ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第九講

1920年 3月29日   ドルナハ

*2013.2.14付の訂正箇所について
(PDFファイルでは74頁)
…そこの水が非常に石灰を含む場所では、という部分  
…in Orten, … ,wo das Wasser sehr kalkhaltig ist, …
以前の訳文では、石灰[Kalk]のあとに(カルキ)という語を補足していましたが、
ここでは、水道水のカルキ臭などという場合の「カルキ」ではなく、
その土地の水に含まれる天然成分としての石灰、カルシウムの意味です。
(水道水やプールの消毒用に使われるのは、クロルカルキ=塩化石灰を水に溶かした
次亜塩素酸カルシウムとのことです)
「カルキ」という語は、単に石灰の意味だったり、クロルカルキの意味で使われたりするようで、
(いずれにしても石灰〜カルシウムが基になっているのですが)
紛らわしいので(カルキ)は削除し、単に石灰としました。


 私たちが昨日議論いたしましたことは、人間の生体組織の、人間外部の自然へのいわば一種の接近ということでした。そして、匂いを嗅ぐ、味わう、という二つの感覚が働く場合に存在している相互作用、まさにその作用において、人間の生体組織が、人間外部の自然で起こっていることとより密接な関係を持つようになる、ということがわかるのです。このように人間と人間外部の自然との関係を探る研究をしていくわけは、精神科学にとって、治療処置と人間生体の組織化プロセスが密接に関連しているということが重要だからです。治療に際して本来常に重要なことは、人間が、化学的にであれ、生理学的、物質的にであれ、身体に供給するもののなかには、また、いわば生体組織が健康な状態であれば成し遂げることができ、病気の状態では役に立てないもののなかには、いかなる要因があるのかを見通すことです。外的に起こっているプロセスと、人間の生体組織のなかで起こっているプロセスとを一緒に考えることができなくてはならないのです。

 さてこの両プロセスが最も接近するのは、匂いを嗅ぐという知覚と味わうという知覚が問題になるときです。他の感覚に関連するすべてのものにおいては、この両プロセスは互いに遠く隔たっています。たとえば、見ることと消化においても、両プロセスはかなり隔たっているのです。この場合、消化という点で、より狭い意味で私が現在理解しているのは、いわば口のなかで食物を噛むことと腸腺によるその加工との間で起こっていることです。つまり本来私はこの領域だけを消化とみなしたいのです。一方、他のものは、排出(空にすること[Entleerung])の領域とみなさなければなりません。それが、栄養素を取り入れるための、生体組織のなかでの排出であるにせよ、私が排泄[Ausscheidung]と呼びたいものに向かう、外部への排出であるにせよです。つまり、腺の向こう側にあるものなら、これを私は排泄と呼びたいのです。

 さて、見るということに目を向けるなら、私たちの前にある外界の物体は、臭覚プロセスと味覚プロセスにおいてはもっと表面にあるものを、いわば自らのうちに閉じこめています。臭覚プロセスにおいては、私たち人間に知覚できるように、人間外部の自然からより多く取り出されたものがあるのです。これは、その他の場合には、人間外部の自然の物質の内部に閉じこめられていて、このように閉じこめられている場合にそれが私たちの目に見えるのです。その形式等において可視的なものを見ることによって、私たちの外部にある形成原理、臭覚プロセスにおいては素材的にのみ開示されている形成原理を、私たちは実際眼前に見ているわけです。私が申し上げたいのは、匂いを嗅ぐときに開示される本質は、植物界、鉱物界まで追求されなければならず、そうすれば匂いを嗅ぐときに前面に出てくる原理が、外部の形成原理にも開示されていることがわかるだろう、ということです。

 そして、この反対のプロセスは、他ならぬ消化プロセスです。消化プロセスはいわば、味わうときに開示されるものを自らのものにするのです。消化プロセスは、味わうときに開示されるものを、逆に生体組織のなかに隠しているのです。、私たちが人間外部の自然を、それがより無意識的なもののなかにあるように今まで記述せざるを得なかったということを指摘するのは、きわめて重要なことです。と申しますのも、よろしいでしょうか、私たちが宇宙全体から構成することのできたこの連関は、人間のなかに存在しているからなのです。人間は、土星的なもの、木星的なもの等に組み込まれています。けれどもこの帰属関係は人間の生体組織のきわめて深いところに隠されていて、あまり今日の思考方法の不興を買わないとすればこう言って良いほどです。天文学的なものは、人間において最も無意識的なものとなる、これは人間において、多くの場合生体組織の背後にあるプロセスとなる、と。

 さて私たちは、この人間の生体組織をある種のしかたでいわば再び内部で開く諸器官を持っています。そしてこの、人間の生体組織をあるしかたで再び開く諸器官、これらは生体組織を、この地球の近くで展開しているものにより関連づけます。生体組織を、ーー今度はもっとも広い意味で考えられたーー気象学上のもの[das Meteorologische]により関連づけるのです。

 ですから、治療プロセスにおいて単に薬物にのみ目を向けるのではなく、治療経過そのものを追求していくなら、人間と、まさに最も広い意味での気象学上のプロセスとの間に成立している関係にも目を向けていかなくてはならないのです。

 私たちはここですでに、人間の生体組織において、天文学的なものにより深く組み込まれているものと、気象学的なものにより深く組み込まれているものとを区分することができます。とはいえここでもっと精確な観察方法が出てこなければなりません。こういう区分が行なわれなければならないというのは、最初のうちは皆さんにはいくらかショッキングなことかもしれませんが、この区分こそが治療のための最良の基礎であることは、次第に皆さんにもおわかりいただけるでしょう。気象学的なものに開いているーーもっと内部に向かって置かれているものが、天文学的なものに傾いているのと同様ーー諸器官に目を向けるなら、私たちが人間の生体組織においてこういう器官とみなすものは、とりわけ肝臓であり、小嚢状になるもの、つまりまさに膀胱に代表されるようなーーしかも病理学上の関連でも膀胱はきわめて重要なものですーーすべてのものです。最初は奇異に思えようとも、病理学上の観察にとっては、膀胱は最も重要なもののひとつなのです。さらに私たちは肺に目を向けなければなりません。肺は呼吸を中継することによって、何と言っても外部に向かって開いています。さらに、ある意味で私たちが、生体組織全体を外部に、気象学にむかって開いている諸器官のひとつに数えなければならないのはーー私が今までの観察で申しましたことを正しく受け取っていただければ、すぐさまこのこともご理解いただけるでしょうーー、心臓です。しかもこれらの器官は、事実全く特定の気象学上の衝動に組み込まれているのです。ここで意味されていることを研究できるのは、人間と周囲の世界との関係全体、とりわけ、人間の活動と周囲の世界との関係のなかに分け入っていくときのみです。

 ここで特に皆さんにちょっと指摘しておきたいことは、皆さんが、心臓の障害として現われてくるものすべての原因を、人間の妨げられた活動に帰する試みを、徹底的になさることです。皆さんが一度調査してごらんになると良いのは、そうですね、農夫として畑を耕し、この畑を耕すという活動からそれほど遠ざからない人の場合と、例えば職業上、頻繁に自動車に乗らなければならなかったり、頻繁に鉄道旅行しなければならない人の場合とでは、心臓の働きがいかに異なって形成されるか、といったことについてです。こういうことについて一度徹底的な調査を行なうことは、極めて興味深いことでしょう。なぜなら、心臓疾患への傾向は、要するに、その人が、外的な手段によって動かされている間、自分ではじっとしている、つまり、汽車の車室や車のなかに座ったまま移動させられるということに、依拠している、ということが皆さんにもおわかりになるでしょうから。このように、人間が受動的に運動に身を委ねることは、心臓において滞留しているあらゆるプロセスを変形させてしまうものなのです。

 さてこのように、人間の世界で起こっていることはすべて、人間が自らを暖めるやり方と関連しています。ここで皆さんは、心臓の働きと、人間が関係している世界における熱の衝動との親和性に気づかれると思います。このことから皆さんは、人間が自分自身の活動によって、十分に熱を発生させると、この、自分の活動による十分な熱の発生のある一定の度合いが、同時に人間の心臓の健康の度合いであることがおわかりになるでしょう。したがって、心臓疾患について常に注目しておかなければならないことは、まさに自分自身で運動を体験し、引き起こすことなのです。私は確信しているのですが、いつか十五年くらいたったら、こういう事柄について、現在よりもっと冷静に考えられるようになり、人々はこう言うでしょう、それにしても不思議だ、オイリュトミーで心臓の働きが良くなるなんて、と。オイリュトミーはまさに、本質的に、魂に貫かれた自身の運動を調整し、しかも規則的に調整されているからです。したがって、こう言っても悪くはないでしょう、心臓の機能の不規則性といった問題においては、他ならぬオイリュトミー的なものから得られる、健康にしてくれる運動について、こういった観点からこそ言及せねばならない、と。

 さて続いて、膀胱の働きが不十分なことによって人間の生体組織に現われてくるすべてのものに移ります。私がこの点について申しますことは、もしかすると皆さんにはいくらか素人じみていると思われるかもしれません。けれども、私がどういう言い方をいたしましょうとも、これは、今日科学的と称されているもの以上に科学的なのです。膀胱というものはそもそも、その本質においてひとつの吸引手段なのです。膀胱はいわば、人間の生体組織における空洞化[Aushoehlung]するものとして作用し、引き寄せるものなのです。膀胱は根本的に、人間の生体組織がその場所において空洞化されるということに依拠しているのです。膀胱の他の生体組織に対する作用は、ちょうど、水中のガス球の作用のようなものです。ここにガス球があるとしますと、これは希薄化された物質から成るもので、全面を水、つまりより濃密な物質に取り囲まれています。そして、この希薄化された球から起こる作用は、人間の生体組織に膀胱全体が及ぼしている作用に似ているのです。その結果、人間が、膀胱がもたらすべきものすべてに関して煩わされることになるのは次のような場合です。正しく内的な運動をする機会があまりなかったり、つまり私が申し上げたいのは、噛まずに飲み込んだりして、食べること自体に正しく注意を払わなかったり、消化している間、休息と運動の節度を守らなかったりして消化の経過全体を妨げたりなどする場合です。内的な運動性を内的に妨げるものはすべて、膀胱生活とでも呼ぶことのできるものをも妨げるのです。さて、人間というものは、皆さんがその人の心臓に不規則さを予想したら、たぶん何らかの活気のある運動を処方することはできるけれども、皆さんが彼の内的な運動を調整しようとしても、彼の習慣がそうなってしまっているので、彼は受け容れたがらない、そういうものではないでしょうか。とはいえ、次のような場合はすぐさまうまくいくでしょう、つまり、そうですね、飲み込んだり、その他消化を妨げることによって、身体に必要な休息を与える傾向を持っていないような人物を、気象学的に治療すると申しますか、つまりもっと酸素の多い空気のなかに連れていくという試みを皆さんがなさる場合です。こういう空気のなかでは、その人はもっと呼吸せざるを得ない、つまり呼吸プロセスに対して無意識にもっと慎重にならざるを得ないのです。そうすると、この呼吸プロセスの調整が他の器官プロセスの調整へと移行するわけです。ですから、このように不規則な膀胱機能に悩んでいるひとを、皆さんが人工的にか、望むらくは自然に、異なった空気、もっと酸素の多い空気のなかに連れていけば、この生活様式の変化によって端的に、ある種の均衡がもたらされることがおわかりになるでしょう。

 とりわけ重要なのは、最も広い意味での外的な気象学に関連している第三の器官に注意を払うことです。それは肝臓です。人間の生体組織のなかで一見遮断されているように見えるとしても、肝臓は高度に外界に組み込まれています。しかも、この外界に組み込まれているということが確かめられるのは、肝臓の状態はいわば常に、ある場所の水の状態に左右されるということが皆さんにおわかりになることによってなのです。そもそも、ある場所に住んでいるひとの肝臓の状態を正しく見ることができるためには、その場所の水の状態が常に研究されねばならないでしょう。味わうことは肝臓の発達を促進させますが(☆1)、これが過度に起こると、肝臓を退縮させるのと同じことになるでしょう。つまり、人間における多すぎる飲食、過度の飲食は肝臓を退縮させるのと同じなのです。内的な飲食、と申しますか、口蓋と舌に限定されるべきものが継続されたもの、楽しく、共感的に食事を取るにせよ、あるいは反感を持って不愉快に食事を取るにせよ、食事をすることが、より内面へと継続されたもの、これが肝臓の退縮をもたらすものなのです。したがって、ぜひとも必要なことは、このことに目を向け、これを確かめるのは実際しばしば非常に困難なのですが、肝臓生活に何らかの支障がある人々に、味覚を研究し、味覚それ自体のなかに何かを見出す習慣をつける試みをしてみることです。肝臓生活と、いずれかの場所そのものの水の状態との内的な関係を徹底的に研究することは、きわめて困難でしょう。なぜなら、その依存関係はきわめて精妙なもので、たとえば、そうですね、そこの水が非常に石灰を含む場所では、水が石灰をあまり含まない場所とは異なった肝臓疾患が発生する、といったことも考慮しなければならないからです。何と言っても、できるだけ水から石灰を遠ざけておくことによって、肝臓生活が促進される、ということに注意し、常に注目すると良いでしょう。もちろん、それを実現するための手段と方法を見つけださなければなりませんが。

 また肺生活と密接に関連しているのは、その場所がその土地の組成によって端的に提供するものすべて、例えばこの地域のように非常に石灰質に富む土壌であるか、あるいは石英質に富む土壌(珪質土壌)、つまり始原岩層であるか、といったことです。これに応じて常に、しかもかなりな程度まで、人間の肺生活は異なっているのです。肺は本質的に、その土地の固体的な土壌の性質に左右されるからです。実際ある地域で開業しようとする医師の最初の課題のひとつは、その地域の地質学を徹底的に研究することでしょう。その地域の地質を研究することはそもそも、当の地域の肺を研究することに他ならないのです。ですから、肺が環境にまったく適応することができないのは、かなり不都合なことだということを明確に知っておかなくてはならないでしょう。

 さて、私がこういう関連で申し上げましたことを、誤解なさらないでほしいのです。肺と環境とのこの依存関係を確認するにあたって、私が言っているのは、肺の内的な構造のことであって、呼吸のことを言っているのではありません。当然のことながら、呼吸もまた、内的な構造に起因する良いあるいは良くない機能というものに左右されます。しかし今私が言っているのは肺の内的な構造のことです。肺がかさぶたになる傾向があるか、あるいは粘液化その他の傾向にあるか、これは本質的に、環境がいかなるものであるかということに依拠しています。けれども、それに加えて、肺というものは、肉体的な作業に非常に左右されるので、人間が過労になるまで肉体労働をしなければならない場合は、間違いなく肺が損なわれるのです。

 以上の諸関連が、肺、肝臓、膀胱、心臓のように、内的な器官から、外部に向かって、気象学的なものに向かって開かれている諸器官の依存関係へと、最も広い意味で私たちを導いていくのです。従って、これらの器官に発病があったら、物質的な方法で治療のために何かを獲得する試みが常になされねばならないでしょう。と申しますのも、これらの器官に発病があったとき、物質的な方法で獲得されるものは、何らかのしかたで持続する、と申しますか、そういうものだからです。ですから、誰かが、肺が弱い傾向にあって、特定の土地にまったく合わないということが確認された場合、別のもっと合った土地に住所を定めるよう指示したなら、実際彼にとって最良のことをしたことになります。同様に、肺より上に位置している器官のためには、住む場所や生活様式をまったく変えることによってしばしばすばらしい成果があげられるのです。心臓より下に位置しているものに対しては、住む場所や生活様式の変化によってはそれほど成果をあげることはできませんが、肺および肺より上に位置しているものすべてに対しては、このように住む場所や生活様式を変えることがすばらしい成果をあげることができるのです。ただ、生体組織においてはすべてが相互作用しており、何らかのものが存在していたら、秘密の相互作用が存在していないかどうか、ちょっと考えてみなければならないということを、ここでもはっきり理解しておかなくてはならないのは言うまでもありません。例えば、心臓の血管に退縮が見られたら、こういう疑問を提示しなければならないのです、肺の退縮傾向も存在しているにではないか、この肺の退縮傾向からこの病気を把握しなければならないのではないか、と。

 これによって少なくとも、人間と気象学上のものとの関係を示すすべてのものが暗示されているのです。外界において、天文学的なものは、気象学的なものの背後に、いわば私たちにとっては気象学的なものに覆われたかたちではじめて存在し、人間の内部にも天文学的なものが存在しています。さて、人間の内部と外部において、皆さんが気象学的なものにおいて確かめることのできるすべてのものの背後に存在しているものーーと申しますのも、人間の内部における気象学的なものは、肺のようなもの、肝臓のようなもの、膀胱のようなもの、心臓のようなものに汲み尽くされ、外界においては気象的なものは、固体としての土壌、空気状のもの、水のようなもの、熱的なものに汲み尽くされるからですーー、これは、植物的なものと鉱物的なものにおける形成プロセスであり、そしてこの植物的なものと鉱物的なものにおける形成プロセス、このように地球外的なもの、天文学的なものに近いこの形成プロセスに、常にいわば対極的に置かれているのが、人間においてこの気象学的なプロセスの背後に存在しているもの、つまり、先に挙げた四つの器官組織よりももっと内に向かって置かれているものです。植物や石のなかに外的に存在しているものと、人間の肺、肝臓等の背後にあるものとの関係はそれほど密接ではないので、この領域に由来する治療プロセスの研究は、実際のところ当然困難なものです。けれども、人間は、何らかのしかたで常に、外的に起こっていることの反対のことをどこかで成し遂げるという傾向、器官的な傾向を内部に有している、ということをはっきり理解することによって、合理的な道が見出せるのです。

 具体的な例をあげてみましょう。珪酸プロセス[Kieselsaeureprozesse]の例です。珪酸プロセスは、まず第一に、他ならぬ珪酸塩[Silikate]が形成されるところ、石英やそれと同類の岩石が形成されるいたるところに、非常に目立って現われます。そこで起こっているプロセスに対応するものが、人間の生体組織のなかにあるのです。しかし、このプロセスは、さらにある種の経過の基礎を成していて、この経過については残念ながら今日ほとんど考慮されておりませんが、これは、畑地での経過、畑地、つまり珪質土壌一般と、植物から地中に入り込んでいる器官、根状の器官との間で起こっているすべてのことにおける経過です。ですから、私たちが灰を取り出すことによって植物的なものから得るものはすべて、外部におけるこの珪質プロセスとより密接な親和関係にあるのです。

 さて、この外部における珪質プロセスは、人間の内部にそのもう一方の対を持っています。しかも、このもう一対は、このように表現してよければ、心臓の活動より上部で肺の活動に向かって位置している器官にあります。しかしこれは、内的器官の形成活動、すなわち肺を形成してから頭部に向かって位置している活動でもあります。つまり、こう言ってよろしければ、心臓の活動より上部で起こっているすべてのことのなかに、外界における珪化プロセス全体の対極に位置するものがあるというわけです。この内的に器官的なプロセスの本質は、すでに今までの講演でも示唆いたしましたが、外界の珪化プロセスが大いにーーこの表現をまた使ってよろしければーーホメオパシー化されているという点にあるのです。したがって、何らかの病気の像が、その発病箇所が心臓活動より上部にあることを示していることがわかったらーー例えば肺の分泌が非常に強いということによってその大まかな場所は明らかにされますが、これは髄膜炎や仮性髄膜炎の場合においても少なからず現われてきますーー、当然、そこにあるものは、生体組織にあらゆる別の障害をもたらす可能性があるのです。なぜなら、肺におけるこういう障害は、生体組織においてはすべてが相互に関連しているために、心臓血管の障害にも作用を及ぼすからです。一方においては、脳の炎症状態に現われる傾向にある障害が、炎症状態として起こらずに、消化器官あるいは消化器官に関係するものにおける炎症状態として現われてくる可能性もあるのです。このとき肝要なのは、そもそも出発点はどこにあるのかを知ることです。これについては、さらにお話しすることができるでしょう。けれどもこれらすべての場合に重要なのは、外的な珪質作用を非常に希釈するような何かを、生体組織に供給することです。皆さんがこの関係を正しく眼前に置くことができれば、これはきわめて特徴のある、きわめて重要な関係なのです。またこの関係は同時に、身体の上部に観察できるような何かが直接存在している場合は、自然においてこれほど重要な珪質プロセスを、粉砕、分割、粉末状にすることによって変形することが不可欠である、ということを皆さんに示しています。相互作用によって発生した障害が身体の下部にあるとき、例えば心臓そのものに障害があるときは、状況によっては、すでに珪酸を非常に多く含む植物によって導かれたプロセスを用いて、このような植物を変形するか、直接用いるかして、治療プロセスを引き起こすこともできます。珪質のものを含むすべての植物において、その植物が、人間の生体組織に対して、心臓より下で起こっているすべての経過に対して、どの程度作用を及ぼすのか、そしてもちろん他の組織に対してどの程度逆の作用をするのかも、綿密に調査するべきでしょう。

 珪化の正反対のものは、私たちが人間外部の自然において炭酸形成[Kohlensaeurebildung]と呼ぼうとしているすべてのもののなかに含まれています。炭酸形成というプロセスはいわば、珪酸形成[Kieselsaeurebildung]の対極に位置しているものなのです。したがって、治療にあたって炭酸形成プロセスを追求していくことは、今度は生体組織において私がたった今特徴をお話ししたものの反対にあるものすべてのために、最も広範囲に消化と関わっているけれども、その出発点、その起源は消化システムそのもののなかにあるようなすべてのもののために、不可欠なのです。ですから、何らかの炭酸結合というものは、とりわけ、それを自然そのものが形成しているようなやりかたで用いるなら、つまり他ならぬ植物によってそれを獲得するなら、このような病気の形式の場合きわめてうまく使いこなせるのです。

 さてここである種の関連に注意しておくことが非常に重要です。皆さんがまず物質を、匂いをかぐときと味わうときに物質が提示しているものに従って追求するならーー匂うことはもっぱら私たちを他の可視的世界に出て行かせ、味わうことは生体組織のなかに隠されているものに引き入れるのですがーー、そして消化をそれに従って考慮するなら、次のように言えるでしょう。消化プロセスの開始時に起こっていることに関しては、諸物質はこれほど溶け合い、混ざり合っている。けれども、器官のプロセスが進むにつれて、人間は、混合しているものの再分離に関わるようになり、物質的なものよりむしろプロセス的なものの再分割がなされる、と。そしてこの、栄養摂取において一緒になったものの分割、再分離こそが、生体組織の非常に大きな課題の一つなのです。生体組織がまずとりかかるのは、一緒になったものの、主要な分離であり、つまりそれは、一方では腸を通じて排出されるべきものすべての排泄に向かい、さらに尿を通じて排出されるべきものすべての排泄に向かうのです。

 これですでに私たちはある器官組織に接近しているのですが、この器官組織に対しては、治療の際に医師のイントゥイションが非常に問題になってくるでしょう。私たちが接近するのは、人間の生体組織において非常にすばらしい作用をしている腎臓組織で、これはそのプロセスにおいても、まったく奇妙な分岐を成しています。しかしこれについてはまた後ほどということにしましょう。さて問題は、以前の講演でも示しましたように、腸を通じての排泄であるすべてのものは、頭部における経過と関連していて、これら二つは互いに関連しあっているということです。同様に、尿における経過はすべて、心臓の回りで、つまり心臓組織において起こっている経過と関連しています。根本的に、腸を通じての排泄であるものすべてにおいては、人間が珪化プロセスを模造すること、尿形成において起こっているすべてのことにおいては、炭酸プロセスを模造することが関わっているのです。これらの関係はさらに、健康な人間において起こっていることと、病気の人間において起こっているはずのことを結びつけるものです。これによって私たちはむしろプロセス上の関係を指摘したのですが、これらは一面的に観察されてはならないでしょう。こういう事柄すべてに精通してはじめて、昨日きわめて納得のいくやりかたで、シャイデッガー博士によって類似性の法則として言及されたこと(☆2)を正しく評価することができるようになる、ということがわかってくるでしょう。

 この類似性の法則はきわめて重要なことを含んでいます。けれども、不可欠なのは、たった今私たちが確認したような関係を考察することによって得られたすべての要素に基づいて、この類似性の法則を打ち立てることです。なぜなら、私がたった今皆さんと議論いたしましたあらゆることの背後にあるのは、実際またも人間と鉱物的なものとの関係だからです。私たちが一方で、いわば珪質のものについて、人間を形成するものとして語り、人間を再び解体する炭酸的なものについて語るなら、生のプロセスとは、この絶え間なく形成し解体する傾向のなかにあるのです。私たちが一方で、人間を形成するもの、珪質的なものを見るなら、忘れてはならないことがあります。それは、先日の講演ですでにその理由は部分的に暗示しておいたのですが、人間生体組織におけるこの珪質のものに似た部位には、鉱物的なものすべてとの親和性があること、つまり鉛的なもの、錫的なもの、鉄的なものにに汲み尽くされる鉱物的なものとの親和性があるということです。つまりこのように言うことができるのです。心臓より上にある部位に目を向けるなら、私たちは、人間においてそこで一方では珪酸的なものから作用し、他方では鉛的なもの、錫的なもの、鉄的なものから作用するものに目を向けなければならない、と。鉄的なものは、肺の形成プロセスにより強く関わり、錫的なものは、頭部全般の形成原理と、そして鉛的なものは、骨に局所化されている形成原理と非常に強く関わっています。なぜなら、骨の構造と骨の成長は、実際本質的に、上部人間から発するもので、下部人間からではないからです。

 さて重要なのは、これらの事柄がどのように相互作用しているのか、つまり例えば珪酸塩をどのように使うのか、この場合、常にその金属がこれら三つの代表的金属と類似しているかどうかを調べなくてはなりませんが、こういうことをいわば慎重に吟味するすべを学ぶことです。さらに他方においてはっきり理解しておかなくてはならないことは、下部人間は、銅、水銀、銀と親和性があり、すべての炭酸プロセスにおいて、これらの金属に親和性のある金属、あるいはこれらの金属そのものを、どの程度用いるのか、それらを炭酸形成プロセスと何らかの方法で結びつけるのか、ということを考慮しなくてはならないということです。

 そうすることによって、地上において地球外的なものに起因している金属的なものと、普通は岩石状であるもの、つまり炭酸形成原理の影響下に形成されたものと、珪酸形成原理の影響下に形成されたものとが、統合されるのです。こうして私たちは、何らかの場合に人間の生体組織が治癒されるように、私たちが生体組織に供給せねばならない外界のものを、徐々に具体化していく可能性に近づいていくのです。

 その際常に注意していなければならないことは、あまり下位の感覚には作用しないもの、つまり匂いや味にはあまり作用しないもの、すなわち、その本質が外部に向かってそれほど一目瞭然ではないと申しますか、そういうものは、非常に希釈した状態でも作用することができ、それに対して、その本質がまさに匂いや味のなかに一目瞭然であるものの場合は、それほど希釈しないで用いることができる、ということです。匂いや味の強い物質は、治療するものがどこにあるかはっきりわかっている場合には、基本的にそれ自体としてきわめて良い薬なのです。特に、その治癒作用が通常の食餌療法によって相殺されない場合には、そうなのです。

 とはいえ、こういう事柄にさらに立ち入っていくこと、少なくとも、次のようなことを考慮しておくことが必要です。つまり、人間の感覚はどれも、このように細分化されていて、この場合に言われなくてはならないことは、反応を見いだすための最良の試薬、最良の薬というのはやはり根本的に言って人間そのものである、ということです。匂いも味も無いような物質の場合これが困難になるのは言うまでもありません。けれども皆さんに注意していただきたいことは、とりわけ医師にとって重要な、一種の自己教育というものが存在しているということなのです。この自己教育というのは、養成することのできる精妙な感受能力、そうですね、外的な自然界の珪質形成プロセスのようなものにおいて何かを感じ取るというところまで導いてくれるような感受能力を養成することにあります。ひとつ考えてみてください、なるほど石英は非常に規則的な形態を見せていますが、この、一方でこれほど規則的な形態を見せている岩石、鉱物が、それに親和性のある形成(珪酸形成)においては、今度はあらゆる可能な結晶形態をとる傾向にあり、珪酸塩の場合、結晶化する際の多様性は途方もないものである、ということ、これには実際何か意味があるはずです。こういうことを感じ取ることができる人は、さらに、きわめてさまざまな形態形成の可能性があるなかで、いかにして分散させる要素が優勢になっているのか、感じ取ることもできるのです。外的自然において、珪酸塩の場合ほど多くの形成物を生じさせる可能性があるという場合は、もちろん、分散させる要素が模範とされなければなりません。これは、珪酸塩を粉末状にして用いなければならないことを示しているのです。このためには感受能力というものが身についていなければならないのです。これから見ていきますように、この感受能力がさらに薬を評価することにも通じていくからです。他方においてまた不可欠なのは、人間が自分自身を、良い反応板として、とりわけ、例えば匂いというものも、色彩感覚と同様、本来七つに区分できる、というところまで感受能力を修得することです。私たちが、甘い匂い、刺すような匂い等に対して識別力を身につけたら、実際に臭覚も、味覚と同様に七つのニュアンスに細分化されることがわかるでしょう。さらに興味深いことは、臭覚における階梯、こう言ってよろしければ匂いのスペクトルを修得すると、同時に、可燃性の物質に現われているすべてのものにおいても勝手が分かるための教育手段を獲得することになるのです。いわば可燃性の物質の本質に迫っていくわけですが、そのやりかたについては明日見ていくことにします。味覚に対してある種の感受力を身につけるなら、例えば、甘い味を、塩辛い味、つまり塩からきちんと区別できて、両者の間になお五つのニュアンスを区別できるなら、まさしく自然において塩形成しているものとの、一種の内的な親和性を身につけることになります。そしてこの内的な親和性を身につけたなら、いわば自然から得る印象をもとに、そこから次のように感じ取ることができるようになるのです、これは人間の生体組織のこの面に役に立つ、これは人間の生体組織の別の面に役に立つ、というように。さまざまな物質の作用については慎重で厳密な科学的調査が基礎にならなくてはなりませんが、それでもやはり大きな意味を持っているのは、こういう科学的な調査の成果にも、主観的な感受能力を添えることを決して無視してはならないこと、すなわち自然に対するある種の内的な親和感情を自らのものとするということです。

 以上の議論は明日さらに引き継いで、さらにもっと個別的なことに入っていきたいと思います。

□原注

☆1 遺稿には「味わうこと」という語は欠けていて、以下の叙述の意味に従って補足された。

☆2 この講演の参加者のひとりによって行なわれた研究発表。


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