ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第12講

1920年 4月1日   ドルナハ


 治療を仕事としている人にとって、基調となっている感情は、外的、つまり人間の外部にある事実と人間の内部の事実との関連、これはまったく奇妙なかたちであらわれてくることもあるのですが、この関連を観察することによって、生じてくると思います。何と言っても、この関連を観察することを通じて、他ならぬ薬の本性に対する重要なイントゥイツィオーンが生れててくるからです。身近な例に触れるために思い出しておきたいのは、生体組織内で有効な役割を果たすさまざまな力を、ある種の状況において人間外部の自然のなかに先に準備しておくために、例えばロンセーニョ水[Ronsegno-Wasser]やレヴィコ水[Levico-Wasser](*1)のようなものが、ーー相対的に言ってーーまさに良い精霊によってどのように調合されているのかということです。このことーーこういう事柄については明日以降もっと詳しく特徴をお話ししていきますーーを考えてみますと、つまり、こういう水のなかでは、銅の力と鉄の力が実に驚くべきしかたで互いに補償し合っていて、さらに、この補償現[Abkompensieren]をもっと広い基盤に据える、と申しますか、そのために、こういう水のなかには砒素も存在している、ということを考えてみますと、次のように言うことになります、外界においては人間の何らかの状態のために実際何かが準備してあるのだ、と。こういうことが、人によってはきわめて不都合な作用をすることがある、という状況も必ず出てきます。しかしながら、こういう否定的な場合でさえ、普遍的原理の持つ普遍的な有益さというものが示されるでしょう。こういう事柄について語る場合、今日においては特にこのことに留意しておかなくてはなりません。と申しますのも、こういう事柄を観察するにあたっては、実際今日になってはじめて徴候が表われてきたある種の病状に遭遇する可能性も出てくるからです。ただ、忘れないでおきましょう、いわば地球の一部に全く特殊な状況が進行すると、全く特殊な形の人間の疾病が引き起こされる、ということが、現在、真にとらわれなく観察すればあらゆる面から認識されるのです。さらに忘れないでおきましょう、現在、非常に興味深いと言って間違いない現象は、今日発生している普通の流感のようなものでさえ、きわめて独特の特性を持っているということです。つまりこれは、本来は眠っている病気を呼び覚ましてしまうのです。生体組織を引きつけ、通常は生体組織の抵抗力によって隠されたままになっている病気、従って状況によっては死ぬまで眠ったままでいることさえある病気が、その人が流感に罹ることによって、ある種のやりかたで露呈してしまうわけです。

 以上すべてをまとめてひとつの問いの束(たば)にして、これを明日以降の講演の基礎にしようと思います。けれども、実り多い出発点にするために、私は皆さんに、もうひとつ別の奇妙な符合を示唆しておきたいと思います。これはもちろん精神科学者にとってのみ非常に深い意味をもって現われてくるものです。ご存じのように、私たちの回りの大気中では、一種のゆるい結びつき、そもそも、物理的にも、化学的にも正確に定義できない、と言いたいところですが、そういうゆるい結びつきかたで、酸素と窒素が互いに結合しています。さて、人間であり、地球の人間である私たちは、この酸素と窒素から発する活動にもとより完全に織り込まれています。そのためすでに最初から、この大気中でそもそも酸素は窒素に対してどう関係しているのか、原理的にどう関係しているのかが重要である、と推測できるのです。

 さてここで重要なのは、空気の組成の変化、これは酸素と窒素の正常な関係を何らかの方向に変化させることを目指すものですが、この変化と、人間の睡眠プロセスにおける障害が結びついていることを、精神科学が私たちに示してくれることです。このことはさらに、今度はその背後に隠されている関係一般をもっと厳密に調べてみることに通じます。ご存じの通り、精神科学において私たちは、人間は、物質体、エーテル体、アストラル体、自我という四つの構成要素から成り立っている、と言わざるを得ません。さらに私たちは事実から、自我とアストラル体は眠りにつく時に、抜け出るということの意味をもっとダイナミックに理解できればの話ですが、そういう意味で抜け出て行き、そして目覚めと同時にまた入り込んでいく、とも言わざるを得ないのです。従って皆さんは、こう言わなければなりません、睡眠状態では、アストラル体は自我に、エーテル体は物質体に結びついたままであり、したがって私たちは、目覚めた状態においては、一方ではアストラル体と自我、他方ではエーテル体と物質体の関係が、(睡眠中の)アストラル体と自我、エーテル体と物質体の関係よりもっとゆるいことに注目しなければならないのです。(両者の)関係がもっと不安定なのです。このより不安定な関係、人間の上位二つの構成要素である自我とアストラル体間と、下位の構成要素であるエーテル体と物質体間の関係、人間の内部のこの不安定な関係は、外部の空気中の酸素と窒素の不安定な関係を、忠実に反映しています。両者の相応のしかたは実に不思議な驚くべきものです。外部の空気の組成は、これが同時に、アストラル体とエーテル体の結びつき、あるいは、これらに結びついている物質体と自我の結びつきに対する比例数を与えるように設定されているのです。

 このことはさらに当然、私たちが空気の組成にどう関係しているのかを考慮させるでしょう。私たちが人間に正しい空気組成を供給できるのか、あるいはなしですませることができるのかどうか、いかに注意しなければならないかを考慮させるでしょう。いわばもう少し生理学的なものに入っていくことができれば、皆さんはこの相応関係を知覚できるのです。さらに、今日よく知られていて、人間の生体組織内に何らかの関わりがある物質をすべて通過していくと、これらの、人間の生体組織とそのプロセスになんらかの関わりがある物質はすべて、人間の生体組織そのもののなかで別の物質と結びついていることがおわかりになるでしょう。たいていの場合、結合したり解かれたりしています。ただ、酸素と窒素だけは人間の生体組織のなかでそれ自体自由に現われています。つまり、外部で空気を構成しているものは、人間の生体組織そのもののなかでもまったく特別な役割を果たしているということです。人間の生体組織にとって、酸素と窒素はその相互作用により、まさに物質的なものの中心点を占めているのです。酸素と窒素は人間の生体組織の諸機能に関わっていて、しかも自由な状態で作用する唯一の物質として関わっているのです。酸素と窒素の作用のしかたが、人間の生体組織のこれらが占めている領域で結びついている他のものによって修正されることはありません。このことから、私たちが人間の外部にある本質から人間の生体組織の内へと追求できるものだけに意味があるのではなく、私たちは「どのように」ということも追求しなければならないということがおわかりでしょう。つまり、その働きが独立したものなのか、他のものと結びついているのか、といったことです。なぜなら、奇妙なことに、人間の生体組織においては、物質は互いにまったく独特の類縁性、親和性を獲得するからです。つまり私たちがある物質を採り入れ、別の物質がすでに生体組織のなかにあるとき、こういう類縁性、親和性が生じ得るのです。この考えをさらに追求していくと、皆さんはまったく特定のイントゥイツィオーンへと導かれます。精神科学はこのイントゥイツィオーンを示唆しなければなりません。ご存じのように、植物、動物、人間の生体組織の基礎になっているのは、プロテイン、蛋白質です。現代の化学の意味するところでは、蛋白質の主要な構成要素は、自然における四つの重要な物質、炭素、酸素、窒素、水素であり、さらに、これら四つの物質がすることをくまなくホメオパシーする[durchhomoeopathisierend]もの、とでも申し上げたいものとして、ズルファ[Sulfur]つまり硫黄[Schwefel]が加わります。

 さて、蛋白質、プロテインの機能、内的機能はそもそもいったいどのようにして現われてくるのか、考えてみることがどうしても必要です。現代の化学は、当然のことながら、そもそもその前提からして次のように言う方向にあります、つまり、このような物質の構成というのは、たぶん、その内的な力によってこの物質に課せられているのだ、と。そしてその必然的な帰結として、実際は同一でない、しかも想像されている程度ほども同一でないものが、同一化されてしまうのです。ある種の差異は定められても、同一性というのはまったくあてはまらないのにです。そもそも植物の蛋白質と動物の蛋白質を、かなり類似したものとして、少なくともある程度までは化学的に同一な何かであると想定するのは、結局蛋白質の構成についてのこういう原子論的な考え方の帰結にすぎません。けれどもこれは全然見当違いで、人間の生体組織を正確に観察すれば、事実はこうなのです、つまり、植物の蛋白質は、動物の蛋白質ととりわけ人間の蛋白質を中和させている、これらは互いに対極な関係にあり、一方は、他方の作用を密かに消し去るのだ、ということです。奇妙なことに、動物の蛋白質の作用は、植物の蛋白質の機能によって、妨害され、相殺される、部分的にか、あるいは完全に相殺される、ということを事実として認めざるを得ない、ということが起こるのです。そしてこう問いかけることになります、それでは、動物のあるいはとりわけ人間の生体組織のなかでそのような物質として生じているものと、植物の生体組織のなかで生じているものとの違いは、いったいどういうものなのか、と。ーーよろしいですね、私はここ数日間、あらゆる気象的なもの、とでも申しますか、地上的でないもの、そういうものに対して、四つの器官組織、つまり膀胱、腎臓組織、肝臓組織、肺組織、そしてこれに加えて心臓組織、これらの器官組織がある重要な役割を果たしていることについて、しばしばお話しせざるを得ませんでした。これら四つの器官組織は、外的なもの、気象的なものに対する人間の関係において、本質的な役割を果たしています。さて、より内密な意味で、この四つの器官組織とはそもそも一体どういうものなのでしょうか。

 この四つの器官組織が意味していることは、これらが人間の蛋白質の構造の創造者であるということに他なりません。この四つの器官組織こそ、私たちが研究しなければならないものなのです。私たちが研究しなければならないのは、蛋白質の分子的、原子的力ではありません。そうではなく、なぜ蛋白質はこのようなのか、と自問しようとするなら、私たちは蛋白質の内的な構成を、これら四つの器官組織から発するものの結果として把握しなければならないのです。蛋白質とはまさに、この四つの器官組織の共同作用の成果なのです。これによって、人間における外的な作用の内面化についてもいくらか語られているのです。私たちは、今日の化学が物質そのものの構造のなかに探究しているものを、器官組織の内部へと移行させなければなりません。したがって人間の蛋白質はその構造という点で、この地上の領域においてはまったく考えられないものです。人間の蛋白質は、これら四つの器官組織の影響下になかったら、その構造のまま存続することはできません。どうしても変化せざるを得ないのです。

 植物の蛋白質の場合は事情は異なっています。植物の蛋白質は、この四つの器官組織の影響下にはありません、少なくとも、見かけの上では影響を受けていません。けれどもこれは別の影響下にあります。つまり、酸素、窒素、水素、炭素の影響、そして外的気象的自然全体のなかに常にあるものの影響、さらに上記の四つを媒介する硫黄の機能の影響、これらの影響下にあるのです。植物の蛋白質においては、大気のなかに散在しているこの四つの物質元素が、人間のなかでは心臓、肺、肝臓その他が行なっていることを行なうわけです。人間内部の自然においてはこの四つの器官組織に個別的に含まれているものが、人間外部の自然においては形成力という状態でこれら四つの物質元素のなかに存在しているのです。次のように考えることが大切です、つまり、私たちが酸素、水素という名称を口に出すとき、単に今日の化学が言うところのこれらいわゆる元素のなかの内的な力としてあるもののことを考えるだけであってはならず、これらの元素を、形成力、作用力とともに考えなければならない、ということです。しかもこれらの元素は、その作用が地上にあるさまざまなもののために共に貢献することによって、常に互いに関連し合っています。私たちが個々のものに入って行って、酸素が外部に留まっている状態ですることを内的器官と一致させるとすれば、腎臓ー尿組織と内的に一致させなければなりません。炭素が外部でその形成力を展開するときにすることを、私たちは内的に肺組織と一致させなければなりません、ただし、ここでは肺組織を呼吸組織として捉えるのではなく、独自の形成力を有しているものとしての肺のことです。私たちは窒素を肝臓組織と、水素を心臓組織と一致させなければなりません(図参照)。外部の水素は実際のところ外界の心臓であり、窒素は外界の肝臓である、等となります。

S:硫黄 O:酸素 Nieren-Harnsystem:腎臓-尿組織

N:窒素 Lebersystem:肝臓組織  H:水素 Herzsystem:心臓組織

C:炭素 Lungensystem:肺組織

 望むらくは、現代の人類がこういう事柄を認知するよう単に調教されるのではなく、人類が自らこういう事柄を苦心して獲得するのなら良いのですが。と申しますのも、よろしいですか、心臓組織が水素の形成力と親和性を持っていることに注目するなら、即座に水素生活そのものが人間の上部全体に対して有している重要性も認めざるを得ないからです。なぜなら、上部人間に向かって水素が進化していくのに伴って、下部のもっと動物的なものが本来の人間的なものに、表象その他へと向かうものに変化させられるからです。けれども、これも皆さんにお話ししなければならなかったのですが、ここである影響、つまり、地球外の影響であり、私たちが鉛と同一視しなければならなかった影響に到達するということです。私たちが、鉛、錫、鉄を上部人間と関わりのある力とみなしたことを覚えていらっしゃるでしょう。このようなことを認める傾向は今日まだあまり大きいとは言えません。人間から外に出ていって、鉛作用のなかに、なにか特別なもの、つまり人間は心臓を通じて水素を、思考器官の調整のための担い手となる水素を準備する、ということと関係する何かを見るような、そういう傾向は今日まだそう大きいとは言えないでしょう。けれども、人間の進化を無意識に駆り立てるものがーー何らかのアジテーションによってではなく、人間の進化を無意識的に駆り立てるものが調教する、という意味ですーー人類をこういう事実を認めるように調教していきます。と申しますのも、鉛が人間の外部の自然において何らかの役割を果たしていることは、単にその機能にしたがって観察するだけでも、もはや今日の人間には実際否定できないことだからです。なぜなら、科学が確認したラジウムの崩壊生成物[Umwandelungsprodukute]のもとで、ヘリウムの分裂とならんで実際に鉛が発見されたからです。ここで鉛が発見されたように、今日いわゆるその原子量にはまだ完全に正確には一致していないにしても、それはもう鉛とみなされているのですが、ちょうどそのように、錫も発見され、また人間の外部にあるけれども、同時に人間外の自然から唯一のものとして人間(内部)の自然に介入してくるものによって、鉄も発見されるのです。今日、私たちは単にレントゲン科学であるようなもの、レントゲン科学は実際、このように人間の外部に出ていくことと、この地球上で私たちに与えられている単に無骨な金属だけではなく、地球外のものから作用してくる金属の力に行き着くための、素晴らしい指針を提供してくれますが、こういうものによってのみ調教されるのではないことは必然的だということです。これこそ今日語られなければならないことなのです。なぜなら、今日の新種の病気とでも申し上げたいものが発生するときこそ、私たちはこういう事柄をぜひとも考慮しなければならないことに気づくでしょうから。

 今さしあたって特に私たちの興味を引きつけるにちがいないことは、外部の炭素、水素、酸素、窒素であるものは、硫黄によって媒介されるその相互作用において人間のために個別化されて、四つの器官組織が内的にこれを受け取るということです。さて、このような事柄を正しく観察するなら、このようなやりかたで人間を観察すれば、どれほど深く本来の人間というもののなかをのぞき込むことができるか、きっと感じ取ることができるでしょう。そうすれば、人間において不随意なもの、最初はその霊的な機能に直接支配されていないように見えるものが、人間の外部にある自然全体と関係づけられても、そのときはもはや、いわば不思議とは思われないでしょうから。何しろ以下のようなこともまた本当なのです。人間はいわば腎臓組織を持つように構成されています。しかしこのような組織はそれぞれ(人間の一部分ではなく)全体人間になろうとする傾向を持っています。実際これら四つの組織それぞれが常に、全体人間になろうと努めているのです。つまり、こう申し上げたいのです、腎臓はその機能とともに全体人間になろうとする、心臓は全体人間になろうとする、肝臓組織は全体人間になろうとする、肺組織は全体人間になろうとする、と。

 さて、ここで考察したこのような事柄について確かめるために意味のあることは、人間の外部にあるもののある種の作用を、私たちはいかに自分自身で人間のなかに観察できるか、ということに視点を、もっと良い言い方をするなら感受点を向けてみることです。ここで、自然科学的なものと精神科学的なものとの境界を明確に指摘することが不可避となってきます。よろしいですか、皆さんが医学的ー瞑想的生活において前進すれば、つまり皆さんがますます熟達して瞑想的生活と調和するようになり、自らを瞑想する人と感じることができるほどになれば、皆さんは実際のところ、具体的な本当の自己認識というものをますますいっそう獲得するようになります。この具体的な本当の自己認識というものは、積極的な課題、例えば人生における治療といったことが問題になる場合には、実際軽視できないことなのです。皆さんが瞑想において進歩すれば、以前にはまったく意識されなかった事柄が、自身の生体組織のなかで意識されるようになるということに、ここで皆さんは気づかれるでしょう。ただ、ここで意識のなかに上昇してくるものについて、皆さんは釈明をせねばなりませんが、外面的な公開講演や一般向け講演では、全く特定の傾向が生ずるために、現在のところまだお話しすることは困難なことが、皆さんに意識されるようになるのです。私が今注目していただこうとした、こういう基本的な事柄について語られるとしたら、今日こういう事柄が、現在の人類のような道徳的状況のもとで比較的大きなグループに伝えられるとしたら、すぐさまこういう質問が出るでしょう、どうしてこれを活用しないのか、と。つまり、そう、それでは私に瞑想せよというわけですね、それなら、あの物か、この物を供給すりゃいいんです、そのほうがずっと簡単じゃありませんか、というわけです。ーー瞑想する代わりに、何らかのものを服用するほうが容易ではあります。その人はそれによってある意味でまさに道徳的に自らを滅ぼすことになるのです。それでもやはり、現在の道徳的人間の状況をもってしては今日人々は屈することなくーー私が何のことを言っているのか、すぐおわかりになるでしょうーー、瞑想する代わりにむしろ、何らかの外的な薬物を服用しようとするでしょう。そういう薬物は、さしあたりその道の最初の数歩においては瞑想することによく似た結果を与えてくれはするでしょうけれど。実際このようなことはあり得るのです。と申しますのもよろしいですか、つまり、皆さんが一定期間真に瞑想を継続して、こういう事柄について釈明をする傾向を持てるようになれば、通常、自分にはものをつかむ手がある、歩行する足がある、と意識的に知っているのとまったく同じように、放射する鉄の作用を意識するようになっていることに気づかれるでしょう。鉄の作用そのものの意識が現われてくる、というのは事実そうなのです。この意識は、自分に腕や脚がある、あるいは回転させるなどすると頭がある、と通常はっきりわかるのとまったく同じように明確なものなのです。自らを鉄のファントム[eisernes Phantom](*2)と感じる、こういう意識が生じてくるのです。私が言っているのは、すると当然人々がやってきてこう言うだろう、ということです、そうですか、つまり何かを外的に服用することによって自分のなかにある固有の鉄に対する鉄感度、敏感さを高めることができるわけですね、そうすれば同じ作用が得られるのですから、と。つまりこのことはある数歩のためには全く正しいのです。しかし、人々が、いわゆる「霊視」[Hellsehen]のための手軽な方法を得るためにもっぱらこういうやりかたで実験し始めるとしたら、これは危険なことでしょう。こういうことは実際さまざまに行なわれているのです。こういうことが、人類のための供犠、とでも申しますか、そういうものとして行なわれるとしたら、それはまた別物です。けれども、好奇心から行なわれるならば、これは人間の魂の道徳的構造を根底から破壊するものなのです。こういう方向で自らを用いていろいろと実験し、まさにこの道において、今日でも皆さんがその著作のなかに見出せることを数多く発見した人物は、ファン・ヘルモント(☆1)でした。パラケルスス(☆2)においては、事態はむしろ、次のような感情を抱かせるものでした、彼の認識は隔世遺伝のように内部から立ち昇ってくる、彼はその認識を地上を超えた世界からこの世に携えてきたのだ、と。他方、ヘルモントの場合は、常に彼は自分自身にあれやこれやを供給して、独特の見解を得ていたということです。彼が叙述している方法からそれを見て取ることができますし、彼自身個々の箇所においてこれを暗示していることは、私が思いますに、非常に明白です。もっとも手近に獲得され得ることは、放射する鉄の作用に対する敏感さ、上部人間から放射作用が発し、それが四肢のすべてに分岐していく、ということを証明するこの鉄の奇妙な作用に対する内的な敏感さです。私たちは、鉄で、すなわち、鉄の機能、鉄の力を用いて自らの内部で経営をしているということをありありと直観できるーー私ははっきり直観[Anschauung]と言いますーーのです。

 しかしここで、私がこの鉄の放射を図式的に示したいと思うなら、私はこれについて同時に、これが鉄の作用としては、人間の生体組織を超えて作用を及ぼす能力はない、ということに言及しなければなりません。私たちは常に、ここで放射しているもの、これは人間の生体組織のなかに局所化されている、生体組織の内部にとどまっている、という感じを受けます。この鉄を放射する力がせき止められるきっかけを与えるような、対抗作用をするものがいたるところに見られます(図参照)。次のように言えるかもしれません、これはちょうど、鉄がポジティヴに周辺部に向かって放射し、それからネガティヴに反射されてくる場合のようだ、しかも球面波を描くように投げ返されるものによって、と。これはまさしく、放射するということと、再び阻まれるということ、つまり鉄の放射が突き当たり、通り抜けることができず、とりわけ体の表面を超えて出ていくことはできない、ということ、この両方を知覚することなのです。これに反射するものが他ならぬ蛋白質の力であること、したがって、鉄を通じて、生体組織のなかにある機能連関が導入されること、これに対して、私が少し前にお話しした四つの器官組織から発するすべてのものが反対の作用をすること、こういうことに私たちは徐々に気づくようになります。これらは互いに阻止し合います。生体組織においてはこういう闘いが絶えず存在しているのです。これが、内的な直観によっていわば真っ先に知覚され得ることなのです。人間の精神史の研究へと進むと、ヒポクラテスの医学、そしてガレヌスの医学さえまだ、このような内的な観察の残滓によって営まれていることがはっきりとわかるでしょう。ガレヌスはもはや自らはあまり知覚することはできませんでしたが、当時まだ、もっと古い時代のあらゆる可能な伝統が残っていたので、彼はそれを書き留めたのです。彼の著作を正しく読むことができる人は、実際ヒポクラテスとともに没落し始めた古代の遺伝的に伝承されてきた医学のうちのまだ多くが、ガレヌス(☆3)において光を発しているのを見出すことでしょう。したがって、自然療法のプロセスについての重要な見解も、ガレヌスの著作そのもののなかに数多く見出すことができるわけです。

 さて、こういう事柄を追求していくと、人間生体組織全体におけるこの二極、つまりこういう放射と、それに対抗して滞留させるもの、放射を止めるもの、という二つの極を総じて研究することになります。こういう事柄に注目するのは大切なことです、なぜなら、私がお話したようなしかたで蛋白質を形成するような傾向にあるものはすべて、せき止める作用と常に関連し、金属として人間の生体組織に取り入れられるものはすべて、放射作用と関連しているからです。このなかにはむろん、意味深い例外もありますが、これは途方もなく特色あるものであり、まさにこの途方もなく特色ある例外を手がかりに、全宇宙のあらゆる可能な角度から働きかけてくる諸力の、人間の生体組織におけるこの独特な共同作用の全貌を、奥深くまで見通すことができるのです。そのためには、すでに私が暗示しましたことをもう少し追求して、皆さんがこれをさらに個別的に形を整えて考えることができるようにしていくことが不可欠なのは言うまでもありません。例えば私は次のようなことに言及しさえすれば良いのです、すなわち、植物における炭素にはーー昨日植物炭を取り上げてこれを見ていきましたがーー、動物の蛋白質がたいてい持っているもの、本来は常に持っているもの、つまりある種の窒素成分が欠けている、ということです。これが、燃焼に対しても動物の炭素と植物の炭素とではまったく異なった関わりかたをしている原因となっているのです。これはさらにまた、動物の炭素が、たとえば胆汁や粘液、さらには脂肪といったものの生産の際にいくらか関与しているという傾向も引き起こしています。この、私たちが動物炭と植物炭の相違のなかに見るもの、これが、人間の生体組織において金属的なもの全般が非金属的なものとは異なった作用をする、その作用のしかたに注目するよう、私たちを導くのです。

 さて、このまさに対極的な相互作用に注目すると、非常に重要なことに到達します。ご存じのように私たちは、精神科学を説明していくなかで(☆4)、人間には生の周期というものがあることをしばしば強調しなければなりませんでした。幼児期から歯牙交替期までの期間、それから性的成熟に至るまでの期間、さらに、二十代初めまで続く第三の期間です。これらの周期は事実、人間の生体組織における内密な出来事と結びついていて、次のように言うことができるのです。歯牙交替をもって終わる最初の期間は、実際私がしばしば特徴をお話ししてきたことですが、これは自らを制限すること、堅固な骨格の分離へと、堅固な骨格の付与へと人間の器官活動全体をいわば集中させることなのです。この期間は、この堅固な骨格が外に向かってまさしく歯を送り出すことで終点に達します。さて、実際まだ大部分液体的である人間のなかでこのように堅固さへと突進すること、堅固なものへのこの突進が、人間の形態の形成全体、とりわけ周辺部に向かう人間の形態の形成と関わっているにちがいないことは明白です。そしてここで非常に注目すべきことは、ここで起こっているすべてのことに密接に関与しているものを、もともと通常は人間の生体組織のなかで注意を払われることがあまりにも少ない二つの物質に帰さねばならないということです。それはフッ素とマグネシウムです。フッ素とマグネシウムは、希薄化された、と申しますか、そういう状態で人間の生体組織のなかに現われるのですが、その希薄化された状態で、まさにこの幼児期のプロセスにおいて歯の生え変わるまで、非常に特別な役割を果たします。この、固定化を人間の生体組織に組み込むにあたって起こっていること、これは、マグネシウムの力とフッ素の力の絶えざる相互作用であり、その際、フッ素の力は、人間のなかで彫刻家のように作用し、角を削り、放射するものを止めることを引き受けますが、マグネシウムの力は、放射するように作用し、繊維束その他を組織化し、さらに石灰質をその内部へと組織することができるようにするのです。ですから皆さんがこうおっしゃるとしても、けっして無意味なことを主張しているのではなく、自然において起こっていることに驚くほど符合することを主張しているのです。つまり、歯というのは端的に、その周囲、つまりセメント質とほうろう質に関して、彫刻家であるフッ素が歯を形成し、そこで造形されるべきもの、マグネシウムが流れ込むことによって出来上がっている、と。ーーしたがって、幼児期の初めには、マグネシウムの供給とフッ素の供給の間にいわば正しい釣り合いをもたらすことが非常に大切である、と申し上げたいのです。そうすると皆さんは、この釣り合いがきちんともたらされなければ、早い時期に歯が損なわれてしまうのは確実だ、と常に体験からおわかりになることでしょう。ぜひとも必要なのは、最初の歯が生えてすぐ、子どもの歯の形成を、ほうろう質の発達が遅れているか、あるいは歯の成長が矮小化に向かっているかどうかーーこのことについてはもっと詳しくお話しせねばならないでしょうが、今は円を描いてこのことに接近しつつ暗示しておきたいと思いますーー、観察することです。さらに、その際それに適した食餌療法によって、しかるべく結びつけられたフッ素の供給かマグネシウムの供給によって、あれこれの病気が取り除かれるように気を配ることも必要です。これによって私たちは人間の形成プロセスを直接見通すようになります。私たちはマグネシウムとフッ素の間のこの相互作用を、つまり、これらは、人生の最初の数年において、この人生の最初の数年間は人間は実際外界の一部に他ならないので、その物質構成に従えば人間の外部にあるという性質がきわめて強いものなのですが、この両者の間の相互作用を見出すのです。ここではフッ素は外界から取り出されます、つまり人間の外部にあって金属の放射する作用に対抗しようとするものから取り出されるのです。

 人生の第三期を取り上げてみると、この時期にとっても同様に、鉄と蛋白質そのもの、蛋白形成全体との間の均衡を正しく取るということが非常に問題になってきます。この均衡が正しく取れず、この正しくない均衡、つまり蛋白質と鉄の間の正しくない相互作用を生じさせるものに対抗する強い反対の形成作用が現われないと、外的には萎黄病[Bleisucht]に現われてくるようなあらゆる症状が出てくることになります。ですからなおさら必要なことは、単に人間をその発達においてざっと見るだけではなく、つまりその人があれこれのことを示しているーー後にだめになる歯というのは、すでに幼児期に準備されていて、これが後の年齢になってから歯を損なうことになるのです、あるいは委黄病においても今日化学的に語られていることのみ注目されていますーーということを見るだけではなく、病気の人間に現われていることについて何かを理解しようとするならば、人間の生体機構の秘密全体のなかに入り込んでいかなくてはならないということです。

 皆さんはこれでおおよそ、人間の生体組織の構築、つまり内的な構築に関与しているのはどのような金属か、おわかりではないかと思います。ある種の関連では最も重要な金属として私が皆さんに示した金属、鉛、錫、銅、水銀、銀および金はーー鉄を例外としてーーこれに関与していないのです。これらは、申し上げましたように鉄を例外として、人間の生体組織の全体的な機能には直接関与しておりませんが、それだから人間に関与していることが少ないというわけではないのです。いわばおおむね人間の生体組織の末端部に向けて置かれているものの形成に関与しているものを追求すると、私たちは珪素[Silicium]に至ります。このことについてはすでにお話ししました。けれども、人間に起こっていることは単に皮膚の内部にあるのではなく、人間は宇宙的なプロセスに紡ぎ込まれているのだとここで言われなくてはなりません。人間の生体組織の内部では、皆さんにおなじみの物質が意味を持っているように、人間の生体組織の外部では、私がまさにここで列挙した金属が、人間にとって有効な、意味のあるものなのです。ただし鉄には媒介する役割が与えられています。鉄はいわば、人間のうち皮膚の内部に置かれているものと、皮膚の外部に置かれているものとの間を媒介する役割を引き受けているものなのです。これによって私たちはこう言うことができます、肺人間、これもまた全体人間になろうと努めているのですが、この肺人間のなかに現われてくる組織全体は、人間と宇宙的な自然生命との関連全体と密接に関わっているものだ、と。はっきり理解しておかなくてはならないことは、人間を単に解剖して文字どおり目の前に与えられたものを見るだけでは、結局人間の一部を観察しているにすぎない、ということです。それは全体的な人間ではなく、人間のうち、人間に属している人間外部のものに対抗する作用をしているものだからです。逆にこの人間の外部にあるものは、鉛、錫、銅その他の作用において、人間の本性そのものの外に含まれている作用において成立しています。ですから、自然科学的な意味で人間の生体機構だけを観察するときでさえ、私たちは決して、人間をその皮膚によって境界づけてはならないのです。したがって、ここから見て取ることができるように、人間においては、単にいわば内から外へと働く作用だけが問題なのではなく、人間においては、そもそもその器官的なプロセスに何らかの方向を与える作用も問題になる、ということです。こういうことを考慮に入れるということは、以下のことから非常に深い意味を持って引き出されてくることではないでしょうか。

 ご存じのように、人間の生体組織のなかのある種の物質は、端的に次のようなことによって作用しています、つまり、その物質が塩基に結びつけられて現われるか、あるいは酸に結びつけられて現われるか、あるいは、科学において言われるように中性として塩のなかに現われるか、いずれかによって作用しているのです。けれども事態は、塩基から酸への、その後塩において一種の中性状態に至る対立する二極の力組織としての、この塩基から酸へという特性では言い尽くされません。そうではなく、ここで考慮されるべきは、この、酸、塩基、塩という三重性が、そもそも人間においてその器官の力の方向全体とどのように関連しているか、ということです。ここでおそらく見出されることは、塩基的なものはすべて、人間の、そうですね、口のなかや消化において、前から後方へと継続を始める作用を支える傾向を有し、同様に、前から後方へと経過する他のすべてのプロセスも、これに関わります。塩基は、この前から後方へという方向に関わりがあり、酸はその逆の方向に関わるのです。前部の人間と後方の人間というこの対比に注目するときのみ、塩基的なものと酸的なものとの間の対比に辿り着くのです。塩的なものは、地球に向かって、両者に垂直の位置にあるものとして、これに関係します。上から下へと経過する作用はすべて、塩的なものがそのなかに入り込んでいるものです。したがって、人間が、塩基的なもの、酸的なもの、塩的なもののなかに、どのように置かれているのかよく考えてみようとするなら、これらの三つの方向をぜひとも考慮しなければならないのです。ーーそうすると皆さんは、人間の観察を通して純粋に外的な金属の科学と、生理学的なものとの間に橋を架けるような例を再び手に入れます、そのときは正しい力を得ているからです。こうして皆さんに、塩的なものと地球との親和性全体、塩基的なものと酸的なものの持つすべてが与えられたわけです。これは例えば次のように図式的に示すことができるかもしれません、ここに地球があるとすると、塩的なものは地球に向かう傾向を、塩基的なものと酸的なものは、地球の回りを円を描いて回転する傾向を持つのです。そしてやはりこのことと関連しているのは、生体組織のなかに与えられている機能の方向を、何らかの方法でよく知ることによって、この機能の方向に逆に介入することもできる、ということです。ここで重要なことは、外的な手段による、つまり塗布や軟膏、外的に作用するあらゆるものによる治療です。すると今度は、ある種の方向に向かって外的に作用するものが研究されねばなりません。状況によっては、ぴりぴりする芥子軟膏の作用や、何らかの金属軟膏の作用ーーもちろんしかるべく調合されたーーが、生体組織にとって内的な処置に劣らず大きな意味を持つこともあるのです。ただーーこのことは、たった今私が申し上げたことから皆さんに明らかになるでしょうがーーどういうふうにこれを張り付けるべきか、どのように用いるべきか、見ていかなくてはなりません、と申しますのも、あれやこれやのことが起こっているとき、ある膏薬を、身体のある箇所に塗るか別の箇所に塗るか、ということは、むろん決してどうでもよいことではないからです。本質的なことは、身体のしかるべき場所に塗ることによって、損なう力に対抗する反対の作用を引き起こすことだからです。痛む箇所やひりひりする箇所におおざっぱに塗るのは、常に正しいこととは言えないでしょう。

 

□原注

☆1  Van Helmondt   第1講参照。

☆2  Paracelsus  第1講参照。

☆3  Galen      第1講参照。

☆4 (原文に)「説明」という語[der Darlegung]を挿入する必要がある。

 

□訳注

*1  Ronsegno-Wasser, Levico-Wasser  レヴィコ水(Levico-Wasser)は、北イタリアのトレント郊外のヴェトリオーロにある、鉄、銅、砒素を含んだ鉱泉の水のこと。これについては、邦訳のシュタイナー「治療教育講義」(高橋巌訳/角川書店/P122)にも出ている。Ronsegno-Wasser(ロンセーニョ水)もおそらくそうした鉱泉の水だと思われる。

*2  ファントム  神秘学的に言えば、物質としての肉体に先立って、本来可視的ではない、純粋な形式そのものがあり、この眼に見えない肉体形式が、ファントムと呼ばれる。この形式ーファントムに物質素材が入り込んで、私たちが通常見ている肉体が成立する。パウロが「コリント書」で言っている「霊の体」もこのファントムのこと。このファントムを理解することで「キリストの復活」を理解する鍵が得られる。  

□参考: 高橋巌 「千年紀末の神秘学」

     GA131 Von Jesus zu Christus 「イエスからキリストへ」


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