ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第3講-2

中欧ー北方の芸術衝動を理解するための基礎
中欧ー北方の芸術と南方の芸術の対立と関係

デューラー及びホルバインに至るドイツの彫刻と絵画
ラファエロ

1916/11/8


  さてここで、言うなればローマ的傾向が中世的な衝動と合体する時代からまず出発点をとりたいと思いますので、ナウムブルクの大聖堂、ドイツのナウムブルクの大聖堂に見出せる人物像を見ていきます、当時の人々を表現している彫刻作品です。

349  ヘルマンとレグリンディス
 この彫刻作品のなかにみなさんは、みごとに魂的な表現が合体されているのをごらんになるでしょう、高度な完成--まさに最盛期ですので--、つまり南方からフォルム付与のなかに獲得されたものとともに、追求し得られた表現です。これをみなさんはとりわけ、この十三世紀のナウムブルク大聖堂の彫刻作品にごらんになるでしょうが、これらが属する時代は、中部ヨーロッパにとって、中部ヨーロッパ的感情と、ローマ的要素からフォルム付与のなかに受け入れられたものとのこの合体が起こるともに、同じ時代のもう一方の側面で、この中部ヨーロッパ的な感情が、ヴァルター・フォン・デル・フォーゲルヴァイデ{1170頃-1230}やヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ{1170頃-1220}の作品のなかに現れてくる時代なのです。それは今挙げました詩作活動の人物たちをも表面に駆りたてた時代なのだということを総括すれば、中部ヨーロッパを覆っていく流れ、文化潮流のひとつの像を実際に得ることができるでしょう。

 

350 ヴィルヘルム

 352  ゲーパ

351  ディートリヒ

353マリア、聖障の最後のもの

 まさにこのような仕事(353)には、この面差しにまで流れ込んだ魂的なものをみごとに見て取ることができます。

354 ヨハネ、これもナウムブルク大聖堂の聖障のもの

 典型的なものはどうにも流れ込みようのないまさに個人的で魂的な表現が、南方的なものから来るフォルム付与という点での高度な技術的完成と、ここで一体となっています。

 さてここで、もっとゴシック的な思考、ゴシック的な把握から生まれたものを私たちに作用させてみましょう、シュトラースブルクの大聖堂の彫刻です。

 

355 正門の預言者像

 この人物像はほかの像よりもずっと建築全体に適合しています。

 こう言ってよいかもしれません、ここでは表現は徹底して内から形作られている、しかし人物の形成全体は、さらに西方に進むともっと多数観察できるとおり、建築フォルムに呼応して引き出されている、と。

356 四つの枢機卿の徳

 この時代のとくに特徴的な傾向というのは、教会が打ち負かす者として表現され、そのためいたるところに、これらの打ち負かされた悪魔やその他のモティーフが見られることです。

 

357 キリストと三人の賢い乙女

358 誘惑者と三人の愚かな乙女

359 教会(複製)

 これはつまり、こういう女性像によってシュトラースブルク大聖堂《教会》、キリスト教会が表現されているのです。

 さてここでは、目隠しされた驚くべき身振りのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が教会に対置されています。

      

360 シナゴーグ(複製)

361 同、部分 胸像

 単に頭と独特の表情だけでなく、身振り全体を心に刻みつけていただくようお願いします。《教会》と《シナゴーグ》がいかにすばらしく魂的に対照されているかみなさんが比較できるように、もう一度《教会》全体を見てみましょう。

 さて、南方的なものと中部ヨーロッパ的なものの共同作用のさらなる例として、今度はケルンの芸術からいくつかの実例をごらんいただきましょう。よく知られていない《ケルンのマイスター(親方)》--しばしば彼はマイスター・ヴィルヘルムと呼ばれます--は、まったくもって動きから生み出されたフォルムとともにこの下の人物をごらんになれば、このなかになおも見出せます通り、きわめて精妙な記号付与およびフォルム付与を、表現の親密さと高度に一致させています。

237  ケルンのマイスター ヴェロニカのハンカチ(聖骸布)

 名高いマリア像、《豆の花を持つ聖母》が同じマイスターの同じ源泉に由来するということはよく知られていますね。

 

238 ケルンのマイスター  スイートピーの花を持つ聖母

 これより、以下のどの絵画においても、これらのマイスターたちが、単に面差しやその他の身振りのなかだけでなく、とりわけ手の形成全体のなかにも、魂的なものを、真に魂的なものを、形作り仕上げることをかなりの程度愛好しているということに注意していただきたいのです。つまりこの時代は、ほかの時代よりもずっと、手を魂的に形成し仕上げることに取り組んでいます。こういうことを申しますのは、まさにこの傾向がデューラーにおいて特別な高みに到達するという理由からですが、彼は真の喜びとともに、魂的に手のなかに表現されうるすべてを表現するのです。私たちはこのケルンのマイスターに、南方的なフォルム要素の、中部ヨーロッパ的な魂的なもの、心情に親密なものの要素によるきわめて純粋な浸透というものを実際見出し、そしてすぐこれに続いて、コンスタンツからケルンに来たマイスター、シュテファン・ロホナーにおいて、ほかならぬこのマイスターはちょうどこのふたつの実例に示されているものについてきわめて多くを学んでいるにもかかわらず、ここでもまた表現要素がフォルム要素に反抗しているのを見ます。

239 シュテファン・ロホナ  聖なる王たちの礼拝 ケルン大聖堂内

 シュテファン・ロホナーは、表現の芸術のなかにしっかりと根ざすことで、ある種の革命的な抵抗をもって、ケルンにおいてほかの人々やその弟子たちから彼が学び得たものにぴったり寄り添うとでも申し上げたい人です。

240  シュテファン・ロホナー  磔刑

241 すみれを持つ聖母

 つまりこれは、前に示されたものにつながるものです、ぴったりと寄り添うにも関わらず、まさにこの新たなきっかけを、内からの創造を有しているロホナーです。これは1420年だということだけ述べておきたいと思います、このときロホナーはケルンに行くのです。そこで多かれ少なかれロホナーにとって教師となった人、彼を先ほど《ヴェロニカ》と《スイートピーの花を持つ聖母》(238)で示しましたが、彼は1410年頃に死にます。その後1420年にロホナーがケルンに行くのです。

 

242 シュテファン・ロホナー 薔薇垣のなかの聖母

 このすばらしいロホナーの絵《薔薇のなかの、薔薇の四阿のなかの、薔薇の垣根のなかの聖母》、みなさんがこの絵のなかにあるすべて--天使たちの姿の途方もない可動性、可動性を絵全体にも付け加えようとする試み!--を検討されるなら、私たちはここで与えることができるのはもちろん明ー暗のみですが、これにさらに付け加わるものは、色彩付与です。聖母子を見下ろしている父なる神の見えるヴェールの広がりを通して、可動性が絵のなかに入り込んでいくさまをごらんになれば、また、天使たちのそれぞれがその使命を果たしそれを通じて途方もない動きが入り込んでいくさまをごらんになれば、この絵は動きから生み出された構成[Komposition]となるでしょう、他方、南方の衝動は、構成的なものにまず静けさを与え、北方的な衝動がそれと結びついてはじめて運きが入り込んでいく、と言うことができます。このロホナーの絵のなかに根源的に、内的な動きのなかにあるすべてをごらんになれます。

 さてここで、西から、フランドルから刺激を受け取ったあるマイスターからいくつか実例を示したいと思います、西方の刺激をありありと示している彼、つまりショーンガウアーは、1450年から1491年まで生きましたが、みなさんは彼のなかにも同じ芸術傾向--ただしフランドルからの西方的影響をともなった--を観察することができるでしょう。

249 マルティン・ショーンガウアー  薔薇垣のなかの聖母

 これによってずっと写実的な要素が付け加わっていくのにご注意ください。

250 マルティン・ショーンガウアー
キリストの誕生

253 マルティン・ショーンガウアー
聖アントニウスの誘惑

 非常に写実的に捉えられた、徹底して個人的な、本質的なものにおいてヴィジョン的な絵、銅販画です。

 これは同時にまた、きわめて正確に働きかけるイマジネーションであり、このような芸術家が、まさに誘惑の内容を形成する人間的情熱をこのようにまったく具体的に具現化し、また真に人間的な姿と並んで、誘惑が私たちにやってくるとき、事実アストラル体のなかにリアルに生きているものを{絵のなかに}置くことを可能にするのです。

 さて続いてよく知られていない《上部ラインのマイスター》です。

254 上部ラインのマイスター 聖アントニウスの誘惑

 これもまた聖アントニウスの誘惑です、これは1470年からおよそ1528年まで生きたグリューネヴァルトの方法に従うものですが、グリューネヴァルトにおいてみなさんは、今までの努力のなかに合流するものの頂点、つまり最高度の力量、技術をともなった真に個人的な表現、これは多くの点でショーンガウアーよりも南方のファンタジーに影響されているのですが、そういう表現に驚かれることでしょう。両方の《誘惑》を互いに比較してみるのはとても興味深いことです。両者はもちろん同じものを描出しているのですが、一貫して次のように見ることもできるかもしれません、つまり先の絵(244){253?}は、一日のうちに誘惑として現れるもの、と私は言いたいのですが、そういうものとして捉えられ、こちらの絵(245){254?}は、その翌日に誘惑として現れるものとして捉えられる、と。けれどもここで重要なのはまったくモティーフではなく、グリューネヴァルトに近いところにいるこの芸術家が、前者よりもよりさらに高い完成度を真に示している芸術的なものそのものなのです。

 

255 マティアス・グリューネヴァル
十字架を担うキリスト

256 マティアス・グリューネヴァルト
磔刑

 コルマールの名高いイーゼンハイム祭壇の中央部の絵です。表現から出て最も小さな細部に至るまで入り込んでいく特徴づけに注意してください。動物さえも姿勢全体に関与しています。魂が手のなかに流れ込んでいるのをじっくりとごらんください。

257 マティアス・グリューネヴァルト 
聖アントニウスの誘惑

 イーゼンハイム祭壇の一方の翼の絵です。これはまた別の《聖アントニウスの誘惑》です。

258 マティアス・グリューネヴァルト 
荒野のアントニウスとパウロ
 

 イーゼンハイム祭壇のもう一方の翼の絵です。

 

260 マティアス・グリューネヴァルト キリストの埋葬

 259 マティアス・グリューネヴァルト 人物群

 イーゼンハイム祭壇の飾り台、つまり下の部分です。これらの絵は、きわめて完成された人物(の特徴)描写の芸術作品です。

 

261 マティアス・グリューネヴァルト キリストの復活

 これもイーゼンハイム祭壇の一部です。

 つまりグリューネヴァルトは、十三世紀から十五世紀を経て十六世紀に至るまで徐々に発展しながら到来するのを私たちが見るもの、そういうものの頂点をある意味で示している人かもしれません。

 


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