ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第七講

1920年 3月27日   ドルナハ  


 昨日皆さんの注意を向けていただいたいくつかのことは、地球的および宇宙的な状況への人間の適応ということに関連して、私たちがまず第一に基礎としなければならないことなのですが、これはどちらかといえば空間的な性質のものでした。このどちらかといえば空間的な性質のものを、時間的なものと結びつけなくてはなりません。なぜなら、私たちがけっして忘れてはならないのは、人間というものをその存在の全体において観察しなければならないということ、すなわち、全体としての人間はいわば、子どもであり成人であり老人であって、人間存在のこの三つの生成要素がさらにそれぞれの個々の部分に入り込むというかたちで組織化されている、ということです。きょうこういうやりかたで獲得していくことを、さらに超感覚的なものと連結させねばなりません。そうして初めて、個別の観察というものに近づくことができるでしょう。とりわけ皆さんの注意を喚起しておきたいことは、ちょうど教育学が、若年層に対して、年齢の差異、つまり誕生から歯の生え変わりまで、歯の生え変わりから性的成熟期まで、といった年齢差を考慮せざるを得ないように、医学に帰するすべてのものも、本来全体としての人間、すなわち誕生から死までの人間を考慮する必要がある、ということです。すでに申しましたように、人智学者としての私たちの慣用となっている表現をまずは用いたいと思います。その後最終的には、部外者のかたのためにそういう表現を翻訳できるかもしれないというようなところまで行き着くでしょう。この翻訳は、私たちがしばらくこの考察を続けてさらに先に進んだときにはもっと容易になるでしょう。とりわけ、たとえば私たちが幼児の年代を観察するときに、明確に知っておかなくてはならないことは、私たちが言うところの本来の自我及びアストラル体のなかに機能的に存在しているものが、人間のなかに加えられるのは、この幼児の年代になってからなのだということです。この機能的なものは幼児期になってから器官的なもののなかに加えられ、その後、柔らかく弾力性のある器官実質とともに実際に活動していくのです。したがってちょうどこの幼児期に、人間の高次のものが人間の低次のものに加わることに関係した障害が現われてくるのも驚くにはあたりません。これは特に七歳から十四、十五、十六歳にかけての年代、性的成熟を目指してエーテル体が物質体に対して立場を獲得する時期です。このとき、物質体とエーテル体の弾力性がかみ合わない可能性が、さまざまなかたちで存在しています。実際本質的な意味で、アストラル体の課題は、この物質体とエーテル体両者の弾力性に均衡をもたらすべく働きかけることなのです。物質体とエーテル体が共に働かないときは、しばしばアストラル体がその力を強化する必要が生じます。その際アストラル体が十分な力を持っていないと、外的な手段によって処置されねばならないような症状が現われてくるのです。ですから、幼児期には、たとえば舞踏病[Chorea]の場合のような、物質的な放出、と申しますか、まさにそういうものに示されるような症状が現われてくるのだということが、皆さんにもおわかりいただけると思います。このような症候群に帰せられる病気はすべて、すなわち、器官そのもののなかで起こっていることのほかにこういう症候群つまり心的障害を示す病気、心的障害を伴うこうした病気はすべて、アストラル体の通常通りでない活動、つまり物質体とエーテル体の弾力性の調停に関してアストラル体が行なうべき活動に関連しているのです。

 さらに、舞踏病と同様の症状が妊婦にも現われることをごらんになれば、このことは皆さんにきわめて自明のこととなるでしょう。なぜなら、妊娠によって、この物質体とエーテル体の弾力性の調和が妨げられるのは当然であり、皆さんは、幼児期においてアストラル体に要求すべきことと同じ事を、ここでもまたアストラル体に要求しなければならないからです。したがって私たちは、幼児期に現われて、妊娠の際に妊娠の付随症状となることもある病気の場合には、アストラル体のーーこの問題は明日以降提示していくつもりですーー効力全体を強めて、アストラル体の機能が、物質体とエーテル体の弾力性に均衡をもたらす方向に落ち着くようにする薬、そういう薬を求めなければならないのです。

 これに対して皆さんはーーこのために私は年齢を考慮に入れることが大切だと強調してきたわけですがーー、何らかのしかたで多発性関節炎[Polyarthritis]やそれに類する何らかの症状に向かう傾向のある病気は、その本質的な発病時期が、十四、十五、十六歳から二十歳の終わりになってからであることがおわかりになるでしょう。何しろこの時期にはアストラル体自身が、物質体とエーテル体に対して正しい関係に位置づけられなければならず、そのためのアストラル体の準備が不十分であれば、たとえば幼児期に、アストラル体を正しいしかたで準備するために必要なことがなされなかったら、アストラル体は正しい関係を発生させることができず、その結果、この年齢でもう症状が現われてくるか、もっと年齢が進んでからその結果として現われてくるか、いずれかでしょう。ですから重要なのは、いわば時間というものを病気の研究のなかに取り入れることです。そしてーーここで少々一面的な表現をお許しいただければーー人間の生体組織をいかに治療したらよいかを、できるだけ容易に楽に読み取れるように、自然は、人間の生体組織を都合よくあつらえてくれた、などとという前提はないということです。人間の生体組織は、どのようにそれを治療できるかを、できるだけ楽に読み取れるようにあつらえられてはいないのです。どのように治療できるか、できるだけ楽に読み取れるはずだ、ということばかりが期待されすぎています。

 類似したものは類似したものによって治癒されるはずだ、という原則は、ある意味では正しいのです。けれども、治療の症候群であるものに対して類似したものとみなされ、探し出される最も主要な症候群は、別の年齢においては別の症候群としてあるのです。たとえば、二十歳以前に、私の考えでは外的な薬の影響で引き起こされ得る症候群が存在し、その後、二十歳前に病気のプロセスを引き起こしたこの薬が、二十歳以降では、何らかの方法で治療薬となるということがあります。ですから、しばしば主張される「類似したものは類似したものによって治療され得る」という所説においては、このことが考慮されなければならないのです。

 けれども、健康であれ、病気であれ、人間の状態全体に注目しようとするとき、何にも増して重要なのは、人間はいわば、二つの互いに対極を成す年代に生きているということです。人間は若い頃には、別の影響にさらされています。人間は若い頃には、昨日私たちがお話ししたことにしたがって表現すれば、太陽の上位の(惑星の)影響、つまり土星、木星、火星の影響を多く受け、後の年代になると、太陽の下位の(惑星)の影響、つまり金星、水星、月の影響が大きくなるのです。けれども月の影響は比較的、最も早く、最も明確に現われてきます。

 このことは、人間を考察するにあたって常に空間的なものを時間的なものに結びつけねばならないことを、私たちに再び示しています。そうすることによってはじめて、人間の生に現われてくる諸現象を正しい光のなかで見ることができるようになるのです。そして、人間認識への関係を正しい光のなかで見るためにはそもそもどのようにすべきかについても、個々の場合において、常に少しずつ触れていくことにしましょう。

 よろしいでしょうか、人間に作用しているものは、根本において、誕生前から、実際は受胎前からすでに始まっているのです。私はこういう事柄を研究する際に、「一般によく用いられている医学書のなかで、”原因不明の”とか、その原因を正しく指摘できないようなものとみなされる病気プロセスがこんなにも多いのは、いったいなぜなのか」と自問したことがしばしばありました。その原因は、次のようなことに全く注意が払われていないためです。つまり、昨日私たちが地球外的なものとして示した諸力の複合体は、人間が誕生に近づいていくときのみならず、受胎に近づいていくときにすでにもう存在していて、このように人間に作用するものは、その後、逆転した反対の作用を生み出すこと、すなわち、本来受胎前からすでに存在しているある種のプロセスは、受胎後、あるいはとりわけ誕生後に反対の作用を生み出すということです。そして、人間の生において観察できるのは、誕生後に現われてくるもののみ、受胎前に自然存在とのまったき関わりのなかですでに存在していたものに対する一種の反対の作用であるもののみということもあるのです。

 私が今申しましたことは、特に骨化[Ossifikation]および硬化症[Sklerose]と関連していることすべてと大いに関わり合っています。硬化症、そして骨化も、本来、その反対のプロセスをすでに受胎前に有しているプロセスです。これらは、受胎前に人間のなかで散乱プロセス、拡散プロセスとして作用しているものに対して、全く正常に器官的な形成プロセスとして反対の作用を及ぼしているのです。このことに注目することはきわめて重要です。硬化症のプロセスを、このように、地球外的なもの、誕生あるいは受胎以来人間そのもののなかに現われてくる限りでの地球外的なものと関連づけることができなければ、さらに、受胎前に存在する、人間の外部の、地球外的なプロセスと関連づけることができなければ、硬化症のプロセスを制することはできないでしょう。

 さてしかし、現われてこなければならないこれらすべてのプロセスは、ある限界を、いわばその振動の中心を越える可能性もあります。硬化あるいは骨化のようなプロセスは、いわば中央の位置に向かう振動であり、度を超す、つまり強くなりすぎる可能性もあるのです。これらのプロセスはさらにまったくちがった形でも現われます。最初これらは素質という形で現われます。そしてこの素質のなかに、人間存在の非常に本質的なものを探究しなければなりません。骨化や硬化症において正常であるもの、あるいは人生の経過のうちにそれ自身の領域で異常になるものが、別の側面へと揺れると、つまりこのプロセスがいわば自身の領域ではなく、人間の他の器官組織のなかで展開すると、受胎前のものの病的な反対像であるものが、私たちがさまざまな種類の癌腫形成[Karzinombildung]のなかに有しているものが現われてくるのです。

 こうした事柄に注目することができるのは、人間の生成および存在のプロセス全体を真に洞察しようと試みるときのみです。それがなければ、癌腫形成のようなことは、常に人間の生における比較的未知の要因となってしまうでしょう。この要因を、人間のなかで何らかのしかたで作用しなければならないもの、それが変成させられて、別の領域に移行されたものと関連づけることができなければ、です。

 さらに別のことも、同様に観察できます。幼年期に、水頭症、脳水腫[Hydrozphalus]のなかに現われてくるものも、また同様に観察することができるのです。本来私たちは皆、水頭症の素質を有していて、水頭症はなくてはならないものなのです。もし水頭症というものが存在しなかったら、私たちの脳と神経組織の正常な形成ができなくなるでしょう。と申しますのも、これは、人間のなかにある液体的な要素から引き出されねばならないからです。したがって、幼年期には常に、水頭症と、水頭症を克服しようとするもの、水頭症を抑えるために人間の生体組織のなかに現われるものとの間の闘いが見られます。実際単に水頭症のようなことについてのみ語るのではなく、その反対のもの、つまり脳内の水が減少しすぎることについても語らなくてはなりません。これはもしかするとほとんど考慮されていないかもしれませんが、実際考慮される必要のある、水頭症の対極にある病気なのです。幼児期の私たちは実際、水頭症と、後に起こるその反対物というこの両極端の間を、常に一方から他方へと揺れ動いているわけです。

 さてしかしーー臨床上のことについては今後さらに詳しく入っていきますーー、こういうことに関して、何かを見落とす、ということが起こる可能性もあります。つまり、水頭症がいわば完全に終わってよいおおよその時期、常に存在する正しい時期を見落としてしまい、水頭症への傾向が、教育によってであれ、食餌療法によってであれ、幼児期、とくに乳児期の治療行為全般によって、あまりに早く取り除かれてしまう、つまり水頭症をあまりに早く消滅させてしまう、と申しますか、そういう事態も起こり得るのです。こういうとき特に、人間の生の経過全体を見ないことの害悪が現われてきます。なぜなら、ここでまた指摘しておきたいのですが、こういう幼児期の水頭症の経過と、梅毒[Syphilis]との関係を、後になって現われる梅毒になりやすい素質において探究することが試みられるとすれば、ここで医学の博士論文が多数提供されることも可能でしょうから。この場合微生物を追求することによっては、実際何も得るところはありません。私がただいまお話ししましたような事柄が考慮されるときのみ、何かを実際に得ることができるのです。梅毒の予防のためにきわめて多くのことがなされる可能性があるのは、後になってさまざまな梅毒の症状のなかにーー私たちがさらに耳にするようにさまざまな症状があるのですーー現われてくる可能性のあるものに対して、ほんの子どものころに、いわば機敏に対処することを試みる場合でしょう。

 少なくとも、診断の際に常に念頭に置いておく必要があるのは、こういう事柄は、常に診断の際に、まさに人間の生成プロセスにおいて本来の原因を示すものへと立ち返っていかなければならないということです。さてこの点に関してきわめて重要なことは、次のようなことです。すなわち、生体組織のプロセス全体が移動していて、上部人間におけるプロセスも心臓に向かい、下部人間におけるプロセスも下から下腹部を経てやはり心臓に向かうと言えることです。本来の滞留器官としての心臓に向かって、人間の形成全体が、一方からももう一方からも押し寄せていくわけです。けれどもこの移動はさまざまな年齢に起こります。症状に肉薄すれば、つまり、とりわけ少年少女期に現われてくる症状、結局少年少女期における肺炎[Pneumonie]あるいは胸膜炎[Pleuritis]に通ずるものと何らかの関係があるすべてに現われてくる症状を見る目を習得し、ここでこういう出来事に関与してくるすべてのものを総合すれば、これは前進させられたプロセスであること、まだ比較的早い時期に水頭症においてなされたプロセスと同じプロセスであることがわかるでしょう。端的に言って、水頭症が人間の生体組織のなかを一段下へとずらされ、その際肺炎あるいは胸膜炎的症状になりやすい素質を形成するのです。これは幼児期においてこれらの症状と関連するものになりやすい素質でもあります。

 けれども、幼児期におけるこうした症状の場合であっても、これらの症状が後の年齢になってその反対のプロセスをたどる、つまりこれらの症状は実際後になってまた現われるけれども、今度はその対極のなかに現われるということになります。そして、次のように問いを立てる人は、たとえば急性の場合も含めた心内膜炎[Endokarditis]の場合に、起こることすべてに対して、その見解でやっていけるでしょう。すなわちその人が、「何らかの意味で肺炎あるいは胸膜炎と関連している病状が、以前の年齢にどのように現われたのか、私はひとつ知りたいものだ。」と言う場合です。ーーこれは結局、子どもの場合、肺炎や胸膜炎の症状が、早められたり、あまりに急速に追い出されたりするのではないということがわかるということに帰着します。当然のことですが、両親や教育者は、これらの症状をできるだけ急いで後退させようと切に望みます。しかし、人間のこういう状態の場合こそ、これらの症状を、それ自身の運命にゆだねると申しますか、さもなければ有害な作用をする可能性のあるある種の事柄を避けるために医師としてその場に居ること、病気を実際に経過させることが、きわめて重要なのです。ですから、こういう症状の場合ほどーー他の症状の場合ももちろんそうですがーー、胸膜炎や肺炎と関係している、子どもの病気におけるこういう症状の場合ほど、次のようなことが必要な時はありません。つまり、一種の自然的な療法、今日どのように呼ばれているにせよ、自然療法を適用すること、すなわち、病気のプロセスにできるだけ正常な経過をたどらせようとすること、病気のプロセスを早めたり、あまりに早く短縮させたりしないことが必要なのです。これが重要なのはつまり、病気のプロセスがあまり早く短縮されると、比較的すぐに、心臓疾患およびそれに関連するすべてにかかりやすい素質、とりわけ、多発性関節炎その他にかかりやすい素質を招いてしまうからなのです。したがって、とりわけ注意を払わねばならないのは、こういう領域においては、病気のプロセスをいわば妨げない、ということです。いわば胸膜炎と肺炎が欲することを妨げなかったら、あらゆる疾患、後で心臓の不規則性のなかに放出されるあらゆる疾患の素質が取り除かれてしまう人もいるでしょう。

 あらゆるもののなかに、人間の生成プロセス全体の内部に存在しているこの連関が見られます。このとき実際次のようなことも思い起こすことができるでしょう。つまり、単にその人の病気がほんとうに深刻な状態であるときの、こういう極端な場合を見るだけでなく、その人の病気が比較的軽い場合、つまりその人の治療も比較的容易になって、治療したのかしなかったのか、はっきり区別できないことさえあり、患者に向かって、「あなたがばかなことをしないで、癒されることを欲しないなら、事態はもっと良くなるのですよ」と言わなくてはならないとき、そういう場合にも目を向ける必要があるということです。なぜなら、そもそも人はそうはなはだしく癒されるものではない、ということも非常に重要なことでしょうから。治療すること自体はまったく結構なことなのですが、次のようなことを考慮に入れておくのも治療のうちなのです。つまり、次のような人物も人生においてはそう珍しくない、ということ、つまり、彼ら自身の言によれば実際ありとあらゆる可能な病気を体験し、あらゆる治療法も薬も体験してきたので、自分たちが高齢に達したときにはもうーーいずれにせよこの人たちはいつも病気なのですーー、元気づけてくれるような何かをまた見出すことは困難であるというような、そういう人もめずらしくないということです。こういう人たちには、次のような意識を少々呼び起こしておくほうが良いでしょう。つまり、そもそもたいていの人は実際には、その人がそう信じているほど病んではいないのだ、という意識をです。当然のことながら、このことは影の面も持っています。しかしこの場合のこういう関連では言われても良いことではないでしょうか。

 さて皆さんはこれらの事柄をすべて光のなかで見なくてはなりません。つまり、人間はまず第一に物質的な生体組織を有していて、さらにエーテル組織が七歳から十四歳まで強く働いて物質的組織に加わり、さらに妊娠のような事態においてはエーテル組織はまた追い出される、こういうことによって、人間はまさに複雑な存在であるということです。さらにまた、考慮しておかねばならないことは、アストラル体が秩序だって加わるのは、十四歳以降になってからであり、自我が加わるのはそれよりさらに後になってからであること、けれども自我というものを、たとえばあたかも外部にあるかのように想定してはならないということです。目覚めている状態のときには、自我はもちろん決して生体組織の外部にあるのではなく、自我が加わって、共同作用が高まるのです。したがって、常に関係してくることは、生体組織に障害があるときはいつも、自我が他の組織の内部で正しく機能することに何らかの困難があるということです。そこで実際次のように言わねばなりません。すなわち、今日医学はそれと知ることなしに、すでにずっと以前から、この、自我が人間の他の三つの組織とともに完全になることの困難さについて、自我と他の三つの体とのこの闘いについてきわめて教えるところの多い描写をするところまで来ていると言えるのです。もちろん私たちは唯物論的な時代に生きておりますので、この闘いを内部に見るということはありません。しかし、熱曲線が正しく描かれるときはいつも、この熱曲線のなかに今特徴をお話ししましたこの闘いが正確に写しとられているのです。ですから、こういう連関を洞察するためには、さまざまな病気の状態における熱曲線を追求することほど明らかなことはないのです。なるほどこれは、治療にとっては、病理学にとってよりもずっと重要でないことかもしれません。けれどもこういう事柄についていくらか理解しておかなくてはなりませんし、少なくとも一般的に、これについていくらか理解しておかなくてはならないのです。と申しますのも、よろしいでしょうか、皆さんがたとえば、そうですね、肺炎そのものや、あるいは腸チフス[Typhus abdominalis]のようなものを洞察することができるのは、皆さんが熱曲線の経過について見解を得ているときのみだからです。ここで皆さんが肺炎における熱曲線の二つの主要なタイプを研究されるなら、つまり、たとえば危険な経過での熱曲線とそうでない場合の熱曲線を比較するなら、生体組織への介入を妨げられた自我は、反撃するとき、ある場合と別の場合ではまったく別のやりかたで行なっているはずだということがおわかりになるでしょう。よろしいですか、たとえば肺炎の場合、熱曲線は最初ーーここでは図式化して描きますがーー皆さんにこの闘いを示し、それから平熱よりも危機的に降下する際に反撃を示しています(図参照)。ここではまさに、その前になされた努力によって、後から反撃をする可能性が提示されているのです。別の、消散性の経過の場合は、反撃する作用を自身の力のなかにつけ加える可能性は少なくなり、したがって別の、より不規則な(熱の)降下も、より危険な経過だと言えます。

 

 けれどもとりわけ皆さんが他の三つの組織に対するこの自我の働き全体を見通せるのは、チフスの熱曲線を観察するときでしょう。この曲線のなかに、自我がそのとき実際どのように戦っているのかについての明白な像が得られます。このことは皆さんに、他ならぬ自然科学が医学に流入することが、いかに人間のこれらのさまざまな組織のことを考慮することを不可欠にするかということを示すことができるのです。医学における混乱は、まさに科学が唯物主義的になり、物質体における出来事を観察することのみに自らを限定してしまったことによって起こったのです。しかしこの物質体における出来事というものは、決して独立したものではなく、そして何よりも、これらの出来事の性質は全く等価なものではないのです。なぜなら、おわかりでしょうか、物質体においてはとりわけ、エーテル体が物質体の内部で働いていること、そして、アストラル体あるいは自我もその内部で働いているということによって、何かが左右される可能性があるからです。それはつねに物質的な出来事ではあるのですが、これらの物質的な出来事は、それを特徴づけ、その物質的な組織のなかで働いている高次の構成要素にしたがって、全く別の性質も持っているのです。

 さて、地球外のものと地球的なものに人間が依存しているということに関連して、私が昨日お話ししたことと、その時間的な生成プロセスに関してきょう補足しましたことを総括していただければ、次のように言うことができるでしょうーーそしてこのことは、私が今お話したような調査をそもそもどのように行なうのかさらに追求する途上で、少しは皆さんの助けになるでしょうーー。つまり、人間に対しては絶えず諸々の力が行使されているのだ、と言うことができるのです。これらの力は、私たちが人間の物質的およびエーテル的組織を観察すると、まず第一に、地球外的、あるいはそれらに対して反対の作用をする地球的な力であり、つまりは、土星、木星、火星から発する力と、実際すでに地球的な影響に転化させられている、金星、水星、月から発する力(上図参照)です。よろしいでしょうか、つまり地球と月との関係においてはまたも、実際に起こっていることについて簡単に思い違いされてしまうということです。人間は容易に、「月はこの上の方にある。月はここから影響を及ぼしている。」と考えます。ーーけれどもこれで完全に考えられているわけではないのです。本来月は単に地球の回りを回転する地球の衛星であるだけでなく、月のなかにあって地球に作用している力、この同じ力が地球そのもののなかにも含まれているのです。地球は、地球のなかから外へと作用する、地球(自身)の月的なものを持っているのです(下図参照)。

 

 物質的なものにおいては、潮の干満やその他の多くのこと、例えば月経周期に示されているようなできごとはすべて、実際は地球の作用ではなく、月の作用なのですが、これらは、最近の理論が主張するように、月の影響によって起こっている、というのではなく、地球そのもののなかにある月的なものによって起こっているのです。したがってこれらのことは外的に対応してはいますけれども、少なくとも大抵は、直接時間的に関連しているわけではありません。ですから、私たちは、太陽の下位にある惑星について語るときには、地球におけるそれらの反対像も探究しなければなりませんし、さらにもっと物質的な反作用、地上的なものから発する物質的なものへの反作用のことも考えなければならないのです。地球外の諸惑星には、もっと魂的ー霊的に成立しているものを負わせなくてはなりません。月の場合、これは次のような具合です。つまり、月は地球にむかって、ある種の形成力を投げかけているのです。これは、ファンタジーを生み出すことにおいてなされる人間自身の活動を月が高めるということによって表わされます。月は魂的なファンタジーを生み出すことに多大な影響を及ぼしているのです。このような事柄も一度研究されなくてはなりません。唯物主義の時代にあってはもちろん、これらのことが考慮されることは非常にまれです。けれどもこういうことはあきらかに存在しているのです。月は、人間のファンタジー創出のより霊的ー魂的な点に関連して、非常に強い影響力を持っています。その反対像、つまり器官的なものへの月の作用は、反対に地球のなかの月的なものから発して、そこから人間の生体組織に作用しています。考慮されるべきことはこれなのです。このことは例えば、月の外部にある、太陽下位の惑星にも当てはまります。

 このように、人間にはさまざまなしかたで、地球に局限された力、私の考えでは地球的な力、また地球の外部に局限された力が働きかけていることがわかります。さて、これらの力を私たちが研究することができるのは、これらの力の共同作用の結果を、全体としての人間のなかに見るときのみです。全体としての人間のなかに見るのであって、決して人間のどこか一部に見るのではありません。この共同作用の結果がもっとも見られないのは細胞です。この、細胞においてはもっとも見られない、ということにご注意ください。いったい細胞とは何なのでしょうか。細胞とは、人間であるものに対して、本来独自の成長、独自の生命によってわがままを通用させているものです。そして皆さんが一面において人間というものを、その形式全体において地球的な作用と地球外的な作用が複合したものと見て、それから細胞を観察すれば、細胞とは、この最初の作用の企図にひそかに入り込み、まさにこれらの外的な作用を破壊するものなのです。私たちは、実際生体組織のなかで、絶えずこの細胞の生命に対して戦っているのです。ですから、まさに細胞病理学や細胞生理学によって成立した見解は、ナンセンスもはなはだしいことです。これらは、いたるところで細胞を根本に据え、いたるところで人間の生体組織を細胞の構築物と見ています。これに対して、人間はひとつの全体、つまり宇宙と関わり、本来細胞のわがままに対して常に戦わねばならない全体なのです。細胞とは、根本的に、私たちの生体組織を構築する代わりに、絶えず妨げるものです。もちろん、このような(細胞病理学や細胞生理学的な)基本的見解が、通常の考え方全部に入り込むなら、人間や人間と関係するものに関して本末転倒した考察に行き着くのも不思議ではありません。

 このように、いわば人間の形成プロセスと細胞プロセスにおいては、二つの対立する力の複合体が現われてきます。諸器官はこの中間に位置し、どちらが優勢であるかによって、肝臓であったり、心臓であったりなどするのです。諸器官は終始、私が皆さんにお話ししたこの二つの力の複合体の間で均衡をとっているのです。諸器官は、細胞的なものへの傾向をより多く有することもあり、その後この細胞的なものは宇宙的なものによって克服されます。あるいはまたーー個々の器官についてはまた特徴をお話ししていくでしょうーー、宇宙的なもののほうが優勢で、細胞的なものが後退しているような器官もあります。とりわけ興味深いのは、器官組織において、本来の生殖ー排泄の通路と心臓との間に位置するすべてを、このような観点から考察することです。こういう組織においては、たいてい、本来細胞生命を目指しているものとの類似が存在します。人間の全身を通過しつつ、器官の構成要素をすべて観察すると、たいていの場合、人間の今特色づけられた部分と、その部分の細胞生命との間には類似が見出されるのです。

 けれどもこの結果、私たちは次のようなことを認識するようになります。私たちは、それではいったい細胞の場合はどのような状態なのか、と問うようになるのです。細胞はいわば、事態をいささか極端にするために、わがままな生命を展開します。細胞はわがままな生命を展開するのです。細胞がいわば逐一展開するこのわがままな生命に対抗して、絶えず別のもの、つまり外的なものが反対の作用を及ぼしています。そして、ここで反対の作用を及ぼしているこの外的なもの、これが、細胞から、細胞の形成力から、生命を奪い、細胞に滴の形状を与えるのです。細胞からいわば生命を吸い取って、細胞に滴の形状を与えるわけです。この地球上で滴形をしているものはすべて、それが人間外部のものであろうと、人間内部のものであろうと、そのなかに、二つの力の合力が、つまり、生命を目指すものと、そこから生命を吸い取るものとの合力が存在しているということ、このことを実際知っておかなくてはなりません。

 さて、興味深いことに、古代の医学はそもそも水銀的なものをどのように想定していたのかを追求していくと、水銀的なものとは、生命を奪われて滴の形状を与えられているものである、ということに行き着きます。つまり、水銀的なもののなかには、そのわがままによって生きた滴になろうとする、つまり細胞になろうとするけれども、水星の惑星的作用によってそうすることを妨げられ、それによって単なる細胞の死骸、つまり水銀の小滴となってしまうもの、そういうものを見なくてはならないのです。ここに見られるのは、塩的なものと燐的なものとの中間状態であり、それと同時に、地球上で私たちに現われてきているもののなかで、諸惑星の作用がどのように生かされているかを見通すために通らなければならない、実際非常に入り組んだ道の幾ばくかです。水星という惑星が存在しなければ、水銀の滴はどれも生きているものであるはずなのです。そして私たちのうちでおおむね細胞的になろうとするもののすべて、すなわち少し前にお話ししたばかりの、人間のなかの通路、これはしたがっておおむね、まさに水星という惑星の作用にさらされることをあてにしています。つまり、これらは、本来の排泄器官と心臓との間に位置している、下腹部の器官です。これらの器官はとりわけ、こう申してよろしければ、それが持っているある種の傾向、細胞的なものを保持する傾向が妨げられないこと、けれども、それが生命によって覆い尽くされるほどには至らないように、つまり、麻痺させる水星状態に、生命を麻痺させ死滅させる水星状態に、さらされたままにしておくことをあてにしているのです。さもないとこういう器官の活動は、それらがこの中間状態に維持されない場合、すぐに増長してしまうのです。

 こういうことをさらに引き続き追求していくと、これらの器官と水星状態を表わす金属である水銀との間に成立している関係にまで到達します。このように試みられる方法はまったくもって合理的なものであることがおわかりだと思います。現在と未来の人類のためには超感覚的観察によって発見され得ることも、外的な、感覚的に知覚できる事実によってもっともっと証明されねばなりませんから、鉱物の作用であれ、金属の作用であれ、鉱物的、動物的作用、植物にふくまれている鉱物と金属の作用であれ、個々の作用は、本来人間の生体組織に対してどのようであるのか、ということが、臨床的にも文献上でも追求されれば、良い結果となるでしょう。

 こういう研究を、この点に関して、まったく特殊な性質の事柄から着手することができます。今日は皆さんに、ある種の受胎前の傾向に対して、骨化、硬化症が反対の働きかけをしているということをお話ししました。この骨化および硬化症は完全な反対像を有しています。骨化、硬化症を増大させるためには、皆さんは人間に鉛毒を盛りさえすればよいのです。もちろん、この試みは、動脈硬化を研究するために本当に鉛中毒を引き起こすことまでに至ってはなりませんが、重要なことは、自然が自ら実験してくれる際に現われてくる諸現象をこういう意味において追求し、それによって、鉛のなかで作用しているのと同じ力から人間自身のなかでも起こっていることと、鉛との間に内的親和性が成立しているということに行き着くことです。鉛のなかで作用しているプロセスと、人間における骨化と硬化症のプロセスは、徹底的に研究によって追求されねばならないのです。

 同様に、錫のなかに存在するプロセスと、私が先ほど水頭症とその反対物との相互作用として特徴づけたものすべてとの間の相互関係も研究できるでしょう。そしてその際、頭と腹部との正確な比例関係とでも申し上げたいものに作用するようになっていくこの幼児期の年齢全体のなかに、錫のなかにあるのと同じ力が作用しているのが見出せるでしょう。

 さて私たちは、このプロセスが後の年齢になって肺のほうへ押し進められるということを見てまいりました。その際私たちはーー実際そこまで行く必要もなく、数世紀来、医学的文献に記されているいくつかのことを、正しく読んで総合しさえすればよいのですがーー、肺炎と胸膜炎の付随症状のなかにあるすべてと関係しているこのプロセスと、鉄のなかにある力に対するこのプロセスと関係するものとの、内的な親和性を見ることになります。この関係を、さらに今度は、いわば正常な状態であるときの血液のなかに鉄が存在することによって起こる通常のプロセスのなかまで追求していけるでしょう。皆さんは、鉄と血が相互作用する際に起こるのと同じプロセスを、肺組織とそれに関連するすべてのものまでもっと追求していくことができるでしょう。そうすれば、水頭症とその反対物との、肺まで押し進められた相互作用、と申しますか、そうした相互作用における鉄の働きについて、見解を得ることができるでしょう。よろしいでしょうか、こういう事柄はこのように互いに入り組んでいます。このように入り交じった作用と、さらには人間外部のものとの関係を通じてのみ、薬の治癒作用に到達する可能性を得ることができるのです。

 ですから、人間存在をこのように見ることを本当に尊重するならば、観察者に一種の直観力(イントゥイション)が生じるのは疑いのないことでしょう。このイントゥイションは本来どんな診断の際にも特に重要でしょうけれども。その際真に重要なのは、多くのものを総合的に観ることだからです。いかなる診断の際にも、その人がどのように生きているのか、今までどのように生きてきたのか、今後どのように生きていく見込みがあるのかということに目を向けておかなくてはなりません。今後生きていく、と私は申しましたが、これはどういう意味でしょうか。そう、現在の人間のなかには、すでにある意味で、彼が残りの人生においてとくに器官的に費やすものが、萌芽のかたちで素質として存在しているわけです。

 さらに私が今申しましたすべて、鉛、錫、鉄の人間の生体組織に対する作用のしかたについて、なお金属という側面から作用として発しうるものとの関係を探究するなら、これらにいわば対極的に相対しているのが、銅、水銀、銀の作用であるということに行き着くでしょう。

 私が今申しましたことは、何らかの薬を特に奨励することには結びつきません。けれども、私がこれをお話ししなければならないのは、これらの金属のなかの力、この力は私たちが見てまいりましたように他の物質のなかにもふくまれているのですが、これが有している構成と、人間の生体組織自体の形成力との間に、まったく特定の性質の相互作用が成立していることを皆さんに指摘するためです。したがって、たとえば銅のなかにつなぎ止められている力は、特定のしかたで、鉄のなかにつなぎ止められている力に対抗して反対の作用を及ぼしています。この反対の作用から、ある種の力、そうたとえば鉄の力が強すぎるとき、鉄の作用が強すぎるときに、他の力から用いねばならないものを、取り出すことができるでしょう。たとえば、人間の生体組織のまったく特定の病状の場合、その内部で鉄の力が明らかに強すぎるにちがいないということがわかるでしょう。そういう場合は、銅あるいは銅に似たものを、植物界から得られるものであっても、これから見ていきますように、この症状に対して適用することが重要です。

 さてきょうは、幾つかの方面にわたってこのように見てきて、皆さんがたに多くを要求しすぎたかもしれません。とはいえ、、まさにきょうお話ししましたことを皆さんが見ていってくださるなら、そのことから、こういう事柄がさらにどういうふうに研究されていかねばならないか、そしてこの研究から、医学的な研究制度と医学上の制度全体を改革するために効果あるものをいかにして引き出せるか、理解していかれるだろうと期待しております。


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