ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第2講-1

ルネサンスの三人の巨匠

レオナルド ミケランジェロ ラファエロ

ドルナハ  1916/11/1


 偉大なルネサンスの巨匠たちの時代へと流れ込んだあの時代の芸術を、しばらく前にここでご覧に入れましたが、あのときの考察が行き着いたところは、その後レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロによって壮大なしかたで総合されたものへと、芸術的感情世界のなかでつながっていく結びつきを示すということでした。この三人の偉大なルネサンスの巨匠とともに、むろん芸術的な意味においてですが、芸術的にその兆しを告げるアトランティス後第五期の黎明のなかに、新たな時代の出発点が見出されます。この時期はまさしく、このアトランティス後第五期の始まりにあたります、つまり1452年にレオナルドが生まれ、1475年にミケランジェロが、1483年にラファエロが生まれ、レオナルドは1519年、ラファエロは1520年、ミケランジェロは1564年に死にます。ここで私たちは出発点に立っているのです。けれども同時にこれらの芸術家のなかには、まさに先行する精神潮流の完結、総合のように観察されうるものもいくらか含まれています、この先行する時代がいかに芸術的なものへと流れ込んだかを観察できるのです。とは言え、ここで考察されるものについて、今日の時代、まったく直接に理解するということはできません。と申しますのも、今日の時代にあっては、芸術というものはいわば、あまりにひどく追放されている、あるいは少なくとも --- これを批判と結びつける必要はありませんが ---共通する精神生活から追放されているからです。芸術史的に見るひとが、芸術をまるごとの精神生活のなかにもう一度据えようとすると、欠陥のように思われるということさえしばしばあるほどです。と申しますのも、そうすることによって、本来の芸術的なもの、美的なものから遠ざかり、内容的なもの、題材的な[stofflich]要因に大きな価値が置かれすぎる、と勘違いされているからです。決してそのように思われてはなりません。そもそもこういう違いがこれほど大きな意味を持ち始めたのは、現代になってからのことです。人間の感覚全般にとって芸術的な理解がもう少し育成されていたかつての時代にとっては、そういう違いはそんなに直接的な意味を持ちませんでした。昨今、描写として、造形的な描写として人間の感覚の前に登場してきた醜悪さのすべてによって、本来の芸術的な理解がいかにひどく根絶やしにされてしまったか、ここで私たちは忘れてはなりません。任意の《いかに》[Wie]のなかに《何を》[Was]を感じ取ることがヨーロッパにとってある意味でどうでもよくなることによって、《いかに》[Wie]に対する理解がどれほど失われてしまったか、見誤ってはならないのです。こうして、きわめて広範囲にわたって芸術的な理解全般がひどく失われてしまいました。

 私たちがきょうまた取り上げねばならない時代がどのようなものであれ、このようなかなり古い時代にとって、ラファエロやミケランジェロやレオナルドのような芸術家は、単に一面的に芸術家であるということはまったくなく、その魂のうちに精神生活をまるごと担い、精神生活から、彼らの時代の精神生活から創造していた、ということについて語られねばならないならば、それは彼らがこの精神生活から題材[Stoffe]を取り出したという意味ではありません、そうではなく、彼らの創造活動の特に芸術的なもののなかへ、形態[Form]付与と色彩付与のなかへとまさしく題材が流れ込んだということ、当時の世界観と名づけられうるものの独自性のなかへと流れ込んだということです。現代にとって、世界観とは諸理念の総計です、つまり彫刻したり描いたりすれば、形(フォルム)や色その他のなかに当然ながらあまさず具現されうる、芸術的な把握にとって最大の野蛮さを示している諸理念の総計なのです。これと関連して、ほかでもない私たちのの人智学的発展の内部に、いわば繰り返し戒めなければならないことがあります、と申しますのも、ほんとうの意味で芸術的なものという感情が、私たちのグループ内のどんなところにも広がっているというわけではないからです。今もぞっとしながら思い出すのですが、私たちの神智学運動の初期の頃、ある男がベルリンにやってきました。彼の描いた、菩提樹下の仏陀という一枚の絵のコピーを携えていました。さてなるほどその絵では、樹の下にぼろぼろに崩れたような人物が座していましたが、この男は芸術について、 --- 陳腐な表現をお許し下さい、でもこの場合こういう言い方ができるのです --- まる一週間草を食んだ牡牛が日曜日について理解する程度にしか理解していませんでした、この男は、何らかのモティーフであるものを据えさえすれば、それがその何かを表すのだ、と考えていたのです。それはこういうことでもありました、つまり場面全体を--- 菩提樹下の仏陀を --- 思い描くひとはそれを見ることができるのだ、というわけです。けれども、それが現れてきたとき、そもそもなぜそういうものを作り出そうというのか、それについてはまったく根拠がないのです。

 けれども、レオナルドや、ミケランジェロや、ラファエロの場合、彼らがその魂のうちに、当時イタリアの文化を貫いていた感じ方をまるごと担っていたことについて語るなら、それはなにか別のものでした。と申しますのも、彼らにおいては、芸術上の描写のしかたにこの文化が入り込んでいて、この文化に対する感情なしに彼らを考察しても、この芸術家たちを完全には理解できないからです。今日、ほんとうに奇妙なことが信じられています。例えば、ミサ聖祭についてまったく何も知らなくても、誰かがゴシック教会を建てることができると思われているのです。実際には教会を建てることなどできません。三位一体のなかに生きているとされるものについて、何ら感じるところのない人でも三位一体を描くことができる、と思われています。こういうことが今日芸術をわきへ押しやっているのです。他方、単に今日芸術において持たれるような感情や美的な見方だけで、ラファエロあるいはミケランジェロあるいはレオナルドについて批評できると思うなら、特別に芸術的なものを理解することはやはりできません、と申しますのも、彼らの感情と感じ方全体が、今日までにそうなったものとは異なったものだからです。彼らの場合まさに自然に即して--- きょうはこれ以上申し上げられません、ほんとうに語るべきことを語るためには多くの時間が必要です---、彼らの場合まさに自然に即して、彼らはその時代の感じ方すべてのただなかに生きていたということです、ですからキリスト教がその興隆の時期にとった特徴を理解しなければ、彼らの創造を理解できないのです。ひとつ考えてもみてください、このキリスト教はイタリアにおいて十五世紀の終わりに、十六世紀の初頭に、法王たちのもとにさえこのような人物たちを見出したのです、実際彼らについて、まだまったく敬虔主義者などでない人なら道徳と呼ぶものについての素朴きわまりない要求にただ満足していた、などと言うことはできません。宗教的なもののまったく大多数についても同様でした。キリスト教的と呼ばれるもののなかに、特別に道徳的[moralisch]な衝動を生かそうという要求は、当時においては比較的失われていました。他方、のちに敬虔主義的な、道徳化する流れのなかにふたたび現れたものがまさにこのように失われたことによって、そして、ついこの間アッシジのフランチェスコについてお話ししたもの--- そのなかには、キリスト教に対する別の感情、たとえばアレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世に従っていた人々を満たしていたものとは別の感情が生きています--- とはやはり違うものが生じてくることによって、生きていたのです。けれども、キリスト教の伝承であるもの、ゴルゴタの秘蹟に結びつく理念と観照であるもの、これに眼差しを向けますと、これらの観照、これらの理念--- ここでは理念のなかにイマジネーションをも含めて理解しております--- は、今日ではもはや想像もつかないような強度をもって彼らの魂のなかに存在していたのです。彼らの魂は、彼らの世界のなかに生きていたのと同様、ゴルゴタの秘蹟に結びつくこうした表象のなかに生きていました。そして彼らは、自然もまたこの世界のなかに据えられているのを見ました。はっきりと理解しておかなければならないのは、あの時代にとっては、この地球のきわめて洗練された人々、西側半分にはこの人々についてまだ知られておらず、あるいはようやく知られ始めたけれどもまだ深く考慮されていなかったのですが、こういう人々にとっては、世界の中心であったということです。地球の表面からずっと下降していくと地下の世界を、少し上昇しさえすれば地上を超えた世界を見出しました。こう言ってよいかもしれません、あの時代にとっては、あたかも、人間の腕を上げさえすれば、地上を超えた存在たちの足を手でつかむことができるかのようであった、つまり天はまったく地上的なエレメントのなかに入り込んでいた、と。地上を超えたおよび地下の霊的なものの間の人間を取り巻く感覚界との共鳴、このように観るという感覚のなかには、自然観ということも含まれるのです。

 さてこの時代から、ほかならぬルネサンスの三大巨匠が聳え立っていました。そして、あの時代から登場し始めたものそしてさらに登場してくるであろうものすべてを、いわば萌芽のなかに含むようにすでに自らのうちに有していたひと、それはレオナルドでした。

レオナルド

 レオナルドは、後の時代の感情にも、前の時代の感情にもまったく同様に方向づけられた魂を担っていました。レオナルドは魂のなかに、まさしく霊的なヤヌスの顔を持っていたのです。レオナルドは、教育、生活習慣、そして彼が見たものを通じては、その感情とともに古い時代のなかに入り込んでいますが、近代になってようやく上昇してくるあの世界観への力強い衝動も持っています、世界観の広さというよりはこの世界観の深さへの衝動です。私が講義で行いましたさまざまな示唆からみなさんにもおわかりと思いますが、ギリシア人、そしてそもそもその後のアトランティス後第四の時代も、のちの時代とはまったく別様に、まったく異なる源泉から生というものを熟知していました。この時代の彫刻家は、今日私たちがエーテル体を呼ぶ力、そういう力として自分自身のうちにあった諸力をなおも知覚することによって、人間の姿を内から熟知し、そしてこのように形態を感知すること[Erfuehlen]から創造していました、ギリシアの芸術家にいたってはなおのこと、この感知から制作していたのです。この能力は途絶えました、そして外的に観ることによって事物をまた受け入れるという外的な能力が登場しなければなりませんでした。その結果、自然を感知し理解することを余儀なくされたのです。私はみなさんに、深い感情から自然を感知しようとした最初の人々のひとりがほかならぬアッシジのフランチェスコであったことを示しました。今度はこの自然の感知に加えて包括的な意味での自然理解を求めた最初のひと、それがレオナルドだったのです。以前の人々とちがって彼にとってはもはや、内から追求する諸力として人間自身のなかで働くものはありませんでしたので、彼は、観ることによって外から追求しようとしました、外的に観ることによって、もはや内的な感知によってはよく知り得ないものを熟知しようと試みたのです。アッシジのフランチェスコに対してレオナルドを際立たせたのは、自然感知[Natur-Erfuehlen]に対する自然理解[Natur-Verstehen]というものでした。理解というものを目指すレオナルドの精神の成り立ち全体もこれを前提としているのです。そして語られていること--- これを字義通りとる必要はありません、そもそも根源を語っているのは多かれ少なかれ伝説だけですが、それでもこの伝説は真実に基づいているからです---、つまり レオナルドが、特徴ある人間の顔を手がかりに、観照によって人間の力機構の働きを内なる体験にしようととくに苦心した、ということには、いくらか真実があります。人間の本性がいかに形(フォルム)のなかかへと働きかけているか、いわばその人間を見通すために、彼がとくに特徴ある姿をしばしば一日中追いかけた、ということにも、いくらか真実があるのです。農民たちを招いて、彼らの好物を食卓に並べ、彼らに物語りをすると、彼らが笑いと顔の緩みのあらゆる可能な状態のすべてを示すので、それを研究することができた、というのも、まったく真実に基づいています。メドゥーサの顔を描きたいと思ったとき、彼はありとあらゆる醜いヒキガエルや似たようなものをアトリエに運び込み、特徴ある動物の顔を研究したということは、伝説的に語られていることではありますが、秘密に満ちた自然の創造を自然の諸力のなかに聞き取るために、いかにレオナルドが試みなければならなかったかを示しています。と申しますのも、レオナルドは事実、自然理解を求めた人間だったからです。

 彼はまた、人間の生活のなかにも入り込んで働きかけることのできる自然力を広い意味において捉えようと苦心していました。彼は単にきわめて狭い意味での芸術家だったのではありません、彼の場合、全人から芸術家となっていたのであり、変転する時代のさなかに、全人が立っていたのです。彼はたとえば、フィレンツェで、舗装が徐々に持ち上がって地面に深く入り込んでしまったサン・ジョヴァンニ教会、これを持ち上げようとしました。今日ではたやすくやり遂げることができるでしょうが、当時は見込みがないと思われていた課題です、彼はこの全体を持ち上げようとしたのです。今日ではこのような課題は、ヘルマン・グリムが正しく気づいているとおり、単にコスト計算の問題となるかもしれませんが、当時それは天才的な理念でした。レオナルド以外の誰もそれが可能だとは思わなかったからです。レオナルドは、人が空中を飛ぶことのできる器械を組み立てることや、広い沼地を干拓することを考えていました。彼はエンジニア、機械工であり、音楽家でした、精神的な交際においては当時の教養人にして学者であり、当時レオナルド以外の誰もそれで何かを始めるすべを知らないほど前代未聞の器械を組み立てたのです。

 つまり、レオナルドの場合、手のなかにまで続いていたものが、広い世界理解から作用していました。レオナルドについては実際、彼はその時代全体の変動する力を自らのうちに担っていたのだと言うことができます。彼は、当時イタリアにおける大変動のなかに現れていた時代を自らのうに担っていたのです。さらに、彼の全人生、レオナルドの芸術的生も含めて、彼のこの根本特性の現れであったとも言えるかもしれません。イタリアの生活環境から成長したにもかかわらず、実際のところ彼はそもそもイタリアに定住しておりません。なるほど彼はフィレンツェ人でしたが、フィレンツェでは青年時代を過ごしただけで、ロドヴィコ・スフォルツァ大公からお呼びがかかったために、フィレンツェからミラノに移りました、これは一種の宮廷娯楽師としてであって、今日考えられるかもしれないような偉大な芸術家、今日の私たちにとってレオナルドがそうであるような芸術家として呼ばれたということではまったくありませんでしたが。レオナルドは馬の頭骨から楽器を造り、それで音を出したり、非常なユーモアでもって、まさにそれすることによって、ほかのさまざまなものによってと同様にミラノ公の一家を楽しませることができました。彼が一種の宮廷道化師のような役回りをさせられていたと言うには及びませんが、まさに宮廷を楽しませる宮廷娯楽師として実際彼は呼ばれたのです。彼がミラノでそのほかに行ったことについてはのちほどお話しするでしょうが、これを彼は、ほんとうにその本性の最も内なる衝動から行いました。けれども彼は、これらの業績を成し遂げるために、まずもってスフォルツァの宮殿に引き寄せられたわけではありませんでした。彼はミラノに住み慣れたにもかかわらず、のちにフィレンツェにもどったとき、ミラノへの勝利を讃えたと伝えられる闘いの絵{アンギアリの闘い(119)}を描きます。--- それから私たちは、彼がフランスの宮廷で生涯を終えるのを見ます。

 レオナルドがもともと目指していたのは、その時代の人間において彼の興味を惹いたものを見たり感じたりすることだけでした。当時あれほど複雑であった政治的出来事は、多かれ少なかれ彼の傍らを通り過ぎていきました。彼はどこででも人間的なものの一番上の層をそこから取り上げるのです。彼は多くの関連で冒険家のように自然に感銘を与えさえします、まさに巨大な天才を備えた冒険家のように。つまり彼はその時代全体を自らのうちに担っていて、彼の造るものはその時代全体の感情から生み出されますので、これを私たちは年代順に上映するのではなく、自由な秩序から上映したいと思います、まさにレオナルドの場合は、彼がいかに一挙に[aus einem Wurf heraus]創造しているかを見るほうが重要だからです。ですから年代順というのはあまり問題ではないのです。

 ルネサンス的なものをレオナルドと共有しているものの、まったく別の性質を持っているのはミケランジェロです。


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