アトランティス後第四時代の芸術の第五時代における再体験
ギリシア彫刻とローマ彫刻
ルネサンス彫刻
1917/1/24 ドルナハ
私たちが知っているように、ギリシア芸術は徐々に、ギリシアがローマに屈服させられる黄昏の時代へと近づいていきます。ローマにおいてまず私たちが関わるのは、ギリシア芸術の一種の模倣、引き写し、そしてみなさんにしばしばお話しした、ローマ民族の普遍的なファンタジー欠如への沈降です。ギリシアの黄昏時代に続く次の数世紀はつまりローマ時代であり、私たちの進化にとって幾重にも暗黒の時代ですね。そしてまた新たな時代が -- このことは簡単に言及するだけにします -- イタリアにおいて十二、十三世紀に始まるのですが、このときさまざまな状況を通して、それより前の中世によって葬られた芸術作品が一部再発見されました。古代からふたたび見出されたものの観照を手がかりに、このとき、徐々にルネサンス芸術となっていく新たな芸術が生まれます。芸術家たちはとりわけ十三世紀からイタリアにおいて、発掘されて発見された、当時まだ非常に少数ではあっても発見された作品にならった古美術品を手に、修行を積むのです。そして私たちはここで -- 今私たちは、この前ルネサンス期における古典美術の再称揚とでも申し上げたいものに移っていきたいと思います -- 十三世紀におけるニッコロ・ピサーノのなかに、まずきわめて繊細な芸術家を見ます、発見されたギリシア芸術の名残に霊感を受けるすべを心得ていて、自身のファンタジーからも、ギリシア芸術によって豊かにされ、いわばこの芸術の精神のなかで再創造することを試みる、そういう芸術家を見るのです。
これは彼による説教壇です。
616 ニッコロ・ピサーノ レリーフを施されたピサの洗礼堂の説教壇 |
説教壇そのものは、間にゴシック式のねじれたアーチのある列柱に支えられています。一部の柱の下部にはライオン、柱上部には説教壇レリーフが見られますが、ニッコロ・ピサーノはそこに古典美術の刺激のおかげで得たものを表現したのです。ニッコロ・ピサーノは十三世紀末頃まで活動します。これはこの説教壇の細部です。
617 ニッコロ・ピサーノ 王たちの礼拝 |
シェナの聖堂のほかのレリーフも彼によるものです。
618 ニッコロ・ピサーノ 説教壇 部分:磔刑 |
さて今度はジョヴァンニ・ピサーノに移りますが、彼の場合、いかにずっと大きな運動が入り込んでいるか、どうぞ観察してください。ニッコロ・ピサーノにおいては、人物の上にまだある種の静寂が注がれていました。
620 ジョヴァンニ・ピサーノ アーキトレーブ彫像付き柱頭 ピストイア |
つまり今やキリスト教芸術が、次のルネサンス芸術において起こるような完成度で真にそのモチーフを表現する状態に至っていること、これはまったくもって、まずこれらピサーノ一族の場合に登場した古典美術の刺激に帰せられることなのです。
同じ説教壇からレリーフをもうひとつ
621 ジョヴァンニ・ピサーノ 説教壇レリーフ、ピストイア |
同じく彼の作品をピサの聖堂から
622 ジョヴァンニ・ピサーノ 説教壇 |
623 ジョヴァンニ・ピサーノ |
同時に、ここで古典美術が自然にゴシック様式にいわば入り込んで成長していくのが見られます。-- そして今度は彼による聖母です。
624 ジョヴァンニ・ピサーノ 聖母 |
別の聖母像です。
625 ジョヴァンニ・ピサーノ 聖母 |
ここでアンドレア・ピサーノのサンプルに至りますが、彼はフィレンツェの洗礼堂の青銅門のひとつを制作するよう任命されました。彼の作品から、これはフィレンツェにあるドームの鐘楼に見られる、旧約聖書の金属製品発明者の表現です。
626 アンドレア・ピサーノ トゥバルカイン |
これをもって私たちは十五世紀に接近し、そして偉大な芸術家、ギベルティを見出します、彼は二十三歳にしてすでに、フィレンツェの洗礼堂の扉のための公募において競い合うことを許され、
628 ギベルティ イサクの犠牲(競作のレリーフ) |
二十三歳で初めて、洗礼堂の北扉を制作することを許されました。
629 ギベルティ 青銅扉、フィレンツェ、洗礼堂、北面 |
ギベルティは素朴な金細工師の徒弟からもっとも偉大な芸術家へと飛躍したのです。フィレンツェの洗礼堂の扉に見られるこのレリーフの表現は、実際その流儀において芸術進化のもっとも偉大な傑作のひとつです。
その後さらに洗礼堂の東の扉も彼に委託されました。
630 ギベルティ 青銅扉、フィレンツェ、洗礼堂、東面 |
これは旧約聖書を表現していて、これについてミケランジェロは、これらは《天国の門》を形成するのにふさわしいだろう、と言いましたが、この扉はミケランジェロの芸術全体に深い影響を及ぼし、そのためミケランジェロの絵画のなかに、特定のモチーフを細部にいたるまで再確認することができますが、ミケランジェロはそれらを、このレリーフ表現から、この青銅扉から採用したのです。
さてこの東の扉のレリーフをもうひとつ
631 ギベルティ イサクの犠牲 |
さらにこの巨匠の手によるブロンズ像です。
627 ギベルティ 聖ステファヌス フィレンツェ、オル・サン・ミケーレ |
ギベルティのこのような仕事は、まったくもって古典美術を忠実に観ていることに基づいています。
さてここでデラ・ロッビアの芸術を入れましょう、最初はルカ・デラ・ロッビアの作品です。
632 ルカ・デラ・ロッビア 踊る少年たち 聖歌隊席から |
ロッビア一族はとりわけ、素材として焼いた粘土を用い、釉薬をかけて彩色する特殊な技術を発見することによって有名になり、したがって、彼らの作品の大部分はこの素材で仕上げられています。
この聖歌隊席から別の細部画像です。
633 ルカ・デラ・ロッビア 歌う少年たち |
ルカ・デラ・ロッビアはほとんど十五世紀全体を満たします。今度は彼の聖母です。
634 ルカ・デラ・ロッビア 薔薇のなかの聖母 |
ここで今、私たちがこういう時代に到達したのがおわかりでしょう、なるほど直接の内的体験、美的体験から生み出された芸術が、きわめて重要な意味で触発する作用をしているけれども、芸術はまったくもって観照に、観照の模造に基づいており、もはや内的に感じ取られたものには基づいていない、そういう時代にです。ですから、この二つの時代をこのように直接前後して自らに作用させてみるのはまったく興味深いことなのです。
続いてアンドレア・ロッビアです。
635 アンドレア・デラ・ロッビア マドンナ・デラ・チントーラ |
このレリーフは霊的世界における聖母を表現しています。
636 アンドレア・デラ・ロッビア 幼児イエス |
今度はジョヴァンニ・デラ・ロッビアによる彩色フリーズレリーフです。
638 ジョヴァンニ・デラ・ロッビア 巡礼の受け入れと洗足 |
さらに私たちは1386年に生まれたドナテッロへと進みますが、その際注意したいのは、彼において、自然主義への、観照を自然主義的にはっきりと打ち出すことへのすでに決定的な傾向が、いかに古典美術の影響と結びついているか、ということです。ドナテッロにおいてまったく明白に現れてくるのは、一種の、自然への愛情深い沈潜であり、そのため彼は一方では本来的に自然主義者となり、私たちがまさに見た経過のもとに展開してくるもの、つまり伝統からのみ力量を得る、ということになるのです。彼の自然主義は、同時代に努力をともにした友人ブルネレスキが、彼の《キリスト》を見たとき、
640 ドナテッロ 磔刑 |
「君の作っているのはキリストなんかじゃない、単なる農夫じゃないか!」と言い張った、というほどのものでした。-- ドナテッロは最初、ブルネレスキの言う意味がまったく理解できませんでした。こういう逸話によって -- 歴史的に正確ではないにしても、やはり典型的なものではあるので、この逸話は非常に興味深いものです -- 、理想化するブルネレスキと、古代美術の観照と再現のなかにまったくとどまっているドナテッロとの間の関係全体が特徴づけられるでしょう。この逸話はこの対比にとって典型的なものです。ブルネレスキはその後、彼の方も《キリスト》を制作することにしぶしぶ同意しました。
641 ブルネレスキ 磔刑 |
彼はこのキリスト像をドナテッロのところに持ってきますが、このときドナテッロはふたりの朝食のために買い物をしたところでした、ふたりは一緒に住み、朝食をともにしていたのです。ドナテッロはエプロンのようなものを着けていて、これからふたりが一緒に食べようというおいしいものがみな入っていました。彼がまだエプロンのなかに全部を、つまり朝食のすべてを入れている間に、ブルネレスキは自分の《キリスト》の覆いを取り、するとドナテッロはぽかんと口を開けて驚愕したので、朝食をみな床に落としてしまいました。それは彼にとって、ブルネレスキが造り出したひとつの啓示でした。それによって彼が圧倒的な影響を受けたというわけではないのですが、それでも、彼にとってある種の洗練度を増すような影響は、やはりブルネレスキから始まったのです。この場面についてはさらにこう語られています。ドナテッロはびっくりしてしまって、朝食はおじゃんになってしまったと思いました。「ぼくたちは何を食べようか」と彼は言いました。これに対してブルネレスキは、「とにかく落ちたものを拾おうじゃないか」-- けれどもドナテッロは頭を振りつつこう言いました。「よくわかったよ、ぼくにはけっして農夫以外のものは造れないんだ」
ここでドナテッロのダヴィデの習作をごらんください。
642 ドナテッロ ダヴィデ |
そしてこちらはもうひとつのダヴィデです。
643 ドナテッロ ダヴィデ |
さて今や私たちは、フィレンツェにあるドナテッロのみごとに完結した大理石群像に至りますが、これらはまさしく、彼はその自然主義から、自然主義的な観照から、彼が形作ろうとした堅固な人間的形姿を、いわば全力でそこに立っているというように両足の上に据えることができたことを示しています。
ドナテッロ |
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644 エレミア |
647 ハバクク 部分:胸像 |
645 ペテロ |
648 洗礼者ヨハネ |
646 ハバクク |
まさにドナテッロの場合はここで自然主義が熟しています。それは私たちが北方の彫刻の場合に見出したあの魂ではなく、感覚が見るもの、霊化された感覚が見るものについての明確で自然主義的な観照です。
ニッコロ・ピサーノとドナテッロのなかに、きわめて重要な意味でその後ミケランジェロに影響を及ぼし、彼に働きかけた二人の芸術家が見出されます。後にミケランジェロがとりわけその初期に制作したものを見て、ドナテッロの作品を思い起こした人たちは、当時言われていた言葉を心に刻みつけたものでした、ミケランジェロとなったドナテッロか、はたまたドナテッロ化したミケランジェロか!と。
649 ドナテッロ ゴンザーガのロドヴィコ三世 |
650 ドナテッロ 聖ゲオルク |
とりわけ特徴的なのはドナテッロによるこの聖ゲオルクです。そこには彼特有のまったき自然主義的な力があります。
このような芸術作品はフィレンツェの自由から生まれ、ミケランジェロもまたそこから成長しました。そして一方において、いかに私たちが、より普遍的な歴史的必然性、よりコスモポリタン的な歴史的必然性とでも申し上げたいものによって、古代美術の復興をイタリアに見出すかということに目を向けるなら、私たちはいたるところで、自然主義的な要素への傾向が、自由都市文化のなかで湧き起こる気分と結びついているのを見るのです。ここにおいても、北方においても、もちろん育成のされかたは市民の性質によって異なっているにせよ、自由都市の文化から、同じものが出現しています、この都市の自由のなかで、人間が自らの尊厳と自由と本質を意識するようになる自由都市の文化から出現するのです。私たちが、ネーデルラント地方、北の地方に特徴的なものとみなした芸術作品、そういう作品において私たちは常に、自由都市文化とその気分のことを思い起こさざるを得ませんでしたが、そうするしかないように、ちょうどそのように、このフィレンツェの聖ゲオルク(650)のごとく堅固に空間に据えられた男性においては、それを可能とする雰囲気を有した自由都市文化のことを思い起こすこと以外できません。
さてこれはレリーフを施された聖歌隊席です。
652 ドナテッロ 聖歌隊席 |
そしてそのレリーフです。
653 ドナテッロ 踊る少年たち |
《告知》です。
651 ドナテッロ マリアへの告知 |
今度は聖母です。
654 ドナテッロ パッツィの聖母 |
今度は胸像です。
655 ドナテッロ ニッコロ・ダ・ウッツァーノ |
続いてパドゥアの騎士立像です。
656 ドナテッロ ガッタメラータ |
657 ドナテッロ ガッタメラータ 部分:胸像 |
そして最後に、レオナルドとペルジーノの師、造形芸術家としてのヴェロッキオをみなさんにお見せしましょう。最初はヴェネツィアの有名な騎士像です。
658 ヴェロッキオ バルトロメオ・コッレオーニ |
659 ヴェロッキオ コッレオーニ 部分:胸像 |
次は《ダヴィデ》です。
660 ヴェロッキオ ダヴィデ |
以上、前ルネサンスの芸術家たちを目の前に見てきましたが、魂のなかでもはや古代のようには内的に生きることができず、古代においては内的に本能的に感じ取っていたもの、もっとよい言い方をすれば、感じつつ知り、知りつつ感じ取っていたものを、観照のなかで復活させなければならない時代に、この芸術家たちは、一方においては、古典美術への深い沈潜を通じて、古典美術の称揚をこういう時代にもたらしました。他方においてこの芸術家たちは、これをアトランティス後第五時代に到来しなければならないものに結びつけました、直観からこれを自然主義に結びつけ、そしてそれによって、レオナルド、ミケランジェロ、そして -- ペルジーノを通じて -- ラファエロといった偉大なルネサンスの芸術家たち、彼らはみなこうした先駆者たちの作品の直接の影響下にあったわけですが、こうした芸術家たちの先駆をなしたのです。
彼らはまったくもってこれらの前ルネサンス芸術家たちの両肩に支えられて立っていたわけです。それで例えば同じこの人物像に向かって、当時の進歩がいかに速かったかを見ることができるのは興味深いことです。みなさんがこの《ダヴィデ》(660)をミケランジェロの《ダヴィデ》と比較してごらんになれば
660a ミケランジェロ ダヴィデ |
ここでは比較的まだ、ドラマ化したり、運動を捉えることができていないのがおわかりでしょう、一方ミケランジェロはまさに彼の《ダヴィデ》(660a)において、運動における最高のものを捉えていました、つまり、ゴリアテに立ち向かうダヴィデの決断を固定化するということです。
以上私たちが試みたのは、一方においてギリシア芸術から放射し、他方において、人類がギリシア的な能力の再生を助けに、芸術を再び見いだすことを試みた時代に、このギリシア芸術によって再び照らされたものを、少しばかり魂の前に引き出してみようとすることでした。