ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第八講

1920年 3月28日     ドルナハ 


 私たちが「エーテル体」、「アストラル体」などと言う場合、私たちの理念のを短縮し、簡潔にするとでも申し上げますか、そのためにはこういう用語法を、もっと適用せざるを得ないのですが、「エーテル体」、「アストラル体」などによっていわば物質界の出来事に刻印されているものに、この用語法をそっくり還元することができます。ただ今日においては、物質的な出来事のなかに現われているものを、真に正しく存在の霊的な基盤に関係づける方向にあるとは言えません。けれども、医学的な思考と直観[Anschauen]の霊化のためには、ぜひともそれがなされねばならないのです。たとえば、私たちがエーテル体と呼んでいるものと、物質体と呼んでいるものとの相互作用はそもそもどのように起こっているのか、といったことにぜひとも立ち入って行かなければなりません。ご存じのように、この相互作用は人間において起こっており、昨日は、この相互作用のある一面、つまり、アストラル体の作用に対してこの相互作用が一種の混乱状態になる場合についてお話ししました。この相互作用は、人間の外部にある自然においても起こっているのです。

 さて、よく考えてみてください、この考えをきちんと最後まで押し進めていくと、皆さんは、人間と人間外部の自然との関係を実際根本的に見通すことになるのです。皆さんが人間の外部の自然を眺めるとします。皆さんの回りにはーーさしあたりきょうのところはこの点にこだわっておきましょうーーありとあらゆる種類の全植物相が広がり、皆さんは、さまざまな感覚を通じてこの植物相を知覚します。こうして眺めると、皆さんはさまざまな感覚によって植物相を知覚することができ、この植物相と、まずは地球の大気のなかにあるものすべてとの、次いでこの地球の大気の外部の、惑星的なもの、アストラル的なもののなかにあるものとの関係を、少なくとも予感することができます。私たちが地球の植物相を観察するとき、ここが(図参照)地表面であるとすると、この植物相は私たちに、大気的なもの、アストラル的なものを示している、このアストラル的なものというのはこの場合、これが星々を、地球外のものを目指して行くという意味ですが、このアストラル的なものを示している、と言えます。そして神秘学的なもの[Okkultes]に入り込まなくても、さしあたりこう予感することができるのです、この外界においては、植物相に現われているもの、開花や結実に現われているものと、はるかな全宇宙から作用してくるものとの活発な相互作用が見られるのだ、と。

 さらに、これらすべてから目を転じ、思考を私たちの内部に導くとーーこのように見ていく際に皆さんはいくらかイントゥイションを助けにすることを試みて下さらなくてはなりません。すでに申しましたように、医学においてはイントゥイションなしでは絶対にすまされないのですーー、つまりこの思考を外界から転じ、私たち自身の内部に目を向けると、私たちは、この外部にあるものとのある種の親和性を見出せるのです。このとき私たちはこう言わなければなりません。植物相においては、エーテル的なものと、物質的なものは密接に結びついている、そこで私たちは、植物相における、エーテル的なものと物質的なものの結びつきと、人間自身における、エーテル的なものと物質的なものの結びつき、この両者の結びつき方にある種の親和性があることも予感せざるを得ない、と。

 さて問題は、このエーテル的なものと物質的なものの親和性について、私たちは何によって外的、具体的に語るのかということに対して、答弁することです。私たちはまずさしあたっては抽象的にこのように言うことができます。つまり、エーテル的なものは、上方にむかって開いているという限りでは、物質的なものよりもアストラル的なものに近い、と。けれども私たちは、エーテル的なものは、物質的なものに対して何らかの関係がある、とも言わなければならないでしょう。すなわち私たちは、こうした二重の親和性、エーテル的なものが一方では物質的なものに、他方ではアストラル的なものに対して有する二重の親和性に目を向けねばならず、さらに私たちをいわばこの二重の親和性へと導いていくものを、探究していかねばならないでしょう。ここで皆さんがどのようにしてこの二重の親和性へと導かれうるか、ということを、まずできるだけ具体的に述べておきたいと思います。

 そうですね、ひとつ花盛りの菩提樹の並木道を歩いてごらんになって、この並木道で花盛りの菩提樹[Linde;西洋ボダイジュ、シナノキ科]の芳香のなかを皆さんがどんな具合に通り抜けていくか、明確にしてみてください。このとき、皆さんの臭覚器官のなかにいわば神経状に拡がっていくものすべてと、この菩提樹の花の芳香との間にひとつのプロセスが生じていることを明確にしてください。さらにこの菩提樹の花の芳香を知覚するプロセスに注意を向けると、これは、いわば内部の発露[Aufschiessen]、菩提樹の花の芳香、菩提樹の花の匂いに対する臭覚力の発露であるとおわかりになるでしょう。そして皆さんはこう言わなければなりません。ここでは内部を外部にもたらすようなプロセスが生じている、この内部と外部は、内的な親和性によって、何らかのしかたで共に何かを行なっているのだ、と。さらにこう言わなければなりません。菩提樹の花の芳香によって外界に発散されているもの、植物相、つまり地球外の環境に向かって開いている植物相と、地球外の環境全体との相互作用に基づいているにちがいないもの、こういったものがいわば、臭覚という知覚そのもののなかに内面化されているのだ、と。知覚ということをするがゆえに、皆さんはここで内的に、エーテル体からアストラル体へと作用する何かを与えたわけです。これは疑う余地のないことです。さもないと皆さんは知覚することができないでしょうし、これは単なる生命プロセスにすぎないことになってしまうからです。臭覚器官そのものが、そこにアストラル体が関与していることを証明しています。けれども、皆さんに外界との親和性を見せているものが同時に皆さんに示していることは、菩提樹の花が発散させているあの甘い香りの発生は、皆さんの臭覚器官のなかで起こっていることにある意味で親和性を有しているけれども、その対極にあるということです。実際のところ、菩提樹の花の、拡がっていくこの甘い香りのなかには、植物的ーエーテル的なものと、その周囲にあるものとの、あまねく宇宙空間を充たしているアストラル的なものとの相互作用が見られるのです。したがって、私たちは、匂いを嗅ぐということのなかににひとつのプロセスを有しており、私たちはこのプロセスを通じて、植物相において地球外のアストラル的なものに親和性のあるものに関与しているのです。

 今度は、何らかの味、そうですね、今お話ししましたことに親和性のあるものを例とするなら、甘草の味、あるいは甘いぶどうの房の味を例にとってみますと、同様のことがわかります。この場合は、私たちの臭覚器官において起こっている経過とは反対に、私たちの味覚器官において起こっている経過なのです。ご存知のように、味覚器官は臭覚器官にたいへん親和性を持っています。ですから皆さんがすぐさま思い浮かべなくてはならないのは、自然の出来事全体に関しても、味わうということにおいて起こっていることと、匂いを嗅ぐということにおいて起こっていることが、互いに親和性を持っているということです。けれども、味わうということは、匂いを嗅ぐことよりもずっと器官的ー内的なプロセスであるということは明確にしておかなければなりません。匂いを嗅ぐことはむしろ表面において行なわれます。匂いを嗅ぐことは、人間外部のものの、いわば自らを拡張するプロセス、空間に拡張されているプロセスに関与しているのです。味わうという場合はそうではありません。味わうということを通しては、皆さんはむしろ、物質のなかに内的に存在しているはずの特性、つまり実質的なものそのものと結びついているはずのある種の特性に到達します。皆さんは、匂いを嗅ぐことを通してよりも、味わうことを通して、そのものが、つまりこの場合は植物が、内部において何であるかがわかるようになるのです。皆さんは少々イントゥイションを助けにしさえすればよいのです。そうすれば、このように言えるでしょう、植物の硬化に関係するもの、植物において硬化していく器官的なプロセスと関係するものはすべて、植物のなかにあるすべてのものを味わうということを通して、姿を現わし、自らを開示するのだ、と。けれども今度はこの植物的なものは、硬化していくことに抵抗します。このことは、植物が芳香を発するように誘うもののなかに現われてきます。ですから皆さんはそもそも疑うことはできないでしょう、味覚というのは、エーテル的なものと物質的なものとの関係に関わる経過なのです。

 さて今度は、匂いを嗅ぐことと味わうことを一緒に考えてみてください。植物相に対して、匂いを嗅ぎ、味わいつつ生きることによって、皆さんは実際、エーテル的なものがアストラル的なものと物質的なものという両方向に対して持っている関係のなかで生きているわけです。匂いを嗅ぐことと味わうことに注意を払えば、エーテル的なもの、すなわちエーテル的なものが刻印されたもののなかに正しく入っていくことができます。人間が匂いを嗅ぎ、味わうところにおいては、根本において、エーテル的なものがアストラル的なものおよび物質的なものと関わりつつ、物質界に顕現しているのです。私たちがこのように、匂いを嗅ぐことと味わうことにおいて起こっていることを調べるなら、いわばそうすることで私たち自身が人間の表面にいるということです。けれどもよろしいですか、実際のところ今日重要なことは、私たちはついに、精神科学の側からの真の科学の結実に向けて、抽象神秘主義的なものを抜けだし、具体的な霊の理解へと実際に突き進んでいるということです。人々があいもかわらず、人間における神的なものを理解せねばならない、と語っているばかりでは、本当にいったい何の役に立つというのでしょう。このときこの人たちが、この「神的な」という言葉で理解しているのは、せいぜいのところ、何かまったく抽象的な神的なものにすぎないのです。こういう考察法が実りをもたらすのは、私たちが具体的な現象に入っていくことができ、こういう具体的な意味で、外的な経過が内的になっていくことを観察するとき、つまりたとえば、匂いを嗅ぐことと味わうことのなかに、人間と親和しつつ外的に生きているもの、エーテル的なものを実際に観察することによって、いかにこのエーテル的なものが内面化されていくか、このもしかするともっとも粗雑な上方の感覚プロセスのなかに、いかに直接、外的な経過が内面化していくのが見られるか、ということを観察するときでしょう。現代においてきわめて大切なことは、単なる抽象的なもの、神秘主義的なものを抜け出していくことなのです。

 さてこれから皆さんにも明らかになっていくでしょうが、自然においては、すべてが何か別のものへと絶えず移行しているということ、自然においてはすべてが次のように、ひとつのできごとが別の出来事へと移行する傾向、別の出来事へと自らを変容さる傾向にあるということです。それでは私たちがたった今お話したことを考えてみてください。匂いを嗅ぐことは表面の方に置かれていて(図参照)、人間の内部の方に引き入れられているのはーーこの場合はすべて、植物相、植物に関連していますーー、味わうこと、味覚です。そして、これら(匂いを嗅ぐことと味わうこと)は、エーテル的なものがアストラル的なものに向かって拡がっていったり、あるいは物質的なものへと硬化したりするという意味で、エーテル的なもののなかを経過している、と申しますか、つまり、外部に向かって、すなわち、植物相の場合、揮発的させること、芳香を発することにおいて起こっているすべてのことに向かって進んだり、あるいはまた、味わうことにおいて芳香から遠ざかり、外部において硬化に至るものすべてを内面化したりしているのです。匂いを嗅ぐことと味わうことに注意をとどめると、いわば、外的なものと内的なものが共に流れているのです。

 けれども、自然においては常に、ひとつのプロセスが別のプロセスへと移行しています。ひとたび私たちが、植物相におけるこの芳香を発するもの、植物がそれによっていわば硬化していくのを免れるすべてのもの、この場合植物はいわばまだーー素人じみた言い方をお許しくださいーーその霊性を大気中に発しているのですが、こういうものに感覚を向けてみますと、大気中の芳香物質にはまだいくらか植物である状態が含まれていることがわかります。いわば、外界で香っているもののなかには、なおも植物の幻影[Schemen]が存在しているのです。植物がその香りの幻影を送り出すとき、植物がそれを硬化した植物状態に至らせないようにするとき、植物がその花から何かを、なるほど花になろうとはしているけれども、この花になるということから遠ざかり、揮発的な状態にとどまろうとする何かを送り出すとき、こういうとき、いったい外界ではそもそも何が起こっているのでしょうか。これはつまり、押しとどめられた燃焼プロセスに他ならないのです。この芳香発生の変容を連続的に考えていくと、皆さんはこういう考えに行き着くでしょう。この芳香発生というものは、本来押しとどめられた燃焼プロセスなのだ、と。一方においては燃焼が、他方において植物の芳香発生が見出せます、そうするとそのなかに、両者に共通する統一体の、二つの変容形態(メタモルフォーゼ)が認識されるでしょう。言うなれば、まさに芳香発生のなかには別の段階での燃焼が存在していたということです。

 さて今度は、植物において、味覚を刺激するものを見てみましょう。これは植物のもっと深い部分にあるもので、植物において、その植物形成力を幻影のように自らのうちから周囲へと追い出すような事態にはさせず、植物がその形成力を自らのうちで統合するように、それを内的な形成力のために使用するように導くものです。味わうということにおいて皆さんもこの内的な形成に加わっていますので、ここで皆さんは、植物的なものの硬化の下方にあるプロセス、塩化の、この別の段階での変容であるプロセスに行き着きます。もちろん、ここでは植物相についてのお話しているのですから(図参照)、これは植物の塩化のことです。

 考えてみてください、皆さんは植物のなかに独特な変容をもたらしたわけです。植物のなかに上に向かっては芳香発生プロセスがもたらされました。これはいわば押しとどめられた燃焼プロセスであって、すでにここから燃焼プロセスが始まることも可能です。なぜなら、花となっていくプロセスはまさしく、そこに組み込まれている燃焼プロセスだからです。下に向かっては、硬化、塩化が見出されます。そして、皆さんが植物において味わうものは、まだ押しとどめられた塩化なのです。けれども、塩が組み込まれて、塩が植物そのもののなかに見出される、すなわち植物塩が得られるとき、これらの植物塩は、植物において自身が植物化していく道を越えて踏みこんでいった何かなのです。この場合、植物は、自分自身の本質のなかに自分自身の幻影を押し込めたわけです。

 ここで治療薬のための理性[Ratio]が認識されます。ここで、ある意味で植物相に光が当たり始めると申し上げたいのです。そこで起こっていることに目が向けられるからです。繰り返し強調しておかなければなりませんが、この具体的に見るというとことそが肝要なのです。

 さて、さらに進んで行くために、皆さんは以下のようなことを思い出してくださりさえすればよいのです。つまり私は、そのような場合はやはり、高度に臨機応変主義的な、と申しますか、そういう理由から、議論すべきことを今日行なわれ、行なわれているであろうことと結びつけたいということです。それによって皆さんも、精神科学が与えることのできるものと、外的な科学であるものに橋を架けることができるようになっていただきたいのです。当然のことながら、以下の文において議論していくことを、今現在もっと精神科学的に特徴づけることもできるでしょう。けれども私は、現にもう存在している今日の科学に通用する考え方に関連づけていきたいと思います。今日生理学者は、彼の眼前にあるものについて語りますが、この眼前にあるものは、精神科学者にとっては、眼前にある必要はありません。これと同じ意味で、精神科学者は解剖をする必要がないからです。けれども私たちは、通用している考え方に関連づけていきます。実際私たちは、他人を解剖するなどという暴挙を受け容れる必要はないのですが、それらがすでにもう存在してしまっていて、その成果を提供している、という事実はやはり顧慮しておかなければなりません。自然科学が精神科学によっていくらか豊かにされる場合のみ、こういう暴挙は止むことでしょう。それではひとつ試してみましょう。そうすれば、目のなかで起こっているプロセスと、匂いそしてとくに味において起こっているプロセスとの間に、他の器官実質での味覚神経の拡がりと目のなかでの目の神経の拡がりという点で、いかに密接な親和性、密接な関係が成立しているか、ということが精神科学からまったく明らかになるでしょう。ここでは非常に密接な親和性が成立していて、見るという経過の内的なものの特徴を示そうとすれば、実際ほとんど、味わうことの経過との類似(アナロジー)を探さざるを得ないほどです。むろん、器官実質に味覚神経が拡がっている場合、目の精緻な形成であるもの、器官的な実質に拡がっている視神経の前に置かれている、目の精緻な形成であるものは結びついていないので、見ることというのはまったく別の何かです。しかし、物質的な目の精緻な構造の背後で、いわば見るという経過として始まるもの、これは、非常に内的に、味覚の経過と親和性があるのです。私が申し上げたいのは、私たちは見ることにおいて、変容させられた味覚[ein metamorphosiertes Schmecken]というものを実現している(味わうということを変容させている)ということです。この変容は、私たちがまさに、味わうときに起こっている器官の経過の前に、目の精緻な構造によって生み出されるすべてのものを置いたことによってなされているのです。

 さて当然のことながら、私たちはいかなる意味でも、私たちの生体組織が外界にもたらすものと、外界が私たちの生体組織にもたらすものを区別しなければなりません。つまり、血液が目に流れ込むことによって、すなわち生体組織が目に働きかけることによって、内部から経過として起こってくるものに、私たちは注目しなければならないのです。これは、私たちと同様な器官に加えて目のなかに房室や剣状突起、つまり血液器官を持っている動物の場合に、より強力に起こっています。この血液器官を通じて自我(エゴ)が眼球のなかにより多く送りこまれるのです。一方、私たちの場合この自我(エゴ)は後退して、眼球を内的に自由にしています。けれどもここでは、血液という回り道を通って、組織全体が、目を通じて感覚現象全体に作用を及ぼしているのです。そして、この見るという経過の内部で、味覚の経過が変容させられていて、それで私たちは、視覚(見ること)を、変容させられた味覚(味わうこと)、と呼ぶことができるわけです。そうなると私たちは、変容させられた味覚(味わうこと)として、いわば味覚(味わうこと)と嗅覚(匂いを嗅ぐこと)の上部に、視覚(見ること)を位置づけたことでしょう(図参照)。

 つまり、味覚の経過全体であるものにも、見るという経過であるものにも、内部とともに作用する、何か外的なものが対応しています。つまりこの経過はいわば上に向かって、変容させられねばならないのです。見るという経過は、味覚の経過が変容させられたものなのです。けれども、さらに今度は体の下方へ向かっても、味覚の変容が起こらなければなりません。私たちは見るという経過においてより外界の方へと上昇していく一方ーー目は骨のくぼみにはめ込まれているだけで、私たちはそこから外へ向かい、目は非常に外的な器官なので、見るという経過はより外部に向かって組織されていますーー、今度は反対の方向へと、生体組織の下方に向かって、味覚の経過の変容を考えていかなければならないのです。こうして私たちはいわば、視覚のもう一方の極に、生体組織において見るという経過に対応しているものに、たどり着くわけです。これは以下の考察で私たちに夥しい光を投げかけることでしょう。と申しますのも、私たちが味覚の経過の変容を下へ向かって追求していくときに得られるものは、何なのでしょうか。つまりその場合は消化というものが前提になっています。そして皆さんが真に内的に消化というものを理解できるようになるのは、皆さんが一方において、視覚を、変容させられた味覚(味わうこと)の継続と考え、他方で消化を、変容させられた味覚の継続と考えるときのみです。しかもこれは、消化を、外面化された視覚に対して、完全に対極にあるものとして理解することができるということです。外面化された視覚は皆さんを、外界においてこの消化に対応しているもの、器官的に内面化されて消化となるもの、これを認識することに導いてくれるからです。他方において皆さんは、消化の経過が味覚の経過に親和性を持っていると考えなければならないと気づかれるでしょう。消化プロセス全体を次のように考えない限り、人間の生体組織における内密な効力、消化プロセスに局所的に見られるこの効力を理解することはできません。つまり、良い消化とは、いわば消化管全体で味わうすべを心得ている能力に基づいていて、悪い消化とは、いわば消化器官全体で味わう能力の欠如に基づいていると考えなければならないのです。

 さて私たちが考察してまいりました経過は、味わうことと匂いを嗅ぐことに分かれます。こうしていわばひとつの経過が分かれて、一方では、味わうことにおいて、エーテル的なものと物質的なものとの相互作用の方が活発なプロセスと、他方では、私たちが匂いを嗅ぐ場合にそうであるような、エーテル的なものとアストラル的なものの関係の方が強い経過が扱われるのです。生体組織のなかでの、味覚(味わうこと)の継続としてあるものに対しても、私たちは同様の分割を行ないました。つまり、一方で、腸による排泄、糞便の排泄への傾向を持つ消化があり、他方では、腎臓による排泄、排尿による排泄があるということによって分けたのです。ここで確実に、人間の上部と下部における対応が得られます。まったく確実に、二つの対極的に相対して存在しているものが得られるのです。味わうことと匂いを嗅ぐことを分け、通常の消化と、より内密な腎臓の働きに基づくすべてのもの、より内密な腎臓の働きに組み込まれるすべてのものとして、通常の消化から区別されるものとを分けることによって、これが得られるのです。

 こうしていわば、生体組織の皮膚によって隔てられた内部で起こっていることを、外的なものが内面化されたものとして観察する可能性が出てきます。なぜなら、私たちは、上に向かって継続させるものすべてとともに、よりいっそう外的なものへと入り込んでいくからです。ここで人間は外的なものに向かって開くのです。さて、こういうことをさらに追求して、いわば私たちのうちに魂的に生きているもののなかに、生体組織と結びついて、これは唯物論的な意味でではなく、皆さんもいくつかの講演からご存じでしょうが、別の意味で結びついているのですが、こういう意味で生体組織と結びついて魂的に生きているもののなかに、私たちは、変容させられた視覚[ein metamorphosiertes Sehen]を有している、これはまた内部のある方面に向かって、思考のなかに、表象のなかに(図参照)置かれている、というところまで追求すると、私たちは、表象の根底にある器官、つまり人間の頭の内部の器官を、ある一定の方向に向かって変容させられた見る器官として考えなければなりません。どうか、調べてみてください、思考のなかに生きている皆さんの表象の大部分は、視覚表象の単純な継続なのです。生まれつき盲目のひと、生まれつき耳の聞こえないひとの魂的生活を比較してごらんになりさえすれば良いのです。私たちは思考のなかに、内部に向かって継続された視覚を有しているのです。こうして私たちは、頭部や脳の解剖学的構造と思考の経過そのものとの間に生じている独特な相互関係に、さらに一条の光なりとも投げかけられる、と言えるようになります。たとえば実際奇妙なことに、私たちの思考の経過にきちんと迫っていってーーこれも医学の学位請求論文の結構な一章となるでしょうーー、脳の組織と、統合的思考がどのように関連しているか調べてみようとするなら、不思議なことに、臭覚神経が変形させられたように見える構造に行き当たります。したがってこう言えるでしょう。私たちの散漫な、分析的思考は、内的に見て、そのもう一方の対であるものにおいて、見るということに似ている、けれども、ものごとを統合すること、観念の連合、これは本来、内的、器官的に見て、匂いを嗅ぐことに非常に似ている、と。つまりこのことは、非常に注目すべきしかたで、脳の解剖学的な構造にも現われているのです。こうして私たちは、いずれにせよ表象、思考の一面にたどり着くわけです。

 私たちがさらに内的なプロセスを探究していくと、どこに行くのでしょうか。視覚から発して私たちが表象のなかに有しているものは、視覚において外面化されているもので、これは思考においていわばまた内部へと反射するものです。見るというプロセスをいわば反対向きにしようと、再び生体組織の方に導こうと努めているわけです。その反対の極に置かれたプロセスは、したがって、そこにあるプロセスを、内部に向かってではなく、外部に向かって導こうと努めているということになるでしょう。つまりこれは、消化プロセスは、排泄プロセスのなかに継続され(図参照)、排泄プロセスはそれによって表象のもう一方の対となる、ということです。こうして皆さんは、私が数日前に比較解剖学によって皆さんに示したことを、別の、より内密な見地から見たわけです。数日前に私が示したことには、いわゆる人間の精神的な能力と、調整された排泄プロセスあるいは調整されない排泄プロセスとの間に、いかに内的な親和性が生じているかを、まさに人間の構成と、とくに腸菌群落の発生が、何らかのしかたで示唆している、ということもありました。皆さんはここでは別の面からこのことをとらえるのです。つまりここで皆さんに示されるのは、私たちの内に向かっては、思考プロセスのなかに、見るプロセスが継続されていて、外に向かっては、排泄プロセスのなかに、消化プロセスが継続されているということです。さて、私たちが少し前に観察したこと、つまり、芳香発生は押しとどめられた燃焼プロセスであり、植物の硬化は押しとどめられた塩化である、ということにもどるなら、私たちはまたも、今度は内部で起こっていることに光を投げかけたことになります。ただし、反転も起こりうる、ということを明確にしておかなければなりません。ここ(上)では、見ることが、内面化に向けて反転し、ここ(下)では、外面化に向かって反転しています。したがって私たちは、ここ(上)では、その経過の塩化との親和性を認めることになり、ここ(下)では、その経過の火化[Feuerwerden]あるいは燃焼、火との親和性(図参照)を認めることになるのです。つまり、植物における芳香発生と押しとどめられた燃焼プロセスに作用する(☆1)のに適しているものを、下腹部に導けば、皆さんは下腹部(の働き)を助けることができるでしょう。植物において塩プロセスを押しとどめる、あるいは塩プロセスを植物のなかで内面化する使命を持つものを、上部人間に導けば、皆さんは上部人間の経過を助けることができるでしょう。このことはさらに個別的に実施していかなければなりません。

 こうして、外部全体がいわば再び内部全体のなかに現われうるのだということがおわかりだと思います。ですから、人間の内部へと入り込んでいくほど、それだけいっそう私たちは人間の内部に外的なものを探究しなければならないのです。私たちは、消化器官、とりわけ腎臓において起こっていることのなかに、芳香発生プロセス、燃焼プロセスに非常に親和性のある、ただしこれはもう一方の極なのですが、そういう何かを探究しなければなりません。さらに私たちは、肺から始まって喉頭と頭部を経て上に向かう人間の組織のなかに、植物において塩化となるもの、人間内部の自然全般において塩化の傾向を持つものすべてと内的に親和性のある何かを探究しなければなりません。つまりこう言えるかもしれませんーー単にこう言えるかもしれないのではなく、こう言うことができるのですがーー、植物が自らのうちに塩を集積するさまざまなやり方がわかったならば、人間の生体組織のなかの対応するものを探しさえすればよい、ということです。きょうはこれを概観的に探究しましたが、個別的には明日以降の講演で追求していきましょう。

 これでおわかりのように、いわば植物療法全体がとりあえずは原理として特徴づけられたわけです。植物療法は何に依拠しているのかがおわかりになったと思います。私が申し上げたいのは、皆さんは、内部と外部との相互作用においておこっている実際のプロセス全体を見通しているのだということです。けれどもまったく特殊なものにもすでに目を向けているのです。たとえば、すでに香りというよりはむしろ味覚的なものへの傾向を持っている、と申しますか、その当の植物を噛むことによってはじめて、正しい香りにたどり着き、実際香りと味との統合を知覚するような、メリッサ[Melisse、メリッサ、レモンバーム、西洋ヤマハッカ]やカキドオシ[Gundelrebe]のような、そういう香りを考えてみてください。すると私たちには、すでにその内部にはいくぶんかの塩化が存在していること、すでにその内部では、塩化と芳香発生の共同作用が見られることがわかるのです。このことが私たちに示してくれるのは、メリッサその他のような植物に親和性を持っているにちがいない器官は、より外部に向かう、胸に向かう位置にあり、一方、非常に芳香を放つ、そうですね、ボダイジュやバラのようなものに親和性を持っているにちがいない器官は、下腹部により入り込んでいるか、より下腹部に向かう位置にあるものに親和性があるにちがいない、ということです。

 さて、上部人間において、嗅覚や味覚の領域に位置しているものすべての間に、器官的に観察して、ある別のプロセス、これはいくらかもっと深い意味で、人間にとって重要な生のプロセスなのですが、そういう別のプロセスが組み込まれている、ということに気づかれるでしょう。ここに組み込まれているのは呼吸プロセスです(図参照)。私たちはこの呼吸プロセスに対しても対極的に組織されているプロセスを探すことができます。この(呼吸プロセスの対極の)プロセスは、消化プロセスが排泄プロセスに通じ、器官上の表象プロセスに対して対極のものである限り、消化プロセスからいわば区別されるプロセスでなければなりません。ちょうど呼吸が、器官的に見て、嗅覚ー味覚プロセスの近くに限定されているように、器官的に消化プロセスのもっと近くにあるもの、そういうものが、区別されなければならないのです。これは、リンパー血液プロセス、血液形成プロセスにおいて起こっているすべてのもの、あるいは、消化から内部へ向かって押し込まれたもの、つまりリンパ腺その他のような器官、血液形成に関与するすべての器官にあるもの、こういったすべてのものです。こうしてここに二つの対極的なプロセスが見られます。ひとつは消化から分離されたプロセス、もうひとつはもっと外に向かって置かれた感覚の経過から分離されたプロセスです。すなわち、いわば感覚の経過の背後にある(☆2)呼吸と、消化がさらに排泄に通じる限り消化の前に置かれている血液形成ーリンパ形成プロセスです。奇妙なことに、私たちはこうしてプロセスから人間全体のなかに入っていくのに対し、今日では通常、目の前にある器官からしか人間の観察はなされていません。私たちはここで、プロセスから、人間と人間の外部の世界との関係全体から、人間を認識し、洞察しようと試みています。そして実際に、私たちにとって真に直接、人間におけるエーテル活動全体を写す像である諸関係を見出すのです。なぜなら、結局私たちがきょうのこの時間で研究してきましたことは、人間におけるエーテル作用に他ならないからです。そしてこの二つのプロセス、呼吸プロセスと血液形成プロセスは、再び出会います。この出会いというのは人間の心臓で起こるのです。おわかりですね、人間の外部をも含んでいるという意味において外界全体が、二重性として、つまり人間の心臓でせき止められ、人間の心臓において一種の均衡状態を目指す二重性として、私たちに現われてくるのです。

 このようにして私たちは、ある独特のイメージ、人間の心臓のイメージに到達することができます。この心臓の内面においては、体の全面にわたって私たちに外的に作用してくるものの統合[Synthetisieren]がなされ、外界においては、分散[Analysieren]がなされている、つまり心臓のなかでいわば膨らまされたものがいたるところで拡散させられているのです(図参照)。ここで皆さんは、重要な考えに到達します。これはたとえば次のように言い表わせるかもしれません。皆さんは宇宙を見渡してこの円周を目にし、こう自問するのです、この円周のなかには何があるのだろう、この円周から働きかけてくるものは何なのだろう。この円周に親和性のある、同じような何かを、私のなかのどこに見出せるのか、と。ーー私が私自身の心臓をのぞいてみるとしたら!そこにはいわば、反転した天が、対極に置かれたものがあるのだーー。こちらに周辺部分が、いわば無限のかなたへと拡張された点があり、一方で人間の心臓に集中された円があるのです。宇宙全体がこのなかに存在しています。おおざっぱな比喩を使うなら、簡単にこう言えるかもしれません。人間が山の上に立ってはるかかなたを見渡し、宇宙の広大な円周を見ると考えて下さい。それからごく小さなこびとを人間の心臓に置いて、このこびとがそのなかに何を見ているか、思い浮かべてみてください。このこびとは、その内部の回転に宇宙の完全な像が縮小され、統合されているのを見るのです。これは単なる具象的な表象、一種のイマジネーションにすぎないかもしれませんが、同時に、正しく受け容れれば、正規の、調整的なイメージ、調整原理として作用することができるものであり、まさに私たちが個別的に認識するものを、正しく総括する手引きとなってくれるものなのです。

 これで私は、個別の観察のためのだいたいの基礎を作りました。これはまた、提出されたさまざまなご質問に個々に答えるための土台にもなるでしょう。

■原注

 ☆1 「に作用する」という語句は筆記録にはないが、後続文に応じて編者により補足された。 

 ☆2 「感覚の経過の背後にある」のあとに、ある筆記録では「表象は魂的なものの栄養であり、その中間に呼吸プロセスが組み込まれます。」という文が見られる。


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