ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第1講-4

ドルナハ  1916/10/8

  これらすべての統一を、私たちは偉大な芸術家たち、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロにおいて見ていきます。今、レオナルドのいくつかの絵を私たちに作用させてみましょう、ほかの絵においても私たちに立ち現れてくるこれらさまざまの試みの統一、総合がいかにレオナルドに現れているか見るためです。レオナルドにおいては、筆致に至るまで、構成と表現に至るまで、霊的なものと魂的なものとの共同作用が高度に現れています。

   87   レオナルド   素描:カリカチュア

87

 最初の画像は、レオナルドの素描、線描ですが、これから、彼が今やまったく写実的に人間を研究しようと苦心していたのを、ごらんになることができるでしょう、しかも前の時代に獲得されたすべてが芸術家に働きかけた時代にです。レオナルドにおいてまさに特徴的なことは、彼がいわば、ラディカルなしかたで人間を描く能力へと向かうことです。いかに彼が人間をまるごと捉えようとし、形を作り上げ、素描のなかにもたらそうと試みるか、これはそのなかの特徴的な絵です。彼は、人間の気分を記録し、研究することで、最高の表現力にまで上昇しようとします。これらすべては、私たちが観察しましたような、人間を霊的を貫くことや魂的に貫くこと、そういったことがまず先に起こったひとつの芸術期の成果としてのみ可能となったのです。

   95   レオナルド  聖母

95

 これはエルミタージュにあります。

 そして、前に申しましたように、前には別々の道において追求されたすべてが、ここでひとつにされているのがおわかりでしょう。

   100   レオナルド  使徒たちの頭部:ユダとペテロ、厚紙

100

 これらはつまり、名高いミラノの絵画、つまり晩餐の、弟子たちの頭部です、この絵はもはやほとんど見ることができず、色彩の痕跡が残っているだけですが、芸術発展のまさにこの大いなる時代において、聖人伝説は、人間の性格を形に仕上げるための基礎を提供しただけであったことを示しています。まさしくレオナルドが《晩餐》のなかで

   99   レオナルド   晩餐

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 ひとりひとりの人間の性格を研究しているのがわかりますね、そして、彼は人間の性格を個別に研究しようとしたために、非常に長期間、まさにこの驚くべき絵画に取り組みます。ご存じのように、彼はたとえばユダを長期間の仕事の後にも完成できなかったために、依頼者たち、つまり高位聖職者たちを、大いに落胆させました。そして、高位聖職者である僧院長が、絵を完成させるようにと強く迫ったとき、彼はこう言ったのです、ユダのモデルがいないので、絵を仕上げることができませんでした、けれども今私をせっついておられる僧院長さまがそう見えますので、ユダとして座っていただけますよ--さぞすばらしいモデルにおなりでしょう、と。

   レオナルド  ほかの弟子たちの頭部:

   101  ヨハネ               105  ヤコブ d. J.

101

105

   102  トマスとヤコブ d. A        106  アンデレ

102

106

   103  ピリポ               107  マタイ

103

107

   104  バルトロマイ        

104

    86  自画像

86

これは少なくともそのものとして見ることができます。

 

   118  レオナルド  聖ヒェロニムス

118

   116  レオナルド  王たちの礼拝

116

    74  ペルジーノ  磔刑

74

 ここで私たちはこの古典時代そのもののなかで先に進みましょう。みなさんにお願いしたいのですが、ラファエロの師であったこのペルジーノの絵を、いかに今実際にラファエロ的な芸術が先駆者たちから成長してくるか、という観点から観察していただきたいのです。ほかならぬこのペルジーノにおいて、私たちはまたも、新たな要素とでも申し上げたいもの、つまり深い宗教性が登場してくるのを見ることができます、今や構成的なもののなかにも入り込もうとし、ある種の建築的に作用するファンタジーと結びつき、次いでさまざまに、ほかならぬラファエロの偉大さの基礎ともなる深い宗教性です。

    75  ペルジーノ  婚礼     75a   ラファエロ  婚礼

75

75a

 両方の絵をよくごらんいただきますと、一方が形式的に他方から成長してくるのがおわかりでしょう、そしてラファエロがいかに師から出発して偉大さに到達しているか、ごらんいただけるでしょう。ラファエロが、私たちが知るところとなりましたさまざまな潮流のきわめて豊かな果実を取り入れることによって、その絵のなかに精神(霊)と魂をもたらし、それを特殊な流派から彼に与えられたあの構成要素とひとつにしているのがおわかりですね。

    78  ペルジーノ  聖ベルナルドのヴィジョン

78

 私たちが前にも《聖ベルナルドのヴィジョン》を見たことを憶えていらっしゃいますね、

    51  フィリッピーノ・リッピ 聖ベルナルドのヴィジョン

51

 この(78)では構成的なものが並はずれて前面に出てきている一方、前の(50){←(51)の誤植?}では、絵にもたらされるもの、絵のなかに与えられるもののなかで、精神(霊)を活性化させようという試みが見られる、という大きな違いをよく考えてみてください。この(78)で私たちは、構成的なものが、なるほど主題として絵の基礎に置かれてはいても、実際は絵全体を貫くことはできていないものの現れとなっているのを見ます。ペルジーノは、魂が真に生じてくるように構成的なものを深めるには至っていませんが、この潮流において構成的なものがとりわけ入ってきているのがわかります。

    77  ペルジーノ  鍵の譲渡

77

 つまりラファエロが影響を受けたこの側面から、構成的な要素が入り込んでくるのが見えます。ラファエロにおいてみなさんも、この構成的な要素が大きな役割を果たしていることを見出されるでしょう。私たちは、前に見ました構成の場合、ここでと同じしかたで構成的な要素について語ることはできません。構成的なものは、以前においては、ひとつの全体の結果としてありました、ひとつの有機体よりは全体のほうが感じ取られたのです。人間も構成されましたが、人間が頭、腕、脚その他から構成されるとはいえ、それがひとつの構成(コンポジション)[Komposition]であると言うことはできません、そうではなく、人間の場合はすべてがひとつの中心点から生じます、そして人間における腕と脚、頭と胴から成る構成、これが自明の全体と感じ取られるのです。この絵において、それは自明の全体とは感じられず、みなさんはまさに構成されたものをお感じになるでしょう。以前の構成は、むしろひとつの統一性から流出したことにお気づきでしょう。ここではみなさんは、全体が組み立てられているのを、したがって真に構成されているのをごらんになるでしょう。

 つまり私たちは、十三、十四、十五世紀からひとつの潮流が発しているのを見ます、精神(霊)によって自然を獲得しようとし、写実主義(現実主義)の高次の段階に通じていく潮流です。次いで私たちは、魂から自然を獲得しようとする潮流を見ます。さらに私たちは東部イタリアから、ラファエロとラファエロの先駆者の故郷である中部ー東部イタリアから、構成的な要素がそれに加わってくるのを見ます、構成的な要素は個々のものから全体へと働きかけていますが、他方、以前のすべての潮流は、なおも全体から個別のものへという働きかけの余韻を有していました。これは、宗教的な教会統治の世界への流出が描かれているこのような構成のなかに、とりわけ強く見出されました。

    44  ジオット派  教会の統治

44

 ここではすべてがひとつの統一性から成り、この(74)におけるように個別のものから構築されているものは何もありません。

    220  ラファエロ  法王ユリウス二世      221  法王レオ十世

220

221

 ここで、ラファエロのなかの、ラファエロの魂のなかの霊的な要素がいかに霊的な要素の成果を見出しているか、いかにそれが自然主義となっているかがわかります。

    80   ピサ、カンポサント(墓地)  死の勝利

80

 ここにこの絵を入れましたのは、アレゴリー的な要素が後々まで作用を及ぼしたのをごらんいただくためです。私は前に、ジオットにおいてアレゴリー的な要素が介入していることに注意を促しました。このアレゴリー的な要素も共に作用し続けています、そして今やこれは、以前の霊的でスピリチュアルな把握の多かれ少なかれ後に残されたものとなっています。抽象的なアレゴリーであるものが、とりわけ、ピサのカンポサント(墓地)の、多くの点において壮麗な絵のなかに見出されるのです。これは前の時代に属しますが、私はこのアレゴリー的な要素を、後になってもなお作用を及ぼしているものとしてお見せしたいと思ったのです。つまり、人間の感情のなかに生きているのは、霊的に自然化され、魂的に自然化された霊的なものです、もはや全体を捉えることの不可能[Nicht-mehr-Erfassenkoennen des Ganzen]であり、構成的なものです、そしてアレゴリー的なものがなおも作用しています。

 このカンポサントの絵に見られるアレゴリーはさらに、

   84  楽しい集い

84

   81  狩り

81

 同じ絵から

   82  物乞いの群  

82

 同様に

   83  飛ぶ悪魔

83

 これも同様です。

   79  フランチェスコ・トライーニ  トマス・アクィナス

79

 さてここで、アレゴリー的なものがまずこの絵にあるのがおわかりでしょう、なぜなら、スコラ学の教義の作用を描き出そうとされているからです、一方においては、迷信の克服に至るまで地上に降下し、他方では、地上に生きるものが聖なる出来事にまで照射する天の領域にまで上昇するスコラ学の教義の作用をです。つまり私たちは、地上で作用するものが有効に考えられているのを見ます、いわば霊的な地上実質の内部で効力のあったもの、これが、今や現実そのものから採られたアレゴリーによって表現されるのです。つまりこの絵において私たちは、このみなさんに最後に名指されたアレゴリー的な要素が出発点とされているのを見ます、もっとも、ただアレゴリーを表現するためというのではなく、今述べましたように、絶対的に実際に有効と考えられたものを単にアレゴリー的なしかたでそうされている、ということですが。

 今、私たちが試みなければならなかったのは、さまざまな潮流がーーもう一度繰り返しますと、自然主義のなかに入り込んでいこうとした精神(霊、ガイスト[Geist])、魂的なものをいっそう外的な表現に表すことができるようになったことで、表現力においてもますますいっそう写実的になった魂的なもの[das Seelische]、関係性において霊的に働きかけるためにいわば個別性を組み立てていく構成的なもの[das Kompositionelle]、そしてアレゴリー的なもの[das Allegorische]--、これらのさまざまな潮流が、いかに個々の衝動として現れてくるかを示すことでした。そしてこのようにして、ミケランジェロとラファエロ、そしてその後継者たちの偉大な創造のなかに表現されるに至ったものが築き上げられたのです。私たちは、まったくもってひとつの霊的なものが、さまざまな道筋で人間を貫き、自然的なものを自らのものにしようとするのを見ます。私たちは、精神(霊)がまず、人間精神を通じて人間のなかに表現されるものを、人間に即して獲得しようと努め、それによって霊的な観照がますますいっそう自然の把握のなかに入り込んでくるのを見ます。次いで私たちは、フラ・アンジェリコやボッティチェリといった芸術家たちの場合のように、魂が入り込んでくるのを見ます、さらに私たちは、構成がもはや何か自明なものとしてヴィジョンから与えられるということのなくなった時代に、霊をふたたび作用させようとする個々の構成の試みを組み合わせることによって、実にラファエロがこれほどの高みに至らせたものを創り出す試みがなされるのを見るのです。私たちは、世界の出来事に語らせようという望みがアレゴリーに通じていったのを見ます、そしてアレゴリーはまたも、みなさんがこの(79)の絵にごらんになれるように、--ボローニヤの《聖チェチリア》の構成のような構成のことのみを考えていただきたいのですが--、ラファエロにおいてまた自明の霊性となったものを、根底において写実主義(現実主義)に導くのです。

   196   ラファエロ  聖チェチリア(ツェツィーリエ)

196

 トライーニの(79)の絵においてはなお、アレゴリー的なものが沸き上がってくるように中心人物を置くという試みがなされているのがわかります、そしてアレゴリー的なものが沸き上がってくるなかで人間の魂的生と全世界(宇宙)との連関を描き出そうと試みられているのです。ラファエロの《聖チェチリア》(196)においてさらに私たちは、やはり中心人物が中央に置かれているのを見ますが、すべてはすでに、アレゴリー的なものがそこで完全に克服され、アレゴリー的なものが消し去られるまでに至っています、そして今日人々は、この絵がチェリアの祝日によせて制作されたことを確認するためにカレンダーを調べさえすればよいにも関わらず、聖チェチリアによって何が表現されねばならなかったのか、議論することさえできるほどです。さらに、ラファエロがこのすばらしい絵のなかに創り出したものすべてが聖人伝説のなかにあること、けれども彼が自然という形成されたもののなかにに、魂的なものと霊的なものを表現する自然の能力にまで到達していたために、本来はアレゴリー的なものとしてその背後に潜んでいるものがもはや気づかれないほどになっていることが見出されるでしょう。そして、ミケランジェロとラファエロによって支配されたこの時代に見られる偉大さとは、以前の諸潮流、これらがどのような衝動に由来していたのかを見ることができますが、これらの潮流が完全に克服され、そして、私たちを取り巻く現実の純粋にとらわれのない-- あの時代にとって純粋にとらわれない観照と再現が、自然の物質上の内実にしたがって、魂と霊にしたがって、実際に獲得された、ということなのです。

 きょう研究されたこれらの経過に基づく時代がもたらしたもののなかに、これらの絵画、これらの創造そのものを手がかりに見出せるのは、精神(霊)から発して、精神(霊)を外界にも認識することに通じていくというこのような実行が、進化に先立ってあったのだということです。まず精神(霊)が求められねばならず、それから外界に精神(霊)が見出されます。まず魂が体験されねばならず、それから外界に魂が見出されます。魂と精神を共にまずそのものとして体験できなければならず、それから外なる自然のなかにも魂と精神が見出されるのです。

 ですから、チマブエにおいてなおも働きかけていた霊的なものが、ジオットにおいても余波を残していたことがわかります-- ジオットは自然のフォルム(形態)をそうすることによって理解するために、それを自然のなかへと携えていくのです。そしてまた、ジオットによって霊的なものを手がかりにさらに放射されていくものが、自然という精神(霊)を理解するために後継者たちによってより多く用いられるのを見ます。アッシジのフランチェスコによって、魂的なもの、つまり人間のなかの魂的なものの把握へと到達したものが、キリスト教的な敬虔さを通じて、フラ・アンジェリコにおけるある種の高みとなって芸術的に表現されるのです-- これはまたも放射していって、ボッティチェリにおいて本質的なものをつかみます。私たちは、記憶から、とでも申し上げたいのですが、全体から-- しかし失われてしまった全体から、途上において直接観るということは失われてしまったガイスト-- 自然を把握する際にその働きを用いることができるために失われたのですが、このガイストがふたたび全体において働きかけるために、個々のものを全体へと、組み立てる試みが行われるのを見ます。表現が、アレゴリー的なものが求められ、しかもこの求めが、アレゴリーの克服にともなって自然そのもののなかに表現を見出すことに通じていくようすが見られます、単に観ること、外界をとらわれなく観ることが、これを最初に求めた当人に与えてくれる表現です。自然はアレゴリー的ですが、自然はどこであれアレゴリーを直接押しつけがましく認識させはしません。人間は、まずある意味で不器用に[ungeschickt]読むことを学びながら、自然のなかに読み取るべきものを、さまざまに学ばなければなりません。私たちがトレーニの絵(79)に見るような芸術家の場合、まだ不器用な自然の読みが見られます。ラファエロの《聖チェチリア》(196)において私たちの目の前にあるのは、もはやそのなかにアレゴリーは一切含まれない生、まだその巧みさの完全な高みへと至っていないアレゴリー一般の持つ干からびたものなど含まれない生なのです。

 このように、この講演によって、イタリアルネサンスの大いなる芸術期がどのように次第次第に育成されてきたか、ということについて、ひとつの見方を獲得することができたと思います。私が思いますに、人間の眼差しは繰り返し何度も、ほかならぬこれらの時代とこれらの芸術発展に注がれることでしょう、なぜなら、この時代は私たちに、芸術的なファンタジーと、この芸術的ファンタジーを通じてとらわれなく自然を再創造しようとする努力とともに、人間の魂における喜び、叡智、愛の働きと生命を、これほど奥深く見つめさせるからです。それは単に自然の模倣ではなく、人間が自らの魂そのもののうちに見出したものとともに、人間の魂の最も内なる体験に親和するものとして自然のなかにすでにあるものを、自然のなかに再び見出す人間の能力なのです。このことを、今日述べましたことを通じて、単にエピソード的で充分でないやりかたではありますが、表現できたのではないかと思います。


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