世紀の転換が人類に新しい霊の光をもたらすに違いないという確信が、 当時、私の心をよぎった。私には、人間の思考と意志を霊から切り離 そうとする機運が最高潮に達している、と思われた。人類発展の生成 過程に激烈な変化が現れるのは、不可避であると思われた。 多くの人々がこの種の意味の発言をしていた。しかし人々は、感官に よって自然を観察するのと同じように、真の霊界に注目する試みを企 てるべきであるとは、誰も考えなかった。彼らはただ、主観的な精神 的気分が一大転換を迎えるときが来ると憶測するばかりであった。真 の新しい客観的な世界が出現するかもしれないとは、当時の人々の予 想圏外にあった。 私自身の未来展望とともに、そして周囲の世界のさまざまな印象から 得られる感情とともに、私は十九世紀の霊的動向を繰り返し回顧しな ければならなかった。 ゲーテとヘーゲルの時代の終焉は、認識によって人間の思考様式の中 へ霊的世界の観念を取り入れようとする、すべての試みの消滅を意味 していた。これ以降、認識活動が霊的世界の観念によって「混乱」さ せられることは、なくなるはずであった。霊的世界の観念は信仰と 「神秘的」体験の領域へと放逐されてしまった。 (『シュタイナー自伝II』第二十七章より ぱる出版/P150) ここでいう「世紀の転換」とは もちろん19世紀から20世紀への転換のことである。 それから1世紀、百年が経過した。 数年前にその峠を越えた「世紀の転換」は 20世紀から21世紀への転換であり、千年紀単位の転換でもあった。 19世紀が「ゲーテとヘーゲルの時代」であったとするならば 20世紀は何の時代だったといえるのだろう。 19世紀には、その前半にはまさに「世界大戦」が二度も起こり、 さらに局地戦ではあるものの、朝鮮戦争やベトナム戦争が起こり、 そうして二度のイラク戦争のような、ある意味、戯画的な戦争までが起こった。 20世紀を「ゲーテ」や「ヘーゲル」のような 人物で代表する時代であったとするような 「人物」を思い浮かべるよりも ファシズムや国家主義や戦争や原爆のようなものを 思い浮かべるほうがぼくにはイメージしやすい。 ぼくはシュタイナーの生まれた100年ほど後に生まれた。 森鴎外もほとんどシュタイナーの同時代人である。 そしてそれから数年経って、夏目漱石や幸田露伴が生まれている。 その100年の間に何が変化したのだろう。 シュタイナーが100年前に切実な課題であるとしたことが その後どのような展開を経て現代に至っているのだろう。 そして現代において何を課題とする必要があるのだろう。 シュタイナーがさまざまに示唆した危機意識というのは 100年前よりもおそらくはとてつもなくスケールアップして 私たちに襲いかかってきている。 その反面、科学=技術の飛躍的な進展のために、 生活の利便性はきわめて高くなっている。 さまざまな家電製品、車、テレビ、そしてパソコン、携帯電話・・・。 そしてスポーツに映画など、娯楽も大安売りである。 しかしそれと反比例する形で、私たち人間のなかから 失われていこうとしているさまざまなものがある。 「霊的世界の観念は信仰と「神秘的」体験の領域へと放逐されてしまった」 というのは現代においても変わらない。 原理主義的なまでの信仰とニューエイジ的な「神秘的」体験の領域は 20世紀後半において高まりをみせ、 今ではそれが退廃的なまでのそれになっているようにさえ見える。 今回の世紀の転換点においては、ぼくの知る限りにおいては シュタイナーのような存在を見いだすことは難しい。 しかしこの転換点においては、シュタイナーの示唆したさまざまな観点を ガイドにして進むことができる可能性を有しているといえる。 もちろんそれだけでいいわけではない。 すでに100年が経過している。 しかしシュタイナーの示唆していたことが ますます切実さをもってきているということを 真に理解する必要のある時代がまさにこの世紀の転換点だといえるだろう。 その意味でも、19世紀から20世紀への転換点において シュタイナーが何を見たのか、見ようとしたのかを知ることは さまざまなことを私たちに教えてくれるに違いない。 |