ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第10講

1920年 3月30日   ドルナハ


 本質的なことは、私たちがここで医学研究を実り豊かなものにすることのできる方法を見つけだすことを試みているということなのではないでしょうか。さもないと、あまりに分割しすぎて個別的なもののなかで自らを見失ってしまいかねません。個別的なものが持っている意味は、いつも結局相対的なものにすぎないのですから。けれどもこの、人間と人間の外部にある自然との関係の方法論的研究こそが、人間ひとりひとりを、いわば自然そのもののなかで観察を行なうことができるように準備させるのに適しているのかもしれません。したがって今日は前置きとして、ある種の分野にとっていわば一種の道となる可能性のあることを二、三述べさせて下さい。その道の途上で見出せることもあるでしょう。

 当然のことではありますが、そもそも精神科学的探究というものは、規定を提示することによって、まさに昨日のシュタイン博士(☆1)の講演の意味で検証され得ることを発見することができるのです。他方、一度この分野に入って行くと、この分野はいくつかのことに方向付けを与えてくれます。そこで私は今日皆さんに、まさに注目に値すると思われる例をいくつか指摘したいと思います。たとえば皆さんはーーさしあたってしばらくは植物の領域にとどまっておくことにしましょうーー、アニス[Anisum Vulgare](*1)が通常人間の生体組織にどのような作用をするか、ご存じでだと思います。アニスの最も特色ある作用というのは、分泌(排泄)を促進する[absonderungsfoerdernd]、すなわち、利尿、乳汁分泌促進、さらに汗の形成であるということが私たちにはわかるでしょう。それから私たちは、これが何と関係しているのか自問します。この植物に関して私たちにわかってくることは、アニスの働きは、そのなかに含まれている微細に分割された鉄分[Eisenbestandteile]あるいは鉄塩分[Eisensalzbestandteile]と関係しているということであり、したがって私たちにもはっきりと知覚できるのですが、アニスの作用の基楚となっているのは、ふつうは血液中で鉄によって行なわれていることが、いわば血液から取り去られて、血液より下の領域にしばらくの間押しやられているということなのです。実際ある種の植物の場合、中間部に、すなわち外と内の中間、身体の表面と心臓との中間に、非常に強くその作用が及ぶので、私たちはこういう植物がいかにさまざまな領域まで作用を及ぼしているか、良く研究することができます。さらには、私たちが薬学において合理的に見つけだすことのできるもののためのライトモティーフを、そこから得ることもできるのです。

 例えばこの点において正真正銘の自然の教師、とでも申しあげたい植物、チコリ[Cichorium intybus] (*2)を観察してみましょう。チコリを手がかりに、そうしようとしさえすれば、いわば人間の生体組織に関してあらゆる可能なことが研究できるのです。チコリの場合、私たちにわかることは、チコリは一方で、消化不良[Verdauungsschwaeche]に対抗する薬、つまり直接人間の外界そのものに向かって置かれている器官を通じて現われているものに対抗する薬であり、他方でチコリはまた血液そのものにも作用すること、つまり、自らに必要なプロセスを血液が実行しないということのないように、血液が、血液の液体性そのものに停滞プロセスが現われるままにしておくことがないように、血液に作用するということです。つまるところ、チコリにおいてとても重要なことは、何と言ってもチコリの治癒作用は、非常に末端部のプロセスにまで及んでいるということ、状況によっては、頭部器官まで、とりわけ喉と胸の器官、肺器官にまで作用を発現させている、ということです。チコリは人間のあらゆる可能な部分にこのように強く作用しているので、だからこそ、チコリを研究することはこんなにも興味深いのです。これらの作用がいわば扇形に拡がっているのが見られます。私たちはこう自問します、消化不良への対抗作用というのは何によるものだろうか、と。これは、チコリのなかに存在している、強い作用をする味によって表わされている苦味エキス[Extrakutivstoff]によるものだということがわかります。この苦味エキス、つまりまだ強力に、植物的、物質的[substanzlich]性質を有しているこのエキスは、人間のなかの、まだそんなに人間によって加工されていないもの、いわば外界にあったときの外観にいまだに似ているものに強い親和性を有しているのです。

 私たちがはっきりと理解しておかなくてはならないのは、私たちは外界の物質素材を初めはほとんど加工せずに、胃の領域まで取り込み、その後それがさらに加工され、腸を通じて根本的に改造されて血液中に現われ、そして末端部、つまり骨組織、神経組織、筋肉組織において、それがもっとも改造された状態で現われるということです。そしてこのエキスというものは、まだ加工されていない外的な物質と非常に強い親和性を有しているのです。

 ところでチコリはアルカリ塩[alkalische Salze]、カリウムも含んでいます。私たちはとりわけこのなかに、血液に作用するものを探究しなければなりません。そうすると、チコリのなかでどのように諸力が分離しているかということも同時にわかるでしょう。エキスのなかにある力は、その親和性により消化器官へと伸びていきます。アルカリ塩のなかにある力は、その親和性により、血液に親和性のある器官あるいは血液そのものへと伸びていきます。さらにまた本質的に、(チコリのなかには)珪酸も多量に存在しています。珪酸は血液を越えて末端の器官にまで作用し、神経組織、筋肉組織を経て骨組織のなかまで達します。したがって、チコリとはそもそも私たちに、実際こういうことを示しているものなのです、私(チコリ)はここにいて、三つに分けられている、だから私は人間の生体組織の三つの構成要素すべてに対して作用を与える、と。これらは、自然自体が私たちの目の前で行なってくれる実験であり、私たち自身が行なう実験よりも実際常にはるかに意義深いものなのです。なぜなら、自然というものは、実験によって自然に対して問いかけをする際の私たち自身よりも、その意図においてはるかに豊かだからです。

 これに関連してスギナ[Equisetum arvense](*3)もまた非常に興味深いものです。スギナにもやはり、消化不良に強く対抗する作用と、そしてやはり末端部まで達する強い作用が見られます。私たちはこう問いさえすればよいのです、スギナにおけるこの末端部まで達する強い作用は何によるのだろうか、と。するとまたしても、珪酸成分によるのだ、という答えが得られます。ですから比較研究によってーー私がここで皆さんにお話ししたことは、皆さんが本当に医学的植物学を研究なさるなら、非常に多様化することができるのですーーいたるところですぐに見出せることは、まだ植物的なものに似ているもの、エキスとして現われているもの、これらはすべて、まだ消化管に対して親和性を有しており、すでに鉱物界、珪酸への傾向を持っているものは、いわば人間の中心から末端部を絶対的に目指しており、しかもそこで治癒的な作用もする、ということです。

 けれども、私は申し上げたいのですが、その働きにおいてはまったく単純なものだけれども、教示してくれることの極めて多い実にすばらしい植物があります。それは野イチゴ[Fragaria vesca / Walderdbeere] (*4)です。この野イチゴの作用がめったに観察されないのは、ひとえに、いわばこの作用を自分たちの生体組織で覆い隠してしまう人たちに食べられるからなのです。実際このように作用がほとんど覆い隠されてしまう場合には、いわばまだ感じやすい、敏感な人たち、つまり通常野イチゴを食べていない人たちに対して試みてみることもできるでしょう。そうすればたちまちこの野イチゴのすばらしい意味が明らかになることでしょう。つまりこの野イチゴというものは、一方において、とりわけ血液形成を正常化させることができるのです。野イチゴは、実際血液形成をいくらか促進するあらゆることをするので、通常これを好んで食することによって野イチゴに対して免疫のある人でない場合は、その人に対して、下痢の場合にもこの野イチゴを用いることができます。なぜなら、下痢が起こる際に下腹部に間違って現われてくる諸力が、(野イチゴの作用によって)その正しい場所に撤退させられる、つまりもっと血液組織そのもののなかに撤退させられるからです。

 さて野イチゴのなかには一方において、本質的に血液を形成する力があり、他方でやはり珪酸があって、(それによって)生体組織のなかにあるものが末端部を目指しています。そもそも、この野イチゴというのはどんなに素晴らしいものか、よく考えてみてください。野イチゴは、珪酸によってある種の力の展開を生体組織の末端部まで進めていく傾向を有しています。生体組織の末端部にある力の展開が起こるときは、ある種の危険があります、つまり、珪酸をあまりに多く末端部に導いてしまうと、力がいわばおかしくなり、この末端部に同時に十分多くの栄養分が転送できない、珪酸によっていわば仕上げられたものに何らかのしかたで栄養分を供給するための、十分豊富な血液が同時に得られない、という危険です。さてこの野イチゴは、そこに転送されなければならない血液を自分で準備するという、すばらしいサンプルなのです。つまり野イチゴは、珪酸によって生体組織の末端部に引き起こされるプロセスを助けるためにしなければならないことを、驚くべきしかたで表現しているのです。自然はいくつかのサンプルによってーーこのサンプルの数はさらにずっと増えていく可能性もあるでしょうがーー私たちに実に驚くべき洞察を与えてくれています。ただし私たちに、自然を正しい観点で探究するイントゥイションさえ備わっていればですが。

 さらにこの観点から、もうひとつ別のことに注意を向けていただきます。例えばラヴェンダー[Lavandula](*5)のような植物が持っている、かなり包括的な作用を研究してごらんなさい。そうすると、一方において、ラヴェンダーのなかにあるものは、魂のネガティヴな衰弱[negative Seelenschwaeche]、とでも申しますか、失神、神経衰弱、麻痺、といったものすべてに対して、強い治癒力を有していること、つまり、ラヴェンダーは人間の生体組織の末端部に作用して、それがアストラル体を追い出すように、アストラル体が物質体に及ぼす力を失うように働きかける、ということがわかるでしょう。

 さてこのような植物、つまり、こう呼んでよければ、ネガティヴな神経衰弱に対抗する作用が見られるこのような物質全般においては、常に、また別のこれとは逆のネガティヴな神経状態についても問うことができるのです、例えば月経不順があるかどうか、といったことです。      すると、このような物質は一方にも、また他方にも作用することがわかるでしょう。このように両方にとりわけ強く作用する植物は、例えばこれもまたメリッサ(*6)であり、これは眩暈、失神の場合にも強く作用しますし、またかなりな程度月経を促進するように作用することもできるのです。

 以上の例に言及いたしましたのは、外的な植物プロセスを、人間自身のなかで起こっているプロセスとの類似という点においていかに追求できるか、皆さんにお見せするためでした。ただ、はっきり理解しておかなくてはならないのは、植物が実際に親和性を持っているのは、人間存在の一部分に対してだけである、ということです。例えば現在存在しているものをファナティックに植物療法だけに切替えたいと思っているようなひとたちは、このことをよく考えて下さるようお願いしたいのです。人間というものは実際、自然界全部を自らのうちに含んでいて、自分自身がまだそれである人間界以外に、形成される経過において、つまり発達の諸段階において、他のすべての自然界と親和性を有していたのであり、しかもある種のしかたで、他のすべての自然界を自らのうちから外に出したのです。そして場合によっては、自分が外に出したものを、この自然界から再び自分のなかに取り戻すこともあるのです。そう、それはこのように自分のなかに取り戻すこと[In-sich-Zuruecknehmen]なのです。それがこのように自分のなかに取り戻すことである、ということは大変重要なことです。

 比較的最後になってから外に出されたものは、逆に治療プロセスにおいては、最も早く私たちのなかに取り戻さなくてはなりません。動物界を考慮に入れないならーーこの問題にももっと光を当てていくつもりなのですが、さしあたっては除外しておきましょうーー、私たちは、植物界より後に、本来の鉱物界を私たちのなかから外に出したわけです。そして明確に理解しておかなくてはならないことは、単に人間と植物界の関係のみを探究することはそれゆえ一面的だということです。とはいえやはり、植物界は依然として有益なものです、なぜなら、結局のところ、植物といえども、何かを癒すときには、単に植物であることによって癒すのではなく、内部において鉱物界にも属していることによって癒しているからです。ですから植物は依然として有益なのです。さらにはっきり理解しておくべきことは、植物はまた、鉱物界に存在しているものの一部を新たに加工しているので、この植物によってすでに加工されたものは、まだ加工されていないものと同程度の薬ではない、ということです。つまり、すでに植物によって克服され、植物プロセスのなかに取り入れられている珪酸は、鉱物において私たちに現われてくる珪酸ほど強力な薬ではないということです。この鉱物中の珪酸の場合、それを同化吸収し、一体化するためには、単に植物界のなかの珪酸を扱うときよりもずっと生体組織に負担がかかるのです。

 これは常に強調さねばならないことですが、人間はより強い力に対すると、より強い力を発達させなければならないものなのだということです。人間は、自らの内部で鉱物的なものを同化吸収し、克服せねばならないとき、単に植物的なものを同化するときよりも、もっとポジティヴに強い力に相対しているのです。よろしいでしょうか、違いというのはまさにここにありますーーどうか皆さん、私は強調しておきたいのですが、私はいわば括弧付きでこのことをお話ししているのであって、この場で何らかの食物のとりかたについてプロパガンダするつもりなどありませんし、何かを支持するつもりも毛頭ありません。ただありのままの事実をお話ししたいだけなのですーー。菜食と動物食との違いはまさにこの点にあるのです。単に植物性の食物だけを取るとき、私たち自身は人間ですから、全プロセスを引き受けなければなりませんが、動物は植物的なものを少しばかり先へと継続することによって、私たちからこのプロセスを取り除いてくれるのです。私たちはいわばこのように言うことができます、つまり、植物がすでにある地点まで成し遂げたプロセスは、動物によって継続されるのです。したがって、考慮される動物形成プロセスはここで止まり(図参照)、植物におけるそれはここで止まります(赤、白)。さて肉を食べる人は、このプロセスをここでは成し遂げないのです。このプロセスを成し遂げるのは動物です。このプロセスを動物に取り除いてもらうわけです。つまり肉を食べる人は、植物的なもののみを摂取する場合には発生させられなければならない力を、自らの内部に、まったく発生させなくてすむのです。植物だけを食べる場合は、その人が自らこの部分を継続しなければならないからです。すなわち、生体組織は、菜食者の場合、肉食者の場合とはまったく異なる力を、自らの内奥から引き出してこなければならないのです。植物的なものを克服するために動物的なものにまで用いられるこういう力があるのです。こういう力はいわば逆転によって再び生体組織に戻ってきて、そのなかで活動します。その力が活動するとき、根本的に人間をひどく疲労させたり、妨げるように作用するということになります。ともかくも、強調しておかなければならないこと、はっきりと強調しておかなければならないことは、菜食療法による疲労に関しては、それでもやはり本質的には負担が軽くなるいうこと、人間は、力を内部から取り出すことに慣れているので、それによって活動可能になるということです。この力を人間は肉を食べるときには取り出さず、まさに生体組織の妨害する力として用いてしまうのです。しかし先に申しましたように私はアジテーションをしているわけではありません。ホメオパシーの医師たちでさえ繰り返し私にこう言い返したものです、それでもやはり、肉食をやめさせると、人々に癆([Schwindsuche] 癆[ろう]、結核)を植え付けてしまう、云々と。なるほどどれも起こり得ることではありますが、私がここで純然たる事実として申し上げたことは、まったく揺らぎません。申すまでもなく現にあることです。しかし当然のことながら、私としても、現代においては単に植物性の食品のみでは耐えられず、どうしても肉類を食さなければならない生体も存在していることを否定するつもりはまったくありません。これは個別的なケースの問題です。

図の文字(上から):rot(赤)、gruen(緑)、weiss(白)

 さて、治療プロセスにおいて鉱物界とその諸力との関係も作り出される必要があると強調するのを認めるならば、このときこそ、私たちはこの治療プロセスのために何か別のものに導かれるのです。この問題は実際取り組まれてはいたのですが、やはりその解決はこのようにしてのみ見出されると私は思います。それはつまり、これを精神科学的に観察すればある種の関係を見出すことができるということです。

 治療プロセスにおいてはまた、準備された、調理された食物となまの食物に対する問いがきわめて重要だと思われます。ここでもまた、何らかのことに賛成しようとかいうことではなくてーーこの分野においてはますますもって私をアジテーターなどとごらんにならないようにお願いいたしますーーそもそもここにあるのが何なのかを客観的に調べなければならないのです。人間がいつもの調理された食物をとり、その力を同化する場合は、なまの食物を食べる生体であれば何らかのしかたで自分でやらなければならないことを、外的に行なうことになります。人間は、なまの食物を食べるときには自分でやらねばならないことを、調理その他によって取り去ってもらうのです。さて重要なことは、私たち人間は、むろん末端部においていわば自然全体と関わっているけれども、中心部、とりわけ消化もその一部である、中心部においては、自然から私たちを分離し、個別化させるように構築されている、ということです。私たちがこの人間と自然との関係をありありと思い浮かべようとするならば、例えばこのように言えるかもしれません。人間はその末端部を通じて(図参照、緑)全宇宙に組み込まれており、そして消化においては血液形成に向かって自らを個別化していく(赤)、したがってここ(後者)は、もはや外的なプロセスに完全には対応しないプロセスを遂行し、少なくとも外的なプロセスのなかに完全に固定されている場所よりは外的なプロセスに対抗して独自性を打ち出している地帯なのだ、と。さらに次のようなことをお話しすればもっとわかりやすくなるかもしれません。

 

図の文字(上から):(gruen)Kieselsaures(緑)珪酸、

(gelb)Alkakien(黄)アルカリ、Kohlensaure Salze(rot)炭酸塩(赤)

 ここ数日間お話ししてまいりましたことは、人間は実際全宇宙に組み込まれていること、人間においては、とりわけこの緑色で描いた部分においては、鉛、錫、鉄の形成力が作用しているということです。赤で描いた部分では、銅、水銀、銀の形成力が作用しています(図参照)。この調停作用をしているのが金であり、とりわけ心臓にその場所を定めている力です。けれども人間についてこのように語るなら、ちょうど、一本の指について、それを生体組織全体の一部とみなして語るのと同じなのです。人間についてこのように語ることは、人間を本来全宇宙の一部とみなすこと、本来全宇宙に組み込まれているものとみなすことです。しかしここのこの地帯には矛盾があって、人間は消化とそれに関連するすべてのものにおいて自らを分離する一方、思考し、見るときの相互プロセスのなかにも、やはり自らを普遍的な宇宙プロセスから個別化させていくものが存在しています。したがって人間は、消化プロセスと関係するすべてのもののために、いわばわがままに何かを必要としているということなのです。そしてこのわがままなものが、自然から直接与えられているものをまたもや取り入れるという調理の本能に顕現したのです。なぜなら、自然から与えられるものをそんなに直接取り入れるとしたら、人間というものは、少なくとも平均的には、それを直接加工するにはあまりにも弱すぎるでしょうから。逆説的な表現をしてよろしければ、もし私たちが食物を調理しなければ、食べることは絶え間ない治療プロセスにちがいないでしょう。つまり、もし私たちが食物を調理しなければ、環境とのより強力な親和性によって、食べることは絶え間ない治療プロセスであるにちがいないだろうということです。したがって、なまの食物をとることは、調理された食物をとるよりはるかに治療プロセスなのです。調理された食物をとることはむしろ単なる栄養摂取プロセスですから。なまの食物をとることは、調理された食物をとるよりはるかに強い意味において治療プロセスである、ということは、私が思いますに、非常に重要な原則です。なまの食物をとる食餌療法は、調理された食事よりはるかに本来の治療に近いのです。さらに言及しておきたいことは、調理されたものはすべて、その作用がいわば切り詰められていて、その作用は赤く図示された部分(図参照)にとどまっているのに対し、なまのまま生体組織に取り入れられたものーーつまり果物などーーは、この地帯を越えて末端部まで入り込み、むしろ末端部に現われて、例えば血液がその養う力を末端部まで送り届ける誘因となったりするのです。

 皆さんが珪素[Silicea]を用いて治療しようと試みる場合、患者にしばらくの間、なまの食物を与えることを試みればーーこういう試みこそなされるべきなのですがーー、皆さんもこのことを確かめられるでしょう。そうすれば、皆さんは珪酸の作用を本質的に高めるのだということがわかるでしょう。なぜなら、その際皆さんは、珪酸が末端的に行なおうとすること、つまり形成的に働きかける、変形[Deformationen]を完全に直すーーもちろんこれは無骨な変形のことを申し上げているのではなく、解剖学的には直接現われてこないもの、生理学的にのみ現われてくるもののことなのですがーー、ということですが、珪酸がこれを直接行なおうとするとき、皆さんはこのとき、治療プロセスの期間中もふさわしい栄養分を珪酸に供給することによって、珪酸を支えるわけです。これらはまさに、方法論上指摘しておきたいことなのです。なぜなら、これらを追求することはきわめて意味深いことですし、私が思いますに、これらの事柄はあまりにも研究されていないからです。研究されるにしても、おおむね経験的にのみであって、そのなかにラツィオ(合理性)は探究されず、したがって、この分野において確認できることについて満足のいく見通しをたてる可能性は余り見出せない状況です。

 こういう事柄すべてにおいて個人というものに注意をはらうことが重要になってくることは言うまでもありません。ですから私は今までの講演でこう申し上げてきたのです、この分野で何か語るやいなや、今度はある種の関連においてはそあてはまらないことになる、と。けれどもこれらのことは方針として知っておかなくてはなりません、例えば個々のケースにおいて、次のように言わなければならない場合でもです。この患者の場合はなまの食物を与えてはいけない、そんなことをすれば彼の体質全体からあれやこれやのことを誘発してしまうからーーつまり、このときはそうしてよい、このときはそうしてはいけないーーなどと言わなければならない場合でもそうなのです。そういう場合でもやはり、今ここで特徴をお話ししたことは正しいのです。こういう事柄によってはじめて、人間の体質全体を本当に見通すことができるのです。と申しますのも、よろしいでしょうか、私たちが明確に区別しなければなりません、つまり、末端部のもの、つまりそこでは人間が現実に全宇宙に組み入れられていて、私たちが人間からあれほど離れている鉱物的なものを生体組織に組み込むときにのみ扱うことのできる末端部のものと、私がここで赤く図示した部分、この両者を明確に区別しなければならないのです。私たちがこれ(後者)を扱えるのは、たしかに植物的なものを通じてですが、まずもって現在の塩的な特徴によって作用しているもの、すなわち炭酸塩[kohlensaure Salz]であるすべてのものを生体組織に取り入れるときにも扱うことができます。一方、アルカリ性のものはすべて、両者の均衡を取ることに関係しています。つまり(順に)、炭酸塩、アルカリ、珪酸塩あるいは珪酸そのもの、となります(図参照、黄色)。

 つまりこれは、人間と周囲の自然との親和性を示唆するものなのです。よろしいですか、私たちは人間というものを、二つに分かれたものとして見るわけです、その中間のものが、この二つに分かたれたものの間を行ったり来たり振り子運動しているのです。そしてこのように言わなければなりません、末端部の人間と、より中心部の、個別化された人間とをこのように見ることは、私たちを全自然の内奥の本性まで真に導いてくれるのだ、と。つまり末端部の人間は、地上を越えたあらゆるものと親和性を持ちーーこのことを如実に示しているのは、自身鉱物的なものとして実際に諸惑星や星座に依拠している、人間のなかの鉱物的なものの働きなのですーー、さらに中心においては個体として、あらゆる地上的なものに親和性を持っているのです。しかしこの、消化組織に表現されているあらゆる地上的なものとの親和性によって、人間は同時にまた、思考することのできる、そもそも人間として進化することのできる、人間本性そのものでもあるのです。

 さて私たちは、人間における二元性を、人間のなかに現われている地上を越えたもの、宇宙的なものと、本来の地上的なものとの二元性として見ることができます。人間の生体組織のなかにまずもって明確な素質として現われてくるのは、地上を越えたものと地上的なものでしょう。そして人間が精神機構[Geistorganisation]というものを備え、さらにそれと対極的な親和関係にある消化機構も持っていることによって、末端部のもの、地上を越えたものがいかに人間にいわば反映しているか、昨日私はすでに示唆いたしましたが、これは実際繰り返し指摘してまいりましたことです。つまり、消化に向かう分泌と関係するものと、精神の働きの基盤である、脳における分泌と関係するもの、これらはすべて、根本的に、末端部の、天的な[himmlisch]人間を私たちに示しているのです。いかに奇妙に、逆説的に思われようと、そうなのです。これに対して、人間において、液体的プロセスであれ、気体の形状でのプロセスであれ、尿形成および汗形成と関係するもの、これらすべてが私たちに示しているのは、自己を個別化する人間としての地上的人間です。私たちは、人間の本性の、この互いに離れようとする両極のなかに非常に重要なものを見なければなりません。

 さて、近代においては残念ながら、この二元性、私がまさに人間の本性のなかに指摘したばかりの二元性を、治療のためにいくらか役に立つように指摘するようなきっかけはーー少なくとも私の知る限りではーー、一度もありませんでした。と申しますのも、皆さんもおわかりのように、私たちがここで考察しておりますような事柄はすべて、治療的なものと病理学的なものをひとつにまとめようというものだからです。病理学と治療法は、二つの互いに分離した分野であってはなりません。このことはまた、私がここで提示することをすべて、いわば治療法へと方向づけるよう導きます。そうすれば、病理学的に理解することが、さらに治療的に考えることを可能にするようになるのです。ですから私はまさにお聞きの通りの言い方でこういうことをお話ししているわけです。こういう治療法的なものへの方向付けということをほとんど考慮しないなら、非難するのはきわめて容易でしょう。

 よろしいでしょうか、このように、そうですね、例えば梅毒の外的な発生を知ろうとする人にとって問題なのは、実際確かにそうなのですが、本当に梅毒が現われるには、その都度どのくらい感染がなければならないのか、少なくともだいたいどのくらい感染していなければならないのか、ということなのです。これを単に確かめるだけであれば、まさにこういう確認が進んでいくうちに、病理学をいわば自立させて[emanzipieren 解放する、自由にする]しまうことになるでしょう。なぜならばーーいささかおおざっぱな比喩を用いるのをお許しくださいーー、こういう感染というのは、そもそも、実際梅毒の場合においてさえ、だれかが頭にこぶをこしらえたと聞けば、石か何かがぶつかったにちがいない、つまり何か打撃を受けたにちがいない、ということ以上に重要であるとは言えないのですから。打撃をこうむることがないなら、あるいは、れんがが頭に飛んできたりしないなら、こぶができるようなことはない、ということが正しいのは申すまでもありません。しかしこれをことさらに特徴づけてしまうと、治療プロセスを実り多いものにするような特徴付けに行き着くことはできません。なぜなら、結局のところ、頭に石か何かが飛んでくるということがどのように起こるのか、というのは社会的には非常に意味のあることかもしれませんが、治療に行き着くための生体組織の探究ということにとっては、このことがきわめて普遍的な意味を持っているとは言えないのではないでしょうか。人間の生体組織は、引き続き治療学においても役割を果たしてくれるような事柄を見つけだすように探究されねばならないのです。さて、梅毒の治療においても、私がお話しした事柄は大きな役割を果たします。治療プロセスはまさにこのことによって解明されるのです。ここでお話したことは、病理学的な重要性よりも、まさにこの両者(病理学と治療学)の間に橋を架けるためにお話ししたのです。

 私がこのことをお話しするのは、それによって、これらの議論はここである種の精神からーーこれは日毎に際だってくるでしょうがーー、育成されているということを特徴づけたいと思うからです。しかも今日においては病理学をますますいっそう自立させ、治療学の方へ導かないという傾向が出てきていますので、思考の方も、正しいしかたで追求されれば治療プロセスの探究にとってきわめて意味深い実り多い事柄から排除されているのです。するとこのような問いが出てきます、いわば宇宙的に末端的である人間と、地上的、地球的に中心的である人間との間にこういう二重性が成立していることは、人間の生体組織一般にとっていかなる意味があるのか、という問いです。人間のこの両方の部分は、力の組織が異なった現われかたをしているのです。末端的なものはすべて、形成するものとして現われてきます。そして末端的なもののいわば究極の行為は、人間のまさしく末端部に発現して、それに他ならぬ人間の形態を与えることなのです。

 ほとんど次のように言うことができるでしょう、人間の末端部において、人間そのもののなかの形成するものが、いかに珪素のなかの形成するものと共に作用しているかを、髪の毛の珪酸に対するふるまいという点でひとつ研究してみるとよい、と。皆さんは、人間が自らに介入させる度合い、あるいはこの介入に抵抗する度合いを、珪酸が人間の頭部形成に対していかなる力を保持しているか、いないか、というまさにこの点において研究することができるのです。ただ、人間を常に他の体格とともに一括して見なければならないのはもちろんですが。今日通りを横断して、はげ頭の人を総覧できれば、その人たちがどれほど珪酸ー形成プロセスを受け容れているか、それに抵抗しているか、その傾向がわかります。ここで与えられるのは直接的な直観[Anschauung]なのですが、これは本当の霊視ができなくても獲得できるとはいえ、自然そのものの働きにまで深く入り込んでいかなければ獲得できないものなのです。ここに現われてくるのは主に形成力なのですが、これは細胞形成力ではなく、人間の形態そのものがその究極の現われである総体的な形成力[Totalgestaltungskraefte]なのです。毛がたくさん生えているかどうか、などの皮膚の構成全体も、もちろんこの形態とみなします。これに対して、もっと中心に置かれているもの、炭素及び炭酸とより関係しているもののなかにあるのは、形態を解体するものであり、そこでは破壊、解体が作用しています。私たちは実際、私たちの内部で絶えず形態を破壊、解体しようとし、そして再び絶えず宇宙から形態を作り出そうとする、ということによって、生きています。私たちは人間として、絶えず形態に関して自分で自らを変形させようとし、そしてこの変形が繰り返し宇宙から調停される、ということによって生きているのです。人間のなかに存在しているのはこの二重性、形成[Gestalten]と変形[Deformieren]というこの二重性なのです。これらは人間の生体機構において共に作用しています。ここで想像してみてください、一方では、末端部の宇宙的な形成力(図参照、上からの矢印)があって、人間のなかへと作用しています。この力は心臓で地上的な力と出会います。ここで心臓によって均衡が作り出されることは皆さんにお話しいたしました。今度はこう仮定してみてください、人間のなかで作用しているこの末端部の力、本来心臓まで到達しようとする傾向を持っているこの力が、心臓そのものの機構において心臓のせき止め作用を受ける前に(図参照、右からの矢印)、先に膨張してしまい、滞留してしまう、と。この力が、心臓での大きなせき止めに至る前に、いわばせき止めの予行[Vorstauung]のように、膨張し、滞留する、と仮定しますと、人間のなかに低い度合いではあってもやはり、宇宙的、地球外的な形成力が人間に現われていることを示すものがある、と言えるのです。さて、対抗するこちらの力、消化と消化プロセスの変遷を通じてやはり心臓にまで作用する力、この力もまた、心臓に到達する前に、先に膨張してしまう、すなわち、地球的なものがここで膨張してしまう(図参照、右側)と仮定してみましょう。そうすると、ここで膨張し、凝縮しているのは、人間において霊的、物質的に形成するもの、頭部及び腸でのすべての分泌に関係しているけれども、心臓の活動には直接対抗しておらず、前もって一種の副次的活動をしているもの、そういったすべてのものということになるでしょう。するとここで得られるのは、一種の副次的消化といったものであって、これは、地球とその中心から発するものが、人間のなかの変形させるものとして、人間のなかの形態を解体するものとして、先に膨張することによって成立するのです。ここで私たちは人間のなかのこの二重性を器官的に固定させたわけです、つまり、一方の場合には女性の生殖器官、女性の性的なものが、後者では男性の性的なものが与えられたのです(図参照)。

図の文字(左から):Weibl.(女性的なもの)、Maennl.Geschl.(男性的・性的なもの)

 女性の性的なものを研究することができるのは、私たちがそれを、その宇宙的ー末端的な、形成する力への依存性という点で観察する場合です。そして、男性の性的なものを、その個々の形状に至るまで観察することができるのは、私たちがそれを、その地球的な解体力への従属という点で観察する場合です。

 人間の生体機構を真に科学的にこの点に至るまで深く探究する道がここにあるのです。この道においてはまた、そうですね、自らのうちに形成力を担っている植物的なものは、どのようにして形成力の麻痺している子宮であっても再び形成するように作用するのか、ということもわかるのです。人間の生体組織のなかの形成力をこのように研究すれば、皆さんは、植物界、鉱物界の形成力をも真に見出すようになるでしょう。このことは個別に観察していくつもりですが、もちろんまず最初に、ここで大きな関連全体に触れておかなくてはなりません。よろしいでしょうか、ひとたびこのような事柄が見通されれば、私たちもようやく真の胎生学というものを手にすることができるでしょう。今日いまだそれは得られておりません、なぜならば、胎生学上の発達の当初において宇宙的なものが強力に作用を及ぼしていること、宇宙は男性の精子と同様、女性の生体組織を受胎させるものであること、こういうことはそもそもまったく顧慮されていないからです。人間の胎生学上の発達の初期段階というのは、ぜひとも人間と宇宙との関係から観察されねばなりません。男性の精子によって植え付けられるものは、時間の経過とともに現われてきます。それによって、このとき宇宙が女性の生体組織のなかに移し入れようとしている形成力が変形される、つまり、宇宙が全体の形態に作りあげようとするものが、男性の精子によって個々の器官へと特殊化されるように変形されるのです。女性の生体機構の持ち分は、人間の生体全体の組織化にあり、男性の生体機構、男性の精子の力の持ち分は、個々の器官への特殊化、差異化、つまり個々の器官を分離させること、統一的な全体形態を変形させることにあります。このように言えるかもしれません、すなわち、女性的な力によって、人間の生体機構は、球体を形成することを目指し、男性の精子によって、人間の生体機構は、この球体を心臓、腎臓、胃などに特殊化していくことを目指す、と。女性的なものと男性的なものなかで、地球と宇宙というこの両極性が私たちに直接現われてくるのです。これはまたしても、人間の太古の叡智を前にして私たちが大きな敬意を抱き始める一点であり、ウラヌスがガイアを身ごもらせる、あるいはクロノスがレアを身ごもらせる、云々と語られるとき、私たちはまったく別の感情をもって耳を傾け始めるのです。この古代の意味深いイントゥイションに大きな敬意を示すにしても、それが単に神秘的な朦朧とした感情である必要はまったくありません。このような事柄を洞察し始めた人々が、私がしばしば耳にしたような、神話は現代の自然科学より以上に生理学を含んでいる、という箴言に同意するのは、最初は意外なことです。最初はひとにショックを与えるのです。それは理解できますが、そのなかには途方もなく多くの真実が含まれているのです。

 そもそも前進すればするほど、ますます次のように告白するようになる、ということです。つまり、このような関連についてもはや何も見ていない今日の方法は、人間の生体機構のなかに真に入っていくのにいかに適していないか、ますますいっそう告白せざるを得なくなるのです。

 この機会を逃さず再度申し上げておきたいことは、ここで私がお話ししていることには、例えば古代のものを研究することによって得られたものはひとつとしてない、ということです。ここでお話ししていることは、まったくもって事実そのものから実際に取って来られたものなのです。ただ、太古の叡智と一致していることを指摘することもあります。かと言って、私がここで皆さんに講義していることが、太古の叡智から取って来たものであるというのではないのです。ですから、ここで皆さんに特徴をお話ししてきました経過を追求して行けば、まず直観というものが現われてきて、それからそれが太古の叡智のいくつかに私たちを導いてくれるのです。例えば私自身は決して、そうですね、パラケルススの研究によって何かあるものに到達することを使命として表わすことはないでしょう。そうではなくて、私自身が発見したことが、どのように見えるか、パラケルススをひもといて調べてみたいという欲求にかられることがあるということです。ですから、私が提示しようするものを、このような意味で理解してくださるようお願いいたします。とはいえ、私たちが人間の生体機構の奥深くまで見つめると、精神科学的な見地から、太古の叡智に対して大きな畏敬の念を抱くようになるということも、ひとつの事実として認めなくてはなりません。けれども、これは、むろんこことは別の知の領域で扱われねばならない問題です。

 このことについては、さらに明日お話ししましょう、その前に、二つの二重性からの、女性的なものと男性的なものの出現について、ここで皆さんにお話ししたことを消化していただいていたわけです。これは明日見ていきますように、さらに深い関連を示唆するものなのです。

 

■原注

☆1 Walter Johannes Stein 1891-1957  シュトゥットガルトの自由ヴァルドルフ学校の歴史教師(1919-1932)。後にイギリスで活動。

■訳注

*1 アニス  セリ科の香草。一般的には種子をスパイスとして用いることが多く、甘い芳香に特徴がある。焼菓子に入れたり、リキュール類の原料にも用いられる。多くの図鑑では、アニスの学名は、Pimpinella anisum となっている。ヨーロッパでは民間で催乳薬として用いられる。

*2 チコリ  キク科、和名キクニガナ。明るい空色の花をつける。若葉は野菜として食される。根をコーヒーの代用品とすることでも有名。一般の薬草学においても、葉、花、種子、干した根、いずれも、利尿、健胃緩下等の薬効があるとされている。中国では全草が肝炎や黄疸の薬として用いられる。

*3 スギナ  トクサ科の多年生植物。これの胞子茎がツクシ。スギナの全草は利尿薬とされる。いわゆるトクサ(木賊、砥草)は Equisetum hyemale。 地上茎は円筒形で分枝しない。茎は珪酸を多く含み、固いので、18世紀まで、鍋類、特に白銅製品などを磨くのに用いられた。第五講(小冊子15ページ)参照。

*4 野イチゴ ワイルドストロベリー。ヤマイチゴ、エゾヘビイチゴ、シロバナヘビイチゴ とも。葉、根、実いずれも用いられ、冷却、収斂、強壮性のハーブとされる。

*5 ラヴェンダー シソ科の多年草。ハーブとしては最も有名なもののひとつ。花から取れる精油は香料、薬用に広く用いられる。

*6 メリッサ レモンバーム。香水ハッカの異名も持つ。シソ科の多年草。全草にレモンのような芳香がある。ディオスコリデスの「薬物誌」(紀元前一世紀)にも記され、古代から薬草として用いられた。ハーブティーとしても用いられ、リキュールの原料でもある。パラケルススはこれを「不老不死の霊薬」と呼んだと言われる。第八講(小冊子13ぺージ)参照。

ー参考ー

「ハーブ大百科」誠文堂新光社

「花の王国 第二巻 薬用植物」平凡社

「ハーブ 新来の香草たち」朝日新聞社


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