シュタイナーノート104

排出作用と意識の成立


2005.1.3

生理学的な人間の「排出作用」と
自我および意識の成立の関係について、
少し長い引用にはなりますが、『オカルト生理学』第5講から。
 
	排出作用の本質を理解するためには、まず一見あまり排出作用と関係
	ないように見える別の概念、すなわち私たちの自己知覚という概念を
	問題にする必要があります。次のような自己知覚の例を考えてくださ
	い。皆さんが不注意にどこかの場所を歩いて、何かに衝突した場合で
	す。そのようなとき、単純に「ぶつかった」と言いますが、ぶつかる
	というのはそもそも一種の自己知覚なのです。ひとつの外的な出来事
	が内的な事件になったことによる自己知覚なのです。外にある対象に
	衝突すると、皆さんは痛みを感じるでしょうが、その痛みは純粋に皆
	さんの内部で生じたのです。つまり、皆さんが外の事物とぶつかり、
	その物体が皆さんの行動を妨げたことによって、ひとつの内的過程が
	呼び起こされたのです。
	(…)
	このことからもわかるように、人間は抵抗を受けるたびに、自分の内
	部を知覚するのです。内部の知覚と体験、抵抗を受けたことによる内
	部の充実した現実体験、このことを一つの概念として持たなければな
	りません。…この概念は、人体の排出作用という別の概念へ行き着く
	ためには必要なのです。考えてください。人体が特定の栄養素を自分
	の器官組織の中へ摂取するとき、その一方でその器官組織は自分の摂
	取する素材の幾分かを、自分の活動によって排除し、それをいわば全
	体から分離するように働きます。ですから器官の活動によって、養分
	全体が、より精妙に濾過された部分と、排出される、より粗雑な部分
	とに分かれます。
	(…)
	どうぞ考えてください。摂取した養分の流れや酸素の流れが、水道管
	を通るように、体内を通り抜けていくとします。そうしたら諸器官の
	中には抵抗が生じませんから、人間の生体は、自分を独立したものと
	は体験できず、大宇宙全体の一部分として存在することしかできなく
	なるのです。私たちはまた、人体の内部で素材がいわば固い壁にぶつ
	かり、そのまま環流してしまうような場合を考えることもできますが、
	このような場合も人間有機体の内部にとっては何の意味もないのです。
	(…)
	生体が自己を体験できるのは、排出作用が生じる場合です。人体の中
	心器官である血液が酸素を吸収して新鮮になる過程を見るだけでなく、
	血液の中に人間自我の道具をも見るようにするのなら、血液が変化せ
	ずに人体を通り抜けていくだけなら、それは人間自我の器官にはなら
	なりえないと考えなければなりません。人間自我は人間を内的に体験
	可能な存在にする、という最大の役目を持っているのですが、血液自
	身が変化を体験し、新鮮になって再び戻ってくるときにのみ、つまり
	血液が排出作用を行うときにのみ、人間は自我を持つだけではなく、
	感覚的=物質的な道具を助けを借りて、その自我を自分で体験できる
	のです。
	(シュタイナー『オカルト生理学』ちくま学芸文庫/P111-116)
 
まず、自己知覚についての興味深い示唆がある。
 
確かに、すべてが自分であるとすれば、
つまり外的なものの抵抗がまったくないとしたら、
私たちは「自分」というのものを知覚することができないだろう。
というかその必要がない。
 
だから、「外」が出現することによって、
はじめて「内」が成立するということになる。
つまり「内的過程」が現れてくるということができる。
 
ついでにこのアナロジーで考えていくとすれば、
人の体験を大きく二つにわけるとすると、
外的なものと衝突することというか
外に向かっていくことでしか体験できない体験と
内的意識が積極的に内部において外部と内部を成立させ
内的体験をみずから生み出すことの体験がある。
 
自己意識というのは後者の体験であり、
そこには内的対話が可能となる。
意識という鏡に映った意識により可能となるリフレクションである。
それを展開させていけば、対象のない思考ということにもなるだろう。
それは人間意識の高次の展開となっていくことができ、
哲学的姿勢の基本ともなることができる。
アカデメイアにおいて、数学的思考のできない者が
入門を許可されなかったというのも、
そうした自己意識のあるレベルがそこでは必要だったということがいえる。
 
さて、人間の自我の成立と血液には深い関係があることが示唆されている。
「血は特性のジュースだ」というのもその示唆と関係している。
血液は酸素やさまざまな栄養素を運ぶだけではなく、
血液自身の変容過程そのものが自我を成立させているのだといえるのである。
そしてそれは「排出作用」によって可能になる。
「私であるもの」と「私でないもの」の差異化としての「排出作用」。
 
いわば「排他」が自我の基礎にあるというのはとても興味深い。
「無私」「我を空しくする」という態度があるが、
それが高次の意味において可能になるのは、
そうした「排他」によって一度成立した自我が
自己意識の場を哲学的にも構築された上で、
その自己内の意識場において成立した自ー他をふまえながら、
その止揚され続ける高次の意識生成のありようを
世界において展開させようとすることでもあるのかもしれない。
そしてそれが世界(コスモス)と人間(マクロコスモス)との
メタレベルの意識のリフレクションとなる、」
 
つまり、世界の成立を世界の意識体験としてとらえた上で、
その世界の意識が行っている「排出作用」としての意識のドラマにおいて
ミクロコスモスとしての人間がそこに参画し、
まるで鏡のなかの鏡のように、無限の展開を可能にするということである。
 
そしてそのドラマのプロローグとして、
「排出作用」による人間の意識成立がある。
 
 

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