シュタイナーノート 41-50

1998.7.26-1998.10.24


シュタイナー・ノート 41●プロセスを内的に理解する

シュタイナー・ノート 42●二つの世界に橋を架ける

シュタイナー・ノート 43●真・愛・美

シュタイナー・ノート 44●認識の道の重要性

シュタイナー・ノート 45●目的を手段にすること

シュタイナー・ノート 46●大胆さ

シュタイナー・ノート 47●内的な魂の力を強くする行

シュタイナー・ノート 48●自然法則と道徳的現象

シュタイナー・ノート 49●節度のない快楽

シュタイナー・ノート 50●自我

 

 

シュタイナーノート 41

プロセスを内的に理解する


1998.7.26

 

 人類が何百年にもわたって、プロセスを理解するには不適当な「鋭い輪郭の概念」に慣れてしまったことによって、現代は悲しむべき状態にあります。わたしたちに差し迫った、今日必要とされる課題は、「<経済プロセス>に取り組むために、わたしたちの概念を流動的なものにする」ということです。「プロセスを内的に考えることができる柔軟な思考」を、自分のものにしなくてはなりません。

 たしかに、自然科学もプロセスについて考えますが、プロセスを外から見ているのです。それでは、何にもなりません。化学者がプロセスを外から見るように、気球に乗って空高く昇り、そこから<経済プロセス>を見下ろさなくてはならないでしょうか。いいえ、<経済プロセス>の特徴は、「わたしたちがその只中にいる」ということなのです。ですから、わたしたちは<経済プロセス>を内面から見なくてはなりません。<経済プロセス>においては、「わたしたちがレトルトのなかにいるかのように」感じなくてはなりません。

 熱せられ、何かが沸き立ちます。レトルトのなかの存在は、化学者ではありえません。その存在は熱を共有し、ともに沸き立ちます。そのようなことは、化学者にはできません。その熱は、化学者にとって内的なものです。自然科学において、わたしたちはプロセスの外に立ちます。温度が摂氏150度になるとき、化学者はそれを共有できません。<経済プロセス>の場合、わたしたちはどこにいても、内的に共体験します。私たちは<経済プロセス>を、「内的に理解しなくてはならない」のです。(略)

外から観察すると、何が問題なのかがわかりません。中に入ろうとするなら、レトルトを外から見る研究者のように、外から眺めるだけでは不都合なのです。仕立屋が、国民経済的な効果として生じさせる過程の総体を、私たちは内的に表象しなければなりません。

(シュタイナー「シュタイナー経済学講座」筑摩書房/P83-85)

 シュタイナーは、図式的に理解することや概念を固定的なものにすることから自由でなければならないことを常に強調していました。

 図式も固定された概念(定義)も、対象を外的にとらえることしかできません。何かを研究することで、その研究対象に特定の「図式」や「概念」を当てはめ今度は、その自分でつくりだしたか、どこかから借用してきたそれらが、逆にその認識を固定化させてしまいます。つまり、その「図式」や「概念」にあてはまらないものは、そこで切り捨てられてしまうことになります。

 もちろん、良心的な研究者は「図式」や「概念」にあてはまらない可能性を認識していて、常に新たなバージョンの「図式」や「概念」を用意しようとしそれによってより正しい「研究成果」を得ようと努力します。そしてそうした試みは、「研究」としては必要ですし、何かを知的に理解しようとするならば、「研究」ということに関わらず、そうしたアプローチは必要なのだといえます。

 しかし、その知的なアプローチは、常に矛盾を抱えています。どんなに良心的で緻密なアプローチであったとしても、それらは対象を外的にとらえることしかできないからです。それは、体験ではなく、研究でしかないのです。そしてその「一線」を越えてしまうことが「研究者」にはできませんし、それを越えてしまうことは「研究」ではなくなってしまうわけです。

 しかし、そういう「壁」を越えていくこと、矛盾を矛盾として固定してしまうのではなく、自在な思考法を模索することが重要なのではないでしょうか。

 ここでシュタイナーは、「プロセスを内的に考えることができる柔軟な思考」の必要性を強調しています。ここでのテーマは「経済学」なのですけど、そのプロセスも「内的に理解しなくてはならない」のです。「プロセス」とあるように、その理解は、固定的な「図式」や「概念」ではなく常に生きて働いているプロセスでなくてはなりません。ホワイトヘッドの「有機体の哲学」で強調していることともそれに通じたものだといえるのではないかと思います。

 プロセスを内的に理解するということは、そのプロセスを共体験するということと同時に、そのダイナミズムを内から理解しながら、そのプロセスの総体を認識しようとするものでなければなりません。

 それは、内的な理解の主体の認識能力によって大きく左右されますし、常に自分がそこに関わっているわけですから、まずは自分そのものの内的プロセスを問題にしなければなりません。自分を研究対象から引き離したところでそれを云々することはできないのです。「わたしたちがその只中にいる」ということから出発する必要があるわけです。

 シュタイナーの神秘学的なアプローチの難しさは、そうした、これまでは矛盾でしかなかったアプローチを統合し生きたプロセスを総体としてとらえようという姿勢にあるように思います。しかし、その困難さに立ち向かうことなしに、この近代の閉塞状況を打開する道はないのではないかと思うのです。

 

 

 

シュタイナーノート 42

二つの世界に橋を架ける


1998.8.14

 

現代の多くの人びとは、いろいろな種類の倫理的=宗教的な問題を摩天楼の高みにおいて、抽象的に思索することを、「内的に高貴な」態度だと思っている。どうすれば人間は徳を身につけることができるのか、どすれば隣人愛が持てるのか、どすれば「内的生活内容」を豊かに享受できるのか等々について、そのような高貴な態度で思索するのを好んでいる。そして、善、愛、好意、正義、倫理などと呼んでいるものから、日常の外的現実の中で自分をとりまいている資本運営、労働賃金、消費、生産、商品流通、クレジット、銀行、株式などにまで橋を架けることは不可能だと、信じている。

 人びとの思考習慣の中では、二つの世界が平行して、互いに交わらずに存在している。人びとは、一方の世界では、精神的な衝動と日常生活との間に橋を架けようとはしないで、いわば神的=霊的な世界に身を置こうとする。他方の世界の中では、何も考えずに日常生活を送っている。しかし人生は統一的なものだから、倫理的=宗教的な生活からもっとも日常的=世俗的な生活に到るまで、生きる力の働きを下降させるのでなければ、人間は充実した人生を送ることができない。

 実際、この二つの生活領域に橋を架けることを怠れば、宗教的、道徳的な生活に関してだけでなく、社会生活に関しても、日常の本当の現実から離れた、単なる夢想に落ち込んでしまうに決まっている。そうなれば、日常の本当の現実から復讐を受ける。そうなれば、あらゆる種類の理想を得ようと努めれば努めるほど、そのような「良き」「理想」に対立して、日常的な生活要求の基である「本能」に、国民経済によらなければ満足を得られない本能の要求に、「精神」を棄てて身を委ねる結果に終わらざるを得ない。精神性という概念から日常生活の現実に到る道がわからないので、日常生活は高貴な魂をもって霊の高みに留まろうとする倫理的な衝動と無関係の結果をとることになるのである。

 しかしそうなると、日常性が復讐を始める。そして倫理的=宗教的な生活は内的に虚偽の生活になってしまう。気づかぬうちに、日常の実際生活からはかけ離れたものになってしまうのである。(略)

 こんにち必要なのは、精神生活の働きによって、社会有機体を健全化するための基準を見出すことなのである。そのためには、生きる片手間に精神と取り組むだけでは十分とは言えない。大切なのは、日常の在り方そのものが精神的になるということである。

(シュタイナー「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」イザラ書房/P97-99)

 人は分裂した生を生きている。精神生活と日常の実際生活の矛盾を生きている。いや矛盾を矛盾だとさえ思えなくなっている。

 矛盾を矛盾だと気づき、どちらかを否定するか、そのどちらかがどちらかを呑み込んでしまったり、支配下に置いたりする選択をすることもある。

 しかし、生はどちらも否定することはできない。否定したいと思うことはできるだろうし、そのような方向へ走ることもできるかもしれないが、その片方への振幅は必ず逆方向への揺り戻しを伴う。まるで振り子の運動のように。

 上記の引用でシュタイナーは「日常性が復讐を始める」と言っているが、「復讐を始める」という表現は的を得た表現だと思う。日常性を否定しようとすれば、日常性が復讐を始め、精神性を否定しようとすれば、精神性が復讐を始める。そして、その否定が、無自覚で無意識なものであればあるほどその「復讐」は思わぬほどの激しさとなるのではないだろうか。おそらく「復讐」がなされたとしても、当人はそれを「復讐」だと理解することもなく、それに翻弄されていくこともあるように思う。その「復讐」はあらゆる形態をとって現われてくるのだろうから。

 精神生活と日常の実際生活に橋を架けることが必要だ。幻の橋ではなく、現実の橋が。

 形だけの精神生活で代用することはできない。それはただ、神社仏閣でお守りを買い求めれば済むと錯覚するようなもの。幻の精神生活を橋の基礎とすることでは、橋を架けることにはならない。

 逆に、日常の実際生活を疎んながら、橋を架けることもできない。日常の実際生活をマーヤだと思う生は、まさにこの世界そのものを否定するものであるがゆえに、陰で世界を堕落させる力に荷担するものともなりうる。人は、パンのみにて生きているのではないのだけれど、パンの問題に取り組むことを否定することはできないからだ。パンの問題に取り組むことを精神生活とは関係のないものだとすることこそが虚偽なのだということに気づかなければならない。むしろ、パンの問題にこそ、精神を注ぎ込まなければならないのだといえる。

 精神生活と日常の実際生活に橋を架けることの困難さのなかで、その矛盾と見えるなかで、人は生きていかなければならないのかもしれない。どちらかを否定しようとする衝動に身を任せるのは簡単かもしれないが、そこには砂漠しかないということに気づかなければならない。

 

 

 

シュタイナーノート 43

真・愛・美


1998.9.21

 

笠井 愛という言葉はシュタイナーの中ではまだ表現されていない要素だという気がするんです。つまり、未来の課題が愛であって、かつて愛がない時代の代償としては善とか良心とか、あるいはモラルとかがあったわけですけれども、愛というのは決して善とかモラルとかいう言葉で置き換えられない、未来の言葉という気がするんですね。で、そういう意味では真、善、美ではなくて、真、愛、美というイメージなんですね。

高橋 すごく面白いですね。面白いと同時に大変重要だと思います。愛がなぜ善に代わりうるかというと、もし悪に対する一種の緊張関係において善的な人間関係を結ぶとすると、その時、本当に人間の悪に対するかかわりがおそろかになっていくし、そういう地点を通過できないところがどうしても出てくると思うんですよ。善が悪の優位に立ち、悪を差別し、拒絶していくような、善悪二元論が出てきて善は限りなく悪から遠ざかって、ついには、独善的な清らかなものにさえなっていく。

 ところが、愛というのはやはり悪の中に入っていくと思うんですよ。それは善と悪という関係を超えて、なおかつ根源的に成り立っているようなそういうあり方というのは愛しかないという気がするんです。

(「オイリュトミーにおける秘儀と芸術」泰流社刊「オイリュトミー」所収、P104-105)

 真善美ではなく、真愛美。

 真善美の善は、悪を拒絶するが、真愛美の愛は悪を拒絶しない。愛は悪のなかに入っていく。愛とは、善と悪という対立的なものを結合する錬金術だといえる。

 おそらく、真善美の真と美にも同じことがいえるのではないだろうか。真は偽をつくりだしてしまう。美は醜をつくりだしてしまう。愛は、真と偽という対立的なものを結合し美と醜という対立的なものを結合する錬金術でもある。

 真善美が歌われることはとても重要なこと。老子の考え方のように、真は偽をつくりだし美は醜をつくりだしてしまうそうしたあり方を排する「無為」では宇宙は生成しない。やはり、真善美は歌われなければならない。

 けれどそれらがそのままそれらのつくりだす影を排するだけであれば、世界はまっぷたつに分裂してしまう。あえて分けられ、対立的関係にあるものが結合する。そのプロセスが重要だ。

 魂は真善美を求め、同時に影の偽悪醜をつくりだす。真善美を求めれば求めるほど、影は大きくなっていく。やがてその影は真善美をおびやかしはじめる。そしてときにその影を他者に投影してしまう。自分ではなく、他者を偽であり悪であり醜であると糾弾する。糾弾すればするほど、投影された対象は巨大化し、自分をますますおびやかしてゆく。自分の巨大化した影に怯えはじめる。

 光と影の戦いがはじまる。光が強まれば強まるほど影は濃くなっていく。光は、本来光しかないのだ、影など存在しないのだと叫ぶ。しかし、叫べば叫ぶほどに、影は深くその世界を拡大していく。

 愛は光にも影にも入っていく。不思議な錬金術。その不思議な働きが展開していくのを、自分の魂において、そして世界において見ることができるだろうか。時代は、疾駆し、咆吼している。 

 

 

シュタイナーノート 44

認識の道の重要性


1998.9.24

 

笠井 ヨーロッパの場合の人間の身体を見ていきますと、かなり徹底的に硬化の方向を通過しているんですね。つまり、バレエという完全な硬化の芸術なり、あるいは哲学史の流れでいえば、唯物論に至るまでの非常に固い観念論的志向方法を、完全に通過しているからこそ、軟化の方向が生きてくるんですね。日本人の身体というのは、そういう硬さというのを一度も通過していないもんですから、ものすごく問題が大きいと同時に、オイリュトミーの可能性もまた大きい、ということなんです。

 人智学との関連で、オイリュトミー、あるいは芸術の問題を考えますと、どうしても一方においては硬化のプロセス(何もバレエをやったりして硬くするのではなくて)すなわち認識論を、日本人が民族的なレベルで徹底的に通過する必要があると思うんです。それと平行して、軟化の方向の言語形成とか、オイリュトミーとか、人間関係、芸術とかがなされないと、本当の意味でのミカエルの時代の芸術にならない気がするんですね。

高橋 そうですね。日本では、認識ということがなかなか正しく受けとめられないで、認識、あるいは思考の作業をしているくらいだったらね、早く外に出て何か実践的なことをやるべきじゃないかとか。あるいは人智学の中においては思考作業をやりすぎて、そのために社会的な事業がおろそかにされているんではないかという考え方が、すぐ出てくると思うんですね。それはオイリュトミーに関してもきっといえると思うんですね。硬化することの意味といいますかね。その自覚が必要なわけですね。(中略)

笠井 ええ、認識論を通過しないで、人智学の芸術だけをやってしまいますと、日本の民族的なレベルとの関係で大きな欠陥が出るような気がするんです。

高橋 シュタイナーの言う、くる病的な状態。骨が硬化しないで、くる病的になっちゃう。

笠井 ですから、オイリュトミーだけが人智学運動から離れて、独立してしまうということはものすごく危険で、日本の場合は特に危険だと思います。そういう意味で、認識の道、霊学の道と、その実践としての芸術というのをかなりしつこくつないでいく作業を私たちがやっていきませんと、ヨーロッパにはない別の精神病、オカルト的精神病(笑)と言ったらいいんでしょうか、が出てくるような気がするんです。

(「オイリュトミーにおける秘儀と芸術」泰流社刊「オイリュトミー」所収、P126-128)

 とくに日本では、「実践」ということが、短絡的にとらえられがちなところがある。認識や思考といった側面がなくても、走り回っていたり、社会的な側面が強調されたりすればそれが「実践」だというふうに思いこんでしまう。「実践」という言葉で武装し、認識や思考の側面を否定的に見てしまうことさえある。

 認識や思考を通らない「実践」(それは実践とは呼べないのだけれど)はそこに無意識に働いている、たとえば民族的な「元型」といったものにほとんど無自覚なままに深く影響されてしまうことになる。つまり、自分ではそれと気づかないままに「元型」のつくりだしたレールの上を走っていることにもなる。「そういうものだ」ということに疑いもなく、そして「そういうものだ」という意識さえもないままにただ走っていく。

 認識の道、霊学の道は、自分に働いているさまざまな力を制御しながら自覚的なかたちで自分で設計図を書き、それに基づきながらもそれに縛られることなく、柔軟な「実践」へと向かうものだといえる。認識や思考を通らない「実践」は、設計図のないままに建築物を建てようとする無謀さにも似ている。だからそこには、知と行の分裂が起こることも多い。

 認識の道、霊学の道は太古の叡智をそのまま現代にもってくるのではなく、むしろそこから一度は切り離すことが求められる。古代には正しかった方法も、時代が異なり、その適用させる条件が異なればそのままそれを正しいものとして受け入れることはできない。それが適用できるとしても、それらは一度、認識の道、霊学の道というプロセスを通ったものでなければならない。

 人が転生をくり返すとしても、どんな人でも赤ん坊として生まれて、その生まれた環境のなかで育っていく必要があり、それはかつて生まれたことのある環境ではないように、今生きている時代と環境、諸条件ということから離れてかつての霊性をそのまま受け入れることはできない。かつて特定の時代に特定の民族が食べていた食物も時代と民族などが異なれば、その食物がそのままかつてのような働きをしてくれるとはかぎらないように。

 さて、日本におけるシュタイナー受容は、かつてシュタイナーが生きていた時代のヨーロッパとも、また現在のヨーロッパとも異なった諸条件を持っているといえる。その諸条件について、もっと考えていく必要があるといえる。

 先日、高橋巌さんが、日本のシュタイナー教育についてとても興味深いお話をされていた。世界の各地にあるいわゆるシュタイナー学校は、すべてその校長先生などをドイツなどから招いているのに対して、日本ではむしろ、各学校の現場において、「シュタイナークラス」とでもいえる試みを始めているそうだ。

 ある意味では、それは「シュタイナー教育」とはいえないのだろうけれどシュタイナーの示唆した教育に関する認識をそれぞれの現場で模索しながら生かしていこうとするそうした試みは形を優先させるのではなく、認識実践から応用していこうとするものであるだけに、日本という場におけるとても有効な実践として注目できるように思う。

  

 

 

シュタイナー・ノート 45

目的を手段にすること


1998.10.10

 

 秘儀に参入しようとする者は、魂の中ですべてがしだいに変化していくということをはっきり知っておく必要があります。魂の生活のほぼすべてが違ったものにならなければなりません。この変化を、「通常の魂の生活においては目的、目標であるものが、秘儀に参入しようとする者にとってはより高次の目標のための手段とならなければならない」という言葉で暫定的に特徴づけることができます。(略)

 「意見」の観点、「観点」の観点、「判断」の観点を超えるのは、内的な体験の中でも最も困難なものの一つです。

(シュタイナー「東方の秘儀とキリスト教の秘儀」「秘儀参入への道」(平河出版社)所収/P15-18)

 これまでにも幾度か読み返した講義集なのだけれけど、ひさびさ読み返してみるとあらためてとても興味深かったのでこれからしばらくこの「秘儀参入への道」から拾い出しながらいくつか「ノート」を書いてみることにしようと思う。

 「秘儀参入」というとなんだかとても特別なことのように思えるし、自分とは関係がないというか敷居が高い感じがするのだけれど、実際のところ、この「秘儀参入」というのは、魂の能力を高めていくことを意味しているのだから、だれにとっても必要なことであるとしてとらえる必要がある。

 ただ、違いは、それをすぐ達成する目標としてとらえるか、それとももっと気長に達成する目標としてとらえるかの違いなのだからどちらにせよ、自らの魂を成長させていこうと望むのであれば、特にシュタイナーの神秘学から学ぼうとする際にはここに「秘儀参入」として述べられているテーマについて検討してみることは、避けて通ることのできないものだといえる。

 「通常の魂の生活においては目的、目標であるもの」を「高次の目標のための手段」とするということ。これについて検討していくためには、まず「通常の魂の生活においては目的、目標であるもの」についていわば反省的に意識化することが必要となる。

 もちろん、人それぞれについて「目的、目標であるもの」は異なっているわけですし、それはお金がたくさんほしい、家がほしい、尊敬される人物になりたい、権力がほしいということからはじまって○○○のような人になりたい、知識を得たい、○○○を研究したい・・・などということまで、さまざまなレベルがあるわけだけど、そうしたことすべてについて「なぜそれが目的、目標である」のかということを自問していかなければならならないということである。

 たいての場合、それらの「なぜ」はすぐに行き詰まってしまうことになるしそれを自問することに人はおそらく多くの場合耐えられないだろうし、そういうことを自問しないからこそ、エネルギッシュにがんばっているという方も多いのではないかと思う。たとえば、「お金を儲ければなんでもできる」「持ち家を建てるのが夢」「理想のパートナーがほしい」「この研究を完成させたい」・・・などなど。しかし、まずはその行き詰まりの地点にまでたどり着かなければならない。行き詰まりの地点を示すのは、たとえば「なぜそれがほしいんだ」という問いに対して「ほしいからほしいんだ」以外に答えが用意できないという状態だ。「なぜ自分はそれを目的、目標としているのだろう」と途方にくれてしまう地点ということだ。その地点では、自分の感情や感覚、そしてそれに引きずられている思考などに溺れていることはもはや許されない。

 それは、「「意見」の観点、「観点」の観点、「判断」の観点を超える」ためには欠かせないことだし、「自分の意見、観点、判断」というのをまるでほかの人のそれのように対象化できるようになることでそれらが、いったい「なぜなのか」ということについて深く自省していくことも可能となる。

 とにかく、その地点まで自らの魂を育てていくこと。それがすべての出発点になる。

 

 

 

シュタイナー・ノート 46

大胆さ


1998.10.12

 

 さらに、さまざまな内的な道徳性を自分のものとしなければなりません。(略)その道徳性というのは、大胆さです。魂の生活全体が「目的」から「手段」へと、いわば階級を落とされると、今までとは異なった体験を持つということを明瞭に把握しておく必要があります。事実、見知らぬものの中に歩み入るのです。そして、この見知らぬものの中への参入はつねに最初、恐怖と結びついています。すべての体験が魂の内面を深く流れていくので、恐怖が魂全体に満ちます。それゆえ、恐れを知らぬ大胆さを獲得することが、高次の世界への道を歩むための準備の一つとなるのです。

 この大胆さは、ある一定の瞑想を通して獲得しなければなりません。このことは可能です。けれども、たいてい人々はこの瞑想を成就するに足る忍耐力を持っていません。あることを知っても。そのことによって事態が変わることはないという考えに繰り返し没頭するのは、大事な瞑想になります。たとえば、誰かが一時間後に必ず災害が起こると知って、その災害を妨げるところにいなかったとすると、不安と恐怖に襲われることでしょう。災害の発生を前もって知っていても、事態は何一つ変わらないのです。不安や恐怖を抱くことは無意味なのです。不安や恐怖という無意味なものに、魂は自然の本性によってとらわれます。そして、もし、恐怖を克服する大胆さを準備していないと、霊界参入のある段階で必ずこの不安と恐怖が襲ってくるのです。「何かを、知ることによって変えられはしないか」という無意味な考えに耽るべきではないのです。(略)

 このような話から、高次の世界に参入するときには魂の知的特性、ならびに道徳的特性の二つが必要であることがおわかりいただけると思います。今日の外的な学問には本来、知性しか必要とされません。勇気、大胆さを道徳的特性と呼びたいと思います。

(シュタイナー「東方の秘儀とキリスト教の秘儀」「秘儀参入への道」(平河出版社)所収/P19-21)

 今まで自分が「目的」としていたことを「手段」にすることについて前回はとりあげてみたのですが、「魂の生活全体が「目的」から「手段」へと、いわば階級を落とされる」と実際、人は不安になります。

 自分がわきめもふらず「目的」としていたことが「目的」という位置を外されることによって「自分はいったいこれまで何のためにがんばってきたんだ」と自問自答せざるをえなくなるのです。ある意味でそれはそれまで自分のまったく考えてもいなかった「見知らぬものの中に歩み入る」ということでもあります。

 人はその「見知らぬもの」を垣間みる機会をおりにふれて持ちながらそれへの「不安」と「恐怖」ゆえに、それを見なかったことにします。宗教的にいえば、いわば「発心」ということにもなるのでしょうけど、その多くの場合は、「階級」は違え、固定的になりがちな別の「目的」に首をすげかえるだけの作業になります。お金や世間は捨てたかわりに、解脱、悟りが目的になるわけです。そういう方にとっては、そういう解脱、悟りを「目的」から「手段」へと「階級を落と」すことが必要になります。もちろん、馬鹿げた階級落としになる場合も往々にしてあり、解脱、悟りがいわば「認定」されることで、その宗教集団などでの「位階」と「権力」というのが目的になってしまいます。

 ともあれ、「見知らぬものの中に歩み入る」「大胆さ」、勇気がどうしても必要な「道徳性」だということ。「道徳性」というとどうも儒教めいてイメージが良くないのですけど^^;要するに、自分の根底にある深淵のようなものを見据えることによってしか歩めない魂の領域があるというふうに理解できるでしょうか。

 さて、ここで「大胆さ」を獲得するための瞑想が紹介されています。つまり、「何かを、知ることによって変えられはしないか」というような無意味な考えに耽らないという瞑想です。持ち越し苦労や取り越し苦労とも通じる「無意味な考え」から不安や恐怖を持つようなことをしないこと。何かを変えることのできる可能性を模索するために振り返ったり先のことを計画したりすることは必要なのですけど、それと持ち越し苦労や取り越し苦労は別のことだということです。

 従って、前回とりあげたような目的を手段にする認識的な側面と不安や恐怖にとらわれない大胆さ、勇気という両輪が魂の内的力を育てていくには必要だということがいえます。目的を手段にする認識的な側面があってもただ途方にくれて不安と恐怖のただなかにあるだけでは何もはじまらないわけですしただただ闇雲に大胆になるだけでも大変危険なことですからその両輪があってこそ、ということです。アクセルをやたらふかしてかっ飛ばすのは危険ですからハンドル操作やブレーキ操作がどうしても必要ですし、ハンドル操作やブレーキ操作がいくらうまくてもガス欠だったり恐くて路上にでられないとなんのための車なのかわからなくなるわけです。

  

 

 

シュタイナー・ノート 47

内的な魂の力を強くする行


1998.10.13

 

 高次の諸世界への歩みには内的な魂の力の強化、エネルギーの備蓄が必要です。何ものも外からは与えられず、すべて、人間の内面の向上を通してのみ得られるのです。

(シュタイナー「東方の秘儀とキリスト教の秘儀」「秘儀参入への道」(平河出版社)所収/P29)

 内的な魂の力を強く育てていくためには、とくに、魂が思考と意志と感情をきちんとコントロールできるようにする必要がある。そのために、思考の行、意志の行、感情の行、そして積極性の行、とらわれをなくする行が必要だとシュタイナーは示唆している。

 思考の行は、身近で単純な対象を選び、それについて毎日短い間でも集中的に思考するというもので、思考はともすれば分散しがちなので、そうさせないように思考をコントロールできるようにするためのもの。

 意志の行は、数カ月間毎日きまった時間に実生活にはほとんど意味をもたないような単純な行為を行なうというもので意志においても自己をコントロールできるようにするためのもの。

 感情の行は、快・不快、喜びと悲しみなどの表現を自分でコントロールできるようにすること。もちろん、喜怒哀楽などを持たないようにそれらを殺してしまうのではなく喜怒哀楽はむしろ強いものとなりながら、それらとともにあり、それに流されないようにするということが必要だということである。そのためには、長い期間に渡って、自分自身をよく観察しなければならないという。喜んでいる自分、怒っている自分、悲しんでいる自分、楽しんでいる自分。観察することができるようになれば、いかにそれらを強烈に体験していたとしても、それらにとらわれて我を忘れてしまうということはなくなる。

 積極性の行は、肯定的な態度を身につけるということ。この行について、シュタイナーは、弟子たちと死んだ犬のそばを通りかかったイエス・キリストの例を挙げている。弟子たちは犬から顔を背けたのだけれど、イエス・キリストは「なんと美しい歯をしているのだろう」と賞賛の言葉を語ったという例を挙げている。この修行の意味について、シュタイナーは「神秘学概論」(ちくま書房)で次のように述べている。

 誤謬、悪、醜があるからといって、真、善、美をそこに見出そうとする態度をあきらめてはならない。この肯定的な態度を、無批判な態度と混同してはならない。悪や偽や、人の不幸に対して安易に眼を閉ざすことを求めているのではない。死んだ動物の「美しい歯」を賞賛する人は、腐敗したその死骸をも見ている。しかし死骸が美しい歯を見る妨げになってはいない。悪を善と見、偽を真と見ることは許されない。しかし善と真を見る眼を悪と偽によって曇らされてはならない。(P347-348)

 とらわれをなくする行は、何からでも学べるような態度を身につけること。日常のあらゆる機会に、これまでの体験や経験という偏見から自由になって新しい体験をとらわれなく受容することができるようにすることである。人は偏見から、せっかくの学びを見過ごしてしまうことが多くある。いつも何からでも学ぼうとする態度を持ち続けることで、そうでない人と比べて、その体験はどれだけ豊かなことかはかりしれない。

 

 

 

シュタイナー・ノート 48

自然法則と道徳的現象


1998.10.18

 

 霊界では実際、物質界における自然現象に似た方法で自然法則と扱えるものと、道徳的現象とは切り離していません。道徳現象も物質界にのみ存在するものなのです。ですから(略)霊界に生起する事柄を、自然事象のように判断すると同時に、物質界で道徳的事象を判断するに似た仕方で判断することに慣れる必要があります。物質界に存在する自然法則のような「法則性」とは違うのですが、道徳的法則性の世界と物質的法則性の世界との二つが霊界に入ると互いに混合しているのです。

 死と再受肉との間に生きる世界でも同じことがいえます。

(シュタイナー「東方の秘儀とキリスト教の秘儀」「秘儀参入への道」(平河出版社)所収/P32)

 シュタイナーが「自由の哲学」を刊行する1894年の前夜にあたる時期、アメリカを発祥の地とする「倫理文化協会」の支部がドイツに設立された。シュタイナーは、その運動の原点にある見解に深い疑念を持った。

 その見解の背後には、霊的・道徳的なものは、自然活動の一結果に過ぎないかそうでないとしても、霊的・道徳的存在が世界に対して持つ意味については研究外のものであり、むしろそれらを無視して研究しなければならない、という認識があった。

 シュタイナーは、自伝で次のように述べている。

 この倫理運動は、私に深刻な印象を与えた。それは私の考え方の根本に関わる問題を含んでいた。というのも、私は近代の諸々の思考方法が自然現象と道徳的・霊的世界内容との間に深い亀裂を生み出している事実に、ここで逢着したからである。

(「シュタイナー自伝II」人智学出版社/P20)

 この「深い亀裂」は今まさに限界にまで達しているように見える。「その挙げ句、霊的・道徳的なものは、この現実に発生する泡のような存在にすぎないことになる」(P21)わけである。

 この「深い亀裂」は、物質が、脳がすべてを生み出した、ということを何の疑いもなく主張している方々のなかで最も生じているようで、そういう方々の文章を注意深く読んでみると、物質が、脳が偶然に生み出したといいながら、そのはしばしに「べきだ」にあたる表現内容が無前提に織り込まれている。その「べき」は脳細胞から「自己組織化」されたものにしては、あまりにも無前提に扱われている。「霊的・道徳的なものは、この現実に発生する泡のような存在にすぎない」とすれば、たとえば誰も見てなくて、知られないとしたならば、人をたくさん無意味に衝動的に殺すことも問題にならないわけで、そこでただ問題になるのは、それが罰せられるかそうでないかだけになる。たとえば、「戦争はいけない」「平和主義」云々にしても、そういう「理念」「べき」は、ただの「泡」にすぎないのだから、そういう方々に、「あなたは泡になぜこだわるのですか」という問いを投げかけてみることもできる。「あなたは誰にも知られなければ何をするかわからないというわけですね」ということでその方の認識の根拠を確かめてみることもできる。

 シュタイナーは、ウィーンの学生時代のエピソードのなかで友人との唯物論論争で自分が語ったことを「このような粗雑な形式で反論するのは、特に厳密たるべき哲学には相応しくないと反省」しながらも、次のようにふりかえっている。

 それじゃあ君は次のように主張するんだね。君が<私は考える>という場合、それはただ、君の大脳神経組織中で、生起する出来事の、必然的な結果にすぎず、大脳中のこうした出来事だけが現実であり、そして君が、<私はこれこれの物を見る、私は歩く>という場合も同じことだ、と。しかし、いいかい。君は、<私の大脳が思考する、私の大脳がこれこれの物を見る、私の大脳が歩く>とは言っていないんだ。もし君が、本当に君が主張していることが正しいと確信しているなら、君は君の言い方を訂正しなければならないはずだ。にもかかわらず、君は、<私が>と言っているんだから、君は本当は嘘をついていることになる。しかしこれは、君が君の理論的帰結に逆らってでも、君の健全な本能に従わざるをえないということなんだ。君の意識が、君の理論の虚偽を罰しているんだ。(「シュタイナー自伝I」人智学出版社/P84-85)

 こうしたことについて考えてみることは、「自由の哲学」がなぜ書かれなければならなかったのかということについてひとつの視点を提供してくれる。

 

 

 

シュタイナー・ノート 49

節度のない快楽


1998.10.19

 

 快適さの追求というのは一般に流布した人間の特性です。快適さを求めてきた魂は死後も快適さを求めつづけ、死と再受肉との間のある時期に、人類の進化にありとあらゆる妨害をもたらす神々に仕えなければならなくなります。この神々はアーリマンの支配下にあります。アーリマンはさまざまなことをします。霊界から物質界へ、地上での人生に妨害をもたらす力を導くのもアーリマンです。快適な生活を送ることは快適である反面、普遍的な宇宙法則を妨害することになるのです。(略)

 すべての障害は霊界から指揮されています。障害の主はアーリマンです。快適さを追求した魂は死と再受肉との間のある時期においてアーリマンの下僕となります。安楽な人生を求めた魂が病と死の霊の下で苦しむ姿を見るほど恐ろしいことはありません。(シュタイナー「東方の秘儀とキリスト教の秘儀」「秘儀参入への道」(平河出版社)所収/P36-37)

 ここでいう「快適さ」はいわば苦行、禁欲の対極にあるものです。「節度のない快楽」とでもいえるでしょうか。ですから、自己目的化した苦行に自己陶酔する、一見美しき宗教的な修行というのもこれもまた「普遍的な宇宙法則を妨害する」のではないでしょうか。

 仏陀が、張りすぎた弦も弛められすぎた弦も美しい音色を奏でない、ということで美しい音色を奏でる弦を中道の姿勢にたとえたように、自分を痛めつけることでスポイルするようなあり方も逆に一切の不快を遠ざけようとするようなあり方もどちらも「普遍的な宇宙法則」という美しい音色からは遠いものだといえるのではないでしょうか。

 とはいえ、美しい音色を奏でて生きるということはとても難しいことです。とくに現代にように、「不快」を病のように遠ざけようとすることで内的な魂の力を衰弱させようとする向きとそれらに対するアンチテーゼから、逆に禁欲を唱う宗教団体や倫理団体のようなものへと傾斜する向きのように、極端なシーソーゲームが演じられている状況では、人は「美しい音色」を聴きとる耳をもはや失ってしまっているかのようです。いや、聴きとる耳は、ただ思い出すだけではだめで、おそらくはあらたに獲得していなかければなりません。

 「死と再受肉との間のある時期においてアーリマンの下僕とな」るという表現はなんともおそろしい限りですけど、要は、死後もその執着をもったままいわば「成仏」できず、同じ様な傾向を持っている生きた人に憑依してそれを増幅させようとするということだと思います^^;。人がたくさん集まる場に行ったるすると気持ちが悪くなったり体が重くなったりするように感じるのはそういうことなのでしょうね。病院などでの二次感染というのもそういう霊的な側面からも実際のところ検討される必要があるのではないかと思います。

 

 

 

シュタイナー・ノート 50

自我


1998.10.24

 

 自我は肉体とエーテル体にとって太陽であるということができます。肉体とエーテル体にとって自我が植物にとっての太陽と等しい存在であるように、アストラル体は植物にとっての月と星々に等しい存在であるといわねばなりません。これは特別重要な秘儀体験です。

 今お話しましたことは最初ゾロアスターの秘儀の中で体験され、全世界の進化を貫いて、聖杯の秘儀の中に再び現われました。とくにエジプト時代に最も明瞭に、秘儀参入者が真夜中に−−今お話しましたように霊的に−−太陽を見、太陽の力と一体になるのを感じたために、この体験は「真夜中に太陽を見る」と名づけられました。自らの自我の中に太陽を体験し、自我を肉体とエーテル体の上に輝く太陽の力として体験するのです。

(シュタイナー「東方の秘儀とキリスト教の秘儀」「秘儀参入への道」(平河出版社)所収/P43-44)

 人智学の基本は自我論です。ですから、自我の問題を考えていくことがどうしても必要になります。低次の自我から高次の自我を導き出すということです。

 自我がアストラル体に働きかけて霊我が形成され、自我がエーテル体に働きかけて生命霊が形成され、自我が肉体に働きかけて霊人が形成されるという人間の進化に関する観点も、その中心には自我があります。自我の働きがなければ人間は進化することができないのです。

 仏教で無我が説かれることがあり、仏陀は自我を否定したということがよく言われるのだけれど、そうではなく、その無我というのは、低次の自我を高次の自我から高次の自我を導き出していくということにほかならないのではないでしょうか。シュタイナーの「霊界の境域」には、肉体を通して自らを「私」とみなす自我、輪廻転生を通じてみずからを表現する、アストラル体のなかの「第二の自己」、そしてさらに、超霊的世界の中に、「真の自我」があるということが詳細に述べられているのですが、仏陀が否定的にとらえた自我というのは、主にその最初の自我をほんとうの自分だと思いこんではならないということではないかと思われます。

 シュタイナーの「治療教育講義」の中に、

 この世においては、人間本性のどの部分がどんな現れ方をしても、その部分に有効な働きを及ぼすことができるのは、人間本性のそれよりも一段高次の部分なのだ、ということです。人間本性のどの部分も、そのような高次の部分を通してのみ有効な発達をとげることができるのです。肉体を発達させるためには、エーテル体の活動が必要であり、エーテル体を発達させるためには、アストラル体の活動が必要であり、アストラル体を発達させるためには、自我の活動が有効な作用を及ぼすのです。そして自我のためには霊我の活動だけが有効な作用を及ぼすことができます。

 ということが述べられていますが、教育者のエーテル体は、子どもの肉体に有効に働きかけ、教育者のアストラル体は、子どものエーテル体に有効に働きかけ、教育者の自我は、子どものアストラル体に有効に働きかけ、そして、教育者の霊我は、子どもの自我に有効に働きかける必要があるというのです。従って、結局は、「自我」ということが重要な問題であるということがわかります。

 


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