シュタイナーノート 31-40

1998.4.21-1998.7.12


シュタイナーノート 31●魂の力の均衡

シュタイナーノート 32●よりよく生きるための神秘学

シュタイナーノート 33●若きシュタイナー

シュタイナー・ノート 34●自伝

シュタイナーノート 35●手先の訓練〜真の思考へ

シュタイナーノート 36●精神病と心理療法

シュタイナーノート 37●治癒における能動性と非能動性

シュタイナーノート 38●病理学的現象の真の根源への帰還

シュタイナーノート 39●医師たち相互の共同作業の必要性

シュタイナーノート 40●宗教−組織−運動

 

 

シュタイナーノート 31

魂の力の均衡


(1998.4.21)

 

 体験をどのように自分の魂に作用させるかを考えることが、特に重要である。たとえば、自分が尊敬している人に性格上あれこれの欠点のあることが分かったとしよう。その場合、二通りの考え方をすることができる。−−「こんなことが明らかになった以上、もはやこれまでのように尊敬することはできない」、と簡単に言ってしまうこともできる。けれども、次のように考えることも可能である。−−「尊敬する彼にこんな欠点があるのは、どうしてなのだろう。この欠点は、欠点であるだけでなく、ことによると、人格そのもののゆえに、まさに偉大な人格のゆえに、生じたものとは言えないだろうか」

 こう考える人は、自分の寄せた尊敬の念を、欠点に気づいたからといって少しも変えようとはしないだろう。むしろそのような経験をするたびに、何かを学び、人生をより深く理解するであろう。もちろん、このような考え方の結果、何でも許してしまったり、良い面を見ることだけが自分の進歩につながると考えて、どんな欠点にも眼をつぶってしまったりするとすれば、まったく間違ってしまう。そうならないためには、欠点を非難するだけではなく、それを理解しようとする内的衝動をもたなければならない。自分にとって気に入るか気に入らないかには関わりなく、その時の状況の良い面だけを見ていたら、正しい理解には至らない。欠点を断罪することによってではなく、欠点を理解することによってのみ、人は学ぶことができる。しかし理解するばかりで正義感を失っている人も、進歩することはできない。この場合にも、大切なのは、どの方向へ向かうかではなく、魂の力の均衡である。

(シュタイナー「神秘学概論」高橋巌訳/筑摩書房/P375-376)

 

 理解するということは、弁証法的だといえる。知識的な理解の場合には、それは比較的容易だが、体験的な理解の場合には、その弁証法はむずかしい。人を理解するときにも、どうしてもそこには好き嫌いが関わってくるものだから、好きと嫌いのどちらかに偏ってしまって、理解の均衡、つまり統合にはなりにくいということだ。

 同じ体験をしても、人によってその体験がどのように魂に作用するかが大きくことなってしまうのは、その理解の仕方に違いがあるからだ。ある人は、欠点ゆえにその人を憎み、別のある人は同じ人の美点ゆえにその人を愛する。

 しかし、同じ点を欠点とみないで、愛すべき魅力だと感じる場合もまれでなないし、最初は性格上の特性を愛すべきものとして感じていたのに、あるときから、それががまんのならない欠点としてしか感じられなくなったりもする。その変化は、いったいなぜ起こるのだろうか。同じ花をみてきれいだなと感じることが突如として目障りになったりする不思議。

 その変化は、自分の魂の働きの仕方が変化したことであることが多い。式のxに1を代入するに変わりはないとしても、その式が変わってしまったら、まったく異なった解になるようなもの。1×3=3 だけれども、1÷3=1/3 もしくは1×-3=-3 となる。魂の働きは、ある意味ではそうした関数だといえる。関数が変われば結果はどうにでも変化してしまう。けれど、ある一定の関係性を持っている。

 そうした自分の魂の関数について、まずはよく理解することだ。そのことをある意味では、「反省」ということができる。つまり、自分の意識についてふりかえることのできる意識である。人の魂の関数について指摘するのは容易だけれど、自分の魂の関数について指摘するのは難しい。けれど、そのことによって、人は自らの魂についての変容の可能性を持つ。

 感情を制御することができるようになり、感情に流されてそのおもむくままに操られることも少なくなる。そのために大切なのが、「魂の力の均衡」なのだ。

 

 

シュタイナーノート 32

よりよく生きるための神秘学


(1998.5.2)

 

 霊学の認識は、知的な好奇心を満足させるだけではなく、生きる上での強さと確かさを与えてくれる。このことは、霊学の実らせる美しい果実なのだ。この認識が労働の力と人生への信頼とを汲み上げる泉は、つきることがない。一度この泉を見出した人は、そこへ戻るたびに、必ず慰めと力づけを受けとるであろう。

 今述べたことを不健全だと思い、このような認識について何も知ろうとしない人びとがいる。その人びとは、人生を外から、表面的に見ようとする限り、まったく正しい。いわゆる現実が提供するものだけを追究しようとするので、その現実から離れて、一見幻想的・夢幻的な、隠された世界の中に救済を求める態度は、弱さのあらわれであるとしか思えないからである。霊学研究に際して、病的な夢想や現実逃避に陥らないためにも、このような非難の中に含まれる一定の正しさを認めなければならない。なぜなら、この非難は、健全な判断に基づいているのだから。ただ、その判断は、事物の深みの中に入って行かず、その表面に留まっているために、真理の全体ではなく、半分を含んでいるにすぎないのである。

 超感覚的な認識行為が生命を衰弱させ、真の現実から遊離させるように見えるとすれば、たしかにこの非難は、超感覚的な認識行為の根拠を失わせるにたる有効性を持っている。

 しかしこの見解に対して、神秘学が通常の意味での自己弁護をしようとするなら、その態度は正しいとはいえない。神秘学は正しい仕方で学ぶ人の生命力と生活力を高めてくれる、と人々に感じさせることができたときにのみ、みずからの価値を示すことができる。われわれは、神秘学を研究することによって、世間離れした人間になることもなければ、夢想家になることもない。逆に、人間の霊的、魂的な部分がそこから発しているところの、あの生命の根元にわれわれを導き、それによって人間としての生きる力を強めてくれる。

(「神秘学概論」高橋巌訳/筑摩書房/P51-52)

 

 大切なのは、よく生きることだ。もちろん、よく生きることのなかには、死もふくまれている。死なないためのあがきは、よく生きることを意味するものではない。

 人はかならず死ぬ。そのことを離れて生はない。そうである以上、死はよく生きることのためにも必要なのだ。

 そうであるにもかかわらず、人は死を排除した生に執着し、そうでなければ、墓や戒名やらという死の抜け殻に執着する。

 神秘学は、よく生きることのためにある。人間学そのものなのだ。よく生きることのできないものを神秘学と称するとしたら、それは神秘学ではない。

 神秘学はあらゆる学問の総合でもある。しかし、それは知識のための知識ではない。学ぶことが、そのままよく生きることになる学問なのだ。だから、それは常に、自分を変革することを要求する。自分は研究する立場であり、研究される対象から離れてそれを分析しようというような在り方は、神秘学における学問ではない。そもそも通常の学問においても、そういう在り方は既に滅びているはずだが、実状はそうではないらしい。

 神秘学は、今自分のいるところを直視することからはじめる。自分を見つめるのがいやだから、なにかすごいことを探究しているようなそんな気になっているのだとしたら、それは単なる現実逃避にすぎない。

 神秘学は、自己認識のために世界を認識しようとし、世界認識のために自己を認識しようとする。その絶えざる運動によって、成立している。だから、現実から逃避することも、現実と名づけられた妄想に逃避することも神秘学とはかけ離れている。

 よりよく生きるためにはどうすればよいのだろう。そのための指針を、認識的に、かつ実践的に示唆するのが神秘学である。それは死によって終わるものではない。

 それを妄想だと言う者もいるだろう。しかしそう言う方の、認識基盤はどこにあるのだろうか。そしてそれはなんらかの権威から守られた基盤ではないだろうか。その人は、よりよく生き得ているのだろうか。現実から逃避することも、現実へと逃避することもしていないだろうか。

 あらゆる意味でよりよく生きること。神秘学という名を使う必要はないが、ぼくはそういう在り方にアプローチしたいと思う。

 

 

シュタイナーノート 33

若きシュタイナー


(1998.5.8)

 

 シュタイナーが31歳のとき(1982年2月8日)に自分で記したアンケートを高橋巌さんが「若きシュタイナーとその時代」(平河出版社)で次のように紹介しています(抜粋)。

 

・あなたの好きなモットー 神の代わりに自由な人間を!

・あなたの好きな生き方 熟慮することと求愛すること

・あなたの考える幸福 熟慮することと求愛すること

・誰のようでありたいですか 狂気になる前のフリードリヒ・ニーチェ

・どこに住みたいですか どこでもかまいません

・あなたの好きな作家 ニーチェ、ヘーゲル、

エドゥアルト・フォン・ハルトマン

・あなたの好きな作曲家 ベートーベン

・あなたの好きな名前 ラーデグンデ、これは女性が決めることです

(ラーデグンデは当時のシュタイナーの恋人の名前)

・あなたがいちばん許せる欠点 私がそれを理解したらどんな欠点でも

・あなたがもっとも  杓子定規と秩序の感覚

 嫌悪する性質

・あなたのもっとも恐れるもの 几帳面さ

・あなたの好きな食べ物 フランクフルト・ソーセージ

・あなたの好きな飲み物 コニャック、ブラック・コーヒー

・あなたの気質 変わりやすいこと

 

 このアンケートに関連した高橋巌さんのものを上記の書から。

 

このアンケートが書かれてから一世紀近く経った今日、シュタイナーの思想を信奉する人が、もしもこの基本的な自由の感覚を放棄して、酒を飲んではいけない、テレビを見てはいけない、化繊の着物を着てはいけない、自然食以外のものを食べてはいけない、スピーカーを通した音楽はよくない、というような、要するに「いけない」だらけの否定的な発想の中で、多くのタブーの中にがんじがらめになって、上昇志向だけを頼りに生きていくとすれば、何のためにシュタイナーの思想を学ぼうとするのかわからなくなってしまいます。はっきりいってしまえば、人間はどんな環境に生き、どんな食べ物や飲み物をとろうと、本質的には一向かまわないわけです。その結果生じてくるものを自分で背負うつもりさえあれば、何をやってもかまわないという前提の下に、内的により真実の生き方を求めて生きたいと願うのがシュタイナーの生き方です。ですからこの生き方からは、決して他人に対する強制や批判は生じえません。(P9-10)

 とても誤解されやすいことをここで高橋巌さんは書いているのですが、これはもちろん、いいかげんがいいと言っているのではなく、むしろその逆です。外からくる「ああしなさい」「こうしなさい」、逆に「ああしてはいけない」「こうしてはいけない」などを排し、アンケートにもあるように「神の代わりに自由な人間を!」、という自分で自分に責任を負えるような生き方について言っているわけです。

 もちろん、シュタイナーはあるテーマでの講義では、そのテーマに応じて、「いけない」ということを語ることもありましたが、それはそのテーマにおいて必要なことを語っていたのであって、「自由」を放棄していいなりになりなさい、と言っていたのではありません。

 「ああしなさい」「こうしなさい」「ああしてはいけない」「こうしてはいけない」によって人を教え、また人に従う生き方は、結局のところ、「その結果生じてくるものを自分で背負うつもり」がないということなのだと思います。

 さて、上記のシュタイナーのアンケート回答を見られて、「求愛すること」や「ラーデグンデ、これは女性が決めることです」などからシュタイナーの意外な側面に驚かれたかもしれません。若きシュタイナーは、かなりボヘミアン的に生きていて、しかもかなり恋多き生き方をしていたのかもしれませんし、少なくとも宗教的な禁欲などとはほど遠いというのもわかります。

 また、「杓子定規と秩序の感覚」「几帳面さ」を好んでいなかったのもわかります。ま、これはシュタイナーなりのひとつのアンチ表現なのでしょうけど^^;、なんだか外からたがをはめられるような感覚が耐えられないところがあったのでしょう。ここらへんは、ぼく自身もそうですから、けっこう共感できるところでもあります。

 それから、このアンケートでとても気に入っているのが、シュタイナーらしさがよく出ている

・あなたがいちばん許せる欠点「私がそれを理解したらどんな欠点でも」

 というところです。

 シュタイナーは、常に相手を深く深く、相手以上に理解しようとしていました。そしてそれと同時にまったく逆の考え方をしている人にも同様でした。そのことで、シュタイナーはよく誤解されることになりました。

 人は多く、自分の見方(つまり、色眼鏡)を一度決めたら、よほどのことがない限り、それを外そうとはしません。けれど、相手の色眼鏡をかけた状態を知ろうとすれば、自分も色眼鏡をかけた状態にさえなることができなければなりません。そのことは、とても難しいことなのですが、それを試みようとすることを決して忘れてはならないように思います。それはカメレオンのようになればいいというのではなくて、だからこそ、自分なりの自由からの視点をきちんと持たなければならないということなのだということはもちろんです。

 

 

シュタイナー・ノート 34

自伝


(1998.5.8)

 

 私の育成してきた人智学が公に議論される際、私自身の人生の歩みについての指摘や批評が、こうした議論の中に紛れ込む傾向が、しばらく前から現われている。そして私の実人生の歩みを詮索して、私の精神的な歩みに変化が認められるとしたうえで、その原因について、あれこれ憶測しようとする人々がいる。このような傾向を憂慮した私の友人たちは、私が自らの手で私の生涯について語るよう勧めてくれたのである。

 私は、自伝を書くようなことは、自分の柄ではないと告白せざるをえない。というのは、私は自分が言うべきことや為すべきことを、私個人ではなく、問題自体が求めるままに形成しようと絶えず努めていたからである。確かに個人的要素は、多くの分野で人間活動に非常に価値のある色彩を賦与するであろう。しかしこの個人的要素は、自分の個性を観察することによってではなく、話し方や挙措を通して現われ出るべきものであろう。自己観察から生ずる事柄は、せいぜい自分で処理すればよい問題である。したがって、私がこのような記録を書くことに決心したのは、一つには、私の人生と私の行動との関連について述べられている多くの偏見を、客観的な記述によって正す義務があると思うからであり、いま一つには、このような偏見がある以上、私に好意的な人々の勧めにも道理があると思われるからである。

(「シュタイナー自伝I」人智学出版社/P9-10)

 ここに記されているように、シュタイナーの友人たちのおかげで、私たちはこうして、1913年で途切れてはいるものの、シュタイナー自身による自伝を読むことができるわけですし、それによってさまざまなことを本人の言葉を通じて知ることができます。特に、シュタイナーの実際の交友関係や影響関係を知ることによって、理解できる部分も数多くあるように思います。

 しかし、「せいぜい自分で処理すればよい問題」である「個人的要素」を、微に入り細に入り、ほじくり出すようなことを好む傾向が、多くの人に見られます。だからTVのワイドショーや週刊誌のネタがあれほどまでに、下世話できわめて俗悪なノゾキ趣味に満ちているのだと思います。そして、それを逆利用して「ダディー」などという本が売れたりもします^^;。

 現代日本ほどのばかばかしいまでのノゾキ趣味まではいかないのでしょうけど、シュタイナーの生前にも、そういうことに類することはあったのでしょう。だから、それに対してシュタイナーは「多くの偏見を、客観的な記述によって正す義務」からこうして自伝を書いた。

 誰にでも「誤解」というのはつきものだといえますし、多かれ少なかれそういう部分は避けられないと思うのですが、「偏見」というのは、意図的な誹謗中傷に満ちたものとなることが多く、それに対しては、決然と臨まなければならないように思います。だからこそ、比較的消極的な形であれ、「自分の柄ではない」と思いながら、あえて死のまぎわまでこうして書き綴られることになったこの自伝は、個人的な感情の吐露とはほど遠く、その自伝の内容そのものによって、シュタイナー自身が取り組んだ人智学への理解を補完するものともなっています。

 自伝といえば、自分の記念碑とでもいえるようなものとしてライターまで使って自分で進んで書き残そうとする方がいたりしますが、そういう場合の多くは、自画自賛による個人的な感情の吐露になっていて、失笑を買うものとなっているのに、本人だけがそれに気づかなかったりしますね。

 また、研究と称して、限りなく「個人的」な「要素」に属するものを根ほり葉ほり探り、それをテーマに論文が書かれたりするわけですけど、そういうのも、ある意味ではきわめて現代人特有のあり方なのかもしれません。もちろんそれによってその「個人」のミッシングリンクとでもいえるものを見つけることができる場合もあるわけですし、それがある種の「共感」や「反感」をもって受容されることにもなりえるのだとも思うのですが、実際のところ「それがどうした」といえば、それは「それがどうした」以外のなにものでもないわけです。そうしたことが、薬味のようにあることで、料理全体の味付けに重要な要素になることもあるのですが、薬味だけの料理が食べられないように、やはりメインディッシュあってのものだということなのだと思います。

 なんだかテーマが逸れているような気もしますが^^;、現代でも、まったくシュタイナーの著作や講義録などを読んでないような方ほど、なんだか、わけのわからないような批判をしたり、また逆に変な妄想を投影したりもします。ぼくの知っている例でも、このシュタイナーの自伝に書かれていることを、誰かから聞きかじって、さもシュタイナー自身が隠していた、というような論点でシュタイナー批判をしていた方もしたようです。ですから、どんな人の思想に対してであれ、その些末な部分や憶測からではなく、研究するにせよ批判するにせよ、やはりその人の思想や営為そのものに対してのものでなければ、ただただ自分の妄想と戯れているだけという状態になりかねないということは意識しておく必要があるのではないかと思います。しかし、実際、そういう妄想の戯れのほうが、より影響力があったりしますから、困ったことです。

 

 

シュタイナーノート 35

手先の訓練〜真の思考へ


(1998.6.3)

 

 ヴァルドルフ学校の手芸の授業にいらっしゃれば、男の子も女の子と同じように棒針編みをしたり、鉤針編みをしたりしていて、どんなことも男の子も女の子も同じようにしているのをごらんになるでしょう。年長の男の子でも、夢中になって棒針編みをしています。これらはすべて、何も奇をてらっているからではなく、指を器用に、柔軟にしようとするため、魂を指のなかにまで送り込もうとするために行なっていることなのです。魂を指のなかに送り込むと、これは特に歯の形成プロセスと関わるものを促進することにもなるのです。子どもが怠惰なとき、じっと座らせたままにしておくのか、駆け回るように導くのか、また、子どもの手を不器用にさせるのか、手先が器用になるよう助けるのか、ということはどちらでも同じというわけではありません。どうでもよいことではないというのは、その時に怠ったことがすべて、後になって、むろん人によって程度の差はあるにせよ、早期に歯が損なわれるということになって出現するからです。これは個人差はありますが、出現するということは確かです。ですから、こう言うことができるのです、人間のこういう訓練を早期に始めれば始めるほど、こういった側面から歯の破壊プロセスを遅らせる影響を与えることができる、と。歯のプロセスに関連するすべてのことに介入することは非常に困難なので、一見かけ離れたものを考慮する必要性に目を向けなければならないのです。

(シュタイナー「精神科学と医学・第17講」より)

 「頭ではわかっているんだけど」という言葉が良く聞かれますが、これは、「わかった気になりたいけれど、ぜんぜんわかっていない」ということを実際は意味しているように思うことがあります(^^;)。

 要するに、手足で意志できる、身体でわかっている、そういうことでなければ、「わかった」とはいえないのはないのでしょうか。「腹に落としこむ」ということが、必要なのに、言葉のうえで、「そうしたほうがよさそうだ」と思うだけで、「わかってはいるんだけど・・・」という言い訳をするわけです。

 上記の引用箇所で「魂を指のなかに送り込む」というのがありますがまさに、身体においていわば思考できなければ、生きた思考はできないのではないかと思います。

 シュタイナーは、この身体の形成そのものも思考によって行なわれる思考そのものが身体化しているという意味のことを言っていますけど、そうした手足にまで行き届いた思考こそが生きた思考になって、身体を形成していくことになるのではないでしょうか。

 ですから、「頭ではわかっているんだけど」というのは、「頭を使え」といわれて、思考を生きた形でつかうのではなくて、実際に頭を使って釘を打つような馬鹿げたことをしているのと似ているようなことなのかもしれません(^^;)。

 思考するためには、身体知とでもいえるものから形成していなければならないわけです。もちろん、それはスポーツのような、むしろシュタイナーの避けようとした非常にメカニカルなものではなくて、上記の例にもあるような、手芸のようなものや、さらにすすめば、フォルメンやオイリュトミーのようなものによって形成されるのが望ましいのではないかと思われます。

 知的な意味での早期教育が好ましくないというのも、身体のすみずみにまで魂を送り込むことからはじめる必要があるのに、その力を抽象化した「頭」のほうに使ってしまうからなのだと思います。早期教育はむしろそうした身体的なものにこそ求められる必要があるわけです。

 

 

シュタイナーノート 36

精神病と心理療法


(1998.6.8)

 

 現代科学自体が少しばかりまた霊化され、私たちがもはやいわゆる精神病なるものを霊的ー魂的な方法で治療しようとせず、次のような問い、つまり、何らかの精神あるいは心魂の病があるとき、器官のなかでどこが不調なのか、という問いを投げかけようとするような事態となってはじめて、こういう事柄について適切に処理することができるようになるのです。逆に、奇妙に聞こえるかもしれませんが、いわゆる肉体の病気の場合の方が、心魂の病の場合よりもはるかに、心魂的なものに目を向けることでずっと多くの手がかりを得られるのです。心魂の病の場合、心魂に関する所見が、診断上の助けになるという以上の意味をもつことはほとんどありません。観察を通じて、生体組織のどこに欠陥があるのかをそこから探り出すために、心魂上の所見を研究しなければならないのです。古代人たちはこの点に関して、術語の上でもすでに配慮していました。実際、古代人たちが、ヒポコンデリーの魂の病像を、純粋に唯物論的に聞こえる呼び名、つまり「下腹部の骨張り」とか「下腹部の軟骨状態」といった呼び方で、「ヒポコンデリー」(心気症、憂鬱症)に結びつけたのは、故なきことではありません。彼らが、心魂的なもののなかで起こっている事実をもっぱら下腹部の疾患とは別の何かのなかに探求するーーヒポコンデリーが錯乱にまでおよんだ場合ですらーーことは決してなかったでしょう。何はともあれ、いわゆる物質的なものをすべて霊的なものとみなすことのできる状態になる、というところまで行き着かねばならないことは言うまでもありません。

(シュタイナー「精神科学と医学・第17講」より)

 ここでシュタイナーが述べていることはとても興味深い。精神病の治療についてそう詳しいことは知らないのだけれど、おそらくその治療は、唯物論的な意味での薬物治療と心理療法的な治療の二つが主なものなのではないかと思う。

 シュタイナーの提示している観点によれば、いわゆる精神病の治療のためには、心魂的なものを探るよりも、生体組織の欠陥を探らなければならない。

 そして逆に、生体組織の病の原因を見ていく際には、心魂的なものに目を向けていく必要がある。

 こうした観点は一見奇妙なものに思えるかもしれない。つまり、心の病は心の病なのだから、心の治療が必要で、体の病は体の病なのだから、体を治療しなければならない。なのに、心の病を治療するために体を治療し、体の病を治療するために心をほうを見なければならない、というのはまったく逆ではないか、と。

 もしくは、すべては物質なのだから、すべては手術か薬かで治療できるはずだ、ということからくる唯物論的な治療観からの異議。

 おそらくこうした常識的な見方がなされるのは、いわゆる物質は物質であり、心は心である、というような二分法的な観点かまたは、すべてを唯物論的に見る観点ゆえのものだといえる。

 こうした固定した見方から自由になるためには、物質的なものがいかに霊的なものかということに目を向けなければならないと思う。そのことで、物と心を固定的に見る見方から自由にもなれ、対症療法的な錯誤からも自由になることができるように思う。

 非常に誤解されやすい言い方になるけれど、病気という言葉は、気の病だということで、気持ちを変えることが必要だということもいわれ、最近では癌の治療にプラス発想などをとりいれる試みもなされたりしているが、肉体上の疾患が、心魂的なものを見ていくことでその治療のてがかりが見つかるというのはけっこう重要な観点ではないかとも思う。これはよく指摘されていることだけれど、ある心の傾向性が特定の器官の病を起こしやすいということはあるようだから、そうした観点を治療に取り入れることは重要になってくると思う。

 また、近年において増大しているといえるいわゆる精神病を心理療法で治療しようとすることには、慎重でなければならないように思う。ひょっとしたら、食事を変えたりすることのほうが、ずっと大事なことかもしれないのだから。

 この心理療法などについても、ぼくにはあまりわからないことなので、断定的なことはいえないけれど、果たして治療が成立するのかどうか、という疑問は以前から持っていて、いまだに答えのでない問題になっている。もちろん、これまで歴史的に横町の旦那やお坊さんなどのもっていた機能を分担しているところがあるということはいえると思うのだけれど・・・。

 ともあれ、シュタイナーのこうした観点は非常に難しいものなので、今後ともこうしたことについては、注意して見ていきたいと思っている。

 

 

シュタイナーノート 37

治癒における能動性と非能動性


(1998.6.9)

 

 たとえば、私は自分にとって、ーー前に申し上げたことに従えば、こういうことを考慮しておくことも大切なのですーーある食品を避ける必要があり、別の食品をもっと取り入れる必要がある、と考えることができます。私は自分にとってある種の食餌療法が必要であると考えることができるのです。それは私のためにとても良いかもしれません。とは言え、私が自分で試すことによって、自分であれこれのものにたどり着くことによってこの食餌療法に至るのか、単に医師に指示されてそうするのかではいささかならぬ違いがあるのです。どうか、私がこんなふうにそっけない言い方をしても悪くお取りにならないでください。私に良い食餌療法を私自身が本能的に見つけ出して、自分のものにし、医師の指導のもとで身につけたにしてもその際自分でイニシアティヴは発揮した、ということであろうが、単に医師にそれを指図してもらった、ということであろうが、唯物論的な考え方の前では、どちらにしろ同じように役に立つかのように思われるのではないでしょうか。こうした作用の最後の結果、とでも申し上げたいものは、次のようなことに示されます、つまり、医師に指示されてそれに従った食餌療法は、最初のうちこそ私のために役立つでしょうが、残念ながら有害なこともあって、その食餌療法をしなかった場合よりは、高齢になってから痴呆化しやすい、つまり老人性痴呆になりやすいということ、他方、食餌療法に積極的に協力することは、老齢に至るまでーーもちろんこういうことを引き起こすその他の要因も加わってきますがーー私が精神的に活発であり続けることを容易にする、ということです。こうした能動性と非能動性の動きは、あらゆる暗示療法の際にまったく損なわれてしまいます、その場合私は自分の判断を放棄して、他者が指図することを行なうまで依存にしきってしまうのみならず、自分の意志の導きを他者の判断にゆだねることさえしてしまうのです。ですから催眠と暗示に立脚する治療法はできるだけ使わないようにすべきです。ただし次のように言えるとき、つまり、このような処置をされるどんな人にも起こってくるこの意志の阻害が、当の人においては別の根拠から有害ではなく、一定期間暗示的な方法で助ければもっと大きな喜びが示される、と言える場合は、こういうことを適用することもできます。しかしながら、一般的に言って、人間の生体組織の物質作用、大気的作用、運動作用のなかにあるもの、要するに、直接的な霊的作用ではなく、意識からでも無意識からでも、能動的にイニシアティヴをもってその人自身から発してくるにちがいないすべてのなかにあるもの、こういうものの持つ治癒的な働きこそ、精神科学が指摘しなければならない重要なことなのです。

(シュタイナー「精神科学と医学・第17講」より)

 

 同じ結果を得るとしても、そこに至るプロセスによって、一見同じような結果も異なったものとなります。

 それは、ある問題を解こうとして悪戦苦闘した結果、その解を見出すのと、回答集から引き映すか、教えてもらって答えを記すことが、答えの欄での正解ということではまったく同じものだとしても、そこにおいて生み出されるものはまったく異なったものであるということと同じことです。

 こうした例をひけば、その違いは明らかなのですが、治療においては、その違いを認識しがたいのではないかと思います。専門化である医者の言葉に従うことが最良であり、治療される側である患者が勝手な判断をすべきではないという考えから与えられる薬や治療法をそのまま実行することが半ば常識のようになっているということかもしれません。

 しかし、治療に限らず、何かの結果にたどり着くプロセスにみずからが積極的に参加した場合と外からの権威に従ったままロボットのように参加した場合とでは、同じ結果にたどりついたように見えたとしても、そこで得るものは同じだとはいえないでしょう。

 癒しということが最近ではよく話題にのぼることが多くなりましたが、それも、それが能動的に行なわれるのか、そうでないのかによって、その癒しそのものはまったく異なったプロセスと果実を生むことになるように思います。

 上記引用箇所でシュタイナーは、食餌療法を医師に従うままにおこなっただけの場合、高齢になってから痴呆化しやすい、という恐ろしいことを述べています^^;。ようするに、精神における能動性ない療法は、まるで麻薬を使ったかのような結果を副産物として生み出すということでしょうか。

 また、このことは、宗教という問題にも当てはめて考えることができそうです。カール・マルクスは、宗教は阿片である、と言ったそうですが、マルクスの意味するところはあれこれ問題があるとしても、現代そして未来において、信仰のみの宗教ではなく、認識を伴った在り方が必要となってくるということも、麻薬を用いるかそうでないか、という違いがそこにはでてくるのではないかと思います。

 

 

シュタイナーノート 38

病理学的現象の真の根源への帰還


(1998.7.4)

 

 私たちの自然科学的ー医学的研究において、病理学的現象の真の根源への帰還とでも名づけられうるものへと入り込んでいくことがやはり不可欠だと思います。近代においては、本来の根源から目をそらし、表面で起こっている事柄に目を向ける傾向がますますさかんになってまいりました。そしてこのこと、つまり表面に拘泥し続けることと関連して、そもそも今日、一般に通用している医学、一般に通用している病理学の大部分において、何らかの病気のタイプについて読んだり聞いたりすることを始めると、どんな種類の細菌がこの病気を引き起こすのか、このとき何が人間の生体組織に吸収されているのか、ということが教えられます。さて、この下等な生物を引き込むということに対しては、単純な根拠からごく容易に反論できます、つまり、この下等な生物がそこにいる、ということを最初に示す必要はもうないからです。これらの生物がさまざまな疾病に対して特殊な形態をとって現われることも事実なので、この特殊な形態が指摘されて、ある病気の形式とこの特殊なバクテリア形態との関係が明示されれば、それはまたもっともなことです。

 さて、純粋に表面的に観察するだけでも、このように全体を見ることにより、そもそもこういう場合第一義的なものからまったくそれているのだという誤謬が露呈してきます。と申しますのも、よく考えてみてください、何らかの病気の経過において、体のどこかの部分に多数の細菌が現われたとすると、どんな異物でも人体組織に病状を引き起こすように、この細菌が病状を引き起こし、この細菌が存在するためにありとあらゆる炎症が起こってくる、というのは当然です。さて、すべてをこの細菌の働きに帰するなら、もともとこの細菌が行なっていることにしか注意を向けていないということは事実です。この場合、病気の本当の原因からは注意がそれているのです。と申しますのも、生体組織において、下等な生物がその発達に適した土壌を発見するときはいつでも、他ならぬこの適した土壌というものが、本来の第一義的な原因によってすでに作り出されているからです。この第一義的な原因の領域に一度注意を向けてみなければなりません。そのためには皆さんをもう一度あの観察方法に引き戻さなくてはなりません、すでにもうとった方法ではありますが、今一度少し注意を向ける必要があるのです。

(シュタイナー「精神科学と医学」第18講より)

 ウィルスが病気の原因となっている、ということを現代では疑ってみる人は少ないのではないでしょうか。

 確かに、ウィルスが体内で過剰に繁殖することで、人体組織が病気になるということはいえるのでしょうが、そのウィルスにだけ注意をむけ、それを病気の原因とするだけではなく、重要なのは、なぜそのウィルスが過剰に繁殖したのかが問われなければならないのではないでしょうか。

 花粉症にしても、それは杉の花粉で起こるとか、それが排気ガスと相互作用して起こるとかいわれますが、では、花粉症になる人とならない人とが、まったく同じ環境のなかにいて生活しているのか、ということを問う必要があるように思います。

 そうした問いかけは、あまりにあたりまえすぎる問いなのですけど、なぜそれが問題とされることが少ないのか、ということにこそ目を向けてみなければならないのではないのでしょうか。あまりにあたりまえすぎる問いかけから始めること。それは、「病理学的現象の真の根源への帰還」を意味しています。

 まず重要な問いかけは、なぜ病気が生じるような場が、人体組織のなかにつくりだされているのか、ということなのです。

 こうした問いかけは、病理学的現象だけではなく、あらゆる側面において重要なことです。

 たとえば、教育においても、ある子どもがある状態になっていることについてその子どもが、なぜそういう状態が生じるような場をつくりだしているのか、ということこそが、問題にならなければならないでしょう。

 また、たとえば、なぜヒットラーがあの時代のドイツに登場したのか。なぜ、麻原彰晃が現代の日本に登場し、ああした事件を起こしたのか。そのことを問う場合にも、なぜそうした事件が生じるような場が、ある時代のある社会につくりだされたのかをさまざまな観点から見ていかなければならないように思うのです。

 そうした問いかけを続けていくことは、ある現象を、その表面だけで見ていくのではなく、その現象と関係するあらゆる現象に目を向けていくことにほかなりません。

 人は、目の前のあまりにわかりやすい、原因−結果の短絡で何かを理解しようとしすぎるように思います。そうではなく、ある現象の「真の根源へ」と帰還してとらえようとすること。それが、神秘学という営為なのだということができます。

 

 

シュタイナーノート 39

医師たち相互の共同作業の必要性


(1998.7.11)

 

 医師が専門化すると、全体(としての)人間への関心を失います。ここで私は、医師は専門化すべきでない、などと申し上げるつもりは毛頭ありません、時代の経過とともに諸々の技術が現われてきますし、こういう専門化はある程度まで起こってくるからです。けれども、専門化が生じれば、専門化していく医師たち相互の共同作業、社会化もまた、さらにいっそう活発にしていかなければならない、と申し上げたいわけです。

 このことは、ご質問にもあったこと、歯槽膿漏つまり歯茎の化膿のことですが、こういうことを考察するときにも明らかになってくるでしょう。歯槽膿漏が起こる場合はいつも、一部のひとが信じているように単に局部的なものを扱う、ということであってはならず、少なくとも、生体組織全体の素質、それが単に歯の周辺に局所的に現われているだけなのですが、そういう生体組織全体の素質を扱わなくてはなりません。たとえば、この病気の出現に気づいた歯科医が、別の医師が次のような考えに至るよう何らかのしかたで配慮する、ということが慣例になれば、つまり、この化膿が起こっている人物は、おそらく糖尿病の候補者である、と考えてくれるように配慮することがあたりまえになれば、有益なことが非常に多く成し遂げられることでしょう。と申しますのも、もうある程度まで特徴をお話しした、糖尿病のなかに現われてくるものというのは、これが上部人間のなかにとどまっている限りは、本来治療しやすいものだからです、この歯槽膿漏の兆しは治療しやすいのです。下部人間が上部人間に波及することがある、ということ、すると、不都合な貧弱化か肥大が下部人間か上部人間に起こること、このことが考慮されることはめったにありません。炎症状態への傾向がまず上部人間に現われると、ある病気の形式が現われ、炎症状態への傾向が下部人間に現われると、その病気の逆の、対極をなす形式が現われるのです。このことはきわめて重要です。

(シュタイナー「精神科学と医学」第18講より)

 

 「専門化」は、全体としての人間への関心を失わせてしまいます。病院に行くと、それが典型的なかたちでわかります。

 病院では、まず「○○○病」であるという診断が優先され、その病気に応じた専門医のもとで治療が行なわれ、複数の病気のある場合は、その病気ごとに別々に診療されることになるわけです。病気と病気の関連というのは、特別な場合を除いて無視されることになります。誰が考えても、関係がありそうないくつかの症状があったとしても、その専門医にとっては、自分の専門以外の病気は、自分の関わるものではないと思っているとしか思えないほどです。

 そして、それぞれの専門に応じて、診断が行なわれなんらかの病名を名づけます。その名づけるということへのあくなき執念は異常なほどです。しかし、名づけるということは、治療できるということでは必ずしもなく、ある意味では、名づければ、それに応じてメカニカルな処置がなされるだけです。

 上記でシュタイナーも述べているように、専門化するということがいけないというのではなく、専門化すればするほど、「医師たち相互の共同作業、社会化」が必要になってくるということがいえます。

 歯槽膿漏の人は、糖尿病の候補者だとう上記のシュタイナーの事を確かめてみようと思い、先日、ちょうど会社で健康診断がありましたので、折良く(というのも変ですけど)糖尿病として診断された方に以前歯槽膿漏になったことはないかと聞いたところ、なぜ知っているのかと驚いていました。そしてその治療をあまりしなかったということ。医者に聞いたところ、歯槽膿漏と糖尿病は関係ないとのことでした。

 こうしたことは、医師だけではなく、学問の研究者にもいえることで、あまりに専門化が進みすぎると、全体としての人間への関心がなくなってしまうというか、「先生のご専門は?」ということで象徴されるように専門以外には関わらないぞという、責任感があるのかないのかまるでわからないような態度が生み出されてしまうことになります。

 専門家はその分野の権威であるということは確かなのですけど、権威であるということは、逆に専門外にどれだけ開かれているかということが要求されているのだともいえます。人間を全体としてとらえずに、その部分だけを云々して、それ以外のことが見えなくなってしまうということが、もっともっとも問題にされなければならないように思います。

 

 

シュタイナーノート 40

宗教−組織−運動


(1998.7.12)

 

 シュタイナーの晩年なんですけれども、クリステンゲマインシャフト(クリスチャン・コミュニティー)という宗教運動の設立にあたって、助言者の役を果たしました。これは、主にプロテスタント系の牧師および神学生たちがキリスト教をなんとか新しくよみがえらせたいという考えを持っていて、シュタイナーにそういう可能性があるかと話をしに行ったんですけれども、シュタイナーは自分の生涯のテーマはアントロポゾフィーすなわち精神科学であって、宗教ではないというんですね。しかし、もし皆さんが宗教改新運動をしたいというのなら、自分は助言をする用意はある、という話をしました。それで、シュタイナーは彼らと話し合って、新しいミサを作っていきました。ただ、これは私人として助言したのであって、アントロポゾフィー運動とは関係ない、と考えていました。

(西川隆範「アントロポゾフィーと仏教」1991.12.18/日本アントロポゾフィー協会発行/P11-12)

 

 シュタイナーの全集のGA342-346は、上記に説明されているようなキリスト者共同体関連の1921-1924年の講義を集めたものになっています。これは、シュタイナーの全集のなかのGA271以降の個別的な領域についての講義のなかに収められていて、それらは、GA271-292が芸術、建築、GA293-311が教育、GA312-319が医学、GA320-327が、自然科学、農業、GA328-341が社会、GA342-346がキリスト教、GA347-354がゲーテアヌムでの諸講義、という構成になっています。

 で、これらの個別的な領域は、精神科学(霊学)の基礎に立って、応用されたものだということができます。キリスト者共同体とシュタイナーの関係というのはおそらく誤解されやすいところがあるのでしょうけど、やはり、その他の個別領域のなかでも、特に「私人」として「助言」したという姿勢の強いものではないかという気がします。

 シュタイナーの精神科学(霊学)においてはやはり「キリスト」というのは主要テーマのひとつでもありますから、容易に、いわゆる「宗教」がイメージされやすくなりますが、それは、神秘学的な事実としてであって、特定の宗教というかたちでの「信仰」が問題なのではないということがいえるわけです。

 興味深いことに、日本で大本教の祖にもなった出口王仁三郎は自分が中心になってかなりセンセーショナルな宗教運動を展開していながら、「宗教は要らない」というような、一見矛盾した発言をしていたようです。最終的に宗教はなくなっていくが、最後まで残るのは「キリスト教」じゃないか、と。で、出口王仁三郎は自分や自分の興した宗教団体を道具にしながら、日本においてある種の役割を担おうとしたのだといえますが、自分では、どうもあまり宗教団体という在り方が好きではなかったようです。極論をいえば、組織は好きではないが、必要悪でもある、と。

 いわゆるアントロポゾフィー運動というのは、教祖とその教義への信仰をベースとした「宗教」ではなく、その精神科学(霊学)的基礎に立って、あらゆる専門領域への応用をしていくというのがその本来の在り方ではないかと思われるのですが、やはり、「運動」ということのもつ両義的な要素を持たざるを得ません。

 実際は、現在、科学的認識が一般に流布しているようなかたちで、精神科学(霊学)が認識の基礎になっていくならば、それをあえて「組織」して「運動」にしていく必要もないわけですが、精神科学(霊学)の必要性を訴えていくためには、どうしてもそうしたプロセスが必要になるのは確かです。そしてそのプロセスにおいて、現在日本でも、アントロポゾフィー運動が組織としても分裂した派閥的な状態になっているということもその両義的な要素を見ていく必要があります。

 上記に引用した西川隆範さんの最近の傾向として、「アントロポゾフィーと仏教」ということで、「仏教」をあらたな視点から見直そうとされているようですが、おそらく、こういう試みがもっと多様な分野で深められながら、それらが連携していくという在り方が望ましいのではないかと思われます。

 特に、日本というのは、いろんな謎が眠っていて、今それらが浮上してきているようでもありますから、そこらへんのことをしっかり見据えながら、しかも個別科学の領域においても認識を深めていくということによってアントロポゾフィーが、組織化され、党派的になるのではなく、その精神科学(霊学)の重要性が認識されるようになればと思います。

 


 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る