ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第1講-2

ドルナハ  1916/10/8

 さてまず、ジオットの絵を順を追って私たちの目に作用させていきましょう。そこに個々の人間の姿に対する理解が出てくるようすが示されるでしょう。ほかならぬこのジオットにおいて、この理解は、私たちが見ていきますように、彼がまさに聖人伝説による絵画を見せるときにいっそう現れてきます。そしてこれらの絵画において示されるのは、彼が外的な表現のなかにもっとも内なるものを、もっとも魂的なものを再現しようと試みていることです。さて順を追ってジオットの絵を見ていきましょう、これらの絵は通常、もっとも初期のものとみなされています。なるほど前の時代の伝統がまだ見られますが、今お話ししましたようなしかたで、彼が親しんだ人間的なものがいたるところにもう入り込んでいるのがおわかりでしょう。 

   ジオット                   チマブエ

    8   聖母                 8a  聖母と天使たち、預言者たち

    10  神殿での奉献

    11  アルルでの出現

8

8a

10

11

12  泉の奇蹟

12

13  貧者

13

14  スエズの弟子の目覚め

14

15  修道女たちによるアッシジのフランチェスコ追悼 

15

 このように、アッシジのフランチェスコの全生涯が徐々にジオットによって描かれました。そしていたるところに、ジオットにおいては芸術的に、アッシジのフランチェスコそのひとに似た感情が見られる、と申し上げたいのです。これらの絵画のなかにヴィジョン的なものがみとめられるにしても、このヴィジョン的なものはむしろ内面から描かれているということがいたるところに見出せます、したがって、地上を超えた領域から覗き込んでいるということがいつもポイントであったチマブエの場合よりも、人間的な感情が語っているのがわかるのです。そしてもはや単に伝統的なものは{人物たちの}顔のどこにも見出せず、これを描いた人は、顔というものをもう現実に[wirklich]見たのだ、ということがわかります。 

   16  ジオット 聖フランチェスコの葬儀

16

 この最後のふたつの絵をよく見てみましょう。ここに含まれている親密さから、私たちはすぐさま、アッシジのフランチェスコの生涯のよく知られた事実、つまり彼は長くかかって自然に向けた歌を形作ったという事実を思い出すでしょう。自然に向けた歌のなかで、偉大な美しい讃歌のなかで、アッシジのフランチェスコはいたるところで彼の《兄弟姉妹たち》について語りますーー姉妹たる太陽、月、ほかの星々、地球の生きものについてです。愛に満ち現実に即した[realistisch]帰依、魂的で現実に即した帰依のうちに自然とともに彼が感じたすべては、驚くべきしかたでこの讃歌のなかにまとめ上げられています。地球自然との、そして地球自然のなかに生きているものとの、この直接の結びつきは、とりわけひとつの事実のなかにみごとに表現されます、つまり、最後の詩節は、アッシジのフランチェスコの生涯の最後の日々に生み出され、そしてこの最後の詩節は《兄弟たる死》に向けられていた、という事実です。アッシジのフランチェスコは、彼自身が死の床に横たわっている瞬間に、兄弟たる死を歌うことができたのだ、ということがわかります。その瞬間、彼は兄弟たちに、彼を囲んで死という友について歌ってくれるよう促しました、彼を受け入れることになっている世界へと昇って行くのを感じた時にです。アッシジのフランチェスコが、彼を世界に結びつけたものすべてを、現実に即した体験のみから、現にある体験のみから、いかに直接再現することができたか、再現しようと欲したか、感じ取ろうとしたか、これは、彼がほかのすべてをそれ以前に歌い上げ、自身が死に近づいたときになってはじめて死を歌ったという事実に、このように見事に示されています。彼が口述した最後のものは、兄弟たる死に向けられたこの偉大な生の讃歌のこの最後の詩節です、自己自身を拠り所として立った人間が、いかにキリストを人間の生に結びついたものと考えるかという詩節なのです。私が思いますに、このような絵から見出される以上に見事に --同時に、アッシジのフランチェスコによって放射されてくる人間の生の観照、以前の時代のそれとはまったく異なるものとなった観照とも結びついて-- 、このことが見出され得ることはありません、ジオットがアッシジのフランチェスコそのひとと同じ把握力のアウラ[Auffassungs-Aura]のなかに生きていることを直接見ることができる、とでも申し上げたいこの絵から見出される以上に。 

17  ジオット  ヨアキムと羊飼いたち 

17

 ジオットがその後いかに力強い進歩を遂げたかをごらんいただくために、これを後期の絵として付け加えました。この後の時代において、人間的なものはさらにいっそう、ひとりひとりの人間の個性的なものとして捉えられるのがおわかりでしょう。私たちが今まで見てきました絵画が取ってこられた時代に、私はこう申し上げたいのですが、いかにジオットがアッシジのフランチェスコの中にも生きていた衝動に担われたかが見られます。今や、ジオットがよりいっそう自分へと至り、生涯の遅い時期に入れられるこのような絵画において、自己自身から語っているのがわかります。私たちはのちほどまた、アッシジのフランチェスコの叙述につながる絵画にもどります。 

   18  ジオット  訪問

18

 これもまさに彼の後期のものです。現実(写実)主義は彼の場合むしろ後期において浸透しました。 

19  ジオット  婚礼

19

21  ジオット  キリストの洗礼 

21

 これも後期から

23  ジオット  正義

23

24  ジオット  不正

24

 このような絵から、当時いかにアレゴリーで言い表すことが当然であったかがわかります。生の状況は、世紀の変遷につれてまったく変化します、そして、絵画のなかに生きているもの、絵画のなかで生起している当時の生が、今日では、むしろ書物を通じて伝えられうる表象のなかで生起するものである、ということによって起こった大きな飛躍、この飛躍は、非常に大きな、今日実際評価されているよりもずっと大きなものなのです。そしてアレゴリー的に表現しようという欲求は、とりわけ当時に特有なものでした。そして、これらの絵画において同時に描出の写実主義がかくもみごとに、やはり描出を世界のうちでそれを通じて読み取る何かのようにしたいという欲求と結合されているということ、これがとりわけ興味あることです。 

   22  ジオット  聖フランチェスコが法王に修道会の戒律を進呈する

22

 ここで私たちは、先ほど述べましたように、ジオットの初期の芸術に関連する、アッシジのフランチェスコの感情世界へのいっそう増してゆく親しみから見て取れる描出にまた戻りましょう。 

   25  ジオット  福音史家ヨハネの昇天

25

   26  ジオット  パトモスでの福音史家ヨハネ

26

 霊的世界と自分との関連を心情からつかんでいるヨハネの内なる生を、この芸術家がいかに描き出そうとしているか、ここで非常に見事に観照されています。つまり黙示録を書き記すあるいは少なくとも構想するヨハネです。 

   ジオット

   27  ラザロの目覚め           31  キリストの復活

27

31

   28  エジプトへの逃避行         33  茨の戴冠

28

33

   29  聖アンナへの告知          34  晩餐 

29

34

   30  訪問                8   聖母

30

8

 ここで、両方の画像から、人物の扱い全体においてどれほどとほうもなく大きな違いがあるかみなさんに見比べていただけるように、このジオットの《聖母》のすぐ後に、私たちがすでに見ましたチマブエの《聖母》の画像をもう一度挿入してみましょう。比較してごらんなさい、この(3)では、眼差しに、目に、口に、幼子イエスの解釈に、まだ伝統が作用しているにもかかわらず、--地球から世界を見ている人間たちが徹底して模写されている、この画像に見られる写実主義を比べてみてごらんなさい--、これをチマブエの次の絵と比べてみてごらんなさい、 

   8a  チマブエ  聖母4

8a

 この絵に見られるのは、伝統的なものに移された根源的ヴィジョン的な観照を含むものです、つまり本来地上を超えた世界から私たちの世界が覗き込まれているのです。構成の上でジオットの絵を思い出させるものが多いにしても、筆致全体において圧倒的な差異があるのがおわかりになるでしょう。 

   37  ジオット  最後の審判        38  怒り

37

38

 これもアレゴリー的な絵画のひとつです。 

   39  ジオット  キリスト追悼

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 この絵はパドゥアのアレーナ礼拝堂のもので、ここでジオットはもう一度初期の伝説に回帰しています。

 この絵を、私たちが先に見た《追悼》と比較してみるのは非常に興味深いことです。先に見た絵は、ジオットの制作の初期のもので、こちらの絵は非常に後期のものです。進展をごらんいただくために、今もう一度、前に見た絵を観察してみましょう。 

   15  ジオット  聖フランチェスコ追悼

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 ここでわかるのはつまり、彼がまったく同一のモチーフを、構成に関連して、初期とずっと後期にいかに把握したかということです。いわば、純粋に芸術的に見て、同じモチーフがもう一度描かれたわけですが、後期の絵において彼がずっと自由に、ひとつひとつ個別の事物に入り込んでいく能力を獲得したのは非常に興味深いことです。 

   41  ジオット  ヘロデの饗宴

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   42  ジオット  アルルでの出現

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 これもフランシスコの生涯からですが、フィレンツェのサンタ・ クローチェ教会のものです。ジオットはここでもう一度--私たちはすでにこれについての画像をふたつ見ました(16,22)--フランチェスコ伝説に回帰しました。

   47  ジオット   洗礼者ヨハネのための命名

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   43  ジオット派  教会の教理。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のスペイン礼拝堂

43

 これらの絵と以下の絵においては、通常《ジオット派》と呼ばれているものが出てきます。 

   44-46  ジオット派  教会の統治

44

 ここにみなさんは、後に絵画においてとほうもなく大きな役割を果たすあの構成上の要素(エレメント)がもう登場しているのをごらんになるでしょう、言うなればまったく新たな内的生命が現れているのです。今次のようにこの違いを示すことができます。

 キリスト教の発展をダンテージオットまで遡ってみますと、感じられ、感受されるキリスト教が、その内部にプラトニスムを有していることが見出せます、ここで私が考えていますのは、みなさんはたとえばそう信じたい気持ちに駆られるかもしれませんが、キリスト教がプラトン的な哲学をそのなかに有している、ということではなく、プラトニスム、すなわち、プラトン的哲学のなかにも刻印されているようなひとつの感情と世界の観照のことなのです、そこでは、地上を超えた領域が観られますが、この観ることのなかには、人間の知性に由来するものは入り込んでいきません。ジオットへと続く時代においては、感情のなかにますますいっそう、何か神学的ーアリストテレス的なもの[Theologisch-Aristotelisches]が登場してきますーーここでも私はたとえば、アリストテレスの哲学、と言っているのではなく、概観において、一種の体系性において世界を見ようとする何か神学的ーアリストテレス的なもの、みなさんがここで、下の世界から中位の世界へ、そして最高の世界へというように、絵画において上昇してくるのをごらんになるような、何か神学的ーアリストテレス的なもののことを言っているのです。生の全体がいわばアリストテレス的に体系化し尽くされるのです。そしてこのように、のちの教会は、人間の生をまったき世界秩序のなかに置かれたものと考えました。つまり、まだチマブエがそこから輝き出ていた時代、いわばヴィジョン的なものから地上を超えた世界についての観照を得られた時代は過ぎ去ったのです。続いて、純粋に人間的な感情の時代が置かれました。今や、やはり純粋に人間的な感情が求められすにしても、今度はより体系的に、より知性に即して、とでも申し上げたいのですが、そのように、高次の生に上昇すること、高次の生に結びつくことが求められるのです。ここで登場してくるのは、中心から創造する以前のものに代わって、構成的な要素です。このようにみなさんがここでごらんになるのは、このように下で感じられ体験される世界から高次の世界へと体系のなかで上昇していくようなこの三段階性です。これをジオットの後継者たちにごらんになるなら、みなさんはその後の構成のなかに登場してくるものを、予感のなかで直接とらえることができるでしょう。と申しますのも、構成的なものにおいてこの(46)の内部で活動しているのと同じ精神が、さらに完成されたさらに完璧な形態をとって、たとえばラファエロの《ディスプータ(論争)》という名で知られている絵においてまたも私たちの前に立ち現れてくるのを、誰が見誤ることができるでしょう!

 ジオット派による《教会の統治》においてもやはり、いかに地上的生の出来事、霊的な関連が、人間が共に在ることによって描き出されているか、ごらんになるでしょう --同じ思想が、ラファエロのしばしば《アテネの学堂》と呼ばれる絵画においてもはっきりと現れてきます、純粋に芸術的に、という意味でですが-- 、地上の生において通用する連関を表現するために人間たちは組み合わされています。みなさんがこの 

   45  ジオット派  教会の統治  部分:左下の一群

45

 をごらんになるとき、とりわけこういうことに注意してくださるようお願いします、この絵においては根本思想が唯一のしかたで表現されています、背景には力強い教会の建物、それから絵に現れてくるのは、教会の高位聖職者たちから発して、民の世界へと降り注いでゆく威力です。これらの絵に見られる顔の表現を直視してごらんになれば、地上に放射していく教会統治というこの大いなる理念に、芸術的なものが仕えていることを、いたるところで発見なさるでしょう。 

   46   ジオット派  教会の統治、部分:右側なかほどの一群

46

 ここでどの顔もひとつひとつ研究してみることができますが、そうすると、ひとつの中心から放射するように、教会の統治から発して地球の魂のすべてを貫いていくというこの衝動に人間が参加しているようすが顔のなかに見事に示されているのがわかるでしょう。その顔貌からうかがえるのは、この教会の統治という思想に貫かれたひとりの芸術家が全体を作り上げたこと、そしてその芸術家は、教会の統治が面差し[Antlitz]へともたらすものをこれらの面差しのなかに表現するすべを心得ていた、ということです。つまり私たちは教会の支配というものが、それぞれの面差しからも放射しているのを見るのです。--このことをまったく特別なことと見ていただくようお願いします、なぜなら、私たちはのちほど、構成的な能力、これがこのような思想から発して、秩序のなかでそして秩序と表現との調和のなかでここでこれほど見事に表現されているにも関わらず、これがのちにまったく別のものに移行するために、これと同じものはそこではまったく表現されない絵画を見ていくからです。のちに、同じ構成の方向に道を見出していく人々は、構成の基本衝動は維持しているのですが、これからみなさんがごらんになりますように、まったく別の要素が登場してきます。

 下の方に(45,46)犬が見えますね、これが有名な《ドミニ・カーネス Domini canes》つまり《神の犬》です。ドミニコ会士たちはその活動との関連で《神の犬》と呼ばれたのです。フラ・アンジェリコも数多くの絵画に《神の犬》を描きました。


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