ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第15講

1920年  4月4日  ドルナハ


 今日は、いわばこの点においてまさしくそうする資格のある面々から昨日なされた発言、つまり、今私が行なっている講演は、人智学的な方向のあらゆる講演のうちでも、もっとも理解しがたい部類に入る、という発言を出発点としたいと思います。ある一定の限度内ではこのことを認めなければならないでしょうが、他方においてはまた、容易に別のありかたをとることはできない、ということも認めなくてはならないでしょう。けれども、私が思いますには、まさにこの発言の正当さにのっとって、きわめて多くを学ぶことができるのです。ひとつ、私が申し上げることが非常に簡単に理解していただけるような場合を取り上げてみましょう、これは二つの場合であることも可能です、ひとつはだれにでも自明な場合、もうひとつは、現代の人類からはすでにいくらか隔たっている場合です。自明な場合というのは、今日の文化段階の人間なら、ここで持ち出さざるを得ない事柄を、理解し難いとみなすのは当然である、という場合です。ツグミ[Amsel]はそうは思いません、ツグミはこういうことをきわめて理解しやすい、と思うでしょう。しかもツグミは、こういう事柄を理解しやすいと思っている実際的な証拠まできっと持ち出します。ツグミというのは完璧に禁欲的な鳥ではないので、ときどきオニグモ[Kreuzspinne]を食べます。けれどもオニグモを食べると、ツグミは必ず不快感を覚え始めーーオニグモを食べると必ずツグミは不快感を覚えるものですーー、そのときヒヨス[Bilsenkraut](*1)が近くにあると、すぐさまヒヨスに近づいて、そこにしかるべき治療薬を求めます。ヒヨスは治療薬なのです、と申しますのも、近くにヒヨスがなければ、ツグミは引きつけを起こし、激しい痙攣と震えのうちに死んでしまうからです。ツグミは自身の持つ治療本能を通じてそういうことから守られているのです、ヒヨスが近くにあるとそこに行って、しかるべき治療薬をついばむことによってです。これは、いわば非常にわかりやすい経過です。

 けれども、今日の人間からすでに遠く隔たってしまっているもうひとつの経過もこれと親和性があるのです。これはつまり、太古の人間はこれに似た治療本能を発達させていたこと、私たちが多かれ少なかれヒポクラテス医学のなかに集約されているのを見るものを、彼らはすでにいくらかその治療本能のなかに有していた、ということです。ひとつ昨日のこの非常に正当な発言を顧慮しつつ、ツグミや多くの場合同じことができる他の鳥たちの叡智を少し研究してみるのも興味深いことでしょう。ツグミがオニグモを食べるとき、いったい何が起こっているのでしょうか。オニグモはその生体機構全体において、地球外の自然のある種宇宙的な関係のなかに組み込まれています。そしてオニグモの四肢形成全体と模様形成も、このような地球外のプロセスに紡ぎ込まれているということに由来していて、こう申し上げてよろしければ、オニグモというものは、自らのなかに多くの惑星的生活を有しているのです。オニグモは自らのうちに地球外的、惑星的生活を有しているのです。鳥はまさにこの惑星的体験を共に体験することから取り残されています、鳥はこれを自分の生体組織の内部へと移動させたのです。鳥がオニグモを食べると、鳥のなかでこの惑星的力が感じ取られるようになります。ここで、形態化しようとする傾向をなおも有しているこの惑星的力は、鳥に浸透しようとし、鳥はこれと闘わなければならないのです。鳥は、オニグモを食べた瞬間に、内的な欲求をもって、地球外の生活の模像となります。ここで鳥はしかるべき植物のところへ赴きます、この植物というのは逆に、地面から生えていることによって、しかも惑星的な影響のもとに何かを完全に加工できるというのではなく、それを毒として残しておくということによって、惑星的なものに対立するもの、つまり地上的なものに似るようになった植物です。こういう植物のところへ鳥は赴き、助けを求めるのです。このことからまた、ツグミのなかでオニグモの毒が作用すると、その瞬間すぐに、このオニグモの毒の作用そのものを通じて、抵抗する本能、つまり防御本能が喚起される、と遡ることができます。攻撃本能から即座に防御本能へと移行するのです、ですから、この現象全体というのは、ハエが目にとまろうとするときに私たちが目を閉じたり、単純な反射運動で手を動かしたりするときに私たちが行なうことが、私たちの前で非常に具象的に形成されて展開されているのに他なりません。

 動物界、さらには植物界におけるこういう経過を観察することはきわめて重要です。なぜなら、このことを通じて、さらに別のこと、つまり、知性や理性といったものは、単に頭蓋の内部にだけ含まれているのだ、と信ずることからも救われるからです。すなわち、知性や理性というものは飛び回っているのです。と申しますのも、鳥類において攻撃本能及び防御本能のなかで作用しているものは、まったく理知的な行動だからです。ここで作用しているのは、外的な理性と外的な知性であり、私たち人間は、単にこの外的な知性と外的な理性に参加する能力を持っているだけだからです。私たちはそれに参加しますが、私たちのなかにそれを有してはいるのではないのです。私たちが自らのなかにそれを有しているというのは無意味です、そうではなく、私たちはそれに参加するだけです。鳥はまだ、体のある特別な部分のために、攻撃本能や防御本能であるものを身に付ける、というようなしかたで参加してはいません。鳥は、肺組織を通じて鳥のなかにあるものを、すでに頭部組織を通じて理解している私たち人間よりも、もっとよく理解しています、そして、鳥はまた、この肺組織を通じてヒヨスキアミン(*2)に対する防御本能を喚起するのです、なぜなら鳥は、周辺部でというよりはその本性の根本で思考しているからです。私たちは、私たちの思考を、肺と律動組織から抜き出してしまいました。私たちは人間として何をもって思考しているのか、ということについてももう少し詳しくお話ししていくことができるかもしれません。しかしいずれにせよ、私たちはもはや、そう中心的には思考しておりません、つまり、私たちはもはや、鳥が思考しているように宇宙と結びついて、肺や心臓などで思考してはいないのです。これは再び修得されねばならないことです。私たちを自然と関係づけるこれらの本能のその最後の名残りを、最後の最後の名残りを、私たちみなから取り去ってしまったのは誰なのか、と皆さんがおたずねになるなら、私たちはこう言わなくてはなりません、それを奪い去ったのは、学校教育であり、その最後の名残りまで奪い去ったのは、私たちの大学教育である、と。なぜなら、これらの教育とそれと関連するすべてのものは、根本的に、人間と自然全体との共生を妨げる性質を持っているからです。ものごとは、一方においては巧緻な知性偏重へと、他方においては巧緻なセクシュアリティへと、(どちらか一方へと)一面的に漂っていきます。太古の人類においてはまだ中心にあったものが、現代の人類においてはもっぱらこの両極に分離しているのです。

 さてよろしいですか、私たちが科学に営みにおいて再び健康になれるかどうかは、実際正しい宇宙理解(☆1)を再び見出すということにかかっているのです。現在残念ながら病んだ科学の営みをもってのみ研究されているいくつかのこと、これらは、こういう健康になった科学の営みをもって研究されなければならないのです。

 さて今日は、昨日すでにお話ししたことと結びつけて、人間を観察することのなかに治療プロセスを示唆する何かがあるというような見かたをする線上にある事柄を、少しばかり扱いたいと思います。

 太古の人類にあっては、これは高度に養成されていました。太古の人間が人間のなかに何らかの異常を見たら、その瞬間即座に治療プロセスをも示唆されていたのです。これは現代の人類からは失われてしまったことです。しかも、現代人はイントゥイションによっても、たとえば古代人が本能によって到達していたことに行き着くことはまれです。けれども、これは進化なのです、本能から主知主義を経てイントゥイションへ、ということです。多くの場合単なる主知主義的進化を通じて損なわれているすべてのもののなかに、他ならぬ生理学と医学も含めなくてはなりません。ひとつ具体的な例を、たとえば糖尿病患者を取り上げてみましょう。そもそもいったい糖尿病患者がその異常な発達のなかに示しているものは何なのでしょう。糖尿病[Diabetes]というものを正しく見ることは、この場合、問題なのは弱い自我であること、つまり糖の形成において当然起こってくるプロセス全体を克服することのできない弱い自我機構であることを知ることによってはじめて可能なのです。ただし起こっていることは正しく解釈されねばなりません。たとえば、糖が流出するのだから強すぎる自我が存在しているのだろう、と信じようとするなら、これはまったくまちがっています。そうではありません、これは弱すぎる自我なのです、と申しますのも、ここで発達させられている自我は、この自我がしかるべきしかたで糖によって生体組織を組織化する要件を果たすことができるほど、器官的プロセスに強力に参加することはできないからです。とりもなおさずこれが、本来起こっていることなのです。最終的に糖尿病を促進するように作用するものはすべて、これと関係しています。だれかが甘すぎる食事をして同時にアルコールを飲むと、私たちは、糖尿病発病のかすかな兆し、とでも申し上げたいものを体験できるのではないでしょうか、この兆しは、もちろん再び消滅することもありますが、こういう場合に自我が弱められていることによって、本来起こってくるプロセスを自我が克服できないと、それによってこのプロセスが喚起されることを示しているのです。重要なのは、私たちが、このとき起こりうるすべてに一度注目してみることです。ここで、現在こうした観察にはまだあまり登場してはいませんが、非常に多くの皆さんが質問用紙に書かれたある概念に行き着きます、これについてはこの連続講演の残りの時間でもっと詳しく立ち入っていきたいと思います。質問用紙に書かれたことはすべて考慮されますが、そのためには相応の準備が適切になされなければならない、ということがおわかりになるでしょう。ここで出てくるのは、まさにこの糖尿病において大きな役割を果たしている、遺伝性の素因[erbliche Belastung]という概念です。

 他ならぬこの遺伝性の素因が弱い自我に作用を及ぼす、と言わなければなりません。私たちは常に、弱い自我、あるいはその複合的力全体とともには作用していないとも言えるかもしれない、そういう自我と、遺伝的な素因を負わされやすくしているものとの間にある関連を確定することができます。と申しますのも、単純に私たちが皆、遺伝的な素因を負わされやすいのだとすると、私たちは全員この素因を負わされてしまうことになるからです。私たちの皆が皆、遺伝的な素因を負わされているわけではない、と言うことは結局、遺伝的な素因をあまり負わされていない人たちは、良く機能している自我を持っているということに還元できます。ただし決して見過ごしてはならないことは、糖尿病の場合は、かなり心理的な原因が多かれ少なかれ存在していて、興奮しやすい人が経験する興奮が、糖尿病の発生とかなり関係しているということです。なぜそうなのでしょうか。それは、自我がもともと弱く、そして自我が弱いために、自我は生体組織のより周辺部のほうで活動し、脳を通じて強固な主知主義を発達させるように制限されてしまうからです。この自我は、生体組織のより内部深く、つまり、本来の蛋白質加工が行なわれて居る場所、つまり植物蛋白質を動物蛋白質に変成させる場所にまで入り込んでいくことができません。自我の活動がその場所まで及ばないのです。そしてその代わりに、自我が届かないこの領域においては、それだけいっそう、アストラル体の活動が活発になります。なぜなら、アストラル体の活動は、いわば消化、血液調製、呼吸の間で人間において中間的な組織化プロセスが起こっているこの場所で、もっとも活発だからです。この中間的な組織化プロセスは、自我の活気のなさによって放任されるのです。この組織化プロセスは、人間全体と関わらずに中心的人間と関わるありとあらゆるわがままなプロセスを発達させ始めます。ですから、まさに糖尿病になりやすい素質は、自我が内部のプロセスから閉め出されている場合に与えられる、と言うことができます。さてこの内部の、つまり内的な分泌プロセスというものはまた、心情形成、感情形成と密接に関係しています。自我が脳を通じてその主要な活動を求めるのに対し、分泌する活動、つまり振動し、循環する活動はすべて、自我によって管理されないままにとどまります。そしてこのことは、人間が、感情の影響として働きかけるある種の心理的影響に対する支配を失うことと関係しています。私たちの周囲で何か興奮させるようなことが起こる場合、私たちはいったいなぜ平静でいられるのでしょうか。私たちは知性を腸のなかにまで送り込むことができるという理由から、単に頭脳のなかだけにとどまっているのではなく、私たちは本当に人間全体を用いることができる状態にあるという理由から、私たちは平静でいられるのです。私たちがあれこれ思案する[nachdenken]と、そういうことはできません。私たちが一面的、主知主義的に、頭脳から活動するなら、人間の内部は独自の運動を始めます。そうすると人間はまったく興奮しやすくなり、その結果、この興奮が、興奮として自身の器官的プロセスをも知的に喚起することになります、これは本当は別のことを行なうべきなのにです。この興奮は、本来感情に作用する興奮として器官的プロセスを喚起したりすべきではなく、まずは知性に浸透され、まずは理知によって和らげられてから人間の内部に作用すべきなのです。

 さて、こういう事柄においてそもそも何が起こっているのかをはっきり理解しておくことが重要です。自我の無力ということが起こっているのです。自我というものは、人間においては、最初に人間に作用を及ぼすもっとも地球外的なもの、つまり地球に対してもっとも周辺的なものと親和性を持っています。本来、私たちの自我のなかで作用しているものはすべて、地球の外から私たちのところへやってくるのです。したがって私たちは、私たちの自我と関わりのあるプロセスと親和性のある、つまり地球外的なものにおいて自我と親和性のあるプロセスを理解しようとしなくてはなりません。そうすれば私たちは、自我がいわばしかるべく地球外的なものに参加できるような領域へと、自我を移動させることができる状態になるのです。

 さて、地上的なもののなかには、自我が、その内部の生体機構、中心的生体機構において働くように地球外的なものから誘導されるようなプロセス、これと同じプロセスがいたるところに存在します。そこから、この地球外的なものが、地球に、つまり鉱物的地球にも植物に覆われた地球にも、エーテル的な油を形成するきっかけを、油全般を形成するきっかけを与えるのです。これが私たちを導いていかなければならない道です。人間の自我が目において働いているのと同じように、自我がこの前に押し出された湾のなかで実際に外界と直接関係しているように、ちょうどそのように、私たちは、自我と油形成プロセスを関係づけなくてはなりません。おそらくこれがもっとも可能なのは、細かい霧状にした油[fein zerstaeubtes Oel]をこしらえて、油浴で人を治療しようと試みることによってでしょう。とりわけどのような霧状にして用いるか、何回くらいこれを行なわなければならないか、などを試してみるのが望ましいでしょう。しかしこれは、生体組織を冒して荒廃させるあの糖尿病を克服するための道なのです。このことから皆さんは、外部のプロセスを見抜くことと、この外的プロセスと人間の内部のプロセスとを共に考えることが、人間と人間以外のものの生理学[eine menschlichーaussermenschliche Physiologie]、これは同時に治療法でもあるのですが、そういう生理学を実際に生み出すのだということがおわかりになるでしょう。そしてこれは、途上で何かを達成せねばならない道なのです。

 さてこのことから皆さんに指摘しておきたいと思います、ーーつまり私たちはもう具体的な概念を獲得したのでもう一度、ということですがーー、人間は本来環境と親和性を持っているということです。もう一度地球の植物相を観察してごらんなさい、地球の植物存在全体を観察してごらんなさい、植物は地面から上へと向かい、諸力が花のなかでいわば霧散し、実のなかでふたたび集まっているようすを。さらに観察してごらんなさい、このプロセスの何千もの不思議なヴァリエーションがすべて存在していることを、いつもは種のなかに突き進むものが、葉形成においてはとどめられ、それによって葉が草状に、厚くなること、閉鎖してしまう前になおある種の力がとどめられていることによって、種の外皮も厚くなるのかもしれない、ということを。そこには可能な限りのあらゆるヴァリエーションがあるのです。

 さてしかし、この植物形成プロセスはけっして、たとえば地球の物質的作用の面から、あるいはそれに対抗する光の作用という面からのみ見ればよいものではありません。そうではなく、実際植物というものは、自らのうちに物質体とエーテル体を秘していて、実際のところ、地球外的なものが地上的なものにいわばぶつかってくる上部において、この物質体、エーテル体全体のなかに上昇してくる植物的なものが、宇宙的ーアストラル的なものと関わっているのです。こう言うことができるかもしれません、植物は動物形成プロセスに向かって成長するが、それに到達しない、と。地球は、その内部では植物形成プロセスにすっかり浸透されている、とでも申し上げたい状態で、また地球は、植物がそれに向かって成長していく大気圏であるところでは、動物形成プロセスに浸透されているのです。この動物プロセスは解決されておらず、植物がそれに向かって成長していくのですが、植物には到達できないプロセスなのです。私たちに経過を見せているこのプロセスは、花を咲かせている植物界の上方で織りなされている、とでも申し上げたいプロセスで、これは地球全体に対して円環の性質を持っています。そしてこのプロセス全体が、いたるところで動物そのものの中心に集められています、つまりこのプロセスが内部に移されているのです。動物はいわば、植物の上に起こっていることを分裂させ、これを自分の内部に移すわけです、そして動物が植物にまさって有している器官、これらは本来、ふつうは周辺的に外部から植物に向けられているものを、動物が自らのために使用し、効力としてある一点から中心的に展開するものに他なりません。

 さてこの動物形成プロセス、これは人間のなかにもあるのです、ただし、人間においては物質的生体機構のより内部に向かって置かれています。このプロセスは、消化、血液形成、呼吸の間で起こっているすべてに向かって置かれているのです。この場合人間は、その人間形成プロセスに関しては、今日の動物形成プロセスにもっともよく似ています。したがって、この内的な、物質的に内的な人間は、植物的なものの生命傾向であるものすべてと、もっとも多く親和性を有しているので、まさしく植物界における生命傾向として有効なものを用いてこの内的人間に対処することを、私たちは常に期待できる、とも言えるのです。けれども人間は端的に動物に優るものを持っているのです、これは、人間が単に、動物が植物とアストラル的なものとの間で行なっているような相互プロセスを遂行しているだけではなく、鉱物と、アストラルを超える[ueber-astral]もの、つまり単なるアストラル的なものよりもさらに周辺的なものとの間でも、相互プロセスを遂行しているということに基づくものです。ですから、こう言うことができるかもしれません、現在の地球進化の人間にとって特徴的なことは、まさに人間が鉱物形成プロセスを共に行なっているということなのだ、と。ちょうど動物的なものにおいて蛋白質の変成が行なわれているように、蛋白質形成プロセスの動物的変成よりももっと周辺的な傾向を有するプロセス、こう申し上げてよろしければ、天と鉱物界との間で起こっているプロセスが行なわれているのです、これはもともと科学にはまったく顧慮されていないプロセスですが。このプロセスを表現しようとすれば、そのもっとも特徴的なものにしたがって、これを脱塩プロセス[Entsalzungsprozess]と呼ぶことができます。

 よろしいでしょうか、実際生体組織においては、つまり私たち人間の生体組織においては、絶えず脱塩プロセスが作用しているのです、塩形成をその反対のものに変化させようとする傾向です。そして私たちが人間であること、とりわけ動物的なものを超えてゆく私たち人間の思考というものは、本来この脱塩プロセスに基づいているのです。私たちは周辺的人間としてはーーここでは、動物形成に似ている中心的人間ではなくーー、塩形成に逆らっています。通常の土を形成する植物蛋白質の力に動物が対抗しているように、私たちは塩形成に対して何かを対抗させているのです。私たちが単なる植物薬では対処できないある種のものを治療できるために、人間のために主として鉱物界そのもののなかに捜し求めなくてはならない諸力は、このように(塩形成に)対抗させることのなかに存在しているのです。私が申し上げたいのは、人間を単に植物薬のみで治療しようとすると、人間をもっぱら単なる動物として見ることになってしまう、ということです。人間が、地球の周囲で地球の鉱物化に対抗して行なわれているこの激しい闘いにも参加していると期待できるとき、人間がこの激しい闘いに加わり、自我をいわばこの激しい闘いに参加させる可能性へと導かれざるを得ないとき、人間は敬意を表されるのです。

 しかしよろしいですか、人間を石英で治療するたびごとに、実は私たちは石英を分裂させる人間の力、この固い鉱物的なものを克服する人間の力に訴えているのです。私たちはそうすることによって、地上ではもはやまったく起こっておらず、地上的なものの外部で起こっていることに、非常に強力に参加できるような状態に自我を移行させます、そこにおいては、地上的な固体すべてを熱空間のなかで粉々にさせるほどの力が働いているのです。宇宙空間というものは実際、惑星的なもののなかで固体となっているもの、惑星的なもののなかで丸く密集しているものすべてを、粉砕する、粉々に打ち砕く、という特性を持っています。日常生活においては私たちはめったにこういうことはしません、こういうことを共に行なうことはまれなのです。こういう通常は宇宙空間だけがしていることを行なうことがもっとも多いのは、数学的性質の人たち、図形のなかで多く生きることに慣れており、数学的な形式において多く思考することに慣れている人たちです。なぜなら、こういう思考は、鉱物的なものを粉砕することに基づいているからです。一方、数学的なものにある種の反感がある人たち、むしろ単なる脱塩プロセスのみに甘んじていたい人たち、こういう人たちは、内的に打ち砕き専門の機械技師となることはできません。これが数学的な性質の人々と数学的でない性質の人々との違いです。このように地球の鉱物化プロセスに対抗することは、非常に多くの治療プロセス理念の根底をなしています。

 これもまた、古代の人類の攻撃ー防御本能に端的に含められることです。古代の人間は、自分が思考において弱くなったことについて何か気づいたら、摂取している何らかの鉱物的なものに頼りました、そして粉砕すること、この鉱物的なものを内的に粉砕することで、古代人はふたたび、地球からはるかに隔たったところにある地上を超えたものとの調和に至る能力を身につけたのです。

 さて、こういう事柄が正当であることが、いわば手でつかめるほどはっきりわかるように、人間の外部にある自然を追求していくことができるのです。観察することによって、良く検証が得られるでしょう。この検証プロセスを追求するために、ある植物、この点において非常に興味深い植物、つまりベトゥラ・アルバ[Betula alba]、シラカバ[Weissbirke](*3)を観察してみてください。シラカバは、シラカバ自身の方から、二重のしかたで通常の植物形成プロセスに抵抗しています、シラカバは通常の植物形成プロセスには参加していないのです。つまり、皆さんが、シラカバの樹皮において起こっていることを、シラカバの葉、とりわけまだ褐色がかった綿毛のある春の若い葉において起こっていることと混合できるとすれば、通常の植物形成プロセスが現われてくるだろうということです。これらの互いに隔たった二つのプロセスを、皆さんが混ぜ合わせ、その結果、シラカバの樹皮において作用しているものが、ある場所で、シラカバの葉において作用しているものと共に作用するようになれば、不思議な、葉のような、花をつけた草本植物が得られるでしょう。シラカバというものはまさに端的に、生き生きとした蛋白質形成のなかにあらわれてくるプロセスが、普通の場合よりも余計に葉のほうにもたらされることによって、そしてこの葉のなかに蛋白質形成プロセスがいわば集中され、樹皮のなかにはカリ塩の形成のなかにあるプロセスが集中されていることによって、成立しているのです。シラカバにはならずに葉のような状態にとどまっている他の植物においては、この両プロセスは融合していて、根のなかで、カリ塩形成プロセスのなかにあるものが、すでに蛋白質形成プロセスに浸透されています。シラカバは、根が土から取り入れたものを外部の樹皮へと押し出し、普通他の植物が土から摂取したものに混合しているものを、葉のなかへと送り込みます、土から摂取したものをまず樹皮へと突き離したあとでです。これによってシラカバは、二つの方向にしたがって、人間の生体組織にさまざまに働きかけるよう調整されています。シラカバはその樹皮を通じて、つまりしかるべきカリ塩を含む樹皮を通じては、とくに人間が脱塩へと導かれるべきとき、たとえば発疹の場合に、いわば、シラカバの場合には樹皮のなかへと下に突き進むものが、人間の場合には上に突き進んでそこで治癒的に働きかけるように調整されています。また、蛋白質を形成する力が集中している葉を取り上げてみれば、皆さんはシラカバから、とりわけ中心人間まで至って中心人間に影響を及ぼすもの、痛風[Gicht]やリュウマチ[Rheumatismus]の場合に良い薬であることが実証されうるものが得られるでしょう。そしてこのプロセスをさらに高めようとすれば、シラカバ形成の鉱物的なもののなかに入って行って、シラカバの木質部から植物炭を調合してごらんなさい、すると、ここではまさに、内部の外面に対して、つまり腸その他に対して、内的ー外的とでも申し上げたい作用をするもの、こうしたすべてに対して強力に作用する治癒力が得られるのです。人間に作用を及ぼす植物の外的形姿を見て取るすべを学ばなくてはなりません。ベトゥラ・アルバを研究すると、皆さんは、実際こう言うことができるでしょう、このシラカバというもの、私たちがこれを、人間全体を健康にするように、人間のイメージのなかで変化させようとすれば、これを逆転させて、とくにその木質部と樹皮に向かう力を、皮膚つまり人間の周辺部に同化させ、シラカバが外に送り出すものを(人間の)内部へと裏返しにすることになるだろう、シラカバとは実際そういうものなのだ、と。私たちはシラカバの樹全体を人間のなかへとこのようにーーイメージとしてです、イメージがなくてはなりませんーー、つまり私たちが本来このシラカバの樹のイメージのなかで、これは人間に対して治癒力を持っているのだということを追求できるように、裏返すわけです。

 根形成を非常に受け入れている、とでも申し上げたい植物、つまり根の力を非常に強く発達させて、根の力がそのなかにカリ塩やナトリウム塩[Natron-salz]を沈殿させるほどになっている植物を見ると、こういういわば葉のなかに根をひきとめておく傾向のなかに、諸々の出血、さらには諸々の結石形成[Griessbildung]、腎臓結石形成などの場合に治癒的に作用する傾向を見出すことができるでしょう。出血の場合、内部の出血と腎臓結石形成、およびこれらの間にあるすべてのものに、このようにして良く用いることのできる植物、これは、カプセルラ・ブルサ・パストリス[Capsella bursa-pastoris]、ナズナ[Hirtentaeschel](*4)でしょう。

 さて、たとえば通常見られるトモシリソウ[Loeffelkraut]、コクレアリア・オフィシナリス[Cochlearia officinalis](*5)のような植物のなかにちょっと入り込んで考えてみてください。こういう植物も研究すると興味深いものです。つまりこの植物の内部には、硫黄のような、硫黄的な油が含まれているのです。内部に硫黄的な油を持っていることによって、この植物は自らのうちで硫黄を通じてその蛋白質に直接作用します。さて、硫黄は、鉱物的なもののなかで、蛋白質に対して、その力、形成力が促進されるように働きかけるものです。本来蛋白質形成プロセスというものは、その経過が不活発になると、それに付け加えられた硫黄プロセスによって速められます。これはつまるところ、こういうトモシリソウのような植物が自らのうちに器官的に形成したすべてなのです。特定の生息地に生えることによって、まったく特定のしかたで自然に組み込まれていることによって、トモシリソウは、蛋白質プロセスが極度に不活発な働きしかしないように運命づけられているのですが、すばらしい自然の本能により、内部の硫黄的な油、このあまりに不活発な蛋白質プロセスに対抗するこの油によって、均衡がもたらされるのです。

 さて、速められた蛋白質プロセスは、そのもともとの本性によって同じように早く経過する蛋白質プロセスとは異なります。このことを常に念頭に置いておかなくてはなりません。皆さんはもちろん数多くの植物に、トモシリソウの場合と同じように速く経過する蛋白質形成プロセスを見出すことができるでしょう。けれども、そういうプロセスは、この不活発原理と速められた原理とが相互作用することによって引き起こされたものではないのです。トモシリソウの成長において、このように不活発原理と速める原理が間断なく共に作用すること、このことが、トモシリソウをその内的な親和性を通じて、たとえば壊血病[Skorbut]のような疾病にしかるべきやりかたできわめて有効に適用することを可能にしているのです。なぜなら、壊血病の場合に起こっているプロセスは私が今お話ししたプロセスにきわめてよく似ているからです。

 さて、個人的に修練して、このように外的な自然の出来事と、内的な人間に関わる出来事を共に考えることを身につければ、実際かなりのところまで行けると思います。これによって皆さんはこのきわめて重要な親和性に到達するのです。これによって皆さんは、他のものによっては決して獲得できない人間理解にも到達します、本来人間というものは何と言っても、人間以外のもの、そしてやはり人間的なものからしか完全には理解され得ないものだからです。両方を一緒に研究することができなくてはなりません。ここでひとつ皆さんにお願いしたいことは、私が今日、さらにもうひとつ付け加えても無用なことと思わないでいただきたいのです、これは明日以降の考察において非常に助けになることで、つまり人間の生体組織において脾臓[Milz]が果たしている独特の機能についてです。

 人間の生体組織におけるこの脾臓の機能は、霊的な面に向かって非常に強い傾向性を持っています。それゆえかつて私はオカルト生理学の連続講演においてこう申し上げたのです、脾臓を切除しても、そのかわりにエーテル体がーーエーテル的脾臓がーー容易に発生する、つまり脾臓は人間のなかでそのエーテル的対応像によってもっとも容易に取り替え可能な器官である、と。けれども脾臓は人間の下腹部の他の器官ほど本来の新陳代謝に関わっておりません。脾臓は本来の新陳代謝にはあまり関係しておりませんが、新陳代謝を調整することには非常に関わっています。そもそも脾臓とは何なのでしょう。精神科学的な研究に対して脾臓は、粗雑な新陳代謝と、人間のなかでもっと霊化され、魂化されたかたちで起こっていることすべてとの間に、調和を作り出す使命を持つものとして現われてきます。つまり脾臓は、根本的に言って、他のすべての器官ーーある器官はその度合いが高く、ある器官は低いのですがーーと同様、高度に無意識的な器官であり、人間の栄養摂取のリズムにきわめて敏感に反応しているのです。絶えず食べてばかりいる人々は、合間の時間をとる人々とは全く異なる脾臓活動を自らのうちに引き起こします。このことはとりわけ、つまみ食いばかりしている子どものそわそわした脾臓活動に見ることができます。つまみ食いばかりしていると、非常にそわそわした脾臓活動が起こってくるのです。このことはまた、栄養摂取がなされない場合、睡眠に入ってしばらくしてから脾臓はしばしばある種の休止状態に入るということにおいても観察できます。もちろん脾臓は脾臓なりのしかたである種の休止状態に入るのですが。つまり脾臓というものは、まさにより霊化された人間の栄養摂取のリズムのための知覚器官なのです。リズミカルでない栄養摂取の有害な影響を少なくとも和らげるために、人間が反作用として展開すべきことは何か、脾臓は下意識のなかで人間に語りかけるのです。このため脾臓の働きは、人間における本来の新陳代謝よりは、リズミカルな経過の方に導かれていて、リズミカルな経過に関与しています、栄養摂取と本来の呼吸リズムとの間に起こる必要のあるリズムに関与するわけです。呼吸のリズムと、格別リズムという性質は有していない栄養摂取との間に、もうひとつ中間のリズムが挿入されていて、これを仲介しているのが脾臓です。呼吸リズムを通じて、人間は厳密な宇宙リズムのなかで生きることができますが、不規則な栄養摂取を通して、人間は絶えずこの厳密な宇宙リズムを侵害しています。そして脾臓が(両者の)仲介者なのです。

 こういう事実は人間を観察することによって簡単に確認することができます。ここでお願いしたいことは、皆さんが解剖学的ー生理学的に実際に見出すことができるものを、こういう事実に導かれつつさらに研究していただきたいのです。最小のものにいたるまですべてが実証されていることがおわかりになるでしょう。脾臓動脈がほとんど直接大動脈とつながっていることによって、皆さんは脾臓が人間の生体組織のなかに形成されている状態において外的にも、私がお話ししたことが実証されていることがおわかりになるでしょうし、他方においては、門脈へと進んで肝臓と直接関連している脾臓静脈が、生体組織全体に組み込まれていることによって、栄養摂取への仲介もなされているのがおわかりになるでしょう。

 ここでは、なかば外的なリズムとなかば外的なリズム、非リズムとがともに組織され、互いに調整されているのです。リズム人間と新陳代謝人間との間に挿入されているのが、脾臓の働きです。脾臓活動の正しくない作用と関連することのうち大部分は、まさにこの、脾臓によって仲介されている呼吸組織と新陳代謝組織との関係、あるいはまた血液循環組織と新陳代謝組織との関係についての知識に基づくことによって、調整されなければならないのです。脾臓の生理学が唯物論的科学から結局おろそかにされてしまったのは何ら不思議ではありません、唯物論的科学というものは、新陳代謝人間、循環人間、神経ー感覚人間という三分節化された人間については実際何も知らないのですから。

 

■原注

☆1 宇宙理解:ある遺稿においては「宇宙関係」となっている。

 

■訳注

*1 ヒヨス:学名 Hyoscyamus ベラドンナ、マンドラゴラとともにナス科に属するヨーロッパの伝統的な毒草。古代から良く知られている。ルネサンス期のイタリアでは「歯痛草」として有名であり、歯痛の守護聖人にちなんで「聖アポロンの草」と呼ばれ、歯痛に用いられた。

 この植物は強い毒性を持つアルカロイド(植物中の、窒素を含む塩基性化合物の総称。ニコチン、コカイン、カフェイン等もこれにあたる)、ヒヨスキアミンを含み、これには強い鎮痛作用があって、現在も鎮痛剤、喘息の発作緩和、モルヒネ中毒の緩和剤などに使われている。

*2 ヒヨスキアミン:ヒヨスに含まれるアルカロイド。*1参照。

*3 シラカバ:カバノキ科。ハーブ療法でも、シラカバの葉の利尿作用が指摘されている。また、シラカバの精油(樹皮と小枝から抽出)には、関節部分の尿酸の蓄積を減少させる働きがあるので、リュウマチ、関節炎および筋肉痛一般に効果があり、また、膀胱と腎臓の結石を溶解させる力もあるとされる。

*4 ナズナ:ナズナ属アブラナ科。ハーブ療法でも、泌尿器系の殺菌、血液凝固作用があるとされ、いろいろな出血、膀胱炎、静脈瘤などに用いられる。

*5 トモシリソウ:トモシリソウ属アブラナ科。ヨーロッパ原産。西洋わさびの一種。葉の形は広心臓型でスプーン[Loeffel]に似ている。薬草療法でも、消化不良、壊血病、口内や歯の痛みに用いられる。


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