シュタイナーノート162
自由の哲学とクリシュナムルティ
2011.1.25

シュタイナー『神秘学概論』(ちくま学芸文庫)、
「高次の諸世界の認識」の章「その6」の終わりのあたりに
以下のような記述がある。
『自由の哲学』から「高次の認識」へと向かう道についてである。

   以上は、霊学が感覚にとらわれぬ思考へ導くときの、まったく確かな道である。
  しかしそれとは別の、より厳格な道もあるが、その道は多くの人にとってはより
  困難な道でもある。その道は、私の書いた『ゲーテ的世界観の認識論』と『自由
  の哲学』の中で述べられている。これらの著作は、思考が物質的、感覚的外界の
  諸印象にではなく、自分みずからに没頭するときに、思考作業が何を生じさせる
  かについて論じている。その場合は、純粋思考が生きた本性として働いているの
  であって、感覚的なものの記憶だけを扱う思考が働いているのではない。しかし
  これらの著作は、霊学そのものの内容を取り上げてはいない。みずからの中での
  み働く純粋思考が世界と人生と人間とについての謎を解明できるということを示
  している。その点でこれらの著作は、感性界の認識と霊界の認識との非常に重要
  な中間段階に立って、感覚的な観察を越える思考が獲得できる事柄を示している
  が、しかし霊的研究へ向かおうとはしていない。
   これらの著作を魂全体で受け止めることのできる人は、すでに霊界の中に立っ
  ていると言えるが、ただその霊界は、思考世界に留まっている。このような中間
  段階を自分に作用させることのできる人は、より確かな道を歩む。それによって
  高次の世界に対する感情を獲得することができる。そしてこの感情は、後日、こ
  の上なく美しい果実をもたらしてくれるに違いない。(P.356-357)

シュタイナーのいう「思考」はけっこうくせ者で、
「思考」について通常イメージするものと思っていたら、
おそらくそれについてまるで理解できなくなるところが多分にある。
知らぬ間に、「対象のない思考」、「生きた思考」、「純粋思考」と
どんどん最初の「思考」とはかけ離れたものになっていく。

シュタイナーが『自由の哲学』でいわば「哲学的」に論じているように見えることは
最初はとくにいろんな哲学者の論文の引用などもたくさんあるのもあって、
さも哲学的な感じを受けるのだけれど、実際のところ、かなり破綻していて、
なぜ「思考」から「道徳的想像力」がでてくるのかも、よくわからなかったりする。
それもこれも、「思考」から知らぬ間に「純粋思考」とかにシフトしているからだ。
とはいえ、『自由の哲学』でいわんとしていることは
そんなにむずかしいものではないとぼくは思っている。
ひどくシンプルなことである、というか
説明の必要のないほどのことなのだ。
とはいえ、シュタイナーのいうような「類的」な発想とかしかできない人には、
それはどんなに説明されてもわかりたくないようなことでもある。
男女とか家族とか血縁とか民族とか国家とか宗教とかそういったものを
意識的に見る視点があるかどうかということなのである。

そういう意味では、『自由の哲学』は
クリシュナムルティのいう「自由」などについての視点から見た方がよくわかる。
ある意味、『自由の哲学』を徹底すればクリシュナムルティになる。
(そこでクリシュナムルティがことごとく否定的に扱っている
「思考」や「精神」(マインド)といったワードにとらわれないほうがいいだろう)
しかし、上記の引用にもある道と同様に、
クリシュナムルティは「霊学そのものの内容を取り上げてはいない」し、
「霊的研究へ向かおうとはしていない」。
それは『自由の哲学』から短絡的に自然学や霊学へつながらないのと同様である。

とはいえ、とみに最近感じるのは、
クリシュナムルティほどラディカルにこだわるのではないとしても、
自己認識の基礎として、そうした部分を欠いたまま、
精神科学へ向かうということはできないのではないかということである。
『自由の哲学』といいながら、自分が自分をさまざまに縛っている
さまざまな観念や慣習や信仰や組織やらをとうことのないまま、
クリシュナムルティ的にいうならば「過去」に生きながら
(クリシュナムルティのいう「思考」はそのまま過去ということでもある)
いまのこの「自由」を生きることはできないはずである。
そしてその「自由」のないところに、
「生きた思考」も「純粋思考」も可能であるはずはない。

シュタイナーの「共同体」に関するさまざまのジレンマも
精神科学的に方向づけられた科学を展開し存続させるためには、
なんらかの組織が必要となったからなのかもしれない。
シュタイナーが必要だと示唆した「権威」というのは、
幼少期の子供にとってのそれであって、
成長したにもかかわらず「過去」に生きるための「権威」ではないのだが、
人は往々にして、さまざまな「過去」なくしては生きてはいけない、
そう思い込んでいることが多い。
「まず組織ありき」の発想もそれに準じる。