シュタイナーノート158
毒にも薬にもなる人智学
2010.6.13

   神秘学から汲み出された人智学の真理が危険なものになることもある、
  と皆さんはお聞きになったことはないでしょうか。人智学の敵対者たちは、
  「人智学は毒であり、人々を害する」と主張しています。人智学が場合に
  よっては人に有害な作用を及ぼし得るということは、敵対者ばかりではな
  く、人智学者自身がよく知っています。「人間は強くなるために、人智学
  を受け入れねばならない」ということも、私たちは知っています。人智学
  は議論の対象であるだけではなく、精神的な薬として生活のなかで真価を
  発揮するものです。物質は精神的なものから構築される、ということも精
  神科学は知っています。精神的な力がエーテル体に作用すれば、その力は
  物質的身体も健康にします。私たちの世界観や人生観が健全であれば、こ
  の健康な思考内容が最強の薬です。唯物論と自然主義によって弱くなった
  人間本性のみが、人智学が告げる真理によって病気になってしまうでしょ
  う。しかし、彼らこそが強健になるために、人智学を摂取しなければなり
  ません。壮健に生きる人間を作り出すことで、人智学の課題は成就されま
  す。
  (『シュタイナー<からだの不思議>を語る』イザラ書房/2010.6.5発行/P.41)

シュタイナーはよくこんなことをいって「毒」のことを説明する。
「一度に水をバケツ10杯飲んだら、それは毒です」
水を飲むのは毒であるとはだれもまず思わないけれど
「バケツ10杯」となると話は違ってくる。

極端な話ではあるけれど、
実際、私たちが「毒」にしてしまうさまざまなことというのは、
ほんらい「毒」ではないものであることもたくさんあるように思う。
そして「毒」ではないにもかかわらず「毒」にしてしまうことで
私たちは病気になってしまうが、
なぜ病気になってしまったのかいまひとつ腑に落ちなかったりする。
ある意味、自分勝手なのである。

食べるものだけではなく、
さまざまな心のあり方や行動が
ほんらいは毒ではないものを毒にしてしまい、
それらが私たちを「病気」にしてしまうことになる。

もちろん、「病気」になることも必要であって
そうでないと「毒」を食らって気づかないままお陀仏ということになりかねない。
「病気」になって死んでしまうこともあるけれど、
「病気」になってそれを修正することによってさまざまに気づくこともできる。

とはいえ「病気」であることに対するある程度正しい治療があればいいが、
治療の方向性を誤ってしまうこともある。
そこがむずかしいところではある。
「病気」である原因になっているところがその人の「シャドー」になっていて
そこを巧妙に回避し続けてしまうということもありがちだからである。

たとえば自分の身体や心的な傾向について意識的になることが必要であるにもかかわらず、
それを医者に言われた薬を飲めば直る、
治療を受ければそれで直ると信じ込んでいる人も少なくない。
自分で自分を殴っていてそれで傷つき続けている場合、
必要なのは自分で自分を殴らないようにすることなのだから。

人智学は「薬」か「毒」か、という問いをたてることができる。
そして「薬」にも「毒」にもなることができると答えることができる。
少なくとも「毒にも薬にもならない」ようなものではない。

多くの唯物的な傾向をもっている人たちや
科学主義的な信仰をもっている人たちにとっても
人智学はある種の「毒」として働くだろうし、
信仰的でありすぎる人たちや
「霊好き」でありすぎる人たちにとっても
人智学はまたある種の「毒」として働くだろう。
そこで病気になることのできる人は幸いである。
病気になることでみずからの傾向を修正する可能性を得ることができる。
むずかしいのは、病気になることさえできない人たち、
それ以前の病気であることにさえ気づくことができない人たちで、
そこでは人智学的な知恵が「毒」にも「薬」にも働くことができない。