シュタイナーノート 21-30

1998.2.17-1998.3.28


シュタイナーノート 21●「怨憎会」の変容

シュタイナーノート 22●モルゲンシュテルンの詩

シュタイナーノート 23●ルシファーとアーリマン

シュタイナーノート 24●生きた思考のために

シュタイナーノート 25●求不得苦からの解放

シュタイナーノート 26●自由な精神生活

シュタイナーノート 27●利己主義と愛

シュタイナーノート 28●とらわれのない目

シュタイナーノート 29●自分のなかの子どもを思い出すこと

シュタイナーノート 30●仏陀とキリスト

 

 

シュタイナーノート 21

「怨憎会」の変容


(1998.2.17)

 

その人は、四十歳のとき、怒りのあまりある人物に苦痛を与えた。死後、この人物に与えた苦痛が、自分の自我の進化を妨げるような力となって彼に働きかける。前世のすべての出来事についても、同じことがいえる。

地上に再び生まれてくるとき、進化を妨げる働きが、再び自我の前に立ち現われる。死と共に、一種の思い出の絵画が人間自我の前に立ち現われるように、今、来たるべき人生を見通すようになる。再び人間は、ひとつの絵画を見る。その絵画には、自分が進化を遂げようとするなら、どうしても取り除かなければならないような障害が、すべて示されている。そして人間がそこで見るものこそが、新しい人生に持ち込まねばならない諸経過の起点となるものなのである。自分が他の人物に加えた苦痛の像は、誕生に際して、この苦痛を再び償おうとする力を自我に与える。このようにして、以前の人生が新しい人生を規定する。新しい人生の諸行為は、以前の人生の諸行為によって、特定の仕方で条件づけられている。以前の生き方とのちの生き方とのこの合法則的な関連を、人びとは運命の法則と見なしてきた。東洋の叡智から取った表現を用いて、それを「カルマ」と呼ぶようになった。

(「神秘学概論」(高橋巌訳/ちくま学芸文庫/P122)

 今回は、愛する者と別れなければならない苦である「愛別離苦」に続き、怨み憎む者と会わなければならない苦である「怨憎会苦」について。

 なぜ「怨み憎む者」と会わなければならないのでしょうか。それを問うためには、まずは、なぜその人を怨み憎んでいるのかを問わなければなりません。

 その「なぜ」について答えることはそう難しいことではないでしょう。具体的なあれこれはすぐに浮かんでくるはずです。「私はその人からこういう目にあった、こういう仕打ちに会った」等々。

 しかしさらに問わなければなりません。なぜその人は私にそういうことをしたのでしょうか。その問いを深く深く問わなければなりません。表面的なことではなく、深い深いところにある理由を問わねばならないのです。

 その上で、果たしてその「怨憎会」が、ほんとうに「苦」なのかどうかを問わなければなりません。

 人には「運命」という条件があります。その「条件」をつくりだすのが、自分なのだということを神秘学によって深く学ばなければなりません。そうしなければ、その「条件」に対してただの受け身になってしまいます。その「条件」にただ反発するか(なぜ自分はこんな目にあうんだ)、またはその「条件」に流されてしまうだけになります(それは仕方ないことだから涙を流してじっと耐えよう)。

 その「条件」は自分でつくりだしたのだから、反発しようがあきらめようが、受け身でいるのではなく、「条件」を受けとめながらも、それを新たに創造していかなければなりません。「カルマ」というと、否定的なイメージが強いのですが、それは運命形成の作用−反作用の法則なのだから、その反作用を想定することで、その結果を導く作用を積極的に展開することができるのです。そのためにこそ、神秘学的認識が不可欠になります。仏教的な言葉でいえば、「縁起」を認識することだといえます。「縁」というのは「関係性」ということでもあります。インドラの網とでもいえる宇宙的連関です。その宇宙的連関がどのように起こるのかを認識するということです。

 さて、仏教では「苦」を滅するということがいわれるのですが、それは「滅する」のではなく、認識という契機を通じて、積極的に変容させていくというのが適切なのではないかと思います。

 つまり、ここでいう「怨憎会苦」は、その「怨憎会」の意味を深く追求していくことで、それから何を学べるのかが明らかになります。そのことで、「怨憎会」は単なる「苦」だということはできなくなります。「良薬口に苦し」の「良薬」だということもできるわけです。「良薬」を自分を苦しめるものだとしかとらえられないか、それを「良薬」だとしてありたがくいただけるかの違いがでてきます。

 これで、「愛別離」も「怨憎会」も単純に「苦」だととらえることはできないことがわかりました。次回は、さらに、求めるものが得られない苦である「求不得苦」についても神秘学的な考察を加えていくことにしたいと思います。

 

 

シュタイナーノート 22

モルゲンシュテルンの詩


(1998.2.27)

 

 今日2月27日は、シュタイナーの誕生日。それを記念して、シュタイナーの友人であり、詩人でもあるクリスティアン・モルゲンシュテルンの、「ルドルフ・シュタイナーのために」と題された次のような詩をご紹介することにしたい。

 

FUER RUDOLF STEINER

 

So wie ein Mensch,am trueben Tag,der Sonne

vergisst.-

sie aber strahlt und leuchtet unaufhoerlich,-

so mag man Dein an truebem Tag vergessen,

um wiederum und immer wiederum

erschuettert,ja geblendet zu empfinden,

wie unerschoepflich fort und fort und fort

Dein Sonnengeist

uns dunklen Wandrern strahlt

 

ルドルフ・シュタイナーのために

 

太陽はたえず光を放ち照らしているのに

どんより曇った日に太陽を忘れる人のように

どんより曇った日に人は

あなたを忘れてしまうかもしれないけれど

何度も何度も繰り返し

心ゆさぶられ幻惑されてしまうほどに

疲れも知らずいつもいつもずっと

太陽のようなあなたの精神は

暗くさすらう私たちを照らしてくれる

 

 「あなたは太陽のような人だ」というと半ば冗談のような、大げさな愛の告白のようだけれどシュタイナーのことをSonnengeist(太陽のような精神、太陽霊)と

形容するモルゲンシュテルンの言葉は決して大げさではない

wiederum und immer wiederum(何度も何度も繰り返し)

fort und fort und fort(前へ前へ前へ、たえずたえずたえず)

という太陽の光のような活動こそがシュタイナーの営為だったと思う。

 シュタイナーの講演活動もまさに太陽の光のようだ。シュタイナーは生涯で4941回の講演を行なった。その講演の数を年毎に見てみると次のようになる。

1888: 1 1908: 207

1889: 2 1909: 198

1891: 2 1910: 197

1892: 1 1911: 165

1893: 1 1912: 192

1894: 1 1913: 190

1897: 1 1914: 148

1899: 1 1915: 193

1900: 1 1916: 151

1901: 21 1917: 145

1902: 22 1918: 169

1903: 37 1919: 302

1904: 140 1920: 373

1905: 155 1921: 384

1906: 177 1922: 346

1907: 172 1923: 425

1924: 421

 しかも、夥しい講演回数にも関わらず、あの内容の濃さを思うときに、まさにシュタイナーは太陽のように生きた人だということがモルゲンシュテルンの形容のように実感される。

 シュタイナーは1925年3月30日に没しているが、講演の最後の日付は1924年9月28日となっている。ということは、講演もできないほどの状態になる寸前の9カ月ほどの間に421回もの講演を行なっているのだ。この活動を思うときに、そしてその叫びにも似た講演内容を思うときに自分のあまりの怠惰さを恥じ入ってしまう。

 「暗くさすらう私たちを照らしてくれる」シュタイナーの誕生日をぼくはぼくなりの仕方で、ぼく自身への啓発を込めて祝したいと思う。

 

 

シュタイナーノート 23

ルシファーとアーリマン


(1998.3.1)

 

宇宙進化の中には天使とは別の存在がいます。彼らは、人類を進化の道から逸脱させることに関心を抱いています。これらの存在とは即ちアーリマンとルシファーにほかなりません。(略)

ルシファー存在たちは、人間の自由は意志を妨害するのです。ルシファー存在たちは、人間を善良な存在にするために、人間の自由な意志の実践に関して、迷妄をはびこらせようとします。私がいまお話している観点から見る限り、ルシファーは人間が善や霊的なものに満たされることを望んでいます。しかし、そのために、ルシファーは人間を自由意志を持たない、機械のような存在にしようとするのです。ルシファーの考えによれば、「人間はいわば機械的に、善き原理に従って霊視能力を身につけなくてはならない」ということになります。ルシファー存在たちは、自由意志という悪への可能性を、人間から取り上げようとするのです。ルシファー存在たちは、人間が霊の中から、自由意志を持たない単なる霊的なものの模写として行動することを望んでいます。ルシファーは、人間を機械のようなものにしようとするのです。(略)

ルシファーたちは人間の自由意志を憎んでいます。ルシファー存在たちは高度に霊的に行動しています。しかし、彼らの行動は機械的です。ここが極めて重要な点です。そして、ルシファーたちは、人間を彼らの高みへ、彼らの霊的な高みへと上昇させようとします。彼らは人間を霊的ではあっても、機械のような存在にしようとするのです。このため、一方では、意識魂が完全に機能するようになる前に、人間があまりにも早く霊的な機械のように行動する存在になってしまうと、私が先ほど述べた、将来やってくることになる開示を寝過ごす危険が生 まれるわけです。(略)

アーリマン存在たちは、人間を特別に霊的にしようと努めることはありません。彼らが目指すのは、人間の中の霊性に関する意識を抹殺することです。アーリマンは、「人間とは完全に形成された動物にすぎない」という見解を、人類にもたらそうとします。実際のところ、アーリマンは、唯物論的なダーウィン主義の偉大なる教師なのです。アーリマンはまた、地球進化の中の、あらゆる技術的かつ実践的な活動の偉大なる教師でもあります。このような活動は外面的で、知覚可能な人間生活意外のものを認めようとはしません。このような活動は、食べたり飲んだりしたいという動物的な欲求や、あるいはそれ意外の欲求を洗練された方法で満足させるために、広範な技術を手に入れようとします。人間の中にある「自分は神の似姿である」という意識を抹殺し、曇らせること−−これこそが、現在あらゆる精巧な科学的手段を用いて、アーリマンの霊たちが人間の意識魂にもたらそうとしているものなのです。

(「天使と人間」イザラ書房/P63-66)

 シュタイナーは1917年〜1924年にかけて、高さ9メートルにもおよぶ木彫りの彫刻を製作しました。それが、「人類の典型」と呼ばれるもので、アーリマンとルシファーの中央に人類の典型としてのキリストがいます。

 人間は、ルシファーとアーリマンの影響を受けないわけにはいきませんし、それぞれに人間が進化していくなかで重要な役割をもった存在でもあります。しかし、それぞれに対極的なかたちで人間を誘惑しようとします。ルシファーは、人間を過度に霊的な方向に導こうとし、アーリマンは、人間を過度に唯物的な方向に導こうとします。そのふたつの極としての働きの間で、人間は、この地球進化において「意識魂」を適切なかたちで発達させなければなりません。

 キリストが「人類の典型」として、その両者の間に立っています。

 ルシファーは、悪の可能性を人間に与えることで人間に自由の可能性を与えたといいます。そのことが逆の観点から上記引用では述べられています。ルシファーは、自由の可能性を使って、人間を堕落させようとするのです。

 人間は意識魂を発達させることで、自由を獲得する可能性を得るのですが、意識魂を発達させないまま、霊的な方向に進化しようとするならば、単に機械的に霊視能力を身につけた操り人形になってしまいます。ルシファーは人間が「善や霊的なものに満たされることを望」むというのです。

 霊的なことばかりに関心を持ちすぎている方、いわゆる霊好きの方は、容易にルシファーのこうした誘惑にはまってしまいます。「霊的に進化したい」と望むことが先走りすると容易に「善や霊的なもの」を意識魂的にとらえることがなおざりにされるのです。

 逆にアーリマンは、現代において主流の科学主義、唯物論を植え付けることで、霊的な認識に覆いをかけようとします。たとえ意識魂的な方向性をとりえたとしても、その方向性から霊的な内容がとりさられてしまい、いわゆる「物質的快楽」こそすべてだと思わせてしまいます。目に見えるものだけが真実、この世だけがすべてだから、その中で「生」を享受する以外にないと思いこませるのです。

 ルシファーの誘惑を過度に受けている方は、アーリマン的傾向性を批判し、「善や霊的なもの」を称揚します。アーリマンの誘惑を過度に受けている方は、ルシファー的傾向を批判し、霊的なものを嘲笑します。

 どちらの誘惑に対しても意識的でなければなりません。しかし、ルシファーとアーリマンの影響を去るということは、この現在の生を否定することになります。その双方の働きを受けながら、その中なる道を歩むこと。

 TPOということがいわれますが、どんな影響もTPOを過てば「悪」になりますが、適切なTPOにおいては有効な力となります。宇宙進化というシュタイナーの視点は、その進化における適切なTPOを認識させるものです。その認識がなければ、「善はいつも善なのだ」というような非常に危険なあり方のまえで人間は暗い森をさまようことになるのです。

 そういう意味で、シュタイナーの神秘学は、部分ではなく、その総体としてとらえていく必要があるのだと思うのです。

 

 

シュタイナーノート 24

生きた思考のために


(1998.3.3)

 

彼は生涯、同じことの繰り返しや同じ状態の存続をきらいました。「人智学協会」という彼の運動組織の名称に対しても、「毎週同じ名前に変えたいくらいだ」といっていました。講演も、同一内容の繰り返しになると、内的に嘘になってしまう、という考えから、毎回新しい内容または新しい言い回しを使うことを大切にしていました。

(高橋巌「若きシュタイナーとその時代」平河出版社/P38)

 こうしてMLなどに日々書いていることも、けっこうくどく同じことばかりを繰り返し書いている自分に気づくと自分のなかで何かが腐敗していくような気になることがある。「内的に嘘になってしまう」というのは、たぶんそういうことなのだろう。

 こうして書くことも、つねに一回性の生成のようでありたいと思う。もちろん、それはどんなことについてもいえることだ。なにかの「型」をつくると、人はそれにとらわれがちになる。「型」はある内容を表現するためにその都度自ずと創り出されるものなのに、ともすれば最初に「型」があって、それに合わせてその内容をパターン化して複製してしまうようになりがちなのだ。

 今日は早朝から山に登って来年のスキーのための撮影をしていた。けっこうな重労働で疲労困憊で深夜に帰宅し、やっと先ほど立ち上がって食事ができた状態なのだけれど、車のなかでカメラマンと「なぜこんな辛いことをお互いしてるのだろうか」などということを、話しながら帰ってきた。

 そのカメラマンも昨年、食えないのを承知で独立した方なのだけれど、「やっぱりあまりにパターン化した生き方が耐えられない」らしく、ぼくとしてもなぜ労働条件の悪い仕事を続けているのかといえば、「同じ仕事ばかりをすることに耐えられない」というのがある。もちろんどんな仕事にもパターン化してしまいがちな部分もあり、また同じ作業のように見えても決してパターン化してはいない作業もある。けれど、どんなささいなことのなかにも、なにか最初にある「型」にあまりに強く縛られてしまわないで、その都度の一回性のなかに、自分の生を注ぎ込みたいという気持ちが強くある。

 だから、どうしても「組織」の勝ちすぎた仕事ができないままに、現在のような広告の制作の仕事のようなことしかできないのかなと思っている。しかし、かなりきつくて骨ばかり折れる仕事なのだけれど・・・。

 さて、シュタイナーだが、「人智学協会」という名称も、「毎週同じ名前に変えたいくらいだ」というのはとてもよくわかる気がする。組織というのは、どうしてもその「型」の固定へと向かうからだ。そのことによって、生きた思考は失われ、すべてがルーティーン化していく。そしてそのルーティーン化していくなかで、「権威」を求めていく人々が数多くでてくるのではないだろうか。「権威」を求めている人にとって、「型」が常に変化されては困るのだ。

 講演も「毎回新しい内容または新しい言い回しを使うことを大切に」していたというのも、人はなにごとも生きたあり方をする営為を嫌い、どうしても図式化、固定化してとらえてしまう傾向にあるからだと思う。だから、シュタイナーは図式的な説明になってしまいがちな場合でも、つねに「これを図式的にとらえないでほしい」ということをしつこいくらいに繰り返していたことが講演録からはわかる。しかし、シュタイナーのわかりにくさはまさにそのことにあるのだ。生きた思考をするならば、何事もスタティックにとらえることはできない。常にダイナミックな状態にあるものの一つの状態をとらえてそれを標本にしてしまうならば、それは「嘘」になってしまうからだ。まさに、「内的に嘘になってしまう」のだ。シュタイナーが自分が言ったことを鵜呑みにしないで、自分で考えるようにと繰り返し言っていたのもそういうことなのだ。

 人はともすれば死んだ思考を図式化してそれを理解したと思いこんでしまう。そのことに注意深くなければならない。なにかがいいといえば、それを無条件にいつまでもいいものだと思いこみ、なにかが悪いといえば、それを無条件にいつまでも悪だと思いこむ。そういうあり方は、人智学からはあまりにも遠いのではないかと思う。

 シュタイナーはあの多忙ななかで、常に新刊書などに目を通していたという。そのことを思えば、忙しいなどと言ってはおれないと思い、日々の自分ならではの「一回性」のために、怠けないで^^;、今日考えたことの一端を書き記すことにした。

 

 

シュタイナーノート 25

求不得苦からの解放


(1998.3.6)

 

自我が、霊のためではなく、ただ楽しみだけを味わっていた場合、その楽しみは、死後も願望として存在し続け、むなしくその充足を求め続ける。どこにも水を見つけることができずに砂漠をさまよう人のはげしい渇きに苦しむ様子を考えれば、そのような死者のありさまを、心に思い浮かべることができるであろう。死後もなお、外界の楽しみを追い続け、そしてそれを満足させる器官を持たないときの自我は、そのような状況にある。もちろん、死後の自我の状態を、燃える渇望にたとえるならば、それをこの世のどんな渇きよりも無限に強烈なものと考えなければならない。そしてこの比喩は、どうしても満たすことのできない欲望のすべてについてもあてはまる。

自我の次なる状態は、外界へのこの執着を断ち切ることにある。自我は、みずからの中のこの結びつきを浄化し、そこから解放されなければならない。身体内で生み出された願望、霊界のどこにも市民権のない願望はすべて消滅されなければならない。(略)

感覚世界は、その背後に隠されている霊的なものを開示してもくれるが、自我が感覚的なものの中の霊的なものを楽しむのでないならば、この身体感覚が開示する形式は、決して霊を享受させてはくれない。霊が語る声を聞かずに、感覚世界を求める限り、自我は、この世において真の霊的現実に出会うことがない。感覚的な楽しみは、それが霊の表現であるなら、自我の高揚、進化を意味する。そうでないなら、自我の貧困化、荒廃化しかもたらさない。

単なる感覚的な欲望だけが満足されていると、自我へのその荒廃化する働きは、死後も存在し続ける。ただ生前は、この破壊的な働きが自我の眼には見えてこない。だから人生の中で、そのような欲望を楽しんでいると、また同じ種類の欲望を求めようとする。そして自分で自分を「業火」の火に包み込ませていることに気づかない。死後、すでに生前から自分を包み込んでいるものが何であるかが明らかになる。そして明らかになることを通して、この火が同時に救済をもたらす結果として現われる。

(「神秘学概論」(高橋巌訳/ちくま学芸文庫/P106-108)

 少し間があいてしまったのですが、「21」の続きです。今回は、求めるものが得られない苦である「求不得苦」について。

 人は食べないと生きていけないし、眠らないと生きていけない。そういう、どうしてもそれがなければ生きていけないものを求める欲がないと人は簡単にに死んでしまうし、異性を求める気持ちなどがなくなれば、それを義務化しないかぎり、人類の存続が危ぶまれることになる。だから、「欲」そのものを罪悪視しがちな傾向に対してはその罪悪感から自由にならなければならないと思う。

 しかし、その「欲」が「感覚的な欲望だけ」のものであればあるほど、人は業火に焼かれているのだということを知らなければならない。

 「欲」を火の力であるとすれば、その火の力がなければ、寒さに凍えてしまうことにもなり、食べ物を煮炊きすることもできず、粘土を焼き上げて器にすることなどのこともできなくなる。しかし、火の力があまりに強すぎると、人は焼け死んでしまうし、食べ物はすぐに灰になってしまうし、土器も壊れてしまう。そのように、人は「足ることを知る」という言葉に表現できるような適度な火の力によってこの世でバランスよく生きていくことができる。

 求めるものが得られないことが苦になるということは、その「欲」の炎が強すぎて、そこに精神の力が欠落してくることだ。

 「煩悩即菩提」ということがいわれるように、「煩悩」の力を即「菩提」に変容させることのできるような精神の力が必要とされているということがいえる。

 つまり、精神の力が弱いならば、その欲を制御できる力が乏しいのだから、制御できる範囲で「足ることを知る」必要があり、精神の力が強くなればなるほど、欲を制御できる力も強くなり、その力を使って大きな仕事が可能になるということなのだ。

 しかし、人はすぐにその制御能力、変容能力を過信してしまい、「煩悩」のほうを肥大させてしまうことになる。だから、「求不得苦」が生じてしまうのだ。

 この世を生きているエネルギーを「欲」ということができ、それがなければ人はたくましく生きていくことができない。だから大切なのは、そのエネルギーで何をしようとするかということだ。

 ポストモダンの哲学では、「生」を高らかに謳い、「快楽」を肯定しようとする傾向が強い。もちろん、それを肯定できるだけの精神の力に裏打ちされているならば、それは大いなる可能性を持っていると思うが、ポストモダンの哲学は、基本的に「精神」に否定的である場合が多い。だから、そのポストモダンの結果は自ずと明かだと思う。

 「求不得苦」から自由になる方法としては、生命力を弱めて、生きているか死んでいるかわからないようなかたちで、修行していく方法もあるが、それだと生まれてこなければよかったのではないか、ということになる。しかし、生命力を強め、無制限に快楽的になるならば、それに対応できるだけの精神の力を育てるのは容易なことではない。

 シュタイナーの神秘学は、その生命力と精神の合力を最大のものにするための深い認識を与えてくれるものだといえる。それは、彼岸にあこがれ西方浄土を願って瀕死になる方向性でもなければ、その逆でもない。

 この世に生まれてきた以上、その意味を深く認識しながら、しかも霊的なあり方へも深い洞察を持つこと。それこそが「求不得苦」から自由になる道ではないかと思う。

 

 

シュタイナーノート 26

自由な精神生活


(1998.3.11)

 

 近代人の宗教生活はまったく自由な精神生活と結びついてこそ、人びとの魂を担うにふさわしい力を発達させることができる。

 精神生活を産み出すだけでなく、受け入れることをも、自由な魂は求めている。教師、芸術家等の社会的地位は立法、行政の在り方に左右されているが、これらの人々の職業は精神生活そのものから出て、精神生活から 発する衝動だけに担われているべきである。一方、彼らの仕事の成果を受け入れる人びとも、労働を強制されることから政治国家によって守られ、かつ精神的財の理解を目覚めさせるに十分な余暇をも法律によって保証されていなければならない。その場合にのみ、教師や芸術家たちの仕事に対する感受性を発達させることができる。「実際家」であると自認している人は、このような主張をきくと、次のように考えるだろう。−−「人間というものは余暇があれば、酒を飲んで過ごしてしまう。国家が学校へ行くことを子どもの自由な選択にまかせたら、文盲の状態へ逆戻りするだろう。」

 世界はそのような「実際家」の考える通りだろうか。そういう「悲観論者」には、世界がどうなるか、ただ待っていてもらいたいものだ。この種の悲観論者は、自分が余暇をどう過ごしてきたか、自分の少しばかりの教養」を身につけたとき、何が必要だったかを、貧弱な思い出だけを頼りに振りかえって、このような考え方にいたったのだ。そのような人は、本当に自由な精神生活を社会の中で送ったことがないので、精神の熱のこもった力を考えることができない。その人たちの知っている拘束された精神生活は、熱のこもった力を発揮したことがないのだ。

(シュタイナー「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」高橋巌訳/イザラ書房/P80-81)

 実際、余暇を与えると、パチンコや酒やレジャーやで過ごすことしか考えられない人が多くいる。なぜなのだろうか。そういう人たちの「精神生活」はどこに行ってしまったのだろうか。

 そういう類の精神生活は、おそらくは、学校の管理教育から生み出される。生徒の自主性を尊重するという建て前とは裏腹に、勝手にさせといたら何をするかわからないからということで、ひたすら管理して学校側の責任を回避しようという姿勢だ。そういう場合、教師は、自分自身が、「本当に自由な精神生活を社会の中で送ったことがないので」そういう結論を最善のものだと考えているのかもしれない。「自由な精神生活」を持たない教師が、「自由な精神生活」を持つ可能性を奪っていく。その連鎖が、「自由な精神生活」をますます風化させてゆく。

 「実際家」は、そうした風化の現実を嘆きながら、「勝手にさせといたら何をするかわからないから」なおさら管理を深める。そのなかで育つのは、「自由な精神生活」をもたない従順なロボットと従順でいることができず、すぐに「キレ」してしまう、壊れたロボットだ。エリートというロボットと、落ちこぼれという壊れたロボットが作る社会。ロボットには、「自由」がない、つまり、自らの存在理由がないから、流行やブランド、権威、お金、名声などに寄り掛かっていることで安心を得ようとする。そして逆に壊れたロボットは、そういう社会を批判しそこから逃れて、別の絶対的基準に従って安心を得ようとする。

 人は、自由な時間に耐えられない。「あなたの好きなように時間を使ってください」と言われ途方に暮れた人のためにテーマパークやパチンコやリゾート地が続々と用意されていく。もちろん、コミューンや宗教団体、それからボランティアというブランドも。

 これは笑い話だが、長期休暇の制度を設けたら、2日目からどこに行っていいか居場所をもたない人が仕事ではないのに、お昼になるとお弁当を持って職場に来るという本当にある話を聞いたことがある(つい先日のことだ)。

 近代人の宗教生活はまったく自由な精神生活と結びついてこそ、人びとの魂を担うにふさわしい力を発達させることができる。

 ということは、自由な精神生活がないとしたら、宗教生活は「魂を担うにふさわしい力を発達させることが」できないのだ。そこにカルトが発生する。

 カルトが異常発生してしまうのは、自由な精神生活がないからなのだ。深いところでそれを求めているのだが、自由な精神生活を育てようとしないものだから、そのギャップで、深い闇に落ちていくのだ。官僚の場合も、自由な精神生活がないならば、腐敗が進行する、いや腐敗そのものが信仰されてしまう^^;。

 人は自問してみる必要があるだろう。まったくの自由時間があったとしたら、それをどう使うだろうかと。そして、そこに「熱のこもった力を発揮」できる自由な精神生活があるかどうかと。

 

 

シュタイナーノート 27

利己主義と愛


(1998.3.12)

 

人間が世界と共に生き、共に働くことができるようになるためには、二つの衝動が必要です。そしてこの二つの衝動を生かすには、私たちの心を真実が支配していなければなりません。化粧を落とした、スローガンに歪められていない真実がです。人間の魂の中のこの二つの衝動は、ちょうど磁石の北極と南極のような関係で生きています。この二つとは利己主義と愛のことです。(略)

利己主義を理解するのにまず必要なことは、それが人間の場合、肉体的要求と共に始まっている、ということです。(略)

利己主義の問題は視野を拡げて、人間の心情生活一般に亘る利己的態度の問題として把握しなければなりません。(略)

しかし、人間の利己主義はすべて、他の人たちと共に生き、共に働き、共に協議し合うことによってはじめて存在することができます。利己主義そのものが他の人びととの共同生活、共同活動を求めているのです。ですから、私たちが社会的に他の人たちと一緒に行なう多くの事柄は、まったく利己主義に基づきながら、しかも人間のもっとも高貴な道徳に属すこともできるのです。

(シュタイナー「社会の未来」高橋巌訳/イザラ書房/P232-234)

 宮沢賢治は、有名な「雨ニモマケズ」のなかで、

アラユルコトヲ

ジブンヲカンヂャウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

 ということを記しているが、これは、利己主義を排するということでもあると思う。

 しかし、この世に生まれてきた以上、「ジブンヲカンヂャウニ入レ」ないわけにはいかない。「ジブンヲカンヂャウニ入レ」ないならば、この世に生きている基盤が欠落してしまうからだ。人間は本来霊なのだ、ということが真実だとしても、この世に生きているということは、霊だけで生きているわけではない。

 この身体を無視して生きることはできない。重要なのは、「ジブンヲカンヂャウニ入レ」ないことではなくて、「ジブンヲカンヂャウニ入レ」ながら、その「ジブン」をどのようにあらしめるかということなのだと思う。

 上記の引用で、シュタイナーは、「利己主義」と「愛」という二つの衝動が必要だということを述べているが、「利己主義」をなくしてしまったならば、「愛」も虚しくなるのだ。

 次に、先日目にした沢庵の言葉のなかに、これに類した内容のことがあったので、比較の意味でも紹介することにする。

人間の身体は、総て欲のかたまりだといえます。誰でも欲の強いのはあたりまえのことなのです。(略)

この、すみからすみまで欲で埋まっている我々の身体のなかに、ひたすら無欲で正直な中心がかくれております。(略)

この心を物指しとして、総てのことを行なう場合、行なうことは皆、義にかなうのです。この中正な、まっすぐなものこそ、義の本体、義の本質なのです。(略)

この欲をかりないことには、善にしろ悪にしろ、どんな行動もとれないのです。人が川に落ちているのも見て、さあ引き上げようと思う心があっても、手がなければ引き上げることができません。また反対に、人を深みに突き落としてやろうという心があっても、手がなければ、突き落とすこともできないのです。

そこで、何をするにしても、欲の力をかりることになるのですが、中心のまっすぐな心を物指しとして、その判断によって、行動をすれば、欲が正しい力を発揮することができるのです。

この物指しからはずれない欲を、欲念と呼ばずに義と呼びます。義はすなわち徳です。(略)

欲による意志を無視して、岩か木のようになっては、どんなこともできません。欲の力を借りて、無欲の義にあてはまることをすることこそ、道なのです。

(沢庵「玲瓏集」徳間書店刊・沢庵「不動智神妙録」P110-119/池田諭訳)

 自由はわがままの根源なのだから、自由をなくしてしまえば、あらゆるエゴイズムも破壊もなくなってしまう、という考え方がある。欲は悪の根源なのだから、欲を去ってしまえばいい、というのも同じ考え方だ。

 悟るということは、そうした欲を去ることだと勘違いしている人がいる。そうでなくても、欲が極力生じなくなるような環境をつくって、そのなかで心静かに生きていけば悟りに近いと思いこんでいるようなそんな宗教者は多いのではないかと思う。先日、村上春樹の「ポスト・アンダーグラウンド」のなかで、元オウム真理教の話を読んだが、彼らもそういう発想に近いのではないか。

 自由は、上記の沢庵の言葉を借りるなら「義」を目指すときに「道」となるということができる。しかし、その根源としての「自由」がなければ、どこにも行けない。行くための足を持つことができないのだから。

 人は、悪の可能性を排することによって自由になるのではなく、悪をあえて選ばない自由があるからこそ、「欲」のかたまりであるにもかかわらず、その「欲」を「中」へと導くことによってこそ、「人間が世界と共に生き、共に働くことができるようになる」のだ。

 「煩悩即菩提」というのはそういうことだと思う。その「即」は、「そのまま」という意味ではない。「即」は、変容を意味する。その「即」というのは、変容の関数なのだ。その「即」を学ぶために、人はこの世に生まれてくる。つまり、その「即」という関数こそが「愛」なのだ。

 

 

シュタイナーノート 28

とらわれのない目


(1998.323)

 

とらわれのない目で私の理念界を見ない人は、私の理念体系のなかに矛盾を見出すであろう。私は最近、『十九世紀の世界観と人生観』(1900年)に、偉大な自然科学者エルンスト・ヘッケルのことを書いた。その際、私は彼の思想体系を弁明するような書き方をした。本書では、マイスター・エックハルトからアンゲルス・シレジウスにいたる神秘主義者たちに好意的な書き方をした。そのほかにも、だれかが数え上げた「矛盾」について、ここで語ろうとは思わない。

私は一面では「神秘主義者」であり、他面では「唯物論者」だと見られてもかまわない。(略)

私と同じように、自分自身の道を行く者は、自分についての多くの誤解を甘んじて受けねばならない。しかし、そのような誤解に耐えるのはそれほど困難なことではない。批判者の精神に思いをはせると、そのように誤解されるのは当然のことに思える。(略)

カントをよく「理解」しており、ほかのだれかがカントを読んで、自分と違ったふうに判断するとはまったく考えられないというある人物が、私に与えた忠告はとくに愉快なものだった。彼は、私が彼のように深くカントを理解できるために読むべきカントの著作の章を教えてくれた。(略)

本書のなかで私は、自然科学的世界観の信奉者も、神秘主義の正しい理解に導く魂へと向かう道を探究しうることを示そうとした。さらに進んで、「真の神秘主義の意味において精神を認識した者だけが、自然のなかの事実を完全に理解できる」と、私は言おう。ただ、真の神秘主義を、「奇蹟信仰」に混乱した頭脳と混同すべきではない。いかに神秘主義が迷路に迷い込みうるかは、『自由の哲学』第八章「人生の諸要因」に書いた。

(「神秘主義と現代の世界観」水声社/P15-17)

 シュタイナーは、神秘主義者からは唯物論者であるとの批判を容易に受け、唯物論者からは神秘主義者、オカルティストであるとの批判を容易に受けた。そのように批判されるのは、まさにそれが「容易」だったからだといえる。その「容易さ」は、まさに彼らの「とらわれ」のある「目」ゆえのものだ。

 自分がどういう「とらわれ」のある「目」をもっているかについてまったく無自覚な場合、人は容易に単なる「批判者」となることができる。もちろん、「批判」そのものが問題なのではない。シュタイナーそのものが、大いなる「批判者」でもあったのだから。ただ、その違いは、「理解」そのものの「質」の違いだといえる。そして、その「質」こそが、問題なのだ。自分の魂そのものを見据える「目」をもちえているかどうか。それをもとうとする営為があるかどうか。それが大きな岐路になるのだといえるように思う。

 それは、自分の提示する批判的観点について、それを「パラダイム」であるとすることとは異なっている。

私は一面では「神秘主義者」であり、他面では「唯物論者」だと見られてもかまわない。

 というのは、シュタイナーがどちらのパラダイムも持ち得ているということを主張しようとしているのではない。そうであるだけならば、シュタイナーは単なる相対論的な日和見主義者になる。実際、おそらくはシュタイナーはそういう批判を多く受けたのではないかと思う。

 ある特定の固定的な立場に支配されている場においては、そうでない立場は批判の矢面に立たされるというのは、世の常であり、シュタイナーのように、まずはそのある特定の固定的な立場をも理解しながら、その上でそれを批判し、また逆の立場をも理解しながら、その上でそれを批判するという姿勢を持っているとどこに行っても結果として、激化した批判をうけないわけにはいかなかったのだ。最初は大いなる自説の理解者であったはずの者が、裏切りに近いかたちで批判者となることに理解を示すことができなかったわけだ。

 そういう意味でシュタイナーのとった道は、かぎりなく困難な道だったといえる。

とらわれのない目で私の理念界を見ない人は、私の理念体系のなかに矛盾を見出すであろう。

 重要なのは、まず自分がどのような「目」をもっているかを自覚するために、シュタイナーの提示した「理念体系」のなかに見出された「矛盾」を、なぜそれが「矛盾」であるように見えるのかを検討することではないだろうか。それはもちろん、シュタイナーの提示した「理念体系」を疑わないことではない。それをみずからが生きてみることによって、それを検証していく態度である。

 シュタイナーは、神秘主義の重要性を提示し、しかもそれを批判する。また、唯物論の意味を提示し、しかしそれを批判する。それは「矛盾」なのではなくて、神秘主義がみずからを超えていく道、唯物論がみずからを超えていく道が示唆されているだ。それが真の意味での「弁証法」なのではないだろうか。

 現代は、科学信仰、唯物論が主流であり、また同時に、その隠された暗部でもある「奇蹟信仰」さえ流行しているといえる。それは別のものではなく、同じものの両面なのだ。オウム真理教と科学という謎やサイババ詣でをする科学者の謎も謎なのではなく、それが同じものの両面であることによって理解できる。

 自然をとらわれのない目でみることができるためには、みずからの魂をとらわれのない目でみることができなければならない。とらわれのない目とは、単なる相対的な目でも、純粋無垢な目でもない。かぎりなく知的な目、知恵ある無知の目であり、みずからの魂に自覚的であろうとする困難な目である。

 その困難な道を歩むために、シュタイナーが提示してくれた遺産は大きい。

 

 

シュタイナーノート 29

自分のなかの子どもを思い出すこと


(1998.3.25)

 

霊学の分野で正しい判断を下そうとする人が、現代を、その霊的作用も含めて、十分深く観察することができるならば、進化の完成段階と並んで、ちょうど五十歳の人と並んで一歳の幼児がいるのと同じように、過去の進化の諸状態も存在し続けていることを、洞察するであろう。現代の地球の出来事の中に、太古の出来事を観て取ることは可能である。(略)

 たしかに地球紀の人間と並んで、土星紀の人間、月紀の人間が五十歳の大人のかたわらの三歳児のように、走り廻ったりはしていない。しかしひとりの地球人の内部に、以前の人間の諸状態が、超感覚的に知覚される。それを認識するためには、われわれの生活に応じた識別能力をもっていさえすればよい。五十歳の人間と並んで三歳の子どもがいるように、生活する目覚めた人間と並んで、死体、眠っている人間、夢を見ている人間が存在する。そして人間存在のこれらの異なる現象形式は、かつての異なる進化紀の状態をそのまま表現してはいなくても、 事実に即した眼は、そのような現象形式の中に、進化の諸段階を観るのである。(「神秘学概論」ちくま学芸文庫/P150-156)

 もちろん、ここで述べられているような超感覚的な知覚が容易に可能だとは思わない。けれど、ここで「五十歳の大人のかたわらの三歳児」ということが引合にだされているように、自分が子どもだった頃のことはかなり思い出すことができる。

 赤ん坊の頃を思い出すのは困難だとしても、三歳児くらいからの記憶は少しずつ辿ることができるし、小学校以降になると、その実感の部分まで含めて次第に鮮明になってくる。

 だから、子どもは「天使のようだ」というのであれば、今の自分も「天使のようだ」ということができる。「天使のよう」になりたいならば、思い出すだけでいい。しかし、「天使のよう」になれないのだとしたら、それは、「天使のよう」でなないのをそう思いこみたいからかそれとも、あまりに忘れっぽいのかどちらかだ。

 少なくともぼくの場合は、思い出せるかぎりにおいて、自分はけっして「天使のよう」なんかではなかった^^;。そして、今の自分と基本的なところでそう変わっているとは思わない。もちろん、思考能力や表現能力などは学習によって成長しているとしても、そしてこうして肉体をもって生きているわけだから、それなりに魂の変容した部分はあるとは思うが、少なくとも、自分の子どもの頃を「天使のよう」だとは思えないし、今子どもである存在たちも、「天使」なんかではなく「人間」であるとして見る。そしてそれは否定的な見方ではなく、「人間」であるということこそが、大きな可能性なのだと思っている。

 さて、神秘学に限らず、自分が子どもだった頃のことがわからなくなることで、今子どもである存在のことがわからなくなるのだと思う。今、子供たちが荒れているという現象をみて途方に暮れるのではなく、なぜそうなっているのかは、自分が今同じ状況で育っているとしたら、自分がどうなるだろうかを可能な限りリアルに思い描いてみることから始めなければならないのではないかと思う。それをしないで、子どものことを考えることはできないのではないか。

 逆に、こうして肉体をもって生きている現世においては、通常の場合、これから自分がどうなっていくのかはよくわからないところがある。だから、子どもは基本的に「自分を思い出す」という作業ではなく、なんらか自分がこれからどうしていけばいいのかというガイドを自分の外に見つけていかなければならない。それがシュタイナーのいう「権威」の必要性ということになる。その「権威」が多くのたてまえによって飾りたてられ、その実、たてまえとは逆の外的な規則にがんじがらめにさせられているような場合、子どもの魂は実際のところどうしていいのかわからなくなってしまう。

 自分の子どもの頃を思い出してみると、ぼくの場合も実際のところどうしていいのかわからないままに育ってきた。今ほど学校が荒れていなかったとしても、先生は好きになれなかったし、できれば学校には行きたくなかった。学校の勉強に意味を見出すことはできなかったし、実際つまらなかった。幼稚園は義務でないからと聞いてすぐ通わなくなったが、小学校は「義務教育」だからと聞いて、仕方ないなと思って通った。

 いつも明るく元気ではきはき・・・というような標語にはじっさいのところ辟易していた。なんでそんなふうにしなければならないのかわからなかった。授業中に手を積極的に挙げなさいといわれても、そんな気にはなれなかった。参加して面白いような授業ではなかったし、強要されてするのはいやだった。

 自分が陰湿なイジメにあったことはないが、イジメは日常茶飯事としてあった。イジメに参加することはなかったし、そういうヤツにはなりたくなかったけれど、正義感をふりかざして、イジメを止めるということもなかった。

 思春期になれば、学校では先生を殴る者もいたし、ガラス窓などはけっこうよく割れていた。自分はいわゆる非行とされることはばかばかしくてしなかったが、学校がばかばかしいところだという感覚はずっと持っていたから、学校の行事などに積極的に参加することはまずなかった。

 特によく勉強するでもなく、落第するでもなく、無難な進学校に進んで途中までは、ぼちぼちやっていたが、医者になれば将来いい生活が送れるという幻想がそのうち崩れた^^;。

 ・・・とまあ、三歳くらいからは自分が「子ども」としてどういうふうに感じ育ってきたかを、今の自分のなかにもあるものとして辿ることができる。思春期の危機だとされるものも、自分のそのころの危うさを思い出してみるだけで、そのことがリアルに感じられる。

 しかし、見ていると、多く人は、自分が子どもだったということを忘れてしまっているのではないかとさえ思える。だから、「子どもはこういうのものだよ」と言われて信じ込んだりして、実際のあれこれとそれが違っていたら途方に暮れたりもする。子どもを「天使のようだ」などとちやほやもちあげたりする。「堕天使だ」というならまだしも^^;。

 もちろん、自分を振り返るだけでなんでもわかるわけはないのだけれど、まずは自分のなかに今でもいる「三歳」、「七歳」、「十歳」や「十二歳」「十四歳」などをまず見てみることから始める必要があるのではないだろうか。そうすることで、その自分がある環境にいれば、こんな危険性があり、可能性があるということが見えてくるのではないか。

 

 

シュタイナーノート 30

仏陀とキリスト


(1998.3.28)

 

 仏陀は完全な孤立者の形をとって、悟りを求める。彼は孤独の中へ入っていく。彼が地上の生を繰り返すことによって得たものは、完全に世を捨てた生き方の内に克服されていかねばならず、彼の魂の力の中に、地上の生とその悲惨を彼に知らしめる光が目覚めなければならない。仏陀は孤立せる人間として立ち、悟りの瞬間を待つのである。そして彼が悟りの瞬間に見通すことができたのは、−−彼は自分以外の何者にも依存せずにそれを行なったのだが−−人類の苦しみの根源は、個々の人間が地上への再帰を求めるその欲望の中にあるということであり、個々の人間の中に巣くっている生存への渇望が、破壊的な力として生存に働きかける総ての悲惨の根源であるという事実だったのである。

 この仏陀の悟りと仏教という教えの非常に特異な性格は、これをキリスト教において現われるものと比較しなければ、正しく理解することはできない。(略)

「人間が繰り返し地上の生を生きるわけは、人間に繰り返し地上での存在の意味が注入されなければならないからであり、一回一回の地上での生ごとに地上における存在の新しい意味が人間に与えられるからである。努力が意味を持つのは、孤立した個別の人間の中においてあるのみならず、我々が自らと一体であると感じている全人類の中においてもまた同じである。そして人類史の中心に位置するキリスト衝動は、この霊的太陽を仰ぐことによって、人間がこの関係に目覚めることができることを示しており、「自己を解放せよ」と人間に告げる仏陀に帰依するに留まらず、楽園追放という形で象徴的に示される人間の堕落を修正する行為を行なったキリストと自分との関係に人間が目覚めるに至り得ることを示しているのである。仏教の性格をもっともよく言い表わすことができるのは、これが衰退に向かい始めた一つの世界観の美しい夕焼けであると表現する時であり、この世界観の最後の偉大で力強い輝きが、ゴータマ仏陀によって与えられたとう時である。このように言うことは、決して仏陀に対する我々の尊敬の念を低くするものではない。我々は仏陀を偉大なる霊として尊敬する。この霊は人類に対して人類と原初の智恵との結びつきを正しく意識する情調を、もう一度この地上の生の中へ吹き込んだのであり、その呼び声によって過ぎ去った過去の在り方を示したのである。これに対し我々は、キリスト衝動が力強く未来を指し示し、次第次第に人間の魂の中に浸透すべきものであることを知っている。それは、人間の魂が「解脱ではなく復活である。地上の生の浄化であり、それが地上での存在に初めて正しい意味を与えるものなのだ」ということを理解せんがためなのである。

(「仏陀」/「人智学・神秘主義・仏教」人智学出版社刊・所収P42-55)

 シュタイナーが「仏陀」についてまとまった形で述べたことは少ないが、これはそのなかでもまとまった形で述べられたもので、GA60「存在の偉大な問いに対する精神科学の答え」に収められている。

 別のところでシュタイナーが語っているように、「仏陀は愛の教えを説いたが、キリストは愛を生きたのだ」という表現に象徴されているように、キリストは地上の生そのものを変容させる可能性を我々に与えてくれるのだといえる。

 もちろん、ここでシュタイナーが「仏陀」及び「仏教」としてとらえているものは、その後の仏教とされている展開すべてにはあてはまらない。むしろ、大乗仏教そのものが、「キリスト衝動」を受けた仏教の変容されたかたちだともいえるのだといえる。

 しかし、そうだとしても「仏教」の教えの根本のところにあるものは、「四諦」や「三宝印」で表現されているものであるように思える。だから、「解脱」ということが重要視されてしまうところがあり、そのことによって、「地上での存在に初めて正しい意味を与える」ことを積極的なかたちで展開せしめることを妨げる要因になっているといえる。

 肉体を不浄のものとし、穢れのない浄土を求めるという発想からは、キリストの「復活」の意味はとらえることができない。この地上は牢獄でもなく、肉体は不浄のものではない。地上の生に積極的な意味が見出されなければならない。肉体を持つということ、そして肉体そのものに積極的な意味が見出されなければならない。

 「仏陀は愛の教えを説いたが、キリストは愛を生きた」そのことを深くとらえることなしに、仏陀の叡智の意味も、キリストの愛の意味もとらえることはできない。そのことによって宇宙進化の意味を見出す必要もある。

 我々がこうして生きているということは、単に永遠の世界、悟りの世界へ参入するためではない。そうではなくて、地上生そのものが、創造行為の一プロセスであり、宇宙進化そのものの原動力の一つであるという観点が不可欠になる。その観点がなければ、地上生の意味がとらえられないし、そのためにこそ、キリスト衝動の意味をとらえる必要があるのだといえる。


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