ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第2講-2

ルネサンスの三人の巨匠

レオナルド ミケランジェロ ラファエロ

ドルナハ  1916/11/1


ミケランジェロ

 レオナルドについて、当時の時代全体をその胸のうちに担い、その時代をその深さの全てにおいて、またその後数世紀経過してようやく生じてくる諸力をもって用いてしまったがゆえに、彼はしばしばその時代と不調和にもなり理解されないままにとどまっていると言うことができるなら、ミケランジェロについては、彼はほんとうに当時のフィレンツェを自らのうちに担っていた、ということができるでしょう。とは言え、フィレンツェとは何だったのでしょうか?フィレンツェは実際、ある意味で当時の世界秩序が濃縮されたもの[Konzentrat]でした。そしてこのフィレンツェをミケランジェロは自らのうちに担っていました。彼はフィレンツェをこんな具合に自らのうちに担っていました、つまり、彼はレオナルドのように政治的状況から遠ざかるのではなく、当時政治上であれほど紛糾して起こったこと--- そして当時全世界秩序が政治的なもののなかに入り込んでいました--- 、彼の時代の上昇する局面において起こっていること、これが繰り返し彼の魂のなかへと働きかけた、と言うことができるほどに、フィレンツェを担っていたのです。そして繰り返しローマに行くたびに、ミケランジェロは彼のフィレンツェをローマまで担って行って、フィレンツェ的感情をローマ的なもののなかに描き、形造ります。レオナルドは事物のなかに彼が創造した世界感情を持ち込みます。ミケランジェロはフィレンツェ的感情をその芸術創造のなかに持ち込むのです。彼はフィレンツェ的感情をローマにまで携えていきます。彼はローマにおいてフィレンツェを再生させることで、いわば精神的に芸術家としてローマを征服するのです。ミケランジェロは、彼の生きた時代にフィレンツェで政治的状況から起こることを体験します。これは彼の人生の連続する時代のなかにも見ることができます。

 彼はその経歴の初期、非常に若いときに偉大なメディチを初めて知る、と言ってよいかもしれません。彼は偉大なメディチ{ロレンツォ・デ・メディチ、ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大な人)と呼ばれた}のお気に入りとなり、彼を通じて、当時フィレンツェで精神生活のなかに受け入れることのできたすべてへと高められます。古典芸術と古典芸術様式について当時フィレンツェで研究することのできたものを、ミケランジェロはメディチ家の保護のもとに研究しました。そして彼の最初の作品をメディチ家の保護のもとに制作しました。そして彼はこのパトロンをとても愛していて、彼自身の魂のなかで、このメディチ家のパトロンの魂のありようと一体となっていました。その後彼は、自分のパトロンの息子たちはまったく別ものであると体験することを余儀なくされました。なるほど野心的な心情からではあっても、この心情から自由を与え、フィレンツェにとって偉大なことを成し遂げたこのパトロン、彼が1492 年に死んだのです、するとその息子たちは、大なり小なり月並みな暴君であることが露呈しました。この急変をミケランジェロは比較的早い時期に体験しなければなりませんでした。彼は、その経歴の始めに、メディチ家の商魂により思うさま芸術を開花させるのを許された一方で、今やその商魂が政治的精神を誇示し、暴虐を求める、ということを体験しなければならなかったのです。そして彼は、のちに全世界を遅うものがフィレンツェにおいてまず小さな規模で示されていたことも体験しました。これは彼にとっては恐るべき体験でしたが、近代というものの変転全体とも関わる体験でした。

 こうして彼ははじめてローマに行きます。そして、彼はローマで、このフィレンツェの偉大さとして自分が体験したものを思って悲しみながら時を過ごす、と言うことができます。そして、ミケランジェロの形態(フォルム)付与がいかに感情におけるこの急変と関わっているかを見ることができます。フィレンツェにおけるこの政治的な急変がどれほど彼の心情のなかで作用を及ぼしているか、線のなかに至るまで認められます。そしてこういう事柄について感受性を持つひとは、ヴァチカンに見られる《ピエタ》(127)について、これはほんとうは悲しんでいるミケランジェロ、故郷を思い悲しんでいるミケランジェロに由来することに気づくでしょう。

 その後フィレンツェにとって良い時代がまた始まり、帰郷すると、彼はふたたび高揚した印象のもとにありました、けれども、この高揚した、というのはまさに、フィレンツェにはまた自由が到来していたからという理由からです。そしてこの変化した感情を、彼は《ダヴィデ》立像(129)の筆舌に尽くしがたいほど偉大な人物のなかに注ぎ込みます。このダヴィデのなかに生きているのは、伝統的な聖書のダヴィデではありません、このダヴィデのなかに生きているのは、押し迫る大都市主義に対する自由なフィレンツェの異議申し立て(プロテスト Protest)であり、この像の巨大さはこういった感情と関わりがあるのです。

 そして、システィナ礼拝堂の壁画を描くためにユリウス法王に呼ばれるとき、彼ははじめて正しい意味で彼のフィレンツェをローマへと携えていきます。いったい何をローマに携えていくのでしょう? --- このとき彼がローマに携えていくのは、ひとつの全体的な世界把握、新たな時代を示していると言える世界把握です、ローマにおいてミケランジェロがシスティナ礼拝堂のなかで世界生成と聖書の物語の生成のうちに創造するもの(127-133)のなかで、古い世界観が没落していく、と言うことができるのと同じくらい、新たな時代を示していると言うことのできる世界把握、そういう世界把握を携えていくのです。ひとつの世界をまるごとミケランジェロはローマに携えていくのです。彼は、当時ローマでは生じ得なかったもの、魂的にローマでは生じ得なかったもの、フィレンツェにおいてのみ生じることができたものを携えていきます。人間の預言的および巫女の能力のすべてとの関連における、太初から歴史的なものにまで入り込むこの世界連関の観照--- 私の以前の講義のなかに、まさにこういう事柄についての言及を見出されるでしょう--- 、この連関がフィレンツェでは感じ取られなければなりませんでした。と申しますのも、当時ミケランジェロが感じ取っていたもの、フィレンツェにおいてその高みに達していたものから感じ取っていたものについて、前の時代へと精神科学的に移行することなしには、今日もはや追感することはできないからです。ですから、こういう事柄について通常の美術史においてはこれほど多くのナンセンスが見られるのですーもはや追感することができないからです。ミケランジェロが創造したように創造することができるのは、こういう事柄をほんとう信じ、この事柄の内部にいる場合のみなのですから。ひとは世界の生成を描く、と言うことはよく言われます。今日でもそうできると信じている芸術家もいるでしょう。とは言え感じるところのあるひとは、それに同意することはできないでしょう、ミケランジェロがそのさなかに立つことができたほど、まるごとの魂生活をもって、そのなかに立つことのない者は、世界の生成を描くことはできない、という単純な理由からです。

 それからまたフィレンツェに行きますが、実際のところ、秘蹟的(サクラメント的)性格の代わりに商業的性格を置くとでも申し上げたい潮流によって追い立てられて、彼はフィレンツェに戻るわけです。なるほど重要な作品を制作させられ、メディチ礼拝堂(153-161)の中でも制作させられています。けれども、全体の背景には、実際ミケランジェロを企画すべてに対して悲観的な気持ちへと駆り立てた何かがあります。それはメディチ家称賛というものであり、そのうちに強大なものとなったメディチ家称賛は、当時フィレンツェにおいてよりフィレンツェ以外のイタリアにおいてまず起こったのです。

 そして、マラテスタ・バグリオーニの背信を通じてもたらされた状況によって、つまりマラテスタの再度の侵攻、フィレンツェでの自由の終焉によって、彼がまたもローマへと追い返されると、彼は、画家として直接、いわばひとりのフィレンツェ人の抵抗(プロテスト)から描くように、《最後の審判》のなかに、人間の個に逆らうものすべてに対する人間の個の、偉大な人類的抵抗を描きます(162-166)。これは《最後の審判》に彼の人間的な偉大さを、ミケランジェロの手から生み出されたまさに直接の発露であるあの人間的偉大さを与えています。今はその一部は完全に損なわれてしまいましたが。

 けれどもここでまた彼は、魂のあらゆる感情衝動のなかに深く深く飛び込んでゆくものを体験します。すでに彼は、彼の世界観像の発展にとって重要な意味を持っていた出来事から、すべてを体験していたのです!--- 今日抽象的にとられていますけれども、ミミケランジェロの魂のなかでまったく深い魂衝動であった重要な事柄を私は皆さんに示しました。これに付け加えなければならないのは、サヴォナローラの登場によってフィレンツェに起こった急変を彼が共に体験したということですね。これとともに、キリスト教全般に関連して当時を特徴づけていたものに対する異議申し立て(プロテスト)が、教会生活のなかで起こります。レオナルドにおいて実現され、その他多くの種類のあれほど自由な芸術精神[Kuenstlertum]、これはゴルゴタの秘蹟に連なっていたキリスト教の表象、つまり三位一体についての表象、晩餐についての表象、地上的なものと超感覚的なものとの関連についての表象が、道徳的な要素から引き上げられたことによってのみ発展することができたのです。これらの表象は、道徳的な要素から引き上げられて、イマジネーション的な性格を獲得していました、世俗的なものとともに働くときのような、ただし内部には聖なる姿を有した自由なイマジネーション的性格を獲得していたのです。それは道徳的なものから解き放たれて、客観的にされていました。そうすることによって、道徳的な表象から解き放たれたキリスト教的表象が、純粋に芸術的なものへと、まさに滑り込んでいくのです。まったく当然のごとく、それは滑り込んでいくのですが、それに加えて、この滑り込んでいった行き方のなかには、いわば道徳的なもののこうした逸脱というものも含まれます。サヴォナローラは、この道徳的なものの逸脱に対する偉大なプロテストです。サヴォナローラが登場します、道徳から自由な--- 私は、不道徳な、と言わず、道徳から自由な、と言います--- 芸術に対する、道徳のプロテストです。そして、サヴォナローラから発して、サヴォナローラが引き起こしたものから発してミケランジェロのなかにあるものをも理解したいと思うなら、サヴォナローラの意志することを研究しなければなりません。

 けれどもミケランジェロはさらにまた別のことも体験しました。その最も内なる心情において、実際のところキリスト教的に考える以外考えたことはなかったこのミケランジェロという人は、単にキリスト教的に感じただけではなく、世界秩序をもキリスト教的な意味で具象的に思い描いていたわけですが、彼は、キリスト教的な表象が客観的なものになっていき、それによってあれほど容易に芸術の領域に滑り込んでいくことができるようになった、とでも申し上げたい時代、そういう時代のなかに置かれていました。そういう時代に彼は置かれ、同時に彼は、宗教改革という北部のプロテスト、これは比較的速くイタリアじゅうに広がりましたが、そういうプロテストも体験したのです。それから彼は、カトリックの側から宗教改革に対する反宗教改革として起こされた全体的な急変を体験しました。彼は、当時のローマに、道徳的には高い位置にいないかもしれないけれども、カトリシズムに新たな形態を与えることにまったく同意していた自由な精神の持ち主たちが生きていたのを体験しました、この人たちは、サヴォナローラのようなことまでするつもりはありませんでしたが、カトリシズムに新たな形態を与えたいと思っていました、カトリシズムが当時宗教改革のなかに現れてきた形態をとることなしに、けれども持続的に自らを発展させていけるような形態をです。こうしてこの宗教改革は、サヴォナローラープロテストの別版とでも申し上げたいものとして勃発しました。このときローマにおいて人々は不安に駆られ、人々はかつての生を貫いて脈打っていたもの全てに別れを告げたのです。たとえばヴィットリオ・コロンナのなかに集中していたような理念には、ミケランジェロも大いに期待をかけていました。芸術的に高みに到達したものの道徳化、そしてこの道徳化されたカトリシズムを世界にゆっくりと新たに入り込ませようという理念です。ローマの権力者たち、カトリックの権力者たちは、今やこのまったく自由なカトリック的理念のなかに、イエズス会の原理を押し込み、パウロ4世が法王になりました。これをもってミケランジェロは彼にとって明らかに恐るべき何かを体験しました、まだ彼がキリスト教として知っていたものとの断絶が萌芽のなかに芽生えてくるのを見たからです。イエズス会的キリスト教が始まったのです。

 このようにそれは彼の晩年に入り込んでいきました。--- 私は彼がフィレンツェをローマに携えていったと申しました。

 ラファエロの場合はまた事情は異なっていました。

ラファエロ

 ラファエロがそもそもローマに携えていったのは、ウルビーノでした、ラファエロもそこから育ったこの地域のささやかな芸術家たちに目を向ければ感じ取ることができますが、不思議な魔法の息吹がかけられたような中部イタリアの東部です。好ましい顔、特徴ある足の置き方、姿勢全体を備えた彼らの作品のなかには、道徳化していく分野、禁欲的な分野においてアッシジのフランチェスコにかつて現れたものが、後の時代になって芸術的にそうなった、とでも申し上げたいものがあります。これが芸術的な形態と感情のなかに入り込んでいるのです。そこには、自然と人間への繊細な観照の独特の魔法の息吹が生きています。これはラファエロに生まれつき備わっていたものであり、さらに全生涯を通じて実際これをはっきりと打ち出します。そしてこの感情を彼はローマに携えていきます。私たちがこうした作品、絵画作品としてはやはり大部分がずいぶんと損なわれてはいますが、こうした作品が創造されたしかたのなかに身を置くなら、この感情は彼の作品から私たちの心情のなかへと溢れ出してきます。そしてラファエロがその魂のなかに担っているもの、それは、まさにウルビーノ的孤独とでも申し上げたいもののなかで発展したことによって、あの時代のなかにやはり孤独に存在する何かであり、ほかならあぬラファエロから人類の文化のなかへと広がっていったものなのです。つまり、ラファエロはこの要素とともに、時代の波に乗せられたように運ばれ、この要素を、芸術的な感情としてのキリスト教的感情の、この純粋に芸術的な完成を、時代の波に運ばれたいたるところで作用させたのです。これがラファエロの作品のいたるところに溢れ出していました。

 こう申し上げたいのですが、レオナルドは大いなる世界の出来事のそのなかに、その鋭い世界理解をもっていたるところで人を刺しつつ立ち、ミケランジェロは当時の政治的な理解の内部に立ってそれを明白な感情衝動にし、ラファエロはあらゆるものからあまり触れられないまま、時代の波に運ばれて、ほとんど言い表し得ないキリスト教的芸術的なものを、時代進化のなかにもたらすのです。これがルネサンスの三人の巨匠を区別すると同時にひとつにするものです、と申しますのも、彼らは、私たちに歴史的に現れてくるであろうルネサンス感情[Renaissance- Empfinden]における三つの要素を示しているからです。 


 

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