●ルドルフ・シュタイナー

 「シュタイナー教育の基本要素」を読む

 第二章/「親と子」


■この章でも、実践的な実践把握としての精神科学ということを確認しながら、「生きた謎」としての子どもの教育ということが語られていきます。

精神科学は好奇心を満足させるもの、探求衝動を満足させるためのものだけではありません。精神科学は人々に、生活と行動への衝動を与えるものであるべきです。人生における確かさと満足、わたしたちの行動と課題の遂行における勤勉さが、精神科学がわたしたちに提供するものから流れてくるべきなのです。(33P) 

■人間と他の生物には根本的な差異があります。人間の個人には、動物の種全体を意味するものが生きているのです。 

■人間個人ということを遺伝的に祖先から理解するということはできません。外的な特徴は祖先から受け継いだということはできます。両親は子どもに身体という覆いを与えます。しかし心魂はつねに心魂から由来したものであり、輪廻転生の法則により再受肉したものなのです。

■7歳までの時期は、子どもは肉体を形成するべきであり、それをしない場合、その全生涯を損なっていまう。その後、思春期までにエーテル体が形成されます。それまでにもエーテル体は活動してはいましたが、一種の母胎の中に包み込まれていて、それが自由になり発達していきます。そしてその後、アストラル体の発達が自由になり、さらにのちに自我が形成されていきます。

■祖先からの遺産は、肉体とエーテル体の中に存在していて、その特質は思春期になるまで目に見えるものとなります。

■精神科学の観点からすると、若い世代に対するある種の義務があることが認識されます。子どもという謎を根本的に解くのが最良の教育者であるという考え方を心魂に浸透させ、成長する子どもへの畏敬の念を目覚めさせることによって、それを子どもたちが発育していくための母胎にする必要があります。ですから、子どもを教育者のイメージ通りにしようとしてななりません。子どもの自由を尊重しなければならないのです。

心魂のいとなみに関しては、自然科学は非常に迷信深いものです。生まれようとする子どもの魂が、両性を愛へと集結させます。精神科学も、そのことを教示します。未来の世代が、人間を生殖へと導くのです。そのように子どもを考察すると、わたしたちの特性を子どもに押しつけることはできなくなります。正しい教育者は、みずから子どもから学んだものだけを、子どもの成長のために与えることができるのです。子どもは、教育者にとって、もっとも偉大な教師なのです。

 

●ルドルフ・シュタイナー

 「シュタイナー教育の基本要素」を読む

  第二章●補足


この章で問題になるのは、教育ということをプラスのカルマの形成として実践的にとらえていくこということです。教育にはカルマ論的な認識が必要だということです。

この章を補足的に理解するには、「神智学の門前にて」(イザラ書房)の第六章の「子どもの教育・カルマ」が参考になると思われますので、そこからそれに関連するいくつかの視点を提示しておくことにします。

カルマの法則は、「わたしが人生でおこなったよいことは、すべて作用を引き起こす。わたしがおこなう悪事も、作用を引き起こす。人生の通帳があって、貸し借りが記入される。人間はいつも決算をすることができる。決算をしたら、それがわたしの運命になる」というのもである。(78P) 

こういう視点から、新たな行為によって運命を変えていこうという意志と実践が教育にかぎらずすべての人間の営為において必要となってくるということが明らかになってきます。つまり、「宿命」的な「運命」観ではなく、「立命」という積極的な実践が必要だということです。

ここで問題になるのは、自分がプラスのカルマを形成するべく努力するのはいいが他者のカルマに関与することはどうだろうという疑念です。そういう疑念は教育をはじめとするすべての営為を無意味なものにしてしまいます。

カルマの法則は、たとえば誰かを助けるという行為が、他者へただしく働きかけるという視点を含んだものです。カルマの法則からは過去をみるのではなく、未来を見るべきだということです。

カルマの法則によって自由意志が制限されるのではないか、と考える必要はない。カルマの法則を信じるとき、自己救済と自己の進化のみを頼るのではない、と神智学者は認識しなければならない。ほかの人がわたしたちを助けることができるということを、知らねばならない。こうして、カルマの法則とキリスト教の中心的な事実は容易に結びつく。キリスト教の秘密の教えはカルマの法則を知っていたのである。

ある人が苦しんでおり、その人を助ける力を持っている人がその人を助ける、と想像してみてほしい。そうすることによって、二人ともカルマをよくするのである。カルマの法則をとおして、そのよう援助が可能となるのである。(79〜80P) 

ここで「神智学」という表現が使われているのは、その講義があったとき、シュタイナーはまだ神智学協会のドイツ支部長をしていたときで、それを「人智学」と置き換えたほうが適切かもしれません。シュタイナーは神智学に対して、その実践的観点の必要性を強調していました。これはテキストの1章に2章にも繰り返しでてくる視点です。

これはちょっと極端な視点かもしれませんが、シュタイナーの人智学は、神智学が自己救済的であり、場合によれば、いきなり救世主的な視点を持ち込むのに対し、キリスト教的な「愛」という「他者救済」ということを人類個々のカルマ的実践として行うということを重要視していたようです。

教育ということにしても、私たちの日々の生活にしても、「カルマの法則をとおして、二人ともカルマをよくする」という観点が大事なのではないかという実践的観点の必要性ということがこの章の趣旨ではないかと僕は考えています。


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