ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第四講●解説


■テーマ概観

■1/病理学から治療法を取り出す理性[Ratio]

■2/植物化に対抗するプロセス

■3/植物化の止揚

■4/植物化プロセスの下部における活性化

■5/腺から引き出した形成力としての魂生活

■6/人間は自らの中で光を変容させている

■7/マクロコスモスへの視点の重要性

■8/鳥は、人間の生体組織のマクロコスモスにおける写像である

■9/鉱物化傾向と鉱物治療

■10/人間の二元性

■11/松果腺と脳下垂体の真の緊張関係

 

■テーマ概観


 この第四講では、次のようなテーマが扱われています。

1.単に経験的−統計的な方法からではなく、

 病理学から治療法を取り出す理性[Ratio]の重要性

2.炭素に酸素を対抗させ、炭酸に加工することで、

 植物化に対抗するプロセスを形成する必要性

3.人間は植物化を止揚することで生きているが、

 その認識が生体組織と植物薬との関係を探求するためには必要である

4.人間の上部と下部の相互関係において、

 上部の下部に対する反作用が少なすぎるため、

 植物化プロセスが下部において活性化する可能性

5.人間の魂的霊的生活における体験は、我々が腺から引き出した形成力である

6.人間は自らの中で光を変容させている太陽光と

 それを内的に変容させることとの均衡が崩れることで

 人間は結核菌に適した土壌となる

7.顕微鏡での観察は、真のプロセスから目をそらせる

 マクロコスモスへの視点が重要である

8.鳥は、人間のより精妙な生体組織のマクロコスモスにおける写像である

 人間は鳥よりも下降した存在であるといえるが

 光を変容に導く活動において、つまり膀胱と大腸に関わるエーテル体に関して、

 鳥と同じ位置にある

9.人間は自らの内に鉱物化しようとする傾向を有している

 その点に関して、鉱物治療の視点が重要になるが、

 それは鉱物をそのまま取り入れるというのではなく、

 ホメオパシー原理が重要になる

10.人間は上部と下部という人間性として自らを開示し

  下部において形成されているものは、

  常に上部で形成されているものの平行器官である

  人間の霊的−魂的活動は、脳形成と同時に腸形成とも結びついている

11.上部と下部は、常に緊張関係にあり、

  それを制御することが治療においては重要になる。

  松果腺には、上部の力であるすべての力が現われており

  下部の力である粘液腺、脳下垂体の力との真の緊張関係という観点が

  さらなる治療プロセスのための基本原理となる

 

 

■1/病理学から治療法を取り出す理性[Ratio]

 


1.単に経験的−統計的な方法からではなく、

 病理学から治療法を取り出す理性[Ratio]の重要性


 この講の最初に、治療に関する基本的なシュタイナーの考え方が示されています。

 治療、治療薬と器官、症状との関連は非常に複雑なものなので、それを見出すためには、「基礎的問題」を扱う必要があります。薬は人間の外部から人間に投与されるわけですが、それによってそうした人間と人間外のものとの関係の認識の有効範囲についての洞察が可能となります。

昨日の午後の議論はなるほど極めて興味深いものではありましたが、私が今しがた目にいたしました質問との関連で、既にもう行ったことではありますが、やはりもう一度、次のようなことを強調しておく必要があります。すなわち、個々の治療薬と個々の症状との関連を見出すために十分な方法は、ここでの考察のなかで前もってある種の基礎的問題を処理してしまってからでないと得られないだろうということです。これらの基礎的問題によってようやく私たちは、人間と人間の外部のもの、この人間の外部にあるものから薬が取り出されるのですが、この人間と人間外のものとの関連についての認識の有効範囲を推し量ることができるようになるのです。とりわけ、個々の治療薬と個々の器官との関係について語ることは、これらの基礎的問題を処理することなしには不可能なのです。その理由は明白で、この薬と器官との関係というのは全く単純なものではなく、いささか複雑なものであって、私たちがきょう、あるいはもしかすると一部は明日にも処理していくべき基礎的問題を処理してからでないと、この本来の意味を推し量ることはできないからです。それに続いて、この治療薬とりわけ治療処置と、個々の器官疾病との具体的な関係を実際に議論する可能性がでてくるでしょう。けれども、きょうさっそく前置きとして申し上げておきたい今一つのことも、とりあえずは皆さんに取り入れていただきたいのです。そのことからある種の光が当てられることもあるでしょうから。と申しますのは、こういう事柄は当然のことながら最初はショックを与えるものですので、これらはいささかショッキングな事柄なのだ、ということを先に強調しておかなければなりません。昨日の午後ここで検討されたこととの関連で申し上げたいのは、皆さんが物事の別の側面に留意してくださるようお願いしたい、ということです。

 ここで、シュタイナーは、治療ということに関して、思いきった、けれども極めて原則的な意味での、問題提起を行なっています。それは、現代の唯物論的な医学に対する一種のアンチテーゼです。

 一見、効果的な治療が行なわれているように見えるそうした医学ですが、それは個々の「病人」を治療するという視点のみが重要視され、病気の本質への探求ということがなされているとはいえないのです。それは一面的なアプローチであるといえます。

 個々人の治療ということと同時に、「人類の治癒ということを全体として見」るという視点が重要だというのです。

 現代の医学は、まるで新興宗教の御利益のように、特定の症状に「効く」ということばかりが重要視され、その「効く」ということがいったい病気の本質とどう関係しているのか、といったことに対する視点が希薄です。

 従って、ある症状が起こるとそれを専門別に「〜科」ということで分類し、その症状別にそれに対処するということになってしまい、その病気を全体としてとらえるということさえなされないのが現状です。

 肝臓が悪ければその担当の先生がいて、目が悪ければその担当の先生がいる、という感じで、それらの症状の連関やそれらがどういう原因から生じているのかということを見ようとせず、クロスワードパズルのように部分のピースだけを扱うのが医者であるというようになってしまっているわけです。だから、それでどうにもならなくなると、急に御利益を求めて新興宗教に走る・・。

 そんな馬鹿げた状態から脱するためにも、病気の本質へのアプローチが重要になってくるわけです。

昨日ここでまったく特定の治療について非常に啓発される事例が数多く紹介されたことは、私たちにとってきわめて満足のいくことでした。さて、私はこういう治療をおそらくどんどん稀少なものにしていくごく単純な手段を皆さんに示すことができます。けれども私は皆さんがこの手段を用いないようにするためにこそーーこれを用いることは当然考えられることですーーこの手段をご紹介したいのです。この手段については、むろん人智学的な素養のある方々のもとでしかお話しすることはできません。この手段というのは、皆さんがリッターの治療法(☆1)を普遍的なものにしようとあらゆる策を講じる、という点にあると言えるでしょう。皆さんは治療の成功に関しては、自分は個人的としてひとりの医師である、ということを尊重するわけにはいきません。なるほど、個人としては次のようなことを意識しておられる方もいらっしゃるかもしれません。つまり、自分はひとりの医師として、大きな医師集団というものに対して戦わなければならない、けれどもリッターの治療法を大学の要件にしたとたんにそれに染まってしまうだろう、もはや反対の立場には立たず、非常に多くのーーすべての、とは決して申しませんーー病気が癒されるので、自分の治療の成果は著しく減少するという経験をするだろう、このように意識しておられる方ももしかするといらっしゃるかもしれません。現実の生活においてはこういうおかしなことがあるのです。つまり、ものごとは普通考えられているのとは異なっていることが多いのです。医師個人としてはひとりひとりの人間を治療することが最大の関心事であるのは当然のことですが、現代の唯物論的な医学は、それどころか、ひとりひとりの人間を治療することに単に挑みかかるしかない、ということの一種の法的根拠と申しますか、そういうものをこの方法で探し求めてきたわけです。

原注1 リッターの治療法:「M・リッターの光力学的治療の実践的応用のための手引き」(ミュンヘン、1913) 及び「神経ー力学的治療法ーー蛍光素材及び発光(ルミネセンス)素材の細胞領域と神経死に対する作用に関する研究と経験との関連で」(ライプツィヒ、1905)参照。

実際、この法的根拠は、そもそも病気などというものは存在しない、存在しているのは病人だけだ、と言われているところにあるのです。当然のことながら、人間が病気に関しても、今日外面的に見えているとおり切り離されているのだとしたら、このような根拠も真の根拠となるでしょう。しかし実際に起こっていることは、人間はこのようなことが大きな意味を持つほどには実際に切り離されてはおらず、ちょうど昨日E.博士が言及されたように、ある種の病気のスパンは、かなり広範囲にわたっており、皆さんがある人を治したとしても、別の場合にはまた別の人たちに病気を押しつけたこともあるかも知れない、といったことは決して確定できないのです。個々の病例をプロセス全体のなかに置いてみないと、こういう事柄は個別的にははなはだ驚愕させられるものです。けれども、人類の治癒ということを全体として見ようとする人は、やはり別の角度からも語らなくてはならないのです。

 シュタイナーは、「単なる経験的ー統計的な」在り方に、病理学から治療を引き出してくるという一種の理性[Ratio]をもたらさねばならないと言います。

 理性[Ratio]というとわかりにくいかもしれませんが、これは、「経験的ー統計的な」いわば帰納法的な在り方に対して、演繹的な在り方だといってもいいと思います。病気という現象の根底にある原理そのものから、個々の治療法を取り出してくるということです。

 病気はなぜ生じるのか、その病気である状態をどのようにすれば治療の可能性が生じるのか、そういった「なぜ」の部分を重要視しているのだといえるでしょう。

このことから、一面的に単に臨床的な方向付けをするだけではなく、完全に病理学をもとにして治療というものを引き出してくることがぜひとも必要となってくるのです。私たちがここで試みようとしていることはまさしく、通常は単なる経験的ー統計的な思考であるものに一種の理性[Ratio]をもたらすことなのです。

 

■2/植物化に対抗するプロセス


2.炭素に酸素を対抗させ、炭酸に加工することで、

 植物化に対抗するプロセスを形成する必要性


 シュタイナーは人間を三分節化した存在としてとらえています。 

・神経ー感覚存在としての人間

・循環存在、律動的存在としての人間

・新陳代謝存在としての人間

 そして、そうした三分節化した人間が、人間の外部の自然で起こっていることの陰画(ネガ)として関係づけれらているというのです。そのネガ−ポジ関係を認識することで、人間と人間外部の自然との関係性を理解する必要があるわけです。

 人間の外部にある自然のなかの植物界は、「炭素の集積に基づいた本質を持つ有機体、形成物」であり、人間も「下部の人間」において、その植物化のプロセスの端緒を持っているのですが、それが「上部」において、「酸素」によって、その植物化プロセスに対抗し、「炭酸」に加工しなければならないと述べられています。

 この上部と下部というのは、第2講で述べられていたように、生体組織の上部の活動である呼吸プロセスと生体組織の下部の活動である栄養分の摂取、消化のプロセスのことで、この両者は互いに働きかけ合っているのですが、それが「滞留器官」としての心臓において、互いの働きかけを妨げあうということでした。

 で、この上部では、いわば酸素プロセスがあり、それが下部のいわば炭酸プロセスに対抗し、炭素を止揚しなければならないというのです。

さてきょうは誰もがよく知っている事実から始めようと思います。この事実は自然科学的、医学的思考との関連ではまったく正当に評価されておりませんが、人間の人間外部の自然に対する関係を判断するための基礎を提供してくれるものなのです。これは、三つの部分から成る存在としての人間、すなわち、神経ー感覚存在としての、循環存在、つまり律動的存在としての、そして新陳代謝存在としての人間は、新陳代謝存在であることによって、外部の自然、植物界において起こっていることに対する陰画(ネガ)として関係づけられている、という事実です。次のような事実を魂の前に描き出していただきたいのです。つまり外部の自然において、さしあたりこの自然のうちの植物界だけを観察すると、植物相においては、いわば炭素を集積し、この炭素を全植物相の基盤とする傾向が認められます。私たちは植物に囲まれていることによって、炭素の集積に基づいた本質を持つ有機体、形成物に囲まれているわけです。忘れないでいただきたいのは、この形成の基礎を成しているものは人間の生体組織にも現れているのですが、人間の生体組織はその本質において、形成の過程でいわば発生期状態[Status nascendi]が進行していくうちに、この形成を止揚し、破壊して、代わりにその反対の形成を取り入れねばならないということです。このプロセスの端緒は、私たちの内部の、私が先日来下部の人間と呼んできたもののなかに見出されます。私たちは炭素を沈殿させて、いわば私たち自身の力から植物化のプロセスを始め、その後私たちの上部の組織に誘導されて、この植物化に抵抗しなければなりません。私たちは炭素に酸素を対抗させることで炭素を止揚し、炭素を炭酸に加工し、それによって私たちのなかに植物化に対抗するプロセスを形成していかなければならないのです。

 

■3/植物化の止揚


3.人間は植物化を止揚することで生きているが、

 その認識が生体組織と植物薬との関係を探求するためには必要である


 人間は「下部」において植物化でもある炭酸プロセスを持っているのですが、それが「上部」における酸素プロセスによって止揚されなければならないということでした。

 それは外的な自然のプロセスに対抗するプロセスであって、そうすることで、人間は生きているわけです。そして、そのことを認識することが、病気にかかっている生体組織に対して、「植物薬」がどういう働きをするのかということを理解するためには必要になります。

 この外的自然を止揚するという視点はとても重要な観点で、人間は自然存在であると同時に、それに対抗する存在でもあるのだということを認識しておかないと、「自然にしていればそれでいいのだ」というような自然礼讃のような安易な視点に陥ってしまうことになるわけです。

いたるところでこの外的な自然とは反対のプロセスに注意していただきたいのです。と申しますのも、このことに注意していただければ、皆さんは真実の人間をますます根本的に理解されるようになるからです。人間の重さを計ってもーー物理学的な研究方法にのっとった他の研究に対しては象徴的にこういう言いかたができますーー、人間そのものを理解することはできないのですが、次のようなことを考慮すれば、人間のメカニズムについてすぐさま何らかのことは理解できるのです。つまり、脳の重量は良く知られているように平均千三百グラムあるけれども、この重量で頭蓋の下半分の面が圧迫されることはない、なぜなら脳の自前の重量で圧迫されたなら、繊細な血管が拡がっている部分はすべて押しつぶされてしまうから、といったことです。脳が自らの土台を圧迫している重さはせいぜい二十グラムです。これは、脳が脳水のなかに浮かんでいるという事実のために、良く知られたアルキメデスの水圧の原理に従って浮力を得ており、その結果脳の重量の大部分は作用せず、浮力によって止揚されているからです。ここにおいて重さが克服され、私たちが自らの生体組織の重量のなかではなく、(重量の)破棄のなかに、物理的な重量とは反対の力のなかに生きているということは、人間のその他のプロセスの場合も同様なのです。実際のところ私たちは自然現象[Physis]が私たちとともに作り出すものではなく、自然現象から止揚されたもののなかで生きているのです。さらに私たちは実際のところ、外的自然のなかにも存在していて、植物界においてその最終部分を体験するプロセスとして知覚されるようなプロセスのなかで生きているのでもなく、私たちは植物化を止揚することによって生きているのです。このことは、私たちが病気にかかっている人間の生体組織と植物薬との間に橋を架けようとすれば、当然本質的に問題となってくることです。

 

■4/植物化プロセスの下部における活性化


4.人間の上部と下部の相互関係において、

 上部の下部に対する反作用が少なすぎるため、

 植物化プロセスが下部において活性化する可能性


 羊を解剖すると、その腸内には、「腸菌群落」のためひどい腐敗臭がするのですが、鳥類の場合には、そうした腐敗臭はありません。その差異に注目することが重要な視点を示唆してくれます。

 鳥類の場合、膀胱と大腸がきわめて未発達であって、排泄物を蓄積したり、生体内にとどめたりしておいてから排泄するとかいうことはなされません。摂取と排泄との間に常に平衡状態が保たれているのです。

さて、こういうことは、いわばちょっとした短編小説風に叙述できるかもしれません。世界のすばらしい植物相[Flora]として私たちを取り囲んでいるものすべてに眼差しを向けると、私たちは当然のことながら歓びを、とても大きな歓びを感じると言えるのではないでしょうか。けれども、羊を解剖して、その解剖の直後に別の植物相[Flora]を目にするときはそうではありません。この(羊の体内の)別の植物相は、その発生原因という点でも、外部の植物相の発生原因と決定的に類似しているのですが、羊を死後に解剖して、この羊の内部のまったき腐敗臭がこちらに漂ってくるのを感じるとき、この腸内の植物相、すなわち腸菌群落[Darmflora]に対して私たちは歓びを感じるどころではありません。けれども、このことにこそ特に注目する必要があるのです。なぜならば、人間の外部の自然においては植物相を軌道にのせる原因であっても、それは人間においては克服されねばならず、腸内の腸菌群落が発生させられてはならないことは明白だからです。ここにはきわめて広範な研究領域が拡がっており、比較的お若い、勉学中の医学生の皆さんにお勧めしたいのですが、学位請求論文のためにこの領域から多くを役立てられるとよいのではないかと思います。とりわけさまざまな動物の形態、哺乳動物を経て人間にいたる形態における、腸形成の比較研究という領域からは得るところが多いと思います。この領域においては、きわめて重要なことがまだ数多く研究されないままなので、非常に実り豊かな分野が成立するでしょう。とりわけ、羊を解剖すると、その腸菌群落のためにひどい腐敗臭が発散されるのに、鳥類の場合は腐肉を食する鳥の場合でも腐敗臭はなく、解剖しても比較的心地よいとさえ言える匂いを発するのはなぜなのか、一度その隠れた事情を探究してみていただきたいのです。

こういう事柄においては、まだ非常に多くのことが今日まで十分学問的に研究されておりません。この領域における腸の形態の研究についてはなおさらです。ちょっと考えてみて下さい。鳥類全体が、哺乳類との、そして人類との本質的な差異を示しているのです。鳥類の場合、ーー例えばパリの医師メチュニコフ(☆2)のような唯物論的な医師たちは、まさにこういう事柄について最大の思い違いをしてきたわけですがーー膀胱と大腸は、きわめて未発達なのです。鳥類が走禽類となるところでようやく、大腸の形態、および膀胱の形態におけるある種の膨隆[Ausbuchtungen]が見出されます。こうして私たちに重要な事実が示されるのです。つまり、鳥においては、排泄物を蓄積したり、一定期間生体組織内にとどめたりしてからその排泄物を随意に排出するなどということはなく、摂取と排泄との間に持続的な平衡状態が成立しているということです。

原注2 Elias Metschnikoff 1845-1905 オデッサ大学で動物学教授、後

にパリのパスツール研究所副所長。

 病気になるのは、「菌」によってであるということがいわれますが、それはあくまでも「ひとつの指標」にすぎないのだということを認識する必要があります。そうではなくて、「菌」の土壌になっているあり方の観察こそが、病気の原因を究明するのは不可欠なことなのです。

腸内、そして人間の生体組織全般に現れてくる植物相、さらには私たちがこれから見ていくように動物相のなかに、病気であることの原因のようなものを見るとしたら、それは表面的な見方でしょう。実際これはもう恐るべきことなのですが、今日病理学の文献を調べてみると各章ごとに新たに、この病気にはこの菌が、あの病気にはあの菌が発見された云々にぶつかるのです。これらはすべて、人間の生体組織の腸内植物学、腸内動物学にとっては非常に興味深い事実なのですが、病気にとっては、せいぜいひとつの指標という以上の意味を持ってはおりません。つまり何らかの病気の型が根底にあると、人間の生体組織においては、何らかの興味深い微小な動物あるいは微小な植物の形状がこの基盤のうえに発達する機会が提供されるけれども、そうでない場合はそれ以上のことは何もないと言える限りにおいての、指標にすぎないのです。この微小な動物相および植物相の発達が実際の病気に関与している程度は非常に低く、せいぜい間接的に関わっているだけです。と申しますのも、おわかりでしょうか、この今日の医学の内部で展開されている論理は、きわめて奇妙なものだからです。考えてもみて下さい、皆さんが、良く飼育されて見事な雌牛がたくさんいる土地を発見するとします。皆さんはそのとき、これらの雌牛がどうにかして飛び込んできたから、この土地が雌牛に感染されたから、私がここに見ているものはすべて見ての通りなのだ、などとおっしゃるでしょうか。たぶんそのようなことはほとんどお考えにならないでしょう。そうではなくて、この土地に勤勉な人たちがいるのはなぜか、何らかの動物の飼育に適した土壌がそこにあるのはなぜかを探究せざるをえないでしょう。要するに、皆さんはおそらく、良く飼育された雌牛がそこにいるということの原因となりうるすべてのことを、思考の拠り所とされることでしょう。けれども、ここで起こっていることは、この土地が、良く飼育された雌牛がやってくることによって感染されたからそうなったのだ、と言おうなどとはまさかお考えにならないでしょう。しかし、今日の医学が微生物その他に関して展開している論理はそうではないのです。この興味深い生きものが実在しているということから見て取れるのは、そこに肥沃な土壌がある、という以上のことではなく、この土壌の観察こそ当然留意されてしかるべきものなのです。ただ、たとえば、この地方には良く飼育された雌牛がいる、これを何頭か譲ってやろう、そうしたらもっと勤勉になろうと奮起するひともいるだろうと言うとき、間接的にあれこれのことが起こる可能性はあります。これはむろん付随して起こりうることです。準備の行き届いた土壌が菌によって刺激され、土壌自体も何らかの病気のプロセスに陥ってしまうということは当然起こりうるのです。けれども実際のところ、この菌という生物の観察は、本来の病気というものの観察とはほとんど関係がないのです。健全な論理の養成ということに留意されているならば、このように他ならぬ公認された科学から発して健全な思考の荒廃を招くようなことはそもそも起こり得ないはずなのですが。

 人間の「上部」の反作用が少なすぎるために、「下部」における植物化プロセスが止揚されず、それが「下部」にいて活性化する可能性に目を向けなければなりません。「腸菌群落(腸内植物相)」が活性化してしまうということです。

考慮すべきことは、先日来その特徴をお話ししてきました人間における上部と下部のある種の関係が誘因となって、上部と下部との正しい相互関係が成立しない可能性もある、ということです。その結果、上部の人間の反作用が少なすぎることにより、植物化していく傾向を阻止されるべき植物プロセスと申しますか、そういう植物化プロセスを阻止することのできない力が、下部の人間において活性化する可能性があるのです。そうすると腸菌群落(腸内植物相)がおびただしくはびこる機会も与えられ、そしてこの腸菌群落は、まさに人間の下半身がしかるべきやりかたで働いていないということを示すものとなります。

 「下部」におけるプロセスが正常に起こることができない場合、そのプロセスは、「上部」へと押し戻されてしまうことになります。つまり、「上半身で起こりうることの多くは、下半身から押し戻されたプロセスに他ならない」というのです。

 現代の医学では、ある臓器での疾患に対しては、その臓器そのものを治療するという視点が基本なのではないでしょうか。肺の疾患はその担当の科があり、泌尿器や胃腸の疾患にはその担当の科があるように。

 しかし、ここでシュタイナーが提示している視点では、病気の「原因」へのアプローチによって、人間の臓器などを機械のようにとらえて、それぞれの故障を直すような視点が問題にされなければならないことを示唆しています。

 この講の最初に、現代医学が個々の症状への治療ということが一見して有効なようにみえても、それは病気の本質を明らかにすることなのではないということが述べられていましたが、そうしたあり方は機械としての臓器の故障を修理するような発想でしかないということです。もちろん、とりあえずは、現在故障している臓器を修理することは有効かもしれないのですが、それは今なぜそういう病気になっているのかを明らかにし、それを治療するという視点でないのは確かです。

人間においては、下部の水準に従って起こるべき活動が下部で起こることができない場合は、せき止められて押し戻されるという特殊な事態が起こります。つまり、下半身において、この下半身に組織されている特定のプロセスが起こることができない場合、これらのプロセスは、押し戻されるのです。こういう言い方は素人臭いと思われるかたもおられるかもしれませんが、これは今日通用している病理学に少なからず見出される表現よりは科学的なのです。人間の下部において規定通りに起こるべきこれらのプロセスが上部へと押し戻されるわけですが、肺における排出や、肋膜その他のように上へ向かって置かれた部分における排出についても、その原因は、それが人間の下半身の正常あるいは異常な排泄プロセスといかに関連しているかを調べることによって追求されねばなりません。生体のこういうプロセスが下半身を通じて上半身に向かって押し戻されることを正確に見ていくことがきわめて重要です。上半身で起こりうることの多くは、下半身から押し戻されたプロセスに他ならないのです。上部人間と下部人間との間に正しい関係が成り立たないと、これらのプロセスは押し戻されるのです。

 

■5/腺から引き出した形成力としての魂生活


5.人間の魂的霊的生活における体験は、

 我々が腺から引き出した形成力である

 ここでシュタイナーは、とても興味深いことを述べています。


 唾液の分泌、腸内の粘液分泌、母乳の分泌、尿の分泌、精液の分泌など、なんらかの「腺」の分泌が起こる場合、私たちはその「腺」から力を取り出し、魂生活のための諸力としているというのです。つまり、自らの「下部」における腸菌群落、植物化プロセスから形成力を引き出し、私たちはそれによって思考しているというわけです。

 そうした「下部」における腸菌群落、植物化プロセスにおける形成力は、外的な自然の植物相に潜在している諸力でもあります。しかし、私たちの「下部」における腸菌群落は、外部の植物相とは異なっています。外部の植物相においては、思考は植物の内部に潜在したままなのですが、私たちは腸菌群落からその形成力を奪って思考の力に変えています。もし腸菌群落の形成力を奪わなければ、思考ができないのです。こうした洞察によって、人間と植物薬との関係を見ていく必要があります。

さてこれに加えてもうひとつ注意していただきたいことがあります。おそらく皆さんも日常経験から、こういう事実があるのを御存知と思いますが、この事実がまたしても十分に評価されていない事実であり、健全な科学においてはこういう事実の正しい評価こそ重要なことなのです。つまりこの事実というのは、皆さんがある特定の器官について考える瞬間、もっと良い言い方をすれば、その特定の器官に関連する考えを抱く瞬間に、この器官にある種の活動が起こる、ということです。人間においてわき起こってくるある種の考えと、唾液分泌、腸内の粘液分泌、母乳の分泌、尿の分泌、精液の分泌などとの関連をーーここにもまた未来の学位請求論文のための豊かな領域があるのですがーー一度研究してみてください。これらの生体組織の現象と並行して現れるある種の考えがどのようにして起こってくるのか、研究してみてください。

ここで目にしているのはどのような性質の事実なのでしょうか。皆さんの魂生活に特定の考えが生じると、それと並行して生体組織の現象が起こってくるのではないでしょうか。これはどういうことなのでしょうか。皆さんの思考のなかに生じてくるものは、まるごと器官のなかにあるのです。つまり皆さんがある考えを抱いてそれと並行して何らかの腺分泌が起こる場合、その考えの基礎を成している、そう考える基礎となる活動を、皆さんは腺から取り出しているのです。皆さんがその活動を腺から分離させて実行し、腺をそれ自身の運命にゆだねると、腺は自身の活動に没頭して分泌をおこなうわけです。この分泌が妨げられているということはつまり、そうでなければ腺から排除されるものが、思考がそれを結びつけたことによって腺と結びついたままになっているということです。ここで、形成活動が器官から思考のなかに入り込んで現れてくるということを、いわば明白にご理解いただけると思います。私がそのように考えなかったとしたら、私の腺は分泌しなかっただろう、と言うことは可能なのです。すなわち、私は腺から力を奪い、これを、この力を私の魂生活に移行させる、だからこそ、腺は分泌をおこなう、ということです。ここで皆さんは人間の生体組織そのもののなかに、私が今までの考察で申しあげてきたことの証明を見出せるのです。つまり、私たちが霊的ー魂的生活において体験していることは、私たちの目の前にある他の自然秩序のために分泌された形成力に他ならない、ということの証明です。外的な植物相として外的自然のなかで私たちの腸菌群落(腸内植物相)に並行して発達するものを通じて、外部の他の自然のなかで起こっていることのなかに、まさにこの内部にこそ、私たちが自らの腸菌群落から引き出した形成力が潜んでいるのです。皆さんが戸外で山の植物相を、草原の植物相を眺めるとき、本来は次のように言わなくてはなりません、このなかには、表象のなかに生き、感情のなかに生きているときに、皆さんが思考のなかに発達させる諸力が潜んでいるのだ、と。したがって、皆さんの腸菌群落は外部の植物相とは異なっています。外部の植物相からは思考が取り去られる必要はないからです。外部の植物相において思考は、茎、葉、花と同様に植物の内部に潜んだままなのです。ここで皆さんは、花や葉のなかで支配しているものと、皆さんが腸菌群落を発達させるときに皆さん自身のなかで起こっていることとの親近性について理解を得られるでしょう。このとき皆さんは腸菌群落に形成力をゆだねず、腸菌群落から形成力を奪い去るのです。これを奪い取らないとしたら、皆さんは思考する人間ではあり得ないでしょう。皆さんは、外部の植物相が持っているものを、自らの腸菌群落から取り去ったのです。

 上記に述べられたようなことを、動物相においても洞察することが必要です。人間と植物薬との関係を見ていくだけではなく、動物に関係した治療をも見ていかなければなりません。

 人間は、その外部の動物界において「形態を与える諸力」を、自らの内部における「腸内動物相」から取り去っています。そのこを認識することで、治療用血清について正しく理解することができるのです。

動物相の場合においても事情は変わりません。こういうことを洞察することなくしては人間と植物薬との関係に行き着くことが出来ないのと同様、外部の動物界において形態を与える諸力を、人間は自分の(内部の)腸内動物相からは取り去ったのだということについて意識しなければ、治療用血清の使用に関して正しい理解に至ることはできないのです。

 このように、治療薬についての正しい理解のためには、人間とその環境との関係を真に洞察しなければなりません。そうでなければ、意味のないことが、治療において大真面目に行なわれてしまうことになります。

このことからおわかりだと思いますが、このように人間とその環境との関係を本当に見据えないことには、理性、つまりこうした事柄の体系学は不可能なのです。さらに私はもうひとつ、非常に重要なことを皆さんに指摘したいと思います。少し前に滑稽にも至る所で唾を吐くことが禁止されたとき、はなはだひどい状態になりましたが、あれを共に体験された方がここに多数おられるかどうかは存じません。ご存じのように人々はこの唾吐き禁止によって結核を撲滅しようとしたのです。さて、この唾吐き禁止が滑稽なのは、これは誰もが知っておくべきことでしょうが、病原菌、結核菌は、ごくありきたりの分散した太陽光によりきわめて短時間で殺されてしまうので、しばらくしてから痰を調べてみると、少ししか時間がたっていなくても、痰のなかにはもう結核菌はいなくなっているからです。太陽光は即座にこの病原菌を殺すのです。ですから、通常の医学上の前提が正しい場合でも、こういう唾吐き禁止はなおもきわめて滑稽なことと言えるでしょう。このような禁止行為はせいぜいのところ、ごく一般的な衛生という面では意味もあるでしょうが、最も広義の予防医学にとっては意味のないことなのです。

 

■6/人間は自らの中で光を変容させている


6.人間は自らの中で光を変容させている

 太陽光とそれを内的に変容させることとの均衡が崩れることで

 人間は結核菌に適した土壌となる


 私たちは、光に囲まれているのですけど、その光を取り入れるにあたってそれを変容させています。植物化プロセスが人間のなかで阻止されるように、光も人間のなかで変化させられているのです。病原菌、結核菌は、太陽光の下ではすぐに殺されてしまうのですが、人間の体内にいるときは、よく生存するというのもその証明になっています。しかし、その菌が人間の内部で増えすぎるときには、そこになんらかの異常があるのだといえます。菌は常に存在しているのですが、なんらかの状態において、増殖していくわけです。

けれどもここでも、事実を正しく評価し始めた人にとっては、このことは非常に大きな意味を持っています。なぜなら、このことは私たちに、結核の動物相ないし植物相に属するもの、つまり病原菌は太陽光のもとでは自らを維持できない、ということを示しているからです。病原菌は太陽光のもとでは自らを維持できません。太陽光は病原菌には都合が悪いのです。病原菌が自らを維持できるのはどういうときでしょうか。人間の体内にいるときです。それではなぜ、人間の体内でなら自らを維持できるのでしょうか。病原菌を本来的に害をなすものであるかのように見るのではなく、体内で活動しているもの、これこそが探究されねばならないものなのです。けれどもこのとき注意を払われていないものがあるのです。私たちは絶えず光に囲まれています。この光はーーおそらく皆さんが自然科学から記憶しておられるようにーー人間の外部の生物の発育にとってきわめて大きな意味を持っています。とりわけ人間の外部の植物相全体の発育にとってきわめて大きな意味を持っています。私たちはこの光に囲まれているのです。しかし、私たちと外界との境目において、この光に、つまり純粋にエーテル的なものに、非常に重要なことが起こっています。つまり光が変化させられているのです。光は変化させられねばならないのです。よろしいでしょうか、ちょうど植物化プロセスが人間によって阻止されるように、この植物化プロセスがいわば中断され、炭酸の発生というプロセスによって植物化に抗する働きかけがなされるように、ちょうどそのように、光生命のなかにあるものも、人間によって中断されるのです。したがって私たちが人間のなかの光を探究すると、それはなにか別のもの、つまり光が変容したものであるにちがいありません。私たちが人間の境界を内に向かって越える瞬間に、光の変容が見出せます。すなわち、人間は自らのなかで、単に通常の外的な計測しうる自然現象を変化させているのみならず、計測できないもの、つまり光をも変化させているのです。人間は光を別のものに変えるのです。太陽光のもとではすぐに死んでしまう結核菌が、人間の内部ではよく生存するということは、次のような事実を、それが正しく評価されればですが、端的に証明するものです。その事実とは、人間の内部に生じてくるこの光の変容の産物、すでにこのなかに結核菌の生命元素があるということ、すなわち、結核菌が内部で増えすぎるときは、この変化した光の状態になんらかの異常があるにちがいない、ということです。さらに皆さんはそこから出発して、結核の原因のなかには、人間のなかで、この変化させられた光、この光の変容に関して、本来起こるべきでない何かが起こっている、ということもあるにちがいない、何と言っても結核菌はいつも存在しているけれども、人間は通常、結核菌をたくさん取り込みすぎることはないのだから、という事実を理解されるでしょう。実際結核菌はいつもいるのです。ただ通常は十分な数ではないというだけで、人間が結核に屈服するとおびただしく増えるのです。この変容させられた太陽光の発達に関連した何らかの異常がない限り、ふつう結核菌がどこにでも見つかるというわけではないのです。

 人間は、変容させた光を自らの内に蓄えています。しかし、人間が太陽光を十分に取り入れることができないか、取り入れる太陽光と太陽光を変容させることとの均衡が崩れるかすると、その蓄えられた光を引き出さざるをえなくなります。そのようにして、人間が結核菌に適した土壌になるとき、菌は増殖していきます。変容させられた光が肉体から奪われていくことで、「上部」が病気になるか、「上部」にとって必要なものを「下部」から引き出し、「下部」が病気になるかするのです。

 ところで、最近また結核が流行っているということですが、今回の結核はこれまでに効いたといわれている薬が効かないのだそうです。シュタイナーのこうした考え方に照らせば、変容された光が肉体から奪われ、人間が結核菌に適した土壌になってきているということなのかもしれません。

さてまたもや、この分野の学位論文や私講師論文の大多数から次のようなことを引き出すのはーー私がここで観点としてしか与えることのできないもののための経験的な素材は、このようなやりかたでのみ皆さんのところに集まってくるでしょうーー困難ではないでしょう。つまり、人間が結核菌に適した土壌となる場合に起こってくることというのは、人間が太陽光を十分取り入れることができないか、あるいはその人の生活習慣のために十分太陽光を得ていないために、その人のなかに入ってきた太陽光と、太陽光を変容させて加工することとの間の均衡がくずれ、その人はずっと自分のなかに備蓄していた変容させた光から、貯えを引き出さざるを得ない、ということです。

皆さんにぜひとも考慮に入れておいていただきたいことは、人間はまさに人間であることによって、変容させた光を絶えず自らのうちに貯えて持っているということです。これは人間の生体組織にとって必要なのです。人間と外界の太陽光との間の相互プロセスが正しく実現されないと、このような影響下にあっては、ちょうど痩せていく場合に自分のために必要な脂肪が肉体から取り去られるように、変容された光が肉体から奪われるのです。そしてこういう場合人間は、上部を病ませるか、あるいは上部にとって必要なものを下部から引き出す、すなわち変容させた光を下部から取り出して下部を病ませるか、というジレンマの前に立たされているわけです。

 このように、人間は、太陽光とそれを取り入れ変容させたものを必要としていますが、こうしたことから、治療の可能性を導き出すことができます。太陽光との相互プロセスを秩序あるものにするために太陽光にさらすことや変容させられた光が取り出されるプロセスを薬の作用によって弱めるといったことです。

このことからおわかりだと思いますが、人間はとりもなおさずその生体組織のために、外部から入ってきて変化させられた計量可能な実質を必要としているだけではなく、人間を正しく観察すれば指摘できることですが、人間のなかには、変容したかたちではあっても、計量できない実質、エーテル的な実質も存在しているのです。しかしこのことから看取していただきたいのは、このような原理を通じて、太陽光の治癒的な作用のための正しい見解を打ち立てる可能性をいかに生み出していくか、ということです。たとえば、一面においては、周囲の太陽光との相互プロセスが秩序を失っているのを再び秩序づけるために直接その人を太陽光にさらすことによって、あるいは他面においては、変容させられた光が奪われる際に不規則になったものを調整するような実質に、その人を内的にさらすことによって、治療を行うことができます。薬の作用によって、変容させられた光が奪われる状況をなくしていかなければならないのです。ここで皆さんは人間の生体組織をのぞきこむことができます。

 

■7/マクロコスモスへの視点の重要性


7.顕微鏡での観察は、真のプロセスから目をそらせる

 マクロコスモスへの視点が重要である


 通常、最近を顕微鏡を使って観察することによって、生命を把握しようとすることが行なわれているのですが、むしろ、私たちに関わる真のプロセスは、マクロ的な視点で研究されなければならないことをここで、シュタイナーは強く示唆しています。

ここで、世界全般を観察できる人にとって奇妙なことが起こってきます。そういう人はーーいささか外交的でない言い方をお許しくださいーー、しばらくするとーー私がお話することは一見反駁される可能性もあるにもかかわらず、これはそもそも共感も反感も無いという意味でまったく客観的なことなのですーー顕微鏡で観察することすべてに対して、微小な世界の観察全般に対して、一種の激しい怒りをおぼえるのです。なぜなら、顕微鏡での観察はそもそも、生命と生命を妨げるものとを健全に把握する可能性に導くやいなや、むしろそこから逸脱させるものだからです。と申しますのも、健康であるにせよ病気であるにせよ人間において私たちに関わってくる真のプロセスはすべて、顕微鏡的なものにおけるよりも、巨視的なもののにおいてはるかによりよく研究できるからです。私たちはマクロコスモスのなかにこそ、こういう事柄を研究する機会を探さなければならないのです。

 

■8/鳥は、人間の生体組織のマクロコスモスにおける写像である


8.鳥は、人間のより精妙な生体組織のマクロコスモスにおける写像である

 人間は鳥よりも下降した存在であるといえるが

 光を変容に導く活動において、

 つまり膀胱と大腸に関わるエーテル体に関して、鳥と同じ位置にある


 鳥類の体内には、腸菌群落がなく、それに対抗する必要がありません。膀胱と大腸の発達が未発達で、食べたものを体内に蓄積しないのです。ある意味で、私たち人間は、鳥よりも下降した存在であるといえます。

 しかし、エーテル的なものを変容させる活動、光を変容させる活動に関しては、私たちは鳥と同じ位置に立っているのだといえます。大腸や膀胱に関わるエーテル体に関して、私たちは鳥なのです。

 鳥は、人間の「より精妙な生体組織のマクロコスモスにおける写像」だといえます。ですから、人間をそういう視点で研究しようとすれば、マクロコスモス的に鳥を研究しなければなりません。

 このように、人間の外部にある植物相と動物相に起こっていることと、人間の生体組織のなかの腸内の動物相と植物相で起こっていて、克服されねばならないこととの対応を調べていくことが重要になります。

 そして薬と器官との関係を明らかにするためには、こうした一般的特徴や原理から、個別的なものを見ていく必要があります。

 この講義の最初で、単に経験的−統計的な方法からではなく、病理学から治療法を取り出す理性[Ratio]の重要性ということが言われていましたが、経験的−統計的な方法が帰納法的なのに対して、病理学から治療法を取り出す理性[Ratio]というのは、演繹的な方法です。マウス実験などを繰り返したりしてそこから治療法を見つけだすのではなく、病気という現象の根底にある原理そのものから、個々の治療法を取り出してくるということであり、さまざまに応用の可能性が開かれているということだと思います。ですから、この章で述べられているような病気に関する原理を認識することで、個別の治療法へと進んでいくことができるようになります。

皆さんに注意していただきたいことは、鳥類は、膀胱と大腸の発達が不十分であるために、摂取と排泄との間に絶えず持続的な平衡状態を保っていることです。鳥は飛翔しながら排泄することができます。鳥は食べたものの残りを体内にとどめて蓄積するということはありません。鳥にはそうする機会がないのです。もし鳥が食べたものの残りを体内に蓄積したとしたら、それは即座に病気であり、鳥の体をだめにしてしまうでしょう。私たちが人間である限り、物質的な人間である限り、私たちはいわばーー今日的な見解に沿って言うならばーー鳥よりも進化したわけですが、もっと正確な言いかたができるとすれば、鳥よりも下に降りてきたと言えるのです。鳥は実際のところ、腸菌群落に対して激しい戦いを展開する必要はありません。高等動物や人間には必要なこの腸菌群落が鳥の体内には全く無いのですから。けれども私たちの、より高位に置かれた活動と申しますか、例えば先ほどお話しましたエーテル的なものを変化させる活動、光を変化させて変容に導く活動、こういう活動に関しましては、私たちは鳥と同じ位置に立っているのです。私たちは物質的な膀胱と物質的な大腸を有していますが、これらの器官に関わる私たちのエーテル体に関しては、私たちは鳥なのです。実際こういう器官は宇宙において動的に存在してはいないのです。そこでは私たちも光を受け取って直接これを加工し、排泄物としてまた排出するということに頼っているのです。ここに支障が起こると、この支障に対応する器官がないために、私たちは健康を損なうことなしに難なくこの支障に耐えるということはでません。ですから、この小さな脳を備えた鳥というものを観察する際に明確にしておかなければならないことは、鳥は、私たちのより精妙な生体組織のマクロコスモスにおける写像であるということです。したがって人間というものを、鳥よりも下に降った粗雑な組織に写し取られた、より精妙な組織ということに関連して研究しようとすれば、皆さんはまさにマクロコスモス的に鳥の世界の出来事を研究しなければならないのです。

ただここで申し上げておきたいことはーーこれは括弧付きで述べるのが望ましいことかましれませんがーー人間が物質的組織において鳥類に比較して有している特性を、そのエーテル的組織においても持っているとしたら、実際人間の生活は悲しむべきものになるでしょう。なぜならエーテル的組織は物質的組織のようには外界から遮断されることができないからです。そうなると変容させた光を貯蔵する時には、それを感じとる臭覚器官がもし存在するなら、人間の共同生活はかなり悲惨な状態になるでしょう。もっとも先ほど申しましたとおり、これは括弧付きで述べるべきことです。私たちが羊を死後解剖して、その内部の匂いをかいだときに経験するのと同じことが起こってくるわけです。一方、エーテル体的なものに関しては、実際のところ私たちが人間としてお互い向き合っているやりかたは、たとえば腐肉を食する鳥でさえそれを解剖する際に不快な匂いを発散しませんが、この全く不快でない匂いーーもちろんすべては比較的、相対的にそう言えるだけですがーーに比較されます。この不快ではないというのは、私たちがとりわけ反芻動物、ようやく反芻動物への素質を持ち始めた、たとえば馬のような動物でもーー馬は正確には反芻動物ではありませんが、その組織において反芻動物への素質が見られるのですーーこれを解剖する時に発散される匂いに比較してそう言えるのです。

つまり重要なことは、外部の植物相と動物相に起こっていることと、人間の生体組織のなかの腸内の動物相と植物相において起こっていて克服されねばならないこととの対応を調べていくことなのです。そして何らかの薬と器官との関係を確定しようとすると、私たちは、きょう展開してまいりました一般的な特徴付けから、明日以降の講演での個別的な特徴付けへと進んでいかなければなりません。

 

■9/鉱物化傾向と鉱物治療


9.人間は自らの内に鉱物化しようとする傾向を有している

 その点に関して、鉱物治療の視点が重要になるが、

 それは鉱物をそのまま取り入れるというのではなく、

 ホメオパシー原理が重要になる


 人間の「下部」へとより深く下降していく場合、腸内植物相から腸内動物相へと下降していくわけですが、逆に「上部」へと昇っていく場合は、人間内部の植物相が克服される領域から、鉱物化、つまり人間の硬化が克服されなければならない領域へと上昇していくことになります。人間は、上へ向かえば向かうほど、鉱物的になる傾向が強くなるのです。それは、頭部が著しく骨化しているということに典型的に表われています。

 人間は、自らの内に鉱物化しようとする傾向を持っているのですが、この鉱物化の傾向が克服されなければならないというわけです。この鉱物化に対抗する働きかけのためには、外的な鉱物界の活動性に対置されるような力が、鉱物界から取り出されなければなりません。それが、鉱物化療法の基本的な原理としてのホメオパシーです。

 腸内植物相に対抗するには、植物療法、腸内動物相に対抗するには、血清療法が有効なように、鉱物化傾向には、ホメオパシーを行なわれなければなりません。このホメオパシーについては、第2講でも言及されていました。

 ホメオパシーは、同種(類似)療法で、健康体に与えるとその病気に似た症状を起こす物質を、ごく低濃度に希釈し、それを薬品としてその病気にかかった患者に投与して治療する方法です。アロパシー[Allopathie](逆症療法)はちょうどこれとは逆のやりかたですが、これについては、次の5講で述べられていますので、ここではふれません。

 シュタイナーは、第2講で、上部と下部の二元性をホメオパシーで説明していました。物質の特性は、一律にどこまでも分割可能なものではなくて、ある限界を超えると反対のものに転化する可能性すらもっていて、自然にはそうしたリズミカルな過程があるというのです。

 生体の上部組織と下部組織の間にもこうした内的なリズムがあって、上部組織はホメオパシー的なもので、下部組織は特性がある時点で逆転したものであるといえますから、その特性を利用して、希釈を行うことで、下部組織に関係した諸特性を上部組織に関係した諸特性に導くことができるわけです。

 このように、この「精神科学と医学」という講義は、他の講の内容と照らし合わせていくことで、理解の進む部分もありますので、今後もできるだけそうした説明を折りにふれて、付け加えるようにしていければと思っています。

けれども、私たちが一面においては、植物化の出現に対抗する戦いを循環プロセスのなかに見出すことによって、人間内部の、つまり腸内の動物相及び植物相の克服へと進んで行かなければならないように、皆さんはここから出発して本来の神経ー感覚人間へと進んで行くわけです。この神経ー感覚人間は、人間の生活全体にとって、通常考えられているよりもずっと重要なのです。科学というものがこのような抽象に高められたために、次のようなことを適切な方法で考慮する可能性はまったく失われてしまいました。つまり、この神経ー感覚人間を通じてたとえば光と光に結びついた熱とがそもそも入り込んでくるわけですが、この神経ー感覚人間は内的な生活と密接に関係しています。なぜなら光とともに入り込んでくる計測できないものは、諸器官において変容させられねばならず、そしてこの計測できないものは、計測できる領域に存在しているものと同様、器官を形成するものだからですが、こういうことを考慮する可能性は失われてしまったのです。神経ー感覚人間が人間の組織化にとって特別な意味を持っていることは、まったく考慮に入れられておりません。しかし、私たちが下部人間のなかにより深く下降していく場合は、腸内植物相を形成する力から、腸内動物相を形成する力へと下降していくのですが、他方、人間の上部へと昇っていく場合は、私たちは内部の植物相が克服される領域から、人間の絶えざる鉱物化、いわば人間の硬化が克服されねばならない領域へと上昇するのです。皆さんはここで、いわば外的に、頭部の骨化が他の部分より顕著であるということから見ても、人間は上へ向かって進化するほど、その器官を通じてまさに鉱物的になる傾向が強まるということを研究することができます。

この鉱物的になるということ、これは人間の生体組織全体にとって大きな意味をもっています。と申しますのも、よろしいでしょうか、これは繰り返し留意されねばならないことなのですがーー私は公開講演においても指摘してきたのですがーー人間を三つの部分、すなわち、頭人間、胴体人間、四肢人間という三つの部分に分けるとき、これらの三つの部分が並列的にあって、外的空間的な境界を有していると考えていただいては困るのです。質的に区分するとすれば、人間というものは当然まったくもって頭人間です。頭であるものは人間全体に拡がっていて、その主要な部分が頭にあるというだけです。他の部分、つまり循環と、四肢及び新陳代謝についても同じで、これらも常に人間全体に拡がっています。このため、当然のことながら、頭ないし頭部人間にとって存在しなければならないものが、素質としては人間全体のなかに存在しているのですが、この人間全体における鉱物的になっていく素質は克服されねばならないのです。今日の人間が、まだ遺伝的な霊視能力から導き出されていた古代の著作をひもといても、もはや何も理解できない分野というのは、まさしくここにあるのです。なぜなら結局のところ、パラケルススの言う塩プロセスについて読んでも(☆3)、今日ほんのわずかの人しか何かまっとうなことを読みとることはできないからです。ところでこの塩プロセスというのは、私がちょうど今特徴をお話ししている領域にあたり、硫黄プロセスというのが、その前にお話しした領域にあたります。

さて重要なことは、人間は自らのうちに、鉱物化しようとする傾向を有しているということです。ちょうど、動物相ー植物相プロセスの基礎を成しているものがいわば独立的になり得るのと同様に、人間全体にとってこの鉱物化の傾向も独立性を持つ可能性があるのです。この鉱物化の傾向に対して、どのように対抗して働きかけねばならないのでしょうか。これに対抗する働きかけは、この鉱物化傾向を粉砕し、いわばそのなかに絶えずくさびを打ち込む以外にはありません。そしてこの領域こそ、皆さんが血清療法から植物療法を経て鉱物療法へと移行して踏み込んでいくところなのです。何しろ鉱物療法なしでやっていくわけにはいきません。なぜなら、皆さんが、鉱物化していく傾向、普遍的に硬化していく傾向に対する人間の戦いにおいて、支えられねばならないものすべてを支えるための拠り所を得られるのは、鉱物と、人間のなかで自ら鉱物になろうとするものとの関係においてのみだからです。その際皆さんは、鉱物を単にその外的な状態のままで人間の生体組織に取り入れる方法でやっていくことはできません。ここで、何らかの形でのホメオパシー原理を示すもの、つまり、外的な鉱物界の活動性に対置されるような力が、ほかならぬ鉱物界から探り出されねばならないことを示すもの、そういうものが登場してくるのです。

これはよく指摘されてきたことで、実際正しいのですが、治癒作用のある泉のわずかなミネラル成分に注目しさえすれば、この泉ではめざましいホメオパシープロセスが起こっているのがわかります。このプロセスは、私たちが通常見ている外的な諸力から鉱物の連関を解放する瞬間に、まったく別の諸力、つまりまさしくホメオパシーを行うことによってしか特別に解き放たれない別の諸力が本当に現れてくることを示しています。けれどのこのことは、申しましたように、別の章で述べようと思います。

■10/人間の二元性


10.人間は上部と下部という人間性として自らを開示し

 下部において形成されているものは、

 常に上部で形成されているものの平行器官である

 人間の霊的−魂的活動は、脳形成と同時に腸形成とも結びついている


 人間の上部と下部という二元性に注目しなければなりません。つまり、下部において形成されているものは、常に上部で形成されているものの平行器官であり、対極的なものとしての下部が発達できなければ、上部における器官が発生できないということです。

 ですから、腸の形成と脳の形成とは密接に関係していて、大腸や盲腸が形成されなかったとしたら、脳も現在のようには形成されず、この物質的世界での霊的−魂的活動ができなかっただろうといえます。

 盲腸は役に立たないというか、何のためにあるのかわからないということがいわれているようですが、こうしたシュタイナーの提示する観点から、その盲腸の存在ということも深い意味を持っていることがわかります。

 盲腸は脳のなかに対置されるものをもつというのですから、盲腸がなかったとしたら、脳のなかのある種の部分が形成されなかっただろうといえるわけです。

それでもなお、きょう皆さんがたにお話ししておきたいことは、次のようなことなのです。皆さんが実際にーー特に比較的若いかたがたに私は切にお勧めしたいのですがーー、腸組織全体の形態変化、言うなれば、一面においては魚類から両生類、爬虫類を経て鳥類に至る変化ーーとりわけ両生類、爬虫類と腸組織との関係はきわめて興味深いものですーー、他面においては、哺乳類そして人間にまで至る変化について、比較研究されてみれば、次のようなことに気づかれるでしょう、つまり、器官の特殊な形態変化が起こり、たとえば盲腸ができてくるのです。すなわち人間の場合には後に盲腸となるものが現れ、下等な哺乳動物の場合や、鳥類の組織から何かが落ちて盲腸の原基が現れてくる場合には、魚には全く存在していない大腸からーー魚の場合大腸について語ることはできませんーー、いわゆるより完全な秩序による上昇を通じて大腸が、さらには複数の盲腸、人間の場合はひとつの盲腸であるものがあらわれてくるのですがーー他の動物のなかには複数の盲腸を持つ種類もいるのですーー、こういう発生のしかた全体のなかに皆さんは独特の相互関係を見出されることでしょう。

本来こういう相互関係こそ比較研究が非常に厳密に指摘せねばならないことなのです。皆さんは単に外面的にーーご存じの通り実際しょっちゅうこう問われるのですがーー、いったい何のために、人間の盲腸のようなこういう外に向かって閉じたものが存在しているのか、と問うことができます。こういう事柄について問われることはしばしばあるのです。このような問いを投げかけるとき、通常は次のようなことに注目されることはありません。つまり、実際のところ人間は二元性[Dualitaet]として自己を開示しているということ、したがって、一方つまり下部において形成されているものは、常に上部で形成されているものの平行器官[das Parallelorgan]であり、この平行器官、いわば対極が、下部において発達することができないとしたら、上部において何らかの器官が発生できないということ、こういうことに注目されてはいないのです。そして、動物の系列において前脳が形態を取れば取るほど、人間の場合これを後に発達させるのですが、それだけいっそう腸は、まさに食べたものの残りを蓄積する方向へと形成されるのです。腸形成と脳形成の間には密接な関係があり、動物の進化系列において大腸、盲腸が現れてこなかったら、結局は物質的本性として思考する人間というものも発生できないでしょう、なぜなら、人間が脳すなわち思考器官を持つのは、腸器官の負担、まったくもって腸器官のおかげだからです。腸器官は脳器官の忠実な裏面なのです。皆さんが一方において思考のために物質的活動を免除されるためには、他方において皆さんの器官に、形成された大腸と形成された膀胱による負担のきっかけとなっているものを担わせなければならないのです。このように、人間の物質的世界に現れているまさに最高の霊的ー魂的活動は、脳の完全な形成と結びついているのと同時に、その一部である腸の形成とも結びついているのです。これはきわめて重要な関係であり、自然の創造全体に途方もなく多大な光を投げかけるものです。さてここで皆さんは、たとえいくぶん逆説的に聞こえるにしても、人間にはなぜ盲腸があるのか、と問いかけ、人間が相応なしかたで思考することができるためにあるのだ、と答えることができるのです。なぜなら、盲腸において形成されているものは、人間の脳のなかに、それに対置されるものを持つからです。一方にあるものはすべて、他方にあるものに対応しているのです。

 

■11/松果腺と脳下垂体の真の緊張関係


11.上部と下部は、常に緊張関係にあり、

  それを制御することが治療においては重要になる。

  松果腺には、上部の力であるすべての力が現われており

  下部の力である粘液腺、脳下垂体の力との真の緊張関係という観点が

  さらなる治療プロセスのための基本原理となる


 古代の医師たちは遺伝的な霊視力によって治療を行なっていたというのですが、それをそのまま現代に持ち込んでも「得るところはほとんどない」のだということはとても重要なことだと思います。

 遺伝的な霊視力というのではなく、まさにこの講義の最初にも述べられていたような病理学から治療法を取り出す理性[Ratio]が重要で、それによって治療に関するこうした認識を再獲得しなければならないわけです。しかし、現代の唯物論的な医学は、こうした認識の大きな障げになっています。その誤謬に気づかなければなりません。

 上部と下部は、常に緊張関係にあり、それを制御することが治療においては重要です。松果腺には、上部の力であるすべての力が現われていて、下部の力である粘液腺、脳下垂体の力との真の緊張関係という観点がさらなる治療プロセスのための基本原理となります。

これは新しい種類の認識方法で再び獲得されねばならないことです。むろん私たちは、いまだ遺伝的な霊視力に立脚していた古代の医師たちを、今日そのまま模倣することはできません。それでは得るところはほとんどないからです。それでもこういう事柄を再び獲得しなくてはならないのです。こういう事柄の獲得にとってまさに最初の障壁になっているのが、このような関連をそもそも探究しない純粋に唯物論的な医学教育です。今日の自然科学と医学にとって、脳はまったくもってひとつの内蔵であり、下腹部にあるものもひとつの内蔵です。ここでは、陽電気と陰電気はまったく同じもので、両方とも電気だ、と言う場合と同じ誤謬が犯されているということに、人々はまったく気づいておりません。陽電気と陰電気の間には、互いに均衡を求める緊張が生じているのとまったく同じように、人間においても上部と下部の間に絶えず緊張が存在しているからこそ、この誤謬に気づくことは、いっそう重要なのです。医学の分野において優先的に探究されるべきことは、本来、この緊張の制御という点にあるのです。この緊張はーーきょうはこのことを暗示しておきまして、以後の考察でさらに詳しく述べていきますーー、二つの器官に集中する力のなかに、つまり、松果腺といわゆる粘液腺のなかに現れています。松果腺においては、上部の力であるすべての力が現れており、下部の力である粘液腺の力、脳下垂体[Hypophysis cerebri]の力に対して緊張関係を成しているのです。ここには真の緊張関係が成立しています。この緊張関係に関して人間の状態全体から見解を打ち立てるならば、さらなる治療プロセスのための非常に良い基本原理が得られるのですが。

これについては明日もう少しお話ししようと思います。皆さんのご質問にはすべて入っていくつもりです。けれどもすでに申しましたように、そのための基礎を作り上げなければならないのです。

(第四講・了)


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