シュタイナー・ノート<1-10>


1●どのようにして思想を形成するか

2●自己幻想

3●醒めていること

4●社会の未来のための教育芸術

5●自由

6●思春期

7●思春期の男女の違い

8●ピアノ

9●細事への畏敬

10●本来の思考内容

 

 

シュタイナー・ノート1

<どのようにして思想を形成するか>


(1997/7.22)

 

 大抵の人が社会そのものと取り違えている政治国家は、社会の三つの部門のひとつにすぎません。けれども近代社会は社会有機体をまったく中央集権化して、いわば国家にすべてを飲み込ませてしまいました。その中にあって私たちが社会を有機的に三分節化する運動を進めているのだということをよく理解する必要があります。この点を真剣に受けとめることが、今社会運動を行なう上でこの上なく必要なことなのです。ここから何が起こるかわかりませんが、私たち人間はこれからも今までと同じように、おぼつかない足どりで歩み続けることでしょう。それ以外のありようは考えられません。けれども私たちが今努力すべき目標は、社会的理解を広めることです。社会有機体を本当に理解する可能性を創り出すことなのです。

 この意味で、現在一定の方向で社会活動をしている人たちの思考のあり方を観察するのは非常に有益です。大切なのは、思考の内容よりも思考の形態を観察することです。何を考えているかよりも、いかに考えているかの方に注意を向けて下さい、ですから誰かが反動的であるか、それよりも民主的、社会主義的またはボルシェヴィズム的であるかは、現代の社会運動の本質にとってそれほど重要ではありません。私たちが何を語るのかはまったく重要ではなく、重要なのはいかに考えるかであり、どのようにして思想を形成するかなのです。思想や綱領において過激な社会主義者でありながら、その思考形態においては古い封建主義者であるような人が今日いくらでも活動しているのです。

(シュタイナー「社会の未来」高橋巌訳/イザラ書房P8-9)

 これから「シュタイナー・ノート」シリーズを始めます。これは、一貫したテーマでシュタイナーの思想を見ていくのではなく、その都度、気づいた視点などをご紹介するものです。つまり、「トポスノート」のシュタイナー版というわけです。

 その最初は、「社会の未来」から。

 これについては、少し前にお話させていただいたところなのですが、「何を考えているかよりも、いかに考えているか」に注目しないと、ほとんど思考形態において同じものが、表面的な衣装を変えることで、さもそれがまったく新たな視点であるかのように見えてしまいます。

 これは、教育問題においても、社会問題においても、いえることで、何か問題が起こるとあわててそれに対処しようとしてだされる「対策」といったことのあり方を注意深く見ていればわかることですし、もちろん、個人においても、いろんな問題の起こるたびに、反省して、「もう二度とこんなことが起こらないように気をつけなければ」と思いながら、同じ「思考形態」を持っている限り、同じパターンを繰り返してしまうことなど、切実な問題であることがわかります。

 ですから、まず検討すべきは、自分がどういう思考形態をもち、それゆえにどういうパターンの認識と行動の傾向性を持っているかであり、同時に、自分の関わっている集団などについても、そうしたことを注意深く見てみることです。そのことで、見た目の違いと、抜本的な違いとが、似て非なるものであることがわかります。そうすることが、〜主義というようなあり方ではない、真の「思想形成」の出発点でもあると思うのです。

 

 

シュタイナー・ノート2

<自己幻想>


(1997/7.22)

 

 最近私は次のように述べたことがあります。クーポン券を切る役目の人はこの切り取られたクーポン券の中に人間の労働力がひそんでいることを忘れてはならない。そして人間の労働力が資本主義経済秩序の中で奴隷化されている限り、そこに生きるすべての人が奴隷化に関与していることを忘れてはならない。

 皆さん、こういう言葉を聞いて、「恐ろしいことですね」というような返事をしてはなりません。「恐ろしいことですね」という返事の仕方が一番いけないのです。それが人を分派的傾向に追いやりかねないのです。私はそのことを、別の言い方でお話しました。人々はルツィフェルとアーリマンについて聞かされ、「ああいやだ、そんなことは考えたくない。私はルツィフェルやアーリマンには関係ない。私は悪魔とは関係をもたない、善き神の下にいる」と言います。そういう人たちこそ、ルツィフェルとアーリマンの誘惑に深く陥っているのです。それはその人たちが抽象的な考え方をしているからです。大切なのは正直に、誠意を持って、私たちが現代の社会過程の中に組み込まれて生きていることを意識し、自己幻想に陥ることなく、社会過程が全体として健全になるために可能な限りのことをすることです。ひとりひとりがただ自分のことだけを考え、自分のためだけに行為するのでは問題は前進しません。今日の人類社会においては、ひとりひとりが貧しい人類と共に生きるために、自分のできることをしなければならないのです。

(シュタイナー「社会の未来」高橋巌訳/イザラ書房P30-31)

 真に社会の中で生きるということは、自分が関わっているすべてのことについて傍観者であってはならない、ということなのではないでしょうか。

 先日の14歳の少年の事件に関しても、「恐ろしいことですね」というだけで、それが自分の内的な問題でもあるということを認識しないでいることそのものが、まさに「恐ろしいこと」であるということを知らなければならないのだと思います。

 たとえば、暑い夏の日、クーラーをつけるとしましょう。そのクーラーをつければ、多くの電力を消費します。その電力はどうやってつくられるのでしょうか。原子力発電所でつくられるのです。

 かつて、自然環境保護運動をされている方で、原発反対を叫んでいる方と夏の暑い日々が続いていたときに、お話をしたことがあるのですが、その方は家にいるとき、特に何の疑問もないままに、クーラーをずっとつけているのだと言っていました。その方にとって、クーラーと原発はまったく別の問題なのです。

 もちろん、クーラーをつけるべきでないというのではなく、クーラーと原発はまったく別の問題だととらえていることが問題なのです。シュタイナー教育を学んでいると称しながら、夫との間の関係が破綻していることをシュタイナー教育と切り離して考えているようなことも同じです。

 人は多く、「自己幻想」に陥ったまま、自分のなかで明らかに起こっている分裂症的傾向に気づくことなく、社会の中に生きています。

 自分の関わっているあらゆることに関心を持ち、その内容や関係について理解を深めようと努力すること。そこから出発する必要があるのだと思うのです。

 

 

 

シュタイナー・ノート3

<醒めていること>


(1997/7.22)

 

 今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛する思想を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私たちが社会過程の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれる才能を発揮できるということが大切なのです。悪い存在であることが良いことだからではなく、克服されるべき社会秩序がひとりひとりにそのような生き方を強いているからなのです。自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとしたり、指をしゃぶってきれいにして、他の人間よりも自分の方が清らかである、と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻想にふけることが少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協力し、今日の人々を深く捉えている催眠状態から目覚めようとする意気込みが強くなるでしょうから。

(シュタイナー「社会の未来」高橋巌訳/イザラ書房P30-31)

 悪であることではなく、悪を自分のなかに見出せないということこそ、現代においては重大な問題なのではないだろうか。

 食べるということひとつとっても、人間は他の多くの生命の犠牲によって成り立っているのだということを忘れているのだとしたら、そのことこそが、重大な問題なのだといえる。

 自分だけは正しい、自分だけは間違ってはいない、自分だけは純粋だ・・・そんな幻想に耽って恥じない態度こそが、多くの悪の温床になっているのだということを知らねばならない。

 知っていて犯す悪よりも、知らずに犯す悪のほうがずっと救いようがない。それは、自分のやっていることに対する自覚の可能性がないからだ。なぜそんなことをしてはいけなかったのかがわからなければ、いつまでも同じ事をくりかえしてしまう可能性が大きいということもいえる。悪人正機とは、悪の自覚のことであり、それは悪を排除した善よりも大きな可能性を秘めているのだということがいえないだろうか。

 「世界人類が平和でありますように」という祈りがあり、それはそれで結構なことなのだが、その祈りの危険性もそのことに関連して考えてみなければならない。

 

 

 

シュタイナー・ノート 4

<社会の未来のための教育芸術>


(1997/7.23)

 

 霊学が特に実り豊かな働きをすることができるのは、教育の分野においてです。教育は、人類社会の未来を真剣に考える人にとっては、特別に重要な領域です。教育問題は最近、非常によく語られるようになりました。けれども、教育について語られたものの多くは問題の核心に触れていない、と言わねばなりません。私は特に最近になって、この核心に近づこうと試みました。今年の九月に、社会有機体三分節化の意味で、シュトゥットガルトにヴァルドルフ学校が設立されましたが、その教員たちのために、あらかじめ講習会を開くことになり、その課題を私が引き受けることになったのです。その際、私は学校教育のための諸課題を取り上げて、社会有機体の三分節化の衝動に応えようとしましたが、それだけでなく、この新しい学校の教師たちのために、教授法の問題を取り上げ、社会の未来の要求に応えるために、どのような教育を考えたらいいかを語ろうと努めました。そのとき述べたのは次のような考え方でした。−−古い規範教育を克服しなければならないのです。たしかに今日では多くの人が、教育や授業において人間の個性が尊重されねばならない、と語っていますが、この人間の個性尊重のためにもいろいろな規則が提出されているのです。しかし未来の教育は、規範学であってはなりません。未来の教育は、真の人間芸術となるべきなのです。未来の教育は、人間全体の認識に基づくものになるでしょう。将来は次のことを知るようになるでしょう。−−生まれたときから一年一年と発達していく子どもの中には、霊的=魂的なものが人体諸機関を通して人間存在の表面にまで働きかけており、就学時からも年毎に新しい力が子どもの本性の深みから発達してくる、ということをです。この見方は、抽象的な規範教育では受け容れられないでしょう。それはただ、人間本性そのものを生き生きと直観することによってのみ理解されるのです。(P194-195)

 社会の未来を形成しようとするのなら、人生の全体に関わるように努めなければなりません。人間を体と魂と霊の存在として捉え、その体と魂と霊の本質を認識するようになるとき、私の述べた教育芸術もまた可能になるのです。この教育芸術は社会生活の中で本当に必要なものと感じられるようになる筈です。(P198)

(シュタイナー「社会の未来」イザラ書房)

 「社会有機体三分節化」についてのシュタイナーの講演集「社会の未来」は、上記の引用にもあるように、現在読書会の始まっている「教育の基礎としての一般人間学」と同じ年に行なわれたもので、その両者は深く関係しあっています。

 読書会の理解のためにも、上記の内容を参考までにご紹介させていただくことにしました。

 教育について深く考えるということは、「人生の全体」に関わるようにしなければなりません。つまり、「人間を体と魂と霊の存在として捉え」ることによって、人間の本質を総合的な観点からとらえなければならないのです。ですから、「シュタイナー教育」について知ろうと思えば、そうした人間の本質をとらえようとするアプローチが不可欠になります。

 また、人間が三分節化されているように、社会有機体も三分節としてとらえなければなりません。そうすることによって、人間と社会の連関をとらえる可能性が生まれます。

  

 

 

シュタイナー・ノート 5

<自 由>


(1997/7.23)

 

 近代人の意識は人間存在の自由にとっての出発点となるべき、もうひとつの問題をあまりにも考えずにきました。そして人間における自然的なもの、自然因果性に支配されたものだけに眼を向けてきました。しかし人間の本性を深く洞察する人なら次のように言う筈なのです。人間は生まれたときにあらかじめ定められた通りの存在であるに留まらず、生活を通してもっとそれ以上の存在にもなることができるのだ、と。−−人間とは何かを知るためには、人間の究極の目標を知らねばなりません。たしかに人間の本性の一部分は遺伝されて存在していますが、人間はその体的本性が備えていない別の本性をも、自分自身の中から生じさせることができるのです。自分の内部にまどろんでいる人間を目覚めさせることによってです。ですから「人間は自由か」ではなく「内的発展を通して、私は自由な存在になることができるのか」と問うべきなのです。−−人間が自由になりうるのは、自分の中にまどろんでいるもの、目覚めさせて自由にすることのできるものを、自分の中に育て上げたときなのです。言い換えれば、人間にとっての自由は生まれたときから与えられているものではありません。それは自分の中から目覚めさせることによって可能となるものなのです。

(シュタイナー「社会の未来」イザラ書房/P180-181)

 「社会の未来」という講演においても、「自由の哲学」において展開された核心の問題が強調されています。

 人間は自由であるというのではなく、自由になりうる可能性がある、そのために自分のなかにまだ種としてしか存在していないものを開花させなければならないわけです。

 人間を単なる「自然存在」であるととらえるときに、その可能性は否定されてしまいます。つまり、単なる因果性の存在として規定されてしまうわけです。

 ですから、人間は「自然存在」でもあるが、同時にそれを越えて「自由」への可能性にも開かれている存在としてとらえなければなりません。そこに、「教育」という問題の核心があるのだということを深く認識しなければならないのではないでしょうか。

 

 

 

シュタイナーノート 6

<思春期>


(1997/11.7)

 

一四、五歳という年齢は、子どもの成長にとっては特別に重要な時期です。そのことは、丁度この時期に、アストラル体とエーテル体、自我と肉体との関係がこれまでよりも、よりゆるやかな結びつきを示す、ということからもわかります。(中略)

この点では、一四、五歳の頃の移行期は、少女の場合はもっと早いかもしれませんが、七歳頃の移行期と異なっています。学童期に入る頃、つまり歯の生え替わる頃は、眠りと目覚めの交替が人間の肉体の中で、まったく客観的に行なわれます。ところが性的な成熟期になると、自我、アストラル体という主観的な部分と、エーテル体、肉体という客観的な部分との相互関係が変化するのです。(中略)

性的成熟への移行期になると、肉体、エーテル体部分はある程度これまで通りであり、自我、アストラル体部分もこれまで通りなのですが、この両部分、つまり肉体、エーテル体と自我、アストラル体とが、それぞれ釣り合いのとれた仕方で結びつくのです。そしてそのことによってこの時期の子どもは、内的な主観的特徴をよくあらわすようになります。その結果、思春期以降の子供たちは、性格にはっきりした変化をあらわします。その変化は外からでも認められます。まだ完全にはセックスと結びつかないにしても、愛情を表現したいという気持ちが表面に現われるようになり、友人に深く惹きつけられるようになります。特に少年と少女の間に友情が生まれます。それはまだセックスの衝動よりも、隣人に対する内的関心の力が、より意識的な仕方で現われてくるのです。

この時期には、男子も女子も、これまでの性格からは説明できないような、むしろそれとは矛盾するような態度をあらわします。それは一般に、性的な成熟に伴って生じる現象です。女子の場合には違った形をとりますが、一般に「腕白時代」とか「なまいき盛り」とかいわれる、独特な、つっぱった態度が現われます。それはアストラル体が特別活発に働くようになるにも拘わらず、自我がまだ充分な発達を遂げられずにいる事情から生じるのです。この時期の子どもの自我は、自分の肉体及びその延長上にある周囲の環境と、正しい関係を持とうとして格闘しているのです。

(「一四歳からのシュタイナー教育」筑摩書房/P97-99)

 思春期の問題というのは、非常に興味深いものがあります。

 反抗期という言葉でこの時期の子どもを形容することが多いのですが、確かに、アストラル体が活発に働くにもかかわらず、自我の発達がそれに追いつかないでいるためになにかにつけ親などに反抗的になるというのは、ぼく個人のことを振り返ってみても、うなずけるものがあります。

 「愛情を表現したいという気持ち」にあらわれているように、いろいろな意味で感受性がいきなり豊かになってくる時期でもあるので、その爆発的に広がっていく感受性を自分でもどうしたらいいかわからず、なかばコントロール不能のままにイライラしていることが多かったようです。親や教師への反抗というのは、それまでの調和が崩れはじめ、「こんな自分をなんとかしてくれ」という気持ちと、「あんたなんかの言うことは納得できない」という欲求不満のはざまで、感情が爆発している状態だといえそうです。とはいっても、ぼくの場合は、「それまでの調和」というのは希薄でしたから、それまでの不調和の種がますます乱れ咲きはじめたといってもいいかもしれません。

 シュタイナーは、この時期に、肉体、エーテル体と自我、アストラル体との結びつきかたが変わってくるといっているのですが、確かに、この時期の変化をどのようにそれ以降の魂の成長に結びつけるかはとても重要な課題だといえます。

 上記に引用した部分で特に興味深いのは、

 特に少年と少女の間に友情が生まれます。それはまだセックスの衝動よりも、隣人に対する内的関心の力が、より意識的な仕方で現われてくるのです。

 というところで、この「友情」という部分をどう育てていけるかが、その後の性的な成長に深く影響していくのではないかと思われます。この時期に、「友情」の部分ではなく、興味本位や過剰な刷り込みのようなことが行なわれすぎると、性的にかなり倒錯してきたりするのではないかとも思います。

 男女の差というのは、確かに典型的な在り方としてはあるのですが、その差の前には人間であるという大前提があるにもかかわらず、過剰な男女差が強調されすぎてしまう傾向というのは否めません。

 ですから、思春期の時期に、「隣人に対する内的関心の力が、より意識的な仕方で現われてくる」のを、どのように導いていくことができるかが重要問題になりそうです。

 男女差が過剰な幻想のもとにおかれるがゆえに、ほとんど発情状態で結婚し、その後険悪な状態が続き、「子はかすがい」によってかろうじて結婚状態が保たれるというような状態がでてくるるのではないかと思います。

 つまり、人間同士の理想を共有できるような、その根底に「友情」のある関係性から結婚するというのが本来であるにもかかわらず男女差の過剰な刷り込みによって、そうした「友情」がなくても結婚が成立してしまうというところに問題があるのではないかと思うのです。

 そういう意味でも、この思春期の在り方というのは、その後の結婚の在り方をも規定してしまうものでもありそうです。

 

 

 

シュタイナーノート 7

<思春期の男女の違い>


(1997/11.20)

 

 「シュタイナーノート6」では、「思春期」について、その時期には、アストラル体とエーテル体、自我と肉体との関係がこれまでよりも、よりゆるやかな結びつきを示す述べているのをご紹介しましたが、ここにご紹介している箇所では、それに続いて、思春期の男女の違いについて興味深いことが述べられています。

 思春期には、女性の場合、自我をアストラル体が吸収するのに対して、男性の場合は、自我がアストラル体の影響をあまり受けずにいるというのです。

 この点で先ず注意しなければならないのは、少女の場合は少年の場合よりも、アストラル体の役割がより大きいということです。一生を通じて、女性のアストラル体は男性のアストラル体よりも、より多くの意味を持っています。女性的であるということは、アストラル体を通して、宇宙のいとなみにより強く結びついているということなのです。宇宙の隠された働きの多くが、女性の本性を通して、明らかになることがあります。女性のアストラル体は男性のアストラル体よりも、きめ細かく、本質的により豊かに構成されています。(中略)

一方、自我は、一三、四歳から二〇歳、二一歳までの少女の場合、アストラル体によって非常に影響されて、少しずつ、アストラル体に吸収されていきますから、二〇歳、二一歳になった頃は、自我を発揮しようとすると、大きな抵抗を受け、多大の緊張を強いられます。

少年の場合は本質的に異なっていて、アストラル体が自我を吸収するということがあまりありません。しかしその自我はまだ保護されていて、十分に働いてはいません。一四、五歳から二〇歳、二一歳までの少年の自我は、まだ独立していないとはいえ、アストラル体の影響をそれほど強く受けずにいます。自我がアストラル体の影響をあまり受けずにいるので、この時期の少年は、少女よりも、スケールの小さな偽善者になりがちなのです。この時期の少女は少年よりも、はるかに自由で、あけっぴろげです。内面的な傾向を持つ少年の場合、自我とアストラル体の独特な関係の結果、自分の殻に閉じこもろうとする傾向がこの時期に生じます。もちろん友情を求め、人との結びつきを大切にしますが、特別な想いを自分の内に秘めておきたいという要求を持っているのです。

内的に深みのある子どもがこの年頃になりますと、好んで何事も自分の心に秘めておこうとします。(中略)この時期の少年は、殻に閉じこもることを愛しています。この時期に自分の殻に閉じこもらない少年がいたとしたら、むしろ教師はそのことの方を心配しなければなりません。(中略)そのような少年が後になって、生きる道がわからなくなり、異常な態度に出たりすることになるかも知れないからです。

少女の場合はまったく異なります。自我は多かれ少なかれ、アストラル体に吸収されていますから、あまり内に閉じこもることがありません。自我を内に含んだそのアストラル体は、むしろエーテル体の中に入っていこうとします。エーテル体の中で、からだを働かせたり、運動したりすることを好むようになります。ですからこの時期に正しい成長を遂げた女性は、態度がしっかり安定しており、自分の人柄を隠さずに、はっきりと外にあらわそうとします。(中略)

やや自己中心的な感情がまざってはいても、特に自分の性格や特徴に関しては、はっきりした態度をあらわします。自分の進化を発揮するのに率直なのです。しかしそれが高じますと、きどったり、見えっぱりになったり、心の中の気持ちを表わそうとするだけではなく、外的物質的な顕示欲にいきつくことにもなりかねません。女子は一四、五歳からおしゃれになり、繊細な美的感覚を発達させるのですが、それを見るのは非常に興味があります。こうした事柄はすべて、自我を吸収したアストラル体がエーテル体に対して特別な関わりをもつ結果生じるのです。その結果、歩みも、態度も、これまでとは変化しますし、頭の働きも、もっと自由になり、時には高慢になったりもします。

(「一四歳からのシュタイナー教育」筑摩書房/P99-101)

 ここに述べられていることについて自分をふりかえってみると、たしかに、この時期、ぼくはかなり殻に閉じこもる傾向にありました。「スケールの小さな偽善者」であったということもできますが^^;、「特別な想いを自分の内に秘めておきたい」という傾向は強かったですし、そのことと外的なこととに引き裂かれて陰々滅々としていました^^;。まだ自分がほんとうは何をしたいのかがわかりませんでしたし、そのことを日々求めながら、どうしてもそれを見つけることができませんでした。しかし、決してあきらめたくはなかった^^;。それ以降、ある意味ではつい最近までそういう状態であったわけですけど、おそらく思春期に殻に閉じこもる時期は、自分の中に種を植えている時期だったのかとも今になってみればわかります。

 ともあれ、確かに傾向としては、思春期の男女についての上記のシュタイナーの説明は、かなり頷けるものがあるように思います。

 

 

 

シュタイナーノート 8

<ピアノ>


(1997/11.26)

 

楽器は霊的世界から取ってこられたものです。ただ、ピアノは人間が物質界で作ったものなのです。音がまったく抽象的に並べられています。笛もヴァイオリンも、高次の世界から下ってきたものです。ピアノは俗物です。ピアノは内に、高次の人間を有していません。ピアノは俗物楽器です。しかし、ピアノがあるのは幸運なことです。ピアノがなかったなら、俗物はそもそも音楽を有することができなかったでしょう。ピアノは、音楽の唯物論的体験から発生したものです。ですから、物質のなかに音楽を目覚めさせるために、人がもっとも安楽に使用する楽器がピアノなのです。そこで用いられるのは純粋に物質であり、ピアノは音楽を表現しうるのです。「ピアノはよい楽器である」と、いわなくてはなりません。ピアノがなかったら、この唯物論の時代において、音楽の授業に際して、わたしたちは最初から霊的なものの助けを必要とするでしょう。しかし、ピアノは、音楽的に克服されねばならない楽器なのです。音楽を体験しようとするなら、ピアノの印象から脱しなければなりません。

「ブルックナーのように、まったく音楽の中に生きている人がピアノを演奏すると、大きな印象を受ける」と、いわねばなりません。ブルックナーが演奏すると、ピアノが部屋から消え去るのです。聴衆は、ほかの楽器を聴いているように思います。聴衆はピアノを忘れるのです。それは、ブルックナーのなかに、本能的な方法ではあっても、あらゆる音楽の基礎となる霊的なものがまだ生きていることの証拠です。

(シュタイナー「人間の音体験−音楽教育の基礎(二) 「音楽の本質と人間の音体験」イザラ書房、所収、P80-81)

 音楽教育においては、ピアノのような鍵盤楽器からはじめるのは、音体験としてふさわしくないということがいえます。笛やヴァイオリンは、自分で音を聴きながら創り出すプロセスが必要なのに対して、ピアノは、とりあえず鍵盤の特定の場所をおさえれば、1オクターブ、12音音階でできている決まった音がだせてしまうからです。

 しかしそのことでピアノは悪い楽器だという結論にはなりません。シュタイナーは、「ピアノはよい楽器である」というのです。もちろん、単純にピアノは素晴らしいと言っているのではありません。唯物論の意味を自由の基盤として積極的に論じているように、ピアノは、「音楽的に克服されねばならない楽器」というように音楽を体験するための重要なプロセスであるともとらえているのだといえます。

 重要なことは、音楽を真に体験することです。

 ピアノが「俗物楽器」であるからといって、それが音楽を真に体験することを妨げるものではありません。重要なのは、ピアノである笛であるヴァイオリンであるということではなく、それによって何を体験できるのかということに他ならないのです。

 ピアノが「よい楽器である」のは、「音楽の唯物論的体験から発生した」ものであるがゆえに、現代においては、音楽を真に体験するための重要な契機となる可能性があることです。そして、あえていえば、ピアノはピアノであると同時にピアノを越えることで、その唯物論的な在り方を止揚する可能性を持つということなのではないでしょうか。

 その止揚の可能性のためには、「音楽を真に体験すること」が必要です。それがなければ、ピアノはただの「俗物楽器」でしかありません。

 このことをCDやコンピューターミュージック、さらにはラジオ、テレビ、パソコン、インターネットについても深く考えていくことが、現代の大きな課題であるということがいえます。その前提には、霊的な観点である「精神科学」がどうしても必要になります。それがないときに、それらは単なる「俗物」のツールでしかなくなります。

 重要なのは、深い音楽体験であり、思考内容そのものの深みです。その道具だてだけの善し悪しについて語ることは、浅薄なことです。道具だけの意味を深く理解しながら、その道具ゆえに可能になること、そしてその道具をその道具によって越えていくことが重要なのです。

 音楽の生演奏を体験することはかけがえのない体験です。けれど、その体験を可能にする魂こそが重要です。素晴らしい生演奏のまえで眠りこけることもできますし、CDプレーヤーのまえで、深く音楽を体験し、涙することもできます。インターネットで、言葉や欲望を垂れ流すこともできます。しかし、インターネットで、深い思考内容を共有することもできます。

 現代では、テレビ、ラジオ、電話、コンピューターなどを遠ざけて生きることはもはやできないですし、それらが開く可能性は大きなものです。重要なのは、それらへの理解のためのアプローチであって、それらによって何か可能になるかという未来への思考ではないかと思います。そしてそのために、それらをどう使うべきかについて、深く考えていくことが必要です。先に、「〜はいけない」を先に、外的にもってくる人は、そこに盛り込むべき思考内容をもたないからそうしているのだといえます。

 「ピアノはよい楽器である」ということができます。それは、単にピアノを肯定しているのでもなく、否定しているのでもありません。何が人間にとって重要なのかを深くとらえる必要性を示唆しているのです。 

 

 

 

シュタイナーノート 9

<細事への畏敬>


(1998/1.4)

 

今後私たちに必要なのは、これまでごく市民的な生活範囲の中で−−しかしある種の直観から−−言われてきた「細事への畏敬」です。特に青年はこのことを身につけなければなりません。青年はあまりに抽象的な事柄に安住しています。しかしそうするとすぐに虚栄心のとりこになってしまうのです。

皆さんはよく考えなければなりません。どんな困難があるのか、そしてどうしたらその困難を皆さんの秘教的な努力の内容にすることができるのかを、です。直観によって何かを認識する人にとって、答えが広げた手の上にとまるはずはありません。俗人が障害児について語る言葉は大抵の場合、間違っていますが、そういうときに大切なのは、眼の前にある事実を直視することです。そして勇気をもって、ある瞬間だけではなく、持続して、「私にはできる」という意識を保ち続けることが必要です。

(シュタイナー「治療教育講義」角川書店/P187-188)

 「細事への畏敬」ということですぐに思い浮かべたのが、道元の「典座教訓」です。それまで「文字」とは公案や始祖の言葉だと思っていた道元は、宋で老典座から、「仏のいのち」に活かされた一切の事物こそ「文字」であることを教えられます。

 典座とは禅寺で台所の仕事をしている僧のことですけど、その典座にとっては、大根も味噌も水も人間もすべて「仏のいのち」で、それらを最大限に活かすことこそ、文字を極めることだというわけです。

 「治療教育講義」のなかでふれられているこの部分ですが、これは今まさに直面している事を抽象的な議論の対象とするのではなく、そのことそのものを直視しながらそれと取り組み続けることの必要性を強調する必要があったからなのだと思われます。

 人は、なにか大きなことに取り組んだり、抽象的な理想を語ることは得意であっても、自分のまさに直面している問題からは眼を逸らしがちなのではないでしょうか。つまり、たとえば「平和の大切さ」については声を大にして議論できても、自分のもっとも身近にある人とちゃんと議論することができるだろうかということです。

 「秘教」とか「秘儀参入」とかいうと興味を持つ人でも、自分の心身のことや身近な人との関係性などについて、そのひととつをきちんと考えることについてなおざりにすることは多いのではないでしょうか。

 自分のいちばん身近なことを直視し、それを勇気をもって続けること。そのことそのものがみずからの魂の成長のためにも最重要なことであるということを忘れてしまったところで、「教育」や「秘教」などについて語ることはできません。

 誰が見てもわかりやすく目立った事柄を実践と称してすることはある意味で簡単です。けれど、一見つまらないことやとるにたりないことのように思えてしまうそうした「細事」に対して畏敬の念を持って取り組み続けることこそが、大いなる「勇気」であり、そのことこそが「実践」なのだと思うのです。

 

 

シュタイナーノート 10

<本来の思考内容>


(1998/1.7)

 

人智学的な観点から人間を見れば、人間の中にはそこから思考内容が生じてくるようなものを何一つ発見できないのです。思考内容の成立を人間の中に見ようとする試みは、霊学的には、ちょうど誰かが毎朝どこからか壺一杯のミルクを手に入れ、そしてある日、どのようにしてそのミルク壺が毎朝ミルクを自分の中から作り出すのか、と考えるにも等しいのです。(略)

それでは誕生から死に至るこの世のどこからそれは入ってきたのでしょうか。それはどこに存在していたのでしょうか。ミルクの由来が研究できるように、思考内容の由来も研究できなければなりません。さて、私たちは物質界の中にいます。しかし私たちはエーテル界の中にもいるのです。地上に受肉する以前の私たちのエーテル体はこのエーテル界からとってこられました。人間のエーテル体は、どんな所にも遍在している宇宙エーテルからとってこられたのです。愛する皆さん、この宇宙エーテルこそ思考内容の本当の担い手なのです。すべての人が共有しているこの宇宙エーテルこそが、思考内容の担い手であり、そこにこそ思考内容は存在しているのです。私が人智学講演の中でいつも語っているあの「生きた、つまりエーテル的な思考内容は、その中に存在しているのです。そして地上に生まれてくる以前の人間は、そのような思考内容に関与していたのです。そもそも思考内容は、その生きた状態においては、この宇宙エーテルの中にあるのです。誕生から死に至るまでの私たちは、直接この宇宙エーテルの中から思考を引き出すことができません。人間のもっている生きた思考内容はすべて、人間が霊界領域から去って地上に降り、自分のエーテル体を形成するときに受け取るのです。人体を形成し組織するすべての働きには生きた思考内容が存在しています。

(シュタイナー「治療教育講義」角川書店/P32-33)

 ここに書かれてある内容は、「自由の哲学」において哲学的に述べられていることを、「宇宙エーテル」といった神秘学的な言葉で表現したものだといえます。思考内容が普遍的なものであるというのは、それが人間の脳で作り出されたのではなく、それが「宇宙エーテル」の中にあるからです。

 上記の引用のたとえにあるように、思考内容を脳の中から生み出されたものとして脳のニューロンなどの相互作用で生み出されたものだとすることはできません。それは、別のたとえでいうならば、パソコンのディスプレイにうつしだされた文字がパソコンのハードとソフトのなかだけで生み出されたと思いこむのにも似ています。キーを打ち込むなどの操作をしているのはパソコンの前にいる「私」なのに、それがいないかのように錯覚することはできないのに、脳が思考を生み出したと考える人は、そう錯覚しているのと同じだといえます。

 この引用箇所にはもうひとつ重要なポイントがあります。「誕生から死に至るまでの私たちは、直接この宇宙エーテルの中から思考を引き出すことができません」というところです。つまり、生きた思考は過去からのものだということなのです。その生きた思考は、こうして生きている「私」の人体組織を形成するものでもあるというのです。

 この点に関しては、たとえば教育関連の基本講義でもある「一般人間学」のなかでも強調されているのですが、この点を理解しないで「一般人間学」を理解することは困難なのではないかとさえ思います。たとえば、第二講にある次のようなところです。

 表象は生まれる以前、受胎する以前に、私たちによって体験されているすべての体験内容の像なのです。表象を本当に理解しようとするのでしたら、皆さんは生まれる以前、受胎する以前にも生きていたということを、よくわきまえなければならないのです。通常の鏡が空間的に鏡の像を映し出すように、死から新しい誕生までの間のあなた方の人生が現在の人生のなかで自分を映し出すのです。(「教育の基礎としての一般人間学」筑摩書房/P23)

 しかし、このことを理解するということは、現在の自分の思考内容の由来について考えさせられることになりますし、それはひいては他者とのコミュニケーションの問題にも大きな課題を投げかけることにもなります。

 現在の思考内容が過去に由来するものであるということは、人は過去に準備されていなかったものを使うことはできないわけです。それをカルマと関連づけて考えてみることもできるように思います。

 皆さんがご自分を鏡にうつして見るとき、鏡に映ったその像が自分とはど

こか違っている、とお思いになるでしょう。生きた思考内容もその鏡像と較べると、どこか違っています。皆さんの鏡の像がその前に立っている生きた皆さん自身に較べて死んでいるように、鏡像である思考も死んでいるのです。ゆがんだ、非論理的な、狂った思考内容は決して宇宙エーテルの中には存在しませんけれども、通常の表面的な魂のいとなみの中の思考内容は宇宙エーテルの中の思考内容の鏡像に過ぎませんので、ゆがみが生じます。狂った偏屈な思考内容が生じるのは、鏡である頭脳構造の何かが正常な働きをしていないからです。ですから私たちにとって大切なのは、眼の前にあるゆがんだ思考内容から遡って、真の生きた思考生活がつくりあげた人間の頭脳や神経系本来の働きまでの道を見ることなのです。そうすることによって皆さんは意識から出発することが非常に大切だ、ということを理解なさるでしょう。本来の思考内容そのものには近づくことができません。それは宇宙エーテルの中で絶対的な正しさをもって存在しているのです。治療教育者は自分たちに委ねられた子どもが正しい仕方でこの宇宙エーテルと結びつきを持つことができるよう、あらゆる努力をはらわねばなりません。(シュタイナー「治療教育講義」角川書店/P34-35)

 シュタイナーは、精神(霊)は病気にならないのだから、精神病というのは本来存在しないのだということを言っています。それは、ここで言っている「思考内容」についてもいえることです。

 しかし、いくらパソコンに熟達している人であっても、パソコンのハードが異常であったり、ソフトが異常であったりすれば、その操作は正常にはできなくなります。

 教育者があえてカルマに干渉する勇気をもたなければならないというのはそうしたハードやソフトの異常をカルマだとしてあきらめるのではなく、それを可能な限り正常に修復するよう努力しなけれならないということです。

 先の思考内容が過去に由来するものだということと考えあわせるならば、人間は幾度も転生を繰り返しながら、そして他者との積極的なかかわり合いによって、またカルマにあえて干渉していくような勇気をもって、みずからを形成していかなければらならないということがいえます。

 そこに「自由の哲学」の描き出した重要なテーマがあり、シュタイナーの最晩年に行われたカルマについての連続講義の意味もあるのではないかとも思います。


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