掟を破った形で出版しました。そしてそれに続いて「千年の四季」「大和古流の躾と為来」、そして最新刊では「千年夢一夜」(ともに、三五館)が出版され続けています。

 その最新刊のなかで著者は、最初の著書「大和的」を著わすことの意味を次のように述べています。

大和古流廿一世当主として家門の為来を守り、何百年にもわたる掟どおりに生きてきた私です。(中略)そして、二十数年当主として家を守ってきた私が、みずからの心でその千年以上に及ぶ過去をしっかりと見つめ、“過去を守る”のではなく“未来を開く力”こそが今の今必要なのだと知ったとき、しっかりと自分で掟を破ろうと決定したのでした。その掟破りの証こそが、門外不出、他見他言不許の秘密多き当家の世界を、文字として公するという行です。

その掟破りの証こそが、『大和的』“未知の力をそなえる約束”という自著の誕生であったのです、未来への力を得るため、当家の生命である秘儀秘伝を捨て去り、いまだ知ることのない神秘の力を求めて旅立とうと覚悟を決めて書き下ろした、私自身と大和古流のすべてを記したものです。(P34)

 著者の最初の著書「大和的」は「月夜靈(つくよみ)」についてのことから始まっています。「太陽霊」ではなく「月の霊」。これまで、ほとんど語られることのなかった「月読」。

 ここらへんを、シュタイナー的な見地から見てみると、「太陽霊」は、アフラ=マズダ、オシリス、キリスト。それに対して「月の霊」というのは、月に反射した「太陽霊」であって、それはユダヤの民族霊でもあったヤハウェとなるでしょうか。

 さて、日本は裏ユダヤであるともいわれます。それは、現在のユダヤにはすでに失われて久しい太古の叡智がこの日本に、封印された形で残っているということでもあるのではないかとぼくは捉えているのですが、それを象徴的に著わすと「月読」になるように思います。その封印された「月読」の叡智を、まさにこの現代に甦らせ、それを未来を開くための力としようとしているのが友常貴仁氏なわけです。

 興味深いことに、友常貴仁氏は、北斗七星などの星についてしばしば言及しています。そして、陰陽道などでは、むしろそれが重視されていることもよく知られています。しかし、そうしたことについてシュタイナーはほとんど語っていないんです。むしろ、そこがごっそりと欠落しているといってもいいような印象があります。いったいそれがなぜなのかを考えてみると、こうして日本に伝わっている叡智というのは、むしろルシファー的なミクロコスモスの叡智とでもいえるようなものなのではないか。だからこそ、シュタイナーはそれについて語るべきではないとしたのではないか。そんなことを考えさせられてしまいます。

 そして、そのミクロコスモス的に封印されたルシファーの叡智をまさにこの現代に甦らせるということが極めて重要なことではないか。そしてそれが現代日本における姿を変えたキリスト衝動、つまり「天磐戸開き」の意味のひとつではないかと。

 かなり、途中の説明を端折ったものになってしまっているので、理解しがたい部分もあるかと思いますが、一応こんな話もしていた、くらいを、記憶にとどめておいてくださればと思います。


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