シュタイナーノート<11-20>


11●秘儀としての教育

12●フォルムに生きる

13●カインとアベルの統合へ

14●読むこと自体が修行のはじまり

15●愛の必要条件

16●キリストと日本

17●「私」と「汝」

18●カナの婚礼

19●砂糖と個性

20●愛別離苦から友愛の永遠へ

 

 

11●秘儀としての教育


(1998.1.9)

 

この世においては、人間本性のどの部分がどんな現れ方をしても、その部分に有効な働きを及ぼすことができるのは、人間本性のそれよりも一段高次の部分なのだ、ということです。人間本性のどの部分も、そのような高次の部分を通してのみ有効な発達をとげることができるのです。肉体を発達させるためには、エーテル体の活動が必要であり、エーテル体を発達させるためには、アストラル体の活動が必要であり、アストラル体を発達させるためには、自我の活動が有効な作用を及ぼすのです。そして自我のためには霊我の活動だけが有効な作用を及ぼすことができます。(略)

それでは一体、この法則は何を意味しているのでしょうか。ある子どものエーテル体が何らかの仕方で萎縮してしまっていることがわかったら、皆さんには自分のアストラル体を使って、それが子どものエーテル体によい作用をおよぼせるようにしなければなりません。(略)

教育者のエーテル体は、子どもの肉体に有効な働きかけができるような在り方をしていなければなりません。そしてこのことができるように、教員養成の中で準備されねばなりません。教育者自身のアストラル体は子どものエーテル体に、その自我は子どものアストラル体に有効な働きかけを行うことができなければなりません。その次の段階は、おそらく皆さんにはおそろしいと思われるでしょうが、次は教育者の霊我が問題になるのです。皆さんは自分の霊我はまだ発達していないと確信していらっしゃるでしょうけれども、それが子どもの自我に有効な働きかけをしなければならないのです。それが原則です。そして理想的な教育者の場合ではなく、しばしばもっともひどい教育者の場合には、そして当の教育者自身がそれを全然意識していなくても、教育者の霊我が実際に子どもの自我に有効な働きかけをしているのです。このように教育実践は一連の秘儀として存在しているのです。

(シュタイナー「治療教育講義」角川書店/P37-39)

「人間本性の・・・の部分に有効な働きを及ぼすことができるのは、人間本性のそれよりも一段高次の部分」であるというのは、とても重要なことだと思います。

荒れたアストラル体で対するとそのアストラル体によって相手のエーテル体を荒れたものにしてしまいます。荒れたエーテル体で対するとそのエーテル体によって相手の肉体を荒れたものにしてしまいます。

もちろん、それは、自分自身についてもいえることだと思います。いつも荒れ狂っている人は、健康を害しがちですし、それでどこかの機能障害に陥る可能性は高いのだといえますし、その人のまわりにいるひとも同じような影響を受けてしまいます。

また、単純に考えてみただけでも、人が感情的になっているときに、その人に対して同じ感情のレベルで対応しても火に油を注ぐだけの結果になってしまいます。だからといって、表面的な意味だけでその感情を導こうとしてもともすればそれはたんなる偽善になってしまうわけです。真の意味で、相手の感情に高次の意味で働きかけなければ、その感情を「教え育てる」ことなどできるはずもありません。

 教育者、教え育てる人であるということは、自分の何が人の何を教え育てるのかということを知らなければ、それは自己満足に終わってしまいますし、自分がどんな影響を与えているのかを真に知ることなく、教育のための教育というような自己撞着に陥ってしまうことになります。

 しかし、シュタイナーの教育に関するものを読めば読むほど、教育者がいかに総合的にすぐれた存在でなければならないかということの前で、はたしてそんな人が存在できるのだろうか、などと思ってしまいます。そしてどう転んでもぼくはやはり教育者とは無縁だなとか思うわけです^^;。

 それはともかく、ここで重要なのは、「人間本性の・・・の部分に有効な働きを及ぼすことができるのは、人間本性のそれよりも一段高次の部分」である、ということで、そのことを自分自身の問題としても、ひとへの影響の問題としても、そのことにできるだけ意識的になる必要があるということだけはここで確認しておきたいと思います。

 

 

 

12●フォルムに生きる


(1998.1.9)

 

《自己》、《私たちの自己》という単なる言葉の表現によっては人間はまだ特に多くのことを考えることはできない、ということは否定できません。《自我》という言葉、あるいは《自己》という言葉が語られるとき、十分意識された表象が魂の中に蘇生するようになるまでには人類史においてまだ多くの時代が経過しなければならないでしょう。しかしフォルムにおいては自己が、そして自我が感じられるのです。しかも純粋に数学的なフォルムを知ることからフォルムを感ずることへと移行するならば、私たちは完全な円の中にいつも自我を、自己を感ずるでしょう。円を感ずるとは自己を感ずることです。平面に円を感じ、空間に球を感ずることは、自己を感じ、自我を感ずることなのです。このことがはっきりすれば、皆さんは次のことをも容易に理解されるでしょう。つまり真に生き生きと感ずる人間は、円に向かい合うときに自分の魂の中に、自我の感情、自己の感情が浮かぶのを感じ、その結果円や円の一部、あるいは球の表面のある部分を見ながら、それらは《自分を自立的に感ずる》ように指示していると感ずるのです。人間がそのように感ずるとき、彼はフォルムに生きることを学びます。そしてフォルムに生きることができるということが、いわば生きた感情の特徴なのです。さて、このことを考慮に入れるならば、皆さんは容易に先へと進むことができるでしょう。

(シュタイナー「新しい建築様式への道」相模書房/P126-129)

 「円を感ずるとは自己を感ずること」であるというのはまさに、「円相」のことにほかならないように思います。そして「円相」というとやはり禅の十牛図です。それは、自己のあり方を辿り自覚するためのプロセスであり、そしてそれがかぎりない曼荼羅になっているのだともいえます。

 十牛図の「牛」とは、「本来の自己」、「真の自己」のことです。簡単にこのプロセスを追ってみましょう。

 十牛図の第一は「尋牛」。見失った牛を尋ねる牧人(若い青年)がいます。

 十牛図の第二は「見跡」。道の上に牛の足跡を見つけます。

 十牛図の第三は「見牛」。牛を見ます。

 十牛図の第四は「得牛」。牛を捕まえます。

 十牛図の第五は「牧牛」。牛を牧します。

 十牛図の第六は「帰牛帰家」。牛に乗って家に帰ります。

 これで終わりかというと決してそうではありません。

 十牛図の第七は「忘牛存人」。牛を忘れて人が存在する。あれほど追い求めていた牛が忘れられるということは、牛と人というような分裂はなくなっているということです。

 十牛図の第八は「人牛倶忘」。さらに、人も牛もともに忘れられます。それまでの歩みがここで「大いなる死」を迎えます。この図の円のなかはまったくの空白です。

 十牛図の第九は「返本還元」。本に返り源に還ります。「死して甦る」ということです。ここには、流れる川のほとりに花咲く木が書かれてあります。「花は自ら紅、水は自ずら茫々」です。

 十牛図の第十は「入店垂手」(「店」は表示されないので仮に示しました)。老人と若者が向かい合って話しています。我と汝の真の姿がここにあります。ここでは、手を垂れて店に街に人との交わりに入っていきます。手を垂れてというのは、人のために尽くすということですが、手でなにかをするというのではなく、交わりのなかにただ存在するということです。

 フォルメンにしても、建築にしても、そうした自己を発見するためのプロセスを体験するためのものだといえるのではないでしょうか。その体験の旅は、まずは自分を捜すというところからはじまります。

 しかし、ほとんどの場合、自分は失われてはいないと思いこんでいますからこの旅ははじまらないのだといえます。旅に出ようとするということは、発心とも回心とでもいえるでしょうか。

 まずは、旅にでること。最初から、人のために自分を捨てて尽くすとかいうのは、その旅を最初から放棄しているということでもあります。

 キリストは本来の「自我」そのものであるということが「ヨハネ福音書講義」では述べられていますが、まさに自我を見出すということこそが重要なことなのです。

 

 

 

13●カインとアベルの統合へ


(1998.1.12)

 

祭司原理の基礎にあるのは、事柄を究明しようとはせず、誰かに与えられたものをそのまま受け取り、その事実に満足しているという態度です。人間の手に及ばぬもの、言葉の真の意味において人間に贈られたもの、それは性生活に由来するものです。そこでの人間は、生産的です。しかし、この生産力は芸術にも、知識にも、人間の能力にも、まったく関係がありません。(略)カインは何を捧げるのでしょうか。彼は、土を耕しながら、みずから働いて得たもの、畑の作物から収穫したものを犠牲に捧げます。彼は人間の技術、知識、叡智を必要としたものを犠牲に捧げます。それは、人間が明確に見通すことのできるものであり、人間が自ら創り出したもの、精神の自由と自覚とを基礎にしたものです。しかし人は、罪を犯すことによってしか、それを達成できません。

すなわち、自然あるいは神的力によって与えられた生命あるものを、カインがアベルを殺したのと同じように、殺すという罪を犯しすことによってしか、そうできないのです。罪を犯すことによって、自由への道に至るのです。あらかじめ世界の中に造り出されているすべてのもの−−人間がせいぜい後から手を加えることのできないもの−−神々が人間に与えたすべてのもの、人間のたゆまぬ努力で創られたのではないもの、それは私たちが支配できない自然界です。植物界、動物界、人間に限って言えば、そのどれをも人間は人工的に創れません。すべての生殖力は、自然によって私たちに与えられました。私たちが生命あるものを自分たちのために利用し、生命あるものから造られた地球環境を私たちの居住地とする限り、アベルが自分たちに与えられた獣を犠牲に捧げたように、私たちも与えられた獣を犠牲に捧げているのです。

(シュタイナー「新しい形式の帝王術」(「神殿伝説と黄金伝説」所収/国書刊行会/P280-281)

 カインのアベル殺しの話は極めて象徴的なことです。アベルの捧げものは神に受け取られましたが、アベルの捧げものは拒絶されてしまいました。そして、カインはアベルを殺します。

 カインの罪によって、人間は自由への道を歩んでいるのだといえます。それは、与えられたものをただ受け入れているアベル的な原理ではなく、いわゆる「人工」のものをつくりだす原理です。

 アベルはなにも創り出しません。カインはさまざまなものを創り出します。そのことは、まさに悪の可能性そのものなのだといえます。そしてその可能性そのものが、自由への可能性になります。

 あるゆるものを自然に還元してしまおうとする傾向があります。近代への反省からそれをプロパガンダする傾向がたくさんみられます。インディアンのある部族やかつてのモンゴルの遊牧民たちは、土地を耕すことを大地への冒涜と考えていました。それはカインの犯す罪と同義なのです。それはきわめてシャーマニスティックなあり方だとも、またアニミズム的なあり方だともいえます。日本でも、最近、森の文明とやらで見直されている「縄文」もそれです。

 人間は、自由を獲得するために、そうしたあり方を殺し続けてきました。そしてその残りのものを、「宗教」へと押し込めてきました。だから、それを「祭司原理」だということもできます。性的なものの管理も強力にそこで行われます。男らしさや女らしさというジェンダーもそこで強力に物語化され、子どもをもった母の強さという物語もそうしたことを背景にして強力にコード化されていきます。

 最近は、シャーマニスニックなあり方や大地性、自然ということが叫ばれ始めていますし、ニューエイジや新興宗教もそれを道具にしてある種の「昔に帰れ」的なプロパガンダを展開しています。

 さて、人間が人間であるためには、カインは罪を犯さねばなりませんでした。それは、神の操り人形としての存在から、自由を獲得した人間への旅でした。その旅がなければ、人間は人間であることの意味を失ってしまいます。アベルは殺されなければならなかったのです。

 しかし、カインは罪を犯しながらも、そして自由への道を歩み続けながらも、その内に、アベルの命を復活させなければなりません。もちろんそれは自由への道を否定するということではなくて、自由からアベルを生きるという道です。自由を否定しないアベル、それが「愛」の道、キリストの道です。そこに、カインとアベルが統合されていきます。悪人正機の道も、そのひとつだといえます。悪の可能性の排除された道は、愛の道ではないのです。

 

 

 

14●読むこと自体が修行のはじまり


(1998.1.14)

 

私はまったく意識的に、「誰でも分かる」表現ではなく、集中した思考を働かせて内容に向かわざるをえないような表現をするように努めた。だから、私の著書は、読むこと自体が、すでに霊的修行のはじまりとなるような性格を示している。実際、このような書物を読むのに必要な、慎重で平静な思考作業こそが、魂の力を強め、霊界への接近を可能にするのである。

(シュタイナー「神秘学概論」高橋巌訳/ちくま学芸文庫/P32「十六版から二十版までの序言」より)

 高橋巌訳の「神秘学概論」が刊行されたので、あらためて神秘学の基本であるこの書から自分なりに気になっているところなどをピックアップしてみたいと思います。

 まずは、最初に刊行されてから15年が経った1925年に書かれた「序言」より。

 「自由の哲学」に関しても、これに似たことが度々述べられています。たとえば、「秘儀の歴史」(西川隆範訳/国書刊行会)の最初にも「思考」の重要性について、次のように述べられています。

『自由の哲学』を正しく読もうとするなら、「思考のなかに生きる」という感情を知らなくてはなりません。『自由の哲学』は、現実から体験されるものであると同時に、現実の思考から発したものです。(略)

内奥の思考体験と宇宙の秘密が結びついているというのが、『自由の哲学』の根幹なのです。ですから『自由の哲学』には、「思考において、人間は宇宙の秘密の一端を把握する」と書かれているのです。つまり、ほんとうに思考を体験すると、自分が宇宙の秘密の外、神的なものの外にいるのではなく、宇宙の秘密のなか、神的なもののなかにいると感じる、といいたいのです。自分のなかで思考を把握すると、自分のなかで神的なものを把握することになるのです。(P10-11)

 シュタイナーの本は、読みにくいと多くのひとはいいます。その読みがたさは、上記の序文のなかの言葉でもわかるように意図されたものでもあります。

 著書だけではなく、講義などにおいても、シュタイナーは、なにかを部分的に、図式的に説明してしまうということを避けて、それが全体として体験できるような語り方をする傾向があります。

 「精神科学と医学」という講義においても、講義の最初にはジグソーパズルのピースのようなものが、ほとんど謎のように語られはじめ、講義が進むにつれて、それぞれのピースの位置づけが次第に理解されるような、そんな語り方をしているのです。

 もちろん、それは単なるピースではなくて、ホロンのようなものですから、講義の後を先に読めば結論が書いてあってわかりやすいというようなものでは決してありません。

 また、シュタイナーがさまざまに示唆した謎のような言葉は、シュタイナーではなく、それ以外のさまざまを理解するほどに、その言葉が生きた思考として展開するようなものでもあります。つまり、シュタイナーだけ読んでいる、人智学だけに入れ込むとでもいうようなあり方ではむしろ世界をせばめてしまうというか、それが生きて働かないということでもあります。

 逆にいえば、人智学だけでは人智学にならない、¥また人智学がもっとも人智学であるためには、できうるかぎりのことを認識していかなければならないということでもあります。

 人は、それぞれ魂の器をもっているのですが、その器は最初から決まった大きさとカタチをもっているのではなくて、魂の力を育てていくことで大きなものにもなりうる可能性をもっています。坂本龍馬が西郷隆盛に会って「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く鐘のような人だ」という喩で評したというのは有名な話ですが、魂の力は小さくしか育てなければそれなりのものが載り、大きく育てれば大きなものを載せることができる、ともいえるでしょうか。

 そういう意味で、「シュタイナーを読む」ということは、魂の足腰を鍛え、それを大きな器にしていくために修行であるということもできます。ですから、受験勉強などの参考書のような「わかりやすいシュタイナー」だとか「やさしくわかるシュタイナー」だとかいうものは、むしろ「シュタイナーを読む」ことから遠ざかってしまうことにもなります。もちろん、それは難解のための難解ということでは決してありません。

 真理はだれにでもわかるやさしい言葉で表現できる、とはよく使われる表現なのですけど、その落とし穴には十分に気をつける必要があります。結果として使われるシンプルな表現は一見してわかりやすいように感じるのですけどそのシンプルさこそが最高の難解さであるのだということに気づかなければならないのです。

 

 

 

15●愛の必要条件


(1998.1.17)

 

一体、愛にとっては何が必要なのでしょうか。或る存在が他の存在を愛するようになるためには、何が必要なのでしょうか。そのためには、その存在がまったき自己意識を持ち、まったく独立していることが必要なのです。もしも愛が他の存在への自由な贈り物でないとしたら、まったき意味においては、愛であるといえません。私の手は私の身体を愛していません。独立し、他の存在から切り離されてるものだけが、他の存在を愛することができます。そのためにこそ、人間は自我存在にならなければならなかったのです。地球が愛の使命を、人間を通して成就させるために、自我は三重の人体の中に移植されねばなりませんでした。ですから、キリスト教エソテリズムの意味において、他の諸能力が、月紀の叡智を含めて、神々の手で送り込まれたように、愛が地球紀に地球に送り込まれるとき、その愛の担い手は、地球紀に形成される自立的な自我でなければならないのです。

(シュタイナー「ヨハネ福音書講義」春秋社/P51-52)

 宗教はreligion、切り離されたものを再び結ぶためのものです。それは、いったい何を結ぶのでしょうか。そして、なぜ切り離されたのでしょうか、いや切り離されなければならなかったのでしょうか。

 子どもは最初母胎のなかで育ち、やがて外界に出ますが、最初親に庇護されて育ちます。その庇護はやがて自立するためのものであり、自立するためには、庇護を切り離す衝動が必要になります。

 自立は再び大いなる宇宙的連関に目覚めるためのものですが、それは母胎に回帰するためのものではありません。

 自己意識をもった個的な存在となること。しかし、個と個が切り離されたまま、ばらばらにならないように、「愛」が必要となります。

 その「愛」は、まずは個を切り離す衝動として現れ、それと同時に、自立した個がまったき自己意識のなかでその宇宙的連関を獲得する衝動が注ぎ込まれなければなりませんでした。

 「自由の哲学」は、その「愛」の基盤を認識させる哲学でもあります。「愛の必要条件」とでもいえるものが、「自由」なのです。キリスト教がなぜ「個」を形成したのかということの答えがここにあります。

 

 

 

16●キリストと日本


(1998.1.17)

 

キリストは自分のことを、自己意識的な自由な人間存在の賦与者であり、その偉大な賦活者である、と名乗らねばなりませんでした。この生きたキリストの教えを簡潔に言い表すとすれば、次のように言えるでしょう。−−地球は人間に完全な自己意識を、「私である」を与えるために存在している。それ以前のすべてはこの自己意識、この「私である」のための準備にすぎなかった。そしてキリストとはすべての人間が、それぞれ個的な存在として、「私である」を感じとることができるための衝動を与える者のことである。

今初めて、地上の人間を圧倒的な力で前方へ押しやる衝動が与えられたのです。このことをキリスト教と旧約の教えとの比較からも明らかにすることができます。旧約の中の人間は、みずからの人格の中に、この「私である」をまだ完全には感じていません。まだ古代の夢意識の名残りをとどめていましたから、みずからを自己であるとは感じないで、今日の動物が集合魂の一分肢であるように、神的存在の一分肢であると感じていました。集合魂から自立した個的な存在になること、それぞれがみずからの内に「私である」を感じる存在になること、それが人間の進歩なのです。そしてキリストは、この自由な「私である」の意識にまで人間をもたらす力なのです。

(シュタイナー「ヨハネ福音書講義」春秋社/P61-62)

 シュタイナーの神秘学の基礎には、「自由の哲学」がああり同時に、キリスト衝動があります。そのことが、特に日本でのシュタイナー受容にはあまりに欠落していたのではないかと思います。

 それは、ニューエイジのなかにまぎれたなかで、シュタイナー受容が行われてきたということも大きく作用しているようです。つまり、ニューエイジの衝動には、アンチ近代という傾向があり、そこでは、どうしても「自我」を罪悪視する傾向がみられるからです。「自我」をエゴと同一視してしまうわけです。

 「自我」は滅するのではなく、成長させていかなければならないものです。最近では、ニューエイジの延長線上にもあるトランスパーソナル心理学でもたとえば、「自我の力動的基盤/人間発達のトランスパーソナル理論」(マイケル・ウォッシュバーン著/雲母書房.1997.10.10)のように自我の成長ということを重要視する動きがでてきていますが、いわば「自我によって自我を超える」とでも表現できるような在り方がもっと探究されなければならないのだと思います。

 さて、旧約と新約の対比でみるならば、旧約は人間における集合魂、集合自我の時代、新約は個の自我の時代だと見ることができます。

 そのことを日本における魂の在り方についても見ていくととても興味深いことがわかります。日本には「個」が育っていないといわれます。もちろん、日本にそのまま西洋近代のタームとでもいえるものをそのままあてはめることでなにかを理解するのではなく、たとえば、日本的霊性について語るときに一部で語られているような「日本は裏ユダヤである」という表現の意味をいわば、旧約的な霊性が封印されているという仕方で理解してみることで、何かが見えてくることもあるのではないでしょうか。

 シュタイナーの神秘学を、西洋だけにしかあてはまらないと見る人もいますしたしかに、そのままでは日本が見えてこないという側面も確かにあるのですがそこには、日本を見るための重要な観点もあることを忘れてはなりませんしそういう観点なしで日本でのシュタイナーの神秘学の意味を考えることは片手落ちになる可能性があります。

 これまでの日本でのシュタイナー受容は、キリストの意味をなおざりにしてきました。けれど、それでは、シュタイナーの神秘学の核の部分が欠落してしまいます。キリストと日本、そのテーマこそがクローズアップされる必要性を感じます。もちろん、そのキリストというのは、いわゆるキリスト教ではありません。

 日本的霊性とでもいわれるもののなかにあるさまざまな潮流。天皇の問題、天神・国神の問題、縄文と弥生の問題などに肉薄していくためにもシュタイナーの神秘学が与えてくれる視点が重要な鍵になるように思うのです。

 

 

 

17●「私」と「汝」


(1998.1.20)

 

言語の中には、その本質上、他のすべての言葉から区別されうるような言葉が、ひとつだけ存在する。それは「私」(自我)という言葉である。他のどんな言葉も、対応する存在に対して、いつでも使うことができる。しかし「私」という言葉をある存在に対して使うことができるのは、この存在がこの言葉を自分に向けるときだけである。外から「私」という言葉が、ある人の耳に、その人の呼び名として聞こえてくることは、決してない。その人だけが、この言葉を自分に向けて使うことができる。「私は、私にとってのみ、一個の 『私』である。すべての他者にとって、私は一個の『汝』である。そしてすべての他者は、私にとって一個の『汝』である」この言葉は、深い 真実を表している。「私」なる本来の存在は、外なる一切から独立している。それゆえ、この言葉は、外にあるどんなものからも、私に向けて用いられることはない。超感覚的直観との関連を、意識的な仕方で保持してきたユダヤ教の立場は、「私」という呼び名を、「神の言い表し難き名前」であると述べている。(略)「人間の内なる神は、魂がみずからを『私』と認識するとき、語り始める」

(シュタイナー「神秘学概論」ちくま学芸文庫/P70-71)

 日本語を少しでも意識的に用いる方であれば、この「私」を意味する言葉が、容易に「汝」を意味する言葉としても使われるということに気づいているのではないでしょうか。「われ」は「私」でもあるのですが、「汝」を呼ぶ言葉としても使われますし、「ぼく」は、「私」でもあると同時に、小さな男の子を呼ぶときにも使われます。

 もちろん、この箇所の少し後でもシュタイナーが述べているように「言葉の使用がどのようにあとになってつけ加えられたかが、事柄の本質の決め手になるのではない。大切なのは、自意識における「私」の真の本性が、「私という言葉よりも古い」ということ」なのですから、たとえ、「私」を意味する言葉と「汝」を意味する言葉が同じ言葉であったとしても、「私」を意味する言葉がたまたまそういう転用のされ方をしたのだということも可能でしょう。

 しかし、おそらくは日本語以外で、「私」を意味する言葉が「汝」を意味する言葉としても使われるようなことというのがそうたくさんあるようには思えません。特に、西洋の言葉で、IやIchが、youやSIe,Duとかの意味でも転用されるというのは、おそらくは理解しがたいことなのではないでしょうか。

 シュタイナーが日本語やこうした用例を知っていたということは考えにくいですし、こうした現象などを切り口として、シュタイナーの神秘学を補完したり、またシュタイナーの語らなかったこと、語り得なかったことなどについて検討していく作業というのは、こうして日本においてシュタイナーの神秘学を受容していく際には、不可欠なのではないかと思われます。

 それは、シュタイナー教育ということが妙なブランド化されかたをしながら、その部分的なかたちだけの受容をされているような現状を考えてみても、どうしても必要な作業なのではないでしょうか。つまり、まずシュタイナーの神秘学の描き出している認識をできるだけ理解すること。そしてその上で、その応用可能性について考えていかないと、この「日本」が持ち得ている特殊性・可能性を検討していくことができなくなるのです。シュタイナーの神秘学の受け売りをすることからはとても貧しいものしか得られませんし、それさえできなければ貧しいものさえ得られなくなってしまうがゆえに、やはり、この「神秘学遊戯暖」という場所においては、たとえば、日本における仏教とシュタイナー、神道とシュタイナーなどをあえて比較検討したりすることによって、何らかの可能性を模索していければと思うのです。

 さて、「私」(自我)ということに戻ります。古代ユダヤにおいて、「自我」が集合的なかたちで民族に注ぎ込まれました。そしてさらに「自我」は、キリスト事件によって、集合的なあり方ではなく、「個」的な顕現をする可能性が注ぎ込まれました。このことをまず確認しておきましょう。

 日本語では、多く「私」という主語が省略されます。また、源氏物語などでもそうですが、ひとつながりの文のなかで主語が容易に変わります。イメージとしていえば、主語的なものではなく場から言葉がでてくるような感じでしょうか。西田幾多郎は「場所」ということを重視し、術語論理というものを示唆しましたが、日本語はある意味では、場の言語だということもできるのかもしれません。だからこそ、「われ」が「汝」の意味にさえ使われてもそう違和感がありません。「われ」も「汝」も同じ「場」において、転換可能になるのです。われの視点を「汝」に転換するというより、「場」のなかからその都度のあらわれとしてでてくるものであるのだから、「われ」が「汝」でもいっこうにかまわないということなのかもしれません。そこに、「世間」とか「人間」というように「間」の存在という観点がでてくるのではないでしょうか。

 古代ユダヤ民族に集合的な自我が「ヤハウェ」ということで注ぎ込まれました。ある意味では、日本でも集合的な自我である「世間」が「神」的な働きをします。「世間様に顔向けができない」ということです。日本では「個」が育たないともいわれますが、そのことも、単にそれを西洋的な自我の視点から見るのではなく、その場による七変化のようなものを見ていく必要がある気がします。ピカソの絵は、一つの平面のなかに多くの視点が同じ存在してキュービズムなどとも呼ばれますが、日本語の発想のなかには、キュービズム的なものなどはるかに超えた、変幻自在な自我を可能にする「間」的なあり方が埋め込まれているのではないでしょうか。

 西欧的な「自我」の発想が「点」からの発想であるのに対して、日本的な「自己」という「場」の発想は「面」の発想だということができるかもしれません。その「違い」にはしっかり眼を向けなければならないでしょう。しかし、「面」の発想が「点」を排除するものであってはならないことは強調しておく必要があります。ある意味では、「点」のない「面」は、主体性のなさ、迎合性を意味するからです。山本七平さんに「空気の研究」というのがありますが、あの「空気」です。

 日本人は、現代において、「点」であることをも要求されています。「面」でありうるという特質を排さないでしかも「点」という次元も持ち得るようにすること。つまり、「私であること」がしっかりと可能であることが必要だということです。でなければ、「自由」ということの意味が欠落してしまうのです。「自らの由」である「私であること」から出発しながら、「生かされている」という「場」である「由」をとらえなおすこと。単に、「場」がそうだからそうする、「そういうものだ」というのではなく、「私であること」の共同としての「場」であるという「自在さ」を失わないこと。

 そういう視点から、シュタイナーの「自我」や「自由」についての視点をとらえなおしてみることは、多くの実りをもたらす可能性を有しているのではないでしょうか。

 

 

 

18●カナの婚礼


(1998.1.24)

 ヨハネ福音書の2.1-には「カナの婚礼」の話があります。まず、この話を「新共同訳」から引用します。 

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。(略)イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言われた。召使いたちは運んで言った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」

 この話は、普通に読めばイエスの単なる奇跡の物語のようにしか読めませんが、シュタイナーの「ヨハネ福音書講義」にはその深い意味が述べられています。ここでもテーマは「愛」であり「自我」なのです。

ここで述べられているのは、或る結婚式のことです。なぜガリラヤで結婚式が行われたのでしょう。それを理解するには、キリストの本来の使命を、もう一度魂の前に呼び起こさなければなりません。キリストの使命は、自我のまったき力、その内的な独立性を人間の魂の中にもたらすことでした。一人ひとりの自我が独立して、完全な自己存在の中でみずからを感じながら、自由なる愛の力を通して、人間が人間と結ばれ合うのでなければなりません。ですから、愛がキリスト原則を通して、地上の使命に加わったのです。愛の使命は、ますます物質的なものを超えて、霊的なものに高まっていかなければなりません。愛は感覚と結びついた、もっとも低次の形態から始まりました。古代では、血の結びつきによって結ばれたもの同士が、互いに愛し合いました。血の結びつきという物質的な基礎に、おそろしくこだわっていたのです。そこにキリストが来ました。そしてこの愛を霊化しました。一方では、愛を血の結びつきから引き離し、他方では、愛に霊的な力と衝動を与えました。旧約の信奉者たちは、集合魂への従属性を、全体自我の中の個別自我の本来の基礎であると考えていました。

(「ヨハネ福音書講義」春秋社/P107)

 このテーマに沿って「カナの婚礼」について見ていくことにします。

 母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言うと、イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と言います。ここでは何が問題なのでしょうか。

 まず、なぜ水をぶどう酒(アルコール)に変えたのか。ぶどう酒(アルコール)は何を意味しているかを理解しなければなりません。

 アルコールは人類進化の過程で、ひとつの大きな使命を持っていました。人体に働きかけて、人格的な「私である」が現れ出るように、神との関係を断ち切らせるのです。人間が以前その中に包まれていた霊界との関係から人間を断ち切らせる働きを、アルコールは持っているのです。(略)集合魂が人類のために果たしたのと正反対の役割を、アルコールが人類のために果たしたのです。(P111)

 もちろん、イエスはアルコールを賛美したわけではありません。イエスには時代にふさわしい使命があるということが問題です。 

イエス・キリストの授ける洗礼は、人間を過去に向けるのではなく、人間の内部の霊性を高めることによって、未来に向けるのです。曇りのない「聖なる霊」を通して、人間の霊性を神性と関連づけるのです。水の洗礼は記憶の洗礼でした。しかし「聖霊」による洗礼は、未来を指し示す預言の洗礼です。水の洗礼はまったく失われてしまったあの関連を思い出させるのですが、その関連が失われたことを、供犠としてのワインが象徴しています。ディオニュソスはバラバラに引き裂かれた神として、一人ひとりの魂の中に入っていきました。ディオニュソスの象徴であるアルコールが人類にもたらされた結果、人間は多くの部分に引き裂かれ、物質の中に投げ込まれました。しかしカナの結婚式においては、偉大な原則が生きています。それは教育的な進化の原則です。たしかに絶対的な真理は存在します。しかしその真理を直ちに人類に提供することはできません。どの時代も特別の在りようを表しており、特別の真理を持っています。(P114)

 水で洗礼(バプテスマ)を授けたのはヨハネです。それは「記憶の洗礼」であり、「人間を過去に向け」るものでした。それに対して、イエスの「聖霊」による洗礼は、未来に向けてのものです。このことは非常に重要なことです。

 高い霊性の見地からすれば、人間が個として稚拙な自我を持っていることは非常な堕落のように見えるのかもしれませんが、そうした低次であるにせよ個別的な「自我」から初めてそこから「自由」の原則によって成長していくことの深い意味をキリスト衝動との関係で深く洞察しなければならないのです。

 なにごとにも時代や場所にふさわしいことが行われる必要があります。いかに正しくてもそれが適切なときとところで作用しなければ、その「正しさ」は破壊的なものになってしまうのです。

 シュタイナーはこう述べています。 

私たちは次の時代を準備するために神智学を学んでいるのです。なぜなら、私たちの時代が存在しなければ、次の時代も存在しないでしょうから。とはいえ、未来のためと称して、現在をごまかしてはなりません。(略)現在始めるのでなければ、来世にその結果を生じさせることはできないでしょう。絶対的な形式をとった真理など存在しないのです。人類進化の各時代に応じて、そのつど真理が認識されます。最高の衝動といえども、生活習慣の中にまで降りていかなければなりません。そして最高の真理も、その時代に理解できるような仕方で、語り示さねばなりません。ですから、キリストは、人類がどのようにしてみずからを神性にまで高めるべきかを、ディオニュソスとの供犠によって、ワインの供犠によって示さなければなりませんでした。(P115-116)

 正しいからといってその正しさをふりかざすことは避けなければなりません。だからといって、その反対に、現在に迎合してしまっては未来を創造することができなくなってしまいます。今なにが必要であるかという観点を忘れてはならないのです。

 かつて正しいこととして実践されてきたものが、現在において正しい方法であるとはいえません。仏教においても、本来そのときどきの在り方に応じた正しさを「中道」ということで表していたのではないかとぼくは理解しています。だから、「八正道」ということにしても、あくまでも「中道」ということが考慮されなければ、教条的な「正」になってしまいます。

 「空」「仮」「中」という三諦円融ということがそのことを明確に示しています。

 「空」、つまり、霊的真実に偏っても、「仮」つまりこの現象世界に偏っても正しい在り方だとはいえない、その弁償法的な統合としての「中」なる道が常にダイナミックに模索されなければならないのだということです。

 通常の唯物論、科学主義に迎合している方はかぎりなくアーリマン的になってしまいますし、それに対する「アンチ」を掲げる人、その多くは精神世界やニューエイジに関心を持つ方でしょうけど、そういう方は容易にルシファー的な在り方に偏ってしまいます。その間でいろいろな偏り方のバリエーションがあって、近代合理主義、唯物論がいけないから自然に回帰せよ!を掲げる新たなかたちの唯物論的な方向性がありますし^^;、スピリチュアリズムのように、霊的なものにアプローチしようとして隠れた唯物論的な観点を持ってしまうような方向性もあります^^;。

 この「中道」については、かなり以前に書いたものではありますが、神秘学遊戯団HPに「中道論」ということで登録してありますので、参考にされればと思います。

 彼は現在の中に立ち、そして同時に未来を示し、そうすることで自分は絶対的な意味においてではなく、文化的、教育的な意味で時代に働きかけている、ということを明らかにするのです。ですから、母親が彼に「彼らはワインがありません」と訴えます。そうすると、彼は答えます。−−私が今成就しなければならないことは、まだ古い時代の「私とあなた」に関連している。なぜなら、私の本来の時代、ワインがふたたび水に戻される時代はまだ来ていないのだから。結局は母の言ったことに従っているのですから、「女よ、私とあなたとどんなかかわりがあろうか」などとイエス・キリストが言うことに、いったいどんな意味があるというのでしょうか。そこに意味があるとしたら、血の結びつきによって人類が現在の状態まで達したこと、そしてアルコールの飲用によって、血の結合から自立するようになった自我の時代が来たことを示唆するために、昔からの習慣に従って「しるし」がなされたこと、つまりワインによって象徴される古い時代をまだ顧慮しなければならないこと、しかし「彼のとき」である後の時代が未来において来るであろうこと、これらのことが理解されなければなりません。(P117-118)

 人類がこれまで辿ってきた道筋を否定するのではなく、その意味を認識することが必要です。かつては「血縁」ということが重要な意味を持っていました。しかし、現在ではその「血の結合」では未来を準備することはできないのです。それは民族紛争などにおいても容易にその問題点が見えてきます。

 また、こうしたテーマに基づいて、西欧の例だけではなく、イスラム世界や東洋、日本などの現代の課題を見据えていかなければなりません。

 イスラムでは、聖職者はいませんしが、通常の生活と宗教観が一体化しています。ですから、「政教分離」ということは非常に困難なことです。また、酒を飲むことなどは禁じられているようです。こうした在り方がなぜ必要とされているのかなどをシュタイナーの神秘学的観点から見ていくことでその課題や意味をも見ることができる可能性が得られるように思います。

 ちなみに、仏教においては基本的に僧侶が酒を飲むことは禁じられていますけど神道においては、神々そのものがまるでギリシアの神々のように酒を飲んで踊っているようなイメージもあります。

 アルコールの扱いひとつにしても、そこからはいろいろな観点を導き出すことができます。そういう意味で、シュタイナーの神秘学の応用が可能になります。

 

 

 

19●砂糖と個性


(1998.1.28)

 

このように、すべては複雑なのです。人生の秘密を極めようとすると、すべては複雑なのです。人智学的な修行をおこなう者は、誤った没我、つまり人格の喪失に陥らないために、ときどき砂糖を摂取する必要があるのです。修行者は砂糖を摂取するにあたって、「道徳的に衰微することなく、高次の本能のなかに確かさ、利己性を与えるものを摂取する」と、思います。昔ながらの砂糖を摂取すると、人間の個性が物質的に高まるのです。砂糖が好きな人は、そうでない人よりも容易に個性を刻印します。砂糖が好きといっても、もちろん健全な限度内です。このことによって、外的に観察できることを理解できます。砂糖の摂取量の少ない国の人々は、砂糖の摂取量の多い国の人々よりも個性がはっきりと現れることが少ないものです。人々が個性を現し、自分というものをはっきりと感じている国では砂糖の消費量が多く、人々が非個性的で、むしろ民族一般のありかたに従っている国では砂糖の消費量が少ないのがわかります。

(シュタイナー「健康と食事」イザラ書房/P146-147)

 まず、なにごとも図式化して単純に理解できるという勘違いは避けなければならないということが前提になります。たとえば、なにかの食品が体によいからといって、それだけをやらたと食べてもむしろバランスをくずすだけですから、何事も全体のバランスを考慮できるだけの繊細な複雑さのもとで認識を深めることが重要であるということです。

 その上で、「砂糖」と「個性」について見ていきましょう。ここでは、「誤った没我、つまり人格の喪失に陥らないため」に適度な砂糖の摂取の必要性が述べられています。もちろん、これは精製された砂糖についての危険性については考慮しておくことが必要だということは常に念頭におかれなければなりません。ですから、ここで「砂糖」というふうに訳されているものを果物など、糖分を多く含んだものまで含めてイメージすることが必要だと思います。

 「民族一般のありかたに従っている国では砂糖の消費量が少ない」ということからわかるように、砂糖の摂取が少ないと、いわば集合魂的なあり方に容易に左右されてしまうことになりますから、個的な自我が働きやすくするために、砂糖が必要になるということだと思います。

 いわゆる「修行」においても、砂糖の摂取を制限することで、自我を集合的な方向に向きやすくするというのは、「自由」という、真の意味での道徳性の基盤を希薄にするということでもあります。

 まったく「利己性」をなくしてしまったところでの「無我」は高次の「無我」ではなく、非常にルシファー的に影響づけられた没我になってしまうのではないかと思うのです。仏教でもいわれる「自利即利他」ということが常に忘れられてはならないのではないかと思います。

 しかし何事も「過ぎたれば及ばざるがごとし」という中庸の美徳を忘れてはなりません。「修行」もまたそれが自己目的になり過度にすぎるとその本来の目的が失われ「過ぎたれば及ばざるがごとし」となります。

 「個」であるための「砂糖」を過度に摂取することで過大なエゴが暴走する可能性を高めるのであってはなりませんし、逆にエゴがいけないからといって、「個」をなくしてしまうならば、そもそもなぜ自分が一個の人間としてここに生きてるのかというその最初の出発点がわからなくなってしまいます。

 「すべては複雑」なのですが、その複雑な繊細なバランスに常に意識的でありたいものです。

 

 

 

20●愛別離苦から友愛の永遠へ


(1998.2.16)

 

物質界において霊的な働きによって織られたものは、霊界においても存在し続ける。この世で深く結ばれ合った友人たちは、霊界においても、その結びつきを継続する。そして人体から離脱したあとは、物質界での生活におけるよりも、はるかに深く結びつく。なぜなら、(略)霊的存在が他の霊的存在に、その存在の内部を通してみずからをあらわすように、霊となった友人同士も、互いに相手の内部を通して結びつきをあらわすからである。そして、二人の間で織られた絆は、次の人生においてもその二人を再び結びつける。それゆえ、言葉の真の意味で、人間は死後においても再会を果たすことができる。

(「神秘学概論」(高橋巌訳/ちくま学芸文庫/P124)

 仏教においては、四苦八苦が説かれ、それらの苦から解放されるために、四諦という4つの真実が説かれます。

 四苦とは、この世に「生」まれてくる苦、生まれ育ち「老」いていく苦、「病」むという苦ととらえ、「死」ぬという苦、の「生老病死」という四苦。さらにそれに、愛する者と別れなければならない苦である愛別離苦、怨み憎む者と会わなければならない苦である怨憎会苦、求めるものが得られない苦である求不得苦、そして、一切は、色(物質的要素)、受(感覚)、想(表象)、行(行為、意志)、識(意識)という五薀であり、それに満たされているという苦である五蘊盛苦を加えた八苦という「四苦八苦」という人間存在の「苦」という真実について仏陀は説きました。

 また、それらの「四苦八苦」から解放されるために、仏陀は、苦諦、集諦、滅諦、道諦という四諦(4つの真実)によって説きました。

 「苦諦」は、四苦八苦という真実を認識するということ、「集諦」は、いかにしてその苦が生じるのかを探究し、解明すること、「滅諦」は、そうした苦を滅するためのニルヴァーナ(涅槃)、解脱で、それを実践するための「道諦」ということが説かれます。その道諦という「道」が、八正道、つまり、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。

 しかし、ここで投げかけなければならない問いがあります。そんな四苦八苦のために人は生まれてくるのだろうか。そして、その苦から逃れるためだけに「道」はあるのだろうか、と。そこに「生」の意味が果たして見出されるのだろうか、と。そうではないはずだ、「生」には積極的な意味が見出されなければなりません。

 その「生」の意味を見出すためのいくつかの視点をこれから何回かに渡って「シュタイナーノート」として書いていきたいと思います。

 今回、とりあげたのは、愛する者と別れなければならない苦である「愛別離苦」についてなのですが、もちろん、この世で愛し合ったもの同士が別れてしまうことはとても悲しいことであって、とくに「死」による別れはなによりも「苦」以外の何者でもないといえます。

 しかし、真に結ばれた絆は、決して消えないということは神秘学ではきわめて当然の認識だといえます。「友愛」ということの真の重要性はそこに見出されなければなりません。

 これは余談になりますが、求愛を断わる女性の言い回しとして「お友達のままでいましょ」というのがあります。これは、「真の友情は永遠に消えないのだ」という意味ではもちろんなく、「あなたは私の恋人には値しないのだけれど、憎まれてはかなわない」という拒絶と保身を意味することが多いと思うのだけれど^^;、そこでの「友だち」「友情」は、愛情未満であるに過ぎません。けれど、真の意味での「友情」、「友愛」は、もっとも深い人間同士の絆を表現する言葉としてこそふさわしいのではないかとぼくとしては個人的に思っていたりします。

 そのように、人は、生前においても、生においても、死後においても、その「友情」「友愛」を機軸としているのだといえますから、「愛別離苦」ということは、基本的にありえない認識です。確かにそのときには苦として感じられるとしても、深い認識と感情においては、それはすでに克服されるどころか、真の絆である限りにおいては、それはさらに深められるものだととらえられます。それを深めるためにこそ、この「生」をいかに生きるかを大切にしなければならないということになります。それは、異性間においても同性間においても同じ事なのだといえます。「一期一会」ということの大切さもこの認識からあらためてとらえてみるといいかもしれません。「去るものは追わず、来るものは拒まず」ということの重要性も。

 しかし、それとセットになっているともいえる怨み憎む者と会わなければならない苦である「怨憎会苦」ということについても考えてみなければなりません。世界には、愛する人ばかりがいるのではなく、嫌な人もいるのですから。それについては、次回に。


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