シュタイナーノート156
証明の困難さ
2009.5.9

シュタイナーの著作には、「第○版のまえがき」が置かれ、
著作の改訂・新版の刊行される際に、
たとえば次のように、
さまざまな「非難」に対して、みずからが「非難」を想定し、
それに著作内で答えることで、理解を求めるための
「加筆と補足」が行なわれる意図が説明されている。
シュタイナーの著作を読む場合、特に、
こうした「まえがき」をしっかりと読んで理解しておくことは、
著作内容の理解のためには大変示唆的である。

  一九一八年の改訂に際しては、多くの加筆と補足が加えられたが、
  今回の新版のためには、それ程の改訂は為されなかった。しかし
  私は自分の諸著作のさまざまな箇所で、可能と思われる非難を自
  分で自分の立場に加え、その非難の重さを計り、その非難を無力
  なものにしてきた。これらの文章に注目してくれるなら、反対側
  の文献に対して私の言おうとする本質的な点がわかってもらえる
  だろう。
  (『神智学』1922年11月24日「この書の新版のために」より
   ちくま学芸文庫 P.19)

とはいえ、こうした「非難」を想定した自問自答が、
どれほどのことを「効果」としてあげているかどうかは疑問である。
たとえば、次の箇所。

   今日多くの人は、もっとも必要としているものを、もっとも烈
  しく退けようとしている。「確実な科学的経験」の基礎の上に打
  ち立てられた多くの見解の強制力があまりに大きいために、人々
  は本書のような書物の内容を、根拠のないナンセンスと取ること
  以外何もできないでいる。超感覚的内容を論じようとする者は、
  どのような幻想をもまじえずに、この現実に向き合うことができ
  なければならない。
   当然人は、このような者の主張に対して「誰も非難できない」
  ような証明をしてみせよと要求してくるだろう。だが、こう要求
  することで、ひとつの錯覚に陥っていることに、人は気づこうと
  していない。なぜなら、人は事柄の中に存する証明ではなく、自
  分が認めたがっているもの、もしくは認めることのできるものを
  無意識に要求しているだけなのだから。本書の中には現代の自然
  認識の基礎の上に立つ人が肯定できぬようなものは何ひとつ述べ
  られていない。著書は、自然科学の一切の要請に応じることがで
  きたと思っている。それだからこそ超感覚的世界についての本書
  の論述は、論述の仕方そのものの中に、その根拠を見出しうるの
  である。というよりは、真の自然科学的な考え方こそ、本書の表
  現の仕方に身近なものを感じる筈である。
  (『神智学』「第三版のまえがき」より ちくま学芸文庫 P.13)

実際、「自然科学の一切の要請に応じる」かたちで、
「超感覚的世界について」書くことができているわけではないことは明かで、
むしろ、こうした「非科学的」に見えることに対する反感を
助長しさえするところもあるのだろうと思える。

ここに書かれているように、
人は自分が認めたいものしか認めようとしないわけで、
認めたくないことをいくら説明しようとしても、
むしろ火に油を注ぐようなことになってしまう。
人は理解したいのではなく、
信じていること、信じたいことを確かめたい、補強したいだけなのである。

それは「科学者」や「哲学者」にしても同様で、
「科学者」は自分が「科学」だと思い込んでいる認識を一歩でも出れば、
それを「非科学的」であるとし、
良心的な場合でも「科学では説明ができない」とするだけであり、
「哲学者」にしても、それは同様である。
自分が精確さ、厳密さを要求する部分に関しては一点の曇りも排そうとするが、
自分が無意識に前提にしていることについては、問われることはまずない。
実際、その無意識な前提に意識を向けることで、
多くの場合、さまざまな思考が瓦解しかねなくなることもあるのではないだろう
か。

たとえば、次のような記述などは、
「自然科学」による「証明」を要求する人にとっては、
まったく意味をもたないわけで、そこに非常な困難さがある。
実際、ここに書かれてあるのは、
上記のまえがきに書かれてあるように、
「自然科学の一切の要請に応じることができた」とはいえない。

ここに書かれてあることは、
考えることのできない人に、
考えることができればわかります、と言ったり、
目の見えない人に、目が見えればわかります・・・云々
というのに等しいといわれればそれは否定できないだろう。

   人間の身体形姿が、常に人間の類的本性の繰り返しであり、再
  生であるように、霊的人間は同じ霊的人間の再生でなければなら
  ぬ。なぜなら、どんな人も、霊的人間としては、自分だけの類な
  のだから。
   以上に述べたことには次のような反論を加えることができる。
  ーー「それは純粋な思考の結果なのだから、自然科学の場合のよ
  うに、外的な証明がなければ意味がない」と。この反論に対して
  いえることは、霊的人間の再生は、外的、物質的な諸事象の分野
  には属さぬ、まったく霊的な分野での出来事であり、この分野で
  は、われわれの通常の精神の諸能力の中で、思考力以外のいかな
  る力も通用しない、ということである。思考力を信用しようとし
  なければ、高次の霊的な諸事象を解明することはできない。
   霊眼を開いた人にとって、以上の思考過程は、肉眼の前に立ち
  現われる事象とまったく同じ現実的な力をもって、作用している。
  通常の自然科学的認識方法によるいわゆる「証明」の方が、伝記
  の意味に関する上の論述よりもっと説得力がある、と考える人は、
  確かに通常の意味で偉大な科学者でありうるかも知れないが、真
  に霊的な研究の道からは、大きく外れているのである。
  (『神智学』ちくま学芸文庫/P.85-86)

実際、シュタイナーの精神科学のような探究の基礎を
受け入れるというか、それに納得するというのは、
それなりの準備が必要であることは明らかで、
そうでない場合、「根拠がない」と「非難」するか、
宗教的な信仰のように、よくわからないけれど信じる、か
(シュタイナーは読めないけれど、「実践する」とかいう場合など)
になってしまうところが多いのだろうと思われる。

難しいところである。