シュタイナーノート149
早期教育と未消化の魂生活の影響
2008.10.31

   たとえば次のようなことがまったく顧慮されない場合、つまり、歯が生え変わるまで
  人間は模倣を通じて教育しなければならず、さらに歯が生え変わってからは、権威とい
  うものが大きな役割を果たすように教育し、育成しなければならないということ、こう
  いうことが考慮されないなら、年を経てからの使用のためにとっておかれるべき器官が
  早い時期に用いられてしまう可能性があるわけです。
  (・・・)
   要するに、本来は年をとるまでとっておかれるべき器官ーーこれらはもちろん精妙な
  生体機構なのですがーーが、子ども時代に用いられてしまうと、恐ろしいデメンティア
  ・プラエコクス(精神分裂病[Dementia praecox])が起こります。デメンティア・プ
  ラエコクスのそもそもの原因はこれなのです。(…)教育全体が、精神科学から得られ
  る認識に貢献するようになれば、デメンティア・プラエコクスも消滅してしまうでしょ
  う。なぜなら、教育をそのように形成すれば、人間が年をとってからの器官を早くに用
  いてしまうということ自体が阻止されるからです。
  (・・・)
   さて人生においては逆もまた存在します。逆のことというのは、本来青少年期にのみ
  器官の作用において展開されていなければならないはずのものを、私たちが(後まで)
  残しておくということです。主として子ども時代と青少年期のために存在している器官
  を要求するということは、全生涯を通じて起こっていることですが、それはまさに弱め
  られた状態で起こってこなければなりません、さもないと有害な結果をもたらすからで
  す。(…)やむをえないとはいえ、人間を外的な環境にまったく適合させない今日のさ
  まざまに不自然な生活様式によって、子ども時代に人間に印象を与えるものの多くが消
  化されない、ということが起こっているのです。しかるべきやりかたで生体組織に編入
  されないものが魂生活に組み込まれたままになってしまうのです。と申しますのも、魂
  生活において作用しているものはすべて、まだ軽い作用であるとしても、持続していく
  ものであり、あるいは少なくとも生体組織に対する作用にまでは持続していくべきもの
  だからです。ところが、現代の子どもたちにあっては、魂の印象に留まり続けるほど異
  常な印象が数多く存在しているわけです。これらの印象が、すぐに器官的印象へと転化
  することは不可能です。そうすると、これらは魂の印象として作用し続け、人間の発達
  全体に関与する代わりに、分離した魂衝動であり続けるのです。これらの印象が器官の
  発達全体に関与したとすれば、つまり分離した魂衝動のままでいなかったとしたら、こ
  れらの印象はのちの人生において、本来高齢のためにのみ存在していてもはや青少年期
  の印象を役立てるために存在しているのではない器官を用いるようなことはないでしょ
  う。こうして人間全体において不都合が生じているのです。魂的な分離が、もはやその
  ためにはふさわしくない器官に作用を及ぼさざるをえないということになります。
  (ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第16講 yucca訳 topos HPより)

早期教育が過度になり、
その時期に使ってはならない「器官」を使ってしまうと、
精神分裂病(統合失調症)になるという。

おそらくしかるべきときに適切なかたちで働くようになる自我が
統合的に働くことのできる力を発揮できなくなるということだろう。
統合する自我の力が機能しないために、意識のエネルギーが弱くなり、
無意識からの強い働きかけによって人格がいわば分裂的になってしまう。

「模倣」や「権威」によって魂を育てていくというのは、
ある意味で、暴れ馬になりがちな馬をしつけて、
馬車につないでちゃんと手綱で操れるようにするということなのだろう。
そうでなければ、ちゃんと道を走るということが
どういうことなのかがわからなくなってしまい、
いきなり暴れ馬を馬車につないでしまうようなことになる。
しかも馬は一頭だけではなく何頭もつながれていて、
悪くするとそれぞれの馬が好き勝手な方向に行こうとする。

さて、逆に、青少年期に展開すべきものが消化できず、
使われずに残りすぎていても、「魂的な分離」が起こり、
「ふさわしくない器官に作用を及ぼ」してしまうという。
使うべきときに使い、それが「人間の発達全体に関与」すべきものが、
「分離した魂衝動のまま」で影響を与え「不都合」を生じさせるというのである。

この場合も、自我がしっかり働き、意識と無意識の平衡がとれないまま、
心的エネルギーが無意識のほうに行ったままになり
いわば「退行」的にループしているような状態だといえるのかもしれない。
だから「全体」として働かず「分離」した状態のエネルギーになる。

いわば、子供から大人へのプロセスのなかで
経ておくべきイニシエーションが展開されないために、
歳を経た状態でそのイニシエーションに代わる働きかけが
異常な状態で無意識のほうからやってくるという感じだろうか。
しかも、青少年のときに使うことでそれを別のありように転嫁し
すでに獲得しておくべきものが獲得されないままなので、
いつまでも子供のままの魂でしかもそこに異常な状態が加わるということになる。

こうしたことを考えていくにつけ、
適切な時期に適切な魂のプロセスを経ることのできる教育の必要性を痛感する。

PS
長くなるのでこの引用からは省略したが、
ここでは、精神分析の悪しき影響ということに言及されている。
シュタイナーは精神分析に関しては、中途半端に正しいために
(たとえば、「診断」だけはできたりもするような)
かえってそれが悪影響を及ぼしていると述べているが、
この講義が行なわれたのが1920年であるように
ユングが個性化等について展開していない状況で、
精神分析というのはほとんどフロイト派のことを指していることは
理解しておく必要があると思われる。