シュタイナーノート147
自我の再検討
2008.9.1

   幼い子どもは自分のことを「カールはえらいんだよ」とか「マリーは
  これが欲しい」とか言う。子どもは自分の独立した本性をまだ自覚して
  おらず、自我意識がまだ育っていないから、自分のことを他人のように
  言うのである。人間は、自我意識を通して、自分を他の一切から区別さ
  れた独立の存在であり、「私」であると考える。人間は、体と魂の存在
  として体験するすべてを、「私」の中で総括する。体と魂とは「私」の
  担い手であり、体と魂の中で「私」は働く。肉体の中心が脳にあるよう
  に、魂の中心は「私」にある。人間は外から感覚を刺戟される。感情は、
  外界からの働きかけがあったとき、それに応じて現われる。意志は、自
  己を外界と関係づける。なぜなら、意志は外的行動の中で自己を実現す
  るのだから。「私」は人間本来の本性なのであり、まったく見ることが
  できない。それ故ジャン・パウルは適切にも、「私」の発見を、「ただ
  人間の隠れた至聖の部分だけに現われた出来事」と呼んだ。実際「私」
  に関しては、人間はまったく独りなのである。
   そしてこの「私」こそが、人間そのものなのである。このことがこの
  「私」を人間の本性と見なすことの正しさを示している。それ故人間は、
  自分の体と魂とを、その中で自分が生きるところの「外皮」であると考
  えることができる。そして彼はこの二重の外皮を、自分が作用するため
  の体的条件であると考えることができる。
  (・・・)
   どんな「机」も机といえるし、どんな「椅子」も椅子といえる。「私」
  という言葉だけがそうではなく、誰もこの言葉を他の人に対して使用す
  ることができない。ただ自分自身に対してのみ、「私」と言えるのであ
  る。私に対して使用される「私」という言葉は、決して外から私の耳に
  入ってこない。ただ内からのみ、ただ自分を通してのみ、魂は「私」と
  いう言葉を聴く。
  (シュタイナー『神智学』ちくま学芸文庫/P.58-59)

これは、言葉の使用習慣の問題として片付けてしまうこともできるだろうが、
日本語で「私」を指すことばが、
その他にも「ぼく」「おれ」「われ」などかなりの数にのぼることや、
「われ」や「自分」が相手、つまり「あなた」を指す言葉になったりすることを
単に「自我意識がまだ育っていない」というだけの説明などで
片付けてしまうことはできないように思われる。

少なくとも、西洋的なかたちでの自我形成とは異なった仕方で
日本ではその形成がなされていることには注目する必要があるだろうが、
第二次大戦後、マッカーサーが日本人は十二歳程度の精神形成だといった意味で
「未成熟」としてとらえることはできないだろう。

もちろん、ある意味、日本においては、
西洋においてとくに近代以降、
西洋的自我といわれるような自我形成が急速に進み、
その背景に、キリスト教の影響が深く関わっていることは
十分に見ておく必要があり、
キリスト教の成立していく過程において、
過去のむしろ高い叡智の文明・文化が
ある意味おそろしく子どもっぽいものとして、
しかもときには、異教の駆逐や魔女裁判といったかたちで、
大地的なものを切り離すべく働いてきたということも
西洋的な自我成立の重要要因として理解しておく必要があるだろう。
そしてそのことによって、いわゆる「科学」という
主ー客を切り離すあり方が成立するようになったのだということも。

もちろん、シュタイナーの精神科学においては、
近代合理主義的な「主ー客」図式が克服されているはずなのだが、
そこらへんの問題が、シュタイナーの「私」に関する説明では、
あまりに単純にとらえられているために、
シュタイナーの著書や講義集などがたとえば日本で受容される際などに、
かなり誤解されてしまうおそれもあるのではないかという気がしている。
それは、かつて日本が西欧の文明を積極的に受容(模倣)しながら、
その文化的背景や相互の違いなどに無自覚であったのと似ているのかもしれない。
しかも、シュタイナーの精神科学の射程が広く深いために、
ほとんどが部分のコピーになって、
その全体像が見えなくなりがちだということもあるように思える。
全体像が見えないからといって、
シュタイナー思想なるものを図式的にレジュメにしたところで事情は同じである。

神秘学は、たんなる技術や知識を模倣することでは受容できない。
少なくとも、それを受容する際の「私」について
再検討することは必要不可欠であることのように思われる。
量子力学において、観測の際に「私の視点」が
その観測結果に影響してくるのは周知であるが、
ましてや、人間の場合、その「私の視点」の違いを
かなり検討しておかなければ、
その「観測結果」、つまり「受容結果」には
甚大なる影響がでてくることは言うまでもないだろう。

シュタイナー自身、講義などのなかで、
アストラル体がどうだとか、エーテル体がどうだということが問題なのではない

というようなことや、それらを「定義」したりはできないことについても、
おりにふれて語っているように見える。
だから、そのことに注意を向けるのはもちろんのこと、
ましてや、「私」という魂の場でもあり、関係性そのもの、
あるいは曼荼羅的なありようのなかにあるものに
常に自覚的であることなくして、精神科学は成立しえないのではないかと思う。
諸科学を精神科学的に拡張するということの基本には、まずそのことが不可欠だろう。

少なくとも、この日本における自我形成のありかたや
自分という個的な魂形成のありように加え、
西洋的な自我のありようをできうるかぎり理解しながら、
その変化のなかで、「私」をとらえていくということが必要になってくるだろう。
少なくともそれはハウツウ的に知識で習得できるようなものではなく、
また完成図が単純に見えるようなものではないために、
ひどく心許ないものではあるのだが、おそらくそれ以外に道はないはずである。
ぼくの前に道はない、ぼくの後ろに道はできる、である。
しかもその道がどんな道になるのかも、だれにもわからなかったりするような。