シュタイナーノート165
記憶・思考・感情・意志
2011.11.14


   人間の内面生活は、いくつかの部分に分節化されています。死後、からだ
  の働きから離れたあとでも、四つの部分に区別できるのです。第一に、記憶
  の根底にある力です。記憶の中で、以前の時間に体験したものが意識の前に
  甦ってきます。この思い出す働きのおかげで、私たちの生活の内部は互いに
  関連づけられ、それによって生まれてから死ぬまでの生活が統一されている
  のです。
   第二の部分は、私たちの思考、表象(イメージ化)です。(…)第三は私
  たちの感情の働きです。そして第四は意志の働きです。私たちが自分の内面
  を見てみると、その内面である魂は、思い出、思考、感情、意志となって現
  れています。
  (中略)
   これまで繰り返して述べてきたように、人間は地球上で深化しているだけ
  ではなく、土星紀、太陽紀、月紀を通って進化してきました。人間は地球上
  ではじめて生じたのではなく、現在の人間になるために、土星紀、太陽紀、
  月紀での進化を必要としたのです。けれども私たちの意志は、地球期になっ
  て生じたので、意志の進化はまだ全然完結していないのです。意志は完全に
  地球紀の所産なのです。月紀での人間は、まだ独立した意志を持っていませ
  んでした。天使が人間のための意志を働かせていました。意志は地球紀にな
  ってはじめて、いわば光り輝いたのです。
   一方、感情は、月紀には、すでに人間のものになっていました。そして思
  考は太陽紀に、記憶は土星紀に人間のものになりました。今言いましたこと
  を『アカシャ年代紀より』や『神秘学概論』で進化に関して述べたことに結
  びつけて下さい。そうしたら、ひとつの重要な関連が見えてくる筈です。す
  なわち、土星紀に人間の肉体の最初の萌芽が生じ、太陽紀にエーテル体の、
  月紀にアストラル鯛の最初の萌芽が生じ、そして地球紀で人間自我が今形成
  されつつある、ということにです。
  (シュタイナー「エーテル体をどう感じるか」
   1915年4月20・ベルリンでの講義より
   『死について』高橋巌訳 春秋社2011.8.25発行 P.58-60)

記憶は土星紀で生じ、
思考は太陽紀で、感情は月紀で、
そして意志はこの地球紀で生じた。

土星紀では、物質の萌芽としての熱が重要な働きをし、
「時間」が生じたのもこの土星紀だった。

ということは、記憶が可能になるためには、
物質と時間が必要だともいえるのかもしれない。

認知症などで、記憶が混乱してしまうのは、
その時間性をささえる物質としての肉体部分、
神経伝達物質あたりが影響を受けるからかもしれない。
その意味での記憶は、純粋に肉体に結びついた記憶である。
だから、認知症の治療には、おそらくはその神経伝達部分を
なんらかのかたちで強化する薬などが用いられるはずである。

それでは、肉体に結びついていない、もしくは依存していない
記憶というのはあるのだろうかという問いも可能だろうが、
もちろん、肉体=人だとすればそんなことはありえない。
しかし、記憶をエーテル的にとらえるとすれば、
太陽紀的な意味での記憶も可能であるともいえる。
ある意味、思考的な記憶とでもいおうか。
だから、思考ぬきでの記憶しか持たない場合、
肉体の衰えそのものは記憶の劣化を生むことになる。

さて、思考は太陽紀で、感情は月紀で生じたとするならば、
その進化プロセスを考えた場合、思考のほうがより完成度が高いということになる。
たしかに、思考の統御と感情の統御を比べてみれば、感情の統御は難しい。
ましてや、地球紀で生じたという意志の統御はより難しい。
統御が難しいということは、分節化の度合いが低いために、
その構造は把握しにくいということでもあるだろう。
まして、思考は過去、感情は現在、意志は未来からくるわけで、
過去は対象化しやすいのに対して、未来は捉えがたいわけである。

現代の魂進化の重要課題は、アストラル体を統御する。
つまりは、感情を矯めて統御できるようにする、ということのようだが、
考えてみれば、地球紀で新たに加わった人間自我の未熟さで
自我よりも若干完成度の上回ったアストラル体を統御するためには、
感情よりも完成度の高い思考や記憶の制御が必要なのではないかとも思う。

さて、感情というのは、現在ではせいいっぱいがんばっても
その分節化は100やそこらまでがいっぱいいっぱいで、
思考の分節・感性度合いから考えるとほんとうに稚拙でしかない。
稚拙でしかないのだけれど、その持つ力は思考よりははるかに強いように感じる。
おそらく感情が思考のような分節度・完成度を高められたとしたら、
どんなにすばらしい模様が描けるだろうか。
なにかの本で読んだが、本来の感情というのは百万もあるらしい。
それを考えると、本来の開花した感情は想像もできないほどのものなのだろう。

それを思うと、自分自身の今持っている、可能な
思考や感情や意志の分節度・完成度の低さは情けない。
さまざまなことに容易にふりまわされるのも、未熟故にである。

せめて、今の即物的な意味での肉体条件のようなものに、
記憶も思考も感情も意志もできるだけとらわれず、
年を重ねていければいいと切に思う。
そしてそこにこそ、むしろ高次の意味での肉体性を
可能にするなにがしかがあるのだろうから