ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第三講●解説

 

<概要>


病理学と治療の診断による結びつき。三分化された人間。運動神経と感覚神経。暗示と催眠。治療手段と人間の関係。植物における成長の変容。適応力と再生。人間の形成力と霊的・魂的機能。現実に適応した心理学の基礎。上昇する進化と下降する進化。血液形成プロセスと乳汁形成プロセス。

 今日の医学においては、治療と病理学との関係は明らかではなく、単なる経験的方法ばかりが優勢であるため、実践的なものに対して応用のきくような合理的なものを、治療において見出すことはできません。(ちなみに、ここでは、哲学的な「経験論」と「合理論」の対比を踏まえて語られているようです。)

 診断し、病気を識別することで満足するのではなく、まず診断の段階で病気の本質から治療プロセスまでを見通すような仕方で病気の本質を認識することができなければならないのです。ここで治療における「理性[Ratio]」の必要性ということが示唆されます。

そもそも今日の医学研究はどのような性質のものなのか想定すると、少なくとも大筋において見出せることは、治療は病理学と並んで現れているけれども、両者の間に、明確に見通せる関係は成立していない、ということではないでしょうか。とりわけ治療においては、今日往々にして、単なる経験的な方法の独壇場となっています。合理的なもの、つまりそれに基づいて実践的なことにおいて実際に原理を打ち立てることのできるような、そういう合理的なものは、とりわけ治療においてはほとんど見出すことができないのです。

周知のとおり、19世紀におけるこの医学上の思考方法の欠陥は、医学上ニヒリズム派にさえ通じてしまいました。このニヒリズム派は、すべて診断に基づき、病気が識別できれば満足し、治療における何らかの理性[Ratio]に対しては大体においてまさしく懐疑的な態度をとったのです。さて、医療制度に対して、いわば純粋に理にかなった要求をするとしたらやはり、そもそも診断と関連したところですでに治療を暗示するものが存在していなければならない、と言わねばならないでしょう。治療と病理学の間に単なる外的な関係が保たれているだけではいけないのです。私たちはいわば病気の本質を、この病気の本質から治療プロセスについての見解を形作ることができるようなしかたで認識することができなければならないのです。

 病気の本質から治療プロセスまでを見通すというあり方は、自然のプロセス全体において、治療法と治療プロセスがどの程度まで存在するのかという問いと関連したものだといえます。

 人間の病気と治療のプロセスに対応するようなものが、自然のなかに見出されるのかどうかという問いが出てくるのです。

 しかし、今日の自然科学にもとづいた医学ではこうした問いかけはなされません。唯物論的傾向にある医学では、神経組織をその機能において、まったく誤解しているからです。

 このことは当然のことながら、そもそも自然のプロセス全体において、治療法と治療プロセスがどの程度まで存在しうるのかという問いと関連しています。パラケルススの大変興味深い箴言、”医者は自然を通じて試行していかねばならない”は非常にしばしば引用されますが、最近のパラケルスス文献は、まさにこういう箴言からとりかかるということをじゅうぶん心得ているとは申せません。さもなければ、自然そのものから治療のプロセスをひそかに学びとることをどのみちもくろまざるを得ないからです。

 なるほど、自然そのものがそれに対して策を講じてくれるような病気のプロセスがそこにあるときは、そういう試みもされるでしょう。けれども、真の自然観察は正常なプロセスを観察するものなのに、すでに損傷があって自然が自ら自衛策を講じる場合は、その治療処置に関して、やはり自然というものを特例として観察することが目指されているのです。

 すると、次のような疑問が起こってくるにちがいありません。つまり、治療処置について何らかの見解を得るための手がかりとして、正常なプロセス、いわば正常なプロセスと呼ばれているものを自然のなかに観察する可能性があるのか、という疑問です。

 ーー皆さんはすぐにお気づきでしょうが、このことはいくらか考慮を要する問題と関連しています。病気のプロセスが自然のなかに正常なありかたで存在しているときには、当然のことながら、自然のなかに正常なしかたで治療プロセスを観察することが可能です。すると、いったい自然そのもののなかに自然を通じて試行し、自然を通じて癒すことができるような、病気のプロセスがすでに存在しているのか、という疑問が生じてきます。ーーこの疑問に対してはもちろん、この連続講演が進むにつれてはじめて完全に答えが与えられるでしょうが、きょうのところはせめて少しだけこの答えに近づくことを試みてみましょう。けれどもその際即座に言えることは、ここに呈示しましたような道は、今日通用しているような自然科学に基づいた医学を注がれておおわれてしまっているということです。

 現在のような前提においては、このような道を歩むことは非常に困難です。と申しますのも、たいへん奇妙なことに、ほかならぬ19世紀における唯物論的傾向が、ここで私が骨組織、筋肉組織、心臓組織に続いて付け加えねばならない組織、すなわち神経組織をそもそもその機能において完全に誤解するという事態を招いてしまったからです。

 

 霊的魂的なものを神経組織によるものであるとすることが一般的になってきていることに対して、シュタイナーは異論を提出しています。

 神経組織と関係しているのは、表象プロセスのみであって、感情プロセスは、律動組織(呼吸−循環系)と関係し、意志プロセスは新陳代謝組織と関係しているというのです。これが、シュタイナーのいう、いわゆる「生体組織の三分節」という概念の基本となっています。

 この考え方は、生物学上の事実によって証明できることですが、それに対して、神経系に関する従来の考え方、つまり魂生活を神経組織によるものだとする見解は証明できないのだといいます。

 いわば魂的なものをすべて神経組織に負わせ、人間において起こっているあらゆる霊的ー魂的なものを、その際、神経組織のなかに見出され得るはずの平行現象において解明するということが次第に一般的になってきました。ご存知のように私は、こういった類の自然観察に対して、「魂の謎について」という著書のなかで異議を申し立てざるを得ませんでした。

 この本において私がまず第一に示そうと試みたことはーーこの真実を実証するために経験の面から加えられることは、ほかならぬこの通常の観察法によってこそ数多く得られるのですがーー、神経組織と関係しているのは、本来の表象プロセスのみであって、感情のプロセスは、間接的にではなく直接的に、生体組織の律動的現象に関連しているということです。今日の自然科学者は通常、感情プロセスは律動組織とは直接関係はなく、この律動プロセスが神経組織に中継されることによってのみ関係している、つまり、感情生活も神経組織によって営まれるのだ、と考えます。

 さらに私は、意志生活全般もまったく同様に、間接的にではなく直接的に、新陳代謝組織と関係していることを示そうとしました。つまり意志のプロセスに関しても、神経組織にとっては、この意志プロセス自体を知覚すること以外の何物も残されていないわけです。神経組織を通じて何らかの意志が実行されるのではなく、意志を通じて私たちのなかで起こっていることが知覚されるのです。

 私が主張いたしましたことはすべて、生物学上のそれに応じた事実によって完璧に証明されうることですが、他方、これと反対の、魂生活を神経組織だけに組み込む見解は、まったく証明することができないのです。

 感覚神経と運動神経が別のものであるとするとらえ方がありますが、運動神経といわれるものと感覚神経を切断するとしますと、その両者をつなぎ合わせることができ、そこから均一の神経が生じる、という事実があるように、感覚神経と運動神経は別のものではありません。運動神経というものは存在せず、運動神経と呼ばれているものは、四肢の新陳代謝で生じていることを知覚する感覚神経のことなのです。

 シュタイナーは、第二講で、病気の本質を探究するためには、新陳代謝に関連した「下部」と感覚−神経活動を含む呼吸活動に関連した「上部」とが密接に関係しあっているという事実を見なければならないことについて語っていましたが、現代の医学の傾向としてあるのは、病気の諸症状について、感覚神経と運動神経の区別で済ませてしまったり、ヒステリーを神経組織だけで説明しようとしたりすることなのです。

 いわゆる運動神経を切断し、感覚神経を切断して、両者をつなぎ合わせることができ、そこからまた均一の神経が生じるという事実がありますが、感覚神経[sensitive Nerven]と運動神経[motorische Nerven]があるという見解とこの事実が、まったく健全な理性のもとではどうやって関係づけられるべきなのか、ちょっと見ていきたいと思います。

 感覚神経と運動神経といったものは実は存在せず、運動神経と呼ばれているものは、私たちの四肢の運動、すなわち、私たちが意志するときに、私たちの四肢の新陳代謝において起こっていることを知覚する感覚神経にほかならないのです。つまり、運動神経とは実際のところ、私たち自身の内部においてのみ知覚する感覚神経なのです。それに対して、感覚神経と本来呼ばれているものは、外界を知覚しているのです。

 医学にとって非常に重要な意味を持っているけれども、事実そのものをきちんと見据えることによってはじめて正当に評価され得るものは、この方向にあるのです。なぜなら、昨日私が結核の例を得るために出発点とした病気の諸症状に対しても、感覚神経と運動神経の区別で済ませてしまうことは実際困難だからです。従って、賢明な自然観察者は、どの神経も単に周辺から内部へ、あるいはその逆へと伝わるだけでなく、周辺から中心へ、あるいは中心から周辺へも伝わるということをすでに受け容れてきたのです。

 同様に、どの運動神経にも二つの回路があるということになります。すなわち、神経組織から、何かを、たとえばヒステリーを説明しようとすると、互いに反対に流れている二つの回路を容認することが必要なのです。つまり、事実に立ち入るやいなや、神経組織についてのそもそもの仮定に完全に矛盾する、こうした神経の特性を容認することがどうしても必要になるのです。たとえばヒステリーの場合に起こっていることのように、生体組織のなかで通常神経組織に定められているものについて知るべきであったことが、神経組織についてのこういう(通例の)考えかたを習ったことですべてふさがれてしまったのです。

 私たちは昨日、たとえば結核の場合に起こって、神経によって単に知覚されているものを、新陳代謝における出来事によって特徴づけました。こういうことにこそ留意せねばならなかったのに、そうするかわりに人々は、神経組織の振動可能性や振動のなかにのみ、ヒステリーを探究し、すべてを神経組織のなかに置き換えてしまったのです。

 魂的なものを神経組織だけで説明しようとしている強い傾向があります。それは事実とは矛盾するものですし、魂的なものを生体組織に近づける可能性も与えないものです。その矛盾をなんとか説明しようとして、架空の運動神経というものを考え出したりしているというのが、現代医学の現状なのです。

 たとえば、怒るとドキドキするとか、恥ずかしくて顔が赤くなる、感動して胸が熱くなる、とかいう現象は神経組織だけで説明するのはかなり無理があるということとも関係してくるのではないでしょうか。

 こうして、さらにまた別のものももたらされました。とは言え、ヒステリーの遠因のなかにはやはり心魂的な原因もあることは否定できません。心痛、失望感、実現可能なものも不可能なものも含めて何らかの内的な興奮、これらがヒステリーの徴候のなかに入り込んでいます。けれども、神経組織以外の生体組織全体をいわば魂生活から切り離し、神経組織だけをまさに直接魂生活に関係づけたことによって、すべてを神経組織に負わせることを余儀なくされている状況です。

 これにより生じてきた見解は、第一に、もはやわずかなりとも事実には裏付けされず、また第二に、魂的なものを人間の生体組織にさらに近づける手がかりを何ら与えないような見解です。魂的なものをもっぱら神経組織にのみ近づけ、人間の生体組織全体に近づけることはしないのです。せいぜい、存在してもいない運動神経というものを考え出して、運動神経の機能からさらに循環その他への影響を期待することによって、全体に近づけようとするぐらいですが、この循環その他への影響というのもまったく仮説の域を出ないものです。

 

 今回ご紹介する部分では、ヒステリーの男性の死の例が紹介されます。(この内容については、本文をご覧ください)この例に関して、「暗示による死」といった診断を下すのは早計で、それは原因と結果が混同がされているです。暗示が原因で死に至ったのではなく、自己暗示とみなされるような心理的な混乱を導く原因は、生体組織そのものの深部にあったのです。死の原因そのものは、生体組織のなんらかの異常であったのですが、この男性は、混乱したイメージによってではあっても、自らの死を正確に予見することができたわけです。つまり、死の原因は暗示といった心理的なものではないのです。

 人間の本質を洞察し、生体組織の深部で起こっていることを慎重な態度で見ていくことが重要です。自然における複雑な事象について適切な判断を得ようとするならば、あまりに単純なことから出発することはできません。それについては、慎重であることが求められるのです。

 私が説明いたしましたことは、暗示と催眠といったようなことが現れてきたときに、きわめて思慮深い人たちを結局誤謬の道に導くことになってしまったことなのです。その際ーー少し以前のことになりますがーー、ヒステリーのご婦人がたが、きわめて思慮深い医師たちを誤謬に導き、欺く、といったことが体験されました。こういう人たちが医師の前で披露してみせる、ありとあらゆることに気をとられて、本来生体組織のなかで起こっていることには入っていくことができなかったからです。

 けれどもこのことに関連してーーこの場合はヒステリーの婦人ではなく、ヒステリーの男性なのですがーー、もともとこういう事柄に関しては非常に思慮深いのが常であるシュライヒ(☆3)のような医師が、いかなる誤謬に陥ったか、陥らざるを得なかったかををお話しするのも、一興かもしれません。

 つまりこの時、医師であるシュライヒのもとに、インクのペンで指を刺してしまった男性がやってきて、明日の夜にはきっと死んでしまうだろう、血液が毒されてしまうから、腕を切断してもらわなければならない、と言ったのです。当然のことながら、外科医であるシュライヒは切断を敢行することはできませんでした。彼にできたのは、この男性を落ち着かせ、傷口を消毒するなど必要な処置を施すことだけであって、明日の夜には血液が毒されてしまうからなどという申し立てに応じて、この男性の腕を切断することなどむろんできませんでした。するとこの患者は、また別の権威のところに行きましたが、当然ここでも彼の腕は切断してもらえませんでした。しかしシュライヒは事態にいささか不吉なものを感じました。朝になってすぐ問い合わせるとーー、その患者はほんとうにその夜死んでいたのです。そこでシュライヒは、暗示による死、と診断をくだしました。

 暗示による死、と診断することは、容易に、はなはだ容易に推測できることです。しかしながら、人間の本質への洞察があれば、このやうなやりかたで暗示による死を考えるということはあり得ません。ここでは、暗示による死が診断されるやいなや、原因と結果との根本的な混同がされているのです。もちろん血液が毒されているということはなくーーこれは解剖により確認されましたーー、当の患者は、医師たちには公表されない原因によって死亡したように見えますが、事態を洞察することのできる人にとっては、彼の死はまぎれもなく、生体組織の深部に根ざした原因によるものなのです。

 この生体組織の深部に根ざした原因が、その数日前からこの人物をぎごちなく不安定にさせていたので、彼はインクのペンで自分の指を突き刺すというような、通常はしないことをしてしまいました。これは彼がぎごちなくなった結果起こったことなのです。そしてこの人が外的ー物質的な意味でぎごちなくなる一方で、内的な透視能力はいくらか高められ、病気の影響で、夜になってやってくる自らの死を預言的に見通していたのです。彼の死は、彼がインクのペンで指を突き刺したこととは全く関係なく、彼が自分のなかに有している死の原因によって感じたことの原因となったのが、この(予見された)死だったのです。起こったことはすべて、死をもたらした本来の内的プロセスに、もっぱら外的に関連していることにほかなりません。ですからここで”暗示による死”が登場してくるのは全く問題外です。なぜならこの男性が信じていたことや彼の有していたすべてのものは、死を招いたこととは何の関係もなく、もっと深い原因があったからなのです。ともあれ彼は死を予見し、起こったことをすべて、この死の予見に引き込んで解釈したわけです。この例によって同時に、自然における複雑な事象について適切な判断を得ようとするといかに慎重でなければならないか、おわかりいただけたと思います。自然においてはきわめて単純なことから出発することはできないのです。

 人間の外部から薬というものを取り入れるわけですから、人間と人間の外部とがどのように関係しているのかを正しく認識する必要があります。人間の外部から人間の生体組織に対する影響は、3種類あります。感覚による知覚、呼吸と循環、新陳代謝による影響の3つです。このうち、外界と人間の間の相互作用が最も顕著に現れているのが、感覚による知覚、つまり神経組織への影響です。 

 とはいえ、つぎのような疑問を提出せざるを得ないでしょう。つまり、感覚による知覚[Sinneswahrnehmung]とそれに類するすべてのものは、人間の生体組織に対して薬剤から発せられているはずの、いわば少々異なった種類の影響のための手がかりを私たちに与えてくれるのか、という疑問です。

 さて、正常な状態において、人間の生体組織に対する三種類の影響があると言えるのではないでしょうか。第一に感覚による知覚を通しての影響で、これは神経組織のなかでさらに継続されます。第二に、律動組織、すなわち呼吸と循環による影響、第三に新陳代謝による影響、以上の三つです。

 これら三つの正常な関係は、何らかの方法で外的自然から取ってこなければならない薬剤と、人間の生体組織の間に私たちが作り上げる異常な関係のなかに、何らかの相似物を有しているはずです。しかしながら、外界と人間の生体組織との間に起こっていることがもっとも顕著に現れるのは、神経組織への影響においてなのです。

 従って私たちは次のように問わなければなりません。人間自身と、人間の外部にある自然であるもの、つまり、その経過としてであれ、実質的に薬剤としてであれ、人間の治療のために私たちが利用しようとする外的自然、この両者の間に、私たちはどうやって合理的な関係を考えることができるのか、と。

 私たちは、人間と、私たちがそこから薬剤を取ってくる人間の外部の自然との相互関係がどのようなものであるかについて、ひとつの見解を獲得せねばなりません。と申しますのも、水治療法を適用するときでさえ、私たちは何か人間の外部にあるものを用いているからです。適用されるものはすべて、人間の外部にあるものから人間のプロセスへと適用されているのであり、私たちは、人間と人間の外部のプロセスとの間の関係がどういうものなのかについて、合理的な見解を手に入れなければならないのです。 

 現代の医学教育にあっては、人間外部の自然と人間との関係について十分に追求されているとはいえません。

 ともかくここで、現在慣例となっている医学という学問の組織的関係に代わって純粋な集合体としてまとまりのあるテーマにたどり着きます。医学生は通常まず準備段階として自然科学の講義を聴きます。それからこれを基礎にして、一般病理学および個別病理学的なもの、一般治療学的なもの等が構成されるのですが、いざ本来の医学の講義が始まると、この本来の医学講義で語られているプロセス、つまり治療処置というものが、外的自然の経過といかなる関係にあるのかについては、もはや聞くべきことはあまりないということになります。

 私が思いますには、今日の医学教育を受けてきた医師達は、このことを、単に外的知性的に欠陥であると感じるだけでなく、実際に病気のプロセスに介入すべきときに沸き起こってくる感覚のなかで、ある感情として、何かを用いようとする際にある種の不確実さの感情として、自らの心のうちに強く刻みつけることでしょう。使用すべき薬剤と、人間のなかで生じている、実際に存在しているものとの関係が真に認識されることは何といってもまれなのです。ここでは、ことの本性そのものから医学という学問の改革の必要性を指摘することが重要です。

 人間の外部の自然と人間の生体組織との関係について認識するためには、まず人間外の自然のプロセスと人間の内部のプロセスとがどのように異なっているかを明確に知る必要があります。

 とりわけ植物や下等な動物にみられる成長の形態変化が人間の場合とはまったく異なっていることがニセアカシアの形態変化を例として説明されています。

 さて、きょうはまず、人間の外部の自然におけるある種のプロセスを手がかりに、これらのプロセスが、多くの点において人間の(内部の)自然のプロセスといかに異なっているかを明確にすることから始めたいと思います。

 私はまず、下等な動物や植物において観察できるプロセスから始めて、そこからさらに、人間の外部にあるもの一般つまり植物界、動物界、とりわけ鉱物界から取り出されるものによって引き起こされるプロセスへの道を見出したいと思います。けれども私たちが、純粋な鉱物実質のこういう特徴付けに接近することは、ごく基本的な自然科学的表象から出発して、さらに、例えば砒素や鉛といった薬品ではないものを人間の生体組織のなかに取り入れる際に起こることへと上昇していくときに、はじめて可能になるのです。ここでまず指摘せねばならないことは、人間以外の存在においては、成長における形態変化[Wachstums-metamorphosen]が、人間の(内部の)自然そのもの場合とはまったく異なっているということです。

 私たちは、人間のなかの本来の成長の原理、生きた成長の原理を何らかの方法で考えないわけにはいかないでしょうし、人間以外の存在の成長の原理も考えねばならないでしょう。けれども根本的な意味を持っているのは、そこで生じてくる差異なのです。

 例えば何か非常に身近なもの、通称ニセアカシア、ロビニア・プセウドアカシア[Robinia pseudakasia]を観察してみてください。このニセアカシアの葉を葉柄のところで切り取ると、興味深いことに、葉柄が形態変化によっていくらか変形され、さらにこの変形されてこぶ状になった葉柄が、葉の機能を受け継ぐということが起こります。

 ここでは、私たちがとりあえず仮説的にひとつの力と呼びたい何かが強く働いています。この力は植物全体のなかに潜んでいて、私たちが、その植物がその正常に形成された器官を特定の機能のために用いるのを妨げるときに発現してくる力なのです。単純に成長する植物において非常にはっきりと現れているものの名残りと申しましょうか、そういうものが存在している、ということは、人間の場合も、何らかの理由によって一方の腕あるいは手を何らかの機能のために用いるのを妨げられた人は、もう一方の腕あるいは手がより力強く形成され、物理的にも大きくなる、などといった事例によって証明されます。私たちはこういう事柄を互いに結びつけなければなりません。なぜなら、これが治療法の可能性を認識することに至る道なのですから。

 人間の外部にある自然においては、たとえば植物がその環境に適応しようとして葉を変形させるように、その内的な形成力が存在しているということがわかります。こうした形成力は、特にミミズのような下等動物において顕著に見られます。つまり、ミミズの一部を切り取っても、その切り取られた部分は元通りに形成されるのです。

 さて、人間の外部の自然においては事態は非常に広範囲にわたっています。例えば次のようなことが観察できるのです。山の斜面にある植物が生えていると考えて下さい。こういう植物は、葉を形成させないようなかたちで特定の葉柄を発達させる、ということが起こるのです。葉が生えてこないのです。これに対して葉柄は湾曲して、支持する器官になります。葉は萎縮し、葉柄は湾曲して支持器官となり、自らを支えます。これは変形した葉柄を備え、葉の萎縮した植物なのです。植物というものが、その環境に限定された生存様式に広範囲に適応することができるということは、植物において作用している内的な形成力の存在を示しています。

 さて、この内部で働いている諸力は、とりわけ下等生物においてきわめて興味深いかたちで現れてきます。

 たとえば、原腸胚段階まで進んだ胚を取りあげてみましょう。この原腸胚[Gastrula:原腸胚、嚢胚(卵発生における胞胚の次の段階)]を切断し、真ん中で切り離すと、切り離されたおのおのの断片は再び丸くなり、それぞれ前腸、中腸、後腸の三つの部分を形成する能力を自らのうちに養成します。つまり私たちが原腸胚を切断すると、二つの断片はそれぞれ、切断されていない全体がしたであろうことと同じことをするのがわかります。

 ご存知のように、この試みは、下等動物、ミミズにまで広げることができます。何らかの下等動物の一部を切り取ると、その部分は新たに補充されます。自らの内的な形成力から、切り取られたものと同じものが元通り得られるのです。

 こうした内的な形成力によって新たに成長してくるのは、その傷口のところにある緊張力によってだという考え方は事実に即したものではありません。

 もしそれが事実だとすれば、新たに生じてくるものは、傷口のすぐとなりにある部分が機械的に複製されるはずであるにもかかわらず、実際にはそうではなく、失われた部分の全体が再生されます。ですから、緊張力ではなく、生体組織全体が関与しているというふうにとらえる必要があるのです。

 こういう形成力は、事実に即して指摘されねばなりません。何らかの生命力を想定することで仮説的に指摘するのではなく、事実に即してこういう形成力が指摘されねばならないのです。なぜならば、そのとき実際起こっていることをより正確に見て本当に追求するならば、次のようなことがわかるからです。

 たとえば、非常に初期の段階のカエルの生体組織のどこかを切り取ると、切り取られた組織、別の組織が新たに生じてきます。いくらか唯物論的な考えかたをする人は、次のように言うでしょう。

 傷口のところに緊張力[Spannkraefte]というものがあるではないか、この傷口の緊張力によって、ここに新たに成長してくるものが生えてくるのだ、と。

 けれどもそういうことはあり得ないのです。なぜなら、もし私がある組織をここで切断して(図)この傷口のところに、ここにある緊張力によって新しいものが生じてくるとするなら、ここに生じてくるのは、このすぐ近くの部分、すなわち完全な組織のなかで直接隣り合っている部分であるはずだからです。けれども実際にはそういうことはなく、カエルの幼生の一部を切り取ると、末端器官、つまり尾や頭部でも、他の動物の場合は触覚糸といったものでも実際に出現してきます。つまりそこに接しているものではなく、その組織にとってとりもなおさず必要なものがそこから生じてくるのです。

 ですから、ここに直接内在している緊張力によって、自らを形成するものがここに生じてくるということは不可能なのです。この再生に際しては、緊張力ではなく、生体組織全体がなんらかの方法で参加していると考える必要があります。

 人間の場合は、指や腕が切断されても、下等動物のように、それが再生させることはありません。下等動物にみられるような形成力が人間にはなぜ存在していないのかという問いはおそらくは多くの方が、少なからず問いかけた疑問ではないかと思われます。私にしても、「トカゲの尻尾が再生するのに人間はどうしてそうではないのか」とかいう類の疑問は小学生の頃から持っていましたが、それに対する何らかの答えはシュタイナーの示唆によって始めて得ることができました。

 このように、下等生物において起こっていることを実際に追求していくことができます。私は、今日まで文献に記載されたあらゆる経験までこのことを拡張していくときこれをどのように追求していくか、という道を皆さんに提示したわけですが、この道を通ってしかこういう事柄についての見解にはたどりつけないのだということを、いたるところでご確認いただけると思います。

 皆さんは、人間の場合だったらこういうことはあり得ないのだ、という以外の思いはほとんど抱かれないのではないでしょうか。ーー実際、指や腕が切断されてもそれを補充できるとしたら、とてもすばらしいでしょう。でもそれは不可能なのです。

 そこでこういう問いが生じます。この、かつての成長形成力であり、ここに非常に顕著に現れている力、こういう力は、いったい人間の生体組織においてはどうなっているのか。この力は人間においては失われてしまったのか、そもそも人間にはまったく存在していないのか、という問いです。

 シュタイナーは、下等動物において存在している内的な形成力は、人間の場合、実質的な器官のなかには存在せず、魂的ー霊的なもののなかにのみ存在しているのだといいます。下等動物や植物界において造形的に働いている諸力を使って人間は、考えたり感じたり、意志したりできるというのです。つまり、内的な形成力がそうした魂的ー霊的な力に変容しているのだといえます。

 事実に即して自然を観察することを心得ているひとは、人間における精神的なものと物質的なものとの関連についての自然に即した見解に至ることができるためには、そもそもこの道を通って行くしかないということを知っています。

 つまり、私たちがここで造形的な、と申しますか、そういうものとして始めて出会う力、ここで実質から直接形態を創り出す力、こういう力は、人間の場合には諸器官からすっかり取り出され、人間の魂的ー霊的なもののなかにのみ存在しているのです。つまり、魂的ー霊的なもののなかにあるわけです。

 この力が諸器官から取り出され、それがもう諸器官の形成力ではないことによって、人間はこの力を特別なかたちで所有しています。人間はそれを、自らの霊的ー魂的機能のなかに有しているのです。私が考えたり、感じたりするとき、私は、下等動物や植物界において造形的に働いている諸力と同じ力によって考えたり、感じたりしているのです。私が、物質素材から引き出した力を使って思考し、感じ、意志することを行わないとしたら、私は考えることなどできないでしょう。

 従って下等生物を眺めると、私はこう言わざるを得ません。この下等生物の内部にひそんでいるもの、造形的な力であるもの、これと同じものを私も自らのうちに有している。けれども私は、これを私の器官から取り出し、自分自身のために所有している、そして、外部の下等生物の世界では造形的に働いているこの同じ力を用いて、私は思考し、感じ、意志しているのだ、と。

 今日の心理学を構成しているような単なる言葉によってではなく、自らの心理学的組成における実質によって心理学者になろうとする人は、そもそも思考、感情、意志のプロセスを次のように追求しなくてはならないでしょう。

 つまり、下方では造形的な形態化のなかに現れている出来事を、ここではまさに霊的ー魂的にのみ経過しているものとして、思考、感情、意志のプロセスのなかに明確に示していかなければばならないのです。

 もはや生体組織においてはできないことを、私たちがいかに内部の魂的なプロセスにおいてはやってのけているか、ちょっと考えてみてください。私たちは、忘れてしまった一連の思考を他のものから補完できます。このときの私たちのやり方は、先ほど私が、(下等生物の再生について)直接隣り合ったものではなく、そこからずっと離れたものが現れる、と説明したこととよく似ているではありませんか。

 以上、下等動物において存在しているような内的な形成力は、人間の場合、実質的な器官のなかには存在せず、魂的ー霊的な力に変容しているのだという事が述べられましたが、外的な自然現象における形成原理と内的な魂的ー霊的な力とは対応していて、人間においては、外的な形成原理はそのまま生体組織の物質的な基礎となっているのではありませんし、人間の魂的−霊的な力は、生体組織からさまざまな形で取り出してきたものです。

 私たちが内的ー魂的に体験しているものと、外的世界において形成する自然の諸力、形成する自然の原理であるものとの間には、完全な平行現象が成立しています。そこには完全な平行現象が成立しているのです。この平行現象に注意を払わねばなりません。そして、人間にとって根本的に外界における形成原理としてあるものは、人間が魂的ー霊的生活として自身の生体組織から取り出したものであり、その結果それは自身の生体組織においてはもはや物質素材、実質の基礎とはなっていない、ということを示さなければなりません。

 とは言っても、私たちはそれを生体組織のすべての部分から同じ度合いで取り出したというわけではなく、取り出し方はそれぞれ異なっています。ただ今展開してまいりましたような予備知識をいわば身に備えている場合にのみ、人間の生体組織に、それにふさわしい方法で近づくことができるのです。

 私たちの神経組織は、原始的な細胞形成の特徴を示していて、進化した細胞であるとはいえません。けれども、それは原始的とはいっても、分割不可能で増殖力を持ちません。初期の進化段階で、そうした増殖力が取り去られ、麻痺させられているのです。この神経細胞のなかで麻痺させられたものが、魂的ー霊的なものとして自らを分離し、通常人間において最高のものとされる精神活動に奉仕しているわけです。

 一番高等な精神活動に従事しているはずの頭部が、一番原始的な外骨格を有しているというのも、これと関連させて考えると非常に興味深いことではないでしょうか。

 と申しますのも、私たちの神経系を構成しているすべてのものを観察してごらんになれば、次のような特徴に気づかれるでしょう。つまり、通常神経細胞あるいは神経組織(Nervengewebe)などと呼ばれるものはまさに本来的な形成物であり、比較的初期の発達段階にとどまっていて、それほど進化した細胞形成物ではない、ということです。従って、こうしたいわゆる神経細胞は、初期の原始的な細胞形成の特徴を示していることを期待せざるを得ない、と言わねばならないでしょう。

 けれども別の関連においてはまったくそうではありません。なぜなら、神経細胞はたとえば増殖力を持たないからです。神経細胞は、血液細胞と同じく、形成されると分割不可能で、増殖できないのです。

 つまり、人間以外のものの細胞に与えられた能力が、比較的初期の段階に神経細胞から奪われているのです。この能力は取り去られているわけです。神経細胞は初期の進化段階にとどまり、いわばこの進化段階で麻痺させられています。この神経細胞のなかで麻痺させられたものが、魂的ー霊的なものとして、自らを分離するのです。その結果私たちは実際に、自らの魂的ー霊的なプロセスによって、かつて器官的実質のなかで自らを形成していたものに立ち返るのですが、これに到達するのは、私たちが比較的初期の段階で殺した、少なくとも麻痺させた神経実質を自らのうちに有していることによってのみ可能なのです。

 このようにして神経実質の本質に近づくことができます。さらに、この神経細胞が、一面ではかなり原始的な形成に似ているように見え、さらにそれが発達した段階においてさえ原始的な形成に似ているように見えるにも関わらず、それが通常人間において最高のものとされる精神活動に奉仕している、という特性を備えているのはなぜか、ということがわかってきます。

 私が思いますにーーこれはちょっとした挿話で、考察の本筋ではないのですがーー、人間の頭部を表面的に観察するだけで、つまり人間は頭部のなかにさまざまな神経細胞を有していて、この細胞が固い装甲で覆われているわけですが、このことは、高度に進化した動物よりもむしろ下等な動物を思い起こさせます。私たちの頭部そのものが言うなれば有史以前の動物を想起させるのです。こういう動物をちょっと変形させただけのように思われます。

 私たちが下等動物について語るとき、通常私たちはこう言います、下等動物は外骨格を有し、他方高等動物と人間は内骨格を有する、と。けれども、私たちの最も高度に発達している頭部、この頭部だけは外骨格を有しているのです。このことは、少なくともさきほど述べましたことの一種のライトモチーフとなりうると思います。

 外的な自然の中に存在している形成力を、植物などからとられた薬として再び生体組織に供給することによって、生体組織の助けにすることができるように、治療プロセスというのは、外部の自然の諸力を補い、生体組織に欠けているものを結びつけることだといえます。形成原理が霊的ー魂的な力へと変化したわけですが、そのためになくしてしまった形成力をサポートするわけです。

 ここで提出される疑問は、霊的−魂的活動へと変容してしまった形成力や外部の自然における諸力とは、どういう力なのかということです。そういう問いかけから、あらゆる治療法を導きだせるような一種の原理を見出すことができます。

 さて、ちょっと考えてみてください、このように私たちの生体組織から奪われてしまったものを、私たちが病気と称する何かあるものを通じてーーこのことはさらに詳しくお話するでしょうーー生体組織に補給するよう働きかけるなら、つまり私たちが、この形成力、人間の外部の自然のなかには存在しているけれども、それを霊的ー魂的なもののために使うので私たちの生体組織からは奪われてしまっているこの形成力を、植物などのものを使うことによって薬として再び生体組織に補給するなら、私たちは生体組織と、この生体組織に欠けているものとを結びつけるわけです。私たちは、私たちが人間になることによって生体組織から取り去られたものを、生体組織に付与することによって、生体組織の助けにするのです。

 さしあたりここで、私たちが治療プロセスと呼びうるものの姿がほのかに見えてくることがおわかりになると思います。つまり、治療プロセスとは、私たち人間が通常の状態では有していない外部の自然の諸力を、助けとして利用することであり、私たちは何かを通常の状態よりも自身の内部で強めるためにそれを用いるのです。

 ここで、ちょっと具体的にお話しするために、とは言ってもただ例としてあげるだけですが、私たちの何らかの器官、例えば肺かなにかを取りあげてみましょう。こういう器官の場合も、私たちは霊的ー魂的なもののために形成原理をこの器官から取り除いた、ということが判明するでしょう。私たちが今度は植物界において、私たちが肺から取り除いたこの諸力にたどり着き、肺組織に何らかの障害がある人間にこの諸力を付与すると、この人の肺の働きに助けをもたらすことができます。

 そうすると、つぎのような問いが生じてくるでしょう。人間の諸器官の基礎を成しているけれども、霊的ー魂的活動のために取り除かれてしまった諸力、人間の外部の自然においてこういう諸力に類似しているのはどのような力なのか、という問いです。皆さんはここで、単なる試行錯誤的な治療から治療における一種の理性[Ratio]に至る道を見出すでしょう。

 

 現代では、唯物論的な観点から、単純なものから複雑なものへの進化、つまり、鉱物から植物、動物への進化といったことが考えられるようになっています。しかし、そうした進化と同様に、植物から鉱物への、いわば下降する進化も考えられなければなりません。

 この下降する進化は、上昇する進化と鏡像関係にあり、その上昇する進化に対して特別の関係にある諸力が現れうるのです。つまり、下等生物における形成力のように、鉱物において存在している特別の力が、結晶化のなかに現れてくるわけです。

 そして、下等動物に見られるような形成原理が霊的ー魂的な力へと変化したためになくしてしまった形成力をサポートするために、植物界、動物界から取り出して人間の生体組織に供給するように、鉱物界のなかに存在する別の種類の力を人間の生体組織に供給するということが考えられるというのです。

しかしながらここには、神経組織つまり人間内部に関して人々が陥っている誤謬とならんで、人間の外部の自然に関わるいささかならぬ誤謬が存在しているのです。きょうはこれを暗示するだけにとどめ、後日さらに詳しくご説明しようと思います。唯物論的な時代において、人々は次第次第に、いわゆる最も単純なものから最も複雑なものへと、外的な存在の一種の進化論を考えるようになりました。人々はまず最初に下等生物に観察範囲を広げた後で、最も複雑な生物まで形態の変化を研究し、さらに生物でないもの、例えば鉱物界にも注目しました。人々は鉱物界に注目して、鉱物界は植物界よりどう見ても単純である、と言ったのです。このことは結局、鉱物界からの生命の発生とか、単なる無機的な集合体から有機的な集合体へと物質が集合するためにかつて存在した条件といったことについての、あらゆる奇妙な問題を生み出すことになりました。いわゆる「自然発生」[Generatio aequivoca](*)は多くの議論を呼んだものです。

*Generatio aequivoca:もとのラテン語の意味は「多義的な生殖、発生」で、一般には、神の創造行為によらない地球上の生命の発生に関する仮説。

けれども偏見なしに観察すれば、このような見解はまったく正しくないこが明らかになります。そして次のように言わなければならないでしょう。そもそも何らかの方法で、植物から動物を経て人間に至るひとつの進化が考えられるのとまったく同様に、今度は生物から生命が取り去られることによって、生物すなわち植物から鉱物に至るひとつの進化も考えられるのだ、と。ーー先に申しましたように、きょうはこのことを暗示するだけにしておきます。後日の考察でもっと明らかになってくるでしょうーー。進化というものを、鉱物から始まって植物的なものを経て、さらに動物的なものを通って人間に至る、というふうに考えるのではなく、出発点を中間に取って、植物的なものから始まって動物的なものを経て人間に至るひとつの進化を考え、今度は逆に鉱物的なものへと下っていくもうひとつ別の進化を考えると、つまり出発点を鉱物に置かず、自然の真ん中に置いてみると、一方は上昇する進化を通じて、もう一方は下降する進化を通じて現れてきます。このことから次のようなことが洞察できるようになります。つまり、植物から鉱物へ、とりわけ私たちがこれから見ていくように、きわめて意味深い鉱物すなわち金属へと下降していくことによって、この下降する進化においては、その鏡像である上昇する進化に対してまったく特別の関係にある諸力が現れうる、ということです。

要するに、鉱物においてはどのような特別の力が存在しているのかという問いが私たちの魂の前に提示されるのです。私たちがこの特別な力を研究できるのは、下等生物において研究してきた形成力を鉱物においても研究するときのみです。鉱物の場合、この力は結晶化のなかに現れてくるのが見られます。この結晶化が私たちに非常に明確に示しているものというのは、私たちが下降する進化を観察するときに現れてきて、上昇する進化を観察するときに形成力に現れてくるものと関係はしているけれども同じではないものなのです。したがって、鉱物のなかに力としてあるものを生体組織に供給すると、新たな問いが生じます。私たちはよく似た問いに次のように答えることができました。

 つまり、私たちが霊的ー魂的なものによって私たちの生体組織から取り去った形成する諸力を、植物界、動物界から取り出して人間の生体組織に供給すると、生体組織を助けることができる、と。けれども今度は、下降する進化すなわち鉱物界のなかに存在する別の種類の力を人間の生体組織に供給すると、どんなことが起こるのでしょうか。きょうはこの問いを出しておいて、考察を進めつつ詳細にお答えしていこうと思います。

 しかしそれでもやはり、きょう考察の頂点で出された問い、つまり私たちは自分で自然から治療プロセスをひそかに学びとることができるのか、という問いに正しい意味で何かを役立たせる、というところまでまだ到達していないのです。こういう問いにおいて常に重要なのは、正しい洞察力をもってーー私たちはこういう事柄に関して少なくとも概略的にはこのような洞察力が得られるよう試みてきたわけですがーー自然に近づくことです。そうしてはじめてある出来事の本質が顕現するのです。これが重要なのです。

 さて、人間の生体組織には、血液形成と乳汁形成という二つの対立的なプロセス存在しています。その本質的な差異は、血液形成が形成力を自らつくり出す能力を非常に多く有しているという点にあります。血液形成は、下等動物における形成力をまだ有しているといえるのです。増殖能力を持たないという点では、赤血球は神経細胞と共通しているのですが、神経細胞ほどには、血液には形成能力が取り去られてはいないのです。

 さて、よろしいでしょうか、人間の生体組織には二つのプロセスが存在していてーーこれは動物にも存在しているのですが、さしあたっては重要ではありませんーー、私たちが今までに得た理念を備えて観察すると、これはある意味で対立するプロセスとして現れてきます。この両者は完全に対立しているわけではないのですがーーこの説明を誤解なさらぬよう注意してくださるよう強調しておきたいのですがーー、かなりな程度まで対極的なプロセスです。このプロセスとは、人間の生体組織に現れてきている、血液形成と乳汁形成のプロセスです。血液形成と乳汁形成、この両者はすでに外面的な点で本質的に異なっています。血液形成は、いわば人間の生体組織の隠された面へと強力に引き戻されています。乳汁形成は、最後にはむしろ表面の方へと向かう傾向を有するものです。けれども私たちが人間そのものを観察すると、血液形成と乳汁形成との間の本質的な差異というのはやはり、血液形成は、形成力を自らつくり出す能力を自身のなかに非常に多く有しているという点です。血液は実際、俗っぽい言い方をさせていただくなら、人間の生体組織の予算全体のなかで形成力を繰り入れねばならない部分なのです。つまり血液は、下等生物において認められる形成力をある意味でまだ有しています。この形成力を自らの内部に有しているのです。ところで近代科学が血液を観察するなら、ここで非常に重要なものに依拠することができるかもしれないのですが、結局真に合理的な意味において今日までそれはなされておりません。近代科学は、血液の主要成分は赤血球であり、赤血球は増殖能力を持たない、つまり増殖力が無いという特性を持つ、ということを拠り所とすることができるかもしれないのです。増殖力が無いという点は神経細胞と共通しています。けれどもこういう共通の特性を強調する際に重要なことは、共通である理由が、両者とも同じなのかどうか、ということです。理由は同じではありません。なぜなら、神経細胞から取り去ったほどには、私たちは血液から形成能力を取り去ってはいないからです。

 神経細胞の内的な形成能力は、外的な影響に適応する能力に対して後退していますが、血液は内的な形成能力を高度に保存しています。その形成能力は、母乳を乳児に与えるということからもわかるように、乳汁にもある程度は存在していますが、血液がその存続のために必要としている「鉄」を乳汁はほとんど持っていません。

 では、血液はなぜ鉄を必要とするのでしょうか。血液は、人間の生体組織において病んでいて、鉄によって常に癒されなければならない実質だというのです。

 実際表象生活の基礎を成す神経実質は、かなりな程度内的な形成能力を欠いています。人間の場合、生後しばらくの間は、神経実質はまだはるかに外的な印象に依存しつつ、それを模して形成されているのです。つまりここでは内的な形成能力は、外的な影響にもっぱら適応する能力に対して後退しているわけです。血液の場合は事情は異なっています。血液は内的な形成能力を高度に保存しています。この内的な形成能力は、生活上の事実からおわかりのように、ある意味では乳汁にも存在しています。なぜなら、乳汁に形成能力がなかったら、健康に良い食品として母乳を乳児に与えることなどできないでしょうから。乳児は母乳を必要としています。乳汁のなかには血液と似た形成能力があります。ですから、形成能力という点においては、血液と乳汁のあいだにはある種の類似があるのです。

 けれども少なからぬ違いもあります。乳汁は形成能力を有しています。けれども、血液がその存続のために最高に必要としているものを、乳汁は持っておらず、少なくとも少量、ほんのわずかしか持っておりません。それは鉄です。鉄は基本的に人間の生体組織内で唯一の金属であり、人間、つまり人間の生体組織との結びつきにおいて、自ら整然とした結晶化能力を示しています。従って乳汁がほかの金属を微量に有しているとしても、いずれにせよ、血液は自らの存続のためにまぎれもない金属である鉄を必要としている、という点に違いがあるのです。乳汁も形成能力は有しているのですが、鉄を必要としていません。ここで、なぜ血液は鉄を必要とするのか、という問いが生じます。

 これは結局医学という学問全体の根本問題なのです。血液はとりわけ鉄を必要とします。私がきょう触れた事実のための判断材料はもうここにあるでしょう。私がまず確認しておきたいのは、血液は人間の生体組織において、それ自身の本性によりもっぱら病んでいて、鉄によって絶えず癒されなければならない実質である、ということです。乳汁の場合にはこれは当てはまりません。乳汁が血液と同じ意味で病んでいるとしたら、それは人間自身のための、現在そうであるような類の形成手段、人間に外から与えられた形成手段であることは不可能だからです。

 鉄によって絶えず治療され続けていなかればならないというところに、血液プロセスの特殊性があります。しかし、それが異常なプロセスだというのではありません。正常なプロセスではあるけれども、自然自体が常に治療し続けなければならないプロセスだといえるのです。

 血液が、あくまで生体組織のなかにとどまろうとしながら、自然が人間の外部にある金属の力を人間に付与することで完了するプロセスであるのに対し、乳汁は、癒される必要はなく、生体組織から外へと向かうものであり、形成力をほかの生体組織へと健全に導くことができます。この両極性に目を向け、それを手がかりにすると、多くのことが研究可能になるというのです。

 血液を観察すると、人間において人間の構成のゆえに、その組織構造のゆえに、常にいくらか病んでいるものが観察されます。血液はもっぱらそれ自身の本性により病んでいて、鉄の付与によって絶えず治療され続けなければならないのです。すなわち、私たちは、血液のなかで起こっているプロセスにおいて、私たちの内部に絶え間ない治療プロセスを有しているわけです。医師が自然を通じて試行しようとするなら、自然のなかのすでに異常なプロセスを何よりもまず観察せねばならないというのではなく、正常なプロセスを観察せねばなりません。血液プロセスは確かに正常なプロセスではありますが、同時に、自然自体が絶えず治療し続けねばならないプロセス、自然が、付与された金属つまり鉄によって絶えず治療し続けねばならないようなプロセスなのです。そういうわけで、血液において起こっていることを図で示そうとすると、次のように言わなければなりません。血液が鉄なしで自身の構造によってのみ有しているものは、下に向かう曲線ないし直線で、これはとどのつまりは血液の完全な分解に至るでしょう。一方、血液中で鉄が働きかけているものは、常に上に向かい、絶えず癒しています。実際のところ私たちがここで有しているのは、正常なプロセスであって同時に、私たちがそもそも治療プロセスについて考えようとすれば、それを模して形成されねばならないようなプロセスなのです。ここで私たちは真に自然を通じて試行していくことができるのです。自然が、人間の外部にある金属の力を人間に付与することで、いかにプロセスを完了しているか、私たちはここで理解できるからです。そして同時に、あくまで生体組織のなかにとどまろうとするもの、すなわち血液が癒されねばならず、生体組織から外へと向かうもの、すなわち乳汁が癒される必要がないこと、乳汁は、形成力を有しているとき、形成力をほかの生体組織へと健全に導くことができることも理解できます。これは一種の両極性です。一種の、であって、血液と乳汁との完全な両極性とは申しませんが、この両極性に目を向けなければなりません。このことを手がかりに、非常に多くのことが研究できるからです。これを明日さらに継続していきましょう。

(第三講・了)


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