ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第3講-3

中欧ー北方の芸術衝動を理解するための基礎
中欧ー北方の芸術と南方の芸術の対立と関係

デューラー及びホルバインに至るドイツの彫刻と絵画
ラファエロ

1916/11/8


 今度はまったく別種の要素に移りましょう、これは比較的力量には乏しいにしても--と言うのはグリューネヴァルトには強固にして偉大な力量があるからですが--、私が先ほど、特徴づけにおける革命的なものと呼びました、まさにそういうものを表現しようという試みがなされています。私たちがこれから見ていきますのは、申しましたように力量には乏しいにしても、革命的な衝動の表現のなかに、魂的なもの、つまり魂が外に向かい日常生活のなかから示すような魂的なものを生み出す芸術家です、--このようなことが内部で活動している芸術家、つまりルーカス・クラナハ(父)です。

 

262 ルーカス・クラナハ(父) 若返りの泉

265 ルーカス・クラナハ(父) マリアと幼子
 

 これは聖母であるにしても、このなかにみなさんはまさに最も純粋な宗教改革の気分を得ることでしょう、徹底した宗教改革の気分、すなわち、人間的なものがほかのどんな配慮をもはるかに圧倒しているのです。母に続いて幼子もじっくりとごらんになってください。

  

266 ルーカス・クラナハ(父) 逃避中の休息

264 ルーカス・クラナハ(父) 聖母

 これはクラナハの別の聖母です。

 

268 ルーカス・クラナハ(父)磔刑

263 ルーカス・クラナハ(父)
ユーディットとホロフェルネスの首

269 ルーカス・クラナハ(父)
十字架のキリストの前の
アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク

  この人が描かれているのは、彼がいかにキリストを敬っているかを示そうとするためです。両足で地に立っている人は、キリスト崇敬のこの魂的な意志衝動を現していますが、この魂がまさしく人間の心情のなかに表現されるように捉えられています。この男、キリストを敬うアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクとは誰かということも知られていると思います。

 さて今や、まさに厳密な意味での中世的な芸術家、アルブレヒト・デューラーに行き着きました。

 

270 アルブレヒト・デューラー 自画像 マドリッド

 これは若い頃のものです。

 こちらは後年の自画像です。

 

271 アルブレヒト・デューラー 自画像 ミュンヘン

 ここでもまた手をよく見てください、そしてこの絵においては、まさに明ー暗の作用を特別なしかたで引き出すために頭髪が配置されているようすをじっくりと見てください。

 

286 アルブレヒト・デューラー  聖三位一体

 さてこれはデューラーの《聖三位一体》--父、子、および聖霊--です、これはデューラーの解釈ではありますが、もとは時代全体の精神から生み出され、当時の思考のすべてに広く波及しながらも、当時に支配され、或る意味で捉えられた解釈です、ちょうどデューラーがこれを完成させた時代に、事物を線描的に、けれどもいたるところで--みなさんがよく見てみようとなさるなら--いたるところで、線描的なもののなかですら、明ー暗のなかに独特なしかたで働きかけつつ、そして構成的なものを秩序づけつつ、捉えていたように。

 さてここでもう一度、確固とした理由から、みなさんよくご存じのいわゆる《ディスプータ》を見てみましょう。

 

286a 197 ラファエロ 1511年の《ディスプータ》

 ご存じのようにラファエロに《ディスプータ》において特徴的なことは、下の部分に、神学的真実を自らのうちに受け入れようと活動している神学者たちの集団があり、この集団に向かって三位一体の啓示--父、子、聖霊--が入り込んでゆく、というものでした。私たちはいわば三つの階を見るのです、上部ではますますいっそう霊的な存在たち--死を通過した者たち--、決して受肉しない者たちが上昇していき、下部では構成が南方的なしかたで配置されているのが見られます。私たちは、根本思考が、静けさ、並列配置という構成的なもののなかに置かれているのを強く印象づけられます。動きさえも静けさのなかに流れ込んでいるのです。--さて今度は、このよく知られたすでに話題となった絵から、ほぼ同時期にデューラーによって描かれた1511年の聖三位一体の絵に移りたいと思います、どうぞこの絵を、たった今みなさんにごらんに入れた絵と構成という点で比較してみてください。三つの階、そして突出したしかたで描き出されているのは、動きの構成的なものから発してこの絵を、先ほどの、同じ時期に生まれた南方の絵から区別するものです。この絵はウィーンにあります。ここに小さな彩色複製があります。そうしたい方は、後ほどこの絵の小さな彩色複製をごらんになることができます。色彩の複製はもちろんひどいものです。けれどもこの絵に見られる色彩についての印象を得ることはできるでしょう--むろん実際の絵に見られる色彩ではありませんが。

 

286 アルブレヒト・デューラー 聖三位一体

 たとえばこの構成の創造に際して、デューラーは、南方で彼が受け入れたものに影響されたというのは正しくありませんので、ぜひとも退けねばならないことです。逆に、南方の画家たちが、デューラーの構成のみならず、北方の構成的なもの全般に影響されていたということをさまざまに実証することができます、ラファエロがその《十字架を担うキリスト》--いずれにせよもっと後の絵--のために、デューラーの素描を所有していたことが、その後ある場合に歴史的に実証されるように。

 

314a 216 ラファエロ  十字架を担うキリスト 1517

314 アルブレヒト・デューラー
十字架を担うキリスト 木版画大受難

315 アルブレヒト・デューラー
十字架を担うキリスト 木版画小受難

 もちろんこの絵によってそれが主張されているのではありません。けれども、デューラーが図像において影響されていたという考えは、どうしも退けねばなりません、なぜならこのモティーフは時代全体にあったものだからです。ですから私は、このモティーフはきわめて広範囲に存在していた、そしてデューラーが創造したものは、まったくもって中部ヨーロッパ的な衝動から出ている、と申し上げたのです。

 

284 アルブレヒト・デューラー 
律法学者たちのなかの十二歳のイエス

 ここでは、特徴ある顔の創造における巨匠としてのデューラーが見られます。律法学者たち--当然ながらデューラーが自らの周囲の環境に直接見ていた特徴ある顔--なかのイエスです。

287 アルブレヒト・デューラー
四人の使徒 ヨハネとペテロ

288 アルブレヒト・デューラー
人の使徒 パウロとマルコ

 ミュンヘンにある名高い四人の使徒の絵です!これらの絵のなかでもとくに傑出しているのは、気質と性格に従った、四人の使徒の差異の鋭い特徴づけです。

 

289 アルブレヒト・デューラー
四人の使徒、部分、ヨハネとペテロ

290 アルブレヒト・デューラー
四人の使徒、部分、パウロとマルコ

278 アルブレヒト・デューラー
キリストへの追悼

279 アルブレヒト・デューラー
キリストの誕生

 パウムガルトナー祭壇の中央の絵です。

 

274 アルブレヒト・デューラー 
ある老人の頭部

280 アルブレヒト・デューラー
聖なる三王の礼拝

273 アルブレヒト・デューラー
ヒェロニムス・ホルツシューハー

 有名なホルツシューハー像です。

 

281 アルブレヒト・デューラー
ステュムパーロスの怪鳥と闘うヘラクレス

 この画像をここに挿入しましたのは、とくに、これが人間の本質から直接発する動きのデューラー的把握を示しているからです。

 

291 アルブレヒト・デューラー
騎士と死と悪魔  銅版画

 しばしば《騎士と死と悪魔》と呼ばれる有名な《キリストの騎士》の版画です。みなさんにお願いしたいのですが、ほかならぬこの銅版画において、彼がまったくもって時代の申し子であることに注意してください。と申しますのも、このかたわらに、私がさきほどゲーテの《ファウスト》から引用しましたものを据えてごらんになれば、

    なるほど博士に修士、物書きに坊主、
    こういうおすまし連中の誰よりも、俺の方がおつむはましだ、
    良心の咎にも疑いにも苦しまず
    地獄も悪魔も恐れない-- 

 《死と悪魔》を前にしても恐れることなく、世界をめぐって自らの道を歩むこの人物の特徴全体をつかむことができるでしょう。実際この騎士はこのように描かれなければなりません、彼の領分にかつぎ込まれる博士、修士、物書き、坊主(聖職者)たちに徹底して反抗し、世界を移動していかねばならないこの騎士は、途上に立っている死と悪魔を恐れず、それらをいわば脇にどかせ、自らの道を歩み続けるのです。実際のところこの絵は《キリストの騎士》と呼ばれなければなりません。死と悪魔は単に道の途上に立っているだけだからです。騎士はそれらを乗り越えて行くか、それらに注意も払わず通り過ぎていきます。ゲーテの《ファウスト》独白がそこから詩作された、意識的に詩作された時代の気分、その同じ時代の気分がまずこのデューラーの版画に現れてくるのです。

 

292 アルブレヒト・デューラー
屋内のヒェロニムス  銅版画

 さて、このまさしく中世的な部屋に注意してくださるようお願いします、光と闇から意識的に生み出されるべくして純粋に光と闇から生まれた構成に。射し込んでくる光--そして光のなかに犬が置かれています、光をほとんど受けずに眠っていて、多かれ少なかれ闇のなかに置かれています。ライオン、いわばもう少し意志的な動物として、夢見ているようで、その面差しは多くの光を受けています。この二つの動物の対照は、実際、それらが異なったしかたで光のなかに置かれることによって、表現されねばならないのです。そしてこれも光を受け取っている、しかし同時に自分自身から光を反射しているようなヒェロニムス自身がこれに対照をなしています。人と動物、聖人と動物が、光のなかに置かれることによって対照され、--さらに髑髏もあります。犬、ライオン、聖人、髑髏--ー、構成全体がまさに明ー暗に応じて配置されています。人物がこのように光のなかに置かれることによる、極めてすばらしい発展史、とでも申し上げたいものです。それで、これとともにデューラーにおける最もすばらしいもののひとつは、光と対象、光と本質との相互作用のなかにある構成的な力、この構成的な力を彼が生み出すということなのです。当然ながら、主要人物とはまた別のものも、ひとつの構成に含まれます。けれども、この版画において、明ー暗のなかにある構成的力の扱いには、まったく特別な驚きを感じざるを得ないでしょう。

 

293 アルブレヒト・デューラー
メランコリー  銅版画

 この版画でみなさんに注意していただきたいのは--むろんこの言葉を《教皇権至上主義的でなく[ultramontanlos]》受け取ってくださらなくてはいけませんが--、実際のところこの版画は、明ー暗、つまり明ー暗の構成的力という場合にデューラーが何を重視しているかを示すために、いわば世に出されたということです。デューラーは自分の関心事を示すためであるかのように、角張った多面体と球、円い物体を配しています、彼が独自のしかたで射し込ませる光が、球の上で暗と相互作用するのを示すためです。そして球には光の分割を見ることができます。球において彼が表現しているように、衣装の襞取りの置き方にも、光の効果が光の効果に相応しているということを出発点とすることができるのです。このシンプルな球体に明と暗のかたちで現れているものすべてが配置全体のなかでも現れてくるように、デューラーは襞を表現しています。多面体においては、面の傾きに従って、各面が、明、半分暗、暗、闇、光のなかに異なって位置しているようすを比較することができます。この多面体の下に、彼はもっとはかないフォルムを示す存在、彼がはかないフォルムを与える存在、つまりグレイハウンド犬を置いてくれています、上の多面体のおいて彼がみなさんに示しているのと同じしかたで、面に光が落ちるのを模写するために。ですからいたるところに、光は対象に向かって何を語るのか、ここでは光は存在に向かって何を語るのか?という問いがあります。--光が語るもの、それはいたるところに得られます、個々の陰影づけを、多面体や円い物体というふさわしいものと比較できることによってです。同時にデューラーは、この図像とともに何かを創り出しました--誰かに陰影づけを教えようとするとき、この版画を使う以上に教育的なことはありません。さらに自発光[Eigenlicht]というものをデューラーは上の方に--《メランコリー》という語を掲げている蝙蝠の右に--登場させています、ほかのあらゆる面に現れてくる反射する光とは対照的に、いわば自分自身から輝くものです。

 途中質問:この図像にはもっと別のより深い意味があるのでしょうか?

 より深い意味ですか? なぜこれがじゅうぶん深くないと言えるのでしょう。まさしく空間のなかの光の魔術的ー秘密に満ちたものを研究してみようとするなら、これは、これを象徴的ー神秘的なやりかたで解釈など始めるよりも深い意味なのです。それは芸術的なものからそらせてしまいます、ですから、例えば上には星座版があるとか、ありとあらゆるものがそこにあるといったことのなかに、さらに深い意味で追求されうることを、時代色といったものからもっと想定してみる方がよいのです。このようなものを組み合わせるというのはまさに当時としては自然なことでした。ですから象徴化する[symbolisieren]よりも、芸術的なものにとどまり続ける方がよいのです。この図像のなかには大きなユーモア(フモール[Humor])があるとさえ私は思います、つまり、当然ながらいくらか素人じみたしかたで、この図像のタイトルに、ユーモアのある形で《黒い色合い[Schwarzfaerbung]》を表現させたいのだ、と。…実際デューラーにとって、《メランコリー》という言葉で問題なのは黒い色合いでした。この言葉はひそかに--申しましたように素人的、ディレッタント的に--《黒い色合い》を意味している可能性があるのであって、デューラーがたとえば何らかの意味深な象徴的なものを表現したかったというのではありません。彼にとって真に重要なのは、芸術的な形成、光形成の可塑性[Plastizitaet]なのです。ですから、この光の形成、そしてあらゆる象徴的解釈を提供すること、これを深くないというふうに把握されないようお願いしたいのです。世界は、それがこのような光の作用を有しているということによって深いのであり、光の作用はたいていの場合、まさに《メランコリー》と題されているこの図像のなかにありとあらゆる神秘的なものを探すよりも深いのです。


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