ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第19講

1920年  4月8日  ドルナハ


 今日と明日で出来るだけたくさんのことを片づけようと思います。そもそもこういう最初の問題提起において重要なことはーー実際これはこの講習においてなされ得た最初の問題提起なのですがーー主に、精神科学が与えることのできる道、人間の外部にある物質が人間の生体組織のなかでとる道をより詳細に学び知ること、そしてその物質の反作用も学ぶことです。つまり、何らかの物質の作用のしかたについて完全な洞察が得られれば、それを薬として適用するための指針が得られ、自分で診断することができるのです。そしてこれは、あるものはこれに効く、別のものはあれに効く、といった趣旨の処方を見るよりずっと良いのです。さて、今日もまた、非常に隣接したものに至るために、一見非常にかけ離れたものから出発しなければなりません。提出していただいた質問のうちでいつも浮かび上がってくるのは、もちろん皆さん全員が関心をお持ちにちがいない質問、つまり遺伝についての質問です。遺伝ということは、健康な、あるいは少なくとも比較的健康なひとの診断においても、病気のひとの診断においてきわめて大きな役割を果たしています。

 さて、この遺伝ということは、実に現代の唯物論的な自然科学においては非常に抽象的にしか研究されていない、実際の生のためになることがそこから多く生じてくるようにはまったく研究されていない、と言わなくてはなりません。けれども、真剣にこういう遺伝といったことを研究するようになれば、遺伝というのはやはりきわめて独特のものでありーー秘教に関係のないひと[Exoteriker]にはとくにそうです、秘教に通じたひと[Esoteriker]にとってはこれは一目瞭然の法則性なのですがーー、人間が宇宙の連関について知るべき重要なことはすべて、どこかの場所にかなり外的に目に見えるように顕現しているのだ、ということがわかります。何かあるものは、外的な顕現を通して、隠されてはいるけれども人間において非常に有効ないかなる力が自然の中に存在しているか、常に示しています。遺伝を研究する場合には、とりわけこの力に頼らなければなりません。と申しますのも、他方においては、遺伝に関係することはすべて、幻影をまとわされて絶えず損なわれているために、正しい診断ができないからです。遺伝に関していったん判断が下せるとしても、また別の現象にはあてはまらないのです。これはまさに、他ならぬ遺伝という事実がきわめてはなはだしく幻影に覆われているということに由来するのですが、これと関連して言えることは、遺伝には、非常に規則的な、けれども調整しにくいしかたで、男性的なものと女性的なものが参加している、ということです。これは規則的なのですが、この規則が現われてくるのと同じくらい明瞭な調整もそこにある、ということがいつも可能なわけではありません。つまり遺伝現象は規則にのっとったものではあるけれども、調整困難なものなのです。ちょうど、天秤のさおを水平に保つことは規則性に基づいているけれども、左右に重りを乗せていくといつも、一方かもう一方に傾き、そのためこの厳密な規則性を調整するのは困難であるようにです。これは遺伝現象にもおおむねあてはまることです。遺伝現象には、天秤のさおを水平にさせるような規則性があります。けれどもこの規則性は非常な可変性をもって現われ、そしてこのことは、遺伝にはつねに男性的なものと女性的なものが参加するということ、しかも、この男性的なものと女性的なものは、男性的なものは、人間が地上的な存在に負っているものをつねに遺伝のなかにもたらし、一方女性の生体組織は、地球外の宇宙からやってくるものをもっともたらすように方向づけられている、というしかたで参加する、ということに由来しています。地球は絶えず男性を要求し、その諸力を通じて男性を組織する、と言えるかもしれません。地球は実際、男性のセクシュアリティの発生の原因でもあるのです。女性を絶えず要求しているのは、こう言ってよろしければ天です。天は絶えず女性の形成を引き起こしているのです。天は、内的な組織化プロセスのすべてにおいて圧倒的な影響を及ぼしているものです。これはまた、私がすでに申しましたことを前にさかのぼって指し示します。そしてそれによって以下のようなことが生じます。考えてみてください、受胎を通じて女性的な本性が発生すると、この女性的本性はますます地球外的なプロセスに自らを組み込んでいく傾向に向かいます。この本性はますます、こういう表現をしてよろしければ、天に受け容れられる傾向になっていくのです。男性的な本性が発生すると、それはますます地球に要求される傾向になっていきます。すなわち、事実、天と地が共に作用しているのです。と申しますのも、私が言っていることは、たとえば、女性には天が作用し、男性には地が作用する、と解釈してもよい、ということではなく、(天と地の)の両方が(男女の)両方に作用していて、女性の場合には天秤のさおが天へと傾き、男性の場合には天秤のさおが地上的なものの方へ傾く、ということだからです。これは厳密な規則性ではありますが、可変的でもあるのです。しかしこのことからある種の帰結が生じます。女性がその生体組織のなかに含み持っているものによって、地上的なものは女性のなかで絶えず克服されます。けれども奇妙なことが起こっています、それが克服されるのは、女性自身の固有の生体組織のなかのみであって、その胎児や、精子のなかでは克服されないのです。つまり、天と地とのこの闘いは、女性の生体組織の場合、精子形成、卵形成の外にあるすべての組織化プロセス、まさに生殖の経過に組み込まれているものの外にある組織化プロセスに限られていて、そのため、女性はその組織化によって、生殖プロセスに先天的備わった力から絶えず免れているわけです。生殖の周囲に転移されてきたものを用いて、女性は免れ続けるのです、したがって、こう言うことができます、生殖力のなかにあるもの、つまり遺伝されうるものは、男性を通じて遺伝する傾向が生じる、と。女性においては、女性自身はこの遺伝を免れるという傾向が現われます。けれども、その代わり女性は、その卵形成の力のなかにより強い遺伝傾向を有するのです。

 したがってこう問うことができます、人間社会においてはどのようにして遺伝の破壊的な力に対抗できるだろうか、と。遺伝の力は、いわゆる霊的なものを前にしても、いわゆる物質的なものを前にしても、躊躇することはないでしょう。このことは、精神病が支配している家族においては、その世代の系列のなかで糖尿病が現われやすい、つまり一方から他方へとメタモルフォーゼが移動する、というような現象のなかに端的に示されています。ですから、遺伝の破壊的な作用からどのようにして免れるか、というのは途方もなく重要な問いなのです。これに対しては、何はさておき、ご婦人がたの健康ができるだけ維持されるよう配慮する、という以外に方策はありません。と申しますのも、そうすればご婦人がたを通じて、地球外の影響が私たちの地上のプロセスに引き入れられ、胎児を通じて有害な遺伝をもたらすような作用をするプロセスが、持続的に女性の生体組織から制圧される、ということも起こってくるだろうからです。つまり、ご婦人がたが健康であるということによく注意が払われている社会では、遺伝プロセスに関連して地の力から発する破壊的な影響に対して、闘いが行なわれているのです、なぜなら、(その社会では)地球外のものから作用してくる調停する力、この力のいわば蓄電池は女性の生体機構のなかにしかないのですが、まさにそういう力の効果に訴えかけているからです。これは、考慮されるべききわめて重要なことです。

 私が今申しましたことは、あらゆる地上的な力にも、地球外的な力にも当てはまることであり、非常に普遍的なことです。これは、ヘモフィーリエン[Haemophilien]、血友病[BluterーErkrankung](☆1)を扱う場合、目に見えて明らかになることです。遺伝現象については、こんなふうに一般的にいろいろとしゃべるのではなく、具体的な事実が手にとるように遺伝を示すようなところで研究するべきだ、ときっと指摘されるにちがいありません。ひとつこの血友病患者における遺伝現象を研究してみてください。すると、皆さんはきわめて奇妙な現象を見出されるでしょうが、これは皆さんよくご存じの、私がたった今説明いたしましたことの単なる外的な現われである現象です。つまり、皆さんが見出すのは、家族の血のなかに血友病患者の受け継ぎが起こるのは、男性の個体においてのみであること、ただこれが遺伝されるのは女性の個体を通じてであり、女性、つまり血友病患者の娘は、彼女の男の子孫に血友病を遺伝させる傾向がある、彼女自身にはまったく血友病がなくても、である、彼女が血友病を持っているのはもちろん、この家族の一員であることによってである、といったことです。これに対して男たちは血友病患者となります。しかし彼らが、血友病の家族の一員でないことが証明できる女性と結婚すれば、血友病は遺伝されないでしょう。

 ここで、分析してごらんになれば、私が今しがた申し上げたことの明白な外的現われであるものが得られますし、血友病における現象は、少し前になされたヴァイスマン(☆2)のすべての試みのよりも、はるかに明確に、遺伝に関して本来どのように事態が進行しているのかを示しています。これは、人間の生体機構の全体的判断にとって、今や重要とみなさなければならないことであり、この生体機構に影響を及ぼすことができるのは何か、ということにしたがって、私たちは人間の生体機構を判断しなければならないのです。

 そもそもいったい血友病は何に起因しているのでしょう。何に因るものかは、表面的に観察しても結局は示されます。血液の凝固能力がないために、外部へのきわめてわずかな開口部であってもそのひとは出血多量で死に至ることがあります、単なる鼻血によってでも、何らかの歯の手術の場合でもですが、通常は傷の部位で血液の凝固に至ることが、血友病患者の場合はそれに至らないのです。もともとこの作用全体はこのこと、つまり血液の凝固力の不足に因るのです。とすると、血液が自身のなかに、凝固力に対抗する何かを持っているにちがいありません、そしてこの血液が自身のなかに持っているものが強く作用しすぎると、まさに血液が凝固するときに外から作用し始める力によってもそれを止められないのです。血液が凝固するときには、外から作用する力が関わっています。血液のなかに、この力を抑えつけてしまう何かがあると、まさに血液の過度の液体化、血液の過度の液体化傾向があらわれてくるのです。

 血液の液体化へのこのように強力な傾向は、人間の自我ー形成全体と関わっていることが容易におわかりになるでしょう。けれどもこの傾向も人間の自我ー形成とまったく表面的に関わっているのではありません、この傾向が関係しているのは、人間の自我のなかで意志として働いているものであって、人間の自我のなかで表象として働いているものではないのです。つまり、人間において意志を強めたり弱めたりするもの、これらすべてと、血液に過度の液体化を引き起こす組織化とが関連しているのです。私は申し上げたいのですが、ここで歴史は、正しい解釈がされれば自然のある種の秘密へとたどり着くのだということをみごとに示している事件を生み出したのです。今や自然だけではなく、歴史があの名高いエンガーディン(スイスの一地方)の事件(☆3)、おそらく皆さんもよくご存じの、有名なエンガーディンの乙女たちの事件を生み出したのです。ふたりのエンガーディンの乙女は、医学が必要としている人間認識に対して、徹底的に啓蒙的に作用することのできる、とでも申し上げたい何かをまさに作り出したのです。このエンガーディンの乙女たちは、血友病の家族の出身で、結婚しないと固く決意していました、そのため、このエンガーディンの乙女たちは血友病の遺伝を個人的に撲滅したひとたちとして歴史に登場しています。

 さてこのような場合、正しいことに目を向けなくてはなりません。このようにして生殖衝動から身を離すことは、血友病の家族から出た娘たちすべての特質ではありません。強い主観的な意志、自我のなかで作用し、アストラル体のなかでは作用しない強い主観的な意志の養成ということもこの一部なのです。つまりこの意志が彼女たちのもとにあったにちがいありません。すなわち、こういうことなのです、この女性たちがその自我のなかに、その意志のなかに有していたものは、ある種のしかたで、まさに血友病患者において効力を発揮している諸力と、ある種のしかたで関連している、ということです。これらの力が意識的に強められるとき、これらは血友病でないひとの場合に強められることができるよりもたやすく、強められ得るのです。これは、正しいしかたで認識されれば、本来血液に特有である力のなかに何かを見いだし、ここで人間の外部にあるものとのどのような相互作用が起こっているのかを認識することに通じるものです。このように血液中で意識的な意志と関連している諸力へと目を向けることによって、人間の意志と人間の外部にある諸力との関連は総じてどのようなものであるかを見ることができます。さて、これはこういうことなのです、つまり、人間の外部にあるある種の力は、人間の意志の力と内的な親和性を持っているということ、この親和性というのは、進化の経過につれて、まさに人間の意識的な意志と関わるもの、人間の意志全般と関わるものが、最終的に自然界のなかに分離された、ということに基づいている、ということです。この意志と関わるものは最終的に自然界のなかに分離されたのです。

 ここで重要なことは、人間形成プロセスにおける分離のもとで外部の自然のなかにあるもの、それ自身の特質を通じて、それがいかに人間を形成するプロセスと関係を持ち得るかを示すもの、これを研究することです。こういうものは元来自然のなかで長い間研究されてきましたが、それがどのようなものであるかを洞察することは極めて困難です、なぜなら、十七、十八世紀までは先祖伝来の医学そのものがなおも保存していた力を、今日の主知主義的な人間のなかでふたたび活気づけることは困難だからです。当時研究されていたこととはつまり、アンチモンと関係するすべてのことです。

 アンチモンはまったく奇妙な物体です。伝説的なバシリウス・ヴァレンティヌス(☆4)のようによくアンチモンにかかわったひとたちが、あれほど熱心にアンチモンを研究したのもそのためでしょう。アンチモンのある種の特性に目を向けるだけで、皆さんは、私はこう申し上げたいのですが、アンチモンがいかに独特のしかたで自然のプロセス全体に張り巡らされているかを認識なさるでしょう。アンチモンは独特のしかたで自然のプロセス全体に張り巡らされているのです。ひとつ考えてみてください、アンチモンはまず第一にーーこれはまだアンチモンのもっとも取るに足らぬ特性かもしれませんがーー他の金属や他の物体ときわめて親和性をもっていて、それゆえアンチモンはこうした他の物体とともに、とりわけ他の物質と硫黄結合して現われることが多いのですが、このようにアンチモンは自然のプロセスに張り巡らされています。硫黄は実際、自然のなかでこういう特殊な作用を持っていますが、このことはせいぜいのところ暗示的にではありますがもうお話ししました。アンチモンが他の物質と硫黄結合する傾向は、アンチモンがいかに自然のプロセスのなかに張り巡らされているかを示しています。けれども、アンチモンの別の特性は、アンチモンがいかに自然のプロセスのなかに張り巡らされているかをもっとよく示しています。つまり、アンチモンは、可能性さえあれば、束(房)状形態の結晶化のなかに現われ、すなわち地を離れて線を目指して進んでいく、という特性です。アンチモンが線を形成しつつ積み上がっていく、とでも申し上げたい、そういうところに、地球外のものから地上的なものへとやってくる結晶化の力を、いわば外的に目で見ることができるのです。と申しますのも、ふつうはもっと大きな規則性をもって現われて結晶を形成する諸力が、アンチモンのこの槍状、束(房)状形態の形成において作用しているからです。ここでアンチモン実質はまさに、それがいかに自然プロセス全体に張り巡らされているかを露呈するのです。同様に溶離プロセスにおいて起こっていることも、非常に強く、アンチモンはまさしく結晶化の力を露見させるものであることを示唆しています。溶離プロセスを通じて、アンチモンは細かい繊維状の形態で得られるのですから。

 アンチモンのまた別の特性はさらに、これが熱せられると、ある種のしかたで酸化、燃焼することができる、ということです。そのとき形成される白い煙は、冷たい物体とのある種の親和性という独自性を示すものですが、ここでこの煙が付着して名高いアンチモン華を産出するのですーーこれもまた、そこではいわば、別の物体へ依存することで結晶化の力が解放されているものですーー(*1)。

 けれどももっとも奇妙なものは、皆さんとともにあるここ数日の間に私がいわば地下の力、電気と磁気のなかで活動している力とみなした諸力に対してアンチモンが持っているあの独特の防御力です。アンチモンをある種のしかたで電気分解処理し、これを陰極に運んで陰極のアンチモンの沈殿物に金属の先端で触れると、アンチモンは爆発します、小さな爆発を引き起こすのです。電気的なものに対するアンチモンのこの抵抗は、その助けになるものが得られさえすれば、このようにきわめてアンチモンに特徴的なことなのです。このアンチモンのなかに私たちは、ひとつの物体がいかに自然のプロセス全体のなかに置かれているかを実際に見るのです。その他の物質は、これほどはでな、とでも申し上げたいようなしかたで、このことを示すことはありません。

 さて、ここで自然においてはっきりとしたケースで自らを示そうとするものを理解できるのは、自然のなかにある諸力はいたるところで作用している、ということを出発点とする場合のみでしょう。ただ、物質がこれらの力を格別に示すときは、これらの力はまさにこれらの物質のなかにとくに集中され、局限されているのです。アンチモンのなかで作用しているものは本来いたるところに存在します。いたるところで、こういう表現を作り出してよいなら、アンチモン化する力は作用しているのです。このアンチモン化する力は、人間のなかでも調整的に作用するものですが、人間はこのアンチモン化する力を、正常な状態では地球外的なものから引き出します。いわば地球外的なものから、人間は、アンチモンを集中して作り出すものを引き出すのです。正常な状態では、人間は、地上的なもののなかのアンチモン化する力およびアンチモンのなかに集中されているものに頼ることはなく、アンチモンの外的、地球外的な力に頼ります。ですから今こう問いかけることは当然でしょう、いったい地球外的なもののなかで、このアンチモン化する力とは何なのか、と。

 それは、惑星ということから言えば、水星、金星及び月の共同作用なのです。これらがそれぞれ別々に作用せず、一緒に作用すると、これらは水銀的にも、銀的にも、銅的にも作用せず、ちょうど地球においてアンチモンが作用するように作用するのです。これはもちろん、単純にこういう配置、つまり月の力、水星の力、金星の力という三つの力が、しかるべき衝や矩といった座相(*2)によって中和されるような、そういう配置の人間に対する作用が探究されることによって、調べられるにちがいないことではないでしょうか。これらが中和し合うとき、三つの力すべてがまさに中和し合うように互いに作用するとき、アンチモン作用といくらか関わりのある相互作用、アンチモンのなかで地球から要求される相互作用が起こります。地上でアンチモンであるすべてのもののなかでは、これら三つの天体から、地球外のものから地球へと作用する力と同じ力が、地球の方から作用しているのです。

 さて、やはりお話ししておかなくてはならないことにたどり着きました。つまり、地球の構造においては、アンチモンのようなものの場合に単にひとつひとつの塊について語るのでは正しく語ることにならない、ということです。地球の組織化において、すべてのアンチモンはひとつなのです、地球のすべての銀もすべての金もひとつであるようにです。個々の塊というのはそれほど問題ではないのです。皆さんが一塊のアンチモンを地球から取るとしても、皆さんは単に地球に組み込まれている全アンチモン体を掘っているのです。つまりその一塊はアンチモン体全体の一部なのです。こうして私たちは一方で、いわばアンチモン作用を通じてあきらかになることすべてを描写しました。さて、自然においてはすべての作用に反作用が相対しています。形成された物体は常に、他ならぬこの作用と反作用の往復運動によって生じるのです。

 さてよろしいですか、今度はこれらの反作用する力を捜さなくてはなりません。この反作用する力が私たちに示されるのは、アンチモンの力というのは、何か本来は人間の内部で制御されているものが、外に向かって突き進む瞬間に人間に作用するのだ、ということを私たちが認識できるとき、洞察できるときなのです。つまりこのアンチモン力は、まさしく血液の凝固において作用する力なのです。この凝固の内部ではアンチモン化するものが作用しています。血液がその持続において、その流れにおいて、凝固する傾向を示すところにはどこでも、アンチモン化する力が存在します。(そして)血液がこの凝固する力から離れようとするところにはどこでも、反作用が存在するのです。したがって、私たちが血友病患者と向き合うところでは、奇妙なことに、私たちはアンチーアンチモン化[anti-antimonisierend]の力を見いだすわけです。このアンチーアンチモン化の力は、ーーこういう語を作ってよいならーーアルブミン化する[aibuminisierend]力、蛋白質形成する力、とでも名づけたいものと同一のものであり、このアルブミン化する力は蛋白質の形成を促進するように組織化しつつ作用するものです。と申しますのも、血液が凝固するのを妨げるものは、蛋白質を形成する力だからです。

 このようにして私たちは、人間の生体組織におけるアンチモン化するものとアルブミン化するものの関係を認識するようになります。私は、このアンチモン化するものとアルブミン化するものの交替を研究すれば、罹病のプロセスと治癒のプロセスにおける根本的な認識が得られるだろうと信じている、とさえ言わなくてはなりません。いったい、アルブミン化するプロセスとは何なのでしょうか。それは、それを通じて自然におけるあらゆる可塑的なもの、あらゆる形成的なものが、人間とそして動物の生体組織の一部にその実質形成のために組み入れられる、そういうプロセスです。アンチモン化する力は、いわば外から作用する造形芸術家であり、器官を形成する実質に形態(フォルム[Form])を与える力です。このように、アンチモンの力は、諸器官の内的な器官形成力に対してある種の関係があるのです。

 ですから、どうぞ今から、一つの器官においてこの両方のプロセスを区別していただきたいのですーーこれは重要な区別ですーー、たとえば食道の場合をお話ししようと思います。食道は内的に組織されております。どんな経過が起こっているか、食道に沿って粥状になった食物がどのように通過していくか、などにはじめは注意を払うことなく、皆さんはいわば、食道の内部構造を追求することができます。それから食道が現われて、人体組織に取り入れられたものと一緒に作用します。つまり器官の内部の経過と、人間に外からもたらされたものと共に働くときに器官において起こることとを、抽象的なものにおいて分けることができるのです。これらは二つの異なったプロセスです。器官そのものの内部、そこでは、人間においてアンチモン化する力が作用しています。人間のなかに外から取り入れられるものをすべて抜き出して考えれば、人間は本来アンチモンなのです。人間自体がアンチモンなのです。重要なことは、通常の生のプロセスにおいては内的な器官形成力にこのアンチモン形成力の負荷をかけすぎてはいけない、ということです。通常の生のプロセスにおいてこのアンチモン形成力を供給してはいけません、さもないと生体組織を毒し、過度に刺激してしまいます。とは言え、生体組織をもっと強く刺激する必要があるときは、この通常は供給してはならないものを生体組織に供給せねばなりません。ここで皆さんが行き着くアンチモン作用というのは、いま描写いたしましたアンチモンの独自性によって、皆さんがアンチモンを外から用いるか、内から用いるかによって特に異なる作用です。アンチモンを内から用いるときは、皆さんがアンチモンを上部人間の内部まで獲得できるように、非常に希釈して用いるよう試みなければなりません。皆さんがアンチモンを上部人間の内部にまで獲得すると、アンチモンは、妨げられた器官形成、内的な器官プロセスを非常に刺激するように作用するでしょう。したがって、チフス形成のある種のかたちにおいても、微細にポテンシャル化された(希釈された)アンチモンは大きな役割を演ずることができるでしょう。

 これに対して、アンチモンをあまり高くないポテンシャルで(あまり希釈せずに)取り入れるとき、軟膏その他によって外的に用いられるときには、その作用はいくぶん異なり、また異なって達成されます。もちろんこの場合も、状況によっては外的なもののためにも希釈されたアンチモンの力に訴えなければならない、と判明することもあります。とは言え本質的には、外からの作用は、一般に低めのポテンシャルで(あまり希釈しないで)用いられることによってもたらされます。

 皆さんはこのことから、このような、同時に実際きわめて有用な薬である薬が、私の申しましたこの規則的な進行、しかし同時に絶えずその振動も示しているこの進行のなかに組み込まれていることをおわかりになるでしょう。したがって、次のようなことに依拠しなければならないでしょう、つまり、非常に意志の強いひとを扱うときは、主として内的にアンチモンを用い、もっと意志の弱いひとを扱うときは、アンチモンを外用する、ということです。こういうしかたによって特殊化せざるを得ないのです。このことから、鉱物界の内部のアンチモンのなかに、人間の意志と内的な親和性を有するもの、これは人間の意志が、意識的であればあるほど、それだけいっそうアンチモンの作用に対する反作用を引き起こすきっかけになると自ら感じている限りにおいてですが、そういう意志と親和性のある何かが与えられていることがおわかりになるでしょう。人間の意志は、私が前に皆さんに描写いたしました、アンチモンの独特の反応を形成する力をすべて破壊するように作用します。一方、人間において組織化する作用をするものはすべて、思考の力の影響のもとに、ただしとくに無意識の思考力、たとえば子どもにおいてまだ無意識に作用している思考力もですが、そういう思考力の影響のもとに本来アンチモンの力によって支えられています、アンチモンの力は、この組織化する作用をするものと共同して作用するのです。

 したがって、もし私が人間の生体組織のなかに恣意的なしかたでアンチモンをもたらし、アンチモンがまずその独自の特性を通じて強力に作用するとしたら、それは人間のなかに強力なファントムを形成します。すぐさま内部の器官の力が刺激され、この、人体組織に挿入されたものと共同して働くためにはもはや何も残らなくなります、つまり嘔吐、下痢ーーこれは、作用が器官へと後戻りして、器官の近辺のものにまで広がっていかない、ということに基づいているのです。これもまた反作用とともに現われてきます。

 皆さんは、皆さんがまさにそのために有利に組織化されているなら、あるひとたちがふつうある種の本能から自らに適用することを好むの同じと手段で、アンチモンの有害な作用を克服することもできるのです、あるひとたちというのは、何かあるものを通じて、その循環プロセスのすべて、その律動プロセスのすべてを調整的に維持することに好感を持っているにちがいないひとたちです。この律動プロセスに対して調停的に作用するのは、コーヒーの嗜好ですーー私は単に事実を述べているだけで、何かを推奨したりするつもりはないことは言うまでもありません、と申しますのも、この律動プロセスの調整を自我自身から取り除いてしまうとき、それは別の関連においては非常に有害である可能性もあるからです、けれどもここでそのことについて語るつもりはありません、ただ事実について語ろうと思うのです。コーヒーの嗜好は、律動プロセスを、そのひとがそれを調整できるほど十分魂的に強くない場合、ある種の調整へと導きます。したがって、アンチモンによる中毒プロセスにおいて、コーヒーは一種の特効薬なのです、なぜなら、コーヒーは、内部の器官的な作用と外的に起こっていることの間にリズムを取り戻させるからです。これもまたある一定のリズムによって維持されています。私たちがコーヒーを飲むのはそもそも、私たちの内部の諸器官と、つまり諸器官の近辺において、取り入れられた食物とともに起こっていることとの間に、絶え間ない律動化をもたらすという理由からなのです。

 これらすべてはまた、別のこと、つまりアルブミン化するプロセスに着目するよう私たちを導きます。これらのプロセス、すなわち今度は別の側に位置しているすべてのプロセスは、諸器官がそれ自身の内的な組織力を持たず、諸器官の外的な作用によって消化が行なわれるような側において強化されます、つまり腸の運動において機械的に起こっていることや通常消化において起こっていることはすべて、他ならぬアルブミン化する諸力と親密に相互作用しているのです、同時に蛋白質形成の力でもあるものに向かい、アンチモン化する力に対置される、アルブミン化する力とです。

 さて、すでに指摘いたしましたことですが、もう一度指摘しておかなくてはなりません。殻を形成する牡蛎というのは、非常に教えられる多い客体(対象)であり、私の考えでは主体でもあります。小規模ではありますが、同じことが卵の石灰の分泌、卵の殻の形成の場合にも見られます。いったいこのことの根底にあるものは何なのでしょう。こういうもの、牡蛎の殻や、通常見られる卵の殻のような殻とはいったい何なのでしょう。これは、卵の実質や牡蛎が自らから解放しなければならない産物で、卵の実質や牡蛎はこれを外部に送り出さなければなりません、しかもその理由は、もし卵の実質や牡蛎がこれを自らのうちに保持していたら、それがもとで死んでしまうだろうからということです。これらの殻形成というのは単純に、生命活動を維持するということに基づいているのです。

ですから牡蛎を食べると、牡蛎と一緒にーー皆さんにはたぶんこういう言い方をしてもよいでしょう、今日の科学の気に入るように話そうと思えば、もっと選び抜かれた形式をまとわせなければならないのはもちろんですがーー、牡蛎においてまさに殻形成において外へと現われてくる生命プロセスを食べることになるのです。この生命プロセスを一緒に食べるわけです。つまりアルブミン化するプロセス、アンチモン化するものに対置されるプロセス、これを一緒に食べているのです。それによって、人間のなかで、チフス様の症状に通じるすべてのものが促進されます。牡蛎を食べるということはきわめて興味深い経過です。牡蛎を食べること、これは人間の下腹部における形成力、アルブミン化する力を促進するのです。ところがこれによって、ある種の力を頭から解放し、引き離すのです、すると人間は、牡蛎を食べたときは主観的に、彼の頭のなかで働こうとする力をさほど重くないように感じます。そのひとはある種のしかたで頭をからっぽにするのです。私たちは、このアルブミン化する力を絶えず発達させなければなりません、なぜなら、形態形成する力の負担を頭にそれほどかけることはできないからです。ところが牡蛎を食べるひとは、これをしすぎて、あらゆる情熱をもってからっぽの頭を希求するのです。したがってそういうひとは、昨日特徴をお話ししましたある種の力の下腹部の器官への突破の可能性をも大きくし、つまりチフスへの傾向を促進するのです。ですから皆さんは、この傾向があるとしたら、これとともに、どのようにしてアンチモン処置がもたらされるか、考えることができるのです。したがって、内部と外部の同時的処置をアンチモンで遂行することによって、とりわけアンチモン軟膏を擦り込むと同時に高度にポテンシャル化された(希釈した)内部のアンチモンによって、チフスへの傾向をきわめて内的に克服するために引き起こされなければならないことに到達するとしたら、よい結果が引き出せるでしょう。これはまた、調整的に逆の作用もするでしょう、なぜなら、これは、チフス傾向に対して相互に調整し合うだろうからです。

 人間を絶えずその全宇宙の環境に据える、という試みがここでどのようになされるか、おわかりでしょう。このことの意味が示されるのは、皆さんが、自然のなかのあるもの、つまり、ある種のしかたで直接的な地の諸力に対して抵抗することによって成立しているものと人間との関係を調べてみるときです。植物は直接的な地の諸力に対して抵抗することができます。その後植物は、花形成、種子形成に至る時期のために、形成力の多くの部分をとっておきます。食べられる植物の基礎をなしている、私たちが通常見る植物形成は、まさしく、地の力の全く特定の量が植物の形成のために用いられるということに基づいているのです。植物がこの地の諸力に抵抗すると、次いで地球外の諸力にさらされ、種子形成、実形成が最後に集結すると、次いで植物は、本来ならば、高次のこの植物界の上方にいる存在たちが世界を見渡すように世界を見渡したいと思っているような植物になります。さらにこの植物は、知覚への欲求を示します。ただし植物は知覚するための器官を持っていないので、植物のままにとどまり、ちょうど人間の目のなかにあるようなものを発達させようとします。けれども植物は目を発達させることができません、植物が有しているのはまさに植物の体であって、人間あるいは動物の体ではないからです。ですからこの植物はベラドンナ[Tollkirsche]、アトロパ・ベラドンナ[Atropa Belladonna]になるのです。私は、このベラドンナになっていくときに起こっているプロセスを、皆さんに対していくらかありありと具象的に描写しようといたしました。植物はベラドンナになります、そして、ベラドンナになることによって、その根のなかにはしかしもう最終的に黒い液果の結実へと導かれる諸力が存在していることによって、この植物は、人間の生体組織においてまさに次のように作用しているものすべてと親和性を有するようになるのです、つまり、形態形成にしたがって動き、本来は感覚の領域のみで起こりうるものにしたがって動き、つまり人間をその組織化の領域から感覚の領域へと持ち上げるように作用しているものとの親和性をです。ポテンシャル化した(希釈した)少量のベラドンナを服用する場合に起こるプロセスは、きわめて興味深いものです、それは夢の混入した目覚めのプロセスに恐ろしくよく似ているからです。この場合、このプロセスがいわば正常化されて起こります。目覚めの際、まだあまり感覚的な知覚がなされず、感覚的知覚がまだ夢を伴う意識に浸透される性質を内的に有しているとき、本来いつも人間のなかにはこのような一種のベラドンナ作用があるのです。そしてベラドンナによる中毒というのは、ふつうは目覚める際の目覚めがまだ夢に浸透されているときに人間のなかでなされるのと同じプロセスが、ベラドンナの毒によって人間のなかに引き起こされ、しかもそれが継続して行なわれて、意識によってふたたび受け取られることなく、こういった過渡的現象がずっと持続していく、ということに基づいています。中毒現象を通じて引き起こされるにしてもそういうプロセスは、それが正しい速度で人間のなかに引き起こされるなら、人間の全生体機構の一部となるものだ、ということがわかるのは、興味深いことです。

 前に特徴をお話ししましたように、ベラドンナ化することとは人間化することへの気違いじみた努力なのです。ですからこう言うことができるでしょう、人間の目覚めは、自らのうちにベラドンナ化することのいくばくかを有している、ただしこれは和らげられたベラドンナ化、節度あるベラドンナ化であり、まさに目覚めの瞬間に限定されているものである、と。したがって皆さんが、体を内部のアルブミン化プロセスの重荷から解放しようとするなら、あまりに強く作用するアルブミン化プロセスを回収するように、いわば体的なものを魂的なものに導いていくように体に対して影響を与えようとするなら、ポテンシャル化した(希釈した)ベラドンナを与えてください。このとき皆さんは、それによって体から負荷を除こうとする何かを魂のなかに入れるのです。これは、これまたやはり、なるほど混乱して幻影に満ち満ちてはいますがーー私が講義の最初に申しましたようにーー、ベラドンナの通常の肉眼で見える作用において私たちの前に現われてくるものです。皆さんが人間を突いて、その結果そのひとが目覚めの状態から(持続的な)覚醒状態に移らず、目覚めの状態のままにとどまるとしたら、皆さんはまさに彼を死なせてしまいます。人間は目覚めるとき、いつも生命の危険にさらされています。ただ、この生命の危険を克服できるようにすばやく目覚めるというだけなのです。これは、いわば正常であるけれども正しい度合いに引き戻されているものと、正しい度合いを越えて導かれる瞬間に異常となるものとの間の興味深い関係です。

 これは、私にはそう思われるのですが、古代の医師たちが繰り返し繰り返し追求しようと試みていたプロセスです。ですから古代の医師たちがホムンクルスの製造(☆5)について語るとき、これは根本的に言って、彼らはまだ残っていた霊視力で、アンチモンのファントムであるような、そういうものを見ることができた、ということなのです。彼らが実験室で外的に実行していた形成プロセスにおいて、アンチモンがその力を展開する間に、彼ら自身の本質から投射されて、彼らに現われたものは、アルブミン化する力としてこのアンチモンの力を撲滅するものなのです。これが彼らにはまさにひとつの力として現われたのです。ふつうは人間の生体組織のなかに残っているものを彼らは投射しました、そのとき彼らは、アンチモンがさまざまな形(フォルム)をとっていくプロセスが起こっている間に、そこに現われてくるホムンクルスを見たのです。こういうことが起こるプロセスにおいて現われてくるもの、これを彼らはホムンクルスと見たわけです。

 

□原註

☆1 血友病:速記原稿の不精確な箇所を意味に即して修正した。

☆2 アウグスト・ヴァイスマン[August Weismann]、1834ー1914

   最初は医師、1866年から1912年までブライスガウのフライブルク大学で動物学

   教授、獲得形質の非遺伝性を仮定した。

   「遺伝理論の基礎としての生殖質の連続」(イェナ、1885)、

   「生殖質」(イェナ、1892)、及びその後の論文参照。

☆3 エンガーディンの乙女たちの事件:エンガーディンにこれに当たる事件は見当た

   らない。逆にテナ、ザフィエンタールでは、おそらくここで示唆されているよう

   なケースが起こった。またエルンスト・ツァーンの長編小説「タノの女たち」

   (1911 タノはテナという地名の詩的な変形)も参照のこと。

☆4 バシリウス・ヴァレンティヌス Basilius Valentinus 14世紀と15世紀の変

   わり目頃生きた。

   著作:「アンチモンの凱旋車」「太古の賢者の偉大な石」「化学の黙示」

☆5 ホムンクルスの製造:たとえばパラケルスス「デ・ゲネラツィオーネ・レール

   ム」(バーゼル1574、第1巻7頁以下)参照。

□訳註

*1 アンチモンの結晶:アンチモンの主要鉱石は輝安鉱。アンチモンは硫黄と結合し

て現われることが多いと述べられているように、輝安鉱の成分はアンチモン(Sb)

71.4%と硫黄(S)28.6%から成る。輝安鉱の結晶は長柱状、針状をなし、繊維

   状、毛状になることもある。

   輝安鉱を木炭上で熱すると、容易に溶融して液状になり、そのまわりに三酸化ア

   ンチモンの白色の蒸皮を生ずる。また開管中で熱すると、管の底部に不輝発性の

   白色昇華物を残し、上部には白色輝発性の昇華物が輪状につく。

   原鉱石の溶融によって得られる硫化アンチモニーはそのままでもマッチ、花火な

   どに用いられる。  

*2 衝、矩:衝は惑星どうしが180度の角度で向き合う位置関係、矩は互いに90度

   (四分円)の角度になる位置関係。


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