ここでまず、レオナルドの芸術作品を具体的に私たちに作用させてみましょう。
レオナルドの芸術作品
私たちはこの芸術がどのように現れてくるか見ていきましょう。ですから最初の絵として、レオナルドの素描的な作品をお見せしたいと思います、いかに彼がそのやりかたのすべてにおいて、私が特徴づけようとしましたこの自然理解から素描作品を生み出しているかを示したいのです。それから私たちは-- まったく歴史的にではなく-- 肖像的な絵を示し、それからはじめて彼の主要作品、《晩餐》に移りたいと思います、それから出発点において彼を表しているものへと戻ります。
最初に皆さんにレオナルドのよく知られた自画像をお見せしましょう:
|
|
まずこれはレオナルドの自画像のひとつです。もうひとつはもっとよく知られたものです。
|
|
さらにレオナルドの初期の作品から
|
キリストの洗礼 |
さて今度はカリカチュアの素描です。
|
|
ここで皆さんは、レオナルドがいかに素描したか、いかに彼が、まさに私が特徴づけようと試みましたやりかたで獲得した見方(観照)から、特徴的なものを取り出してカリカチュアとしたか、その手法をごらんになるでしょう。
こういうことに関してはレオナルドひとりだけだと思ってはなりません。似たようなことは、当時はもうほかの人によっても行われていたのです。ただその特別な天賦の才を備えていたのはレオナルドただひとりでした。けれども、かつて芸術において輝かしく変容させられたもの、かつての時代には高次の観照から生まれ、その後伝統的になっていったものに対して、このように特徴あるものを求めること、つまり、観照に現れる直接的に特徴あるものをこのように求めること、そして存在の個であるものにとって観照からとりわけ際立って働きかけるものを取り出すこと、これはすでに当時の求めだったのです。
これもまた素描ですが、死に神も描かれています。
|
|
ここでは実際のところ、モティーフよりも、骨格の描出を研究することなどにずっと重点が置かれています。
今度は特徴のある顔です。
|
|
そして風景の素描です。
|
|
|
|
この絵(93)と次の絵(94)は、レオナルドの仕事だと保証されてはおりませんが、レオナルドの特徴を備えており、まったく彼と関連なくその時代にあったとはいえないものです。
|
いわゆる《麗しきフェロニエール》 |
さてここで、皆さんがレオナルドの別の側面をごらんになる有名な絵です、まさにこの側面において、彼は、今まで素描を通じて皆さんに明らかになったもの、彼は特徴あるものをそこに形成しようと試み、個であるものを個別性において形作ろうとするのですが、そういうものとはまったく反対の極とでも申し上げたいものを求めているのです。
|
|
この《モナリザ》のようなものを創り出した芸術家が、カリカチュア的なものにまで至る別のものをも必要としているとは、ふつう考えられないでしょう。けれども私は、自然に即したもの、私たちの友人クリスティアン・モルゲンシュテルンはこの自然に即したものによって、彼の崇高な作品から、私たちも時おりカリカチュア的なものとして知っているものへと駆り立てられていたのですが、そういう自然に即したものについてたびたびお話ししたときに、このことを示唆しようとしたのです。それは、これほど完成したもの、円熟したものという場合に不可欠な、芸術家の魂におけるこの関連なのです、つまりカリカチュア的なものに至るまで特徴あるものを完成することを通じて、このような円熟したものを創造する力を求めるのです。
さらにまた別の絵ですが---まったく歴史に沿った順番ではありません---、これらをレオナルドは、円の完成を求める、まさに今述べましたこの仕上げを求める芸術家の特性のなかに示しています。
|
|
|
|
これはデュオニソス像、デュオニソス神です。皆さんは前に私が行いましたさまざまな講義のなかでこれについていくつかの示唆を見出されるでしょう。
|
|
続いて洞窟のなかの聖母と幼子イエスです。
|
|
さて、もちろんこれより前に制作されたものですが《晩餐》です。
|
|
これは、ミラノにおいて長期間(1495-98)サンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院内で手がけられました。この絵についてはしばしばお話ししましたね。ご存じの通り、ここでは、それまでに描かれた晩餐の絵--- ギルランダイオ(55)やその他の--- に対して、この《晩餐》に見られる芸術的な仕上げ全体における本質的な進歩が書き留められねばならないということです。この絵における全生命を観察してごらんになれば、あらゆる構成的なものにも関わらず、人物の特徴を表すものが強く前面に出ていて、そこにまさにレオナルドにおける完全に新しいもの---このことはもう最近強調しましたが---を見ることができるほどだということがおわかりになるでしょう。とは言え調和がとれていること、構成との特徴ある調和は、この絵においてきわめて驚くべきものにまでなっています。弟子たちの四つのグループがいたるところで同時にひとつの閉じた三つ組をなし、これらの三つ組みのどれもが、すばらしく全体に組み込まれています、色彩と光の展開のしかたのすばらしいこと!--- そしてこれが彩色の上でもいかに構成に入り込んでいるか、これについては一度注意を向けていただきました。絵全体の色を一緒に感じ取ろうとするなら、色が相互に補い合うように --- 私は補色として補い合うと言いたいのではありません、けれども全体を一緒に見るときは、補色に似たしかたで、実際に純粋な光が得られます、色が純粋な光となるのです--- 色が絵全体に分割されているとまったくもって感じられるなら、これは、全体を、レオナルドの創造の深い秘密を、それを通して直視させるものなのです。--- このことは、次の絵の彩色にも見られます。
|
未知の巨匠によりフレスコ画の複製 ルガノのポンテ・カプリアスカ、パロッキア |
以下は絵から取り出した個々の人物です、ワイマールでも見られる弟子たちのグループです。
弟子たちの頭部:
|
|
|
|
|
|
|
|
これはキリストの頭部、これより前の習作とされています。
|
|
|
|
さてこれはモルゲンの銅版画ですが(1800年完成)、この版画からは、実際もう完全に損なわれているミラノにある絵の今の状態から想像するより正確に構成を思い描くことができます。私たちのところでもしばしば語りぐさになりましたこの絵の運命のことはご存じですね。
|
|
|
|
|
|
|
《アンギアリの闘い》の中央の集団? ペーター・パウル・ルーベンスの チョークコピーによるゲラルト・エーデリンクの銅版画 |
さてこれらは、私が先ほど言及しましたレオナルドが彼の《戦闘画》として描こうとしたものの一部です。
みなさんがレオナルドをもう一度現実化してごらんになれば、どのみち確定しているわけではない年代順に見るのではなく、物事を今私たちがやりましたようにグループにまとめて自らに作用させてみるときに作用する何かを、レオナルドは自らのうちに有していることがおわかりでしょう。すると、レオナルドのなかにはまったくもってさまざまな潮流が生きていることがわかります。《晩餐》においてとくに現れてくる、特徴づけ構成に関わるもの[das Charakteristisch-Kompositorische]へと通じていくとでも申し上げたい流れ、これはそれだけで存在しています---、そして、この流れのかたわらにあるのは、このような構成に関わるものに通じるのではない流れ、あらゆる時代に現れてきた可能性があったにせよ、ただこの種の絵画はあらゆる時代に偶然に存在したのではありませんが、つまり《晩餐》(96)の前に示しました(88-95)ルーヴルの絵画に表現されているような流れです。これらの中には、この《晩餐》の構成的なものを思い起こさせるものは何も含んでおらず、円熟を目指し、ただ多かれ少なかれ特徴的であろうとしているような何かが表現されています。