ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第11講

アトランティス後第四時代の黄昏とアトランティス後第五時代の黎明との間の重要な時期における、
中部の個人的芸術的表現法と、南部に迫る東方の伝統的表現法(イコン)の戦い

イコン、ミニアチュール(細密画)、ドイツのマイスターたち

1917/10/15   ドルナハ


  この連続講義において私が示唆しようとした現に存在するもの[Dasein]のあの諸法則を、生のきわめてさまざまな領域においてよく知るために、今がまさに良い機会だと思います。この現に存在するものの諸法則は、その領域のなかに、事物の重さ、本質の重さ、と精神的生活において呼ばれうるものを取り入れている、と申し上げることによって、私はこの法則を示唆しようとしたのですが、従来世界観として流通してきたものにおいて、この重さを与えるということは往々にして顧慮されてきませんでした。とりわけこの現代に不可欠と思われるのは、私たちが今生きているこのアトランティス後第五時代を理解すること、私たちがさらにいっそう意識的にこの時代のなかで活動するために、その特性すべてととともにこの時代を理解することです。ご存じのとおり、私たちはこのアトランティス後第五時代の始まりを、十五世紀初頭から、1413年頃からとしています。つまりこの十五世紀初頭というのは、ヨーロッパの人類の進化において、非常に重要な、意味深い区切りだということです。このときに実現されたような飛躍は、一度に起こるのではなく、あらかじめ準備されるのです。新たな時代が始まる最初の時期においては、やはり徐々に根付いていくようすが見られます。前の時代の古いモティーフが新たな時代のなかに移行していったりなどするのです。十五世紀初頭に実際にこの大きな飛躍を体験したものは、かなり長期間にわたって準備されました。

 この中世半ばに先立つ時代において、ヨーロッパの歴史的生成におけるもうひとつの強力な一撃を眼前に見たいと思うなら、たとえばカール大帝{フランク王。英語名チャールズ大帝、フランス語名シャルルマーニュ。800 年ローマ教皇から帝冠を授けられた}の統治 -- ご存じのように768年から814年までですが -- に注目することができます。ヨーロッパにおいてカール大帝に至って最も広範囲で起こったことすべてを、みなさんが具体的に思い浮かべてごらんになるとき、この思い浮かべるということにはいくらか困難が伴うでしょう。現代の歴史考察者の多くにとってはむろんこういう困難は存在しません、彼らは何もかも一律に扱うからです。けれども真実を見ようとする人にとっては、このような奥深い違いがあるのです。ですからこう言わなければならないでしょう、今日(こんにち)の人間にとって、カール大帝の時代までのヨーロッパにおけるまったく異なった性質の生活について、現代の経験と印象から概念形成するというのはまったく困難になっているのだ、と。けれどもさらに私たちはこう言うことができます、カール大帝の後、十、十一、十二世紀に、私たちの時代、つまりアトランティス後第五時代が準備される時期が始まる、と。この時代が準備されるのです。カール大帝の時代に至って、すでに申しましたように、もはや現代が正しい表象を持つことができない古い状況が消えてゆくのです。けれどもそのとき新たな時代が準備され始めます。そしてこの三世紀、十、十一、十二世紀において -- 九世紀にはすでにこれは始まっています -- 、十五世紀に至るその後の世紀に全く独特に出現した諸力を生み出す出来事が、ヨーロッパにおいて生のあらゆる領域で起こるのです。

 さて、この準備の時代、たった今私が述べた数世紀にとっては、今日よく主張される、ローマがヨーロッパの支配権を手中にする、ということ以上のものがあった、と言うことができます。ただし、九世紀、つまりヨーロッパの支配権を精力的に手中にし、あらゆる状況のなかに権力を広げてゆく九世紀半ばからの時代における教皇制について、後の世紀の、ましてや今日の時代の教皇制とその効力をよりどころに想像してはなりません。むしろこう言うことができます、あの時代において、教皇制は、生のもっとも重要な領域のために、西ヨーロッパと中部ヨーロッパ、そして南ヨーロッパに何が必要であるかを、本能的に知っていたのだ、と。そしてすでに前回示唆いたしましたように、東方の文化はいわば押しとどめられ、時を待つこと、ヨーロッパの東方で、ビザンティン主義のなかで、ロシア主義のなかで待つことを余儀なくされました。この文化は現代に至ってもなおそこで待っているのです。

 このように一般的に言えることは、もっとも広い意味において芸術的と呼びうる領域において、とくに明瞭に現れてきます。そしてみなさんが、当時東へと押し戻され、押しとどめられたもの、西が、中部および南ヨーロッパが持ってはならなかったもの、この東方に押しとどめられたものについて、表象を得たいと思われるなら、これについて思い描きたいと思われるなら、ロシアのイコンを

245   ロシアのイコン  ウラジミールの神母[Gottesmutter]

ラファエロの聖母(マドンナ)と比較してみてください。

245a   ラファエロ  セディアの聖母

 

246a 194 ラファエロ システィーナの聖母

 東方のマリア像のなかには、当時東方へと押しとどめられたものの余韻がなおも残っているのがおわかりでしょう。このような画像においては、当時西、南、および中部ヨーロッパの芸術において支配的であった精神とはまったく異なった精神が支配しています。まったく異なるものです。このようなイコン像は、今日なおも、霊的世界から直接生み出された形姿を表現しています。生き生きと思い描くなら、ロシアの聖母像の背後には物理的な空間を思い描くことはできません。この像の背後にあるものは、霊的世界であり、この像は霊的世界から見つめている、と思わざるを得ないのです。この像の線、この像に含まれるすべてがそのようなものなのです。そしてこのような画像の根本性質、つまりその霊的世界からの誕生ということを取り上げてみると、とりわけ九世紀以降、ヨーロッパの西部、ヨーロッパの南部、そして中部ヨーロッパからどうしても遠ざけておかなければならなかったものが得られるのです。

246   イタリアのイコン  聖母子

 なぜでしょう? -- こういう事柄は徹底して客観的に歴史的に考察しなければなりません。なぜこれは遠ざけておかなければならなかったのでしょう? -- それは単に、ヨーロッパの住民、中部、西、南ヨーロッパの住民は、当時東方に押し戻され、押しとどめられたものを、人間の根源的、基本的性質から理解することができたであろう能力、魂衝動とはまったく別の能力、まったく別の魂衝動を持っていたという理由からです。西ヨーロッパの性質、魂の性質は、まったく別のものに向けられていました。そして、東方へと押しとどめられていたものが、中部、西、南ヨーロッパへと移植されていたならば、それはヨーロッパの東部以外では、単に外面的なものにとどまることしかできなかったでしょう。それは決して、中部ヨーロッパ、西および南ヨーロッパの魂特性と合体して成長することはできなかったでしょう。この西、南、および中部ヨーロッパにおいては、いわば深みから上昇して来ようとしていたもの、民族魂そのものの深みから上昇して来ようとしていたもののための、余地が作られねばなりませんでした。

 このことを、天才的な本能とでも申し上げたいものによって、当時ローマは実際に理解したのです。ドグマをめぐるいがみ合いがまったく別の様相を示そうとも、ドグマ論争の内容は、まったく真の歴史全体の内容ではなく、肝心なことにとって、ドグマ論争とは、単に最後のスピリチュアルな現れ、とでも申し上げたいものにすぎません。もっとずっと広範なものが重要なのです。とりわけ重要なのはやはり、たった今私が特徴をお話ししたことです。つまり私たちが知っている通り、九世紀以降それに続く数世紀を通じて、ヨーロッパにおいてローマから精力的に余地が作られました。民族魂が求めていたものが発展できるための余地です。民族魂が求めていたものはまったく明らかに示されました。

 よろしいですか、もし東方的なものが押しとどめられず、ヨーロッパ中に広がっていたなら -- カール大帝がそのきっかけを起こしたのですが -- 、もしこれがヨーロッパ中に広がっていたとしたら、どんなことが引き起こされたか、ということに視線を向けて見るなら、ヨーロッパにやってきたであろうものは -- すでに申しましたように、外面的なしかたではありますが、それはやってきたでしょう -- 、ある種の、霊的世界から直接語りかけてくる対象を観る力です。これはさしあたり到来させてはならないものでした。と申しますのも、ヨーロッパにおいては、唯物的なアトランティス後第五時代が準備されることになっていたからです。そしてこの時代はもっとも重要なしかたでほかならぬ中部ヨーロッパで準備されました。とりわけ、霊界から直接語りかけてくる線、形態および色彩付与といったものとは別のものに対して、関心が持たれました。何か別のものに関心が持たれたのです。ヨーロッパにおいてとりわけ関心が持たれたのは、時間のなかで起こるもの、物語られるもの、出来事であるものに対してでした。個々の存在、個々の人間が観察されるにしても、語られる一連の出来事のなかにその人が置かれるという観点のもとでそれは観察されました。十、十一、十二世紀もローマードイツ帝国の時代と呼ぶことができますが、それは、物語ることへの関心、時間のなかでの働きへの関心、時間のなかでの個々の人物把握への関心のための余地を作ることが、当時ローマから広がっていったからです。

 よろしいですか、これは、昨年この連続講義の前回のシリーズで取り上げた観点ともまた異なる観点なのです。中部ヨーロッパの帝国とローマ教会制度および教会の拡大とのこの共同作用は、まったくもって、当時アトランティス後第五時代が準備されたしかたを表す内的な姿です。ですから私たちは、この中部ヨーロッパにおいて、この時代が、当初はそもそも空間的な造形芸術に対してほとんど関心が持たれない、というかたちで準備されるのを見るのです。空間的な造形芸術は -- 昨年私がみなさんに述べた説明をいくつか思い出してください --、 東方からやってきて、いわば主な関心事の隙間を縫って、その後広がったもの、そういうものに借用されます。民族性そのものから噴出するもの、それは語られるのです。そして、物語にしようとしたものを人々は民族性のなかに受け入れ、民族性と密に結合しようとしたのです。

 それにしてもごらんください、中部ヨーロッパの生活の、ライン地方、ドナウ地方、北海沿岸地域の生活のなんと壮大な絵巻が、ニーベルンゲンの歌、ヴァルタリの歌、グードゥルンの歌に描写されて私たちに向かってくることでしょう。こういう文芸において描写されるしかたのなかに、時間的な出来事に対する関心が表明されているのがおわかりでしょう。さらに、ヘーリアント[Heliand]{古ザクセン語による九世紀の宗教叙事詩。「救世主」の意。}、このカール大帝の時代に成立した文芸において、いかに福音書の物語が中部ヨーロッパ的な特性のなかに紡ぎ込まれているか、聖書の出来事の特性が実際中部ヨーロッパの直接的な関心によって、いかに《ヘーリアント》のなかに取り入れられているか、ごらんください。ヨーロッパの民族魂のなかに生きていたものは、この民族魂そのもののなかから生み出されねばなりませんでした。ですから、時間的なものに至ることの少ない、歴史的な感覚をあまり持たない東洋的な伝統は、押しとどめられたのです。そのためにこの伝統は押しとどめられたわけです。さらに私たちが、このヨーロッパの民族的関心が深い根底から表面に現れ出てくるのを見ると、ただ今日私たちには、あの親密さ、当時ヨーロッパの人間精神がそれとともに自らの深まりを本質的に霊的な経過に結びつけていたあの深い魂的なもの、そういうもののなかへと深く入り込んでいくことが、しばしば困難になっているのです。こう言ってよいかもしれません、東方へと押しとどめられたもの、それは空間的な無限性を指し示し、その表現は空間の彼方からこちらを覗き込む、と。中部ヨーロッパにおいて表面に現れるべく定められたものは、人間の魂そのものの奥底から、直接浮かび上がってこなければならなかった、魂の深みから、空間の彼方からではなく魂の深みからだ、と。

 直接的知覚という表面の下の、魂の深みの秘密に満ちたはたらき、これがすでに、当時魂のなかに生きていたものでした。このような人間の魂が、その本姓の根底に、魂体験の祝祭の瞬間にのみ湧き上がってくる秘密に満ちた衝動を有していること、今挙げた諸世紀においてはこういうことに本能的に浸透されていました。生とはいわば、目に見え、耳に聞こえなどするものよりも深いのだということ、生とは計り知れない魂の深みからやってくるのだということ、こういうことが深く感じ取られていたのです。そして、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、彼はいわば、純粋に言語的な時代、魂の深みで形もなく自己表明するものを、造形的に真に表現する能力がまだ獲得されていないあの時代の終焉をもたらすのですが、彼の小品のような美しいものに耳を傾けるとき、私たちはこの深みの一種の余韻を感じる、と言いたいのです。ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの小品を私たちに作用させると、わたしたちはこの深みに触れられるでしょう、ここでは老人である彼が、自分の人生をこのように振り返り、自身の人生について語っています。男として成熟したとき、英知が彼の魂のなかに入り込み、前には夢のなかのように秘密に満ちた波が湧き上がってくるだけだった魂の深みに、少なからず光が投げかけられるようになったとき、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデのなかに、彼がこう表現する気分がいくらか生じたのです。

   ああ、私の歳月はみなどこへ消え去ってしまったのか!
   わが人生は夢だったのか、それとも真実なのか?
   いつも現実だと思えたもの、あれは夢の顔だったのか?
   私は長いこと眠っていた、そのことすらも知らずに。
   今私は目覚めたが、私にはわからない、
   日頃この手ほど熟知していたものが。

 ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、長い時代のこの三世紀、この時期をもって終わるローマードイツ帝国の最盛期の、十、十一、十二世紀の末期に、このように語ります。それは主として出来事への関心が養成される時代です。中部、西、南ヨーロッパにおいて、芸術は、出来事の描写、具象的な表現を求めます、出来事の、生成の表現です。存在の、現にあるものの、静けさの表現、霊界からの静謐なまなざしの表現は、東方に目を向けるものです。直接ここで起こっている出来事、人間の魂がそのなかに生まれ出、人間の魂がもっとも大きなもの、もっとも秘密に満ちたものと結ばれる場である出来事、この出来事も、具象的な表現を求めて押し寄せました。しかしそのためには、東方からやってきた伝統すべての余韻をまだ保持していた南部の成熟が必要でした。つまり出来事を表現するというのは、とりわけ苦心されることだったのです。

 このように、ヨーロッパの芸術上の努力には、互いに戦うふたつの衝動とでも申し上げたいものが含まれていました。つまり、なるほど存在の表現は東方へと押しとどめられてはいましたが、まさに押しとどめられていただけであって、多くのものが残っていたからです。とりわけ、厳密な法則に従ってイコンが制作されねばならなかった東方に見られるものがいくらか、そして、線を引く場合や表現などにおいて違反することの許されない、古い慣習によって受け入れられていた規則に従って、その他のことも残っていました。これらはすべてヨーロッパにも移植されましたが、それとともに、環境のなかで体験したものを、伝統として南部を経て中部ヨーロッパに入り込んできたものと結びつけようとする欲求もありました。もちろんこの欲求は当初、聖書の物語、聖書の話の描写のなかに、素朴で単純な描写のなかで形をとっていきました。後続の三世紀、十三、十四、十五世紀が始まってようやく、ヨーロッパにおいても、いわば具象的な描写に向かう力が高まります。この力はまったく特定の事実の恩恵によるものです。この力は、これらの世紀、つまり十三、十四、十五世紀において、中部および南ヨーロッパ全体で、とりわけ都市の統治と呼ばれうるもの、都市文化の花が大いに咲き誇ったという事実によっています。当時力強い主権を誇っていた諸都市は、その中心において市民独自の力を発達させました。そしてこうした都市が、このように、当時没落していた古いローマードイツ帝国にも、後の国家共同体にも組み込まれなかったために、これらの都市が自らの主権を保っていたために、これらの都市は、きわめて個別的個人的な場所において土地と生活様式の個性を求めたように、個人的な力を発達させることができたのです。何度も繰り返し、当時花開いた都市の自由にまなざしを投げかけないなら、十三、十四、十五世紀という時代を理解することはできないでしょう。

 今一度、この花開いた都市の自由 -- これは十一、十二、十三、十四、十五世紀に近似的に見られます -- 、この都市の自由が芸術的なものとの関わりにおいて目の前に見いだしたものを、ありありと思い描いてみましょう。ローマから発した一定の伝統が残っていました。主要なものは東方へと留め置かれてしまいましたが、若干の伝統、線の引き方、色彩付与、顔の表現に関わる伝統が残っていました。目はある決まったしかたで、鼻はまた決まったしかたで形作られなければならなかったのです。けれどもこれらはすべて、出来事を描写しようとする要求と争っていました。ふたつの衝動のこうした争いを、私たちがじっくりと見ることができるのは、芸術的なものがはじめて身を乗り出してくるところ、芸術的なものが自らをさらけ出すところ、そして、こう言いたいのですが、ローマで教育された修道士が、中部ヨーロッパから彼にもたらされる欲求、つまり、聖書の出来事を、聖書に出てくる人物が霊的世界から単にこちらを覗き込んでいるように描くのではなく、聖書的なものそのものが、人間たちの間で生活する人間のありようの写しであるように描きたいという欲求、そういう欲求で自らをあふれんばかりにするところです。今やこの欲求が、孤独な作業にいそしむこの修道士の胸に湧き上がってきたのです。彼がミニアチュール(細密画)を描いて、そこに小さく聖書の場面を描写したとき、一方においては伝統の残余を、他方においては生き生きとしたものの形成となって表面で動こうとするものを、考慮しなければなりませんでした。

 きょうはこのようなミニアチュールからふたつのサンプルをお見せすることができますが、これらからみなさんは、十一、十二世紀において -- 十三世紀においてもまだ明白ですが -- まさにこうした小さな絵画作品のなかに、出来事と戦っている伝統的絵画とはどういうものであるかが示されているのを見て取ることができるでしょう。

 聖福音集から取られたこの絵をよくごらんください、《キリストの誕生》を描いていますが、私たちはすでに昨年からこの絵を知っていますね{第7講参照}。

 247   ミニアチュール   キリストの誕生と羊飼いたちへの告知

 ここではまだどれほど単なる存在を描く伝統が思い起こされるか、よくごらんください。ここではまだ、自分の生きている外部の自然主義的現実のなかに人間が観察しているものを受け入れていなかった、というふうに人物たちが描かれている、とでも申し上げたいのですが、そのように描写されているようす、これらの人物がまだみな、人間が霊的世界について作り上げる観念のなかから生まれ出ているのをごらんください。聖人たちが来て、キリストの姿そのものもやってきますが、これらすべてはまだ別の世界からこちらにやってくるのです。絵の表面の背後に私たちが思い描くことができるのは霊的世界のみです -- もちろん比喩的に極端に言えばですが。自然主義を思い起こさせるようなすべてのものについては、まだその痕跡はありません。この絵のなかには、遠近法の痕跡、空間をどうこうして描き出そうとする試みの痕跡などないことによく注意してください。すべてが平面上にあり、けれどもすべてがまだ霊的なものを描き出しています。けれどもやはり、ひとりひとりの人物に視線を向けてごらんになれば、まだ稚拙とはいえ、すでにこの絵のなかには、何かを表現しようとするやみがたい衝動があるのに気づかれるでしょう。ここではふたつのことが互いに争っているのに気づかれるでしょう。右の人物とこの左の人物の目をよくごらんになってください、そうすればみなさんもきっと気づかれるに違いありません、この絵のなかにはまだ伝統のいくばくかが残っている、修道院の独居房でこれを描いた人の頭のなかには、まだ、お前は目をこういうふうに形作らねばならない、表情はこうこうでなければならない、といった教えがある、けれども彼はもうその教えと戦っていて、彼はある意味ですでに状況と出来事に視線を合わせているのだ、と。

 福音書のなかに、聖書のなかに書き込まれたほかならぬこういう小さな絵のなかに、今挙げました原理が互いに争っているのが見えますね。けれどもみなさんはこれとならんで、たとえばチマブエにおいてなおも強く現れてきているもの、存在の東方的な形成[das Orientalisch-Bildende des Seins]を表現しているものも、ごらんになるでしょう。この上部の天使の姿は--これは、チマブエの場合に出てくるとしたら、単に聖書的なものの理解の東方的な余韻なのですが -- 、霊的世界そのものからの語りかけというものを、出来事の表現ではなく、存在の表現を、なんと思い起こさせることでしょう!

 もうひとつのサンプルは、私が準備した二枚目の絵で、トリーアの聖福音集から取ったものです。

 248   ミニアチュール  キリストの誕生 -- 羊飼いたちへの告知

 この下の方に羊飼いへの告知が、上の方にキリストの誕生がごらんになれますね。天使たちがここで羊飼いたちに《高みにおいては栄光、地上の善き意志の人々には平和を》と告げている、この羊飼いたちへの告知、この告知を取り上げてごらんになれば、みなさんもここでまさに、このふたつの衝動の混合とでも申し上げたいものを見いだされることでしょう。三人の男たちのどの顔を見ても、出来事を描き出そうとする苦心が、なんと私たちに迫ってくることでしょう!けれどもまた他方において、すべてがなんとあらゆる自然観察からかけ離れ、なおも伝統が入り込んできていることでしょう!上の天使の翼から、感じ取ってください、ある本に、翼というものは、主要場面に向かって斜めになるように、一方を指すように、形作られなければならない、などと書いてあるのだ、と。みなさんは規定を感じ取ると同時に、このような描写から、出来事を観察しようとするやみがたい衝動、まだ実行に移すことはできないにしても、そういう衝動の発露を感じ取ることができるでしょう。ここからそれを感じ取り、そして自然観察というものがまだほとんどないということを見るために、すべてにおいてよく注意してください、この絵には、空間処理の痕跡、遠近法の痕跡がなく、これを描写している人の場合、すべてはようやく、暗示的に[implizit]と申しますか、単に萌芽の状態で、存在していること、その一方で、こういうものをどう制作すべきかという規定、教則、といったものにまだ基本的に支配されていたことに。

 さて、今私たちは、規定であるもの、存在表現であるものと結びつきながら出来事を描写しようとするやみがたい衝動が、諸都市の建設に先立つ、ローマードイツ帝国の三世紀の経過のなかで、中部ヨーロッパにおいてある種突然に、きわめて見事な開花へと至るのを見ているわけです。ケルンは都市の自由がもっとも集中的に花開いた諸都市のひとつですが、同時にまたカトリックーローマの統治の集中的な拡大によって、古い伝統的な造形芸術に東方からやってきたものを受け入れる可能性も有していました。ですから、ほかならぬケルンにおいて、ふたつの衝動がきわめてすばらしく混合され、互いに織り合わされる可能性が私たちにありありと見せられるのも、不思議ではありません。太古の由緒正しき伝統とでも申し上げたいものによって得られ、それをもとに、聖母はこのように見えるのだ、と思い描くことができるようなものと、出来事を描写しようとする欲求というふたつの衝動がです。聖母はどのように見えなければならないか、東においてそれはスピリチュアリティ[Spiritualitaet]のなかに凝固しています。荘厳に、崇高に、しかしスピリチュアリティのなかに凝固しているのです。それは時を待つべく定められています。動きは西においてもたらされました。啓示として天から聖母の姿の上に下降してきたもの、ロシアの聖母のなかにあれほど壮大に崇高に表現されているものが、直接見られるものに浸透されます。人間の面差しのなかに現れうるもっとも美しいもの、もっとも好ましいもの、人間的な愛の能力の、人間の友愛の、人間の好意の直接の刻印、聖母の開示された姿と密接に結びつきつつ周囲に生きているものすべて、こうしたものに浸透されるのです。

 このことをよく考えてみてください、そしてケルンのマイスター、ヴィルヘルムが描いたこの絵をよくごらんください。

  
243 238   ケルンのマイスター  スイートピーを持つ聖母

 ここでみなさんは私が本来示唆したかったことをごらんになれるでしょう。つまりこの絵において、生が、すなわち出来事、生成が、マリアの描写のなかにもたらされるよう試みられているのをごらんになれるでしょう。ここでは伝統的なもののなかに、個々の部分にいたるまで、個人的な観察が取り入れられ、古い規定についてはいわばその心情的部分に関してのみまだ考慮して、人物は気高く、人物は崇高に、けれどももはや、線の引き方までは規定されず、つまり伝統はすでに個人的な観察によってすっかり活気づけられているのです。このマイスターについて私たちが驚嘆せざるを得ないのは、このことです。

 同じマイスターの別の絵は、

  237   ケルンのマイスター  ヴェロニカの聖顔布

今述べましたことをみなさんに別の表現で示していますね。伝統的に天上的な形態、示現された救い主の顔、《ヴェロニカの顔》の形態のなかに、魂の深みから現れ出てくるものとして直接観察されるものが、どれほど入り込んでいるか、よく考えてください。ありありと思い描いてみてください、下の天使たちの顔はすでになんと個性化されていることでしょう!この絵においては、人物の個性化によって、後方に直接天を表象することがもはや不可能になっていることを、ありありと思い描いてみてください。しかし、何か別のことが可能なのです!東方的な心情から生み出された絵(245)の背後には、直接霊的世界を、つまり絵が描写しているのとは別の何かを、思い描くことができます。ここでも(237)絵が描写しているのとは別の何かを思い描くことができますし、別の何かを感じ取らなければなりません。それより前のこと、聖書から知られることの多くが感じ取られ、その後に続くことの多くが感じ取られます、つまり出来事が感じ取られるのです。そして、描写されているのは、ひとつの先行と後続[ein Vorher und Nachher]から取られた場面です。つまり、背後の霊の国のような何かではなく、先行と後続のような何かが感じ取られるわけです。個々のものが描写されていても -- 造形芸術はそうしなければなりませんが -- 、個々のものは出来事から取り出されているのです。これが、いわばあの時代の終焉のように私たちに現れてくるものです。ローマがあれほど深い理解から、三世紀から四世紀にわたる期間を通じて、民族文化から出てこようとしたもののための余地をヨーロッパに作り出したあの時代の終焉です。ケルンで活動し、こういうものを制作したかくも天才的なマイスターにおいて、これが終焉のように私たちに立ち現れてくるのです。

 つまりここで、私が特徴づけたふたつの衝動のこういう合流が、まったく独特に現れてきます。さてここで、このいたるところで働いていた力をみなさんの前に引き出すために、二,三の絵をお見せしたいと思います。コンスタンツ出身の画家、おそらくそこで教育を受け、その後ほかの国々を遍歴してさまざまなことを学び、それからケルンにやって来て、先ほど挙げましたマイスター・ヴィルヘルムのいわば後継者となったシュテファン・ロホナーの絵です。最初はマリア像ですが -- これもすでにみなさんご存じですね。

 
 244 239  シュテファン・ロホナー  王たちの礼拝

 すでにこの絵にみなさんは -- いくつかの頭部を比較してみるだけでよいのです -- 、イメージの個人的な形成によって生成を完全に表現しようとするやみがたい衝動をごらんになるでしょう。この苦心をごらんになるでしょう。なるほどまだ空間を用いる可能性は見られず、すべては平面上にあって、どうにかして遠近法を適用する可能性もまだ見えないでしょう。けれども、出来事として物語ることができるであろうものを、聖書の描写のなかに固定したいという憧れ、欲動、本能はごらんになれますね。性格づけしようとする欲動です。具象的に描写されたものが場面として取り出され、それより前、それより後、をごらんになれるでしょう。

 さて注目していただきたいのは、ケルンのマイスターについてお見せした先ほどの二枚の絵(237,238)は、このマイスターの活動のまさに最盛期にあたり、これはおよそ1370年から1410年まで、つまりアトランティス後第四時代がその終結を見る時代に直結しています。シュテファン・ロホナーのこの絵(239)は、もうアトランティス後第五時代に入っています。つまり私はここで、その間がアトランティス後第四時代と第五時代の間の境界になっている、連続した絵をみなさんにお見せしたわけです。

 それでは、特に特徴的なものとは何でしょう?アトランティス後第五時代の、この特に特徴的なものが、この描写のなかに入り込んでいるのを、私たちは見ないでしょうか。マリアの目の伏せ具合[Augenniederschlag]、祝福を与えている幼子の小さな手、右の人物と左の人物の表情の違い、ほかの人物たちの個性的な形態において -- 、アトランティス後第五時代に特徴的なものとなるもの、つまり個性[Persoenlichkeit]が、具象的な描写のなかに入り込んでいるのを、私たちは見ないでしょうか。私たちはここに個性という一撃が到来しているのを見ないでしょうか。とくに、このアトランティス後第五時代に中部ヨーロッパにとって造形的にきわめて意味深いものとなる明暗[Hell-Dunkel]、まさにこの明暗を表現したいという憧れがもうここに見えるのではないでしょうか。 -- 古い伝統であるものにとって、この明暗の持つ意味はなんと少ないことでしょう、人間はそのなかに生き、人間はそれを単に見るのみならず、光が人間を喜ばせ、明るさが人間を元気づけ、闇とともに人間は休息につき、闇のなかで人間は秘密に満ちた魂の深みに引き籠もるがゆえに、そのなかで人間は自分の生命を感じる、そういう明暗です。とりわけアトランティス後第五時代において前面に出てくる、このようにひとりひとりの個人としての魂が世界のさなかで生きていること、これを私たちは、明暗の登場、光の量の配分のなかにも見ることができます。中央の幼子に注ぐ光、この光は左右にそれぞれ分割され、上に向かって明るくなり、もはやかつてのやりかたで単に金の下地のなかで終わるのではなく、明るさのなかで終わっていますね。つまり、個人的ー個性的なものが入り込んでくること[das Hineinspielen des Individuell-Persoenlichen]、これがここで私たちに観察されることなのです。そして、ほんのかすかであるにせよ、何かまったく新しいものが、アトランティス後第五時代の要素として、過ぎ去りつつあるアトランティス後第四時代のなかに入り込んできていうことに気づくことなしには、誰も今ご紹介したような事柄を相前後して観察することはできないでしょう。

 前の聖母像をもう一度取り上げてみましょう

  
243 238   ケルンのマイスター  スイートピーを持つ聖母

 この幼子の顔をよく心に刻みつけて、ここにはまだどれほど伝統が生きているか、感じ取ろうとしてみてください。ここでもう一度もうひとつの画像を入れて、
   

 
 244 239  シュテファン・ロホナー  王たちの礼拝、部分:聖母

聖母と幼子を観察し、ここでほんとうに新たな一撃が入り込んでいるのを、個人的なものというまったく新しい衝動が突入してくるのを見てみましょう。シュテファン・ロホナーのその後の絵においてもそうなのですが、はっきり申し上げて、シュテファン・ロホナーは、人間がそのなかに置かれている個人的なものを形成しようとする衝動がきわめて大きいために、伝統を受け入れられないことがきわめて多い地域の出身です。それはボーデン湖周辺の地方、西部オーストリアの南バイエルン地方です。そこには、その民族の本性に由来して個人的なものへの希求がきわめて大きく、伝統的なものを拒絶することがきわめて多かった種族がいました。今やシュテファン・ロホナーは、いわばこのバイエルン的緊張感に満ちて、個人的なものへの希求にもかかわらず古代人の崇高で聖なる偉大な伝統がなおも生きている、というところまで個人的なものを目指す、という幸運を手にしたわけです。革命的、個人的衝動はマイスター・ヴィルヘルムよりもシュテファン・ロホナーのなかでより強く生きていましたから、ロホナーは、この内なる革命的個人的衝動を、ケルンまで来ていた伝統の磨き上げられた典型的なものに結びつけることによって、この絵を生み出したのです。

241   シュテファン・ロホナー   すみれを持つ聖母

 空間芸術というものはこのシュテファン・ロホナーのような芸術家にとってはいわばまだ発明されていませんでした。当時のケルンにおいては、空間を描写することはできなかったのです。けれども魂を具象性のなかにもたらそうとする試みがなされていました。

 西のこのような絵を、東の聖母と比較してみると、このような事柄が、世界史上の出来事、世界史上の発展のなかに完全に組み入れられるでしょう。

 245   ロシアのイコン   ウラジミールの神母

 次の絵において、とくによくごらんになってください、

 242   シュテファン・ロホナー   薔薇垣のなかの聖母

 これもすでにご存じの絵ですが、個人的なものと普遍的な典型的なものとのこのような結合、このような織りなしが、シュテファン・ロホナーの場合現れてきていること、これらの絵においてはまだ、空間を克服しよう、遠近法を身につけようといった苦心はまったく見られないにしても、ロホナーの場合、すでに明暗というものが登場してきていることを、よくごらんください。けれども明暗のなかに、私たちは、遠近法によるのとは別の種類の空間克服を見るのです。そして、遠近法とは、まさに南において、ブルネレスキによって発明された、と言うことができるでしょう。私は昨年みなさんにそれを説明いたしました。さて、

240   シュテファン・ロホナー   十字架上のキリスト

この絵においては、構成についてはまだ痕跡がなく、描写そのものが空間を研究する必要に迫られたであろうような箇所においてさえ、いまだ空間については何も存在していないこと、けれども他方において、六人の脇役たちひとりひとりの姿を個性的に発展させようと試みられていること、救い主そのものを個性化しようと試みられていることがおわかりでしょう。どうかケルンのマイスターの絵(237,238)を思い出して、それを、私たちが見たシュテファン・ロホナーの四枚の絵(239-242)と比べてみてください。両者の間にある区切りがみなさんの心に深く刻まれるにちがいありません。と申しますのも、この区切りは、アトランティス後第四時代と第五時代の区切りだからです。シュテファン・ロホナーは、魂的に描写しようとします。けれども彼はすでに自然の形態そのもののなかに、魂が自らを語るフォルムを見いだそうとしています。マイスター・ヴィルヘルムは、まだ超感覚的な魂感情のなかに漂っていて、彼はその魂感情を、内なる感情からはっきりと打ち出してきます。魂感情を打ち出すのに、モデルを眺めるようにするわけではありません。ここには(237)すでにモデルへの注視が見られるでしょうが、これは自らを証する魂そのものを示すためです。 マイスター・ヴィルヘルムはいまだ彼自身の感情の表現者です。 シュテファン・ロホナーはすでに自然を模倣する者です。これは実際のところ写実主義[Realismus]であり、ロホナーが到達した自然主義[Naturalismus]なのです。それで私たちは、実際ほとんど10年も隔たっていないこのふたりの画家の間に、これほど鋭く境界線を引くことができるのです。

 ごらんのように、私たちが精神科学を通じて探究する法則というものは、生の諸領域を単に軽々しくではなく、その重みとともに魂の前に導き出してみるなら、個々の生の領域において実際に現れてくるものなのです。

 さて、もっと南で活動したふたりの画家を提示して、ここでもう一度、この事実を魂の前に導きたいと思います。この事実はケルンで起こったことでした。今度はもっと南方、バイエルン方面、コンスタンツ、ウルム、あるいはライン地方を見てみましょう、そしてそこにおいて、アトランティス後第四時代と第五時代が分けられる区切りの前と後で、どういう状況が示されているか、見てみましょう。ここで私はみなさんにまず、ルーカス・モーザーの二枚の絵をお見せしたいと思います。彼は十五世紀初めに生き、まったくもってまだアトランティス後第四時代に含められるでしょう。

 この絵をよくごらんになって

335   ルーカス・モーザー   聖人たちの航海

この絵からさらに感じ取ろうとしてみてください、この画家はまだ、お前が人物を並べて描くときは、ひとりは正面を、もうひとりは横顔を描かなければならない、お前が波を描くときは、このように描かなければならない、などと彼に言いつける教えを実行しているのだ、とわかるほどに、この絵のすべてがそのように描かれていることを。 -- ここでは海の波頭全部が、見られたのではなく、《規定どおりに》[nach Vorschrift]描かれていますね。人物は《規定どおりに》配置され、観察されたものは何もごらんになれないでしょう。すべては寄せ集められているのです。このティーフェンブロンの祭壇画は聖人たちの航海を示しています。

 次の絵は、同じ聖人たちの休憩、夜の休息を描いています。

336   ルーカス・モーザー   聖人たちの夜の休息

 教会に建て増しされた中世の家屋ですが、おそらくみなさんは、ここで何らかのものが観察されているということはほとんどなく、すべては頭で描かれている、という印象を強く持たれるでしょう。この眠っている聖セドニウスをよくごらんください、眠っている間も彼は司教冠(ミトラ)をかぶり、手袋をしたままです。まったく規定どおりに描こうとされています -- ただ、主たる関心事であるものが、描写のなかにひそかに入り込んでいます。よく考えてみてください、これは聖人たちが続けている移動、聖人たちの旅です。彼らは航海し、夜の休息をとります。つまりこれは物語なのです。とはいえやはり、存在する像として固定されたものが描写され、まだまったく伝統のなかにあります。母の膝で休むラザロ{をごらんください}!

 このような描写を前にすると、私たちは、かつての時代に描写されていたものに立ち返ることができます。つまりそれはアトランティス後第四時代の末期です。教会で描かれるべきこのような絵がどのように描かれねばならないか、ということは、まだ西においても規定されていました。厳しく定められた伝統規則にしたがって描かれていました。画家はいわば、伝統そのもののなかから課題を得ていました、聖セドニウスはこのように見えた、聖ラザロはこのように見えた、聖マグダレーナは云々、といった伝統です。画家はこれらを描かなければなりませんでした。それは規定であり、東におけるほど厳格ではなかったにせよ、やはり規定だったのです。けれども画家は、衝動、本能、興味にも目を向け、物語を形成せずにはいられませんでした!このように時代の末期においては、事態は混然となり、紛糾するのです。

 さてここで十三、十二、さらに十一世紀を振り返ってみましょう。あらゆる教会において、厳密な規定であったものが描かれていました。キリスト教徒全体を通じて、ある絵は別の絵と似ていて、ただどう注文されるかによってわずかに違いがあるだけでした。いったん聖セドニウスが注文されたとなると、規定されたとおりに聖セドニウスが描かれるのでした。それが伝統だったのです。

 さて今、十五世紀初頭のこの区切りをよく考えてみて、アトランティス後第四時代の最後の末裔であるルーカス・モーザーから、ハンス・ムルチャーに移行し、そしてこの画家がすでに、アトランティス後第五時代の夜明け、最初の黎明のさなかに立っているのを見ていきましょう。この絵をよくごらんになると、

339   ハンス・ムルチャー   キリストの誕生

この絵においてはすでに、個人的ー個性的なものの登場、個性的なものの特徴づけがみとめられるでしょう。モーザーの場合には、自然を観察しようという憧れは最小限しかごらんになれなかったでしょう。ここで(339)みなさんが見いだすのは、苦心している人間、-- わずかなりとも何らかの空間処理をするわけでもなく、すべてがひどく乱雑で、空間処理、遠近法に関してはまったくはずれているにもかかわらず -- 、すでに魂から特徴づけようと苦心している、しかしすでに自然そのものが魂から特徴づけられるように、そのように苦心している人間です。彼はすでに個人としての人物を模写しようと試みているのです。

340   ハンス・ムルチャー   オリーブ山でのキリスト

 この絵の場合、今申しましたことは、とくに下の眠っている三人の人物に注目なさるなら、いっそうみなさんの注意をひきつけるでしょう。ここではすでに、まず魂的なものの表現が試みられていますが、眠りという自然を表現しようという試みもされているのです。これと、航海(335)や休息(336)に見られる眠れる聖人たちについてみなさんの記憶のなかにあるものとを、比較してみれば、両者の間に発展の上でどれほど際だった区切りがあるか、おわかりになるでしょう。さらに、明暗が意識的に描写のなかに入り込んでいるのをごらんください。と申しますのも、何らかの遠近法によってではなく、もっぱら明暗によってのみ、この画家は苦心して空間秩序を作り出しているからです。遠近法はまったく不正確です、統一的な視点というものすらないのですから。そこから状況全体が秩序づけられていると思わせる一点を、みなさんはどこにも発見できないでしょう。けれども、それにもかかわらず、明暗による、ある種の美にすらなっている空間秩序があるのです。

341   ハンス・ムルチャー   埋葬

 この《埋葬》をよくごらんください。すべてが、風景の処理にいたるまですべてが、伝統的なもののなかへの個人的なものの侵入として、つまり、霊的世界からやってくるものの描写への興味ではなく、出来事への興味として、特徴づけざるを得ないような状態であることに気づかれるでしょう。

342   ハンス・ムルチャー   復活

 ここでは、とりわけ個性化[Individualisierung]というものが、絵全体に入り込んできているのがおわかりでしょう、番人たちをふさわしいしかたで描写しようとすることによって、つまり、体をねじ曲げることが個性を際だたせるのに役立っていますが、こうして個性化が入り込んでいるのです。この上左の人物をよく見ていただきたいのですが、この人物の特殊な状況、特殊な体験、奇妙なうわのそらのようすを、個性的に描こうと試みられていますね。画家が、ここでは頭部を前から示し、ほかの番人の場合、この右では、頭骨を後ろから特徴的に示そうと試みているのを、よくごらんになってみてください。個性的に形作ろうという苦心が入り込んでいるのが見られますし、さらに、明暗もまた入り込んでいるのも見られます。個性化によって空間を形成しようと試みられているのが見られるのです、遠近法はまだまったく存在しないのですから。人物たちへの視線の出発点となる点を想定しようとすれば、みなさんはそれをずっとこの前方に考えざるを得ないでしょう。ここに置かれている棺への視線は、また別の場所に考えざるを得ないでしょう -- さらに木々に対する視線となると!これらの木は完全に正面図で描かれています。

 さて、私がみなさんに示したかったのは、前回ここでイタリア絵画の作品においてすでにお話しした、規則的な進化衝動、この進化衝動が、深いところで作用していること、そして、十五世紀以来、この現代に特徴的なものとして到来するものは、十五世紀初頭にアトランティス後第四時代と第五時代の間の境目となったあの転機の意味深さすべてを明確に知るときにのみ理解できるのだ、ということです。ヨーロッパがその本質の深みから別のものを形成しなければならなかったために、ヨーロッパには形成できなかったものが、九世紀以降押しとどめられましたが、その後、ここで形を変えるものが、ヨーロッパの出来事と生成全体のなかに生きるのです。東に留められたものは、その期間、待機しました。そして、そこで待機し、西において表面に出てこようとしたものについての意識を、今日(こんにち)、獲得しなければなりません。と申しますのも、これらの力はなおも歴然と存在し、現代の出来事のさなかで力を振るい、依然として活動しようとしているからです。世界を通じて脈打っているもの、世界で活動しているものについての明確な理解を獲得すること、これが現代にとってさし迫った急務なのです。今もそうですが、私はこのことをもうずいぶん長い間、繰り返し繰り返し強調してきました。特徴ある時点での中世の芸術の発展を通して、きょう私はみなさんにこのことをはっきりと理解していただきたかったのです。おわかりのように、ここで、打ち寄せてくるふたつの出来事の波、とでも申し上げたいものに思い至ります。ひとつは、まだいくらか東方的なものを南からもたらす波、もうひとつは、いわば深みそのものから上昇してくる波です。この十三、十四、十五世紀という世紀、この都市の自由の世紀に、魂の深みから表面に出てこようとしたものが、きわめて強く作用しました。次いで十六世紀から、再び反動がやってきて -- 進化は波動を描き、揺れ動きますから -- これがやがて、むろんすぐにではありませんが、外に向かって目に見えるようになります。と申しますのも、ここでみなさんに、十五世紀にやってくるものとして提示したものの続きは、一方ではファン・エイクのなかに、他方ではデューラー、ホルバインなどのなかに生きているからです。

 私たちは、一方においてはネーデルラント、ブルゴーニュまで、他方においては、ニュルンベルク、アウグスブルク、バーゼルまで目を向け、そこに到来しようとしたものの影響の名残を見、アトランティス後第五時代を導くために魂の深みから湧き上がってくる波を見るのです。

 きょう私は、このアトランティス後第五時代の諸衝動のひとつだけをみなさんに紹介しました。ほかの衝動については、まさに今いろいろな機会にお話ししなければなりません。