そこできょうは、先週みなさんにお見せしたものにいくつか補足を加えたいと思います。まず最初にごらんに入れたいのは、十三世紀になってすぐの芸術から、ハルバーシュタットにある聖堂の木彫りの作品です。
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364 完全な群像のある聖堂内陣の屋内撮影 |
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365 磔刑群像、中央部 |
この磔刑群像をよくごらんください。私は申し上げたいのはこれだけなのですが、ここでとくに意味深いのは、この時代までは受難の物語が完全に親しまれていたことがまさにこの彫刻に見られるということです。マリア、ヨハネ、中央にマリアを見下ろすキリスト。この面差しを見れば、
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366 磔刑群像からキリストの頭部 |
無限の沈潜の表情とともに、魂的に途方もなく深められているのが見出せるでしょう。マリアには-- 後ほどこのマリアの面差しの細部をお見せできるでしょう-- 、それに対する感受性があれば、ローマ的ー霊的な観照と中部ヨーロッパ的な心情の親密さの合流をそのまま直接認めることができるでしょう。これはほかならぬこの面差しのなかにすばらしく見てとることができるのです。したがって、この群像が示しているのは、中部ヨーロッパの特殊な創造衝動の結果、この中部ヨーロッパを征服したキリスト教が、キリスト教自身の魂衝動から形作るようになったということだ、と言えます。さて、マリアの細部をお見せしましょう。
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367 磔刑群像のマリア |
この並はずれて特徴的な顔の表情は、南方の表現のなかに見られるものを完全に組み込んでいます、南方の表現においては、魂が内から目のなかに入り込んでいくというより、目は外の世界を見はるかすことがずっと多いのです。ここではごらんのように両者が互いにひとつになっているので、いわばローマ的な円熟[Rundung]の上に、ここではすばらしく軽やかに、表情に魂的なものが漂っています。
もちろんこれらはすべて押しつけてはならない事柄なのですが、みなさんにお願いしたいのは、以下のすべてのものについて、中部ヨーロッパの芸術においては衣装の用い方が南方の芸術のそれとはまったく違うということに注意していただきたいのです。こういうことを押しつけてはならないのはもちろんですけれども、次のようなこともやはり真実なのです、つまり、南方の芸術はすべて、衣装というものを、人間の肉体を覆い、包むものとして、人間の肉体につながるものとして、いわば人体のフォルムの継続として、私たちに示します。中部ヨーロッパの芸術の衣装は違います。衣装は魂の動きから出てきます、手の身振りに応じて、全体の姿勢に応じて、魂の活発な動きは衣装のなかへと継続されていて、衣装は南方の芸術の場合とちがって、肉体につながることはずっと少なく、肉体のフォルムを覆ったり表現したりしようとすることもずっと少なく、魂の体験を継続するようなものなのです。これに続く数世紀へと進んでいくと、みなさんはこのこともますますはっきりと感じられるでしょう。
さて、ヴェクセルブルクの名高い《磔刑群像》に移りましょう。
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368 磔刑群像 |
これらも木材に彫刻されたもので、同じく十三世紀の最初の三分の一に制作されたものですが、類似したモティーフを示している前の群像(364)に対してはやはり進歩を、格段の進歩を遂げていますね。ここでみなさんがマリアとキリストとのあの魂のコミュニケーションを観察し、それをヨハネの顔と、ヨハネの表情全体と比較なさるなら、キリスト教的世界観への信仰が、魂に結びついた信仰が、このヨハネとマリアのなかにいかに克服者として示されているかを比較して、このキリスト教的世界観は真に溶け込んで、地球生成の宇宙的歴史的な把握となった、とおっしゃるなら、ここでアダムが、十字架から滴る救世主の血を下で容器に受けているようすをごらんになるなら、そして、十字架から滴る救世主の血を受けるのを許されることによって与えられる恩寵の働きに触れているようすを、アダムの面差しのなかに研究なさるなら、この世紀にキリスト教が限りなく深く溶け込んでいたことがおわかりになるでしょう。キリスト教は普遍的宇宙的な把握へと飛躍するのです。天使たちが十字架を支え、父なる神はこの瞬間に、地上の御子のなかに彼が与えたものが、地球に意味を与えることを確約しつつ、鳩とともに降臨します。高度な芸術的完成を見せるこのような群像に見られるのは、いたるところで魂から、心情と感情から浸透していこうとする試みがなされることによって、キリスト教が中部ヨーロッパで溶け込んでいくようすであり、他方南方においては、キリスト教はファンタジーに貫かれており、それによってルネサンス生活のなかに、南方のルネサンス生活のなかに現れた、あのいわば独特な、こう言ったからといって名誉を傷つけるつもりはありませんが、《道学者ぶったところのない[moralinfrei]》浸透が引き起こされるのです。
キリストタイプの描写の進展を研究すると、このキリストの頭部は
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369 磔刑群像のキリストの頭部 |
重要な段階を示しています、ちょうどアミアン大聖堂のキリストの頭部が
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371 キリスト(Le Beau
Dieu) |
重要な段階を示し、のちにはデューラーによる頭部もそうであるように。
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303 デューラー 苦難のキリスト |
これに対して
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370 ヴェクセルブルクの群像のアダムの頭部 |
今度はザクセンのフライベルクに見られるいくつかの描写に移りましょう、これらも同様に十三世紀に入って最初の三分の一の時代に生まれたものです。
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372 王たちの礼拝 《黄金の門》のティンパヌム |
まったく別の側面ですが、やはり聖なる物語が把握されていますね-- すべてが内面性を目指しています。ひとつひとつのどの面差しのなかにも好んで沈潜できる、と言っても実際言いすぎではないでしょう。-- また別の表現もあります。
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373 聖書のふたりの人物 |
一方の女性の方は解釈が困難ですが、もしかすると《エクレシア》かもしれません。もう一方の右の人物は、預言者アーロンを表しているとされます。けれどもこういうことはすべて重要ではありません。これらは、アレゴリー的にであれなにか別のしかたであれ、キリスト教の世界観に関わる特定の人物たちであり、私たちはこれを魂的な深化へと再び研究したいと思います。こういう事柄を研究しようとするひとにとって、表現の根底にある、左の面差しと右の面差しとの対照は、とくに魅力的なものです。
さて今度は、前回ナウムブルク大聖堂とシュトラースブルク修道院聖堂のところで上映しましたものの補足として、バンベルク大聖堂の彫刻を見ていきましょう。まず最初はこれです。
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374 ふたりの預言者、ヨナとホセア |
ごらんのとおり、ドラマ的な要素、魂的に生き生きと動くものが、まさにここでは、魂の交換を直接描写しようとする試みのなかで効力を発しています、魂の交換、つまり対照的なふたりの人物と同様、つかの間の魂の瞬間をも描写しようとするのです。
さてバンベルクの侯爵表玄関のこの《最後の審判》は、
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375 《最後の審判》のティンパヌム |
壮大な構成ではありませんが、魂的な表現は何か途方もないものです。そして考慮に入れておかなければならないのは、このレリーフは1240年頃に制作されたかもしれないので、精神科学的研究の正当さがいずれ認められるだろうということです、つまり精神科学的研究は、キリスト教的世界観の描写において中部ヨーロッパの要素は南方の要素によってかなりの程度影響されたなどとは言わない-- 今日なお多くの研究でそう言われていますが--でしょうから。中部ヨーロッパの要素が南方の要素に影響されたのではなく、逆なのです。今日まだ外的な歴史において潮流はこのように見られてはおりませんが、とくにラファエロやミケランジェロの創作のなかにまで、実際にそうであることを最近示唆いたしましたように、北方の衝動が入り込んで作用しているのです。と申しますのも、この《最後の審判》に見られる捉え方も、芸術的なものを考慮する限り、徹底して北方の精神から生まれた捉え方だからです。
さてこれを --これもバンベルク大聖堂のものですが-- 、世俗的な要素と宗教的な要素が常に混ざり合っている例としたいと思います。私たちが今扱っているほかならぬこの時代については、実際世俗的なものと宗教的なものがまったく混ざり合っているのです。両者は、私が先ほど特徴づけました共同のなかで一致を見出します、つまり、人間の魂が共同体のなかで超感覚的なものを崇め仰ぎ見ようとするとき、人間の魂は克服されることを欲し、個人的な魂は共に召還され、統一されようとするけれども、魂が外部の世俗的なもののなかの何かを何らかのしかたで敬わなければならないときにも、召還されようと欲する、こういう点に一致を見出すのです、それで世俗的なものが宗教的なものに結びつけられるのです。
ここで描写されているのは、
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376 ステファヌス、皇妃クニグンデ、皇帝ハインリヒ |
民衆の側からすると、通常ここで根底にあるのはもちろん素朴さですね、盲目的な依存、仰ぎ見ることです。ただ今日これは同時代の人々の空想のなかで過去のものとされていますが、内的にはますますいっそう存在しているものであり、高き主の側からすると、非常にしばしば根底にあるのはもちろん、ありとあらゆる人間的な特性と宥和した信仰、さまざまな聖人たちやその他超感覚的な存在たちに対して、ほかの死すべきものたちよりは、いくぶん近いところにいるという信仰です。
さて、先ほどの画像中央の人物の細部です。
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377 皇妃クニグンデ 376 の部分 |
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378 ペテロ、アダムとエヴァ |
この時代にはいつも、旧約聖書と新約聖書は互いに調和するものと考えられています、約束することと約束を果たすことのように。
さて、これらの細部です。
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380 アダム 378の部分 |
もうひとつの細部です。
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379 エヴァ 378の部分 |
さて、これも同じ大聖堂の彫像です。
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381 マリア バンベルク、大聖堂 |
あらゆるところから、あらゆる視点から捉えられたとでも申し上げたいマリアの姿が示しているのは、前に言及しましたことが、今この芸術潮流のなかに実際に現れてくるようすです。ここでお願いしたいのですが、たとえばこの《マリア》は1245年頃に制作されたということに、こういう事柄すべてにおいて注意してください、そしてこの時代、たとえば南方にみなさんはどのようなものを探究しようとなさったか思い出してください。
同じバンベルク大聖堂の教会の形態です。
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382 教会 バンベルク、大聖堂 |
これは人気のある表現でした。すでに先日、シュトラースブルク修道院教会のところで見られたような教会の表現をお見せしましたが、バンベルク大聖堂にもこういう表現をごらんになれます。この教会の表現は、内的に自由に、自由に世界を見晴らしつつ、賢明に、自由な魂によって考えられ表現され、これも先日見ましたシナゴーグと対照をなして作られています。
さて細部ですが
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385 教会の頭部 382の部分 |
これはシナゴーグと対照をなして作られています。ここでも相変わらず目隠しされ、目を伏せて表現されていますね。そして姿勢全体を比較してごらんなさい!シナゴーグの姿勢はここでもまた、衣服の襞にいたるまで対比を示そうとしています。
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383 シナゴーグ バンベルク、大聖堂 |
つまりここでは、ごらんのとおり下着が完全に魂の動きに適合していますね。ここでもう一度教会を観察してみましょう、この下着をシナゴーグの下着と比較することができるように。
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382 教会 |
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384 シナゴーグ 横顔 |
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386 383、384の部分 |
ここでまた、同じバンベルク大聖堂から世俗的な人物です、いずれかの王の騎手の像です。
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387 騎手 バンベルク、大聖堂 |
騎手像のこのすばらしい頭部で、表情をよく研究することができるでしょう。
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388 騎手の頭部 387の部分 |
すばらしい頭部ですね!
さてここで十四世紀に入っていきます、そして十四世紀前半に生み出されたケルン大聖堂の人物像をいくつか観察して、ここでできたものをよく見ていきましょう。
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389 マリア ケルン、大聖堂 |
ある種の後退がここで起こったことを認めるのは困難ではないでしょう。
同じくケルン大聖堂から
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390 ヨハネ |
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391 大ヤコブ |
さて十四世紀をさらに進むと、ひとりのマイスター(親方)に至ります、焼かれた粘土によってこれらの人物像が仕上げられているために、《粘土の使徒のマイスター)[Meister der Tonapostel]》と呼ばれるマイスターです。
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392 粘土の使徒のマイスター パウロ |