シュタイナーノート164
魂の深化のために
2011.5.4


   今私たちの生きている時代は、日々、この運命的な戦いの最中にあって、
  人生を深めていかなければならないと教えています。誰に戦争責任がある
  のか、誰があれこれのことをしたのか、そういう議論をする代わりに、こ
  れまで人びとが行ってきたよりもはるかに魂を深化させるように、そうい
  う警告として、この戦争を考察するようになればいいのですが。
   時代のもっとも深刻な諸事件を、これまでも取り上げてお話ししてきま
  したが、私が一貫して言いたかったのは、不幸な諸事件を知れば知るほど、
  霊的認識を通して、私たちの表象、概念を作り変えることを学ばねばなら
  ない、ということでした。
  (シュタイナー「死の門を通っていった人の経験」
   1915年6月17日・デュッセルドルフでの講義より
   『死について』高橋巌訳 春秋社2011.8.25発行 P.98-99)

シュタイナーのこの言葉は、第一次大戦時のもの。
「もっとも深刻」で「不幸な」「諸事件」というのは
このときの戦争を想定したものだが、今の私たちは、
この言葉を津波や原発事故のことにあてはめてみることもできる。

今回の「諸事件」を通して、
「これまで人びとが行ってきたよりもはるかに魂を深化させる」ために、
「霊的認識を通して、私たちの表象、概念を作り変えること」。

その観点からさまざまなことを考えていく必要があるのだろうと思う。
単に脱原発だとか電力会社への糾弾だとかいうことでは
「魂を深化させる」ことにはつながらないのではないか。

危険性は危険性として認識し対応する必要があるし、
責任は責任として負っていただくべく働きかける必要があるのは当然だが、
それだけに終わる場合、結局、ただシーソーが逆にふれただけになるのではないだろうか。

たとえば、「恐れ」というのは、「不安」からくる。
その「不安」は、自らの、そして近しい人の「死」であることが多いだろう。
もちろんその「死」は、「病気」とその行く先ということもふくまれる。

どんなことが起こっても、
そこから何を学ぶことができるかを忘れないでいたい。
そしてその「学ぶ」ということが、
それまでの世界観を変容させるようなものであるようにしたいと思う。

たとえば、自分が死を迎えるとして、
その死の意味を、そしてそこから得られるものを
今の自分に可能な最大限の範囲で理解すること。
それさえできれば何も恐くはない。
少なくともそうしたことに際して、必要以上に取り乱したり、
まわりを怖れさせたり混乱させたりはしないようでありたい、そう思う。

そうした姿勢からこそ、
危険性や責任への冷静な態度が可能になるのではないかと思っている。