シュタイナーノート161
思考と直観的思考
2011.1.5

シュタイナーの『自由の哲学』では、
「知覚と思考の前に横たわる世界の究極の根拠」を
「世界の外に見いだそうとすることを拒否する」ことが明言されている。
「現実の真の姿」を見いだすために、
「世界の外」からその根拠をもってくるのではなく、
世界の内にある「完結した全体存在」である「人間」の
「直観的思考体験」から導き出そうとした。

つまりは、いまここにいる私という存在が
外的根拠を持ち出すことなく「自由」であり得るということを示し、
そうした「自由」な人間であるからこそ、
「道徳的想像力」も可能になるというわけである。
そうでなければ、いかなる「道徳」も
いわば外的な戒律のようなものでしかなくなるわけである。

「~してはならない」ということが、外的規範によって示され、
それに従うことだけが「道徳」なのだとしたら、
それは単に、ロボットのようにプログラムされているだけのことになってしまう。
だから、シュタイナーはそうした「外から」の根拠を外し、
「自由な人間」の可能性から出発しようとした。
そしてその根拠が「思考」だというわけである。

しかし、問題はそこでいわれている「思考」である。
シュタイナーの論における「思考」は、
知らないうちに「直観的思考体験」ということにシフトしていってしまう。
「根拠」は通常の意味の「思考」ではなく、「直観的思考」なのである。

たとえば、シュタイナーのほかの講義録などからすれば、
「思考」は過去からくるものだとされる。
そしておそらく「直観的思考」はそうした過去からくる「思考」とは異なっている。
ここで考慮しなければならないのは、
『自由の哲学』で「思考」と表現されているものと
通常「思考」といわれるものを混同しないようにするということである。
そして真の意図であるだろう「直観的思考」を理解しなければならない。

シュタイナーは、「学」として「精神科学」「人智学」を提唱し、
基本的にそのための基本的な「高次世界を認識」するための感覚の開発や
それを理解できるだけの基本的な認識の必要性を示唆したわけであるが、
高次世界の認識器官の開発とあわせて、
非常に長い認識プロセスを要する道が「自由の哲学」であるとしている。
そこらへんのプロセスを云々する余裕がなかったといえばいえる。

シュタイナーの『自由の哲学』が当初出版されたのが、
1894年だということも考え合わせれば、
そうした部分を補完しながら理解しなければならないはずである。
シュタイナーは、「自我」「私」ということにしても、
「私」ということは「私」にしかいえない、とかいうふうに
多くの場合、非常に単純な説明しかしていない。
現代では、「私」をそんな単純なかたちで理解することではあまりに不十分である。
従って、その後の時代の他のさまざまな営為も考慮しながら、
シュタイナーの意図だと思われるところを考慮しながら、
そうした部分をさまざまに補完するが求められているように思えるのである。

「直観的思考」を「自然認識」へとリンクすることにしても、
シュタイナーは詳しく語っているとはいえない。
しかし、ゲーテ的世界観にも示されているような認識を
「直観的思考」から、つまり「道徳的想像力」によって
いかに得ることができるかということを示すということは、
科学が即物的な技術と取り違えられがちな現代においては、極めて重要なことである。
そうでないと、「環境問題」にしても、「心の問題」にしても、
「科学主義的なデータ」と感情論との振幅を繰り返すだけになってしまうからである。

「直観的思考」を「自然認識」へとリンクすることは
量子力学の観測問題のようなもので、矛盾に満ちたところがあるだろうが、
そうした矛盾のなかでこそ、
「世界の究極の根拠」を「世界の外に」見いだすことなく
「自由」の可能性を追求することもできるのではないだろうか。
それはある意味、本来的な「自由」と共同体における「自由」とを
橋渡しする可能性でもあるように思える。