シュタイナーノート 51-60

1998.10.27-2000.8.5


シュタイナー・ノート51●聖杯の秘儀

シュタイナー・ノート52●キリスト者共同体

シュタイナー・ノート53●植物と地球1

シュタイナー・ノート54●植物と地球 2

シュタイナー・ノート55●神智学と人智学

シュタイナー・ノート56●実際的な思考

シュタイナー・ノート57●賛成・反対の吟味

シュタイナー・ノート58●なぜ服を着るか

シュタイナー・ノート59●労働者講義

シュタイナー・ノート60●宇宙と自己・宇宙の養分

 

 

シュタイナー・ノート 51

聖杯の秘儀


1998.10.27

 

 現代の人間は自己の内に入りこみ、誠実に自己認識へ至ろうとすればするほど、いかに自分の魂の中に悟性魂(心情魂)の内部の戦いが吹き荒れているかを見出します。この点において、多くの人が思っているよりも「自己認識」は困難なものです。そして、実際、自己認識はこれからもいっそう困難なものになっていきます。自己認識に至ろうとすると、自己を支配し、徳操のある人でも、ある時点で、いかに自分の内面深くに隠れて情熱と力が吹き荒れ、悟性魂(心情魂)の領域を引き裂いているかを体験します。(略)

 咬みつくような疑念を通過したことのない近代の深い魂というものは本来存在しません。現代の魂はこの咬みつくような疑念を知らねばならないのです。そうして初めて、意識魂にとって本来的なものである霊的な智の中に力強く合流するのです。この霊智は意識魂から悟性魂(心情魂)の中に流れこみ、その主とならねばなりません。それゆえ、私たちは理性的な方法で、霊的な智から私たちの意識魂に与えられるものに浸透されようと試みねばなりません。このことを通して、私たちの内面における真の主、支配者たる自己(ゼルプスト)を引き寄せるのです。現代の秘儀の本質を知るとき、私たちは私たち自身に向かい合っているのです。

 秘儀の本質に近づき、パルツィヴァルの特性を模範として努力する者は、現代という時代の状況から、自分が傷を負ったアンフォルタスであることを知ります。現代人は努力するパルツィヴァルと負傷したアンフォルタスという、二重の本性を負っています。自己認識において、そのように感じなければならないのです。この二元性を一元性へとする力を湧き出させ、人間は一歩前進しなければなりません。私たちの悟性魂(心情魂)の中において、私たちの内面深くにおいて、体と魂に傷を負った現代人、アンフォルタスと意識魂の養育者たるパルツィヴァルが出会わねばなりません。自由を獲得するために、アンフォルタスの「負傷」を通過し、自らの内にパルツィヴァルを認識することが必要なのです

(シュタイナー「東方の秘儀とキリスト教の秘儀」「秘儀参入への道」(平河出版社)所収/P82-84)

負傷したアンフォルタス、そして努力するパルツィヴァル。その二重の本性を統合すること。

みずからの内面に吹き荒れる嵐、それによって木の葉のようになすすべもなく翻弄されながらも、そこに「咬みつくような疑念」の光、「なぜ」という光を差し込むこと。嵐のなかで、燈台の光を見出すこと。

その燈台の光は、みずからの意識魂の光。その光は、はじめはとても幼く、頼りにならないかもしれない。けれど、それは外から与えられたものではないがゆえに、自由へと人を導くものである。

聖杯は、意識魂によって準備される。翻弄される内面を制御しつくりあげられる霊性の器、愛の器。器がなければ、注ぎ込まれるものを受け入れることができない。そのための「内面における真の主、支配者たる自己(ゼルプスト)」を私たちは嵐のなかでつくっていかなければならない。

このことは、ユングのいう影との統合による個性化ということ、自己という意識と無意識の統合ということとあわせて見ていくことで、理解が容易になるように思う。

人は、外面に向かっては勇ましく勇敢にふるまえても、さてみずからの内面に降りていくならば、幼子ほどの力も持てず弱々しいことが多い。

そのために、まず影を見出さなければならない。みずからが負傷したアンフォルタスであることを見出さなければならない。人はみずからの影から逃げたいと思う。しかし、影から逃げ続けることはできない。そして逃げている間は、努力するパルツィヴァルを見出すことができない。聖杯という器をつくりだすことはできない。

「そういうものだ」という自動化を去り、「咬みつくような疑念」から始めなければならない。

 

 

シュタイナー・ノート 52

キリスト者共同体


1999.9.16

 

キリスト者共同体はいわゆる生活共同体ではありません。「共同体」という名から、一般に云う「コミューン」や共同村を連想されるかも知れませんが、キリスト者共同体はひとつの「霊的共同体」であります。それは日々、毎回新たに人間の意識によって建設されねばならなぬものです。

(キリスト者共同体の会「キリスト者共同体・宗教改新運動 概要」より)

宗教的な「生活共同体」というのは、いろいろな意味で閉じたものになってしまうのではないかと思う。現代においては、実質的に、一地域だけを閉じた生活圏としてとらえるということはできないし、特にそれが精神生活に関わるものである場合、それが閉じてしまうということは、固定化が避けられなくなってしまう。

特に、霊的な共同体におけるコミューンにおいて、特定のグルもしくはそれに代わる存在がその中心に存在するということは、その霊性がいかにすぐれたものであるとしても、それが閉じる傾向を示すというだけで、そこにはある種の危険性が生まれてしまう。

おそらく古代においては、そうしたいわば蟻塚のような集合的な在り方のもとにある種の高次の霊性を継承していくということは、それなりの意味を有していたのであろうが、現代においては、そうした古代的な形態のもとに「霊的共同体」を形成するということは、退行を意味することになる。

かつて善であったものも、時代の変化のなかで「悪」と化するということをとくに霊的な側面においては深く考慮する必要があるように思う。キリストが、血で結ばれた家族のなかに剣を投げ込むというのも、かつては善であったものが、そのなかに自覚がないかぎりにおいて、その血縁そのものにルシファー的な要素が入り込んでしまうからだといえる。

キリスト者共同体が「生活共同体」ではなく、「霊的共同体」であり、おそらくそのゆえにこそ、「日々、毎回新たに人間の意識によって建設されねばならな」いものであるということは、現代という時代においてはとても重要な点ではないかと思う。その霊性においては、固定化した教義や教条であることが拒否されている。そこに、宗教が宗教であるがゆえに危険性をはらんでいたものを捉え直し、深い自覚のもとに、個々の人間の自由ということにおいて、霊性が追求されねばならないということが明言されているのだといえる。

しかし、さらにその「共同体」ということが検討されなければならないだろう。それは、「霊的共同体」であるということにおける儀式にも関わってくる。「生活共同体」ではなく、「霊的共同体」であるとしても、その「共同体」であるということにおいて、なんらかのかたちで「閉じて」しまうという危険性のもとにあるからだ。いかにすぐれた「共同体」においてはも、それは「組織」をつくるということである。組織をつくるということは、「境界」をつくるということだ。

私見だが、その「共同体」であるということにおいて、新たな形が模索されていかなければならないのではないかと思う。それは「ネットワーク」という理念ではないかと考える。7年ほど前になるが「宇宙の法」(新地球出版社・発行、星雲社・発売)という書物が刊行された。北条行一という経営コンサルタントによる編集・刊行で、「新文明の根本原理」として「ネットワーク」、「自生流動的秩序」という理念が提出されたが、なかなかに魅力的な理念である。その一部をご紹介してみることにしたい。

ネットワーキングは、人類を次の段階へと進化させる行為となります。またそれは、数千年来の権力機構を根本から変革していきます。ネットワークは、多元的結び付きを実現することにより、オープンシステムを形成します。それは柔軟で流動性に富み、限りない変革の可能性を常に有しています。そのため、これは来るべき自生的流動性秩序の原初的形態といえるでしょう。

ネットワーキングにおいては、一人一人がネットワークの核となるのです。そしてその一人一人は、内面的ネットワークの要請に基づいて外的ネットワークを構築していくため、社会の様相は、人間の潜在的能力の自己実現する姿となります。そしてさらにこれが発展するならば、社会は宇宙意識の自己展開となってゆくのです。ネットワークは形骸化する時、自然消滅します。ヒエラルキーのように形骸化した状態でさえ維持してゆくような構造はないのです。ネットワークは、多元性と情報交換度の高さによって、極めて反応の活発な社会組織であり、情報処理能力の高度化されたシステムなのです。それ故に、ネットワークは、一見無関係に思われるもの同士が見事に結合され、独創的なものが次々と生み出されてゆく生命力の溢れるシステムでもあるのです。

ネットワークの特長は、多元主義にあります。ネットワークの政治は、一人一人が主人公であって、ヒエラルキー政治と違い、代表制はとらないのです。一人一人は皆異なる存在であって、全く同じ人間などいないのですから、百万人いれば百万通りの意見があるはずなのです。ところがそれらを一元化するのが望ましいと錯覚し、一元化を実現するために「政治」の存在を求め続けてきたのが、自我レベルの人々だったのです。・・・

真の政治とは、百万通りの意見をそのまま活かすことなのです。それらの違いを、多様性の展開する姿として、文明の活力としてゆくことが進化戦略にとって重要なのです。多様性を進化につなげてゆくことなのです。そしてそれが「ネットワークの政治」なのです。すなわち「万人が王となる社会」なのです。

こうしたネットワークという理念に、「キリスト者共同体」の「キリスト」認識をはじめとする素晴らしい理念が柔軟なかたちで結びつくとき、新しい時代が始まるのではないかと思う。それはすでに宗教という枠組みを超えた社会有機体三分節化であり、総合的な意味での宇宙進化への道なのではないだろうか。

 

 

シュタイナーノート53

植物と地球1


1999.10.10

 

 植物界は大地の魂の可視的となった姿なのです。ナデシコはあだっぽい姿をしています。ひまわりはとてもひなびています。ひまわりは野暮ったう目立とうとしています。植物の大きな葉も魂の表現であるといえます。葉はいつまでたっても不十分な存在です。長いことみんなのために働きながら、不器用なために、仕事をまとめ上げることができません。葉は一見すでにできああった形態をとっていると思われるでしょうが、いつまでも完成への途上にいるのです。ーーそのような魂の内容をすべての植物形式の中に求めてください。

 夏がやってきます。すでに春から、地球上には眠りが広がっています。その眠りはますます深くなっていきます。それは空間的なひろがりとなって現れます。植物は最も生長するときに、最も深く眠るのです。そして秋になって眠りが失われますと、成長をやめます。眠りの範囲もどんどん狭くなっていきます。人間の場合、感情、情熱、激情などは眠りの中でも働きますが、それらは眠りの中で植物のように現れるのです。私たちの魂の中に眼に見えない隠れた性質、たとえば媚態が植物の中では眼に見えるものとなって現れます。覚醒時の人間の場合には媚態を眼で見ることができませんが、眠っている人間を見ると、それを霊視することができます。その場合、媚態はまるでナデシコのようにみえます。媚態をつくる女性の鼻からは絶えずナデシコが咲いています。一方退屈な人はその身体全体から 巨大な葉っぱを広げています。超感覚的に見ればです。

 眠っているときの地球を考える場合には、もっと先まで行かねばなりません。すなわち植物界が夏に繁茂する地方では、大地は夏眠り、冬目覚めるのです。その場合、植物界を大地の魂であると考えてください。人間の 場合は、眠ると、魂の営みがすべての外的活動を停止します。大地の場合は、眠ると、魂の営みが始まるのです。眠れる人間の魂は、外に現れません。

(シュタイナー「教育芸術/演習とカリキュラム」高橋巌訳/創林社/P140-141 *現在は筑摩書房から刊行されています)

人間は眠るときに、自我とアストラル体が肉体とエーテル体から離れ、起きているときのような魂の活動をすることができなくなりますが、地球の場合は人間とは異なり、眠ると魂の活動が地上に広がります。そしてその魂の表現が植物で、葉を茂らせ、花を咲かせます。

大地が眠ったり目覚めたりするといえば、夏には目覚めていて、冬になると眠ってしまうとイメージしやすいのですが、実際はその逆で、大地は、夏になると眠り魂の活動を植物の活動として表現し、冬になると目覚め、魂の外的な活動を停止します。そのことをいきいきとイメージする必要があります。植物は大地の魂がとっている魂のかたちなのです。

花のかたちを、葉のかたちを、大地の魂の表現として見てみると、これまで植物を見ていたとのはかなり異なった見方ができるようになります。真の詩人はおそらく大地を、植物を描写するとき、こうした魂の表現としての植物を直観して言葉を紡ぎ出すのでしょう。

上記の引用紹介部分で面白いのは、人間は眠っているとき、夏、植物が眠りながら活動しているときのように霊視できるというところです。人を見るときに、この人は眠っているときに、どんな花を、また植物を鼻から咲かせているのだろう、とか想像してみるのはなかなか楽しいですよね(^^;)。でも、そんな想像をしてその人の前でニヤニヤすると怪訝な顔をされるので、気をつけましょう。

 

シュタイナー・ノート54

植物と地球 2


1999.10.12

 

シダやコケやキノコは自分たちの形態に欠けている働きをすべて大地の内 部で行っているのですが、それはエーテルの働きにとどまり、物質の働きとしては現れません。このエーテル植物が地球の表面に現れてくると、外的な力の作用を受けて、キノコやコケやシダのような葉の退化形態に変化するのです。コケやキノコの下側にはたとえば巨大な樹木のような何かが存在しています。そして大地がそれを自分の中にとどめておくことができないとき、それは樹木となって外へ現れ出るのです。

 樹木は大地そのものの一片です。大地の幹であり、枝です。キノコやシダの場合にはまだ地下に存在しているだけだったものが、樹木となって大地あら外に現れ出るのです。ですからもし樹木がゆっくりと大地の中に埋もれていったとすれば、樹木は様相を一変させるでしょう。樹木が大地に埋まれば、その葉や花の代わりに、シダやコケやキノコが生じるでしょう。そしてその樹木にとっては冬の季節になるでしょう。通常の樹木は冬を迎えずにすんでいるのです。冬になることを免れているのが樹木なのです。もしも私がキノコやシダの頭をつかんでどんどん地中から引きずり出されたとすれば、私は樹木を地中から引き出すことになるでしょう。そしてそれまでのキノコは上部で花となり、その樹木の一部分として現れるでしょう。一年生植物はその中間のところに立っています。菊科の花冠の中のひとつひとつは、そのような一年草を示しています。もし私がひとつの菊の花を地面の下に沈めたとすれば、そこから沢山の一年生の花が咲き始めることでしょう。菊の花は、いわばあまりにも早くに咲いた樹木なのだということができます。

 このようにしてして地球にも願望生活があるのです。地球は願望を睡眠の中に沈み込ませようという要求を持っています。そしてそのことを夏行い、そして願望は植物となって現れます。その願望はたとえば睡蓮となって眼に見えてきます。それはもっぱら願望として働いています。地上ではそれが植物となるのです。

(シュタイナー「教育芸術/演習とカリキュラム」高橋巌訳/創林社/P145-146)

おそらく「農業講座」だと記憶しているのですが、樹木の幹が大地の一部だということを知ったとき、とても納得がいったのをよく覚えていたりします。

大地から幹がにょきっと出ていて、さらにそこから枝が出、そしてその枝からさらに枝が分かれ、そしてそこに葉や花がでてくる。そうした形態と大地から直接、茎や葉がでてくるような形態の違いはあまりに見慣れているものだから、多くの場合、そういうものだとしか思わなかったりするのですが、そうした形態の違いがなぜ生じるのかということに対する「なぜ」が必要なんですよね。そしてその「なぜ」は、あらゆるところにまであたりまえになっている常識に向かう必要がありそうです。

それから、やはり目に見えている物質的な部分だけをみるのではなく、「物質の働き」としてはあらわれていないけれども、大地の内部でのエーテル的な働きに目を向けることも重要です。そうすることで、シダやコケやキノコや、ふつうの草花や樹木の形態の違いがなぜ起こるのかということがわかってきます。「菊の花は、いわばあまりにも早くに咲いた樹木なのだ」というあたりもとてもファンタジーをかきたてられるようなところでもあります。

地球の願望生活というのもとても面白いですね。大地は夏になると眠り、眠ることでその願望を植物というかたちでさまざまに表現しようとする。「植物と地球1」でもこのことはふれていましたが、人間の場合、眠っているときに、目には見えないけれども、鼻から願望を咲かせているのだというのと対比してみるととてもユーモラスな感じさえします。

 

 

シュタイナー・ノート55

神智学と人智学


2000.2.16

 

人智学はグノーシスの改新ではありえない。グノーシスは感受魂の発達に関わっているからである。人智学はミカエルの活動の光のなかで、意識魂から新たな仕方による世界の理解、キリストの理解を発展させねばならない。グノーシスはゴルゴタの秘跡当時、ゴルゴタの秘跡の意味をもっともよく人々に理解させることのできた、古代から保管されてきた認識の方法である。

(シュタイナー「人智学指導原則」161/水声社.P70)

以前から気になっていたことがある。

シュタイナーは、当初、神智学協会のドイツ支部長として活動していた。そして、「神智学」という著作は、はじめその時代に刊行された。しかし、その後、神智学協会から離れ、「人智学」としてみずからの活動を呼ぶことになる。しかし、その後、改訂された後も、「神智学」はそのタイトルを変えることはなかったようである。なぜだろうか。

「神秘学概論」というのであれば、あえてそのタイトルを変える必要がなかったのは理解できるが、なぜ「神智学」は「神智学」のままだったのだろうか。ひょっとしたら、最初のタイトルを尊重したのかもしれないのだが、今回、森章吾氏による新しい「神智学」の翻訳にふれて思ったのは、やはり、「神智学」の内容は、「人智学」ではなく「神智学」というタイトルがふさわしいのではないか、ということだった。

仏陀の教えは、グノーシス的だといわれる。しかし、その仏陀の教えがあって、そうしてキリストの秘跡が起こった。ある意味では、キリスト事件の前提としてグノーシスが必要だった、ということがいえるのかもしれない。しかし、キリストから仏陀へ、ではなく、やはり仏陀からキリストへである。

仏陀の教えは、八正道にみられるようにその基本には「反省」がある。人は、みずからの内面を見つめることで、中道の道を歩み、そうして、「輪廻」から脱する悟りの道、「解脱」をめざした。そこでは、どうしてもこの地上世界、物質的世界そのものの秘密へと向かう、積極的な姿勢は希薄にしかみえないように思う。

キリストは、太陽霊でありながら、人間の肉体を持ち、そこで磔刑にかけられ、死の国に赴き、そうして復活した。ファントムである。そして、その教えの根本は「愛」であった。そこには、地上そのものを積極的にとらえながら、それを霊化しようとする衝動があったように思う。

そうした仏陀衝動とキリスト衝動の違いに、目を向けてみる必要があるのではないだろうか。そうして、そこに、なぜ「神智学」と名づけられたままの著作が存在したのかという意味も見出されるのではないだろうか。

「神智学」は、霊魂体がテーマになっていて、本来霊的存在である人間ということが詳述されているが、なぜ人間が肉体をもってこの地上に生まれてくるのか、その積極的な意味に関しては、ほとんど述べられていないように思う。そういう意味でも、やはり「神智学」は「神智学」であって、「人智学」というタイトルはふさわしくない。

「人智学はグノーシスの改新ではありえない」。「人智学」は、本来霊的存在であるという霊智を越えて、物質そのものの秘密へと迫るという課題をもっているのではないだろうか。それは、キリストの復活ということとも密接に関わっているように思う。

ところで、密教というのがある。おそらくそれは、物質そのもの、肉体そのものの秘密に肉薄しようとしたアプローチなのではないだろうか。空海の即身成仏もそうである。しかし、密教へのアプローチにおいて、そこに(名称はどうあれ)キリスト衝動があるかどうか、そこが重要なポイントになってくるように思う。キリスト衝動のない密教は、単なる超人衝動などに姿を変える。その場合、きわめてアーリマン的な在り方が現出することになる。

 

 

シュタイナーノート56

実際的な思考


2000.4.3

 

自分が実際的だと思っている人々は、自分が非常に実際的な原則に従って行動していると思いこんでいます。しかし詳細に観察すると、「実際的な思考」というのが、そもそも思考などではなく、教え込まれて習性となった判断、思考習慣を相変わらず続けているにすぎないことが、しばしばあります。みなさんが客観的に実務家の思考を観察し、通常「実際的思考」と言われているものを吟味すると、そのなかに本当に実践的なものはほとんどないことがわかります。

 人々が「実際的な思考」と言っているものは、「師匠はどう考えたか。以前にこれを作った人は、どう考えたか」を範とし、それに従うことなのです。そのようなことに左右されない人は「非実際的な人間だ」と言われます。教え込まれて習性となったものに一致しない思考は、非実際的なものだと見なされるのです。

(シュタイナー「人間の四つの気質」風濤社/西川隆範訳/2000.3.23刊行/P17-18)

私たちの日々の生活や仕事では、「そういうものだ」という常識に則り、ある特定の功利的な結果を出せるということが「実際的」とか「現実的」とかいわれる。重要なのは、「常識」という名の価値観の共有であり、その価値観をみんなが認め、みんなが理解できる仕方で、理解できることをするのが、「実際的」であり、「現実的」なのであって、そうするためには、「常識」に逆らってはならない。

ある意味では、生のマニュアルに従って生きなければならないのである。権威というのも、そういう「常識」のひとつであって、それは疑ってはならないものなのだ。そうでなければ、生のマニュアルによって構築されている世界像が崩れてしまう。

男らしくとか女らしくというのもマニュアルであり、自分の立場に応じたステイタスに基づいて自分をその型にはめこむのもマニュアルであり、血縁や出身や民族などの型に自分をはめ込んでその気になるのもマニュアルである。お金を至上の価値として、いかにそれを効率よく投資すべきかだけに頭をひねるのも、わけがわからないがゆえに戒名や墓などにこだわるのもマニュアルである。

そういえば、先日中上健二の遺稿が発見され、自分のテーマは「故郷喪失」だったということが書かれてあったとか。まさに、ある意味では、生のマニュアルという「故郷」からみずからを切り離し、教え込まれたものから自由になること、そこから出発するということがシュタイナーのいう「実際的」なことであり、「思考」はそうしてこそはじめてその生きた力を持ちうるのだと思う。

「自由の哲学」の重要性もそこにこそ見出される必要がある。シュタイナーが自分の著書のなかでこれだけは残るといっていたのも、「実際的な思考」さえ可能になれば、いわば霊的なテーマに関しても、ただのアンチの姿勢をとることはできないからだということもできる。

実際的思考ができながゆえに、人は死を恐れ、臓器移植を美化し、宗教に溺れ、マネーゲームを暴走させていく。やはり、人は自由であることに耐えられないのだ。だから、教え込まれた価値に基づく「実際的思考」を自分の思考習慣にしそこを離れることができない。

 

 

シュタイナーノート57

賛成・反対の吟味


2000.4.4

 

 アストラル体(感受体)に対する自我の支配を強める方法について、公開講演で話したことがあります。その講演では、人間は何かに対して、いかに賛成もしくは反対を唱えることができるかを述べました。人間の心魂がいかに人生に関わっているか調べてみると、人間は考えるときや行動するとき、たいてい何かに賛成か反対かしか述べていないことがわかります。それが普通です。しかし人生のなかでは、「完全に賛成」、「完全に反対」と言えるものは、ひとつもありません。すべてのことがらに関して、「賛成かつ反対」があるのです。どのようなことに関しても、ひとつの側面だけでなく、他の側面も考慮して、「賛成か反対か」ではなく、「賛成かつ反対」を考慮するのはいいことです。

 私たちが何かを行うときも、ある状況下では、なぜそれを思いとどまったほうがいいかを考えたり、その行為に反対する理由もあることを明らかにするのはいいことです。自分が行おうとすることに異議を差し挟もうとすると、虚栄心と利己心は抵抗します。

 ただ人間は、よい人でありたいと思っています。多数の賛同があり、反対がないことを行うとき、自分はよい人間であると証明できます。反対の多いことを行ったり、自分が行うことに異議を差し挟まれるのは、不愉快なことです。実際は、人間は自分が思っているほどよい人間ではありません。これは人生にとって非常に重要なことなので、申し上げておきます。

(シュタイナー「人間の四つの気質」風濤社/西川隆範訳/P76-77)

ずっと以前、この「神秘学遊戯団」(最初の名称は「シュタイナー研究室」)をNIFTYSERVEの会議室で始めたときに、そのいちばん大事な姿勢について、くり返し表明し続けたことがあります。それは、「嫌いでも理解」「好きならばもっと理解」ということでした。つまり、快=不快にとらわれないでいたいということでもあり、そのことが、とくにこのネットのような相手の顔の見えない場所では、ネットの世界によくみられるフレーションのような在り方を避けるためにも、とても大事なことのように思えたからでもありました。

「賛成の反対!」という赤塚不二夫的ギャグで表現できるような在り方が、かつて社会参加のプロパガンダとして有効であるかのように思われていた時代があり、なにかに対して「賛成か反対か」ということを明確にしない限り、ないごとかを社会実践したことにはならないと思われていたところがありますが、結局のところ、賛成か反対かというのは、快=不快に仮面をかぶせたものでもあり、そうすることで、人は自己意識を発達させないですむことになります。白か黒かはっきりさせることによる二階調の世界。

西部劇をみるときなどは悪役と善玉とが混然とあっていたら、きわめて歯切れの悪いことになってしまうでしょうが、実際の世界においては、実際のところ、白か黒かというように完全に色分けすることはできないのではないかと思います。もちろん、優柔不断ということへの言い訳とすることはできませんが、100%賛成、100%反対、100%善、100%悪という何かに対する色分けは、わかりやすいがゆえに、自分を偽るのに好都合な手法であることには気づいておく必要があります。

ぼくがシュタイナーの著書などを読むようになって、とてもどきりとしたというか、とても印象深かったことのひとつに、シュタイナーが、自分とまったく考え方の違う人に対して、自分をその相手以上に理解しその立場に自分を置けるということがありました。つまり、全く反対の立場にある二つの立場を代弁できるわけです。そういう姿勢であるがゆえに、それぞれにおいて誤解を受け、どちらからも最初は最高の理解者であるとされ、その後には裏切り者として非難されることにもなったようです。だから、唯物論者的な立場からは神秘主義者のようなレッテルを貼られ、神秘主義的な立場からは唯物論者のようなレッテルを貼られることにもなります。

しかし、シュタイナーのように、どんな人の立場においても、その人以上に理解を持ちうるということがどれほど重要なことか。そのことをじっくりと検討してみる必要があるのではないかと思います。

人は、多く賛成か反対かの二分法に身を置きたがりますが、それは結局のところ、「虚栄心と利己心」のためでもあるわけです。人からよい人だと思われたい、評価されたい、尊敬されたい・・・云々。

自分の考え方をしっかり持つと言うことは重要なことなのですが、それにしがみついて、そこから感情的に離れられず、自分の考えに反する人の考え方を理解できないということは、とても不幸なことなのではないかと思います。

相手の考えを理解するというののは、言葉でいうのは簡単ですが、実際のところ、とてもむずかしいものです。ぼくにとってもそれは永遠の課題だともいえるもので、自分と反する考えに対しては、どうしても感情的な反感がむくむくとわき起こってきて、それを克服することはとてもむずかしいものです。

だからこそ、ここでシュタイナーが言っているように「どのようなことに関しても、ひとつの側面だけでなく、他の側面も考慮して、「賛成か反対か」ではなく、「賛成かつ反対」を考慮する」ことの重要性を神秘学的なアプローチの基本として忘れないようにしたいと思っています。

 

 

シュタイナー・ノート58

なぜ服を着るか


2000.4.9

 

身体の保護のためだけに服を着ようとすると、人間は俗物になります。身を飾ろうとすると、俗物ではなくなります。身を飾るのは本来、人間のなかにある精神性を衣装で表現することなのです。(…)

私たちは古代の本能が存在した時代、衣服に意味のあった時代にもはや生きてはいません。古代民族は自分たちの感覚によって、衣装を作り出しました。今日では、今日の精神生活のなかに存在するものから衣装を作り出さねばなりません。古代民族は、「世界と人類にとって正しい衣服だ」と思った衣装を作り上げました。そのような能力を、今日の人間は持っていません。今日の人々は本当の人間、つまり人間精神について何も知らないからです。そうして、私たちはまったく意味のない服を身に付けるようになりました。無意 味さを極端にまで押し進めた服を、私たちは着ているのです。

(シュタイナー「人間の四つの気質」風濤社/西川隆範訳/P94-104)

多く民族衣装は、とても装飾的です。肌に入れ墨をしてさえも身を飾ろうとします。現代では、さまざまなファッションがその装飾性を取り入れています。しかし、その装飾はもはやかつて持っていたような意味をもってはいません。身を飾ることで、自分の個性を主張しようとしながら、その多くが流行という「みんなといっしょ」での主張を超えることはありません。「みんな」のなかで少しでも進んでいることを誇るのがせいいっぱいです。

シュタイナーは「男性の服装は、特に正装の場合、すでに精神病院を思わせるものになっている」と述べていますが、日々仕事をしていて、決まり切ったスーツに身を包んでいるビジネスマンを見るとほんとうにそういう気持ちになることがよくあります。そうして、いわばフレッシュマンと称される新入社員たちは、紳士服屋の進めるイチオシのビジネススーツをこぞって身に付けます。おそらく、そういう「精神病院を思わせる」衣装に身を包み続けることで、みずからの精神をその型枠のなかに押し込めてしまうことになるのでしょう。これは、とてもおそろしいことです。

逆のおそろしさは、民族衣装の正当性をアピールする態度です。「民族」というくくりでみずからを主張しようとする態度において、おそらく民族衣装というのは、とても有効なものであり、だれでもの深層にあるであろうそうした記憶を呼び覚ますがゆえに、民族衣装は正統であるようにとらえられ、かつある種の民族的な対立をも喚起するものなのかもしれません。

おそらく重要なのは、みずからのみずからであるがゆえの、精神性を表現できる衣服なのではないかと思われるのですが、昨今のファッションに関する論考を見ていると、そこに辿りつくまでにはまだまだ時間がかかりそうです。しかし、ロラン・バルト、鷲田清一など、ファッションに関するアプローチが始まっているだけ、なんらかの進展があるのかもしれません。やっと、個であるがゆえのファッションということが検討されはじめているのだともいえますから。もっとも、それは精神科学的とはいえないのですけど・・・。

ともあれ、日々だれでもが関わっているといえる衣服などについて、あらためて考えてみるということは重要なのだと思います。どんな車に乗るかということもある意味では衣服のようなものですし、スポーツなどのユニフォーム(相撲のまわしも含めて)の意味などについて、また国旗、兜などについて検討してみるのも有効かもしれません。

 

 

シュタイナー・ノート

労働者講義


2000.4.30

 

 ゲーテアヌムの労働者講義は、ルドルフ・シュタイナー全集でも347から354のナンバリングを与えられた大部なものなのである。しかも記録される以前からルドルフ・シュタイナーは労働者に話をしていたのである。だからどれほど多くを労働者たちに語ったのかは正確には分からない。また、労働者講義以外では触れられていない話題も数多くあるのである。例えばルドルフ・シュタイナーがユーモラスにビーバーの生活を語る(「太陽の影響としての知恵の力」)のを聴くのはそれは全くの聴き物なのだ!また非常にタイムリーな話題が語られている。(…)労働者講義は「講義」ではなかったのだ。「ディスカッション」と言うべきだろう。なぜなら労働者が準備した質問にシュタイナーが答える形式を採ったからだ。ときにはその場で質問が出て、その場の即興で話が始まるのである。(…)「しかしヘル・ドクトル」と始まる言葉が労働者から何度も発される。けっして反発や敵対心からでた「しかしヘル・ドクトル」ではなかった。真実を追究する同じ基盤に立った者として、少なくとも、自分の立場を十分に了解した者として、労働者たちは発言したのである。協会員向けの講義では質疑応答の時間があっても、このような自発的な反応と交流は見られない。(…)

 さらに驚くべき事実がある。マリー・シュタイナーやイタ・ヴェークマンなどごく少数の者を除けば協会員は聴講を許されなかったのである。(…)

 話題は自分たちで決めるようにという約束どおり、労働者はほんとうに聞きたいことを聞いた。そのために、その日の午後に開かれた協会員のための 講義で、労働者とこんな話をしたとうれしそうに報告することすらあった。

(…)『治療教育講義』でルドルフ・シュタイナーが聴講するメンバーの自発性のなさに烈火のごとく怒る場面があるがそこでも彼は労働者を引合に出して、これからは聞きたいことを自分で考えてきなさいと命じている。

(佐藤公俊/シュタイナー「食物と栄養」訳者解題よりユリイカ2000.5月号特集「ルドルフ・シュタイナー」よりP90-91)

こういうエピソードからも、シュタイナーの神秘学に対する姿勢をかいま見ることができるように思う。

労働者講義は、とても話題が豊富でいきいきとした語りになっているが、おそらくシュタイナーは「自発的な反応と交流」をとても大切にしたのだと思う。そして、「協会員」の多くは、そうした「自発性」に欠けていたのではないか。それは、先生から弟子へというようなスタティックな在り方が常となっていて、再三の「どうぞ自分の言っていることを信じないでください」という促しもほとんど効果がなかったのではないかということを想像させる。

今回のユリイカのシュタイナー特集では、佐藤公俊さんの訳で、ふたつのシュタイナーの労働者講義が紹介されているが、その「太陽の影響としての知恵の力」のなかにもシュタイナー特有のこんな皮肉があったりもする。

ビーバーには、ロゼッガーが人間について言った言葉が当てはまるとは言えません。「一人だと人間だが、二人になると人々になり、それ以上になると愚かな動物になる」。ロゼッガーがこう言ったのはビーバーについてではなく人間についてでした。彼が言いたいのは、人は多く集まると間抜けになるということです。ここには真理の一端があります。人は群れると、混乱し、間の抜けた印象を実際に与えるものです。その中には頭の良い人が確かに交じっているというのにです!(P68)

もちろん、これは共同体の可能性を否定しているのではなく、人と人が共同するに際しては、なおのこと「自発性」の必要性が自覚されなければならないということなのだろうが、実際のところ、「協会員」のような集団の一員になってしまうと、「労働者」のような、いわば日々の生活に根ざした疑問などがスポイルされてしまうところがあるのではないかと思える。どうしても、「なぜ」さえもが与えられるものと化し、抽象化したものとなってしまうのではないだろうか。「聞きたいことを自分で考え」ることのできない協会員。これは、ある種、絶対的なグルの前で萎縮している、の図にも似ている(^^;;)。

ぼくも「労働者」の一員として、日々現在のさまざまな生活のなかの諸問題のなかを生きているのだけれど、そうした素朴な「なぜ」を決して失いたくないと思う。それは、まさに「矛盾を生きる」ということでもある。矛盾を最初から排したなかで抽象的な問題と格闘するのではなく、自分を矛盾のなかにこそ置きながら、なにかことあるごとに、「しかしヘル・ドクトル」と「なぜ」を連発していきたい。もちろん、その「ヘル・ドクトル」は特定の人物を意味しない。自分でそれを調べたりすることもふくめた意味での探究を意味する。

 

 

シュタイナー・ノート60

宇宙と自己・宇宙の養分


2000.8.5

 

人は「宇宙」をどのようにイメージしているのだろうか。書店に出かけ、天文に関するコーナーを見てみれば、「宇宙」について持っているイメージはおおよそわかる。自分は今、地球の表面にいて、地球は太陽系の惑星のひとつとして存在し、太陽系は銀河系の一部で、またそうした島宇宙が数多く存在し・・・というイメージに近いものだろうと思う。

都会では、空が小さく見えるから、空を見上げる機会も少ないだろうし、なによりも、夜空の星が「満天の星」というように見えることはないだろうから、そうしたイメージさえもあまりふつう意識することは少ないかもしれないし、イメージできたとしても、自分と宇宙との関係を大きな望遠鏡をつくって宇宙を見ようとするように、唯物論的にしか意識しがたいのではないだろうか。たとえば、「宇宙のロマン」といったところで、ロケットを作って宇宙探査や宇宙旅行にでかけるというような宇宙SF的な物語性の範疇を越えにくいように思う。

しかし、ひとたび神秘学的な見方を身につけるならば、自分と宇宙の関係ということを抜きにすることはできない。ここに自分がいて、宇宙を見上げるというのではなく、自分を見るためには宇宙を見、宇宙を見るためには自分を見なければならないという観点が重要になる。宇宙の探究は、自己の探究なのだ。

 一体、自己とは何でしょうか。自己は、私たちの皮膚の内部にあるのでしょうか。そうではありません。自己は、全宇宙に注ぎ出ています。宇宙のなかにあるものは、私たちの自己と結びついています。かつて宇宙のなかに存在したものも、私たちの自己と結びついています。私たちは、宇宙を知るときにのみ、自己を知るのです。(…)

 目を閉じて、「私は善人でありたい」と、思うのではありません。肉眼も天眼も開けて、いかに外界に宇宙の力が活動し、いかに自分が宇宙の力のなかに浸っているかに気づくのです。「私の意志のなかに、宇宙存在が活動している。意志存在から、自分を創造せよ」と、人智学から力を汲み出す心魂は思います。

 このようなものとして自己認識を把握すると、宇宙存在をとおして自分を改造できます。

(シュタイナー「人間の四つの気質」風濤社/西川隆範訳/P212-213)

ふつう、自己はこの皮膚のなかに閉じたものとして、肉体的にイメージされてしまう。その際の自己認識というのは、自分の内に内にと閉じたものとなってしまう。

そうした自己閉塞的な認識を打開するためのひとつのイメージとして、自分の内と外を裏返してみるということが有効だと思う。自分の内を大いなる宇宙だととらえ、自分の外なる世界を自分の内界だととらえる。そしてそれらが照応し、あの人も、この人も、地球も、太陽も、銀河も、すべては自分の内界にある、とイメージしていく。

また、最近では、やっと地球も「ガイア」というような有機体的なイメージでとらえる傾向が見えてきているが、まだまだそれが霊的な有機体であるとする見方は乏しい。地球を見るときにも、それが霊的な有機体であるとして見る必要があると思う。そして、「宇宙」も「巨大な有機体」、しかも「巨大な霊的有機体」として見ていかなければならないだろう。そして、その「宇宙」と「人間」との関係の霊的なダイナミズムについて見るときに、はじめて「満天の星空」をながめるときに、カントのあの有名な言葉の意味が迫ってくるのではないだろうか。

さて、「宇宙」を「巨大な霊的有機体」としてとらえ、さらに「人間」との関係を見ていくならば非常に興味深いことがわかる。

天文学者は、宇宙が養分を必要とする巨大な霊的有機体であることに、まったく注意していません。宇宙が霊的有機体でなければ、星々は宇宙空間で四散していたことでしょう。惑星は、自分の軌道を運行します。この巨大な有機体は、存続しつづけるために養分を受け取る必要があります。その養分は、どこからやってくるのでしょうか。(…)

死者は、地上で目覚めた状態と眠りの状態において体験したことを、精神界にもたらします。それが宇宙の養分です。それが、宇宙が存続するために必要とするものです。私たちは地上で軽妙な運命あるいは過酷な運命のなかで体験するものを、死後しばらく経ったとき、宇宙のなかに運んでいきます。ですから、私たちは自分という存在が養分として宇宙のなかに上昇していくのを感じます。このようなことを、人間は死と再受肉のあいだに、壮大な規模で、非常な崇高さをもって経験します。

(シュタイナー「死んでから生まれ変わるまで(一)」「精神科学から見た死後の生」所収/風濤社/2000.7.20発行 P67-70)

「宇宙」が存続するための「養分」となるのは、私たち人間の地上で体験するものであるという観点に立つときに、はじめて私たちは自らがいかに宇宙的存在であることを実感でき、「満天の星空」をこれまでとは違った見方で見上げることもできるのではないだろうか。


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