ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第13講

1920年 4月2日   ドルナハ


 まず最初に、とりわけ三つの事実を順に取り上げて、唯物的な方向に偏っている医学上の考え方をもっと精神科学的な方向へと導いていくことができるかもしれませんが、これは、今からお話ししていかねばならない事実においてきっと可能になると思います。これは、腫瘍形成と、とりわけ場合によっては可能な、腫瘍の治癒ということに関連するすべてを観察する場合に可能でしょう。さらに、いわゆる精神病について真に理にかなった理解をする場合、そして、外的な手段を適用するため、つまり軟膏などを塗ったり擦り込んだりする際に身につけておくべき治療上の知識が問題となる場合にも、このことが明らかになるでしょう。通常のフィジカルな検査によってはーー少なくとも精神科学的な見解が方向性を与えることがなければーー、癌腫形成にその頂点を見るあらゆる腫瘍形成、といった事柄に接近することなど、私たちにはほとんど望めません。今日、精神医学においてかくも悲惨な状態であるのは、とりわけ、精神医学から人間の意識の内部へと橋を架けることーー自然においてはいたるところに架け橋を見出せるのですからーー、つまり通常の他の病理学、治療学のために橋を架けることができていないためです。それで、人々がしぶしぶ精神科学的な考察に入っていくのは、ひょっとするとこの両分野が一番早いのではないかと思うほどです。とりわけ不可欠なのは、精神科学が語るであろうことをすべて考慮することです。今日私の著書に注意を払うだけで、この方向に向かってもう多くが語られていることがわかるでしょう。つまり、人間の生体組織にエーテル体が完全に介入しているということに注意を払っていかなければならないのです。

 人間の生体組織におけるエーテル体の活動について語るためには、何も絶対に霊視者でなければならないというわけではありません。と申しますのも、まさにエーテル体の活動とは反対に位置づけられる非常に多くのプロセスにおいて、エーテル体が特定のしかたで働いていなかったり、少なくとも正常に働いていない、ということを見て取ることができるからです。ですからこの分野において有効な想定ができるためには、炎症に関連するもの、炎症を基盤として展開してくるすべてのものと、腫瘍形成に関連するもの、いわば腫瘍形成から発して人間の生体組織を破壊するすべてのものに、一度注目することが必要でしょう。腫瘍形成の場合、次のような努力、つまり正当な理想に基づき、腫瘍ができた場合にも外科医のメス無しで済ますことを繰り返し要求するということは実際非常に正しいのです。ただ今日の社会状況、これこそ同時に変えていかなければならないのですが、この社会状況ーー外的な社会状況ではなく、医学とりわけ衛生学が入り込んでいく社会状況ですがーーではまだ実行できません。重要なのは、外科医のメスが達成することとしないことーーある種の関連では達成するといえるのですが、やはりできないこともありますーーを補完することなのです。今日単に他の方策がないというだけの理由から、外科医のメスを支持している非常に多くの人々が、方策が講じられさえすれば、その瞬間に反対の方へ転向することは疑いありません。

 さてここで皆さんに、炎症経過の本質全体を、その器官によってさまざまに異なる特殊な形態化という点までお話しする必要はないと思います。私がお話しすることができるのは実際よく知られていることです。けれども、いわば統一的な経過としてあらゆる炎症経過の上に浮かんでいるもの、これについてはあまり知られておりません。この統一的な経過の特徴については、次のように言うことによって最も良く説明できるでしょう、つまり、真の炎症であるもの、それが非常に小さなものであれ、非常に大きなものであれ、炎症がもとにあって潰瘍形成にいたるもの、こういうすべてのものの場合、精神科学的な探究、と今やこう申し上げたいのですが、精神科学的な探究が注目すべきことは、人間のエーテル体そのもの全体が作用しているということです。そのため、期待されているのは常に、ある方向に向かって不活発になったエーテル体の作用を、ある意味で正常な配置に引き戻して、エーテル体全体が健全な意味で作用するように何かすることができる、ということです。健康なエーテル体の活動は本来、生体組織のあらゆる方向に拡がっていかなければならないのに、エーテル体の活動が全く特定の方向にのみ導かれているのです。これはまた結局、次のように言うことができるということです、つまり、たとえば何らかの器官組織に向かって不活発になっているエーテル体に、このエーテル体がまだ全体として健康であれば、この方向に向かって、こう申してよろしければ、宇宙的な活動を展開していくことを再び促すような反作用を見つけることができるーーこのことについてはさらにお話していくつもりですーー、と。

 腫瘍形成、あらゆる種類の腫瘍形成の場合は事情は異なっています。この場合重要なのは、物質体におけるある種の経過が、エーテル体の活動に直接敵対するもののように見えるということ、物質体における経過がいわばエーテル体の活動に対して単純に反抗する、それで物質体のその部位においてはエーテル体がもはや活動しない、ということです。

 とはいえ、エーテル体というものは多大な再生力を有していて、精神科学的な手段をもってすれば、次のようなことを常に観察することができるのです。障害を取り除くことができれば、つまりある領域でその活動に対抗している敵であるものを排除することができれば、こういう問題にも対処できる、ということです。したがって、こう言うことができます、腫瘍の場合、大切なことは、いわば自然の働きによって、エーテル体に対抗している物質体の活動が取り除かれるようにし、その結果、エーテル体が、そうしなければ作用できない箇所に再び作用できるようにすることである、と。

 このことがまさに大きな意味を持つのは、そうですね、癌の治療をする場合でしょう。癌腫というものが示していることは、事態に即して観察しさえすれば、とりもなおさず、癌腫はその多様な形態にもかかわらず、エーテル体の力に対する、ある種の物質的な力の反抗を表している、ということなのです。例えば、内部の癌腫形成の場合、角質化がここに現れてくるのですがーーあまり目立ってはいませんが、角質化の傾向はもっと表面にできる癌腫形成にも見られますーー、こういう内部の癌腫形成の場合に非常に特徴的に見られる作用、こういう作用において見出せることは、まさに物質的な形成が、その当の場所にあるべきエーテル的形成に干渉している、ということです。したがって、この両者を正しく研究すれば、結局、今やほとんど両手でつかめるような見解、つまり、炎症[Entzuendungen]と潰瘍形成[Geschwuerbildungen]は、癌腫形成[Geschwulstbildungen]の完全な対極をなしている、という見解にいたるでしょう。この両者はまさに対極に置かれているものなのです。このことは両手でつかめる、と申し上げましたが、皆さんも経験されるかもしれないことを思い起こしていただきたいだけなのです、つまり表面近くに癌腫ができる場合、そこにできたものが、少なくともある方向においては、疑似潰瘍[Pseudogeschwueren]と混同されることがしばしばある、ということです。ですからとりわけ、こういう両極性をより厳密に探究することまで研究が拡張されていかなければなりません。

 さて、こういう事柄においてしばしば妨げになるのは、もちろん古くからの、いわば中世の命名ではありません。中世に関連する命名ではなく、私たちのすぐ背後にある中世と関連する命名が妨げになるのです。腫瘍形成を「新たな形成」[Neubildung]とみなすのは、正しいとはいえません。新たな形成といえるのは、せいぜい、腫瘍は以前には存在していなかった、という通俗的な意味においてだけであって、たとえば皮膚に覆われた生体組織そのものを基底として生じるという意味では、新たな形成ではないのです。そうではなく、物質体があるプロセスにおいてエーテル体に強く対抗することによって、外的な身体が、いわば外部にも、つまり人間に敵対する自然にも従属することになり、そして腫瘍形成はあらゆる可能な外的影響に対して接近を許すことになるのです。

 ここで大切なのは、これらすべての事柄のもう一方の対、とでも申し上げたいものを、ここでもまた研究することです。ここで皆さんに、人間の外部にある自然における、そうですね、まずはウィスクム(ヤドリギ)形成[Viscumbildung]の研究を参照していただこうと思います。まず、ヤドリギ類が他の植物の上にどのように発達するか、と言うことに目を向ける必要があります。けれども、これはまだまったく本質的なことですらありません。植物学にとってなるほど本質的なことは、ヤドリギの寄生的性質です。けれども、人間外部にある自然の人間的自然に対する関係を研究することにとって、根本的にもっと重要なのは、ヤドリギは、他の植物、樹々の上に生えることによって、異なった一年のリズムでその植物としての成長をまっとうすることを余儀なくされているということ、つまり、ヤドリギはたとえば、寄生している樹が春にその葉を形成し始める前に、すでにその花の形成を終えてしまっているため、一種の冬期植物であり、また、寄生している樹の葉によって、太陽の放射の強い作用や夏の光の作用から護られていて、いわば外部にさらされていないーーこのヤドリギというのは、貴族的にふるまう、とでも申し上げたい植物なのですーーということです。私たちは、一昨日述べられたような経過にしたがって、太陽というものを常に光の作用を代表するものとしてのみ観察しているにちがいありません。これは物理学的な観察の対象ではあるでしょうが、ここではふさわしくないのです(*1)。それにしても、正しくない自然観察から私たちの言語のなかに入り込んでくるものを、完全に回避することはできないものなのですね。とはいえ、ヤドリギがまさに他の植物に付着することによって成長し、繁茂する、そのやりかたは全部とくに重要なことです。そうすることによってヤドリギはまったく特別の力を自らのものとしています。ヤドリギが身につけている力はたとえば次のように示すことができるでしょう、つまり、ヤドリギは、その力によって、まっすぐな組織力、直線的に発達する組織力であろうとするすべてのものになろうとするのではなく、直線的に発達する組織力にはなろうとしないものになろうとする、と。ここでも次のように理解してはじめて事態は明白になるでしょう。つまり、こう言うことによってです、全く図式的に描いて(図参照)、物質的人体のなかに、その力によって、エーテル力の作用全体を拒む部位がここにあるとすると、その結果、エーテル力はここでせき止められ、停滞し、それによって新たな形成のように見えるものが出現するのだ、そしてここに形成されたこの袋状のものに、対抗する作用をするのがヤドリギである、と。ヤドリギは、それが行こうとしていない場所へとそれをいわば再び引き寄せるのです。

 皆さんはここでも、実験によって、もちろんこれはいわば適宜行うことができるでしょうが、実験によって何らかの方法で確かめることができるでしょう。皆さんは、ヤドリギの、この直線的な組織化とは反対の傾向性を、次のような事実、つまり、ヤドリギが胎盤の排出にいかに作用するかを観察する場合の事実に即して良く研究することができるでしょう。ヤドリギは胎盤を人間の生体組織のなかに引き留めます。すなわちヤドリギはその性質において、直線的な組織化が本来やろうとすることとは反対のことをするのです。胎盤のようなものを引き留めるように作用すること、つまり通常の組織化を止めること、これがまさしく、ヤドリギが働きかけるプロセスの本質的な特性のひとつなのです。胎盤を引き留める、といったことと本来は同じ基盤によってはいても、生体組織のなかのもっと精妙なプロセスにおいては、こういうことが起こるのはずっとまれなのはもちろんです。けれども、ここでヤドリギが直線的な組織化傾向に対抗するときに強く作用するものとまったく同じものが、そもそもヤドリギの働き全般を考慮する際に得られるイメージにおいて現れてくるのです。エーテル体がたとえば物質体を正しい度合いでつかもうとしない傾向に対して、ヤドリギが反作用するということに気づいて、ある種のヤドリギの作用を実現させると、エーテル体があまりに強く物質体をつかみ、痙攣の発作が起こることがあります。別の場合には、自分は始終ひっくり返るのではないか、という独特の感情がヤドリギの作用によって生じることもあります。これもまた、たとえばヤドリギは基本的に遺精を促進する[pollutionsbefoerdernd]ということと関連する事柄です。

 ヤドリギは自らのうちにこのように人間の生体組織に反作用するものを持っているということを、たとえば癲癇[Epilepsie]とも関連して、いたるところで見出すことができるでしょう。とはいえこれは、ヤドリギの寄生的性質というよりは、ヤドリギがーーこういう俗っぽい言い方をさせていただいても、ウィーンのかたがたにはご理解いただけるでしょうーー自然にいわば特別製のソーセージを焼いてもらっている(特別扱いされている)、ということに関係しています。ヤドリギは、通常の季節に繁茂しようとせず、つまり春が過ぎてから花を咲かせ、実を結ぶのではなく、別の時期に、まさしく特別な時期つまり冬期にこういうことを行う、という点では特別扱いされているのです。そうすることによってヤドリギは、事態の通常の進行にまさに対抗作用する力を貯えるわけです。これであまりひどく感情を害されることがないなら、ヤドリギの形成を眺めて、活動する自然を観察するとき、次のように言うことができるでしょう、この活動する自然はこの場合気が狂っている、自然はヤドリギに関してはやることすべてが時期はずれだ、と。しかしながら、他方において人間の生体組織が物質的に気が狂うとき、そしてたとえば他ならぬ癌腫形成においてそうなっているときには、逆にこれこそ用いなければならないものなのです。ですからこういうとき大切なことは、このような関連に対する理解力を育てていくことなのです。

 さて、ヤドリギこそ、希釈して腫瘍形成の際の外科医のメスの代わりをさせなければならないものであることは明らかです。ただ重要なことは、ヤドリギの実を薬にするためには、とりわけそれを、ヤドリギそのものの他の力と完全に関連づけて、正しく扱えるようになることです。

 気が狂っていることというのはたとえば次のようなことにも含まれているのではないでしょうか、つまり、ヤドリギという種の存続は、ヤドリギの受粉がとりわけ鳥の飛翔による移動を頼みにしている、ということに結びついていることです。つまり、鳥が受粉物質を絶えず樹から樹へと運ばなければ、ヤドリギは死滅してしまうだろう、ということです。奇妙なことに、この受粉物質はさらに鳥の体内を通っていく道を選択し、そのため、ヤドリギの実質はまず鳥の体内に取り入れられてからまた排泄され、それから別の樹の上であらためて芽を出すのです。これらはすべて、こう言ってよろしければヤドリギ形成プロセスを全体として事態に即して観察すれば見通せることです。さらに大切なことは、とりわけヤドリギの膠(にかわ)質[Leimsubstanz]、膠状物質を、塗布剤と正しく関係づけ、このヤドリギ実質のポテンシー(希釈度)[Potenzierung]を徐々に高くしていくことです。

 さらに重要なことは、さまざまな器官に対してーーこの問題には後ほど入っていきますーー一部はヤドリギの生える場所、つまりどんな樹に生えるかということに従って特定していかなければならない、ということです。けれどもまた別の重要なことは、この膠質のものがある種の金属質のものと、これは別の植物に含まれる金属質によって間に合わせる事もできるのはもちろんですが、こういう金属質のものと共同して作用するということに基づくものを、薬のなかに創り出すまでにすることでしょう。そうですね、たとえば単純にリンゴの樹に生えるヤドリギとたとえば銀塩を擦り込むことの共同作用において、あらゆる下腹部の癌腫にかなり対抗する作用ができるものが生じてくるでしょう(*2)。

 さて、ご理解いただけるでしょうが、私がこのような事柄について慎重に語らざるを得ないのは、一方においては、これによって述べられる傾向が、絶対的に正しく、確かな根拠のある精神科学的研究に基づいているけれども、他方において、実際的な治療プロセスが始まる瞬間、このヤドリギ実質の加工に完全に依存し始める瞬間において、そもそも根本的に、このプロセスを正しく進めていくための知識がほとんどない、という理由からです。もちろん、精神科学は、別の医師たちのもとでも大いに根拠のあること、つまり臨床プロセスとともに絶えず実際に共同作用していく場合にのみ、有効に働くことができるだろう、と言えます。

これが精神科学と医学との関係を困難にしているのです、なぜなら、この両者、臨床的な観察可能性と、精神科学的な探究は、今日の私たちの社会慣行によってまだまったくばらばらであることを余儀なくされているからです。けれどもまさにこのことから、この両者が互いに結びつけば、本来はうまくいくはずなのだという見通しがたつでしょう。つまり大切なことは、この方面に向かっての経験を実際に集めることなのです。と申しますのも、皆さんはせいぜいのところ、外的な臨床報告その他によって検証を与える以外には、こういう事柄によって世間に何らかのしかたで異なった印象を与えることはほとんどできないでしょうから。人々がこれを必要とするのは、内的必然性というよりはまさに外的必然性なのです。

 ヤドリギの作用は、たった今説明いたしましたことに本当に基づいているのだということも立証されるでしょう。ただそのときには方法論的に先に進んでいる必要があります。なぜなら、こう言えるでしょうから。つまり、私が数日前にここでお話ししましたことにしたがえば、実際樹の幹の形成というものは、本来の土実質の瘤であり、内部に植物が含まれていて、そこからふつう樹の一部であるものが生えてくる小さな丘なのだ、と。さて、ここにまずヤドリギが生えてくると、このヤドリギは樹の上でくつろいでいるわけで、地面とは反対に向かって根をおろしていることになりますね。ですから、こういう植物、ヤドリギの気違いじみた貴族主義を身につけながら、同時に寄生生活のボヘミアン的特性は備えていない、このような植物で実験してみると、同じような経験を得られると予想できます。実際そうなるでしょう。冬の植物について、人間の生体組織の正常な傾向に対する逆の傾向、つまり正常な病気形成傾向という点を調べようとすると、予想できることは、自らに対して冬に開花するのがふさわしいと認めた植物は同様な作用を持っているにちがいないということです。ただここで、一連の実験を、たとえばヘレボルス・ニゲール[Helleborus niger]、つまりふつうに見られるクリストブルーメ[Christblume](クリスマスローズ)(☆1、*3)といったようなものにまで広げていく必要があります、そうすれば、実際に同様の作用を獲得できることがわかるでしょう。ただ、少なくとも先触れとしては皆さんに特徴をお話ししましたように、男性的なものと女性的なものとが全く反対であることも考慮に入れておかなくてはなりません。すなわち、女性の場合、ヘレボルス・ニゲールでははっきり目に見えるような作用はほとんど得られないでしょうが、男性の場合は常に感知できる作用が得られるのです、これは腫瘍形成があって、私がヤドリギに対して示したのと同じ様なやりかたで、比較的高い希釈度が得られるように試みる場合です。

 このようなやりかたをする場合、実際考慮に入れておかなくてはならないのは次のような関係です、つまり、ある植物が冬に繁茂するのか、夏に繁茂するのか、また、その植物の働きは、それがヤドリギのような状態であることで得られるのか、あるいはヤドリギよりはもっと地面に向かう傾向があることによって得られるのか、といったことです。ヤドリギは地を好まず、黒ヘレボルス[Schwarze Nieswurz]、クリスマスローズは地に接近することを好み、したがって、二、三日前に触れましたように、どちらかというと男性的な力組織に親和性があります。これはまた、地上的なものの方に親和性があるということです。他方、女性的な力組織は、地球外的なものにより親和性を持っています。こういう事柄をくまなく考慮しなければなりません。とりわけ重要なのは、ここで自然の経過そのものに対するある種の洞察力を獲得することです。だからこそ私は、このようなやりかたで、私たちが行ってきたように、外部の諸力がどのようなものであるか、特徴をお話しし、示そうとして、ボヘミアン、貴族、狂気、などといった道徳的観念をも助けにしようとしたのです、こういう観念は、本来考えられているものに関して実際のところ、全く不適切ではないために、よく役に立ってくれるのです。

 さてこういう観念を獲得してみると、薬の外からの働きと内からの働きとの間の特徴的な差異というものも明らかになってくるでしょう。けれどもこのことを考察する前に、こういった差異に私たちを正しく導いてくれる観念を、もう少し目の前に思い浮かべてみなければなりません。たとえば現在現れてきているある種の病気に対して研究されなければならないことは、まったくもって、こういういわば新種の病気に対してはーーこのことはすでに昨日暗示いたしましたーーその治療プロセスのために次のようなことが研究されねばならないということです、つまりたとえば、植物炭を比較的長期間メタンにさらしておくこと、メタンのなかに置いておいて、植物炭がにじゅうぶんメタンを浸透させてから、擦り込むようにする、といったことです。そうすることによって、軟膏その他としてある種外的に働きかけるであろうものを得ることができるでしょう、これはとりわけ、そうするとその作用をいっそう促進させることのできる物質を用いて擦り込む場合です。まずはこういうことに対する技術的な方法を見出すことが大切です。確実に見出され得る何らかの技術的方法によって、たとえば滑石土[Talk-Erde](タルク、苦土)などを用いて擦り込みがおこなわれると、この薬のなかには、軟膏その他としてある種外的に働きかけるものが得られるでしょう。

 大切なのは、こういうプロセスも見通すことです。まず最初に精神医学においても健全に考えることを学ぶことを通して、眼差しを鋭くしておかなければ、これを見通すことはできないでしょう。こう考えていただいてけっこうです、つまり、そもそも精神科学者[Geisteswissenschaftter]というものは、思いきった言い方をしてよろしければ、単に精神病という言い方を聞いただけで苛立ちをおぼえます。と申しますのも、精神(霊、[Geist])というものはいつも健康で、そもそも病むことなどないというのに、精神病(精神の病)[Geisteskrankheit]という言い方を用いるのは愚かなことだからです。精神の病というものについて語るのは意味のないことです。常に重要なのは、精神が自らを発現する能力が、物質的生体組織に妨げられているということであって、決して霊的魂的な生活が病むということではないのです。それらはすべて、そのとき起こっていることの兆候にすぎません。

 けれども具体的な個々の兆候に対して向ける眼差しを鋭くしておかなくてはならないのです。ここで大切なことは、そうですね、たとえば宗教的な狂気やそれに類するものーーこの分野における名称のつけかたは、きわめて混乱しているため、言い方はすべて正確ではないのですが、やはりこういう語を用いざるを得ませんーーの、最初の萌芽、及びそれがさらに進行したもの、とでも呼びうるものが展開していくのがもしかすると皆さんに見えるかもしれない、ということでしょう。これらはすべて単なる兆候にすぎないのはもちろんです。けれどもこういうものが展開している、とすると、こういうとき大切なのはもちろん、こういう展開していく経過全体について、一つの像を得ることができるということです。そしてさらに、この像が得られたなら、この像を示している人間の、肺形成プロセスにおける何らかの異常、呼吸プロセスではなく、肺形成プロセスつまり肺の新陳代謝における異常まで、正確に見通すことが必要となるでしょう。と申しますのも、脳の病[Gehirnkrankheit]という言い方も、本来まったく正しいといえるものではないからです。精神の病という言い方が完全に間違っているとすれば、脳の病という言い方は、半分間違っています、脳における変性というものも、常に二次的なものだからです。この病気において第一義的なものは、上部人間的なもののなかには決して存在せず、いつも下部人間的なもののなかで起こります。第一義的なものは本来いつも、肝臓、腎臓、心臓、及び肺組織という四つの器官組織を含む器官のなかにあるのです。外的生活への関心を失い、内的に思い悩んで、妄想にとらわれる、といったかたちの狂気への傾向を持つような人の場合、他の何よりも重要なのは、その人の肺プロセスの状態について思い浮かべることができるということです。これがきわめて重要なことです。

 同様に重要なことは、わがまま、頑固さ、独善と呼びうるもの、つまりものの考え方がいわば固定的で、固定観念に凝り固まっていることを示すものがすべて現れてきている人々の場合、これによってその当人の肝臓プロセスがどんな状態であるか調べてみる方向に導かれるということです。なぜなら、こういう人の場合常に、きちんと作用していないのは内的器官的化学機構だからです。たとえば俗に脳の軟化と呼びならわされているもの、こういうものですら、すべて二次的なものなのです。いわゆる精神的な疾病の場合、観察するのが容易ではないことが多々あるにしても、第一義的なものは器官組織にあるのです。第一義的なものが器官組織にあるために、こう認めなければどうしようもないこともあります、こういう事柄に精神的な治療処置を通じて対処できることはほとんどない、むしろ実際の器官的疾病の方が、いわゆる精神の病の場合よりもずっと、精神的治療処置によって何らかの成果を挙げることができる、と。精神病を薬剤で治療する習慣をつけていかなくてはならないでしょう。これが本質的なことです。そしてこれは、外的な医学の方向が、精神科学へと向かうための道を探さねばならないであろう第二の分野に他なりません。

 正しい観察者というものは本来、こういう分野においては常に、真の鍛えられた心理学者でもあるでしょう。と申しますのも、きわめて多様であり、しばしば暗示的にのみ作用するという性質を持つ心的生活においては、途方もなく多くのものが存在しているので、正しい観察の可能性というものは実際徐々に獲得していかざるを得ないからです。このことをひとつの実例で解説することができます。人間は、その能力に関してはーーこの能力というのは、ここでは、肉体的に組織されているもの、実際これは霊的に組織化されているものの道具となるのですが、この肉体的に組織されているものを通じて能力のなかにも存在しているものすべてを意味していますーー、単純に作られているのではない、単純に形成されているのではない、ということは人間の場合まったくそうではないからです。奇妙に聞こえようとも、ある人が、頭の弱い、愚鈍な[schwachsinnig]人であると見なされざるを得ないような特性を備えながら、才気にあふれ、天才的なことも作り出す、ということもあり得ます。これはまったくあり得ることです。こういうことがあり得るのは、ある人がその愚鈍さによって非常に暗示にかかりやすく、周囲の秘密に満ちた影響を非常に容易に自らのなかに反映できる、という理由からです。ここで文化史的ー病理学的にきわめて興味深い観察をすることができます。ここでもちろんこういう観察の成果として、名前を挙げる必要はありません。そうするとむろん確信はいくらか揺らぐかもしれませんが、名前を挙げるのはやはり不都合ですから。とりわけ、ジャーナリズムにおいて奇妙なことが起こっています。本来愚鈍な頭脳の持ち主が、良いジャーナリストになることができるのです、その愚鈍さによって、自分のわがままな意見ではなく、その時代の意見であるものを提示することができるからです。その時代の意見が彼らを通じて反映されるのです、したがって、たとえば、愚鈍なジャーナリストの論述は、わがままで、知性鋭い[starksinng]ジャーナリストの論述よりもずっと興味深いのです(*4)。常に自分自身の意見を作り出そうとしている知性鋭いジャーナリストよりも、愚鈍なジャーナリストを通じての方が、人類が考えていることをずっと良く知ることができます。ここでーーこれは極端なケースですが、人生において何度も起こってくることですーー本来のケースの強度の遮蔽と呼ぶことのできるものが現れてきます。最初は、非常に天才的な現れとさえ言えるものが現れてくるために、現にある愚鈍さに気づかないのです。当然のことながら、通常の生活においてはこれはたいしたことではありません、私たちの読む新聞が愚鈍さによって書かれていたとしても、良いことだけをもたらしてくれるなら、結局あまり害はないでしょうから。

 けれども、ラディカルなケース、つまり事態がある一点を超えて病気の形式に移行する場合こそ、まさに精神医学の分野にあてはまる人間の魂の状態を観察するために、真にとらわれない、きわめてとらわれのない眼差しを自分のものにしなければならないということになります。その場合は常に、その魂の活動によって遮蔽されているものにしたがって診断することはできないでしょう。そうではなく、もっと深いところにある兆候にしたがって診断しなければならないでしょう。ですから常にこう言わなければならないでしょう、魂の状態を観察する場合、錯誤に陥る可能性はきわめて、きわめて強い、なぜなら、その人がたとえば気の利いた考えを表明するかどうかはたいした問題ではなく、その人がその気の利いた考えを表明するときに、たとえばその考えを、その関連のために必要な程度以上に何度も繰り返す傾向があるかどうか、ということが大切だからだ、と。だれかがその考えを表明する、そのしかた、これこそが重要なことなのです。考えを何度も繰り返し言うのか、考えが飛躍してつなぎがないのか、これは、その考え自体が賢いか愚かであるかということよりも、ずっと重要なのです。ある人がまったく健康な人間でありながら、それにもかかわらず愚かである、ということもあり得ます。生理学的にのみ愚かなのであって、病理学的に愚かというのではないのですが。ある人が気の利いた考えを表明するとともに、いわゆる精神病への素質を自らのうちに有していて、その病の手に落ちる可能性もあるということ、このことは、他のどんなことよりもずっと、その人が考えの飛躍を患っているのか、それとも考えを何度も繰り返すという患いなのかということに沿って、注意を向けられねばならないのです。何度の繰り返すという患いの人は、常に、根本において不規則な肺形成プロセスと関連する素質を自らのうちに有しています。考えの飛躍を患っている人は、常に、正しく機能していない肝臓プロセスとの関連を自らのうちに有しているのです。これ以外は、この中間に位置づけられます。

 これらのことも、いわば生活していくなかで研究されます。あるものがまだ食品あるいは嗜好品であって、少なくとも通常の意味では薬品としては用いられていない場合、たとえばーー以前に公開講演でも、少なくともある範囲内で、このことに触れたことがありますーーコーヒーは魂生活の兆候的プロセス全体に、とても明確な、決定的作用を与えるということがわかります。ほんとうはこういう作用はまったく問題にすべきではないのです、なぜなら、こういう作用を頼りにすると、魂を怠惰にするだけだからです。それでもこういう作用が存在していることは確かです。コーヒーを飲むことによって、論理の欠如を補うことができます、つまり、コーヒーを飲むことによって、実際に生体組織を、コーヒーを飲まないときよりも、論理のための力を多く引き出せるような状態にすることができるのです。ですから、思考を互いに結びつけようとしてペン軸をひどくかじらなくてもすむためには、ジャーナリストたちはたくさんコーヒーを飲むといいというのは、現代的な見解に基づいたジャーナリスト習癖のための手段の一つでしょう。一方においてはこのことが言えます。もう一方において、紅茶を飲むことは、ひとつの思考をペダンティックに、常に大学教授風に、別の思考に結びつけていくことを妨げるものです。これをすると(ペダンティックに思考を結びつけていくと)、極端な場合、私たちは才気にあふれた表現ができず、いつも他人に自分自身の論理プロセスを披露してみせるようなことになります、そしていつも退屈してしまうのです。現在協定の段階にある職業、内的になることなく、単に外的な嗜好品によってできるだけ才気煥発であることができるように、その古い体制からひとつの手段を与えられてきた職業、こういう職業に対しては、当然紅茶を飲むことが勧められてきたにちがいありません。コーヒーが良いジャーナリスト飲料であるように,紅茶はきわめて効果のある外交官飲料です。ふと現れてくる思考、それによって才気渙発であるように見せることができるのですが、そういう切れ切れの思考をする習慣が、紅茶によって本質的に促進されるのです。

 このような事柄を知ることこそ重要なのです、と申しますのも、こういうことを正しく評価することを学び、必要な道徳的魂状態を備えていれば、当然道徳的生活においても、こういうことが、あれこれの食餌療法とは別のしかたで奨励されるにちがいない、とわかるからです。けれども、ある種の自然連関について学ぶためには、文化連関において重要なのと同様に、このような事柄がきわめて重要です、つまりたとえば、ロシアにおいては通常、砂糖の摂取がきわめて少ないこと、そして西欧世界、イギリスでは砂糖の摂取が非常に多い、といったことに目を向けてみる、といったことです。ここでわかることは、魂の進化によって事態が麻痺させられていないところでは端的に、人間の実生活には、そこで本来人間に与えられているものが明確に刻印されているということです。つまり、外界へのある種の帰依によって自らを表すロシア人の場合、自我感情に乏しく、自我感情はせいぜい理論的に補完されるのみでこれが砂糖の摂取が少ないいことと関係しているのですが、これに対して、強い自己感情を持つイギリス人の場合、器官的な基盤を有していて、これが砂糖への強い嗜好と関係しています。特にここでは、摂取という事実よりは衝動を見ていかなければなりません。なぜなら、摂取という事実も衝動から、摂取へからの憧れから生じてくるものなので、とくにこのような事柄に目を向けることが大切なのです。

 さて、いわゆる精神の病および心魂の病というものの真の原因は、本来下部人間の器官組織のなかに探究されねばならないということを考慮するなら、ここで皆さんに人間における相互作用が示されることでしょう、これは病理学的ー治療的なものが問題になるとき、見過ごされてはならないものです。私が単純に下部人間と上部人間と呼んだ、この両者の間の相互作用は、病理学的なものの場合でも、治療的なものの場合でも、常に考慮に入れられていなければなりません、さもないと、病気に対して作用させようとする外的影響がどうやってこの病気に作用するのかについて、決してきちんとした見解を得ることはできないでしょうから。足や頭を通じて、病気に対して熱作用を与えるのか、水作用を与えるのかでは、大きな違いがあります。けれどもこういう事柄において、下部人間と上部人間との間で機能しているものの大きな違いにまず注意を向けなければ、こういう事柄のなかにラツィオを獲得することはできないのです。したがいましてこれから、この分野において私たちにできるかぎり、人間への外的な影響についてさらにお話ししていきたいと思います。

 

□原注

☆1 クリストブルーメ:あるいはクリスマスローズ

 

□訳注

*1 第十一講の、「この地上の光が太陽からやってくると考えるのはまったく無意味です。これは物理学者と天文学者のかなり厄介な幻想にすぎません。」以下の部分を指していると思われる。

*2 ヤドリギ[Mistel]について:

最近のハーブ図鑑の記述によれば、ヤドリギ( 学名 ウィスクム・アルブム[Viscum album])には、蛋白質合成、免疫機構、循環器系、心臓に作用する成分も含まれるとされる。内服、外用ともに用いられるが、特に茎と葉はそのまま食すると有毒なので注意が必要。ツンとする、苦甘い、加温性のハーブで、血圧降下、免疫機構を刺激し、心拍低下、鎮痙、鎮静、利尿、抗癌作用があるとされる。

北欧神話では、オーディンの息子、光の神バルドルは、ロキの計略により、ヤドリギの矢で殺されるが、のちに再生する。ヤドリギはまた、ドルイド教で重視され、新年の祝いに関連がある。これは特別な月相のとき、金の鎌で樫の樹からだけ採られたという。

ー参考ー 「ハーブ大百科」 誠文堂新光社

*3 クリスマスローズ[Christrose]:真冬に白色または紫色の花が咲く、キンポウゲ科の植物。

*4 ここで「愚鈍な」と訳した語[schwachsinnig]は、通常辞書には「精神薄弱の」と載っていて、医学用語としても定着しているようだ。よく指摘されることだが、「霊」「精神」「魂」「心」等に関連する言葉は、本来の精神科学、霊学からすれば、現代においてはどこの国の言葉でも、多かれ少なかれ、本当の意味合いは区別できていないと思われる。シュタイナーがこの直前に述べているように、特に精神医学関連では、「精神」医学という言い方も含めて、「精神」という語を用いるのはほとんど不適切である。[schwachsinnig]の[schwach]は「弱い」、[sinnig]の[sinn]は「感覚、知力、センス、考え」で、広い意味でのいわゆる精神活動、精神的能力ということなのだろうが、ここでは[schwachsinnig]を「愚鈍な」とし、その反対の意味の語としてシュタイナーが使っている[starksinnig]を「知性鋭い」と訳した。


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